遺す言葉 - 12 〜

遺す言葉 - 12

好きなもの ─ 平成25年1月に考える

12.1 お酒のこと

お酒は、おそらくそれほど好きではなかったと思う。

したがって、飲み意地のようなものは一切なかったし、変わったお酒を飲みたがる訳でもなかった。飲めない日が続いても、無性に欲しがることもなかった。つまりそれほどお酒は好きではなかった。

だが、夏の暑い日に旨そうにノドを鳴らしてビールを飲んでいた姿を思い出す。旨いからといってとことん飲み尽くすということもしない。雰囲気もあるのだろうが、暑いからグビグビと飲む。満足したらそこでおしまい。

珍しいものがあったらケーキでも饅頭でも興味を示すのと同じように、お酒も珍しいものを見ると嘗める程度に飲んでみることはした。

少し飲めば、仄かに酔うたのだろう。それで満足な人だったのだ。

モノの程度を弁えているようにも思えるが、そんな奥深いことを理屈で持っている訳ではなく、感覚でその程度でオシマイにしておくことを美徳としていた。

誰に教えられた訳でもなかったのだろう。しかし、根っから大人しい人だったので、そういう人柄となったのではないか。

お酒の席で、ほっかむりをしてドジョウすくいをするのが上手だったという。母がその特技のことを気に入っているようで、長い付き合いのある寄り合いなどで、その芸を見せていたときの思い出話をしてくれたことがあった。話す母の表情も素晴らしく嬉しそうなのが印象深い。

私は一度も見たことがなかったが、私の前では頼んでもしてくれなかっただろうな。

前にも書いたが、 人に憎まれるとか嫌われるとか、好き嫌いの対象にされるということもなかった。もちろん、他人の悪口を言うとか避難をすることもしなかった。

考えを持っていなかったという訳でもなかろうが、自分の出る幕ではないと考えて控えている人だった。

お酒のことについてこの人との思い出を書こうとしても何も出てこない。夕飯のときに改めてジョッキで乾杯をしたこともない。熱燗徳利を注いであげたこともない。

お酒の思い出ではないのだが、京都から引っ越しの荷物をトラックに積んで帰ってくるとき、夕飯を食べるために国道沿いのレストランに入りステーキを注文した。京都のお父さんも一緒だったこともあって、うちの父がステーキなど食えるかどうかを心配した。例えばマナーであるとかフォークの使い回しは大丈夫かと心配したのだ。

ところが、出てきたステーキを、私も顔負けなくらい上品でしかも慣れた手つきでさらっと食べてしまった。どこでテーブルマナーを習ったのだろうか。

本人に尋ねる機会もなくそのままになっていたが、後になって母が言うには、あの人はいろんなところに顔も出して、初めてのときに分からなければ恥ずかしいとかいう感覚なしに聞くからな、と話してくれた。

「聞くいっときの恥、聞かぬは一生の恥」

口癖のようにその言葉をよく言った。聞いても良いが、何遍も聞くな。一回聞いたら自分のものに吸収して、「一を聞いたら十を知れ」とも言った。何事にもそういうスマートな生き方を旨としていたのではないかと、今更ながら思う。

2013年1月12日 (土曜日)


12.2 好きだったもの

何が好物だったのだろうか 今更ながら分からない。

命日が一日一日と近づくと毎年同じことを考えている。
亡くなる日におれなかったことを今更ながら後悔している。
アホみたいに誰のために仕事をしてたんや、と社会や会社に対して腹も立つ。

好きだからといって腹一杯に食うような人ではなかった。
そういうことを決めて意思で行っていた訳ではなく、何か動物的に「腹八分」のできる人だった。
腹八分は何事においてもそうだったようだ。 遊ぶ、賭ける、食べる、など。

働くということにだけ甘かったか、よく働く人であった。
どんなに寒い朝でも、ぐずぐずと布団に入っている姿は一度も見たことがなかった。
布団から出たら必ずすぐに何か仕事をしていた。
人より遅く起きることもなかった。

農機具の保守、準備、片付け、に始まり、一日の仕事の始まりは起きて数分後から始まっている人であった。

さて、 好物は分からない。
ぶりが手に入れば、プロ並みに包丁を研いで、刺身をしてくれた。

生の魚を旨そうに食べる人だった。

ズガニがとれる季節になると夜明け前から川に出かけた。
捕れたてのカニを湯がいて旨そうに食べている姿は野性味があった。

旨いものを旨い時期に食いたくなって食う。
そういう人だった。
生き方もそうだったのだろう。

22日の命日に、庭には鈴なりのハッサクが成ると思う。

あの木を植えたのは父だ。
ハッサクが好きだったのではないかと、近年はそういうふうに思っている。

2008年の11月に

初霜や八朔ひとつ供えたろ

とよんだのだ。
私は、そんな簡単なことをやっとそのころから気づき始めたのだった。

2013年1月16日 (水曜日)


 12.3 近づくところ

母の日に、母を訪ねた。
弟が杖を買ったというので、私はこれというものもなく、ケーキを買って行った。

弟が
「おばあさんにソックリになったなあ」
と大きく息をつき沁み沁みというほど、自分の母に似てきた。

ひとつの物があるところに収束するとき、その時系列パラメーターを n として、n → ∞ という表現をする。世の中のすべてのものが、この ∞ (無限大) に収束するか、または、 0 (零、empty)に収束することが多い。

母は、限りなく、あるところに近づいているのだ。
人はそのときストンと終わりたいと願う。

この日に、実家の台所で、母から話を聞いた。

「なあ、うちのお父さんが逝くときには、どんなふうやった?」
「そうやなぁー」
と、母は目を細めて話し始めた。

高血圧で、脳みその中のあちらこちらで血が滲んでいたのだろうか。

「その日の二三日前には既に意識がぼーっとしてたなあ。ビールが飲みたいと言うので、こんな状態で飲ましてはならんと思い、お茶をやったら、『ビールと違うやないか、まずいなあ』、と言うてやったわ」

「どこかが痛かったとか、そういうことはなかったのか」
と尋ねると
「そんなに苦しがることはなかったな。布団に入ってスースーと眠っていて、(父の実姉と三人で布団に入って)、向こうから姉さんが身体を暖めて、わたしがこちらから暖めていたんやけど・・・・、姉さんが『なあ、仁(じん:父の名前)、冷たくなっていくわ。あかんな、もう』、と言うて・・・・。あれが最期や」

1998年に父が逝ってから、身近な人々の通夜を幾度も私は経験してきた。
次はお袋の順番なのかもしれない。
母の日に、私の母から父の最期の話を聞いたことは、ひとつのメモリアルだったのかもしれない。

