黄色い麦わら帽子

あれは いつのことだったのか
小麦色の肌の
クラスメイトの女の子と
バスの乗り場で手を振って別れた

夏休みが終わるころ
教室の席がとなりの彼女に
電話を入れた
遊びに行っていいかい?

電車とバスを乗り継いで
灯台のある
小さな漁村に私は着いた
バスの停留所で迎えた彼女は
黄色い麦わら帽子だった

強烈な印象
16才の夏

バス停から灯台まで歩いた
真っ青な海と水平線を見おろした
町の一点を指さし
— 青い屋根が見えるでしょあれが私の家よ
と教えてくれた

真夏の日差しを気にせずに
小さな漁村の狭い路地を
歩き回った帰りに
バス停まで見送ってくれた

それから数年して
彼女に手紙を書いた
名古屋の或る銀行に
彼女は勤めているという
涙が出るほど嬉しかったです
と書いた返事をくれた

東京の下宿に戻る時に
駅で待ち合わせた

でも 彼女は来なかった


夏の終り(黄色い麦わら帽子)

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不思議な友だち

あれこれと書きながらもなかなか登場しない人(Kさん)がいます。

その人(Kさん)は学生時代に心の拠り所の人として存在したとても大切な人です。

都内に住み車でならば30分ほどで辿り着けるような近所にいながら五年間の暮らしで一度しか会わなかったというような一風変わった関係の友人です。

わはくさんはこの人のことをペラペラとは喋りませんでしてどんな間柄でどんな友だちだったのかもあまり話してくれませんでした。

初めて出会ったときのこともサラリと教えてくれただけです。

合コンをやってその会場で息が全然合わずに貶(けな)し合いばかりをして終了となったにもかかわらず手紙のやり取りが始まってそれで長い友だちになっていることは結構色んな人たちに喋っているみたいですがそれ以上はあまり知らされない。

近くにいても会わなかったのだし実際のところそんなにみなさんにペラペラと教えて回るような出来事もなくて手紙の友だちだったようです。

文學部の彼女でしたが熱く文学作品のことを語り合ったりしたわけでもなかったみたいですし趣味もお互いでよく知り合って理解しているわけでもないらしい。

就職が決まって浮かれているわはくさんをお祝いするために新宿の飲み屋街の地下の一角にある小さな居酒屋でひっそりと二人だけのさようならパーティをやっています。

就職で京都に去ってゆくわはくさんとのお別れの挨拶だったのです。

合コンの後で会ったのは五年間でこの1回きりでした。

五年間不定期に手紙だけはやりとりをしていましたが電話もかけないし写真も見せあわないし近くにいながら会わないで合コンのときの面影だけを胸に抱いていた人に新宿で再会したその雰囲気は想像できないものがあります。

わはくさんが京都に行ってからも細々と文通は続いていました。

わはくさんのツマ(J)さんはわはくさんが京都に来たばかりのころのことをよく覚えていていつもポストに手紙が届いているのを見かけたと言ってます。

でもその手紙は実は半分は鶴さんからのものだったかもという心配もあってもう半分が(Kさん)からのものだったかも知れないのですけれども今となってはそんなことはどうだっていいことです。

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かぼちゃでまあ一杯

このごろをときどき振り返るたびに毎日に飲み過ぎているのを反省しているので今夜こそは控えるからと言って朝に家を出るのですけれどもおゆうはんの時刻になって飯台に座るとかぼちゃが三切れ入った小鉢とそのとなりに水と氷の入ったグラスを出してくれますのでまあ一杯ということになるわけです。

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百貨店で中元の用事を済ませてふたりでブラブラと歩きながら陶器の焼き物などを見てゆくわけです。

とても落ち着いた雰囲気のお鉢と小鉢とお椀、小皿が並べて置いてあるのが目につくとどうしても立ち止まってしまいます。高額なので買おうなんっていう気は更々ないもののいつか一揃い買ってゆっくりと食事をしたいなというようなことを呟きながら歩いてゆく。

母にお茶碗を買ったことがありました。そんなことを思い出してそれがずいぶんと昔のことだったことに気付き改めて月日の儚さを思うわけです。あのとき父はまだ生きていたかなそうすれば夫婦で揃いの茶碗と湯呑であったはずだがどうやらそうではなかったような気がして記憶の曖昧さが少し情けなくなると同時に父が逝ってからの月日がやはり重く長いものなのだと思うのでした。

もうそれほど長生きもできないだろうしできたとしたらそれはおまけに当たるほど年齢になってきたのでお茶碗も意味もなく日常に添うて暮らしにあるものであるからいいかもしれないなあとちょっと覚えておいて何か急に思い立ったら買って帰ろうなどと考えている。

いまは貧しい暮らしだけれどそれはそれでいいが豊かに暮らしていたころにあらゆる人にもっと義理を果たしてお礼をしておくのが筋だったなと二人で話をしながら高級な陶器の並んだ売り場を歩いてゆく。義理を果たすというよりもそのときの自分は誰のお陰で成功してそこで大きな顔をしておれるのかを考えると必然的に義理などという言葉など不要となりそれよりもそのときの節目の時期にはきちんと感謝とお礼の心を伝えてゆくべきであった。もしも今あのころのように豊かな暮らしならば果たせる限りの恩返しをできるのにと人生の終焉支度をしつつも残念ながらその義理が果たせず恥ずかしい思いをしている。

この晩はそんなことをあれこれと考えながら一杯飲んでストンと寝た。そのあとにムスメから連絡があったらしく旦那さんが一次試験に通って早速一生懸命勉強を始めたという。何も応援はできない。わたしの出る幕はもうない。

かけがえのない贈りもの

語録から

朝日新聞の土曜版にひとつの連載がある。 最近の記事で思わずスクラップしたものがあったのでここに残しておく。

– ジャパネットたかた社長・高田明 「私は、商品はただの物じゃない、生き物だと思ってるんです」と高田はいう。 例えば「ビデオカメラを買ったら、お父さんやお母さんを撮ってください」と強くすすめる。 子どもは成長してから自分の昔のビデオなど大して見ない。 むしろ両親の若いころの映像こそがかけがえのない贈りものになる。 2011年8月6日付 朝日新聞土曜「be」から

子どもの写真をブログやFACEBOOK、instagram にのせている人を見るたびに高田社長(元社長)の言葉を思い出す。
ついついそのことを受け売りで伝えようとしてしまう。 だが「子どもを撮るときには自分も一緒に撮りなさい」と言われてもその人も困るだろう。 「何を言ってるのよ 子どもが可愛いに決まっているじゃないの」と理解をしてもらえないときもあろう。 「そうは言っても子どもが可愛いでしょ」とさらりと聞き流してしまう人もあると思う。
わたしも子どもと一緒に何か ─ 例えばブランコをするとかボール遊びをするとか公園広場を散策するとか ─ の動画はほとんど残っていない。
高田社長のこの言葉を心から理解して、そのあとからじわっと、そのときの撮影をセッティングしてくれる人への感謝のような気持ちが湧いてくる、そういう人がいればその人は本当に自分の人生に感謝できる人ではないかと思う。

迷路ごっこ

わたしは
どこか
戻ってゆけるところを
さがしつづけている

果たして
そんなものやそんなところが
この世にあるのだろうか

そんなつもりで
これまで生きてこなかった

しかし
もしも
そのつもりで生きてきて
周到に準備をしたものがあったならば
それは味気ないもので
戻れるようなものではなかっただろう

わたしは
戻るところを探しながら
迷路ごっこのようなことをし続けるのだろうか