居酒屋・鶴さん

「居酒屋・鶴さん」

それは京都の古い町屋の並びにポツリと潜んでいる店だった
十年ほど前から気にかかっていた

初めて知るまではそんなに存在感などなかったし
華やかな看板を通りに向けて出しているわけでもなければ
レトロな店構えでもない

古ぼけた暖簾は3つに割れるもので
一番左に「鶴」真ん中に小さく「さん」と手書き風に書かれているだけ
戸口に小さく「鶴さん」と彫り込んだ木の表札がある

居酒屋だと思ってみれば居酒屋だ
メシ屋だったら「鶴さん」は不似合いにも思えるので
やはり居酒屋だろうとじわじわっと飲み屋感が湧いてくる

ふとしたことで店の暖簾が目についた
素人の書いたようなデザインであったが
私の脳裏を「鶴さん」のことが
ぐるぐると回っている時だったのかもしれない

鶴さんとは、北国の田舎町にある薬科大学の学生で、
下宿で「喫茶コリン」という集いの部屋を作って、
学生時代を送った一人の女子の名前の一字だ

もちろん、店とその女性とはまったく関係いない
だが私はある日から何も用事のない週末などに
ふらりとこの店で道草をするようになる
「ふとしたこと」と知り合いや同僚には説明をするけど、
その理由がはっきり言えず曖昧なのは、
理由が理由らしくなく意味がないからである

今となっては暖簾が急に気になり出した瞬間などのことは
まったく記憶になく、不明になってしまった

ただ、

むかしの女友だちに千鶴子さんという子がいたこと
その子が懐かしかったので店の名前で思い出したこと
さらには
その店に行けば何かいいことが起こるかもしれないような予感があったこと
あくる日にいいことが起こるような気持ちになれたらいいなと考えたこと

そんなおまじないのような気持ちで
暖簾をくぐったのだろうと話している

鶴さんという店が日ごろの通勤で通る路地にあっても
特別に気にとまることさえなかったのに、
ある日突然気になり出した理由について
「やはり何か事件か大きな変化あったのではないか」
と親しい友だちが尋ねてくる

けれど、
鶴さんはある昔に私の前から姿を消してそれきりで
今となってはどこで何をしているのかさえわからない

そんな人なんです

++

そんな「居酒屋・鶴さん」に
立ち寄っている私がいる

一人で店に入って
焼き串か串カツかを二三本つまんで
冷やのお酒を二合飲んで
帰ってくる

ゆっくりとお酒を飲む稽古をしようと思うことがある
何かいいこととか
誰かがおめでたいとか
昼間にちょっとラッキーなことがあったとか

そんなふうにつぶやきながら
無理やりな理由をつけて
言い訳をつけてやって来る

財布の小銭を気にしながら
時間の使い方が下手だな
飲み屋で過ごす時間は窮屈だな
などと思うくせに

カウンター越しに見える酒が並んだ棚の片隅に
「鶴さん」と彫り込まれた彫刻を見ている

店には滅多に来ない

そこにはドラマにもならないような平凡女将さんがいる
そして、ちょっと意気が合うところがある
でも、それ以上は何も知らない
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