憎しみや悲しみというものは 赦したり忘れたりできるものであろうか

一月尽

数々のいじめ報道のニュースを見ても電通の過労死事件においても茶番劇のように思えてくることがある
もはや、私は冷めてしまったのだな、という寂しい感慨を抱かざるを得ない

だが、決してこういった事件自体を突き放しているのではない
当事者のみなさんと同じように悔しい思いを持ち憤りを感じている
重要社会問題として捉え、今後の解決課題として必須であろうと思っている

しかし
メディアの御都合的報道では事の本質には何も迫れないとも思うとやるせない

報道メディアは仰々しく正義を見せて大衆に呼びかける一方で
茶番劇のようにしか見えてこないのには理由がある

それは
これらの事の実態はもっと泥臭く水面下は膨大な氷山であること、
これらの事件の陰や裏には悲惨な思いをした人たち一人一人の届いてこない無数の叫びがあること
などを丁寧に掘り下げるべきなのだ

わかっていながら追求しようとしないから歯がゆいのだ
どんな些細なものであっても切り捨てて消滅させてはいけない筈である報道メディアが
弱者のスタンスにまったく寄り添っておらず
弱者の世界での声を聞こうともしていないように思えてならないのだ

だから、冷めて見てしまうのだろう

🍀

事件の裏や陰には無数の声や叫び、怒り、悲鳴、嘆き、泣き、諦めのつぶやきが必ずあったに違いない

私が「パー」で大馬鹿な会社を辞めるときにも周囲では同様の声があった
身近な人が叫び、もちろん私も叫んだ
しかし、それらは誰に注目されるわけでもなく、どこにもオモテに出なかったのだ
報道は大勢の言い分を筋書き通りに書いただけで
社会の枠の外から高みの見物をする人たちを楽しませたに過ぎない

社員およそ10万人のうちの約3万人近くを
「自主退社」とか格好・体裁がよい「人員整理」という形で 処分したときにおいても
どれだけの人間が叫んだのか、誰も知らないままだった

声は誰にも聞いてもらえることなく時代は幕を閉じて新しいステージにすり替えられてしまった

🍀

現代でいう差別やいじめの陰湿さやえげつなさを考えてみると
それが氷山の一角であることくらいはどんなに鈍感な人でも推測できよう

電通の過剰労働の事件、世間を騒がすブラック企業の問題、いじめやそれに伴う自殺事件にしても
実際にはもっと深くて大きな世界で想像以上に泥流やドロドロとしたものが蠢いている

人殺し、惨殺は人道に背くことは自明であるが、それよりもいじめは無残で非人間的である
にもかかわらず、世の中ではそれ以上の悲惨で卑劣ないじめや強要、誹謗、中傷、差別、迫害などが起こっている
人と人との繋がりのある箇所にはもれなく非人道的な行為があると考えて間違いではない

これらは一瞬のうちに人を殺戮する残酷さとはまったく違って
石川五右衛門の釜茹での刑罰や五条河原に生首をさらされることのように
さらには、隠れキリシタンが受けた穴吊りの拷問のように
えげつないものであるのかも知れない

人が人をピストルではないもので攻撃するときはとても卑劣なものになる

何故ならば
それはまっとうな人間が社会の安泰としぬくぬくとしたところから
非人間的に行う(動物でもしないような)許されないような行いであるからで
ピストルというような明確な武器を使わない分だけ陰湿で卑劣になりやすいことを特徴付けている

いじめや過剰労働の強要、ブラックな就業体制など、
人間の醜い行為は、従来の刑法と言う枠をすり抜けるようなものの連続で
動物の世界にはおそらく存在しないものではないか

🍀

最初に書いたように
私はもう冷めてしまっている

いわゆる大企業を渡り歩いて技術者として名誉・地位・お金を得て
悠々に暮らしてゆこうと考えたことの土台からが大間違いだったと
気が付いた時には半世紀が過ぎていた

温度差がある「ヒト」と「ヒト」との関係
毅然と尺度が異なる中での歩み寄りやら繋がり
または社会での共存・共栄の考えに
もう今更何を言う気もない

それが今である

恨みがあったらあの世に行ってから
化けて出て果たすしかないだろう
と笑い飛ばしている

父が逝った十九年前のこの季節、大寒が過ぎて舞った雪も凍えるように冷たかったが
いつの時代になってもこの季節は寒いもので
あのとき逝った人は凍える土の中であの世の三途の川を渡ったのだろうかと思うと

