遺す言葉 - 1 から 11まで

※シリーズは30までありますので少しずつ追加しています

遺す言葉 - 1

■はじめに

私には偉大なものは何もない。歴史に残る様な足跡も築けなかったし、実績もない。誇れるものもない。お手本になる様な行いもしなかった。詰まりは何もないのだ。こういう生き方を平凡というのだろう。

では、論理を逆からなぞって、私は平凡な人生を送ったのか。そう問うてみれば、世の中の多くの人たちの人生が見える様な気がし、ヒトというものの生き様が、客観的に見えてくる様な気がするだろう。そこには、誰一人として同じ足跡を辿りあう人はなく、意識があってかなくてか別として、その人らしさを足跡とする。またそこには、立派も恥じらいもない。

自慢することもなく、後悔もない。生きて来た結果だけが美としてあると思う。私はそんな美学のなかで心に留めたことを幾らかでも書き残したいと思う。少しずつ、書き足していきます。(平成22年12月1日)

■ちかごろ

どうも余命が気に懸かって仕方がない。父が死んでしまった歳までもう15年を切ったし-それは即ち、祖父が逝った歳までも同じように15年を切ったということに他ならず-たった15年と宣言されて迫られているようにも思えるし、悪あがきは諦めなさいなと諭されているようでもある。

挑戦状を突き付けられた「15年」という数字と365を掛け合わせた数の紙切れを一枚一枚破り棄てながら、まっとうに生きていた日々と不遜に生きた日々とぐうたらであった日々も掘り起こして、今一度追い続けていた夢の答えを考え直してみたい。(平成22年12月4日)

■呟くということ

iPhoneのメモと同時進行で書いているので、手帳に書いていることと統一がとれないけど、勢いで書き続けることにする。ペンを持ちながら書くということは電子のメディアに残すことよりも、悩んで書いている様子が残っている。精神的に苛立っているときは荒々しい筆跡となるし、急いで書いても気持ちが表れる。思考が三歩進んで二歩戻ったときに、ペンであれば矢印で挿入をしたり括弧で反転させたりすることも珍しくなくて面白い。

電子の日記には完成されたものだけが結果という形で残るが、実は日記の面白味というのは文章があちらこちらに散らばっている点にあり、書かれている内容が意味不明とならない限りは、思考の過程や足跡が分散して絡みあっているからこそ興味深いものなのだ。せいぜい、私くらいの人間であれば記録に残したいことなどたかが知れており、先人が残してくれた言葉にすでに集積されていると言っても過言ではなく、むしろ言いたいことを十七音程度の簡素な言葉にして書く方がその人らしさが出て面白いしスッキリするはずだ。

遺したいのはこんなありふれたつぶやきであり、すでに確立している格言や評論や小言ではないことは明確だ。つまり、つぶやきとは気持ちの片隅にふわりと浮かんだ感想であるとか、それが泡となって消えていってしまっても何も損をしないし誰も咎めたりしないもの、そして書き留めたところで何も得もしないものである。余韻のようなものを与えてほしいのかもしれない。(平成22年12月4日)

■悔しいなりの苦肉作

いつのころからか自分の死というものを意識するようになった。親戚の葬式に順番に顔を出したり、卒業してから会わなくなっている友人の突然死の知らせを受けたり、多かれ少なかれ死というものと向かい始めている。

老衰なら救えるが、成人病、高血圧、糖尿病、心臓病、脳こうそく、癌、交通事故、自殺など、原因はさまざまな人を見てきた。そこで、見送る方としてはやり切れないものが圧倒的に多い。明日は自分も衝動的に首を吊ることがあるかもしれない、と真剣に考えることがある。

私は人一倍怠け者で、わがまま気ままで、好き勝手に生きてきたし、反社会的なときがあったかもしれない。情熱的に仕事に打ち込んだこともあったが、持ち前の飽き性であることが祟って数年で投げ出してしまい気持ちが継続できないことが多かった。45歳という年齢で大企業を放棄してしまったお馬鹿な奴だから、身近なところからは厳しく非難も受けている。世間のみなさまよりも15年も早く定年状態に入ってしまって、死んでしまう日々のことを元気なうちから考える暇ができてしまった。それはある意味ではチャンスといえるのかもしれないが、本来なら人間が死ぬ間際になってから、余命の合間に体で感じて考えるべきことであるのに、50歳という年齢であれこれ考え始めるものだから、元気すぎて弊害も多いし、考えにキレを欠くこともある。やはり切羽詰まって考えるのが正しい姿だと思う。

そういいながらもせっかく得られたチャンスとして死を考えるわけであるからある意味では幸運である。確かに生きる意欲を失くしかけている面もあるし、立身出世欲など皆無になっている点を考えればマイナスが遥に多い。そういって自分を戒めて足掻いてみたところて波が立つだけで、今の私に飛び立つ力はない。有名人ならばその遺言が文学にでもなるところだろうが、私にはそんなものもない。やっぱし悔しいけど、悔しいなりの「遺す言葉」なのだろう。(平成22年12月4日)

2010年12月 4日 (土曜日)


遺す言葉 - 2

■遺言というもの

前回を書いたのが半年以上も前のことになる。自分でも読むのが面倒なのだから他人は読まないだろうということが容易に想像できる。そんなものだ、ブログってモノは。なかなか書き進まないのは、ゆっくりと考えることが難しいのだろう。死んでしまって、そのあとに誰かが読むのか。読まれぬ間に捨てるのか。果たして如何なる運命にあるんか。遺言。

■言葉として遺せるものは何もない

私の父は数々の名言や、哲学的な人生訓を日常でもぼそぼそとつぶやいていた。「人の振り見て我が振りなおせ」という言葉ひとつ取っても、人生哲学が滲んでいると同時に、親がこめた子どもへの伝言であったのだと思う。私は何も残せない。早くも敗北宣言なのかもしれない。

■考える前に閃く

そういうところがあった。すべてではなく理屈も言うことがあったものの、芸術的には私には理解できない感性を持っている人だった。それは絵を描く、木を彫る、木を組み上げるという趣味的なものに始まり、さらには、物を作る、無から驚きを工夫して創り上げるという仕事で、趣味でもないのに、こういう自然行動的欲求を解決させようとする行動を、あの人は天性として持ち合わせていたのだ。

■猫が玄関を閉めないので解決する

昭和30年代の話だ。新幹線も走っていないし、オートメーションという言葉が社会に登場する前のことで、街にも自動のものなど殆ど無かった。そんなときに、ウチの猫が玄関を閉めないので自動的に閉まってくれるように玄関の引戸を改造してしまった。ちょうどそのころに、お客様が玄関の前に現れると家の中のブザーがなる仕組みも実用化している。特許になるレベルなのか、子どもの夏休みの工作レベルなのか、今となっては不明だ。しかし、なかなかの実行家だったことが伺える。

■まずやってみる

この言葉が正しいとはいえない。しかし、状況によりこれほどふさわしい言葉はない。「理屈を言うな黙って勉強しろ」というときにも応用できる。「何が問題なのかを解析することも大事だがそのひとつの手法としてまず現物を見つめなさい」。そういうような注意を受けたこともある。

■面倒くさい

そんな言葉はこの世の中にはない。右のものを左に、動かす動作の繰り返しや。そのようなことも言った。そのくせ、よう考えてからせなあかん。これはすぐするな、ということではなく、次の一手には必ず理屈があるのだということにも通じる意味深いものであった。

■晩年は絵を描いていた

水彩画を始めたのだが、見る見るうちに油絵に移っていって、作品はおそらく九割以上が駄作で、さまざまな人付き合いの果てに近所に散らばっているようだ。ひとりの親友が「ウチの玄関にお前の親父さんの絵があるぞ」と教えてくれた。要らなくなったら捨ててくださいと思う反面、それらを回収してどこかに飾る部屋を作ってみようかとも思う。

■絵を始めるときに、あれこれを考えることはしなかった。

小遣いもないのに高額な画材を買ったり、人目を気にせずに写生を始めたりした。私にはそんなストレートさも素直さもない。

2011年6月30日 (木曜日)


遺す言葉 - 3

3.1 大人になったらオヤジと飲みたい

遺す言葉-2 を書いてから6ヶ月ちかくが過ぎる。その間にも時々刻々と時間は過ぎる。

いくつものメモがあって、いくつもの没メモがある。
自問を続けながら、私が残せるものは、未来を見つめる視線ではないか、と思ってみたりしている。ヒトは必ず果てる。意思を受け継がせてこそ未来が開ける。

物質的、経済的視点での判断で今を乗り切る力こそがパワーだというような風潮が広まって、人々はいわゆる賢くなって強くなっているのだが、思想哲学のようなものが疎かだ。宗教も軽く見られがちであり、思想とは歪んだものを生む恐れがあるという錯覚めいたことを考える人もいる。現代で最も欠落しているのは、そういう間違った理屈を打破できる強い哲学がないことかもしれない。

メモに
◆大人になったらオヤジと飲みたい
と書いたことがある。私もその一人であったかもしれないが、そういう人々が多かったのではないか、という回想である。

私が高校から大学生活を過ごしたころ、その年代の子たちは割合とそういう夢を抱いていたかもしれない。昭和30年代生まれの連中で、現在は50歳から60歳くらいになっている人たちだ。

まだ、日本には貧乏が残っていたと思う。つまり、精神がまだ金持ちや安定生活層に達していない親たちが、戦後の苦しみを引きずりながらいつかは楽になりお金も物資も不自由なく使いたいと夢を見た。そしてそれを少しずつ実現する人が現われ始め、会社も急成長の兆しを見せ、農家の若者は都会にサラリーマンとして働き出て暮らし始める。

冷蔵庫やテレビが一家にそろい始め、テレビにはやがて色がつき始める。そんな中で育った子どもたちは親の背中を見て育ち、親の苦労を肌で感じながら進学の道を選択したり、人によっては事情で断念し、社会人になってゆく。おおらかで自由で少し金持ちになったようなゆとりの文化が学生たちの間にも先駆けて広がり、同時に経済は急成長の時代を迎えて、給料は5倍10倍と通貨単位が変わったかのごとく増えてゆく。

親父(オヤジ)には苦労をかけた、世話になったから、いつか一緒にゆっくりと酒でも飲みたいと思ったのはそういう背景があるのではないか。

1990年代から2000年代へと、予想外の急降下で父とはろくに話もする暇もなく、自分は子育てに追われ気がついたら50歳はとっくに終わっていた。

親父は死んでしまって、話せるところにはいなかった。


3.2 父の策略

まとまらない話であったが、大人になったらオヤジ(父)と飲みたいを思いつきで先日書いて、しばらくひと息をついていた。飲みたい人はそのときにはすでにいなくなっているという話である。

そのうち話せるときがくると安易に考えていたことに加えて、今の自分が出来上がるまでの計り知れない愛情を、私が心から理解できずにいたのだと後年になってから私は反省をした。つまり、言ってみれば育ててくれた人の苦労など気にも留めずに大人になってしまったので、いざお礼をしなくてはならない時期が来たときには「時スデニ遅し」だったわけである。