この日の夜に、「母の日やし、何かせなあかんのかな」と、娘からメールがあった。

「何もいらんやろう、電話だけでええ」
私はそう答えて、それで良かったのだと納得しておいた。

一歩一歩、大人になる。
人は、無限大にある場所に向かってゆくのだ。
しかしそれは、関数論では語れない。

2006年5月17日 (水曜日)


12.4 冬は寒くなくてはならないのだった 大寒篇

まつすぐに十一月の始まれり  鷹羽狩行

冬は寒く長く、確かに辛い季節ではあるが、11月にその覚悟を決めたからには、終わるまでやり通す意思も必要だ。寒いと言って投げていてもいられない。私のいつもの口癖で大好きな言葉で言えば「縄文時代から予測できた」ことに不平不満を言ってはいけないのだ。まっすぐに11月を始めるからには、強くて揺るぎない意思と決意と展望があったのだから。

私たちは怒りや不平を日常として生きている側面があって、それが励みになりプラスの思考ができて羽ばたけるのであろう。大寒を迎える1月20日は、連続的に寒がり屋さんを苦しめた寒さも少し揺るんでいた。今年は穏やかな朝だったと日記には書きとめている。

大寒を迎えることはそれは父の命日を控えてということであり、寒さの中で声も枯れて出なくなった1998年(平成10年)のあの葬儀のことを思い出す。なだらかで優しい山並みも大寒波の到来で白く雪化粧をしていた。嘗てこんな景色になった日があり、父が喜んでか珍しがってか、カメラを出してきて写真に撮っていたのを思い出す。それほどまでにこの山に雪が積もる景色は珍しかったのだが、父の葬儀の日は,峠を越えてくる人が難儀をするほどの雪となった。

21日が母の誕生日なので墓参りをかねて家を訪ねた。誕生日の贈り物などしないのだが、ドーナッツを三つほど買って帰って仏前に供えた。私たちが結婚をしてからの間に葬儀にたった(都合で参列できなかった人も含む)人のことを私が尋ねてクイズのように回想しながら並べ替えてみると、母は考え込むこともなくスラスラと答えて行く。私は1問も正解を出せなかったかも知れないのに、自分の答えが正解ですとばかりに教えてくれた。

房子さん、きしさん、逸夫さん、忠知さん、父、静代さん、さだえさん、としさん、幸一さん、常夫さん、三生さん。

もう結婚式に出席した数よりも多くなってしまった。このあとに連なるのは紛れもなく母の名前であり私の名前なのだ。そう考えると、こうして大寒を過ごすことの大事さが見えてきて、この寒さが不可欠であり、父を語り継ぐためには再び冬を迎えたら寒い冬でなくてはならないのだと思った。

2013年1月25日 (金曜日)


12.5 あのころは逃げ道が用意されていた

体罰のことで社会が騒がしい。桜宮高校のバスケットボール部の生徒が体罰を受けて、その後自殺をしていた事件だ。事件の真相は何らかの形で解明され歴史に刻まれて行くだろうから、私はここで所感も書かなければ言及もしない。

だが、こういう事件を報道で知れば、様々なことを考えさせられる。

ヒトは他のほとんどの動物たちと違って言葉を喋り手を使うことができる。使える以上はそれが武器になってしまうこともあり得る。つまり、言葉による脅迫、そして、手による暴力は十分に相手を制圧するための武器になることができる。

ヒトは自分たちの持った優れた能力が手に負えなくなってきているのではないか、人間という動物として淘汰が始まっているのかもしれないとも思えてくる。

言葉を操り、2本足で歩き、文明を築き上げるという他の動物からかけ離れた能力を持った以上、これをヒトから奪い取ることは、相当に崇高な神の教えやお告げでもない限り、不可能だろう見て間違いない。つまり、その言葉よる暴力も手による体罰も、その概念は消すことができないのだと思う。

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私は小学校4年生のときに父にひどく叱られたことを思い出している。

今は健康ですが、小学4年のときに腎臓の病気(たぶん腎炎だったと思います)を患いまして、2学期に丸ごと入院していました。顔がむくみ、オシッコにタンパクと血が混じるので真っ赤でした。安静にしていることと塩分の摂取を控えることが治療となります。

併し私は気ままなふつうの悪ガキでしたので、病院の中で大人しくしていることはなく、歩き回ります。従って一向に良くならない訳です。何度も注意を受けてそれでも治らない私を父は厳しく叱ったのでしょう。人生の記憶の中で父に何かで怒りを表して叱られたことは1,2度しかないのではないかという記憶の中の1回です。

当然、母が何度も大人しくしていないと治らないことを話しているはずですが、無視したわけでもなく、じっとしているなんて我慢ならないのが普通でしょうから歩き回りました。いっこうに良くならないので父が怒った訳です。

病院の中庭の木に括り付けられて、棒でバシバシと叩かれました。キリストみたいに姿だったのでしょうか。そのときの棒が何だったのかは私には不明ですが、後になって尋ねなかったので今後も不明です。母が言うには父は泣きながら叩いていたそうで、それくらいしかわかりません。今想像するには、中庭に落ちていた木の枝かなにかであったのではないかと思います。木の物指しなんていうような甘っちょろいものではなかった。よく足の骨が折れなかったものだと感心しますが。まあ、そんな風にしたおかげで私の足は腫れ上がり、歩けなくなっていましたので、安静にしているしかなくなりました。

このころは、親の言うことを聞かないと裏口から放り出されて鍵を閉められました。農家の家には入り口がたくさんあり、鍵の掛けられないような戸もたくさんありますので、鍵に意味はなかったのですが、そのピシャリと閉めるところに大きな恐さがあった。

親のほうも、その辺から入ってくることは承知の上で閉め出すのですから、ちょっと喜劇的でもあるのですが、まるで猫をオモテに放り出すように投げ出されます。子どもはそのような目にふだんから何度も遭っていますので、親に叱られることには慣れています。

ところがあの晩の父の叱り方には怖さがあった。小学校4年生ですから、病気を罹って安静にしていなければならない理屈などはわかる訳がない。訳もわからず叱られたような面も少しはあったのではないでしょうか。

父も身体が弱く、腎臓も人ほど強くはなく,若いときに私と同じように少し入院をしたことがあったのだと後で聞きました。自分の弱さを子どもに引き継ぎたくない気持ちがあったのでしょうか、36歳だった父は、このまま足がしばらく動かなくすれば否応なく身体は良くなると思ったのかもしれない。論理的にではなく、親の感情としてそう思ったかも、と想像します。

私はそれから少し親の言うことを聞く子どもになって,病気も慢性化することもなく全快して健康でおります。中学高校時代には水泳も禁じられ、マラソンも程度に応じて許してもらえただけした。大人になっても、風邪を引いて寝込んでもオシッコに血が混じらないか(親は)心配をし続けていましたが、大きな病気になることもなくここまで来れております。