憎しみや悲しみというものは
赦したり忘れたりできるものであろうか
と改めて思うのであった

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寒くて静かな夜明けに考える - 大寒篇 【裏窓から】

大寒を過ごしてそのあくる日・土曜日から父の命日である22日・日曜にかけてムスメとの用事を果たしに京都へと出かけた

その日の少し前14日から15日には猛烈な寒波が列島に襲いかかり至る所で大雪の記録を作っている
センター試験とバッティングして受験生のみなさんは大わらわなことになったりした
そのときに降った雪が市内の路地や道端に残っていた

積もった雪を見るのはこの冬初であったので子供のような心でちょっとした歓びも肌に感じながら洛中を横切って車折の家へと向かった

私たち夫婦は初雪を見るような驚きや自分たちの住む地が雪国でないことの有り難みを感じつつ昔住んだ京都の寒さや結婚する前年の大雪を思い出として懐かしんだ

伊勢平野は風が強烈に冷たいので伊勢たくあんなどの名産も作れます
ですが、冷たい風がきつい割には気温はそれほどまでに下がることはありません
氷も張らない日もあります

しかしながら、さすがに雪が降り積もり、近隣地域の山々に一週間以上も雪が残る日が続くとなると寒いです
空気は冷え切ってしまい、重くて大きな冷気団が体当たりをしてくるようなエネルギーを感じます

🍀

成人式のころから本格的な冬になっているわけですが、しばらく辛抱したら抜け出せる日も例外なく来ます

京都の家も朝にはしんしんと冷え込みました
その朝方に隣で寝ていた孫が早々に目を覚まし布団から這い出て来たので抜かりなく捕獲して私の布団に引き入れました
添い寝をしながらごっそりと布団を頭からかぶって指をくわえて目を閉じている赤ん坊を見ていましたら、漠然とですけれども、あることがふ〜っと思い浮かんできたのです

それは、この子の記憶はまだ真っ白なのだということです
上手に表現ができませんけれども思っていることは伝わると思います
でも、それがどうだと反問されても困りますけど

脳みその中の真っ白な記憶領域に目の前に映ることを少しずつ焼き付けている毎日が続いています
記憶する能力もまだまだ未熟です
能力を磨き上げなからそしてセンサーも上達しながら目の前に映るものの他に、味覚・聴覚・触覚から飛び込む情報を処理している
ものすごいスピードで細胞は増殖し続けているはずです

この子は暗闇の中で指をくわえながらピクピクと体を動かしつつ
脳みその中のスクリーンのうえにどんなものを思い浮かべているのでしょうか

チョコ
チョコ

生きることの神秘性を感じ
ヒトの脳の無限な凄さに驚き
心理が発達してゆくメカニズムも面白く
肉体的な成長に目を見張る

この世のあらゆるものが時々刻々と変化をし
自転をし
増殖を繰り返す
一方で
普遍性を保ち泰然とするものもある

そんな無数の波の上で浮沈を繰り返し漂うように生きてきたひとつのステージが幕を下ろし
新しくなり再び幕を開けようとしている

便利さと豊かさがもたらすもの ➖ 小寒篇 (裏窓から) 

🍀 便利さと豊かさがもたらすもの

人工知能という言葉をよく耳にする
学生の頃(1975年-82年頃)にそんなことを夢見たが
世の中は振り向かなかった
先取りしすぎで 人工知能学会でさえ数年後に発足したのだから
当時は現実味のない分野だったかもしれない
目指す定義も変化した

わたしは 人間の行動を人工知能という一つのシステムでモデル化することを夢見た
行動科学や認知心理などの方面と医学生理学(脳科学)と情報科学とを融合させるような夢を描いた
コンピュータの性能が格段に向上し夢自体が別のものを目指すことができる世紀を迎えて
わたしが当時の論文に書いた人工知能は歴史上の幻となった

♦︎

必要は発明の母である

しかし便利さと豊かさに満たされた今では必要(や欲望)などは必ず叶うもので
テクノロジーの進化で必ずや実現されてしまうものである

今では発明は必然であり 夢としての姿を もはや抱く人もなく薄れている
ヒトの不満や要望を叶えて自動車の高性能化はますます進む
けれどもヒトはそれをコントロールできずに暴走させることがある
人の心もそれを抑制できずに高速状態での事故を起こしたり
ゲームや酒を抑えることができずにいる

