海 続・千夜一夜その238

初夏の陽射しが差し込む杉木立の峠道は歴史街道としても名高い。道しるべや手作りの木のベンチが充実して、坂道の先にはいびつに積まれた石段が続き、覆い被さる古木が野性的になるような箇所では青々とした苔が脇道に群生して、人々は石畳の坂道に癒される。ひとりで坂道を登りながら汗をぬぐい、息を整えるように大きく吸い込んで、森の隙間をじっと見つめるとノコギリのように尖った海岸線の向こうに真っ青な海が見えた。

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恋が下手すぎ 続・千夜一夜その237

あの朝、私はあの人と行き違ったのだった。鈍行列車に揺られ車窓の漁村風景をぼんやりと見ているとメールがひょっこり届いて、それがほとんど忘れてしまうほどに音沙汰のないあの人で、焦がれている私をよそに今を書きまくっている。すれ違った特急列車の中からだった。その勝手気ままな猫のようなところが歯がゆいばかりで、しかも、私が好きになる人ってこんなふうに残念な性格の人ばかりなのだ。私は恋をするのが下手すぎるのだ

ちょっと

ちょっと気にかかる言葉があって

「父をこえて」(いく)

と 日経ビジネス(だと思う)を読みながら目にとまった

この言葉には
上昇するパワーと
こえながら姿を変えていく自分の姿と
回りを見ながらゆとりを持つ雰囲気のような

そんなものが隠れている
いや、表れている

こえることは 並大抵でないのだが
後進に与えられた使命なのだ


あとでもう一回調べてみたらありました。

「社員一丸となって、祖父や父を超えていくつもり」
(安藤 徳隆 日清食品社長)

解説には

社長就任に当たり、「Beyond Instant Foods(インスタント食品を超えていけ)」をスローガンに掲げました。意味するところは、これまでの成功に甘えず、インスタント食品のイメージを刷新していこうということです。それは誰かが1人でやることではありません。

とありました。

(日経ビジネス2015年8月24日号より)

安部龍太郎 等伯 (感想篇)

20150924等伯上

等伯下
直木三十五の「南国太平記」か吉川英治の「鳴門秘帖」か司馬遼太郎の「梟の城」か井上靖の「風林火山」か。これらの作品を初めて読んだときの興奮と読後の震えのようなものが、等伯を読み終わった私の身震いの中にあった。

終章まで熱気が冷めずにとことん気持ちを入れ込んで、しかも、物語の面白みと人間の心の闘いの醍醐味を存分に味わわせてくれる作品である。

安部龍太郎という人、読んだことがなかったので、いかに読まず嫌いだったのか、と反省する。(人は見かけで判断はしてはイカン:余談)…と言いながら、実は、19年前(平成8年)に私はこの人の記事を読んで、「誰やこの人、只者ではないぞ」と赤ペンでナゾっている。

それが安部龍太郎 「龍馬脱藩の道 ─ 竜馬がゆく<高知>」(文藝春秋平成8年5月臨時増刊記事/文藝春秋社「司馬遼太郎大いなる遺産」に掲載)の(追悼の)記事だった。
印までつけて何度も読み耽って、付箋まで貼って、とても面白い作家だとまで思いながらも彼の作品は読まないままだった。素直じゃなかったのだ。安部龍太郎って誰よ、と思ってストンと忘れたのだろう。

ところが、読書ブログ繋がり(ともだち)こはるさんが、直木賞が文庫になったので(読みました)と、感想を書いていたのを見てわたしも読むことにした。

絵にはからきし弱く、私にはチンプンカンプンだろうし、歴史小説は根性入れないと読み切れないし、文庫で上下もあるし、(それほど知らない)安部龍太郎だし…と思い悩んでいたら、「迫力があって小説であること忘れそう…」とまで言うので思い切った。