このような思いを経験した方は、この世の中には多かろうと思う。そのことに気づくことさえなく過ごした人を除けば、半分は後悔をし悔やんだに違いない。

しかし、それはそれでまたいいのだ。先人は直接の感謝を受けたいと思っていたのではなく、気性を受け継がせたかったのだとすると、気づくことに大いなる価値があったのだ。

であるならば、同じような状況下にある私も「何が遺せるのか」という大きな課題を新たに受けたことになる。もしかしたらこれも父の無言の策略であったのかとさえこのごろ思う。

2011年12月15日 (木曜日)


3.3 「バカボンのパパ」 のようだった

父の策略を書き残してから少し時間が過ぎる。過ぎる間に、書き留めたかったことを忘れ、取るに足らないことが浮かび上がって、記憶の巻き戻しの邪魔をする。

一瞥すると変人で、しばらく付き合ってみても変わり者であった父であった。しかし、本当はそうだ「バカボンのパパ」のような気質であったのだと思っている。

赤塚不二夫は、
「バカボンのパパってさ、別にラクして生きてるわけじゃないんだよ。パパはパパなりに、どうすれば家族を幸せにできるか、どうすれば毎日を楽しく過ごせるかを考えながら一生懸命ガンバってるわけ。そのためには体ごとぶつかっていってる」
と言っている。

家族を幸せに……なるほど。口下手でペラペラと理屈は言わなかったが、東京に送ってくれる荷物の中には必ず手紙が添えられていた。
私を心配してというよりも、長い人生を睨んだ言葉であったような記憶がある。

その手紙はもうすべて棄ててしまって現存しない。
そんなもんだ、人生と言うものは。

2011年12月16日 (金曜日)


3.4 「バカボンのパパ」 その2

どこまでも「バカボンのパパ」のようだった父であるが、なかなかの思慮家だったのではないか、というのが私の永遠に解決しない命題である。私が死んで命題も消える。

「永遠なる序章」のなかで椎名麟三は「生きるということは、激情だということです」と言う。彼は「自分は、瞬間瞬間に、死を生き、無意味を生活した」とも書いている。

父が激情の中を激しく燃えるように生きていたのかどうか、今更、分かるわけもないし探れる術もない。

多くの人の回想を寄せ集めると少しずつ見えるものがある。

そこには、純粋に生き、嘘もなく、見栄もない。人を騙すことも欺くことも、陥れることも、謀ることもない父の姿がある。

彼は、機嫌の悪い姿を一度も見せたことがなかった。他人の悪口を言うこともなかった。
何かを悔やんでいるような様子やそれを言葉にすることもなかった。

不思議な人だったのかもしれないと今になって思う。

バカボンのパパが
「忘れようと思っても思い出せないのだ」
というセリフを言うが、私の父にも言ってほしいような気がする。

2011年12月16日 (金曜日)


遺す言葉 - 4

4.1 胃潰瘍吐血により

平成10年1月22日午前11時35分、私の父は「胃潰瘍吐血」により死亡した。

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これが死亡診断書の一部だ。

そのとき私は仕事中で、昼すぎに電話連絡を受けたことだけを覚えている。

いつもそばにいたわけではなかった。脳梗塞で倒れたときも、一二度入院先の病院に顔を見に行っただけで、やがてこんな形で死んでしまうことの現実的な予想はしていなかった。というか、できなかったのだろう。

18歳で家を出て、東京で6年間、京都で9年ほど暮らしてから古里に帰ってきた。車で1時間弱で顔を見に行ける所だ。そこに住み移って7年ほど、近くにいたことになる。

しかし、それほど古里の家には寄らなかった。弟がそばにいてくれたこともある。普通に子育てをして仕事に行くサラリーマンをしていると、1時間ほどの所に住んでいれば慌てることも無く心配ごとも無く、自分の家庭の幸せだけを拠りどころにして毎日を暮らしていた。

ヒトは、失ってから初めてモノゴトの本質を見つめ始め、あらゆることの歴史的な生い立ちからそのときまでの時系列の凸凹を振り返るときに、逝ってしまった人間が何を最も伝えたかったのかを知り、多くの疑問が残されたことにも気づく。

この資料から分かるように、生死をさまよった私の父の最期の4日間と4時間に、果たしてどんな言葉が誰と交わされ、当人は誰かに何かを伝えようとはしなかったのかどうか、というようなことが埋もれたままなのだ。

そこにある計り知れないほどのたくさんの不明を、さまざまな人々の語りや自分の記憶から手繰り寄せねばならないのだと、この日付から十年以上も経って思うのだから、ほとほと自分は愚かだと思う。

2012年1月 7日 (土曜日)


4.2 いつかは飲みたいと願った

遺す言葉を続けよう。

▼怨む、憎む

そのようなことはなかったと思う。そもそもそんなことをしても勝ち目がなかったので、はなからからそんなモノに刃向かうような真似はしない。

腹を立てたり失意に苛まれないで生きるためには、自分のやり方を思案してゆくしかなく、そこで哲学的な思考回路が育ったのだろう。たまに理屈も言ったが、表に出ていってまで強く主張することはなく、内に秘めていることが多かったかもしれない。

片方の耳は大人になるときには聞こえなくなっていたし、もう片方の難聴は年齢ととも進行していたこともあり、さまざまなケースをあれこれと考えても、やはり自分の世界にいるのがよかったのだ。しかし、大人しく引きこもっているようなタイプでもなかった。

宴会ではカラオケも上手かったというし、何よりもドジョウ掬いの踊りが滑稽で非常に面白かったと母が話す。感情的になったりすることはほとんど無く、穏やかで、他人にも嫌われるようなタイプではなかった。その分、お人好しで騙されることがあったかもしれない。

とにもかくにも、機嫌の悪い姿は一度もなかったし、他人の悪口を言うこともなかった。冬の朝はどんなに寒くてもポイと布団から跳ね起きて、「辛いのはその時だけや」とあっけらかんとしていた。本当はすこぶる気合を入れていたのだろう。何事もそのような調子で明るく振舞うところが多くあった。

▼八朔が好きだった。

昔にたびたび日記に書いたように記憶するが、今ごろ探してもそれほど簡単には見つからないものだ。

総じて甘い物が好きだったが、八朔は酸っぱくても特別に好きなようだった。ミカンは食べたけれど、家族がみんなで大きな籠ごとを一晩で食べ尽くすほとにむしゃむしゃ食べていても自分は食べたいだけ食べて部屋を出て行ってしまうような人で、食べ物においては決して無茶な食べ方はせず、好きな魚があればいつもよりやや多めに食べているなと、傍で見ていて気付く程度だった。美味しいものを食べると素直に美味しい美味しいと繰り返しながら目を細めて食べていた。

▼痛めつけた身体のこと

身体も大きいほうではなかったこともあり、酒を飲んでもほどほどで気持ちよく酔えたらしく、真っ赤になっていつも先に眠ってしまった。やはり、血圧が高かったのを高齢になるまで放置したことが相当に身体を痛めつけたのであろう。定年になって死ぬまでの6年間は身体の随所に在る不具合と、どうしても我慢できなくなったと言ってみんなの反対を押し切って手術に踏み切った腰の痛みとに悩まされた。生きる悔しさを感じていたかもしれない。高血圧の投薬も定年より前から欠かさなかったものの、60歳を過ぎたころにはもはや長生きの望めるような身体ではなかった。

若いころに難聴になってしまい、身体を張って生きるしかないのだと、自分で考えたのだろう。さらに、親もがそう思い働き続けて育て、結婚後も身を粉にして働いたのが身体に祟った。仕事をコツコツとする真面目な性格と身の回りをいつも綺麗に整理整頓しておくような几帳面さがあったのに、これも50歳を過ぎたころからは自然現象として衰えてきていたように思う。子どもを育てることに追いまくられた挙句に一息ついて失速したのかもしれないが、そのような顔はまったく見せなかった。

定年を終えて少し気楽な暮らしができるようになったと思ったところで悲しいことに高血圧による脳内出血で倒れて、何度か入退院を繰り返すうちに次は脳梗塞を発症した。高血圧症の人にとって脳梗塞は珍しくなく、大きな手足の不自由は出なかったものの、脳の一部が少し麻痺したらしい。一緒に住んでいる家族は、それほど詳しい原因や症状の特徴などを医師に尋ねなかったこともあって、離れて住んでいる私は詳細を知らないまま、現実以上に元気なのだと思い続けていた。

今頃になって死亡診断書をじっくりとみて、初めて晩年のことを推測してみることになった。ボケて来たとか気が変になったなどと言った人もあったようだが、やはりあのときの脳は、もう壊れ始めていたのだったと今更気づく。

▼いつかは飲みたいと……

私は悪い息子ったのだ思う。ろくに見舞いにも来ないで、まだそう簡単には死なないと思って甘く考えていたのだろう、身近で死んでゆく人もまだそれほどいなかったこともあって、父親という人のそのすごさに気づかないままいつでも1時間ほどで行ける場所に住み続けた。

父親が病気で床に伏しているのをそれほどしっかりと記憶に残していない。何度も見舞っていないということかもしれない。いや、倒れたときには見舞っているが、父親のほうも弱った顔を見せなかったのかもしれない。認知症が出始めていても、このときにはその他の臓器は元気だったので顔色も激しくは悪くなかったのかもしれない。

「卒業したら親父と飲みたい」というようなひとつの目標を、私たちの18歳のころは誰もが夢に描いていた。苦労を掛けて大学を出たらきっとふるさとに帰って身を立てるのだと強い意志を持っていた者も多かった。私はそういう一群の仲間にもなれずにいたことになる。飲んで話をしたこともあまり無かった。もちろんそれは父親の性格にも由るのだが。

2012年1月 8日 (日曜日)


4.3.1 成人の日、昔を辿ることは、ヒトの宿命だ

【- Walk Don’t Run -】遺す言葉というのを加筆しながらホームページへ集めていますが、成人式のニュースをやっていたので、いろんなことを思いながら、成人式とはどうあるべきなんだろうか、などと考えていました。

ちょうど、ちょうど去年の今頃にあれこれと拾い集めた日記があったので、引っ張り出してきて少し読みました。(拾遺集として自分のために書いていますので後ろに貼りますが)

「成人式は必要か?」のまえに考える。

成人を祝ってもらいたがる人、さらにその喜びと決意を生かして前進しようとするような進取の気性の青年を育ててゆけるような教育と社会システムを作りあげることが大切なのではないか。

スカばかりの人間を、ニセゆとり教育や甘やかし教育で、あるいは点数至上主義と経済最優先の考えで、育ててゆけば、この国の人(ヒト)は骨抜きばかりになってしまう。社会保障も教育も暮らしをいくら一生懸命に考えても、頭の中が空っぽで哲学なき人物を大量生産して、大衆迎合的波に呑まれていってしまう社会では、今からもいっそう社会は退化してゆく。

負のスパイラルを脱するには、スカとは何なのか、を考えることから始めることが必要だ。


4.3.2 成人式のころ

銀マドも2002年に突入。今年もよろしく。

成人式の話題をニュースでやってましたので、ふと思ったことを書きました。
今年も成人式の季節がやってきた。このパティオには成人する人はいないでしょ?結婚する人はいますね。それもこれもひとつの旅立ちといえます。旅立つ時にはきちんと襟を正して心新たに一歩を踏み出すと思います。その一歩が闇の中の一歩であれ晴れ舞台の一歩であれ、心は感動に満ちていることだろうと思うのです。

