暮れゆく年


ムスメが角煮に挑戦している頃
(角煮と蕎麦はムスメLINE)
ウチの人は伊達巻に苦心していました

はんぺんを磨り潰す道具にすりこぎを応用しました
フードプロセッサーなんてあろうわけがないから苦心したようです

ムスメさんはのんびりペースで
角煮を夕方に仕上げ
暗くなったころに近所のお店にかき揚げを買いに行ったそうです

煮しめにも挑戦して
なかなかの奥様ぶりです
▶ 元旦

おしまい 続・千夜一夜その239

ものがたりの終わりは突然にやってくるのだというジンクスのようなことを考えながら数々のむかしの事件を思い出していた。もうこの人ともここでオシマイだと何度も思ったそれぞれの場面で必ず共通したことはわたしのピリオドの打ち方の下手くそなことだ。誰とさようならをするにも綺麗ではないとみんなに指摘をされて責められてきたのにちっとも上手にならないのだった。恋が下手くそ。おバカさんは一人で海でも見てなさい。(オシマイ)

西京味噌

嫁に行き初めて真似る母の味  (わはく

小晦 と書いて こつごもり と読むそうです

どちら様も買い物でお忙しかろう(30日)
近所の大型ショッピングセンターも大賑わいで
ムスメがおせちの材料を買い出しに来ているので付き合いました

母が事前にムスメのために味噌を買ってあったのですが
持参するのを忘れてしまって悔しがっている

味噌の写真をメールであから送るから
大晦日に近所の店で自分で探しなさい
と言っている

たぶん なかなか見つからないと思う

嫁に行き初めて真似る母の味

大きくて揺るぎない

大きくて揺るぎない
という日記を書き残している。
ブログだからいつの日にか消滅してしまうこともあるかもしれない。
それはわからない。

昔ならば必死で残そうと思案したものだ。今は消えてしまってもそれはそれと思えるようになってきた。

2500篇書いてきた過去が自分の死とともに消えていいのか。
わたしはそう考えた。

大学時代の友人に残したい(伝えたい)気持ちをメールしたら返事が来て

来年で還暦の○○○です。自費出版は数十万円かかりますが、結局、親戚や友人に配っておしまいの自己満足でしょうが、自分の死後も形に残ります。他人に読んで欲しければ、「小説家になろう」に投稿すれば、エッセイなどのジャンルもあるので、読んでもらえるようです。僕は、子孫がいない事が確定しているので、何かを遺す作業(写真の整理とか)は、止めました。同好の士がいれば、遺せるのでしょうが。

と書いている。

初行に書いた揺るぎないものについて纏め直して書き留めておく。

ヒトは
どかんと動かないもんにあこがれる
また 不変な姿にも思いを馳せる

自分も大きくなりたいと思うし
揺るぎない人生を送りたいという意志を持って進もうとする

自然てのは
数々の苦難を経て
それらを犠牲にして(あらゆるものを)捨ててきたからこそ
あれほどまでに大きくなれたのだ
と思う

ヒトは
所詮 自然に
包まれているだけなんだ

ジリジリと伝わってくるものは
およそ 誰もが同じように感じているのだろうけど
取り込まれたあとは
みんなそれぞれに化学反応のように変化してゆくのだろう

揺るぎないものを核にして
感情の増殖は続くのだ

死んだら終わり
苦し見ながら死にたくない

多くの人がそのように考えるのだろう

あるとき母が面白いことを言っていてポンと膝を打って頷いた。

死ぬときに痛いとか苦しいとかも嫌やけど
バタッと死んでしまうのも嫌や

(遺言を遺す時間が欲しいということなのだろう)
(多少の痛みや苦しみは我慢するので)