久しぶりの★★★★★ですし、私のように10分程度の列車の中や15分程度の昼休みしか(寝床では読み始めると1分で眠ってしまうことが多い)ない人には打って付けの作品でした。買いましたと書いてから随分と時間が過ぎた。敢えて言えば寝床で眠ってしまわず読めば朝になる恐れが高いのでオススメできないようなそういうアツイ作品だった。


能登半島・七尾の下級武士の家に生まれるが、幼少のころに染物屋に養子に出される。それがやがて絵師として見いだされ、何度も降りかかる不運や不幸を突っぱねて歴史に残る絵師として認められてゆく。そういう中の激しい生き方に感動しながら読む。

義父母の壮絶な死、兄の野暮、戦に巻き込まれる被害、筋書き通りにいかない人生、理屈に合わない人間関係、突然襲いかかる不幸、貧困、裏切り、憎しみ、駆け引き。意地、見栄、希望、懺悔、度重なる身内の死。等伯と人生をともにする女性たち。すべてがクセのある人間味を帯びていながらも美しくある。

いつどんな時代であってもこのような人物は存在したのだろう。戦国の世の中のことだ、どこまで自分の願いが叶ったのだろうか。京の都に出て絵描きとして認められたいと夢見ることは、その人の才能にかかわらず、現代ならば宇宙飛行士になりたいとか大リーガーになる、ノーベル賞を狙いたい…みたいなものだろう。私たちも子どものころそんな夢を語ったこともあったものだが、それは夢であるから好きなように語れたのだった。現代の若者は─とくに小中学生は宇宙飛行士とか大リーガーなんて現実的ではないと言って弁護士だとか医者などを将来の夢に挙げるとも聞く。

等伯の時代も今も同じように夢は夢であったのかも知れない。しかし、どこかが違ったのだ。安部龍太郎は、そんなどろっとした部分を程よくそぎ落とし、運命に引きずられて都に出て、絵描きとしての道を歩んでゆく情熱的な等伯の姿を書きたかったのだ。烈しい気性を淡々と書いて、講談のシナリオのように、不運をひらりひらりと裏返すように単調な成功物語にしたくないと考え苦心したように見える。

これだけの才人の伝記だから、物語にすれば歴史ファンが増えて仕方なかろう、利休を見直す人も出てこよう、日蓮を読んで学ぼうという人も出てくるだろう、そういう逸る気持ちを鎮めながら一方でどっぷりとハマって読みふける。等伯の苦悩や不幸、不運を、そしてさらには挫折や読者の反発も、全てを味方にしてどんどんとおもしろい物語になっている。どこまでが史実なのか、どうでもよくなってくるくらい、夢のように嬉しい展開である。そこが安部龍太郎の(きっと努力の)文芸の技ではないかと思う。

等伯を安部龍太郎が書かなければ、等伯に関わる文献は歴史の副読本程度で終わっていたかも知れないし、落語のネタ本のようだったかも知れない。そんなことも思いながら、作者・安部龍太郎のことを想像する。情熱を感じさせてくれる人だ。そう意味でも、安部龍太郎が等伯を書き上げてこそ本当に良かった。等伯がつまらなくなる恐れがあったのだから。

人は激しくて揺るぎのない強い執着を持っていれば成就できる…というお手本の生き方をした人物ではなかった。等伯の人生は、ある点では下手くそな生き方だった。だから等伯は、時代のヒーロー的な人物でもなかったし成功をするのも晩年である。そんな人をここまで魅力的に書けたのは、安部さんアナタが共通するものを感じ持ってるからではないですか。(と質問したい)

物語を書くにあたって、安部龍太郎という人は文芸のチカラで引き込んでゆける様々な手段や技法を研究し、知識や常識も調べ上げるなどして研究に余念がない人だったに違いない。そういう厚みを備えて書いたことがこういう巧い作品を纏める才能であった。おそらくこの作品に限らず、一文一文しっかりと着実に書いてゆく作家のだろう。読みながらそんな作者の顔も感じ取りながら読み進む。