きっと人工知能は人の住む社会をとても便利にするのだろうし満足させるはずだ
だが一方できっと想像を絶するような愚かでアホなことを当然のようにして反省も起こらず事件を必然にしてしまうだろう
知は僅かなマイナスを押し切ってプラスを誇る

原発や戦略兵器がそうであった
情報化社会というシステムの総合体も似たようなもので
視点を変えれば人が生んだ愚かなモノだといえないか

荒んで歪んでゆく人の心を救うことができず傷ついた人を(あるいは心を)綻びを治すように繕うだけだ
やがて
人の住まない街で信号機が動き続けような
荒廃した未来が来るようなドラマじみた風景を想像してしまう

便利さがもたらすものは一つ一つを取り上げれば豊かで幸せなものである

経済は発展し物質文化はスパイラルのように向上する
一方で
間違いなく人間から人間らしさを奪ってゆき
人間から人間らしい能力を引き抜いて潰していってしまう

🍀 困った時には鏡を見る

わたしは成人のころの日記に度々こう書いた
さほど深い意味はその時にはなかっただろう

♦︎

新年にふとしたところで思いつき的に
「常に遠くから見るという視線(眼力)を持って邁進してください
困った時は一歩さがってモノを見る
見えるところまでさがってみるのも勇気」

と書いた

この言葉はありふれた一般的なものであろうが書いたあとで派生する異なることを考えていた

<大きな流れを泳ぎ渡るときに父(オヤジ)の背中と言葉を思い出してください
きっと最初の大きな壁のときにはその人の言葉はチンプンカンプンであるとか意味不明とか時には反発のことがあると思いますがこれが珠玉の金言に見えてきたら相当に一人前に近づいていると思っていいのではないでしょうか>

このわたしの意見はその子に届けることはできなかったがいつかきっと彼も気付くだろうと思う

困った時には鏡を見る
これは鏡に映った自分自身を見つめるのではなく
自分をここまで作り上げ導いた人の情熱をじっと静かに振り返ることなのだ

あの時の父の言葉が蘇ってくるようになれば一人前に近づいてゆく兆しだ

🍀 地震・雷・火事・親父

小寒から成人の日の間の頃になると父の命日も近くなることから様々な後悔や懺悔のことが多くなる
全く幾つになっても進歩のない爺爺ぃである

若い頃とは打って変わって
考え方や生きる姿勢の舵を大きく切った
義理人情の義理などは糞食らえと暴言を吐いていたことがあったのだが

このごろは 義理がこの世を渡る人の心得の中で最も大事なことなのだとまで言う
義理を果たせないような奴は人の屑だ
果たして初めていっぱしの人の道を歩む資格ができるとも言う

最初に書いた「地震・雷・火事・親父」という言葉における自らの対峙の仕方も変化してきている

去年は地震も雷も火事も災害をもたらした年であった

怖いものは怖い
親父なんてものは怖くないと思っていた時もあった
今でもそうでもないのかもしれない
逝ってしまって二十年も経てば鬼ような怖さは全くない

世の中の最も怖いものがわたしを睨みつけているとするならば
その後ろでもっと怖い眼で睨んでいるような気がするのが親父ではないか

若者よ 心に鬼を棲ませなさい

消えていくもの - 元旦号 (裏窓から )

🍀 (年末雑感) ー 言葉が消えてゆくこと

「ぬくたい」「 ひやかい」「よぼる」「いる」という言葉が消えつつあるのだと実感する
「よぼる」は「呼ぼる」であり、「いる」は「はいる」ことでお風呂に「いる」というように使う
ふと自然に使ってみて、近頃こんな言葉を話す人を見かけなくなったと閃くように思った

*

わたしの前で祖母ー孫(わたしの母と娘)が話をしているときに祖母の問いに
「ええ?どういう意味」
と聞き返しているのを見かけた

言葉に多少の不明点があっても大抵は想像で話が進むものだ
しかし
このときには何を話されたのかが全くわからなかったらしい
(書き留めず忘れたのが残念)