体罰だとか苛めだとか自殺だとか。そういう行為には目標があってのこと。目標をつかまえて、そのための手段に、それらが正しかったのかどうかと考えて、さらに、必ず同時にもうひとつの道、それは逃げ道でも大いに結構ですので考えておくことが不可欠と思います。

私を叩き続けたあのときの父は、何が逃げ道だったのでしょうかね。
父の命日の前の晩にそんなことを考えておりました。

2013年1月21日 (月曜日)


遺す言葉 - 13

生きるということ ─ 平成25年春から

13.1 手がかり

雨水が過ぎて日一日と日の暮れが遅くなるのを感じながら、なかなか温かさが満ちてこないのをじれったく感じている。

寒い日の朝など、布団から出るのを躊躇いながら、父はどんな寒い朝であっても布団から出るのを嫌そうなそぶりすらせず、弱音も吐かずに飛び出していったのを思い出す。

そんなことばかりが記憶にあって、肝心なことを憶えていないというもの物事の常であるのだろうか。

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60歳をやがて迎えるとしごろになって、寒い日の手仕事の最中に指が悴んで凍りつくのではないかと思うような日が増えた。これは明らかに年齢のせいで、指先の血管が細くなっているのか、血圧に変化が出てきているのか、身体の細胞が指の先に至るまで劣化し始めているからなのであろうか、と考えることが多い。

生理学的事実は不明であっても、このような変化は素直に受け取って、年齢に応じた暮らしをしなくてはなるまい。

父が寒い朝に布団を飛び出して、ものの数分後には小屋で片付けやら農作業の準備やらをしていたのを思い出すと、あの人は指が痺れるとか手が悴むとかいうようなことはなかったのだろうかと思ってしまう。

しかし、そんなことは人間である以上あり得るわけがなく、寒いときは寒さにふるえ、暑いときは汗を流していたはずだ。私も同じように高血圧であるから、体質にそれほど違いはあるまい。

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60歳を迎えるころ、果たして父は死というものをどのように考えていたのだろうか。そのことについて二人で語り合ったことは一度もないし、飯や酒の席でさえも触れたことなどなかった。祖父はやはり70歳になる前に逝ってしまっているので、自分も残り10年以内と察していたのだろうか。

死んでしまってからの歴史を逆戻りすることは簡単で、67歳の誕生日を迎えるまでに逝くわけであるが、まさか10年以内をそこまで現実的にとらえていたわけでもあるまい。
死んでゆく覚悟を何歳くらいで心したのだろうか。死というものをどのように捉えていたのだろうか。そういうことを、今自分がその年齢になってみて初めて考える。

これだけはやっておきたい。そういうようなことはなかったのだろうか。あったなら、いったいどういうことを思い描いていたのだろうか。

手がかりがまったくないことがこの上なく残念で仕方がない。

2013年2月26日 (火曜日)


13.2 一子相伝

先日、母の様子を見に家に帰って、少し昔話をしてもらった。わたしも驚くほどとても正確に時系列的な話が次々と続く。

わたしにはとても真似のできない記憶力で、出来事の流れを非常に的確に整理して頭のなかに仕舞ってあるのがわかる。

わたしの祖父は和一さんといった。妻が「るい」さん。和一さんの父は「よっさん」で母が「みね」さん。

祖父・和一さんは村会議員で、曽祖父・よっさんは村長だった。おるいさんは、鍛冶屋の家に生まれて商売はそれなりに繁盛した時期もあったようですが、子どもの頃に母に死なれてしまって裁縫もできない人だったらしい。一方でおるいさんの姑だったおみねさんは、武家の血脈を持つ山田家から嫁に来た人で、裁縫も達者で学もあり字もスラスラと書けたという。

わたしの母がお嫁に来た昭和二十年代後半には、おるいさんもおみねさんも生きていたし、和一さんは家長として威厳を誇っていた。おみねさんは、わたしが生まれたときもまだ生きていて、面影は全く記憶にないが、おばあさんがいたことは何となく覚えている。和一さんはわたしが小学校に上がる頃まで生きていたけど、これも写真が誘発するイメージだけなのかもしれない。

そして、父には兄弟姉妹があって、弟二人(叔父さん)、姉(伯母)と妹(叔母)があった。わたしが生まれたときは、姉さん以外はみんな家にいた。わたしを入れて9人家族だったことになる。母は、一般的にいうよそからきた普通の「嫁」で、鬱陶しい義理の兄弟やら親に囲まれて暮らし始めたわけだ。

子どものころに住んでいた家は、昭和の初期に建てたもので、昭和30年ころに萱を瓦に葺き替えて、昭和60年近くまであった。家の真ん中に8畳間が4部屋、土間の台所との間に6畳ほどの板間の居間があった。さらに土間の隅っこには2つ連なった大きな竈と子どもの胴体よりも太い煙突があった。土間を挟んで背戸(東側の通用口)があり家の正面に構える玄関との間に牛小屋があって、その横に風呂がある。風呂に浸かっていると湯舟の肩から牛が顔を出してきた。牛小屋の横には6畳ほどの下部屋(しもべや)と呼ぶ小さな生活の部屋もあった。便所は外。その先に味噌部屋と物置として使う小屋があった。後に2階建てで上が4畳半と8畳、1階に4畳半と車のガレージを持つ小屋に変わる。その小屋はわたしの父が日曜大工でコツコツと3ヶ月ほどで建てたものだった。木材もうちの山から切り出して、製版も自分でした。

家屋そのものは大きいのだが、住んでいる人数も多かったので、現代の新妻だったら一瞬も我慢ができないというか、嫁入りする前に病気になってしまいそうな状況だ。

母は、あまりその頃のことを悪い言葉で回想しないが、涙も枯れるほど辛かった日々であったのは間違いなく、思い出しながら話す言葉が淀むのがわかる。60年の歳月でもはや許してもいいと思っているのかもしれない。今更、という気持ちもあろうか。

和一さんは時代の先を読める人だったと繰り返していう。頭が良くてよく切れる人だったと今でも褒める。世間でいう意地の悪い姑や姑の悩みは抱いたこともなかったようで、時代に相応の扱いだったという。しかし、現代に当てはめたらきっと非常に悲しく厳しい物語になるだろう。そのことはあまり口には出さない。

とにかく、賢くて立派であったと誰もが口をそろえていう。その息子だったわたしの父は、あまり大袈裟に褒める人もないが、この人も嫌われる人格ではなく、悪口を言おうとしても何ひとつない人だった。仲人も数えられないほどしたし、ある意味で慕われていたのだろう。役場の寂しい職員だった。

