宮下奈都 はじめからその話をすればよかった(その3)

メモ帖に書きとめたことがらを書き写す。
トリガーになる部分だけ。


【048】 いつか、また会える
もうこれで終わりだとそうはっきり感じることができるのは若さの特権だと思う。痛々しく、残酷な特権だ。泣きながら、さようならと手を振ることができるのは若いからだ。いくつもの人や物事との決別を繰り返し、人は年を重ねていく。

【066】わからないということ
小説というのは、わからないことに言葉で挑むことだと私は思っている。わからないけど、知りたい。つかみたい。何か。それを根気よく追いかける。いい小説には答えではなく、問いがある。

【077】宇宙飛行士になりたい!
子供は種である。どんな種なのか、ぎざぎざの葉っぱが出るのか、赤い花が咲くのか、甘い実がなるのか、ぜんぜんわからない種だ。種に刻まれたDNAがどんなふうに発露するか、それだって誰にもわからない。親にできることなど、少しばかりんことだ。できるだけやわらかい土に蒔いてやり、水をやり、日に当て、すくすく育つように祈るくらいのことだ。

【081】同じ月を見ている
「同じ月を見ている」というのは使い古された言いまわしなのかもしれない。離れていても、隣に並んで月を愛でることはできなくても、きっと同じ気持ちで月を見上げている。そういう糸がいると信じられるだけでどれほど心を強く持つことができるだろう。

【123】 おついたち
その気持が、こどもを生んで少し変わった。誕生日って生まれた日だけじゃない。生んだ日でもある。こどもにとっては、生んでもらった日なのだ。

【126】 チョコレート
若かった頃、バレンタインに意を決して、好きだった人にチョコレートを贈った。

【129】 パン
たぶん、適当に粉と卵と砂糖と牛乳を混ぜて、フライパンにバターを溶かして焼いてくれたんだと思う。

【141】 眺めのいい道
桜はまだ咲かない。凛とした空気の中、上着を羽織って散歩に出る。青い空の下を歩きながら、生き方を突きつけられているのは子供たちではなく、私のほうだ、と思った。


「いつか、また会える」と「おついたち」は
なかでも余韻が強くてピリピリと心の片隅に滲みている。

こういうところがこの人のとても魅力的なところなのだと思う。

いい人に出会えた
小説家でよかった
リアルだったらしばらくは痺れきってしまうかもしれない

宮下奈都 はじめからその話をすればよかった(その2)

昨日あたりに文庫が出ているみたいです。
お安くてお買い得。
買ってもいいなと思っています。

何度でも読めます。
同年代の人ならなおさらに。

宮下奈都
はじめからその話をすればよかった


はじめからその話をすればよかった

惹かれるタイトルだと思う。

小説なのかエッセイなのか無意識で手に取れば見当もつかない。
エッセイだとどこかに書いてあったからそのつもりで読み始めるけれども小説だと思って読み始める人も多いかも。
あり触れたエッセイ集よりは随分とライトな感じで読ませてもらえる。
もちろん作者は見た目ほどライトには書いていないことは分かる。
むしろ、作家でありそれをプロとしている以上、ライトであっても心を込めて真剣勝負で書いていることも伝わってくる。

羊と鋼の森を図書館で予約してみた。
面白半分で予約ボタンを押したら40番目と出たのでさらにおもしろがっている。

40人×2週間も待ってこの本を読もうとしている人の感覚を疑う。
そんなに待ってでも読みたいってのは本当にこの作品が読みたいのではないのではないか。
と同時に図書館のあり方も考えさせられる。

そんなことや他にももっと様々なことを考えながら宮下奈都の本を探してみて待ち時間がゼロの本を借りてきたのがこの1冊だった。
この本が待ち時間ゼロなのは発刊後の時間が過ぎていることもあろうが、図書館の借り手のレベルが新刊に馬鹿みたいにとりつく程度の人々で構成されているからかもしれない。
コンスタントに借り出されて然りというような作品であると思う。

この作品をエッセイというジャンルでそんなに簡単にひと括りにしてしまってはイケナイ。
この作家さんの人柄はもちろんのこと、環境や作風も混じってくるととても温かみのある優しい1冊になっているのだから。

生活のこと、家族のこと、生い立ちのことなどに軽く触れながら、色んなことを考え喜んだり悲しんだりしながら生きていく。
そこにプラスされてこの作家固有の文体が味をつけてくれる。