ところがどうも昨今の成人さんはそうではないらしい。わたし流にひとこと言えば、満たされていて何が有難いのかを見失っているので感動すらできない状態なんです。感動なんてのは与えられたり強制されたりすることは不可能で、自分で出会うものでしょうから、ただただ可哀想にとしか言いようがない。

成人式のころ、私には進級試験がありました。母校の進級制度は割と厳しく、同時入学者の約三分の一から半分ほどの面々が卒業では顔を合わせられません。その最初の関門が成人式のころにありました。仲の良かった奴らのほとんどが進級しましたが、成人式にも行けずに家で机に向かっていた私は落第でした。「のほほん」と私は生きているようですけど、結構、辛かったなあ。日本育英会の奨学金は留め置きでしたし…。

まあ、1学年下級の人との付き合いをし始めるのは、同期連中が卒業して居なくなってからのことでした。でも、同じ特別研究(いわゆる卒研)のメンバーには私より年齢が大きい人が幾人か居ましたし、落第で落ち込んだ心は卒業のころには消えていましたけどね。それでもやっぱし、成人式に出られなかったのはひとつの痛切な思い出です。

誰にでもきっと、ひとつの節目を二十歳前後で越える時があると思います。それは人それぞれで、年配の皆さんの大部分の方々に心当たりがあるのではないでしょうか。晴れ着を着ることや式典に参加するのが大事ではなく、そういう節目を体の中にきちんと刻んで生きてきているか、ということが大事でしょう。

何不自由なく大きくなってしまったら「年輪」も「節」もないただの木になってしまう。

【銀マド:塵埃秘帖】 2002年1月15日 (火曜日)


4.3.3 言葉

▼言葉は、身の回りにあふれていて、ありふれたものだ。その数々の中からたったひとつに反応し、掘り下げて見つめてしまうことがある。我々はそんな巧みなことができる人間である。

年末のある日、職場で、対話をすることを失ってしまった悲しい人に出会った。どうにかしてやりたい気持ちと、蝕まれていてそこへは入ってはいけないという戒めに似た罪悪感とで、しばらく私は考え込んでしまった。

どうしても、対話を放棄しているその人の心の奥に私は踏み込みたかった。しかし、対話を拒む人にはその人の世界があるのかもしれない。もっと無言でいることにしようと私は思った。無言イコール対話拒否ではないはずだから。

しばらく時が過ぎた。私のようなまだまだの人間が悩むことでもなかろう、ということに気付いたときに、その命題の答えの解法は見えたような気がした。言葉の嵐は吹きすさぶ。しかし、あるときはそれは嵐ではなく、満帆へと導く順風であることもあろう。待てば海路の日和あり。

▼言葉というものは不思議な魔力を持っている。どうしようもない脱力感に襲われていたり、持って行きようのない感情の高まりを抱いたときであっても、私の心の弱っている部分にさりげなく手を差し伸ばしてくれる。

それは乾ききった身体に降り注ぐスコールよりももっともっと静かで穏やかなものだ。その言葉をひとつの依り処にして永遠の逃げ道を探す旅に私は出る。

ただし、永遠と思われた旅でも思いもよらぬことで早急に打ち切られることがある。言葉そのものの治癒力が逞しいことで私自身にエネルギーがチャージされて、ひとりで歩もうという気概が生まれてくるからだろうと思う。

▼時間という目に見えない波の上を浮遊する私は、ほんの些細な言葉に支えられて、この波に感情という新しい出会いという波を重畳させて、未来という目に見えない先を、それが真っ暗闇であろうと、そちらに足を向けるのだ。複雑化した波は無限大に広がるスペクトラムを持っている。フーリエ解析という方法によっても、無限大は机上のものであるのに、理論上果てることのないこのエネルギーに限界を与えるこの式を胸にしまい、酔うようにさまよう。あたかもそれは現実と夢の間を往来していた、私が昔に見た夢のようだ。

【銀マド】


日記から

○成人式のニュースを見て
成人式の話題のニュース報道を見た。昔の塵埃秘帖にも書いているが、私に成人式の歴史はない。進級が重くのしかかった後期の試験を数日後に控えて、そんな余裕などなかった。「負ける戦」であっても臨まねばならなかった。このときの試験の結果で3月には落第が確定するのである。嵐のような日々、地獄の谷から這いずり上がろうとしていた。それが私の成人の頃の思い出である。
自分でしくじったのだから、自分で這い上がるしかなかったのだ。

○センター試験
そうそう、私の頃は1期校と2期校とに分かれていたのよ。2期校は3月末に試験があった。合格者が巷にあふれる中であの頃まで受験勉強を続けていた2期校受験生というのは相当に強い精神力である。会社に入って同期に福井大学出身の奴がいた。実際に会社に入ってからも2期校出身者は逞しかった。
彼から「逞しい」という言葉の重さを知らされた。奴は元気だろうか。

2003年1月 5日 (日曜日)


4.3.4 ジンクスが風上へ誘う沈丁花

成人式にも出る暇もなく日夜机に向かい臨んだ試験であったが、残念ながら満足な感触は無いまま三月を迎えていたと思う。

駅までの歩き慣れた道路のどこかで、沈丁花の花がぷんといい匂いを放っているところがあった。進級発表の日に匂いを嗅ぐと期待が叶わないというジンクスがあるのだという話を聞いて、些か気に掛けていたものの、住宅街を歩いてこの花に遭遇しないで過ぎることは難しい。

当時は、今のように「留年」という言葉があったものの「落第」という呼び方もしっかりと使われていた。

正門を入り階段を駆け上がり教養棟の進級発表の掲示板を見たときに自分の名前が(というか番号だったはずだが)無かったときには、多かれ少なかれ予想はしていたものの、足が震えるような感覚と目の前が渦巻くような衝撃を受けた。

まあ、落第というお仕置きを食らったのだが、学友は二倍に増えたし、肩の力も抜けた。思い切り古本屋通いもさせてもらったことだし。そう思うとそこで吹っ切れて、卒業までの後半戦は、結構自分でもアッパレなほどに専門過程に打ち込んだものだ。

1970年代。
学生は、今の若者のように豊かで満足に満ちた暮らしをしてはおらず、勉強にも生活にも不満があった。送り出す方の家庭にもそんなに生活に余裕があったわけではない。「勉強をやりたくて進学した」大学であったが、ウッカリしていると「無理に勉強する必要も無いし遊びに大学に行くくらいなら早く就職しろ」という父の苦言が飛んだ。(実は今でも)寝言に魘されるほどであったのだが、それを押し切って東京にしがみついた。

その二年前、下宿を決めたあとで文学部のS君と昼間からビールを買って穴八幡付近を彷徨いながら合格の乾杯をしたのを思い出す。

S君は、仙台で四年浪人をして、七年ほどかかって卒業していった同僚だ。そういう青春もあったのだな、俺たち。

沈丁花の花が咲く季節になると、あの頃、愛用の下駄を引っ張り出して颯爽と街へ出かけるときの清々しさを思い出す。恋人なんてぜーんぜん欲しくなかったなー。青春は輝かしいもので、夢は儚きもの、です。

2008年3月 7日 (金曜日)


4.3.5 オヤジの背中   〔2002年6月中旬〕

▼(パティオのYさんのメッセージを思い浮かべながら書いています)▼生意気にも、子育てのことでコメントを書いてしまった。ろくに子育てもしないでここまで来た私が書いたので、まことに失礼なコメントだったかと、幾分消沈気味である。▼これからの未来がある人には、それなりの希望と情熱と信条を持って生きて行って欲しい。子育ても然りです。それが私になかったわけではないが、ややもすると現代人には(←若者たちというとジジイみたいだしね)それが不足しているようにも思う。▼正高さんの本をオススメしていながら「父親力(中公新書)」をまだ読んでいなかった。早速、買ってきて読み始めました。正高節である。「子どもはことばをからだで覚える」「0才児が言葉を獲得するとき」にしても、大学の心理学や行動科学のような語り口で始まるけれど、嫌気を出さずに読むとなかなか庶民の視線で論じてあると思う。▼まだまったく読んでいないが「はじめに」を読んだだけで嬉しくなってくることが書いてある。「親はなくとも子は育つ」というように昔から言われてきた日本の社会であるが、「親の背中を見て子が育つ」という時代は終わった。子が親の日常を知らないし仲間同士が諸事をまかなうことがなくなったからだろうと (主題ではないけど)書いてられます。▼昔だったら子どもは必ず5人以上いて、末っ子は四十過ぎてからの子どもだったりしました。つまり、私のような年齢になってからの子供です。この時期、子育ては大変な苦労ですし、冷めているかもしれませんが、自分が生きている間に末っ子は成人して結婚してくれる可能性だって少ない。親は子どもの晴れ姿を諦めているし、子どもも親に甘えていなかった。▼こういう関係ができ上がっていた家族社会構成のなかで子どもはどんな意識を抱きながら大人になっていったのかを想像するだけで、逆に今、ひとりっ子で育ってゆく子どもたちが、ひとつの動物としてどれだけ弱々しいものかということがわかります。▼正高先生は当然のこととしてそういう現象をしっかりと掴んだうえで「親の背中を見て育つ時代は終わった」と書かれたのでしょう。では、今の子どもはひとりっ子が多く、ひ弱で未完成かというとそうではない、と私は思います。▼きっとさらに読み進めば、子どもに必要以上に差し延べている(現代の親の)「おせっかい」のことにも釘をさしながら、損得を介さずに、もっと人間らしく人間の行動を見つめるということを、科学の視点で論じてくれていることでしょうと予想します。これから読みますから分かりませんけど。▼私の父親について言えば、不思議な魔力を持っていて、あまり多くを説教したわけでもなければ、息子に薫陶を施したわけでもない。にもかかわらず、彼の信条や生き方、視点、思想、反論の仕方に始まり、反体制なところ、照れ方、すね方、怒り方、飯の食い方、屁のこき方に至るまで、父に似ていると、今になって思います。▼本の趣旨とかけ離れてしまいましたが、こうして考えてみると私も父親の背中を見て育った世代の人間なんだな、と思います。そこで、今の子どもたちに「もっとオヤジの背中を見ろ」と言っても、父が時計に操られるように行動するような会社人であっては、学ぶものは少ないですね。真面目(に見えるように)に働けということを教えるだけかね。▼私のように会社に「楯突く」のも良いとは言わないが、負ける喧嘩とわかっていても、時には意地を通すようなアホさを通すことを身をもって教えたことは、決してマイナスではなかったのだ…といつか言えるようになりたいものです。▼大型トラックの免許を取りに行っています。英語の学術論文を翻訳する仕事も諦めていませんし、コンピューターのプログラムを書く仕事も諦めていません。でも、ダンプの運転手や長距離トラックの運転手も目指したいと思って学校に通っています。世間からしたら一風変わった変な怠け者かもしれませんが、娘はどういう視線で見ているのでしょうかね。▼サッカーの英語新聞の記事。速読したらまだ私のほうが勝っていますからね、負けないように勉強しよう。そんな日々です。これもひとつの父親の姿だろう。

2009年3月 8日 (日曜日)


