かぼちゃでまあ一杯

このごろをときどき振り返るたびに毎日に飲み過ぎているのを反省しているので今夜こそは控えるからと言って朝に家を出るのですけれどもおゆうはんの時刻になって飯台に座るとかぼちゃが三切れ入った小鉢とそのとなりに水と氷の入ったグラスを出してくれますのでまあ一杯ということになるわけです。

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百貨店で中元の用事を済ませてふたりでブラブラと歩きながら陶器の焼き物などを見てゆくわけです。

とても落ち着いた雰囲気のお鉢と小鉢とお椀、小皿が並べて置いてあるのが目につくとどうしても立ち止まってしまいます。高額なので買おうなんっていう気は更々ないもののいつか一揃い買ってゆっくりと食事をしたいなというようなことを呟きながら歩いてゆく。

母にお茶碗を買ったことがありました。そんなことを思い出してそれがずいぶんと昔のことだったことに気付き改めて月日の儚さを思うわけです。あのとき父はまだ生きていたかなそうすれば夫婦で揃いの茶碗と湯呑であったはずだがどうやらそうではなかったような気がして記憶の曖昧さが少し情けなくなると同時に父が逝ってからの月日がやはり重く長いものなのだと思うのでした。

もうそれほど長生きもできないだろうしできたとしたらそれはおまけに当たるほど年齢になってきたのでお茶碗も意味もなく日常に添うて暮らしにあるものであるからいいかもしれないなあとちょっと覚えておいて何か急に思い立ったら買って帰ろうなどと考えている。

いまは貧しい暮らしだけれどそれはそれでいいが豊かに暮らしていたころにあらゆる人にもっと義理を果たしてお礼をしておくのが筋だったなと二人で話をしながら高級な陶器の並んだ売り場を歩いてゆく。義理を果たすというよりもそのときの自分は誰のお陰で成功してそこで大きな顔をしておれるのかを考えると必然的に義理などという言葉など不要となりそれよりもそのときの節目の時期にはきちんと感謝とお礼の心を伝えてゆくべきであった。もしも今あのころのように豊かな暮らしならば果たせる限りの恩返しをできるのにと人生の終焉支度をしつつも残念ながらその義理が果たせず恥ずかしい思いをしている。

この晩はそんなことをあれこれと考えながら一杯飲んでストンと寝た。そのあとにムスメから連絡があったらしく旦那さんが一次試験に通って早速一生懸命勉強を始めたという。何も応援はできない。わたしの出る幕はもうない。

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