スモモ成り父の形見や十六年

スモモ成り父の形見や十六年

父が逝ったのは平成10年(1998年)のことで夢のように私の前から消えてしまう。
あれからやがて20年を迎えることになる。

ヒトの人生とは考え尽くしたところで何も答えは出ない。
だが考えつくされてゆく。

生まれてから成人するころまでは父や母というのは居て当然という無意識のなかにある。
そんなふうにして大人に成長してきた人が大部分だろう。

スモモ
スモモ

私も例外ではなかった。
貧乏な農家の長男として(非常に古典的な宿命も背負いながら)東京に遊学させてもらい親不孝を鈍感に続けてきた。

ちょっと誰にも話さないような野望に似た夢を抱いていた時代があった。
「いつかはオヤジと」という言葉があるように  ─  ウチらには「オヤジ」「おふくろ」と呼ぶ方言はないが  ─  「いつかそのうちおとやんと」と考え続けて青年のころを生きていた。

二十歳を回って苦労をかけるのも限界に近づきそろそろ社会に出る時期が近づいたというころには切実に「いつかおとやんと飲もう」という気持ちも手の届くところに来ていた。
ところが、(油断のようなものだろう)自分の選んだ道は自分の手柄のように勘違いして三十過ぎても突っ走っていた。

社会人になってからその次の約20年間 ─  2ndステージで何かを実現させたかといえば勢いに甘んじていたのだった。
散々ヒトにお世話になっておきながらなんの恩返しもせずに生きていた。
今のナリで生きておれるのは自分の手柄なのだみたいな顔をして生きていた。

おとやんと話をしたのかと問われればそんな記録も記憶も殆ど無い。
何をしていたのか
キツネに抓まれたように貴重な時間や金を浪費した。
父とゆっくりと話をした記憶もない。

その大バカな人生の 2ndステージを10年ほど過ごし、33歳のころに京都から古里に戻るのだ。
だがその後の時代には、クルマで45分ほどという好条件であったのに、あまり家には帰らず、泊まることも滅多になかった。

そしてそんな20年という 2ndステージの終盤で父は夢のように逝った。

あれから18年が過ぎてしまっている。

「今年の初なすびを持って帰るか」
茄子(なすび)を袋に詰め込みながら
「スモモが成ってなあこれも持って帰り」
と母が袋に詰めてくれる。

トウモロコシが欲しくてそのことをいうと「あと二三日先や」と言う。

そんな気の利いたときにモノが思い通りに手に入るものか
親が死ぬときにも傍にいなかった者に──
と思ったかどうかはわからない。
18年前には何度もそう思っただろうがもう感情も風化したかもしれない。

「スモモの木をおじいさん(父のこと)が死ぬ前に植えてあってな それが二年ほど前から成るようになったんや 桃栗三年柿八年というやろ 桃と違うてえらい暇が掛かったわ」

母はそう言ってスモモを手のひらに載せきれないほどにくれた。

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