(番外) 4.3.6 夢を食べる虫

本章は題記の内容から掛け離れるためシリーズから外します。
しかしながら、一時たりともこのような考えの時期があったことを記録するために
「夢を食べる虫」として別冊に残します。

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遺す言葉 - 5

5.1 痛み

▼一九九七年の年末、県立一志病院を父は退院した。しかし、この退院の理由は病気が完治したことではなく、患者に徘徊症状が顕著に表れるために内科として病院が預かるには限界がある、というものであった。▼当該内科に直接関連しない関係者の常識的推測や病院事情に詳しい人の話を統合し整理すると、その理由はもっと簡潔で我々にもわかりやすいものであった。つまり、徘徊をするため医師が嫌がったようにも見せかけながら、実際のところは看護婦がそのような患者の面倒をみるのを強く拒否したため、主治医であったY医師の口から、自分たちの病院ではなく然るべき(精神科などを備えた)病院に転院をするのが望ましい、と言わせたというのである。まあ、このような経緯で退院となった。

▼Y医師は脳梗塞や脳内出血などで体に障害の残った人のリハビリテーションを専門的に研究し協議する医療研究協議会グループを作り公的に活動している、ということを、後になって私は知った。死後数年経ってしまってからのことで非常に残念だが、もしも、退院理由の事実や真意を即時に知ったとしても打つ手はなかったのかもしれないだろう。ただ、脳内出血が原因で徘徊などの病状がでることがあるらしく、脳のどの部位かに支障をきたして、これが原因で徘徊のような行動が出始めたのならば、この時点からY医師の率いる内科の医師が最後まで責任を持ち、治療を施し、必要に応じて脳神経外科を紹介したり精神科的分野からの治癒も含めて何らかの対応できたのではないか。患者側からはその治療処方についてもっと相談することは可能であったはずである。医師としての常識に欠如はなかったか。然らば私等も患者側も医者を信頼することができるようになる。Y医師は後にこの県立病院の院長にまでなってゆく人である。しかし、今更、彼女に面会を求める理由もない。

▼年末に退院をした父は、病院を転院するための紹介状も書いてもらうことなく家で年を越したが、ある人の計らいで隣の町にある榊原病院の精神科のA医師にお世話になれることになった。A医師も、Y医師が参加している協議会グループのメンバーである。転院を受け入れるために最初に診察をして、A医師は「こんなひどい状態になるまで放置して、一体、(医師として)どういう神経をしてるんや」、と怒ったと当事に付き添った者が証言している。A医師は、年始から二十日間ほど非常に多忙にもかかわらず、個人の携帯電話でも病状の相談を受けて患者のことを気に掛けてくださっていた、と聞いた。しかしながら、やっと入院の準備が整いつつあった二十二日に父は入院を目前に逝ってしまった。死を判定してくださったのは最寄の診療所のM医師で、診断書での死因は心不全。脳内出血患者の多くが高血圧を起因とし併発している胃潰瘍の出血も伴っていたという。

▼一九九八年一月二十四日の葬儀には小雪が舞い、木枯らしが吹き荒れた。

▼息が絶える少し前の、平常に対話ができるころのことだと推測するが、M医師が往診で計測した血圧値(シストリック)が280mmHgであったという。皮膚から血が滲み出てもおかしくないほどである。寒さが厳しくなるとこの血圧値は、人体の各所に対し相対的に非常に高くなったとみなしてよいだろう。

▼決して痛みを伴わないからことさら怖い。痛みを伴わなわず、本体を蝕むものは幾らでもある。肝に銘じて、仕事にも健康にも気をつけたい。

【わはく】 ─ 1月8日

naze
死亡診断書

(追記)

県立一志病院のポリシーがWEBサイトのなかに掲げてあった。

  1. 患者様の人権を尊重する医療を追求します
  2. 県民と地域の信頼を得る医療を追求します
  3. 常に時代や環境を先取りし、求められるサービスを実践します

痛みを感じない人が掲げてもそれは無意味に近いことが容易に想像できる。県立一志病院のY院長は、このポリシーを決して実践できていたとは認めがたい処置であったことは、結果が語っている。

銀マド  / 痛み
2003年1月下旬号(2003年1月25日 土曜日)


5.2 父の形見

母の日が過ぎてしまった。実家に帰ることなく、電話を入れることも無かった。アイツは出来損ないのバカ息子だ、と母は思っているのだろうか。
生きて暮らしているのだし、恩を忘れたわけでもないのだから許されたい。そういう心は、得てして届かぬものだろうが、何はともあれ、自分の倅が何を考えどんな暮らしをしているかは推測がついているだろう。母とはそういう偉大なものなのだろうと思う。

父は逝ってしまって七年余りになる。しかし、私は十八歳で家を出てしまったこともあり、死んでおらず今でも離れて暮らしているような錯覚が甦ることもある。

東京の下宿に荷物を送ってくれるときに、その箱の片隅に必ず手紙が添えてあった。それは鉛筆書きであることが多く、発送の際に思いつきでイソイソと書いたものだろう。

「若いうちは勉強をしておきなさい」「金の心配はしなくてよろしい」などということが記されていた。日常で些か追い込まれて一切の過去を棄て去るのだという暴挙を思いついたのが発端で、実は、その便箋を数年前に始末してしまった。今となっては仕方がなく後悔先に立たずであるが、思いは消えないのだし、もしも消えたとしても私が生きている間に私自身が憶えていればそれでいいじゃないか、と思うことにしている。

履歴書に書ける大学は二つしかないが、実は書けない大学もある。その大学のことで日々悶々と居るときにあの言葉「お金は心配しなくていい、勉強をしなさい」という言葉は厳しかった。勉強ちっともしないでグウタラな生活をしていた私を見透かすようであったのだから。しかし、あの一時期が私というものを作り上げるもっとも大切な時期だったわけで、まさに青春時代のひとときであった。必ずしも履歴に正当な足跡を残したモノが自分の真の履歴ではないと思う強い根拠は、私のこの時代の経験から来ている。卒業とか終了という言葉には縁が無かったが、第三の母校として都心が懐かしくなることがある。

父はあのことでも私を咎めたりはしなかった。最終的に素晴らしい師匠に巡り会えて満足な学生時代を終えて京都に来た私を我が手元に帰ってきたと歓迎してくれた。ところが、私に天性の放浪癖があったことや社会に出て僅か二年で結婚をしてしまったことで、父とは多くを語り合うことはなく、過去の苦しみを打ち明けあう機会も殆どなかった。

語り合うこともなければ実像を見せ合うこともなかった父の姿が、自分がこの歳になって、はっきりと見えてくる。あのときに父は何を考え、何を私に言いたかったのか。どんな気持ちでペンを持っていたのか。映画を見ていても涙を拭く場面で早々と自室に引きこもってしまったのは何故か。枕元にあった紙切れに走り書きがしてあったが、あそこには何が書いてあったのか。それは、今の自分を見つめることで鮮明になってくる。

父の形見は玄関にあるたった一枚の絵だけだが、私自身が形見であった。

【塵埃秘帖・5月中旬号】 2005年5月11日 (水曜日)


5.3 年の初めに考える─痛み(2)─

2003年1月下旬号に続き痛み(2)とします。

─ 平成18年元日

Y院長は後に県立病院を退職し、地元で内科医として個人医院を開院した。

私の母は大腸癌を切除をしたりしながらも生き永らえて、糖尿病や心臓疾患など老人病のデパートのような状態で生きている。

1キロ以上の道を歩いて駅まで行き、2時間半おきにやってくるJRに乗って病院に通うのは、肉体的にも精神的にも大きなストレスとなっていた。通院を怠ることは即ち自殺行為である。

そのときY医師の医院が近所に開院した。主治医をこちらに変更することを口外したのを聞きつけた次男(私の弟)は、Y医師に命を任せることに強く反対をしたという。

しかし、現実は感情論では済まされない。近くの医者が一番だといって母はありがたく診察を受けている模様だ。

何処に間違いがあって、何が正しく、あるべき姿とは何なんだろうか。
母の余命は決して残り多いものではない、と思う。

今、何が、できるのか。

2006年1月 1日 (日曜日)


遺す言葉 - 6

少しずつ。 ─ 平成24年1月から4月から5月ころの記事から


6.1 記憶にとどめる

22日は父親の命日だ。
しかし風邪で外には出ない。

記憶にとどめる。

そのことを風邪で臥す寝床の中で考え続けている。
葬式を記録に残さなかったことを今更ながら悔やむ。

カメラやビデオに収めようとすることは、神妙なる式典の真っ最中に好ましくないことだという見方も多かったと思う。

しかし、その壁を乗り越えて記録に残すべきであった、と今になって思う。

まあ、仕方がないだろう。
あのときの私には冷静さがなく、直面した事態の大きさを受け止めるのが精一杯だったからだろう。

だが、冷静に捉えて記録に残すべきだった。
そう反省をする。

次は、必ず記録に残すつもりだ。

2012年1月22日(日曜日)


6.2 きくということ

きくということ。

風邪で床に臥している時間が長くなるにつれて、つまらないことを考えてしまうものだ。
命日を迎えた日に、父親とはどういう人物であったのかをふたたび考えていた。

静かに話す人の語りに耳を傾けるという姿や、そうさせる語りや、またそんな魅力そのものも減りつつある。TVをつけると単発的で薄っぺらい笑いが溢れている。

あるときには、ラジオから流れるアナウンサーの落ち着いた語りが届いてくる。

これらに耳を傾けながら、またアナウンサーの語りと別の時刻にTVで流れていたお笑いのタレントたちの喋りと比較して、語るということが、そしてその語りに耳を傾けるということが少なくなったなあ、とつくづく思う。

良質の語りに出会う機会は激減した。そして、語り自体ももしかしたら忘れ去られつつあるのかもしれない。

私の父は難聴だった。子どものころの不注意でこのような不幸を背負い、人生の大方を片耳で過ごした。残った聞こえるほうの耳も、年齢につれてほとんど役立たない中で生きてきた。

父は、テレビを見ないで、しばしばラジオを聴いていた。聴くということを人一倍大切にする人であったのか……と、はたと、今頃になってそう気づく。

2012年1月22日(日曜日)


6.3 花筏見送る人も無言なり

4月の初旬に父を亡くし、急遽帰国したときに、帰る空港から便りをくれた友だちに出した手紙を、上手でないところは少し書き直したが、記録しておく。4月15日早朝に。


私の地方の桜は、まさに今散らんとしていて、
▼花筏見送る人も無言なり
というわけで、信州よりも一足先にソメイヨシノは葉桜になろうとしています。

お父さんがなくなって、そのあとにもmixiの日記を書き足していたりするようですが、人生なんてのは、そんな継ぎ接ぎだらけの驚きや喜びで出来上がっているのだと思っていた。

そんな中、今、自分の頭にあるのは、自分の番もやがて来るということで、もしかしたら、この次に葬式にかかわるのは、81歳の母親の葬式でないならば自分自身の葬式であるのかも知れないということだった。

そう、喪服なんて着られるかどうか、サイズのことなど気にしているなんて(といっても軽く触れただけなのだが)、お笑いネタみたいにも思えてくる。葬式なんてのはそんな感じでやってくるのがありがたいのだろう。