作風というものはそう簡単には変化もしないし自分の意志でも変えることができないだろう。
それだけに人柄に触れあえたような気持ちになれて、人を好きになってゆくように本も好きになってゆく。

WEBでメッセージを書く欄があったので次のように書いた。

—-

正直WEBで立ち読みさせてもらっているだけです。 すみません。
早く本屋に行きたいけど田舎町には本屋がないしネットじゃ嫌だし手にとって買いたいしと考えてそわそわしながら「はじめからその話をすればよかった」を半分ほども読み進んでしまった。
友だちがメールで「神様たちの遊ぶ庭」がよかったと教えてくれて高校の国語の先生なんですけどこんな先生に現代文を教われる生徒は羨ましいなと思いつつ、宮下奈都さんと先生を重ね合わせて勝手に活字の世界で生きている人に憧れてゆく。
しばらく、不思議でありながらもどこか似ているような感じのするこの人を読みます。
短いツイートが好きですね。短いほどいいわ。スカートみたいに

—-

「羊と鋼の森」の順番を待つつもりは今や全くない。

友だちが教えてくれた「神様たちの遊ぶ庭」を読み終えるころには買いに行こうかということになっているはずだとウキウキしている。

スクリーンショット 2016-04-19 午後1.50.57
宮下奈都

へんてこな日々から

歴史の鼓動がする坂道を登りながら
このまま街道を1人で歩き続けるのが
ある種の自虐的な遊びのように感じられてくる

襲いかかる現実と同時に
その坂道を歩いて
わたしは架空の日常の風景も想像した

へんてこな日常であったのかもしれないけれども
海を目の当たりにして
わたしは思い浮かぶ限りの架空の物語を
作り出そうとしていた

電車のすれ違いざまに
メールをくれた超偶然的な人に
ますます惹きつけられていってしまいながら
非日常の夢の中をさまよう

宮下奈都


宮下奈都の「羊と鋼の森」が本屋大賞に選ばれてざわざわと騒がしい。

そもそも何たら大賞というのは好きになれないのだ。
そのわけはきっと同じ思いの人ならば表現こそ違うだろうけどよく似た感情を持っていて、
詰まるところチヤホヤされているわりに期待が外れることが多いからだろう。

では、期待が外れなければいいのかとなる。確かにその通りなのです。

昔でも超売れっ子作家とかがいて、何たら大賞にノミネートされると渋い顔をされた。

遠藤周作や司馬遼太郎、向田邦子、藤本義一、井上ひさし、村上龍、村上春樹、宮本輝、石田衣良…など。形は違えどもチヤホヤされて歴史を刻んできた。

今は広告メディアや自己主張が前に出やすい時代になって、売れる物ならば善し悪しは二の次の感じもする。
社会がスピーディの情報化されていなかった時代は、本との出会いは素朴だった。
純粋に本屋や古本屋に行って、積んであったり並んでいる本を見て手にとって選んだ。
購入した本の裏表紙の作品リストなどを眺めては今度買う作家に夢を馳せてたりすることも多かった。
あの時代はハズレもあったと思うが、読者が揃って目指している方向を見つめ合いながら、ゆっくりと噛み砕いて作家なり作品を選んで行けたような気がするのだ。

本屋大賞などというのが出てきた。書店員が選ぶというところが惹きつけるところなのだろう。
並んだ本にラベルが欲しいのか、ある種のカリスマ性のようなモノを放たねばならないのかもしれない。
けれども、読者は多彩であり志向も疎らになっているから、ハズレを訴える人の声がオモテに出やすい。
さらに大声で叫ぶ力があれば正しかろうが無茶であろうがまかり通るという側面もある。
それは逆に、大賞を押す人の声も当然のことながら前面に出てくる。

早い話が大賞などそれほど当てになるとも言えるしそうでもないとも言える。

自分の好みや読みたい本であって、さらには感動できたり共感できるような作品は、多数決では決まらないし、他人には決められない。
大声で推薦したり金をかけて宣伝してればいいとも限らない。
書店員が薦めてくれてもホイホイとは選べない。
自分で読んで選ぶしかないというのが一番確実な選択手段となる。

ですが!!
宮下奈都の「羊と鋼の森」を図書館で40人待ちなのに予約したのだ。
借りて読むつもりはそれほどないといえばそうなのだが、ミーハーになってみたい面があるのと、非難ばっかりしてないで読もうではないかと思ったのだった。

