夕暮れの公衆電話ボックス

平成28年11月27日福島礼子さんカフェ日和(朝日)
平成28年11月27日福島礼子さんカフェ日和(朝日)

私が書き出して素晴らしい文章を濁してしまってはいけない
と思いながらも少し自分に言い聞かせるように言葉だけを

💚

銭湯にかよった時代の回想
風呂上がりに公衆電話ボックスから故郷に電話をする女性
念願が叶いそうだと親に報告している
洗面器を抱かえながら電話の順番を待つ
彼女の話を聞きつつ後ろ姿を眺めている
遠い昔の夕暮れ時の話

💚

福島さんは少しだけ歳上です
でも時代は同じと考えていいでしょう

まだまだ社会は未完成で
経済成長もこれからという時代だった

大学に進学することや
都会に働きに出ること
もっと言えば
企業というところに勤めに出ることなどにも
手探りの時代だったわけです

一人で都会にいる責任の重さのようなものを背負い
未来にかけた大きな夢を抱きながら
時には孤独と闘い
時には羽ばたく自分の姿を大きく描き

一生懸命に生きていた

したたかな若者がそこらじゅうにいて
みんなが目に見えないもので繋がり
守られて未来に向かって歩んでいた

現代の若者にはわかってもらえない歯がゆさと
そんな幸せに守られるような社会にこれまでを導いてきたという自負と
目に見えないこの先の不安を胸に

静かに回想をする大きな頷きのようなものを感じます

広告

京都日記(裏窓から) 小雪篇 果てしないもの

11月22日は小雪
これを書き始めた日には既に過日となっている

秋がくれるのが些か早いような気もしたいた
それは毎年思う気のせいみたいなものであろうと自分に言い聞かせるように思いながらブルリとくる朝もジーンと冷える夜も襟を立ててやせ我慢をして11月の下旬の日々を送っている

その小雪の午後二時間ほどの休暇を取って夕方から京都へ向かった
お父さんのところに帰る前に懐かしの居酒屋で晩酌をしながら更けゆく夜を二人で過ごした
お勘定が二人でドンピシャ5千円となったことをちょっと驚いたりしながら嵐電に乗る

あくる日 23日
京都の秋の朝の寒さはピリッと冷たいかもと恐る恐る布団から出てみるものの時雨雲が空に散らばっていたせいもあってかそれほどでもなく肌寒さが少しあるので厚めの服を着て折りたたみの傘を一つ持って出かけた

有栖川車庫でバスの一日乗車券を買いそこから三条河原町まで京都バスに乗り三条河原町でモーニングコヒーを飲んだ
三条通りにもコメダがあってせっかくここまで来たのにコメダは避けたいなと言いながら三条京阪のバスターミナルまで歩くのだが、銀閣寺を経由して白河に行くバスが激混みで到着するのに呆れて、次を待っても乗れる保障がなかろうと判断し、これを避けて北大路経由で北白河へと向かうことにした

去年の秋は一人で高雄に行き散り果てた紅葉のあまりの見窄らしさに落胆して、帰りに仁和寺に寄ってきた
今年は二人で散策しようと気持ちが一致した
昔から行こう行こうと言いながらも行けずにいる曼殊院と、ツマの母校が移転した跡地界隈も歩いてみようということになって、二人とも張り切って足を伸ばしてみるつもりでいる

曼殊院から圓光寺門前、詩仙堂、八大神社をへて宮本武蔵の決闘の地でも有名な「一乗寺下り松」跡も立ち寄る
一乗寺の山々は尾根から斜面へと一面が赤や黄色に染まり京都の市街地を見下ろしている

京都にいた時間が長かったのにずっと嵯峨嵐山界隈で過ごしたため鴨川のほとりにはあまり行ったことがなく修学院方面から北大路へと向かうバスは観光気分で愉しめる

ツマの母校跡地になっている市内のど真ん中・烏丸通は地下鉄が開通したのでバス路線が廃止されていて古い町を訪ねるためにはバスを乗り継いで行かねばならないのだが、それがまた新鮮で楽しい

ツマは市電が走っていた時代をしっかりと記憶しているのでバスに乗るたびに200番台は市電の路線を走るバスだと懐かしんでいる

市内のその場所に昔の面影がどれほど残っていたのかは私にはわかってあげることができないが、いくつかの路地を歩くと御所まで辿り着けて、そこにある長くて変わることのない歴史とそれを守ってきた建物の重さを感じながら、イチョウの葉の舞う参詣道をゆっくりと歩く

激震するように大きく時代が変化して各国からたくさんの人々がやってくるようになった古都だが、流行を掴み損ねまいとして華やかに飾っている古都のなかに表と裏があって、立ち止まった路地で風景や人などのそれらに出会えると、数え切れない文化の位相(あるいはそれは波動と呼んでいいのかも)のようなものを感じる

それは人の(人間の)心理や哲学にも共通する遥か未来へと続く果てしないものなのだ

こぼれ落ちる一年の垢 (裏窓から)─ 立冬篇

┏┏┏┏      巻頭

立冬を迎えたすぐあとの9日未明、東京では木枯らし1号が吹いたとニュースが報じており、なるほど、風の強い寒い日でありました

海に出て木枯帰るところなし 山口誓子

当県で暮らした経験がある山口誓子だからこそ生まれた句でしょうね、伊勢平野で暮らす人たちならば、冷たく強い北風の凄まじさは容易に思い浮かぶことと思います

内田百閒が次のような句を詠んでおり、これも凍えるような寒さが伝わります

汽車道と国道と並ぶ寒さ哉  内田百鬼園

今でも私は汽車道という言葉を好んで使います

JR通勤はディーゼルカーで、電車ではないから…みたいな理屈っぽいことを言うつもりはありませんが、小学校の高学年ころまでは暮らしの中に煙を上げて走る汽車がいました

汽車道というのは、冬枯れの田んぼの中を突っ切っていまして、案外と駅までの近道であることが多くて重宝するのですが、百閒は汽車から国道を歩く人を窓越しに見ていたのでしょうか