今の時代、いつでも会えるという安心感が潜在的にあるものの、18歳で家を出てしまったこともあって、父親はそれほどいつもそばにいたわけでもなく、それは父だけでなく母もそうですが、これから死んでい行くという不安や恐怖はなくて、既に私の心の片隅に住むところを持っていた。だから、どうぞ楽に痛みもなく逝ってください、とわりと冷めて祈っていられる。日々一緒に暮らしているならばまた話は変わってくるのだろうと思う。

しかし、生きるということは、人それぞれの思いの違いが歴然として出てくるもので、私の母の場合は、もうすぐ死ぬだろうと自分で言いながらも、ものすごい負けん気で生きたがっているのがわかる。「食事に注意を払って、生活に気を使うように」と、子供らに言われても気にしないようなふりをしながらも、生きたがっているの伝わってくる。

その点、父は14年前に逝きましたが、いつ死んでも仕方がないほどにそれほど健康ではなかった人だったのですが「生きられないのは悲しいなあ」といつも嘆くようにしていた。けれども諦めのようなものを持ってようにも思えるときがあった。

私は父譲りで、生きることには、固執しないような面があって、いつ死んでもいいなと思っている。

人には、人を育てるという、つまり育成し次世代をよいものに改革してゆく大きな使命があって、(貴殿の場合は子供がないのでそのことには、理由もわからないし触れてきませんでしたが)、社会的に、その使命を負うことで、さらにもっと早く若き時代にその使命を意識することで一人前になる条件のひとつが揃うと思う。

夫婦になる、つまり結婚して家庭を持つという基盤のうえで社会に参加をし、その基盤の上で社会を見つめて、人間を見つめて、あらゆるものを理解しながら生きるのだ。人とはそういう社会の中で、社会に貢献して恩返しもしてゆく使命がある。

自分が楽しく。そんな傾向が現代社会に蔓延しているけど、人間なんてちっぽけなもんだから、社会を永遠に引き継いで行くような遺伝的な動物的使命を持っていることをあっさりと認めて、毎日の暮らしを見ることは大事なんだと、45歳あたりを過ぎてから切実に思う。

つまりは、詰まらない見栄や快楽や豊かさや怒りなども必要なことは認めるけど、そんなことにこだわって自分の人生の目標を狭義的に決めてきたことが社会の中での不満を生み、ばかばかしい欲に走る遠因でもあるような気がするのだ。

ボケに満ちた今の社会の奴らに対し、死と向かい合って生きろというわけでもないし、もっと世の中に尽くせというつもりもないが、じじいになってきて、そういう自分のことばっかしを見ている人を見ていて、ああ、あれは間違っていたな、と自分を諫めるわけです。

人にはさまざまな家族があって、そのお父さんがどのような影響や言葉や規範を次の世代に与え、遺していたかまでについて僕の言及するところではないのですが、父の遺したあらゆるものが、ゲーテの残した言葉と同じくらいに、神秘的で、詩的で、あるときは論理的に解釈することで、結構蘇って来る。

つまりは、ささやかな周期で、遠大なる使命を背負っているということなんだ、と思うわけです。

花筏を、歓喜に満ちた酒宴の後の酔いで見送る人もあろうけど、散る花を惜しんで、涙で悔やむ人もあろう。別れと出会いの季節である時にお父さんが逝かれたことは、ご本人がどんな病だったのかはわかりませんが、花の中でのご逝去として記憶に残ると思います。

僕が第15回目の三重県の俳句で
▼散る花と国の峠でわかれたり
と書いて佳作になった時の心はどこにも書かなかったし誰にも言わなかったけど……。

別れとは、そういうものであり、峠道の向こうとこっちでは新しい暮らしが待っているということです。

新しい使命を明確にして、さまざまな社会の一員として、小さな力であり大きな力になって、もうしばらく生きていきましょう。(……と、自分に言っているみたいな手紙になってしまった)

2012年4月21日(土曜日)


6.4 ウドを食う

20120430udo

うど(出展原本)

近年、これほどまでに美味いうどを食ったことはない。
人の心が寂れてゆくほどに、美味さが増す。
(作られたモノが出回っているという嘆きもある)

これを食わねば夏は迎えられない。

子どものころに父がウドを美味そうに食べているのを見て
こんなもののどこがいったい美味いのか、と思ったのを回想している。

父は無口で、
こんな美味いものがワカランか
と言っただけだった。

今の私ならば
これは大人の味なのだ、とか

人の作り上げた豊かさの中で味を知ることをできなくなった奴らが美味いといって食っている味には虚像の自己満足が多いだろう、オマエにウドの味がわかってたまるか、

と、さらにはもっともっと長たらしく講釈を言うところだが、父は無口だった。
無口な人ではないだけに、その無口に意味があった。

父は酒を飲まない人だったので、ウドをつまみながらも、炊き立てのご飯を食べたのだろう。あの人がカラダで感じた味を、私はどこまで感じられるのだろうか。

味は千年も二千年も遥まで変わることはない。

ヒトが文化を枯れさせて滅びることの発端には、こういうものを見逃してしまうことを許す豊かさではないか。
それは幻の文明であり幻の進化だ。

2012年4月30日(月曜日)


遺す言葉 - 7

なかなか、起死回生 果たせず ─ 平成24年初夏から


7.1 ひきだし

開けることを忘れていたほどほったらかしにしてあった本棚の下のひきだしに、おとやんの直筆の手紙があった。

学費を振り込んだので、しっかり勉強しなさい

と書いてある。

三十四、五年前のものだ。

鉛筆書きで
旧仮名づかい。

しょっちゅう手紙を書くと
勉強の気が散るので
手紙はあまり書かないことにする。

健康に気をつけて。
と書き、終わっている。

公衆電話といえば、店先に赤電話があっただけの時代だ。
手紙を書く夜は、さぞや長かったのだろう。

2012年6月2日(土曜日)


7.2 「怒らない」 「泣かない」 「笑わない」

人は暮らしに慣れてくるとそのままの状態で居続けたいと思う。幸せであればそれを崩したくないし、豊かであればそれを失いたくない。どん底の暮らしに落ち着いてから這い上がろうとしないのは私の持って生まれた性分なのであろうか。

もともと欲の深くない人間だったのだろうか。まさかそんなことはあるまい、と自答しながらも、自問は続けない。

父は多くを語らない人であったが、何も考えていないというわけではなかった。人生哲学のようなものは持っていてときどきそのことを話すことはあった。しかし、酒を飲んだりテレビを見たりしているときには、人間味の出ることとは無縁だった。

「怒らない」「泣かない」「笑わない」というような人だった。

子どもにもきつくは叱ったことがなく、大きな声も出さなかった。他人の不正な行為にも腹を立てて怒りを発散させることもなく、静かに非難するくらいだった。テレビを見ても、というか滅多にテレビを見ることなどなく、その姿など記憶にないのだが、オモシロ番組を見ても軽くにこっと笑うだけで、知らない間に席を立っていなくなっていた。

引き出しの中には手紙が入っていることは知っていたのだが、今更何を読むものでもなくと思い開けることもなく入れたままになっていた。それこそ何の理由もなく手紙が読みたくなって引き出しを開けてみた。三十四、五年前のものだ。

もっとたくさん入っていると思っていたのだが、束のほとんどが母と弟からのものだった。5歳年下の弟は私が大学生になったときは高校生で、兄にたくさん仕送りをしていることを理由に進学は断念させられ就職するということになるのだが、そのころに私に宛てて書いた手紙が多かった。

三人ともこれといって変わったことを書いているわけではなく、日記のようなものかもしれないが、いつも必ず、健康に気をつけしっかり勉強するようにと書きしたためている。学費を送ったとか、柿がとれたので送るというようなものもあった。

父の手紙は多くはなく、その一通をたまたま取って読んでみると「学費を振り込んだので、しっかり勉強しなさい」と書いてある。

いつも、必ず鉛筆書きで、旧仮名づかいである。

「しょっちゅう手紙を書くと勉強の気が散るので手紙はあまり書かないことにする。健康に気をつけて」と書いて終わっているものがあり、それが最後の手紙だったのかもしれない。

あのころは、街角で電話を掛ける用ができても電話がなければ、通りがかりの店などに飛び込み電話を借りて10円を置いてくるということも多く、公衆電話のような気が利いたものがあるなら、店先に赤電話があっただけの時代だ。

私に手紙を書いてくれた父は、笑いもせず怒りもせず、泣きもせずに日々を送り、手紙を書く夜は、さぞや長かったのではなかろうか。

逝ってからひと昔以上が過ぎて、細かいところでは似ていないように見えるものの、実は非常にそっくりなところが多かったことに気づいている。

「泣かない」という人柄であるが、泣き虫を自称している私である。父も本当は泣き虫であったに違いないという推測を立てている。結婚したころから毎日丁寧に寝床で書いてきた日記は、たぶん母の手によってある時期に灰となって処分されたのだろうが、あの日記には私に手紙を書いた晩のことが書きとめてあって、「泣きながら」書いたのではなかろうかという光景が浮かぶのだ。

私にだけ、それがわかる。

2012年6月6日(水曜日)


7.3 感謝を込めて

初任給は感謝の心を込めて。
先日、うちの知事が年度の初めの挨拶で新採職員向けにこんな話をしておられた。

これを聞いて私は、自分が父にも母にもお礼や感謝を怠ったまま過ごしたことを悔やんだ。今となってはもう遅いので、自分の未熟さを感じる。私はさらに、還暦の祝いも退職の祝いもしなかったので、今さら誰にもその後悔を告白できないことも辛いし悲しい。

自分は一人で生きてきたのではないのだし、あらゆる人にお世話になってここまできていることをいつも忘れてはならない。そのことを若いうちに、実感を持って認識できるかどうかはその人物の善し悪しまで判断できるほど大事なことだ。今更になってそう思う。

それ故に、知事の言葉は、本当に新採の子たちに届けたいと思った。お父さんが健康で生きておられる方には、理屈抜きでお伝えしたい。何も理由はいらないから、今まで自分が生きていることと父が生きていることだけを祝って乾杯をし話をするのがいいと思う。そして、ひとつの人生において得た哲学をひとことでもふたことでも、2時間でも3時間でも、聞いておくのがいいと思う。

話は詰まらなくても大いに価値があるし、亡くなられてからでも価値が出る。その話を生かすも殺すも貴方次第で、生かせないような人は人を活かす才もないと言えるだろう。見る目もなければ自分の才能も芽生えさせることができないはずだ。

私が生まれたのは父が26歳のときで、大学に進学するころは44歳から45歳ほどだった。私が父と同じ26歳になったときに父は52歳だった。つまり私が生まれたときの父の年齢で私は結婚したということになる。その年、私はわずか2年しか社会人を経験していなかったのに。

私が34歳で父は60歳(還暦・退職)になり6年後66歳(私は40歳)で逝く。父が息子を進学させるのに最も苦労した44から45歳に私が到達する前に死んでしまった。その年齢になって、苦労だった頃の話を蘇らせて聞かせて貰うことはできなかった。
さらに、その年齢で私は仕事の転機を迎えた。もし、生きていたら私の人生は違ったものになっていたような気がしてならない。