祖父から父へ何が受け継がれたのだろう。そんなことをときどき思い、さらに、父から息子であるわたしに何が受け継がれたのであろうか。

じっと頭を冷やしながら考える。
わたしは何を受け渡せるのだろうか。
そういうことを考える年齢になっている。

白い紙に「一子相伝」と書いてみる。
落ち着いたいい言葉だ。

子供の頃の家(屋根葺き)
子供の頃の家(屋根葺き)

2013年4月15日 (月曜日)


遺す言葉 - 14

伝えるということ ─ 平成25年夏から

14. よもやま話 (おぼえがき)

食卓のある部屋には私の横に腰掛けているツマと私の母がいて、黄金色に広がる麦畑を窓から眺めている。

梅雨になったのに一向に雨が降らない話をしている。そして、雨が降ってばかりでも困るという話になる。
麦の生産地としてこの辺りは優れていて良質の麦がたくさん収穫できるところだという。
しかも、その時代は養蚕も盛んに行われていたので、蚕さんの桑を摘んでやったり、麦刈りをしたり、刈ったらすぐに田植えが始まりと、6月は忙しい時期だった。

梅雨の季節は農業を生業とする人々が、1年で1番辛い季節だったのかもしれない、と思うと心も痛む。

梅雨の頃だからジメジメしているのだが、田んぼが待っているので早めに麦を刈り取り、庭に筵を広げて干したものだという。
だから、雨が続くと干す場所がなくなる。
家の中には、八畳が四間続くようなところがあっても、蚕さんが占めている。
麦を干す部屋などなかった。
そこで、雨が続いてしまうと湿った麦は腐り始めるのだ。
その昔に、2度ほど腐れせてしまった年があったそうだ。

作物が取れないということは生きてゆく手がかりを半ば失うことになる。
さぞや苦しい暮らしだったのだろう。

(わたしが)赤ん坊の頃の話を母がする。
つまり母が嫁に来て数年以内の頃の話を回想している。

こうして窓から麦を眺めていると綺麗だが、刈り取りのときは、はしかい。
はしかいとは、麦のようなチクチクするものが背中などに入り込んだ時の痒さをいう。
はしかい、に代わる言葉はない。
(母に)はしかい思い出が満ちてくる。

子ども(わたし)にお乳をあげねばならないのだが、汗をかいてその上に麦のイガイガをかぶっているから、首から胸にかけてなどとても痒かったという。
風呂に入りたくて仕方がなかった。
自分のためにも子どものためにも。
だが、Mっちゃん、Tちゃん(わたしの叔父)が2人もまだ同居している時代だった。
昭和33年とか34年の頃だ。
嫁に来た自分が先に入ることなどは絶対にない話であった。

Mっちゃん(上の叔父)は高校生で夜遅くまで勉強をしていたので、夜も更けて11時ころにならねば風呂に入らない日が多かったという。
作物が獲れない季節が続けば食うものにも事を欠くこともあって、学校に持っていくお弁当のおかずに困ったことがあったという。
そんなとき、お昼の弁当のおかずが気に入らなかったといって風呂の湯を抜いてしまうという意地悪を2度ほど受けたという。
そんな話をしているときに、その母の回想を聞きながら、ツマはそっと涙を拭いていた。
10人ほどが暮らしてる大家族で、子どもにお乳をやって、風呂に入って、嫁としての勤めを果たしてきた。
母は、そういう時代だったのだから、仕方がなかったのだとつぶやく。
もはやあの時代を許すとか許さないとかいう問題ではないほどまでに過去になってしまった。

仕方がなかったという理由で済まさざるをえないということが、歴史的な事実ではあるものの、よその家より不幸であったことは間違いない。
どこかに記録しておいても罰(ばち)が当たるわけでもなかろう。
そう思いながら私も話を記憶に留めてゆく。

数年経って後に(わたしの父の)2人の弟は進学や就職で家を出てゆく。
同時に姑、大姑が亡くなり、義妹が嫁いでゆく。
私には5つ上に姉があったが、1年足らずで亡くなった。
そして下に1人子どもがあったが生まれる前に亡くしたという。
さらに5歳離れた弟が生まれたころにお爺さん(わたしの祖父)も亡くなった。
2年ほどして東京オリンピックが開催される。(昭和39年)

お爺さん(わたしの祖父)は時代の先を読める人だったとは母はいう。
ある種の尊敬の念がこもっているような気がする。
生前に、これからはテレビの時代やと言って、貧しいながらも田舎には非常に珍しいテレビというものを買っていた。
私はオリンピックをテレビで見たらしい。
(都会ではそのテレビがカラーになってくる時代を迎えていた)

2013年6月 7日 (金曜日)


遺す言葉 - 15

向き合うということ ─ 平成25年秋へと

15.1 脳梗塞 その1 ─ (お見舞い)

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┘┛叔父は辰年。
┘┘
私の父の一番下の弟です。1940年生まれです。4年ほど前に脳梗塞で倒れ重度の症状が出て右半身不随。言葉もかなり不自由です。それ以上詳しいことは、叔母さんによう聞かんのでわかりません。脳みその60%が詰まってしまっていると叔母さんは説明してくれました。
┘┘
┘┛無知でした。
┘┘
こういう病気や症状を持っている人について私は無知でした。脳梗塞で倒れた人が身体が不自由になることを言葉で知っていましたが、現実を見たのは初めてでした。知らないことはいけないことだったと思います。知らずして社会を論じることは出来ない。そういうこと(病気の側面の他に、介護、家庭内問題、夫婦、お金など)をしっかりと考えなくてはならないのは、私たち元気な人の使命であると思いました。もちろん、自分がやがて直面するのですが、それ以前に、もっと向きあうべきでした。
┘┘
┘┛現実の裏
┘┘
それぞれのみなさんはどのような気持ちでこのような人と向き合っているのか。叔母さんが話してくれなかった現実や言えないこと、きっとたくさんあるはずだ。そういうことにもっと触れて、理解し無くてはならない。そう思っています。介護や医療の立場の人の視点からの所感なども大いに聞きたい。
┘┘
┘┛お恥ずかしながら
┘┘
私も今ごろになって夏の健康診断で、腎臓の機能の指標であるクレアチニンがやや高いと指摘されました。実はもう少し前から指摘されていたのですが、太りすぎで高血圧だから、まずそれを治してからと考えて安易に対応していました。しかし、今年の健康診断は、容赦なくしきい値を超えて警告マークをチェックしていました。数字だけを見ればそれほどの変化ではなくても、いよいよ私も取り組まねばならない。そういう時期を迎えている。8月から切りの良いところでお酒を断って(減らして)数字上の改善結果を得る努力に挑戦しようとちょうど考えていたときに叔父さんのお見舞いに出かけたわけです。

(続く)

2013年8月 5日 (月曜日)

