むかしの話をしょうか(初号)

むかしの話をしょうか とタイトル変更します

最後の言葉 ─ 小雪篇

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ひの菜

小雪篇で、あんなことを書いていたら
むかしの話 を書いてみたくなったので
メモをしていく


❏ ちょっとしたこと

  1. 書道をする
  2. 絵を描くこと
  3. 彫ること
  4. 暗記をすること
  5. 鉄棒をする
  6. スポーツをする

❏ 昔話をしようじゃないか

  1. 賄付き下宿・能生館
  2. 能生館の窓から
  3. 能生館の部屋
  4. 愛情ラーメン
    1から4は↓が詳しい
    江古田のことはコチラが詳しい
    江古田(5)〔2004年9月初旬号〕
  5. 銭湯
    青ガエルおまえもそこで雨宿り
  6. 冷房がない通勤列車
  7. 暑い地下鉄
    満員電車と暑い地下鉄の話
  8. 夜行列車(大垣行き)
  9. ビール2本
  10. 萩山寮(久米川寮)
  11. 出席(無断欠席・サボり)
  12. 落第(奨学金停止)
  13. 為せば成る
  14. おとやんの手紙

書き足し中

ひの菜が旨い季節

2015年11月16日 (月)
ひの菜 食う
ひの菜が旨い季節やね

20121130

20150119


そんなことを遡ってブログに書いた。
載せた写真も昔のものである。

11月8日の朝に風邪症状が出て
ミドラの練習・初参加を断ることになった。

それは、1週間後にもまだ治らず
14日の練習も断念。

仕事は9日(月)から11(水)まで おやすみ状態となる。
(火曜日は早引き)

ノドが痛いくらいで
カラダが怠いくらいで
咳が出るくらいで

仕事を休むなんて
(本当は休みたいけど)
(仕事に行っても捗らないけど)
許されないと考えていた時代があった。

そう、まさに「時代」と呼べるようなほど昔であり
何かの信仰か魔術か
自爆か束縛かのように

必死になって仕事に行ったのだ。

スピンアウトして人生を考えなおしたら
なんて馬鹿馬鹿しくて愚かな事だったのかと反省する。

尽くすことや誠意を示すこと
至誠を旨に突き進むことは大切なことではあるものの

立ち止まって考えれば
別の見方もあることを【知る】ことも大事なのだ。

もっ早くそのことに気付けば
曽祖父が村長、祖父が村議会議員、父が公務と歩んでいた本当の意義を「知り」
わたしも道を選び直すべきであった。

若い時代に自分の人生など決めようとすることは
時によっては無謀である場合がある。

そんなときに
親のうしろ姿はとても大事なのだと知るのも
ずっと後になって天命の年齢を迎えてからだった。

しかし

行きつくところは
「これでいいのだ!」(バカボンのパパ)
なのだ

これでいいのだ

遺す言葉 その2 を読み解く

【自解】
その2を読み返してみる。
大筋は以下である。


遺す言葉 - 2

  • 遺言というもの
  • 言葉として遺せるものは何もない
  • 考える前に閃く
  • 猫が玄関を閉めないので解決する
  • まずやってみる
  • 面倒くさい
  • 晩年は絵を描いていた
  • 絵を始めるときに

(平成23年6月30日)


■遺言というもの

自分でも読むのが面倒なのだから他人は読まないだろう
なかなか書き進まないのは、ゆっくりと考えることが難しいのだろう
誰かが読むのか
読まれぬ間に捨てるのか
果たして如何なる運命にあるんか

■言葉として遺せるものは何もない

父は「人の振り見て我が振りなおせ」という言葉を口癖にした
それは、親がこめた子どもへの伝言であったのだ
遺せないわたしは早くも敗北宣言かもしれない

■考える前に閃く

理屈も言うことがあった
だが、芸術的には私には理解できない感性を持っている人だった
絵を描く、 木を彫る、木を組み上げる、
物を作る、無から工夫して創り上げる
自然行動的欲求を解決する行動を天性として持ち合わせていた

