ねがはくは花のもとにて春死なむ ─ 元旦篇 (裏窓から)

🌸 ねがはくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ 西行

年末のある日ツマと二人でおせちもどきの料理をつつきながらツマが突然「春には桜の花を見にまた嵐山に行きたいな」「死んでしまうときには桜の花の下で春に死にたいわ」というようなことを言うので驚いた

西行の歌を知っているかと尋ねたらそんな歌も人も知らないと言う

ちょっと西行を知らないのは勉強不足かと一瞬思うものの、今はそのことを指摘するための時間でも会話でもなく

この人が何故にそんなことをふと言いだしたのかが気になって私はそのわけを考え始めた

考えてもわからないことはたくさんある

ツマになぜ急に「花の下で」などと言い出したのか

尋ねたとしてもそんなものはわからないし考えようともしないと言うに決まっている

答えのないことをいつまでも問い続けその源流を探り続けることは人生の合理的に歩むという視点では全く無意味なことになろう

答えがないのにぐずぐずと考えるなど愚か過ぎると言い切る人もいるだろう

しかし

答えのないことにも根拠があるはずであるし本当は答えだってどこかに潜んでいるはずだ

見えなくなっているとかぼやけているとか邪魔が入って見つからないだけだといえるだろう

答えのない命題は、しかしながら、私たちがごく当たり前のように生きてゆく時間の中を漂い、人生という洋上を航海する私たちに無数の悩みや欲や希望や夢を及ぼし刺激もする

つまり例えば、無数の夢が無数の夢と結ばれれば「無数×無数の場合」が生まれるわけで、それに喜・怒・哀・楽の4つのケースを当てはめると「無数×無数×4倍」になる。現在・過去・未来を考えればさらに×3倍、憎しみと慈しみがあればさらに×2倍、富める人と貧しい人でさらに×2倍、忘れるものと忘れたくないものでさらに×2倍、男と女とどちらでもない人でさらに×3倍・・・

答えがないように見える問いかけを考え続けるのも人生なのかもしれない

たぶん大晦日の夜の闇を見つめて眠りを待っている時刻にはそんなことをぼんやりと考えていた

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