15.2 脳梗塞 その2 ─ (面会)

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┘┛無表情
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叔父さんのお見舞いに行くのは2度目です。発病して直後くらいに病院へ見舞いに行きました。そのときは簡単な会話ができました。しかし、今回は僅か4年ほどしか経っていないのですが、言葉が不自由そうだったのでショックを受けたのです。もしも、寝たままになったとしても、感情を表せる手段が残ることは、依り所が残ります。無表情にいる叔父さんを見ていて、様々な思いが駆け巡ったのでした。
┘┘
┘┛感情のやり場
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手足が動かない、言葉が喋れない。これは、苦しいことです。歓びや悲しみを伝達できない。それはすなわち、愉しみを自分の中に持てないことになってくる。愉しみがないのに生きる勢いが生まれるのだるか、とマイナス思考に陥ってしまいます。私は苦しい、辛い、と同時に怖いとも思いました。今を自由に生きてきているだけに地獄にいるような感覚です。しかし、叔父さんはそんなことを思わず生きているし頑張って夫婦で(介護を受けて)暮らしている。釣り堀にも行くし、デイサービスも週に4日行くと言ってました。ささやかな対話が夫婦の間に存在するからなのだろうか。それも質問はできませんでした。

(続く)

2013年8月 6日 (火曜日)

15.3 脳梗塞 その3 ─ (その人)

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┘┛血圧が高かった。
┘┘
本態性高血圧であった私の父も高血圧症で脳梗塞でした。しかし、投薬はしていましたが、食事を心得るようなこともせず、生活に気を配ることもしていなかったと思います。一方で叔父のほうは、食事中にもうどんのスープを飲もうとするところを叔母さんが厳しく注意したり、塩分の高いものをパクパクと食べようとすると普段から咎めていました。素直に応じていたとも言えませんが、何らかのブレーキにはなっていたと思います。
┘┘
┘┛亭主関白で自由奔放な人
┘┘
叔母さんの言うことなどは、外食などでは気にかけていなかったのでしょう。社会的にも地位・名誉も揃った立派な人ですし、お小遣いがあってもなくても親分肌で、面倒見が良かったし、憎まれることも言わない人だから、人付き合いも広かった。定年後もその勢いだったのでしょう。
┘┘
┘┛長嶋茂雄さんが脳梗塞ですね
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長嶋さんがテレビに出ていたのを国民栄誉賞のニュースで見た覚えがありますが、杖を突いて立っているだけなら叔父さんもそれほど変わりません。背筋をまっすぐにして顔もキリッと引き締まっています。長島さんの症状がどのようなもので、日ごろどのような治療をして、どんな暮らしなのかはわかりませんけれども、自由に動けなくなったのでさぞや悔しい思いをされているのでしょう。叔父さんも高校野球をしていましたし、社会人になってからはスキーや登山、釣りなど活動的でした。

(続く)

2013年8月 9日 (金曜日)

15.4 脳梗塞 その4 ─ (暮らし)

┘┘
┘┛叔母さんは申年
┘┘

叔母さん私より13歳年上で申年です。私からすれば歳の離れたお姉さんのような感じです。夫婦は仲良しだったし、お互いがよく理解し合えていたようですから、羨ましい仲良し夫婦でした。だから、一生懸命に世話ができるし、世話をしているときも通じ合うものが多いのではないかと思います。この年令で車にも乗れるのが幸いです。

近所の釣り堀に出かける話を聞いたときはホッとしました。しかし、13歳下の私でさえ車に乗りあれこれと忙しくするのはもう嫌やな……と思うことがありますから、叔母さんも弱音を吐きたいときもあろうかと思います。でも、それも質問はできません。

┘┘
┘┛娘二人と息子
┘┘

子どもは三人です。長女次女長男の順で、女の子は東京に行ってしまい、男の子は近所にいます。親子というものを考えさせられます。

子どもはどこまで親を思うものなのか。どこまで世話をするものなのか。孫がいますが、孫が来てくれると嬉しいようです。

しかし、一時は自由にならない身体の周りで走り回る孫たちに癇癪を起こしたこともあるようでした。それで普通だと思いますし、何とかしてあげたいとも思う。

子どもは想像するほど親のことを思っていないように見えます。生きているからそんなふうになるのでしょう。死んでしまって10年以上も過ぎ呼び戻せなくなったとき、子どもは決して(思いは同じでも)おこないは違ってきましょう。

┘┘
┘┛暮らし
┘┘

あまり書いてあるもので読むことがないのですが、お金のことを(現実的なことを)明かさないように思います。介護をするには金が掛かるでしょうに、そのことで愚痴や嘆きや不満を吐き出す人が多くは目立たない。言っても仕方ないという諦めなのか、現実と受け止めて望みをしてて時期を待っているのか。

金が掛かるはずですが、現代社会のみなさんはどうしているのでしょうか。

私が現実に直面したら、即座に金庫は空です。餓死はないと思いますが、行き届かない日常を送ることになりましょう。首を吊って命を絶った人の話を聞きます。しかしこれも表面化しない大きな問題で、実は大きな流れではないか。

(続く)

2013年8月10日 (土曜日)

15.5 脳梗塞 その5 ─ (現実)

┘┘
┘┛自分の不安
┘┘

当然、自分が不安になります。ツマと私。どっちかが先に逝きます。必ずどちらかが残る。順番からすれば子どもが残ります。

昔、父と母が二人でドライブに行った時の話をしてくれたことがあります。県境の山深い谷を控えた道を走っていたのでしょうか。「このまま二人でダムの水の底に沈めば楽やな」と言い合ったと話してくれました。その言葉の意味や理由は多くの人が理解できると思いますが、そのように考えるに至った過程や心情を細かく分析すると解らないことも次々と出てきます。

父は6年間の闘病生活を経て4ヶ月の苦しい時期を乗り越えて数時間の地獄の時間を送ったあとに逝きました。診断書から推測するしかないのですが、事実を語るものは何も残っていない。私が後を追って確かめるしか手立てはない。

┘┘
┘┛脳梗塞の現場
┘┘

生きておれないと宣言されて生きていた。寝たきりと言われていたが、週4日のデイサービスに通えるまでになっている。自力で自室なら辛うじて歩けてトイレも行ける。

しかし、照明の自動設定が私たち来客者によって変わってしまったら、次にトイレに行ったときに困ってしまう。叫んでもツマにすぐには届かない。

そこには治療の現実の他に介護の現実があり、病気がもたらす生活の実態がありました。

先にも書きましたが、お金もかかるし(マンションなどの)社会的な付き合いも迫られる、生まれ故郷を訪ねて行きたいという願望も湧き上がることがありましょう。

┘┘
┘┛やがて、私も
┘┘

みなさん、どのように向き合っているのでしょうか。やがて私が向き合う現実と重ねます。それって誰もが直面することですね。

(続く)