それは推測だが、安部龍太郎自身の生きざまや人生そのものに等伯が重なるのではないか。安部龍太郎は、等伯に成り切って命を賭けてこの作品を自伝を書くように書いたのではないか。そうであってもおかしくないほど、等伯という人物には魅力もスリルも意外性もあった。もちろん、あらゆるものを燃え尽きさせる熱いものも持っていた。

歴史を新しい側から辿っていけば、もしかすると、しかるべき成功物語で語っておしまいになっていたかも知れない。しかし、安部龍太郎のマジックのような才能が、誰にも書けない等伯を完成させた。

歴史の試練をくぐり抜けた一つ一つの場面が余りにも激しいながらも真摯であり、単純ではない波乱な人生であったが、決してそれだけで終われないものがある。それは等伯の、漲る才能や絵に対する執念だけではなく、向こう見ずな側面を作品では見せている。

その上に、その強運不運に死なされてしまわずに生き延びた史実を、はらはらとさせるような作り話のような筋書きにして、たぶんほとんどのところが資料に基づく史実に近いものだろうが、小説としてまとめ上げた作者・安部龍太郎のレトリックの凄さでもある。

そして終章。等伯は逝くのだが、逝ったとはどこにも書かずに、安部龍太郎はぐっと映画のようなシーンで終わりとしたのだ。
この作品は、映画にもできない、安部龍太郎の書いたペンが激しく読者にぶつけてくる等伯の叫びを綴ったものだと思う。そんな気がしている。

木曽旅情庵 その2 ─ 寒露のころに考える

考えてみれば
失うことの連続であり
人生の第4コーナともなれば
新しいことなど
もうこれ以上に起こらない

旅情庵という宿へは
もう行くことはなかっただろうが
営業をやめてしまったことは
わたしの旅のひとつのカテゴリーに
ピリオドを打った

旅情庵に何度も泊まりに行き
信州の山々の雄大な風景や
目がさめるような秋の紅葉を目の当たりにし
大きく息をを吸って
元気な自分を取り戻そうとしていたのだろう

ちょうど十月の今ごろ
地図も持たずに
新品のオートバイで
乗鞍高原へと
鉄砲玉のように
走っていったのは
1982年10月の連休でことだった

三連休の一日目に仕事が入って
不平不満の気持ちで仕事に行ったときの気持ちの
記憶だけが強烈に残っているものの
あくる日に高速に飛び乗って
何も調べもせずに
ただ信州の方をめざすという
爆発心のようなものだけで
でかけたのだ

だから地図もなければ
宿の手配もしていなかった

あれから
信州の虜になり
木曽街道や中山道に夢中になり
秋の紅葉、初夏の新緑に
食べて走って湯につかって泊まって
という冒険のような旅をしてきた

旅情庵はそんな遊びのひとコマで出会った宿で
全国数々のユースを駆けまわったなかでも
飛び抜けて贔屓にする理由を
しっかりと持っていた宿だった

風呂に入れば窓から御嶽山の峰々が見えたし
窓のすぐ下には鄙びた田舎の山畑の景色があった

宿の建物は古くて
歴史を肌で感じることのできる味わい深いもので
タイムマシンに乗って
半世紀を飛んできたような安らぎの空間だった

ねこが
どっしりと
ふつうに
静かにいて

写真もスケッチも残していないので
わたしの記憶が老化とともに過去を捨て去る

それと一緒に消えていく記憶のひとつだ

それでいいのだ

木曽旅情庵ユース(YH) ─ 十月初めに考える

木曽旅情庵YH(ユースホステル)が昨年度末(平成27年3月)で閉鎖していた。

その話を知ったのは9月末になってからのことだった。
なるほどやっぱり という気持ちと 非常に残念な気持ち
更にはもう会えないのだな という寂しい思いだった。

何度も訪ねたYHだった。気に入っていたので友人知人を誘って
旅のみちづれになってもらったこともある。

(つづく)