父は私に学費を送りながら日々苦しい思いをしていると、不定期に送ってくれる手紙の中で綴っている。はっきりとは書いてないのだが、資金的に苦しいのだが父としては弱音を吐けないし、息子が卒業するまではがんばるぞ、オマエもがんばれよ、と自分にいい聞かせるように鞭を打っている様子が私にあてた手紙から伺えるのだ。

決して身体が強かった訳でもなく、精神的にも負けん気のある方ではなかっただろうから、毎日の暮らしの中で何を思って仕事に出かけて行ったのか、どんなことに歯を食いしばって生きていたのか、今となっては不明なままだ。

それを尋ねても正確に答えられる人もいないのだが、それには及ばぬことなのかもしれないと、ふと思うことがある。そう。あの人が何を思っていたのかは、今の私が何を悩んでいるのかと全く同じなのだ。そのことに気づくのが遅すぎた。

【遺す言葉】2012年6月16日(土曜日)


7.4 師は無言でなくてはならなかった

私の父はいつも無言で、愚痴や不平は疎か我儘も悪口も殆ど語らなかった。生きているときは、そこにいて当然であると思っているのが普通の人の意識の形で、そういうのを無意識というのだろう。つまりは、父が無口なことは私にしたら無意識の中にあったのだ。

喋りたくなかったのだろうか。そう、あとになって考えてみたが、感じることは人一倍あって、ご先祖から譲り受けた理屈持ちと変人気質であったのだから、無口でいられるような人ではなかったはずだ。

だから、ひっそりと寝床で枕を抱きかかえ日記を綴る日が多かったのかもしれない。日記は私が生まれる前から綴られ、進学するころも書いていたように記憶するので、かれこれ二十冊以上の相当なものであったはずだ。しかしそれは、前にも書いたが、父の死後、たぶん焼却されて無くなってしまったので、何が書いてあったのかは不明なままだ。(もしかしたら父が死の直前に自分で燃やしてしまったのかもしれない)

毎夜、日記を書く。

父が、林芙美子の「遺書」という詩に出会っていれば、何を感じただろうか。

林芙美子は綴る。

遺書

誰にも残すひともなく
書きおきたいこともないのですが
心残りなものがいっぱいあるようです
その心残りなものが何だか
自分でも判りません

*

父は無言でなくてはならなかった。

それは、おそらく、誰にも何も理解してもらえぬまま生きてきた六十六年間という刻一刻を、悔やむ一方で諦めていたからではないか、と想像する。

この人の人生は、自由奔放に生きてきた幸せなものであったと、没後にみんなが気楽に語るのだが、もっと奥深くには、無言では済まされない、済ませたくない一言があったのではないかと、私は今思っている。

何も遺さなかった人。
形見もない。

あの人らしく問題提起だけが、宙に浮いたように漂う。

無口な性格を全く私は受け継がなかった。
それはもしかしたらあの人の語りきれなかった夢なのかもしれない。

2012年6月29日(金曜日)


遺す言葉 - 8

受け継がねばならぬもの ─ 平成24年秋から


8.1 秋の夜長に考える

秋の夜長、田舎の家を思い出すことがある。しかし、その家屋は、10年以上昔に壊してしまい、弟夫婦が建て替えたので、あのころのことを思い出す手がかりは今となってはない。

田舎のごっつ臭く古ぼけた家の姿は、私の記憶の中にあるだけで、私のツマやムスメなどは想像すらできない。

私が生まれる前に祖父が掘ったのだという井戸が今でも残っている。

どこの家にも水道などなく、時代劇のように桶で水を担いで家の中に持ち運んでいた時代に、これからは水道の時代だと言って祖父が新しい井戸を掘ることを決めたのだという。

それまでの井戸は水をふんだんに供給できるようなものではなかったのだろう。新しい井戸とともに手動のぎーこぎこーと漕ぐポンプも取り付けた。残念ながらそのポンプは今は残っておらず電動ポンプがそこで稼働している。

枯れることない井戸からは、連続的にいくらでも水が供給できた。祖父が設計したという水路を水は流れて風呂や台所まで辿り着いた。井戸水を少し高い位置にある桶─というか大きな瓶のようなものだろう─に汲み上げ、緩やかな傾斜で水が家の中に流れていくように水路が設計されていたという。

母のほかに、私の父、叔母、伯母、叔父2人、さらに、祖父、祖母、曾祖母がひとつの家に住んでいた時代である。(9人家族)

おじいさん(祖父)は、賢い人で、時代の先をしっかりと読める人だった。
「これからは水の時代や。井戸を作ろう。(若い嫁に苦労はさせられない)」
と言って、どこの家よりも早く、新しい井戸を掘ったという。

そのころは、桶に汲んだ水を担いで風呂に運ぶのは若い嫁の仕事だった。それだけに母はそのときのことが強烈な印象なのだろう。私の生まれる数年前のことだ。

私が生まれたときには、父の兄弟4人は既に外に出ていって同居ではなく、私が生まれて数年のうちに曾祖母、祖母と相次いで亡くなったという。そして、私の記憶が微かなころに祖父が亡くなった。

曽祖父は村長、祖父は村会議員を務めた人だった。父を含めてこの三代には伝説も数多いが、なかなか掘り起こして残すことは難しい。

2012年9月26日 (水曜日)


8.2 続、秋の夜長に考える

秋の夜長、テレビを見ることも無かった父はどうして過ごしていたのだろうかと、母に尋ねたら、本を読んだり尺八を吹いたりしてたな、と言う。

仕事のこと、生き方のことにおいても、何ひとつ小言など言わぬ人だった。私と同じような性分だったとすると、相当に堪えていたのかもしれない。

66年と10ヶ月という歳月の最後の6年ほどがどれほど充実したものだったのか、或いは後悔に満ちたものだったのか、私にはわからない。自分勝手にその頃を生きていていた私には今となっては計り知れないのだった。

倅とはそんなものなのだと思っていたかもしれない。強くものごとを追いかけるということをしなかったのは、ほどほどでやめておくという大人しい一面があったからだろう。

しかし、もう少し生きたかったに違いない。あと10年余りという節目が近づくに連れて、手繰りようのない糸を手繰ろうとしてしまう。人間とは、そんなものだろう。

一年という時間を四つに分けた人がある。さらにそれを二つに分けて、さらに三つに分けようと考えた人がある。

二十四の節気に分けられた私たちの暮らしの波長が、移ろう季節と同期して身に染みて、さらに心にまで染み込む年齢になってきた。

そのことをいくら言葉で説明して伝えようとしても儚いことだろうと思いながらこれを書いている。

2012年10月11日 (木曜日)


8.3 秋の夜長に考える その3

秋の夜長に。

季節が秋だったのかどうかは全く記憶にないが、父が寝床で日記を書いていたのを思い出す。

一年中欠かさず書いていただろうから、季節が秋であったというわけではなかろう。しかし、確かに父は枕を胸にして温かい布団にくるまってうつ伏せで書いていた。

子どもの私は大人が書く日記など全く関心もなかったので、枕元に置いてあっても開けもしなかった。母も夫の日記のことなど興味も無かったに違いない。一年分を書ける日記を父は使っていて、小さな字がぎっしりと詰まっていた。

一度だけ何処かのページの、ほんの一節だけ見たことがあった、というか見えてしまったのだ。当然のこと、内容のことは記憶にないが、何か小説のような、あるいは詩文のような文章であったことが微かに印象として残っている。

あの日記は父の死期が迫っているころ、興味のかけらも持たない私の母が、何か部屋の整理整頓の拍子に捨ててしまったと思う。きっと間違いなく、誰にも、父にも、尋ねることもなく焼き捨てたと思う。

父はどういつもりで日記を書いていたのだろう、今の私の気持ちと同じであったのだろうか、もしそうなら、私の書いているこの日記が突然消滅したら……私ならばさぞかし悲しむだろうから、あの人もやり場のない無念を感じたはずだ。

しかし一方で、頭の片隅で焼き捨てられることも予期していたに違いない。日記が焼失したことは誰にも話さず、焼いた人の気持ちをいたわったのかも知れない。

こぼれた水を叱るような人ではなかった。

2012年10月12日 (金曜日)


8.4 秋の夜長に考える その4

秋の夜長に、これを書きながら大黒柱が家にあったのを思い出している。

東大寺の大仏殿で見たような大きくて太かったものであったかのように記憶が蘇るが、昔の記憶というのはそれほどあてにならず、いくらかは変化しているだろう。過去の景色などが美化されて蘇るのと同じメカニズムだ。
柱の太さを定量的に計測した記録がないので不明である。だが、現在のうちの柱を測ってみて、普通の太さのものでおよそ120ミリほどであることから考えて、私の生まれた家の大黒柱は300ミリほどであったのではないかと推測する。靴のサイズや肘の長さより幅は広かったし、その柱の脇にあった黒電話の台がその蔭にすっぽり収まっていたのを記憶する。小学生のときは柱の蔭にひっそりと隠れることもできた。

あの家の太い柱はその1本だけで、ほかの柱はその半分ほどだった。障子や唐紙を4枚纏めて片側に寄せて閉めて(4枚重なる厚みに)やや余る程度だった。このごろの柱はさらに狭くなってきて、新築の家を見かけて父があまりにも細い柱なので驚いていたのを思い出す。もうあの時代のような重厚な家を建てるような必要はないのだろう。

大黒柱のある傍らには、「つし」(厨子)と呼んでいる屋根裏の倉庫への梯子があった。上には風呂に焚きつける柴であるとか雑穀などを保管していて、台所からはその梯子を登ってゆけるようになっていた。

何事においても、このように暮らしの中から考え出されたものに対し工夫に工夫を重ねたものを人々は生活の中に取り込んで、まこと慎ましやかに暮らしていた。生産高も増えない、つまるところ経済的な発展もない長い長い歳月を、幾つかの世代を通して伝承してきていたのだ。

家を壊して近代的な暮らしや生活スタイルが浸透するとともに、農業というものが培った文化も廃れ、家族はマネー(お金)を稼ぐために外に出て働き、国は経済的発展を遂げて、どんな田舎の人であってもお金を稼いで豊かさを感じるように社会が変化してくる。

押しなべて、このような文化が齎したものが家族の中の関係の変化であってマイナスの効果ともいえるのだろう。父親というものが「父」という立場だけを表す言葉になり、その人の生まれたときからのものの見方や考え方や、さらには先祖代々からの人々の暮らしぶりや喜びや苦労などを、言葉や言葉以外の「なり」や「ふり」で伝承することを絶たれてしまった。

このような人間味であるとか無形の心というものが家屋の中で醸されてきた時代の最後の世代が私たちなのだと思う。これは、言葉や数式、さらには精神科学や心理学、民俗学の資料では受け継ぐことのできないもので、残念ながら私でさえわが子に伝えることができない。まさかそんな世紀が来るとは、私の前の三代、四代の祖先は考えもしなかっただろう。

2012年10月13日 (土曜日)


8.5 親の心子知らず

この言葉を私は親から直接に聞いたのかどうか、記憶にない。しかしこういう一種の説教じみた話は母の小言であるとか、父のつぶやきであったことが多い。

今、考えるとこの小言やつぶやきが、自分の踏み出すべき一歩に対し示唆に富んでいた、と思う。特に父の独り言のようなつぶやきは、反発感も抱かせず心に届いた。インパクトが弱かったこともあるので、今ごろになって響いているという後悔もあるが。