2013年8月11日 (日曜日)


遺す言葉 - 16

一子相伝─ 平成25年秋から冬へと

16.1 父の日記

おともさんが つれづれ (10月15日)という日記のなかで
「父の日記を読ませてもらった。父が日記をつけていたとは知らなかった。」
と書き出している。

親と子どもというのはギャップを持った関係であることが多い、と私は常々感じているので、その日記の先を読みながら、子どもの視点を確かめているような気持ちになってくる。

父や母というものはその正体をなかなか理解されないものだと思う。正体というと曖昧だが、それは、子どもを思う心(それは心配のこともあれば、将来の夢のこともあろう)であるとか、子どもの日々の行動を見詰める・気にかける視線であるとか、連想する着想点・着眼点であるとか、様々な感情要素としての集合体のようなものとして考えている。

子どもの側からの言い分ではおそらく、(自分は)父や母が子を思う心はよく理解しているしいつも感謝をしているのだから……、となるのだが、その理解認識の程度に細やかなギャップがある。

自分が父や母になって子どもを持ち、たぶん孫を持つようになって、8割ほどの人がそのことを理解できるのだろう。それまでは教科書で過去の歴史を学んだのと同じ程度であると考えてよく、押しなべて言えば、子どもは考えているほどに親のことを気にしていない。気づき始めるのは死んでからのことが多い。

もうひとつ言えば、何も、それを悪いとか残念だとか、改善課題だといっているのではなく、それでいいのだと考えて良い。

何故なら、そんなことはハナから当たり前のことで、何人もの子どもがあった時代には尚更のこと、末っ子に近づくにつれ親とは早々に死に別れる運命を背負っていたのだし、愛情の度数とは別に自立心も抱いていた。つまり、ずっと昔からそうだったのだから、そのままで良いのだが(そんなことが言いたくて書きだしたのではなかった。大きく脱線してしまった。)

子どもというものは父や母の日記や行動や考えにはあまり感心を持たないことが多い例をこれまでにもいくつか見てきた。友人が(母という立場で)ブログで日記を書いているのをムスメさんは(子どもという立場で)あまり感心を持たないし、熱心に読むことはあまりしない傾向があると感じてきた。しかし、その逆は全く成り立たなくて、母は可能性を追求するようにムスメのブログやツイッターを必死で追っていた。

そんなもんでしょ、と言ったらオシマイである。

ヒトは、このギャップの人生を送り、失くしてから反省するのである。あまり冷めてしまって物事を捉えてもいけないが、何事も理屈どおりに考えて成し遂げられることは世の中にも人生にも人間関係にも稀であって、ハナからそういうものに必死になって立ち向かうことを考えるのはよしたほうがいい……と指南書めいたことも、ほんとうはお節介なことなのかもしれない。

私はここで【- Walk Don’t Run -】遺す言葉というページを書き続けて、それを書くためにこのブログをやっているのだが、このページは誰も読みにやって来ないことがわかっている。もちろん、他人が読んでも面白くないし、感心も湧かないだろう。ではわたしが死んでから誰かが読むかというと、可能性のあるのは家族だけであるが、その可能性もほとんどないだろう。

では、何故書くのか。

わたしは父の日記をこの「遺す言葉」を書くためにどうしても読みたいと思ったことがあった。母を訪ねて押入れや倉庫や蔵までも調べたが、残っていなかった。筆跡さえも殆ど無かった。

わたしはなにかその幻のようなものを追い求めるために書いているのかもしれない。このごろ時々そう思う。

父の日記から
父の日記から

2013年10月16日 (水曜日)

16.2 伝えるということ

旨味と甘味

父は甘い物が好きだった。そんな気がする。

いや、とりわけ好きだったわけでもなかったかもしれないが、みんなが甘いものを嫌いだと言って顔を顰めるときでも、さらりとひとくち食べている姿が記憶にある。

もしかしたら、甘いものを受け入れる分、左党ではなかったのかもしれない。

だが、ついぞ、好き嫌いの話を聞いてみたこともなければ、そのことで酒飲み談義をしたこともなかった。

何が好物だったのだろう。秋に旨いものが食卓に並ぶたびにそんなことを思い出す。

▼穭田のひっそり朝を待つ季節

そんな季節が訪れた。

父はズガニを捕るのが名人級だった。

秋になると毎朝、夜明け前から川に出掛け籠いっぱいのカニを捕り、茹でて、旨そうに食べていた。旬を愛した人だったのだ。

投網も上手だったので、一年じゅう川に出掛けていた。

その中でも、ズガニがとりわけ好きだった。しかし、特に誰にも賞賛されるでもなく、その腕っ前も知る人ぞ知るというものだった。

そしてその腕前の凄さが、やはり後年になって明らかになってくる。何故、あのときに一緒になってその腕前を引き継がなかったのか、残念で仕方がない。

松茸山の在り処もズガニ捕りのコツも、根っこつ(根っ子の木の置物)の仕上げ方も、わたしは教えてもらおうとしなかった。今思うに、自分という人間はなんて思い上がりの激しいアホなやつだったのかと反省をする。

一子相伝という言葉の通り、父の技と心を受け継ぐことが大切だったのだと気付いたのは、亡くなってからひと昔以上が過ぎてからだった。遅すぎた。

あの人の感じていたことを、今のわたしが受け継いでいれば、あの人と旨味談義を交わしていなくても、答えは自明だったのだろう。

「伝えるということは、何事においても、無言であるのだ」というようなことを、たびたび説教じみながらも話していた父のしたたかな視線と手さばきを思い出す。

▼ズガニ捕る水の冷たさ子は知らず

2013年10月18日 (金曜日)

16.3 秋仕舞

▼里芋の皮を剥いている丸い背中

13日(誕生日)は日曜日、京都に行く予定だったので、その前に家を訪ねたら母が裏で里芋の皮を剥いていた。

サトイモ

笊に山盛りの芋を菜刀で剥いていたのを見て、子どものころ、裏の小川に晒して自動で皮を剥く水車のような道具があったのを思い出す。

あれは一般的なものだったのだろうか。そんな話を母としている。

菜刀で剥くので角がゴツゴツしている。もう歳なので、面倒くさいし、手先も器用には動かない。

▼日の暮れに鎌洗いたる秋仕舞い

サトイモを洗う姿を見て、さらに、父が鎌や鍬を溝(を流れる水)で洗っていたのを思い出す。土のついた刃から泥を丁寧に洗い落としてゆく。

あのころは、家の軒先を流れる川にも豊かで綺麗な水がいつも流れていた。農地が区画整理されて、水路が農業土木技術の論理通りに作り替えられてしまうことで、庶民と小川との暮らしの姿も変わっていった。