■猫が玄関を閉めないので解決する

昭和30年代
ウチの猫が玄関を閉めないので自動的に閉まるように玄関の引戸を改造する
玄関前人が来るとブザーがなる仕組みも実用化
実行家だった

■まずやってみる

「何が問題か解析も大事だがまず現物を見つめなさい」
そういう注意を受けた

■面倒くさい

そんな言葉はこの世の中にはない。これは口癖だった。
次の一手には必ず理屈があるのだということも言った

■晩年は絵を描いていた

(晩年)水彩画を始めのちに油絵に
作品は九割以上が駄作で付き合いのあった人の家に散らばっている
それらを回収してどこかに飾る部屋を作りたいとも思う

■絵を始めるときに、あれこれを考えることはしなかった。
小遣いもないのに高額な画材を買ったり、人目を気にせずに写生を始めたりした。
私にはそんなストレートさも素直さもない

2011年6月30日 (木曜日) 【- Walk Don’t Run -】


大雑把に読み返して、読み解いて、贅肉を取り去ってみた。

こんな父のようになれなかったのは自分に素直さが欠けていたからだ。
あの人は素直な人じゃなかったが、純粋な人だった。

悠々自適であったかどうかは本人に確かめるしかない。
言葉を何も残さずに逝ってしまった。
きっと、わたしもそう終わりたいと思っているのだ。

もっと生きさせてやりたかった。

手が見えて父が落葉の山歩く  飯田龍太

手が見えて父が落葉の山歩く  飯田龍太(昭和三十五年)

飯田龍太のこの句に出会ったのは最近のことでそれほど深い意味もわからず静かな落ち葉の公園の遊歩道のようなところを想像していた。

然しのちになってもう少し深い意味があるのではないかと思い立ち評論や引用などを手探りで辿ってゆくと、今度はわたしの文学の知識や資質を大きく上回るような解説が出てきて、これはこれは大変偉大な作品に出会ったのだと密かに喜んだのだった。

手が見えて父が落葉の山歩く(昭和三十五年)

[自選自解 飯田龍太句集]の解説から

<実景である。早春の午下がり、裏に散歩に出ると、渓向うの小径を、やや俯向き加減に歩く姿が見えた。この季節になると、楢はもちろん、遅い櫟の枯葉もすっかり落ちつくして、梢にはひと葉もとめぬ。乾いた落葉がうずたかく地につもる。しかし、川音でそれを踏む足音はきこえない。明るい西日を受けた手だけが白々と見えた。くらい竹林のなかから、しばらくその姿を眺めただけで、私は家に引き返した。この作品は『麓の人』のなかでは、比較的好感を持たれた句であったようだ。しかし、父が、これから半歳後に再び発病し、爾来病牀のひととなったまま、ついに 回復することが出来なかったことを思うと、矢張り作の高下とは別な感慨を抱かざるを得ない。いま改めてその手が見えてくる。父は生来、手先は器用の方であった。>

昭和三十五年の秋といえば、わたしは3歳になるときのことだ。父はもちろん祖父も元気であった。
母がいる実家の押し入れには、おそらく、わたしが父に肩車をしてもらって祖父と並んでお伊勢さんの鳥居の前で撮った写真が残っているはずで、それがそのころのものだ。

伊勢まではどうやって行ったのだろうか。
写真には書き添えられてはいないが、ディーゼルカーはあったのかどうかもあやふやで、蒸気機関車が普通に長い長い客車を引いて走っていたころのことだから、汽車かもしれない。近鉄電車にも乗っただろう。

父も祖父も重苦しい外套を着てカメラに向かって最高の顔をしている。
三十歳に満たない時代は誰にでもあった。わたしは自分が子どもである写真よりも父と祖父がここにいることに大きな価値を抱いている。

祖父は二三年後に亡くなってしまう。わたしには祖父の記憶がある、と思いながらそれは遺された数少ない写真を見て作られたイメージであるような気もする。しかし、5歳ほどなら記憶があっても不思議ではなく、何となくであるが祖父の葬儀に参列しているような像も頭の片隅にある。

子どものころは事ある毎に父に肩車をしてもらったものだ。今の子どもたちがお父さんに肩車をしてもらっている光景をあまり見かけないのは何故だろう。高く突き放す感じよりも子どもを大事に抱きかかえる動作のほうが日常になったからかも知れないと推測したりしている。子どもは宝なのだがある一面で抱きかかえ過ぎていることの象徴のようにも思う。

父も祖父もいなくなりわたしが父という立場から祖父へと代わる時がもうすぐに来る。
そんなこれからのかずかずの光景のなかで、ほんの少しでよいからこの句の「手」のようにありたいものだと思う。