私が1977年に北海道に1人で出かけると言い出したときに、いくらかのお金と電話をかけるのに便利なようにと小銭を黙って持たせてくれた母は、おそらく私がもっともっと子どものころに、親の心子知らず、という昔の人の言葉を記憶のどこかに棲まわせたのだろう。

77年の旅日記の冒頭にこの言葉を引用して、見送ってくれた親たちに感謝をしている。だが、感謝の本質を改めて問うならば、あのときの感謝は感謝ではなく,教科書に書いてある程度の表明のようなものであったのではないかと反省する。

私が難儀な子どもだったから育てて行く未来に希望を持つしかなかった。しかし、なかなか舵を取れない息子に対し、ある種の諦めのようなものを伴いつつ、自分の思うようにならない子どもに向かって溜め息混じりで、「親の心子知らずというやろ」と母はつぶやいていたのかもしれない。

私の母は父を生まれてすぐに失っていたので、不幸にまみれた自分の心を息子に伝承させないためにも、母としての努めを果たそうとした。

親の心を子どもは知ることなく、ゆく果て制限のなき所まで、枠などを感じずに羽ばたかせてやりたいという気持ちと、そういってみても貧乏だったのでそうもできないという悔しさとの狭間が存在し、母はおそらく、親の心は必ずも子どもに伝わることがよい訳でもなく、時期が来れば自ずから分かり合えるものだと考えたのだ。

では、いったい私たちはいつになって親の心を知ることになるのだろう。

若い時代には知ったような気分に陥り、ヒトは親になって初めて親の心を知ると悟り、さらに親を亡くしてさらに本随の親の心の原点に触れるとも考えるようになる。つまりは、親心などというものは、何ひとつ子どもには伝えることができない、のではないか。

いつの時代になってもそうであるが、オヤジの背中という言葉が哀愁を持ったテーマであちらこちらで取り上げられるように、背中は大いなるものを伝えてゆく。背中のほかにも、言葉でもなく書物でもないもので、「子知らず」であったはずのものが伝わってゆく。一種のオヤジの哲学のようなもので、DNAではなく空気感染をするのだと感じている。

そういうものは、きちんと伝わると越えることはできないのだが、曖昧に伝わるから親父を飛び越した大物も生むことができる。つまり、このように物理学のエネルギー理論にそぐわない伝承が世代の受け継ぎの中には存在する。

しかし、昨今はこの事象でさえ、合理化、数値化されてしまって、ひと回り大きなものを生むチャンスを失いつつあるように思えて、いささか家内くなる。トンビはタカを生む。これが親心というものなのだ。

父親は役割を失った…のではなく、どんな父親であろうとも必ず役割を果たしていて、受ける側の方が受身体制を一段と強め、柔軟性や貪欲な向上心、成長しようとする自己増殖細胞のようなものをなくしつつあるために、自分をひと回り大物になることができないのではないか。

親の心子知らず、という苦言を常にその年齢に相応した形で肝に銘じ続けることがこの言葉の目指すところではなかったのだろうか。そして、子は何ひとつ親の心を形にしては受け継がないのだろうと思う。

2012年10月27日 (土曜日)


遺す言葉 - 9

思い出すもの ─ 静かに振り返ってみる


9.1 父の帽子のこと、母のこと

父の若きころを思い出そうとすれば帽子を被っていた姿が印象的である。家族で外出をしたときに鳥打帽を被って私を抱き上げている写真が残っていた。うしろに大きな鳥居が写っていたので参宮にでも出かけたときのものだろう。

鳥打ち帽などという呼び名を今では使わなくなったな、と懐かしく思う。その帽子を被ったまま私を肩車してくれている。そうだ、あのころの子どもは、誰でもがお父さんに肩車をしてもらったものだ。肩の上はとても高くて見晴らしが良かったなあ、と今になって思う。

そういう写真の記録を、私はあまり大切にしなかったことをとても反省している。今さらジタバタと探しても仕方のないことだが、写真は当然のことながら白黒で、昭和三十年代始まりのころの人々の姿や装いも記録されたわけで、とても貴重だったのに粗末にしてしまった。

厚くて重そうな外套ふうの上着を父は纏い、母は和装で、着物に何かを羽織っていた。鳥居の近くで人の行き来の様子が写っていたので、正月だったに違いない。今であれば東京に出掛けて行くくらいの感覚なのだろうか。

そういう意味で、伊勢は遠かったのではないだろうか。子どもの頃、伊勢でなくとも、もう少し近くの街に家族で汽車に乗って出かけた記憶がある。蒸気機関車はわりと遅くまで走っていて、大人になるまでにも何度か行った伊勢市の駅などで見かけた。伊勢市駅には大きな機関区があって、遠くまで走ってゆく長い長い客車を引いた2連の蒸気が濛々と煙を吐いていたのも覚えている。我が家の裏の線路を走る蒸気よりもっと勇壮だった。

そうそう、蒸気機関車といえば、トンネルに入ると必ず煙に巻かれて、煤が眼に入ったものだった。痛がる私の目玉を母は、いつも、ペロリと舌で舐めて取ってくれたことを思い出す。

2012年11月 2日 (金曜日)


9.2 拝むということ

人が拝むというおこないをするとき、そこには祈りがあるのだろう。しかし、それだけではなく、父は反省をするという意味合いのことをときどき話した。

地球という環境の中の大自然にポタリと落とされたニンゲンという生き物が、苦難を乗り越えて生き抜くためには、神や仏を拝むという信仰が必要だった。これは、動物にはないことだろうが、決して高等な知能を持った動物だけに与えられた能力でもなさそうだ。

父がいう反省とは、世話になった人や物に対する感謝や身の回りで私たちを一丁前にしてくれる人々への尊敬であり畏敬のことを言いたかったのだろう。

世の中は自分だけで生きているわけではなく、これからも生きてゆけるわけがない。勝手なことや我儘なことを慎み、人に嫌われることのないようにし、友だちを多く持ち、礼節をわきまえ、義理を欠くことのないような人であるべきだと・・・・口に出していったのを聞いたことはなかったが、言いたかったのではなかろうか。

一方で母は、子どものころから子どもたちに口やかましく叱ったり注意をした。その折にあれこれいけないこと口酸っぱく話したし、友だちがたくさんいることは大事だ、義理を果たして礼節のしっかりした人でなくてはならない……というようなことをよく言った。

あれは父の代わりに自然に小言となって出たものであったのだろうか。父は黙って神仏に手を合わせているその後ろ姿だけを私たちに見せ続けただけだった。

2012年11月 3日 (土曜日)


9.3 似るということ

親子は、何処まで似るものだろうか。

私が自分の生きて来た証や考えや後悔をこうして書こうと思った発端は、そこにメディアがあり自由に書けたことの他に、涌き上がってくる思いをどこかにぶつけたくてもぶつけるだけのパワーが私になかったこと、チャンスがなかったこと、そういう立場もなく、利用するものもなかったこと、そして私にそれなりの才能や資質がなく、私が目指したものを満足するには私自身が無力であったことが大きな要因であった。

この遺す言葉を書きながらも、これ自体の所在が誰にも伝わらなければすべてが無力で無駄なのだが、しかしながら、それならばそれでよかろうとも考えている。整理することと拾いだすことに意味があって、自分自身を見つめ続ける日が過ぎている。

かつて、私は何かに縋った。それは電子のメデイアのツールやネットであり、自分の足跡を勝手に残せるのだからそれはとても有効に思えた。(実際には儚いものでもあるのだが)

では、非常に良く似た性格を持っていた父は、このような心境に陥ったときにどのように考えたのだろうと想像してしまう。最初に書いたように、私たちは同じ考え、思考回路、性格を持っていた。だから、今、私が考えたことと同じことを父も60歳を迎えるころに必ず考えたに違いない。その推測は絶対に間違いではない。

では、あの人は何をどういう形で実現することで、ひとつの夢の形を遺そうとしたのだろうか。

そのことについて少し考えてみたい。

2012年11月 5日 (月曜日)


遺す言葉 - 10

夢のこと ─ 冬に思い出していること


10.1 おとやんと呼ぶこと

夢のことを考え続けている。

あの人の夢は何であったのか、「なあ、おとやん……」と書いて、うっっと考え込む。

私は、父に向かって直接呼びかけるときには「おとうちゃん」とか「おとやん」と言ったことを思い出した。

数々の伝記や書物でお父さんのことを回想して「おやじが」などと書いているのを見かける。新聞の連載の記事などでも「おやじの背中」などというように書いている。しかし、私にはそんな風に父を呼んだり、活字にするときでもこのような表現をする文化はなかった。これからもそう書いたらよそよそしいし嘘の気持ちではないかと気づいた。

といいながらも、このブログの過去の日記では、「おやじ」と呼ぶ表現をしたことがあったかもしれない。しかし、あれはよそ行きの表現であったな、と反省する。そんな偽りの語り掛けはやめようと少しこの文章を書きながら反省している。

というわけで、私はお父ちゃんのことを「おとやん」と呼んだし、そう声を掛け続けたいと考えている。

おとやん、と書いて思い出したが、ツマのことを「カミさん」とか「相方」という表現も私の地方では使わない。上方などの漫才師さんたちが話していたのを聞いていたくらいだ。世の中にそういう表現をする人がいることを否定するつもりはないが、私はどうしてもその表現が私たちには無いもので、ああ、こういう文化の地域で大きくなってきたんだなと思う。

ついでだが、「おふくろ」という呼び方もしない。そんな言葉は電波や書物が私の住んでいる地方まで流入するようになってから、この地域の人々の言語文化が侵略されてしまったことに拠るもので、私は母のことを「おかあちゃん」「おかやん」と呼ぶ。目上の人に話すときは言葉使いの教科書どおり「父が」「母が」という言葉を使う。

さあ、おとやんの夢のことを考えよか、なあ、おとやん。
(前置きで終わってしまった。次回に続く)

2012年11月21日 (水曜日)


10.2 年の瀬が近づくと…

父が生きていた時は暮れになると年によって日本海の方にゆく旅行に出かけた。旅行先でブリを予約しておき、正月頃にはその土産のブリが家に送られてきた。二の腕より大きなブリだった。

父は魚が大好きで、刺身をするのが得意だった。まず包丁を研ぐことからはじめる。近所の人にも頼まれて包丁研ぎをしていたほどだったので、その技は秀逸だった。

キレのいい包丁で魚を捌くと別格の味を引き出すことができる。几帳面な人だったので、お皿に並べてもことさら旨そうに盛った。やること成すことが所々私も似ている。包丁を研がねば始められないところなど涙が出るほど私も同じ性分なのだなと染み染み思う。

ぶり
ぶり

冬は、温い思い出が幾つかあって、すぐには出てこないところに埋れている。静かに酒でも啜りながら思い出すのがいいだろう。

*

そうだ。毎年書いているような気がするが、しめ縄を作るのが得意だったし、草鞋を編んでいるのも何度も見た。

縄や藁を綯うてモノを作る作業は、秋から冬にかけてすることが多い。それは農業が季節に依るもので、農閑期にあたる秋から冬にが作業に向いていることや年が暮れてゆく時期が何かと物入りだったこともあるだろう。小屋に籠って地道な仕事をすることが必然的に多くなる。冷え込む小屋で、そう!、我が家では「長屋」と呼ぶ小屋で、夜なべをしてコツコツとしめ縄を編み上げる。