何事においても、ヒトの知恵や工夫が染み込んだものが姿を消し、合理性を求めた近代化のモノが当たり前になってしまった。豊かになったような錯覚である。

▼柿すだれ父が呟く声がする

柿を簾のように縁側にかけている家も見かけなくなった。里芋の皮を剥く母のうしろ姿を見ながら、柿の皮むきもこのようにコツコツとこなしていたのだろう、と思う。

菜刀の切れ味が悪いときは父が砥いでくれたのだろう。何しろ名人級の腕前であったのだから。近所の包丁も頼まれてよく砥いであげていたのを思い出す。

コツコツ仕事をするときに息子を横に座らせて、小言でもなく、人生哲学でもない、愚痴でもないことを静かに話しながら、作業をした父を思い出す。

作業とは、つまり、包丁を磨ぐことや柿の皮を剥くこと、道具を片付けること、縄をなうこと、注連縄を作ることなど、様々な農家の営みや暮らしの中にあることである。

遺す言葉16から
遺す言葉16から

2013年10月20日 (日曜日)


遺す言葉 - 17

いつかは父と、叶わぬもの ─ 平成25年秋から冬へ(続)

17.1 いつかは父と……

◎髭のこと
◎酒のこと
◎オシャレのこと

そのように書いたおぼえがきがメモ(アプリ)のなかに残っている。古くなってどんどんと下に追いやられていってしまう。

しみじみと父のことを思い出す夜に、静けさがこんなことを書かせたのだろう。

何の取り柄もなく、何かを主張するわけでもなかった。何かに激しく怒りを表す人でもなく、酒を飲んで饒舌にしゃべる人でもなかった。

現代農業と日記帳を枕元に置いていた。

たまにTVを見るというと、日曜美術館くらいのもので、またさらにみんなと並んでドラマでも見ることがあると、そっと涙を拭いているような人だった。

根っ子つ(彫刻)をしたり、尺八を作ったり吹いたり、絵を描いたりしていたのだろう。そういう1人の時間のときのあの人に私は関心を持たなかった。

こういう類の話は往々にしてあることで、多くのみなさんが生前のその人を回想するときは、多かれ少なかれ感じられるのではなかろうか。

自分とひとりきりで向き合っていたあの人と、どうして一緒の席にいって言葉をかわさなかったのだろうか。

「いつかはオヤジと飲みたかった」みたいな回想記を書かれている人を見かけることが多い。みなさんは、そろって、そのときの自分のことを悔やんでいる人が多い。

たぶん、父は待っていたのだと思う。

でも、内緒の話だが、オヤジさんが元気にして生きている人には、そのことを教えてあげないことにしている。それはニンゲンの宿命だから、未来を変えるようなことはしてはいけないのだ。

(各項に続く)

2013年10月24日 (木曜日)

17.2 (続いてきて)、おしゃれ

(続いてきて)、おしゃれ

それほどオシャレな人ではなかった。だから私があの人のオシャレの何を回想しようとしたのか。このメモを書いたときの心理を思い出せずにいるのだが、推測は着く。外れのない推測。

子どものころの写真が何枚かどこかにあった。あったというだけで満足している。今ここで出してきて偲ぼうというセンチな気持ちはそれほどない。自分の頭の中にある記憶が一番頼りになる。

その写真では、鳥打ち帽を被って、分厚い外套を着ている。昭和30年代に三十歳くらいだった若者は、みんなそんな格好をしていたのだ。伊勢神宮の内宮の鳥居の前で私は肩車をしてもらっている。

農作業をするか、山仕事をするか、寝てるかだけの暮らしの中で、洒落た背広も着たかっただろうにな、と思う。

テーブルマナーはよく知っていた。とある席に父と座らねばならなくなったことがあり、父が心配でドギマギして慌てたことがあった。しかし、無用であった。私よりも安心してみておれたのを思い出す。

何も知らない人だから、恥ずかしくもなく、わからないことがあったらすぐに尋ねるからよく知っているのだと母は言う。

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とよく口癖のように私に言った。

おしゃれのことを書きながら、あの人には「オシャレ」というもじよりも「おしゃれ」のほうが合うような気がしてきている。

(続く)

2013年10月25日 (金曜日)

17.3 (続いてきて)、髭のこと

(続いてきて)、髭のこと。

私の母は髭が嫌いだ。私のツマも髭が嫌いだ。だから、父は髭を生やしていなかったのだ。

父本人は生やしたいと思っていたようだが、一定期間口髭を生やしていたのを見かけたことはなかった。と言いながらも、私が小学生くらいのころに勢いか遊びで生やそうとしたことがあったかもしれない。母に苦言を言われていたような気がするのだが、しっかりした記憶ではない。

赤髭だったこともあって、しばらく伸ばしてやめてしまったのかもしれない。

しかし、私は30歳くらいから50歳くらいまで伸ばしていたので、同じ性分だったとしたら、おそらく母に嫌われたので控えたのではないか。

私の弟は50歳を過ぎる頃から、なんだかモゾモゾと生やしている。

私は人生で一番たくさん人に会う時期に生やしたこともあって、多くの人に「髭の○○さん」と呼ばれる。今は、ツマの意向で剃り落としてしまっているが、60歳くらいになったら昔のようにしたらええわ、と言ってくれている。

永年あったものが無いと寂しいな、と思うことは時々ある。自分の人生、寂しく生きるのは嫌である。無いと寂しさを理解してくれる人はほとんどない。しかし、父と弟はわかってくれそうだ。

私の髭はわりと整然としていて、天皇家の殿下のようだったこともあり、私のことを殿下とか教授と呼んで茶化してくれた人もあったが、私の父や弟は残念ながら赤髭で草が生えたようなものである。それはそれでもちろん、羨ましい。親からもらった髭なのだから。

(続く)

2013年10月26日 (土曜日)

17.4 (続いてきて)、酒のこと

(続いてきて)、酒のこと

酒は、からきし弱かった。ビールをコップ1杯飲んで真っ赤になっていた。

面白そうだとか興味があるからといって、楽しそうに新しい酒を飲むことがあったが、それ以外では、旨い酒をひとくちだけ飲む人だった。

もちろん、勢い余って飲み過ぎたこともあったのであろうが、私が酒と出会ってから見かける父の酒は、非常に大人しい酒であった。いつも必ず、飲んだら眠ってしまうような人だった。

母が言うには、ドジョウすくいの隠し芸がとても上手だったそうだ。地区や職場の酒の席では、ほどほどに飲むにとどめて、そういう芸を披露していたのかもしれない。

決して多弁になることもなく、ヒトの話に耳を傾けるでもない。(難聴だったのであまり賑やかな席は好きではなかったと思う)