冬じたく ─ 立冬篇

11月8日は立冬で暦のうえではこの日から冬となる。また寒い季節を迎える招待状が届いたようなものかもしれない。

20151108立冬

それほど冷え込んでこないのは雨が近いからだろうと天気予報を見て、前日の土曜日にお出かけをした帰りにムスメと合流しておゆうはんを食べた。

鍋が食べたいというのでお手ごろな店に4人で入ったのだが、焼肉とお鍋とがセットになったコースを注文して、みんなで汗だくになって食べた。

食事が終わって店の外に出ると、傘なしでどこまでも歩くわけにもゆかないほどの雨が降りだしていた。天気予報は夜半を回ってからといっていたのが、少し外れたようだ。

今の季節などは、天気や気流、気温の予測をすることにおいて難儀な時期ではないと思えるのだが、珍しく外してしまったには訳があったことだろう。何事も安易に見えてそこには無数の奥があるのだ。

▼ 雨静かに降り出して今年の秋と別れる

家の前まで車で送ってもらって週末・土曜の夜が更けた。

二三日前に「花鳥の夢」を最後の第九章を残すところまで読み終わっていた。感想は思いつくことをメモ書きするように書き溜めていたので、第九章を読み終えて読了とする。

山本兼一の作品は「利休にたずねよ」を読んだのみで二冊めであった。

小説として作品を見ると、文芸の域より大きく文学に傾きながら、文学に偏らずに芸術をしっかりと手のひらの上に置いて書いているのを感じる。

利休の言葉がいい。第八章最後にある。

性分でございますゆえ、お許し願いたいが、見せよう、見せよう、という気持ちの強い絵は、どうにも好みに合いませぬ。絵師がおのれの技倆を鼻にかけているようで、いかにも浅薄な絵に見えてしまいます

そして、秀吉の言葉が更に素晴らしい。(第九章P485、486)

そなた、悪相になったな

秀吉の命を受け東福寺法堂天井画を描きはじめる直前の永徳は、自分と格闘をしている。悩み苦しみ命をも削っている(…ことに気づかない)

なにごともな、すべてを一人で掴もうとすると、し損じる。わしの天下統一でも、すべての大名たちが従うわけではないぞ。従わぬ者を討伐しても、皆殺しにするわけにはいかぬ。生かして残してやらねば、連中は追い詰められて、死にもの狂いで歯向かってくるぞ

・・・

絵は、もっと楽しんでゆるやか描くがよい。長谷川の絵は、観ていて気持ちがゆるやかに楽しくなる。絵のなかに、観る者の居場所がある

花鳥の夢

言葉というのは、受け取る人の心の状態でいくらでも変化する。
気にもとめられないこともあれば、言った本人がまったく違ったことを考えていたりすることもある。

秀吉が狩野永徳にそのように言い放ったとき、利休はまだ秀吉から切腹を命じられていない。

秀吉からの厳しい言葉を浴びたあとにも永徳は描き続け、龍の瞳に丸い二つの目玉を入れて、鼻の線を引いたところで永徳の命は尽きる。

小説は永徳が死んでしまうのだとは明確に記述していない。まして、利休がこの半年後の春に切腹を命じられこともどこにも触れていない。

ムスメさん夫婦は私たちを家の前まで送り届けたあと、簡単な買い物をするためにスーパーに寄り深夜に家に着いたらしい。

ツマが、あの子たち買い物してから帰ったんやって、と明くる朝に話してくれた。
そうか、と返事をするときにノドが痛いことに気づいて風邪のはじまりとなった。

ぬくい夜がおわって雨の立冬の朝を迎えた。その雨も夕方には小止みになったかのように見えたが、月曜日の昼過ぎまで降り続いた。

わたしの風邪は、雨がやんでも、知らぬ顔。ノドはまだ痛いが、明日は休めない。

山本兼一 花鳥の夢  感想

2015年10月21日 (水)

長谷川等伯を書いた安部龍太郎「等伯」を読んで山本兼一の「花鳥の夢」へと思いを誘われた。

かつて、山本兼一「利休にたずねよ」を読んだときに、それまでに接してきた歴史的な小説とは全く違った味わいを知らされ、激しい情熱やドロリとした人間味を読ませてもらった。