床に伏して
誰や彼やと来てもらって
ひとことずつでいいので話をし
別れを惜しみ
自分を懐かしみかつ惜しまれながら
死んでいきたい

およそ
話の内容はそんなことだった

叶えてやることができるかどうかは
神様仏様のワザの話だ

わたしはこの話を聞いて
気持ちがわかるような年齢に達してきた
ということを知る

余韻だけ遺せればいいのだろうか。

 

年の瀬に考える その2 ─ 冬至篇

冬至のあくる日に母を訪ねた。(23日 天皇誕生日)

ムスメもあと二ヶ月に迫ったこともあるので呼んでやり大きなおなかを母に見せながら正月のことなどあれこれと話をする。

母を訪ねれば昔の話をするのはどこのウチでも例外ではないだろう。近ごろはたとえ同じような話であったとしてもそんな話を聞かせてもらうのがわたしはとても嬉しい。

85歳になろうとするのに話す内容は正確で、細かい点まで記憶していることに驚く。年寄りとはそんなものだでは済ませることのできないレベルである。

例えば、親戚の人の逝去年表、家系図に登場する隅々の人までの名前、生い立ち、数々のエピーソード、それらの出来事に伴う年月日、付随する数字などなど。

真似をするとか、習うとか、はたまた、こうなりたくて自分も鍛えようとか、そう考えてできるものではない。脳みそと心の構造の問題だ。記憶しておくことや分類して整理をしておくことのメカニズムの凄さに感心する。

自叙自伝的な話も多くなった。歳をとることで昔には話さなかったことでも捨てるように吐き出せるんかもしれない。年齢と気持ちがもたらす堰のよなものが外れるイメージで話してしまうのだろうか。

今までは堪えていたのか、話すチャンスがなかったのか、それともわたしが(娘でなく)息子だったからか、孫がこうして大きなお腹をしているからか。理由までは訊ねたりしないけれど、話す内容はしっかりと聞いておかねばならないことの連続だ。

冬至のあくる日に尋ねたのは、正月の餅つきのことを訊いておきたかったからだ。
だが、いつものようにストーブの前で話し始めた母は、自分が赤ん坊を生む頃の話をし始めた。
わたしには弟があるが、死なかしてしまった子が三人あったのだという話である。

大きなお腹のウチのムスメが安心するようにと思ってか、おばあちゃんの経験的な昔話なのか、これから子どもを生む子を心理的に安心させるためなのか、それほど深くを考えてのことでもなく、むかしを単に回想しての話であったのか。

死なかした三人の子について、どんな気持ちで思い返したのだろう。
大きなお腹を見ていると昔の記憶が蘇ってくるのだろうか。

一人は1年半ほどしか生きられなかった長女の話であった。貧しいのと農家が忙しいことで、ろくに医者にも連れて行けず死なかしたという。
あとの二人はわたしと(5つ離れている)弟の間にできた子で、八ヶ月と七ヶ月でそれぞれ流産した。
生まれてからもピクピクと動いていたというような少し怖くて残酷なことも平気で言う。わたしにはこれまで一度も聞かしてくれなかった話であった。

弟は7月10日に生まれるのだが、生まれる間際の6月25日にもまだ田植えをしに田んぼに出ていたという話も聞いた。

今の子は大切にしてもらえて、更に医学も進化して安心して産めるから幸せである……というような単純な話では決してないのだ。

そこには60年の社会の進化と変化があり、人々のイデオロギーの遷り変りがある。暮らしのスタイルが姿を変え、身の回りにある物質が豊かになってきた。家族の体系が新しくなり、幸せ感にも大きな差異が出てきている。

母はそんなことを理屈でいう人ではないのだが、その糾える縄のように変遷する時代の襞のひとつひとつまでをしっかりと見つめ続け捉えている。そういう視線で語っていた。

話の深みを聞き逃すか、聞こうとしないか、聞いても理解できないのか、聞き取れないか。
貴重な話を生かすも殺すも、これからの人に任されている。

年の瀬に母を訪ねて考える ─ 冬至篇

20151223とうみIMG_2042
とうみ