宮下奈都(その6) 神さまたちの遊ぶ庭

宮下奈都 神さまたちの遊ぶ庭
宮下奈都 神さまたちの遊ぶ庭
平成28年(2016年)5月11日(水)
基本が大事だという。スポーツをするときの指導者の言葉だ。当たり前のことが当たり前にできること。ファインプレーにしてはいけないとも言い換えることができる。

宮下一家は最寄りのコンビニまで37キロもあるという僻地へ山村留学に行く決意をし実際にやり遂げてしまう。遂げるということはファインプレーではなく普通に誰でもができるようにプレーしたのだ。

野球でもテニスでもラグビーでもサッカーでも、普通の処理を失敗なく必ず成功してさり気なくしていること、これはファインプレーより難しいだろう。

この作品を読んで詰まらないとか味気が薄いという人は、これからの人生でも努めて生き方を見なおしたほうがいいかもしれない。

少なくともこの物語は筋書きはなく、そこがオモシロイ。でも、正義の味方は悪役には絶対負けない約束に似たようなものがあるように、留学する主人公たちには突き抜ける勢いがあって、それ加えて、惹きつけていくモノがあるのです。

読書をしておそらく大勢の人が感じ取ったものは共通していながらも、言葉にまとめるにはなかなか手ごわかったりする。

あることを決めるときに1つの物差しあるいは多数決で決めた尺度で測っていこうとする社会、何かルールを作って見つめ合うようにしておく社会から、勇気を持って飛び出そうというのだし、心の何処かで一度は考えた夢の様な社会に、ワープするみたいに行く。飛び出した先は無法でもなければ、規範がないところでもない。人の理想とする夢の様なところ。なのにあらゆることを考えたり悩んだりしながら、留学することに成功した人はおよそ帰還するときも成功を喜んで帰るから、不思議なコミュニティーです。

しかも子どもたちと大人までもが浸っている日常を、どっぷりと感情移入して読ませてくれたのだから、言葉になってすぐには出なくても仕方がない。

宮下さんのペンはじっくりと観察しているはずで、間違いなくその節々で判断をしているのだけど、例えば子どもたちの心の揺れ動きを丁寧には綴っていない。育児日記ではないのだし報告書でもないのだからそれで良いのだが、いわゆるサバサバしている。それが余計に読者とこの村で起こっている現実との間の壁を半透明化しているのかもしれない。

チャンスの神さまの前髪の話、コンタクトレンズが凍りつく話、村の人は純朴と言われて憤りを感じ37キロのコンビニと30分の通勤時間のことを考察して一石を投じるところなどを読んでいると、決して脳天気ではない哲学者だ。(おっと哲学専攻だってね、なるほど)

時にはひょうきんを装い、天然であり、楽天的である。そんな人なわけ絶対にないことくらいわかってますけど、なかなかの役者だ。

そう考えると、このリズムとステップでこれからも宮下風のほんわかコミカルポエムのようなタッチで、リリカルな色合いでやさしい視線を絶やすこと無くドラマは続いてほしい。

多くの読者がトムラウシに出かけてみたくなるでしょうし、こんな理想のような暮らしに自分も飛び込んで行きたいと夢みるだろうな。

家族が仲良しでなくてはと最後のほうでポロリと書いています。毎日そのことに感謝して、うまく言葉にできずその言葉の本意をも間違って伝わらないように考えてみたりするようなことも(私のまったくの想像ですが)多かったに違いないが、さり気なくひとことで多くの読者に一番大事な自分たちのファインプレーをファインプレーに見せないように伝えているのではないか。

作品は1だけ書いて9は読者が考えてみようみたいな哲学書のようなものだったと思えるのだが、これもやはり先入観でしょうか、宮下さん。

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