40人×2週間の間も待てないので、「はじめからその話をすればよかった」というエッセイ集を借りてみた。それがドンピシャであった。

というところまできて、今になっている。

宮下奈都の「羊と鋼の森」を古本屋に探し行くことになるかもしれない。
でも我が田舎町のピントのずれた古本屋にはそんな本は出回っていないだろうな。

ウドもろて
ウド

今日の一冊

今日の一冊

というブログを見つけた

この人はどんなかたなのか全くわからない
けど知りたくなってくる ほどに

なかなか
こじんまりとしていながらも
そこそこどっしりと重みのある
とても魅力的なブログだ

読むことを楽しめるものが減っているだけに
得した気分だ

けど正体不明なのが残念
(想うほどに知りたくなる)

宮本輝 田園発 港行き自転車 (上)(下)

宮本輝 田園発 港行き自転車 (上)(下)
2016年4月21日

15年前に父が急死した地・富山で、父の足跡を辿る絵本作家の賀川真帆。東京での暮らしが合わず、富山に戻ってきた事務員の脇田千春。出会うことのないはずのふたりの人生が思いもよらない縁で繋がっていく、富山の美しく豊かな自然を舞台に描かれた長編小説です。人の思いの強さや、それによって繋がっていく人と人との縁…ぐいぐい物語に引き込まれていきます。

yuri mizutani さんの装画が素敵です。コレ

さて わたしの読後感想富山県を流れる黒部川にかかる愛本橋が物語に登場する。この端の少し下流に「墓の木自然公園キャンプ場」というところがありわたしは平成13年8月18日にここを訪れた。この作品よりも遥か昔、今から15年ほど前です。

その明くる日には周辺を走り回り道の駅でトイレを借りたしながら独特な景色と格別に違う風が吹いていると感じた田園地帯をブラブラと散策しながらバイクで巡った。ここで登場する愛本橋も走って通り過ぎた違いない。

だが、写真を見て思い出すことはできない。けれどももう一度行けば確実に記憶がよみがえる気がする。あのときにこの田園地帯で感じた風の匂いと水のせせらぎにここにしかないもの凄いパワーを感じていた。日記では言葉で明確にはしていないが、黒部の山々と小さな扇状地に漂う畏敬のようなものを確実に感じ取っていた。

もっとむかし、さらに15年ほど遡って1984年にも富山平野を横切っている。それはクルマで東北を目指した旅の途中のことで、高速道路は富山平野の中ほどまでしか開通しておらず、京都から走ってきた終点は滑川インターで、黒部川は一般国道である8号線を走って越えた。

川が急流なことはもちろんだが、有名な割には川幅がそれほど広くないし水が脈々と流れているわけでもないのに、どこか異色の景色を放っていた。それが石のせいだと気づく。しばらく考えているとわかってくる。山から急斜面を流れだした水はあっという間に海に到達するから、蛇行したり河原を作ったり、石が砕けて砂になるような緩やかな流れはないのだ。

二度目にこの地に旅してきたときにも初めて来たときの強烈な印象が蘇った。ただ、せせらぎに手を差しのべてその水の冷たさや美しさに触れたのは墓の木自然公園にテントを張った時が初めてだった。

この本を読み始めながら次第にそのときの感動が蘇ってきて、宮本輝が蛍川に書いた富山への熱情と合わせて、この作品の感動を整理しなくてはいけないなと思う。

そうすると、宮本輝が作品の書き出しで大きく息を吸って深呼吸をしたかもしれないような息づかいまでもがわたしの中に満ち溢れてきて、仕事で書いている4月号のメールマガジンのあとがきでも紹介をした。

宮本輝さんは「田園発港行き自転車」という小説を<私は自分のふるさとが好きだ。ふるさとは私の誇りだ。何の取り柄もない二十歳の女の私が自慢できることといえば、あんなに美しいふるさとで生まれ育った ということだけなのだ>と書き出しています。ちょっとしたきっかけで読み始めたこの作品は、富山県を舞台にして立山連峰と黒部川と富山湾を背景にした田園地帯と、この豊かな自然の中で織りなす奇跡的な出会いのドラマです。この作品の中には終始偉大な自然に育まれた豊かな心の人々が登場します。作者は冒頭で「自慢できる」という表現をしています