芸術的に美しく且つ煮え滾る感情のようなものであったのかと、今になってもう一度思い返しながら考えてみている。

歴史小説としてポピュラーな司馬遼太郎の作品は例えれば落語のようで、吉川英治の作品は講談のように読者をその世界に惹き込んでゆくと、私はそう思っている。

では、安部龍太郎や山本兼一はどうなのか。
二人を同じに考えることはできないが、人物が絵師という芸術のうえで、激しく自分を押し出したり、控えたり、噛み堪えたり、ぶつけたり、自省の檻に叩き込んでみたり、もっと激しく自分を責めたり、悩んでみたりして、生きるてゆく人間の姿を手法を違えて物語にしてゆく。

司馬作品のように 俯瞰的な視線はない。吉川英治のように読者を踊らせてくれるような巧妙さもない。

骨子にあるのは、芸術的な視線を持つ山本兼一の眼差しが捉えている狩野永徳の生き様だ。

ときには、芸術素人読者や非読書虫である私のようなものには、些か退屈なところもある。しかし、扱う人物(素材)の力は遥かに大きく、引力が激しい。

安部龍太郎を先に読んだときに、安部龍太郎は自分を等伯と確実に重ねているということを感想で書いた。まさかと思うことを感じたので、そんな思いの人はそ れほど多くも居ないだろうと思いつつそう書いた。なのに、後になって多くの人の感想や談話を読んでみれば、安部龍太郎自身が「私は等伯です」と直木賞受賞 時のインタビューで語ったと書いているから私は驚く。
私は間違っていなかったらしいのが嬉しかった。

「花鳥の夢」の文庫の解説を書いている澤田瞳子さんは「狩野永徳は山本兼一だ」と書いている。そのことは読み始める前に拝見した。その書評を読んだからこ の作品を読まずにはいられない。ということで、歴史作品を連続読書するなどという前例がないまま、二人の絵師の世界、戦国の激しい時代のなかを生きる 人々、芸術家であり人間である姿で真正面から自分の使命と運命に立ち向き合ってゆく物語のなかに私は踏み込んでいった。

安部龍太郎の文章は読み手の心を上手に捉えて離さない。
一方、山本兼一は、美的で考え抜かれて吟味され尽くした厚みのある一節一節で、いかがでしょうかというように惹きつける。
美的なものをきちんと美的に伝えて、物語のなかで粉塵のようにして読者に吸い込まれてゆくように、作品にまとめ上げ てゆく。さながら、この物語のなかの永徳のようでもある。

小説家という人物の頭のなかはどんな構造になっているのか。安っぽい小説なら「ボクも真似して書いて」みたくなるのだろうが、山本兼一はそれを寄せつけないような凄みがある。決して詩的で美文でもないが、やわらかみのある作風だ。

どこまでが史実で、どこからが架空であるのか。それは全く不問でいいのだと思えてくる。そんなことは歴史の教科書や図書館の美術史の書籍に任せよう。狩野永徳という人間の心のなかに踏み込ませてもらうことで、知らない絵の世界が見えてくるではないか。

こんなに激しく燃えて、悩みぬいて、自分を問い詰めて、芸術を極めて生きぬいてゆくなんてことは、誰ができるものでもあるまい。しかしながら、歴史に名を残した人物にはしかるべき苦心があったのだ。

作者は、狩野永徳が持っていた天才肌の他にあるもう一方の面で、彼を責め続けた自分に問いかける正義のようなものを書きたかったのではないか。

いつの時代の凡人にも非凡人にもあるような側面を、歴史的芸術作品の絵の裏にある泥っとした過程のようなもののなかに、物語として書いて、凄まじい永徳の本当の姿を表現したかったのではないか。
等伯と永徳の絵を見に出かけたくなる。そんな作品です。(平成27年11月6日)

花鳥の夢

ここまで一息ついて、最後の方をもう一度読む。
終章(第九章)花鳥の夢の段は興奮も収まり静かな章になっている。
一度登場した利休も姿を表し、芸術から哲学の色合いをもった問答や自責が続く。
戦国の世の激しい闘いのなかでその波に揺られながら命辛辛生きている人間たちである。
物語のうえでは少しばかり悪者のイメージで描かれていて、実像はどうであったのかも気にかかるものの、強くて華麗であった人に少し物語上は悪役を買ってもらったというところなのか。
志も半ばで、等伯よりも遥かに早く、利休が無念で切腹をするより半年早く、永徳はこの世を去る。
なるほど、こうして考えていると、山本兼一は狩野永徳だったという点も見えてくる。
─2015年11月8日 (日)