暮らしの中の物であれば見れば理解できるので話しは続く
しかし
モノの考え方であるとか振る舞いは想像では解決できないことがある

一緒に暮らさず、日常生活品に違いができると
昔ながらの暮らしを守る人と現代人の間には
自然にギャップが出てしまう

言葉も食い違うようになり
会話が成り立たなくなってくる

テレビ文化の侵略で地域文化が消滅してしまうかもしれず
全国レベルで暮らしの中にある言葉が一般化され共通化してゆき
さらに合理化が進んでゆく

異なった生活圏では文化の浸透度合いから温度差が発生して
非常に身近なところで(すぐ隣の空間でありながらも)大きな溝が生まれている

♠️

溝が生まれていることや
或る時代のものが消滅してゆくことに特別な寂しさ
(ときには怒りに似たもの)を感じる人は多いだろう

消えてゆくのも文化の変遷の流れなのだと言えば
消滅させてしまう側をいまさら責めることはできない

そのことに危機感を持つ人はどんどんと消えてゆき
やがてゼロになるだろう

消えていいのかという問いは
投げかけないことにしている

何千年もの昔へ遡って想像してみると
新しいものが生まれるときには
消滅させてしまう次の時代に怒りを持った人が
必ずいたのだと想像できる

この怒りを歴史として伝えた歴史上の人物は偉い
そう思う

🍀 雑感その2

修行という言葉が消えつつある
言葉の意味は、ストレートに行を修めることだ

若くて実力のある人が社長になり事業を進めるケースがある

頭が良く、キレもあり、知才も備え、人脈もある

社会と広く交流をし
大きな流れもしっかりと捉えることができ
将来を的確に見て構想を立てることができ
苦難に出会ってもチャンスに出会っても瞬時に正確に判断ができる

何かが足りないとすれば修行が足りない

早朝に井戸の水を汲み上げにいく行いを千日、二千日続けるようなことを言っているのではない

玄関を毎朝掃き清めて綺麗にし
社長の草履をきちんと丁寧に揃えて
来たるべき時を待つ日々を千日続けることでもない

ただわたしは古い人間なのだろう

温室で十分な栄養と人工の光で育てられた促成栽培の野菜と
大きな大地の畑で自然の光を浴びて育ってのちに収穫された野菜とで
どちらかを選ぶとすると
促成栽培は選ばないと思う

促成栽培の方が格段に美味しくて栄養があって綺麗で整っていても
大地の畑の野菜を選ぶような気がする

人の器とはどんなものだろうか

現代科学や経済理論さらには精神科学や行動科学が
より完成されたニンゲンを開発し続け
都合のよいキレる人材を育成してきたことは
ある側面で反省するべきことであろうとも思え

しかし誰も咎めないから
何も指摘できないし
どこか間違っていると思うのだが
主張もしない

しかし確信はある

ねがはくは花のもとにて春死なむ ─ 元旦篇 (裏窓から)

🌸 ねがはくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ 西行

年末のある日ツマと二人でおせちもどきの料理をつつきながらツマが突然「春には桜の花を見にまた嵐山に行きたいな」「死んでしまうときには桜の花の下で春に死にたいわ」というようなことを言うので驚いた

西行の歌を知っているかと尋ねたらそんな歌も人も知らないと言う

ちょっと西行を知らないのは勉強不足かと一瞬思うものの、今はそのことを指摘するための時間でも会話でもなく

この人が何故にそんなことをふと言いだしたのかが気になって私はそのわけを考え始めた

考えてもわからないことはたくさんある

ツマになぜ急に「花の下で」などと言い出したのか

尋ねたとしてもそんなものはわからないし考えようともしないと言うに決まっている

答えのないことをいつまでも問い続けその源流を探り続けることは人生の合理的に歩むという視点では全く無意味なことになろう

答えがないのにぐずぐずと考えるなど愚か過ぎると言い切る人もいるだろう

しかし

答えのないことにも根拠があるはずであるし本当は答えだってどこかに潜んでいるはずだ

見えなくなっているとかぼやけているとか邪魔が入って見つからないだけだといえるだろう

答えのない命題は、しかしながら、私たちがごく当たり前のように生きてゆく時間の中を漂い、人生という洋上を航海する私たちに無数の悩みや欲や希望や夢を及ぼし刺激もする

つまり例えば、無数の夢が無数の夢と結ばれれば「無数×無数の場合」が生まれるわけで、それに喜・怒・哀・楽の4つのケースを当てはめると「無数×無数×4倍」になる。現在・過去・未来を考えればさらに×3倍、憎しみと慈しみがあればさらに×2倍、富める人と貧しい人でさらに×2倍、忘れるものと忘れたくないものでさらに×2倍、男と女とどちらでもない人でさらに×3倍・・・

答えがないように見える問いかけを考え続けるのも人生なのかもしれない

たぶん大晦日の夜の闇を見つめて眠りを待っている時刻にはそんなことをぼんやりと考えていた