今の季節は、ふだん利用するJRの車窓からは遠くに青山高原の風力発電が見えて、間近には枯れ色の大豆の畑が広がっています

次にこれを書くのは12月です 早いものですね、暮れてゆくのは

┏┏┏┏      あとがき

巻頭を書きながら、容赦なく伊勢平野を吹き荒れる木枯らしのことを思い浮かべていましたら、やっぱし、おでんが食べたくなってきました

今年は気候不順の影響で野菜が高いようです

大根と白菜は農家では欠かせない冬の野菜ですが、農業の盛んな県であってもどこの家庭でも裏に畑があって野菜が収穫できる訳ではないですから、スーパーマーケットの地産地消コーナーを覗いてお鍋の献立を考える日が続きましょうか

11月中旬をまわるとトントン拍子に寒くなってきます

毎年口癖のように「今年の秋は短かったなあ」って呟きながら年の瀬を迎えます

ほどけゆく手紙の中の焚火かな  西原天気

木枯らしが一休みする穏やかな日には、師走のあわただしさを迎える前に、ちょっと部屋の片付けでもしようかな、という人もあるかもしれません

年賀状の準備もして不用になった小物を整理して…

ほろりと出てきた写真や手紙などひたひたと読み耽ってしまうのも秋の暮れです

鶴さん その後

おゆうはんを食べていつものように寛いでいたら
1通のメッセージが届いて
ホイと開けると驚く人であった

(香港にいる)鶴さんのお兄さんからだったのです

ものすごく激しく驚きながらも血が引くように冷静だった

ずっと昔に出した私からのメールに気づき開封してくださったらしい
そのことにホッと一息つきながら次の展開にも期待を膨らませたのですが
しかし 読み進むとそれは無情なものでした

一行ずつ読めば
(この手紙のように)捉えるのが正しかろうな
と私も同意する
つまり これで終わった としっかりとピリオドを打たれたわけです

喜びも悲しみも湧き上がっては来ない 極めて冷静な感情でした

🔷

メールには

過去の経緯は何となく分かりました。然りとて、彼女には言うつもりは全く有りません。次男坊が今年5月に会社の研修で香港に来てまして一緒に食事しました。子供らの成長は、頼もしいものです。日本の、そして世界の明日を拓く力になるのです。 まあ、昔の思い出は心の奥深くにしまいこんでしまいましょう!!

と書いてありました

お兄さん宛てに、私はある時に手紙を書いたのです
それがいつの頃のことかさえも記憶にも記録にもなく
そのとき書いた文面も
「届かないメールなど保存しておいてももう不要だから」
という理由で削除してしまっています

何を書いたのかは思い出せない
お兄さんを Facebook で発見して瞬間的に手紙を書こうと思いついたのでしょう
どうしても連絡を取りたかったのでしょう あのころは

私がその後どうしているか
あの人がその後どんな人生を送ったのか
思い浮かぶ人それぞれの人生模様を想像しても
今は連絡先さえわからないし
連絡先や住所らしいところを見つけて手紙を書いても音沙汰もない
結婚をしましたと連絡をして以来パタリと便りが来なくなったからね
とツマがいうくらい潔くて清い性格なのでしょう

そういうジレンマの中で 少しだけ期待を持って
お兄さんに手紙を書いたに違いない
と思います

もらった手紙に
簡単なお礼を添えて返事を出したいと思います

何を書こうか
今から考える


まず最初にお礼を申し上げます。
お返事をいただきどうもありがとうございました。
感謝します。

私がFacebookでお兄さんの名前を見つけて 多分必死の思いで書いたのでしょうが 何を思ったのか 何を期待したのか 曖昧になりつつあります。

音沙汰もなかったので、それは無理な話だったのだと思うことにして 送信簿を削除して整理してしまいました。

あの時に(何時のことかも記憶も記録もないのですが)何を考えて どんな文面を書いたのかは覚えておりません。恥ずかしいことを書いていなければ良いのだがとそれだけを思っております。

私が結婚をすると連絡を入れたら パタリと連絡をくださらなくなったので (私の妻が言うには)「きっと潔く澄み切った人なのだろう」と 私の記憶からは薄れていきましたが。

次男さんがと書いてられるので結婚をして子供があるとわかります。
お母さんの面倒みるのでそれが一番大事なのだということを あの頃にはよく話していたので心配をしたりしていました。

自分のその後のことや鶴さんのその後のことなどを 同窓会のように屈託無く、話が聞きたいと私は思ったのでしょう。地震の被害はどうだったのかなど 考えれば次々と思い浮かんで来ます。

こうしてメールをいただいたのが11月で 鶴さんの誕生日が13日であったことを思い出しました。
私がちょうど10月13日なので それだけが理由で記憶に残っているのだと思います。
おめでとうござます。

私はこれまで、今に至るまでに膨大なみなさんにお世話になり 励まされ 叱られ 怒鳴られ 諭されて 生きて来ました。東京時代に膨大な恩や薫陶を受けた人が何名もあります。

その人たちにきちんとお礼を言えていないことが最大の悔やみなので 彼女にも短い日々にお世話になった 数々のことに しっかりお礼を伝えたい。

今はそう思っていますが、声は届かないとしても お兄さんにこうしてお話ができたので ありがたく思っております。

それこそ何かで万一機会でもあれば、一言お礼を言っていたとお伝えください。
どうもありがとうございました。