という具合に震えるようなものを感じ取ったのだった。

全てはこの書き出しにある。

作品は現代屈指のストーリーテラーである宮本氏が魔術のように人間関係を練り上げ、それぞれの出会いや事件の場面を絶妙に切り刻んで並べて、ヒトの真正面の生き方を宮本美学的に綴り、味わい深いドラマにしている。

TVや映画でのドラマではなく宮本氏が詩篇を意識したような風景や心の描写で、時には(いつものようにともいえるが、宮本流の)思わぬ展開や出会いで編み上げていってしまう。
作者はこういう複雑で、実際にはありえないような(ドラマチックな展開を)螺旋のようにもつれた関係や展開を味わい深く作品の中に散りばめた。

確かにいつものように退屈なところもあるのだけれど、それもお見通しかもしれず、作品の結末を構想しながら絶妙にあれこれを集約してくる。

書きはじめるときにラストシーンをはたして固めてあったのか、3年近くも書き続けながら熟成するものなのか想像の領域外だが、散りばめた感動を纏めて、幾 つもドラマを投げ出して走らせてストンと終わってくれるところなどにも、この人の真面目で哲学者で詩人でお茶目な面を感じる。

作品の完成度としては大雑把に真ん中(星3つ)くらいと思っている。新品を買ってきて手垢も付けたくないというような作品にはならなかったが、どんな一流のドラマや映画も寄せ付けない味わいを持っている。それはコレこそがドラマなんだというスリリングなものでもあり、人間の生き方へのひとつの提示であるのかもしれない。

「禍福はあざなえる縄の如し」と明確に引用をしていた作品もあるのだが、この作品では言葉自体には触れていない。螺旋の人生を送ってきた人だから書ける作品なんだろうと思う。

あとがきから
わたしは、螺旋というかたちにも強く惹かれます。多くのもののなかに螺旋状の仕組みがあるのは自然科学において解明されつつありますが、それが人間のつながりにおいても、有り得ないような出会いや驚愕するような偶然をもたらすことに途轍もない神秘性を感じるのです
本文から
好不調はつねに繰り返しつづけるし、浮き沈みはつきも のだが、自分のやるべきことを放棄しなければ、思いもよらなかった大きな褒美が突然やって来る

感謝をする − 穀雨篇 【裏窓から】

穀雨の季節を迎えた
田んぼに水がはられ弱々しい苗が揺れている
少し移動すると麦畑があって穂が出始めているのが分かる
刺々しい穂を見ると背中がはしかいような錯覚に襲われるものの
これから麦は色づき緑の水田と黄金色の麦穂の競演が始まる

先日ベビーベッドを従兄弟の家に借りにでかけ御礼のメールを打ったら返事に
「私たちを支えてくれる子供を育ててくれる若い二人に感謝します」
と書き添えられていた

夫婦が二人共にガンを患いこれからを手さぐりでありながらもしっかりと見つめて生きてゆくのだという揺るぎない姿勢が感じられる言葉だ

未来に引き継いでいくもの残さねばならないものをしっかりと見つめているのがわかる

♣♣

人は感謝をすることを誰からどのように教わるのだろう
教科書に書いておき教義をすることではない

人々が暮らす社会が豊かになり
経済的に不自由もなく成長してきた二十一世紀に
私たち二十世紀世代がかつて夢見た理想のような幸せな社会が待っていたのだが
それはとてもアブナイものもたくさん孕んでいる不安定な側面も持っていた

むかしの科学には存在しなかったかもしれないような概念で心が解析されてゆく

幸せが目指して来たものは豊かさとともに1つの理想を築き上げ手に入れるのだが
悲しい話ややり切れないことも幾つも起こり
新しい世紀の人達はさらにまた新しい理想を描きながらそれを求めてゆくことになる

せいぜい私たちが知り得るだろう二三十年先の暮しに続いている未来は
予期せぬことと想定通りの筋書きを縺れる糸をほぐして再び編むように続くのだろう

そのような誰もが当たり前すぎてじっくりとは考えもしないようなことを
実は見つめ続けることで未来を築く人への感謝の念が生まれるのではないか

誰も言葉にしない
今やそんな哲学者や詩人は姿を潜めてしまった社会であるだけに

歯がゆい思いをしている方々も多かろう
それが今なのだ