恩田陸 蜂蜜と遠雷

(ともだちに書いたメールでは)

読み終わったけど 確かに良かったけど
みんな大絶賛してるのが 共感できずに 少し沈んでいます

感想を纏めながら今日1日を過ごすかな

確かに直木賞だけど
恩田魔術にハマってないかな みんな
今はこういうのが 作品として輝いているのかな

モヤモヤな読後
考え込んで 布団の中
言い訳

恩田陸さんは合わなかった
というわけでもないと思っているんですが
高級で豪華なホテルのコース料理を食べに行ったけど
完璧満足というわけではなく
あれが美味しかったという印象もなく
もう一度食べたいというのもなかったままやなあ
というような感じかな

同じアヤさんという人が登場する
赤目四十八瀧心中未遂 (車谷長吉)
のことをずっと思い浮かべていて
あの作品は直木賞の中の最高の傑作と思っていますので
余計に物足りなかったのかもしれません

恩田さんのこの作品は
感動的なところもたくさんあったし
ドラマチックな流れもあったし
作者の腕を見せているところもたくさんあったけど
美味しい料理じゃなかった・・・みたいな

恩田陸 蜂蜜と遠雷
恩田陸 蜂蜜と遠雷

(さらに続きを)

恩田陸を考え続けていて
Y先生にもメールで感想を伝えて
返事で

「蜜蜂と遠雷」、合いませんでしたか…あせあせ(飛び散る汗)
あんなに分厚い本を読んでもらったのにねぇ

と慰めてくださったんですが
私はモヤモヤとしていて
あんな感想【BOOKs 】を書いているのです

けど

心を切り替えて
宮本輝の満月の道( 流転の海 第七部)を
鞄から取り出してふたたび続きを読み始めると

恩田陸のモダンなタッチと違う
宮本輝のしなやかさのようなものに
再会するのです

宮本輝を読んで今までには一度も思ったことはなかったのに
谷崎潤一郎をふっと思い出すような宮本輝の物語の作風であったりして

ここに戻ってきてみると

私がモヤモヤしていたのは
恩田陸のこの作品の良し悪しではなく
味わいの違いに旨味を感じられなかった
としか考えられない

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ともだち-春分篇 【裏窓から】

友だちは大切だという
大切には変わりないが


これまで散々世話をかけたりまた心の支えになってもらったり
ときには人生への訓示となるような話をもらったりしながら
友だちに支えられて生きてきたわけである

しかしここに来て
そのような間柄にあった友だちとは一体どういうものなのだろうか
と考えさせられることがこのごろ多い

それは「果たして」という自問から始まってゆく

友だちって掛け替えのないもので何よりも大切なものです
という声は当たり前のように聞く

「果たして」の正体とは何か

ほんとうに大切なものなのだろうか
とい疑問が湧いてきたあとに
その自問に自責の波が覆い被さる

🍀

友だちのおかげでこれまで生きてこられた

つまりそのことに感謝をする一方で
その人たちは人生において
寄り添いながらも掛け替えのない大切なものなのだろうか
いつまでも燦然と輝く宝のようなものなのだろうか
と再考している

🍀

今を生きるのが精一杯で
暮らしにゆとりを失い
お手本のような人物になれるわけでもなく
毎日を生き抜くのに必死で
明日からの日々に遭うかもしれぬ予期せぬインシデントに
怯えながら私は生きている

そんな私から周りを眺めれば
押しなべて
富める人と富めない人の両方を見て
考えることができる

十分に幸せに毎日を送り
暮らしにゆとりがあって
まっとう日々を過ごしている人は
この先を読む必要はないだろう

問題なく暮らしている人がいる一方で
正反対の暮らしをしている人がいる

不安定な日常を刻々と送り
金のやりくりも苦心して
それなりに我慢をしながらも
いつか夢を叶えるために
無心に頑張っている人がいる

その人たちは言葉にしてしまえば
寂しい日常でありながらも
気持ちを切り替えて
元気を出して
哀しみは見せずに
生きている人たちだ

幸せな人の声が
(ネットやSNSでも)
自分の耳にい届いてくるのは
幸せな人が自分の幸せなことだけを
あちらこちらで呟いたり
吐き捨てたりするからであって

その反対座標の先には
言葉にならないため息が
おそらく掃いて捨てるほどに
たくさんあるに違いなく
それらはじっと堪えて
噛みつぶされているに過ぎない

🍀

友だちや先輩やかつての同志などにも
随分と会わない日々が続く

お互いが叱咤激励し合いながら
ときに競い人生を着々と歩んできた過去があった

アクティブに変化をしていたあのころの興奮から
煮え滾っていた熱気を急速で冷却してやり
俯瞰的に振り返って眺めてみると
もはや遠い存在のようになってしまっている友だち像が見えてくる

或るときは遠くから
あるいは近くにいて
刺激し合い支え合った仲だった

富める暮らしならば筋書きどおり
けれども
貧しく不幸な人生を送っていて
何も力になってやれない人物がいると
(まさにそれは自分自身であるかもしれないのだが)
無力を感じる