父のしめ縄は丁寧に作られていて、しかも美しかった。近頃はスーパーなどにもしめ縄が並ぶようになったが、父は店に出すようなことは一切せず、あれこれと世話になった人に差し上げていたのではなかろうか。

しめ縄をスーパーで買うようになったらモノの価値が金銭に変換されてしまう。しめ縄なんていうものは、一年を振り返って感謝しながらぎゅぎゅっと編み上げてゆくものだから、掛かった時間や材料などの金銭価値を生むものとはかけ離れたところで人々が感じ取る価値があって、戴いた人が薄っぺらな人であればそれだけのものになるし、厚みのある人なら立派な価値となってくれる。心を込めてお礼として渡していたのだと思う。ホンモノの良さがわかる人が少なくなった時代、最後の職人的な趣の一面を見せてくれた人だった。

子どものころはすでに蓑は姿を消しつつあったので、縄を綯って編み上げるモノといえばしめ縄か草鞋くらいのものであったのだが、馬鹿息子はその寒い土間には近寄ろうともしなかったのだから、罰当たりだったなあと思う。

草鞋の編み方を教わっていれば、私という人物も少しは違っていたかもしれない。いや、そんな人間になれもしない愚かな者だったからあの土間に一緒に腰を掛けて話を聞こうとしなかったのかもしれない。

「人間なんてのはヒトにあれこれと指図されているうちは未完成だ」と独り言のようによく言っていた父の横顔を思い出すと後悔のやり場が無い。

2012年11月29日 (木曜日)


10.3 歩き続ける

なにげなしに読書記録を手繰ってみると、数年間に自分がどのような本を手にしたのかがわかる。そこには、自分自身との格闘の末、書物に依る自分の姿も見えてくる。弱くなると頼ってしまう、強くなっても、また拠る。ヒトはどんな自信家であり実行家であったとしても、少なからずこういう側面を持っている。座右と言えば格好がいい。併し、弱音の受け口であってもかまわないもので、そういうまだら模様を人生に残すことがいいと思う。

自分を振り返るには、歴史の足跡を辿るのがいい。谷川浩司の「復活」 羽生善治の「決断力」が目にとまった。

谷川浩司は彼の著作「復活」のなかで、「何度も何度も負けたとしても、自分の道をひたすら歩き続ければ、やがてそこに一本の道が拓けてくる」という言葉を書いている。

これは成功すれば立派な言葉であるし、失敗すれば励ましの言葉でもある。この言葉を補足すると最後の部分に「『拓けてくる』(ことがある)」とするのが正しい。

そもそも、な話であるが、私は「勝ち負け」というものを好まないので、賭け事にしても、何かの競争にしても、さらに誰か(または何か)に対して勝っている状態とか負けている状態という概念のようなモノを好まないできた。何故に嫌いなのかは小さいころから育った環境にもよるのかもしれないが、「そもそも」勝ったところでどうなるわけでもない、喜ぶだけだろう。そんなものを征服しても、侵略しても、優位に立っても、目指すところが揺るぐ訳でもないし、揺るぐような目標であっても困る。

誰とも競うことなく、こつこつと正直に努力をし、苦労を重ねて、何かを積み上げてゆく姿を、小さいときから父親の姿を見て学んでいた。

あの人は何か大きな夢を誰かに打ち明けることもなく逝ってしまい、(周りの)人は十分に満足して幸せな人生だったと評してくれるが、本当は自分のユートピアを描いて夢への途上にいたのではないかと、このごろ夢を見るように想像してしまう。

あの人も何かを誰かと競う人ではなかった。あらゆることにおいて、そういう概念のない人だっただけに、67歳を2ヶ月後に控えていたあのときは、まだ、夢に一歩一歩近づきつつあった途上であったのかもしれない。

2012年12月 5日 (水曜日)


遺す言葉 - 11

夢のこと、続く ─ 年の瀬に考える(平成24年)

11.1 夢のことをもう少し考える

夢のことをもう少し考えることにする。あの人は果たしてどのような夢を描いていたのだろうか、問いたくなる。

◇振り返る
家に帰って母と昔のことを振り返れば、あのころの暮らしのことや苦労・苦難のこと、貧乏のことを思い出すと同時に、先に逝った人の特権のように必ず父が話題に出てくる。あの人はよそさまの人を困らせたこともあったものの、誰にも憎まれたり恨まれることがなかったのだ。人柄の良さや正直さ、表裏のない人間性などをみんなが認めていて嫌われることがなかった。その性格のおかげでか、膨大な数の夫婦の縁を世話し、晩年には依頼を受けて奔走していた。

だから、ストーブの周りに残された家族が集まって取り留めのない話を始めても、幽霊のように昔の話題に出てくるのだ。そしてその場で、あの人の夢は果たして何だったのか、と問うてみるとき、人それぞれがあの人を語れても、具体的な夢を明確に答えられる人は誰1人いないようである。ツマ(私の母)でさえ、姉でさえ、弟でさえ、答えを言い出せないのではないだろうか。

◇不思議な人
不思議な人であったといえよう。誰にも気に掛けられない人であり、誰にお節介をする訳でもなかった人とも言える。何の欲もなく、大きな夢を抱く訳でもない。自由に、まさに気ままに生きていた人だった。

併し、気の毒な側面もある。自分の夢を誰にも伝えない哀しさがそこにはあったのではなかろうか。その打ち明けなかった気持ちを誰が知り得るのか。

◇孫のこと
自分の孫はすべて見てから死にたい。さらには孫の晴れ姿を見てから知りたい、などと孫を思う心はいつの世の人にも強いものがある。あの人には孫が4人いたのだが、もの凄く大事にしたなどという記憶や逸話もない。ただし、若いころから子どもは好きであったと、あるときに母は話してくれたことがあり、孫に接する機会に恵まれなかっただけで、孫を思う心は人一倍強かったのかもしれない。

私にはムスメがいる。近くに住んでせっせと顔を見せに通うこともなかったが、父はうちの子をどう感じていたのだろうか。

◇私とのこと
母は「あんたはあの人とは(18歳までで)そんなに一緒に暮らした訳でもないから、あんまり憶えとらんやろ」という。確かに、人間味を感じるような年齢になってから暮らしたことはなく、例えば意地の張り合いをしたり物事に対する主張をぶつけあったり取り合いをしたこともない。政治の話もしなかったしニュースを話題にして何かをしゃべった記憶もない。

もちろん夢の話をしたことなどもない。小学生のころに何になりたいかと聞かれて、船乗りになりたいと答えて、高学年ころにはアナウンサーになりたいと答えたことがよほど強烈に印象に残ってたらしく、逝ってしまう直前までも、(学校にはやったのだが)「オマエはアナウンサーにはなれんだなあ」というようなことを口癖ではないものの、振り返りながら呟くことが多かった。大学時代には金も心でも苦労を掛けた。そのことを振り返り続けていたのだろう。(しかし責めたり叱ったことは1度もなかった)

◇消えてゆくもの
1973年の年末から74年の春ころに掛けて、昔からの家の脇に続いていた味噌部屋(と呼んでいた物置小屋)を壊し、鉄骨造りの2階建ての家を父は自分1人で建てた。2階に8畳間と4畳半、1階に4畳半ほどの部屋と車が置けるガレージを設けた。

建築にあたって、建物の土台のコンクリートを打つところから始まり、うちの山に行って木材を切り出し、(自動で製板する機械まで作ってしまい)柱や壁の用途ごとに弾き、階段や窓枠の設置までもすべて自分でやってしまった。(但し、屋根瓦を拭いたり木の建具で障子を作ったりするような専門的なことは職人さんに任せた)

その部屋は私が高校時代に勉強部屋として使用して、あとは物置のように使っていたが、今年の11月に解体した。

◇ひそむもの
ただそれだけであると言えばそれまでだが。併し、これを書きながら気づいたことがひとつある。

あの家は私が受験勉強に取り組み始めるころに考案され、3ヶ月ほどで出来上がって、我が家の本家を解体してもなお物置小屋として残っていた。まさにこの離れの家は、父が若きころ(私が中三のころ)に誰にも言わなかった夢のようなものを2階建てをつくりながら夢見た…ひとつの形であったのかもしれない。

解体が進む家屋を見ながら、そんなことが想像の上で蘇ってきた。

あの人は、間違いなく何か夢を、大きな夢を心に抱いていたに違いない。誰も知らないし気づかなかった夢を。

2012年12月19日 (水曜日)


11.2 為せば成る成さねばならぬ何事も

ぐずぐずしている私を見かねて、父はよく「為せば成る成さねばならぬ何事も」と言った。それは私への小言ではなく、自分に対する鼓舞であったのかもしれない。今も昔もわたしが自分の行動力のなさを悔やんだり情けないと思うときに、必ず父の口にしたこの言葉を思い出す。

父の人物像としては、横着な側面を持ちながらも、実は石橋を叩いて渡ろうとする側面もあった。

・石橋を叩いて壊す迷い人
・うじうじと悩んで暮れる思案橋
・丹念に噛み砕いて味を選る
これは私の性格を3句に纏めたもので、プラスな点ではなく、総じて優柔不断であることを表している。口先だけで実行力が伴わないため父親から見れば、なかなか成功作品が出てこないことに地団駄を踏んでいたのだろう。

しかしながら、父の指摘は厳しいものではなく、私は放任主義で育てられた。黙ってモノを完成させてゆく姿だけを見せ続けて手本としようとした。

「一を見て十を知る」「見てわからんものは聞いてもわからん」と呟き、一から十まで回りくどく説明することを嫌って、黙って見ていなさいと言った。思い付いたら直ぐ実行することが大事であり、考えてから行うことよりも、素早く何事も行うことのほうに大きな長所あるのだ、とも考えていたようだ。

そんな考え方の一部が私にも伝染していて、特に私が歳を食ってからは、そういう考え方が最も似てきた点ではないかとさえ感じる。

為せば成る成さねばならぬ何事も。その言葉の本当の意味は少し違うかもしれないが、とにかくあの人は成功作品も(失敗作品も)たくさんあったと思う。プランだけで消えてしまうようなことは非常に少なかった。

「(猫が通る)玄関の自動扉機能」は面白い発明で、昭和30年代にそんなものが、山深い田舎の家にあったということ自体が如何にも私の父らしい。

原理は小学生の夏休み工作と同じ程度の発想で、そのころ農家の人がお米を計るのに使う天秤秤の重しをガラガラと開けるガラス戸に紐で取り付けただけのもので、猫が開けても走り去っても自動で戸が閉まるというモノだった。

このガラス戸にはもうひとつオモシロイ仕掛けがあって、来客があると家の中でブザーが(今でいうと玄関のピンポンが)鳴るというビックリな機能もあった。この仕掛けも初めての来客の方を驚かせたものだ。

赤外線や超音波のセンサーなどを応用した装置がこの世に全くない時代に、自動で扉が閉まったり、人が来たら合図を出す機能を家に備えようと考えた人がいたこと、そしてそれを自分で作ってしまった人が我が家にいた。

2012年12月26日 (水曜日)


つづく

すこしずつ追加します(30まで)