詰まりは
友だちなんてのは触媒にはなるのだけど
中和剤や解毒剤にはなれないのだ

🍀

ある種の隔たりや格差や不運が
さらには仕事の都合で遠くに住み
家族ができて疎遠になり
やがてお互いの距離が遠くへと離れてゆくのを
感じるのは仕方のないことなのかもしれない

不幸にみえていても幸せなこともあれば
幸せにみえても悩みを秘めていることもあろう

春分の日の車窓から
春分の日の車窓から

こんな世の中だからなのか
自分が生きるのに精一杯だからなのか
他人は他人と割り切っているからなのか
それって自業自得だろうと思っているのか
世の中を生き抜くのは金だと思っているのか
負け犬にはなりたくないと思っているのか
今を燃え尽きようと思っているのか

・・・

🍀

そんなふうに
友だちは
幸せなときは幸せなりに幸せを装飾させてくれた

けれども
今の自分自身に化学変化を起こさせてまで
何かに近づこうとはしないから

だから
友だちってのは
もう役目を終えているような気もするのである

🍀

行き着くところは
自分を映した鏡の中の自分であるような
逃げ場のない一瞬であり
睨み合う自分の姿なのだ

3月のなかごろに考えていたこと

3月16日
33回目の結婚記念の日の頃に考えていたこと

(3月号のメルマガ巻頭言)

あっという間に3月を迎えて、年度の節目ということで忙しい人も多かろうと思います
新しいステージへと旅立つ人もあるのではないでしょうか

落第も二度目は慣れてカレーそば  小沢信男

季語の「落第」というが面白くて目にとまりました。愉しい俳句です
作者の小沢さんは昭和2年生まれの人で、興味深い作品がたくさんあります

「落第」の季節今ごろですから、春の句になります
「落第」って恐ろしい言葉ですけど、 もしかしたら死語になりつつあるかも知れません

この季節には花が咲きますからのんびりと花見をしたいものです

しかしながら、思い出は苦々しいものばかりで、散歩をしながら湯島天神の梅や千鳥ヶ淵の桜を 見物に行くにはちょうどよいところに母校があったのに一度も花見に出かけて行く余裕はなかったです

あのころは「留年」などという生やさしい言葉ではなく「落第」という言葉が春の日常語でした

(私の母校では)新入生の6割ぐらいが浪人生で卒業時にはその半分くらいが「落第」の洗礼にあっていた時代です

あれから時代が過ぎて二期校という呼び名が消えて共通一次試験ができて後にセンター試験に変わって、学生の顔ぶれは金太郎アメのようだと評されるようになり、浪人とか落第
という言葉も廃れていきました

3月のメルマガを書く時節は、そんなわけで節目がズレて2倍、3倍にも膨れあがった友人たちから異動の便りが届く季節でもあります

みなさんはいかがな年度末をお送りでしょうか。

宮下奈都 静かな雨 (1日後の)感想

静かな雨
宮下奈都 静かな雨
  • 眠れば消えてしまう月
  • 速すぎてつかまえられない夢の場面
  • ふたりで歩いた帰りに浮かんでいた月
  • ただものじゃないこよみさん

そんなふうに走り書きを残して
これは宮下さんが夢で描いた物語の断片であって
それを丁寧に集めてきた作品なのだ
と思っていた

人のイメージをさらさらっと説明するように軽々しくは書かないで
不安と喜びとを混ぜ合わせて
不思議と不明とどうでもいいことなんかもミックスして
そこに優しさもブレンドして攪拌するようにしているみたいだ

そんなふうに言ってしまえば誰だってできるみたいに思えるのだけれども
宮下マジックのようなものがあって読者はそれに掛ってしまう

夢は不幸せあっても幸せであっても構わないし
男の子が情熱的でなくてもいいのだ

日常の詰まらないできごとをちょっとスパイシングすると感動的になってくるのだけど
そんなわかりきったことであっても
いつか覚えていたはずなのに
忘れてしまうでしょ

きっと宮下さんはそれが悔しくて
失ったり忘れたくなかったから

自分の中である日
幻のようにできあがった物語に
意地悪なスパイスも振りかけて
忘れかけていたドラマのようなドラマでない日常を
思い出して
夢の断片のように纏めたんだろうなあ

すらすらすらと書けないときもあったさ
その時間も苦悩も大きな凹みもそれ自体も姿を変えて物語にしてしまった
それが第一作だった

本当は消えていった作品が山のようにあったんだろうけど
いかにもこれですよ…みたいな第一作

宮下さんはもうこれを書いた宮下さんには戻れなくなっている
それでいいのだ

困ったことが僕に一つできたのですよ

鯛焼きを食べるときに宮下さんとこの物語のことを思い出すのです

そして恋するとか愛するとかそういうことを考えて
諦めてきた哀しい過去と叶わなかったいろいろを思い出して考えてしまう

物語には続きもなければ終わりもないのだ
おしまいのシーンって何だっただろうか

それでいいのだ

銀マド(初出ブログ)

人生を生き抜く - 啓蟄篇 【裏窓から】 

平成29年3月3日の朝日新聞コラム(おやじのせなか)で小島慶子さんが

—>
片働きになって痛感したのは、女性は仕事を辞めても責められないけど、多くの男性は「死ぬまで働け」というプレッシャーを背負い続けているんだ、ということ。男性だってもっと色々な生き方があっていいはずなのに、「しんどい」なんて言おうものなら負け犬扱いされる。その上、家で「粗大ゴミ」とか言われたら、心が折れるよな、と。
<—

と書いているのです
このインタビューには前後があるので
この一文だけではわかりにくいですけど
お父さんの偉大さと苦労が後になってわかってきた
というようなお話です

🍀

私は
小島さんのお父さんのように一生働き続けませんでした

50歳前に仕事を放り出して
定職のない私がいる家庭でありながら
ムスメは私学の中学高校大学を出しました

450万の日本育英会の借金ができまして
就職したムスメにさらにそれも委ねました

10年以上早く仕事を辞めてしまいましたので
年金も最低レベルしかもらえないことがわかっています

一流大企業を退職して年収は4分の1ほどになっても
しかしながら
お金がないこと以外は充実した毎日を
精神的に大きなストレスもなく送れたことは
幸せであったと思っています

世の中にこんな生き方が存在したのだと
人生の終盤になって気づいたのでした

仕事のない恥ずかしさや
社会的地位や名誉がない情けなさよりも
それまで企業というところで
そんなことも知らずに
無知に働き続けていた自分が
むしろとても恥ずかしかった

平均年令よりも10年以上早く死んでしまった
父親の年令に近づこうとしています

父は定年になってから数年間に
どれほど充実した人生を過ごし
どれほどまで満足をして
人生を終わることができたのか

生前の言葉や遺作などを集めて
それを調べたり考え始めてみると
「人生を生き抜く」という
哲学めいたことを考えてしまいます

私は
仕事を勝手に10年あまり早くやめて
いつ何時に死んでもいいような人生を
貧しく(ある意味では)幸せに送りました

あと数年で父の享年になります
その年齢になったら私の新しい人生が
無一文で始まるのです

社会人になった時の同期と比べても
年金は4分の1に満たないでしょう

でももうそんな欲はありません
老後は前借りして過ごしたようなもんです

ですからこれからの私の人生は
いつ死んでもいいような
明るく軽く愉しい人生であって欲しい

だから健康に生きることが必須なんです

🍀

(こんな一筆を知り合いに吐き出しながら)

一瞬でも私がこんなことを考えていたのなら
それを後になって訂正してもあるいは願いが叶っても
書き残しておきたいと思っています

子どもが社会人になる頃から頻繁に思うことは
「人生は恩返しをすることで終わっていきたい」
ということです
そして
その心を引き継いで遺していかねばならない
それはヒトの使命であって
故に結婚もしなくてはならないし
子どももできなくてはならない

私自身も家族も子どもも
みなさん社会の中の様々な繋がりの中にいて
助けててもらいながらここまできたのですが
ちょっとそのことに
気づくのが遅すぎたんではないか
言葉だけでわかったつもりになっていたんではないか
ということです

さらに、しかしながら
何一つ恩返しなどできない私が居るんです

だったら(反面教師であっても)
ヒントになる言葉を遺すしかないです

宮下奈都 静かな雨 (10分後の)感想

静かな雨
宮下奈都 静かな雨

平成29年(2017年)3月 5日 (日)

どうしてもこの作品を書いた人を
ああだこうだと定義づけて
作品の感動とペアにして
心にしまっておきたいと思うのだ

そう思わせてくれるような作品であり
読みながら何度も立ち止まって
詩人のような変な小説家だと
少し悪口じみたことを呟いてみたりする

そのしばらくあとで
何ページかを読んだところで
ほら哲学者みたいなことを書いているから
物語の後ろにはドラマにならない構想がどっさりと隠れているんだろうな
と思っていたりする

しかしながら
乙女チックには気取らないし気障でもない
詩篇のようなことを歯が浮くような下手くそなタイミングで
書いている

いいえそれは計算どおりなの
いいえそれがセンスというもの

真似ができない
真似しようと思うのが愚かなのか
でも手を伸ばせばそこにいるような普通の変なおばさんな筈だから
私にだって真似ができるような気がするの

「諦めること」をサラリと書いて付箋を貼ってしまうそうになるんですけど
ここで付箋を貼ったらその行だけが一人歩きするからあかん

満月のお月見の話もそこまでで
私の脳みそにメモるだけで
烈しく読み返したくなったら
もう一度最初から読もうじゃないか

「世界の深さ」のこともあれこれと書いてるでしょ
物理学の教科書みたいに
一本の式を紐解けば五ページくらいの文字で埋まるように
付箋を貼りたいところは五倍くらいに言いたいことが詰まっていたはずだ

だから明日になったら私も忘れてしまえばいいのだろうな
ある日思い出したら誰かがこの話をしたらもう一度思い出そう

好きだという言葉も使わないで恋をしているし愛もしている
誰もが夢の中で追いつけなかったようなあのできごとを思い出そうとしている

でもこの人はきっとアルキメデスみたいな考える人なんだと
想像してしまって私は深い深い記憶の沼に沈んでいくのです

銀マド(初出ブログ)