苦言を言うわけでもなく不平も言わない。怒ることもない人だった。(了)

2013年10月27日 (日曜日)


遺す言葉 - 18

平成25年の終わり

18.1 火吹竹

火吹竹がテーマになって、ふと思うこと。

おくどさんを瞼に浮かべている人も多そうで、とても懐かしい風景が蘇ります。

冬の竈。そのねきでのてったいは、ぬくかった。

外でする薪割りよりも楽やった思い出が多いです。

(11月16日)

2013年11月17日 (日曜日)

18.2 30年という言葉で探ってみる ─ 小雪篇

もう、小雪をむかえるのかと驚く反面、年の瀬が少し待ち遠しかったりもする。

▼小雪や風邪そこそこに靴磨く

様々な難題や岐路に立たされたり、あるいはゆとりが出来て人生を振り返るようなことがあるときに、私は幸せであったのだろうかと何度も繰り返し考えた。

そして、貧しかったことが即ち不幸となったわけではなかったというような朧気な解決でひとまず落ち着く。

身の回りには、資産家を受け継ぐ人もいれば、安定した事業を譲り受ける人もいて、或る時それを羨みの気持ちで見たことも何度かある。

しかし、無から有を生むためには私が舵を切らねば歴史は変わらないのだから、と思い、何も残せないけれども子どもには知の資産を残そうと漠然と考えた。知と仁があれば自分で歩めると信じたからだ。

6年制の私立中学に在学しているときに企業をやめたので、それから大学を卒業するまでの間に日本育英会の奨学金を400万円あまりを借金した。その負債は子どもに今も負わせている。

私の子育てに間違いはなかったと今でも信じているが、1円も肩代わりをして返済をしてやれないのは辛い。

■■

そんな苦渋の時代に、豊かさについて考えている。

豊かさと満足度
2008年(平成20年)6月12日 (木)

続・豊かさと満足度
2010年(平成22年)5月15日 (土)

何故こんなものを今ごろ見つけたのかというと、先日(前の日記)に読んだ宮本輝の小説の中に「30年」という節を見つめて未来へと生きてゆかねばならないということが書いてあった。

そこでちょうど、私もこの「30年」という数字で人生を振り返ったことがあったと思い起こし検索をしてみることにし、ブログの中にある検索窓へ「30年」と打ち込むと87件のヒットがあった。

社会批判や怨み、妬み、愚痴、不平、など、言い出せばキリがない。

宮本輝の小説「三十光年の星たち」のあとがきのなかで、非常にスカッとするほどに纏められた宮本輝の言葉がある。なかなか、言えないのではないか。

2013年11月22日 (金曜日)

18.3 余命と余生

▼老化してくると─老化しなくても、多面的な視点を失うのではないか。

三十歳を過ぎたころの一番勢いが乗って力強く邁進している時期が人の姿としてもっとも美しいと考えていたころがあった。それは間違いではなかったと省みるものの、第4コーナーを回ったモノの姿も美しいのだということに、自分もそのコーナーを回って以降に気がついた。垣根を曲がって見えるものが増えた。

▼棋士が高齢になるにつれ弱くなってくるとすれば、体力や頭の回転の老化ではなく、頑固な姿勢ではないか。

つまり強情になってくるので、柔軟な戦術よりも自分の気持ちを前に出してしまうのだ。その姿勢を何ら否定するつもりはないし出来るわけがない。ただ、坂田栄男、藤沢秀行という恐ろしいくらいのエネルギーを発散した人も碁の世界にはおられた。かの方々は、やはり勝負というものに対して辛くあったけれども視野が広かった。

▼余命と何か。科学的な話をしようというのではない。

私も、父が逝った年齢まで10年ほどと迫った。(祖父の逝った年齢にも同じであるし)見渡せば親戚じゅうの男性はみんな若いうちに逝っている。そういう血脈である。私が例外でいたいとは今更考えないし、希望もしない。

▼母は80歳を越えており、今年の冬にお迎えがあっても構わないように覚悟をしているだろう。

覚悟ができるほど頭が回転しているからまだもう少し先だなどと大勢に励まされているが、祖母(母の母)が長生きであったことが心の励みなのかもしれない。逝く間際まで極めて健康で意識も正常、数学の足し算などは私よりも正確な早さを誇っていた祖母であり、それを受け継いだ母である。あのように逝きたかろうな。今年の冬がとりわけ寒そうだと予想するだけに心配と覚悟が引いていかない。

▼年末やら年始を迎えるにあたって、様々なことを思うようになったのは、老化のせいか。

老化という言葉は良くないと言った人があった。「熟年」であると言いなさい、と改められた時代がある。

しかし、紛れも無く老化であるのだから、それでいいのではないだ老化、なんてオヤジなことを言いたく成るのもこの年齢である。

◎◎

▼姿勢を正し、純真な心であらゆるものと向かい合える一つの必要条件が余生を見据えた視線ではないか。

何も死んでしまうことを想像するように薦めているのではない。

光が届く限りの地平線を見ながら話をしようじゃないかというような気持ちでいたい。

2013年12月18日 (水曜日)

18.4 年末雑感

▼若いときは勢いもあったしそれなりに見えていた未来もあったので、年末年始を始めとして、その他宗教だけではなく、伝統行事的習慣に反発心を抱いたり、反抗ではないにしても異論的な視点をアピールしたりしていた時期があった。それは、(年末年始行事だけではなく、)行政施策であっても、日常の慣例行事であっても、また身近な人間関係であっても、である。

▼人生(生涯)のひとつの時代としてそんな時期が存在しても構わないし、なくてはならない時代であったとも省みるのだが、そのような視点を永遠に持ち続けるということには、このごろ異論を持つようになってきた。私なりのあの頃を顧みて反省をして、肯定もして、次期ビジョンにも役立てることは出来ないものかと考えてことが多いこのごろである。

▼異論を持つということは、こうでなくてはならないという強い意志を持ち突き進む人に対して、立ち止まって考えてもいいのではないかと投げかけるようなケースがあり、また、成功するためにはある手段が最適だと考える人に対しそうでもない別の視点や論座を提示したり勧めたりするようなこともあって、ある意味では逃げであり、弁解であり、また投了でもあり、寛容でもある。

▼社会は情報科学と経済・財政学のような底流が表に浮き上がってきたような形でねじれながら浮沈を繰り返してきた。そのことを否定するつもりはないが、そういう社会構造(既に過去のものであるもの)のなかで心に焼き付けられた成功の図式や邁進する際の尺度はそう簡単には変えることができない。

▼大雑把に言えば、今年に行われたアベノミクスという正体不明だった言葉にお馬鹿にも翻弄された人々がいた事実と、その人々の反省がそれほど見てこないまま、対座する論考も浮上することなく、新しい潮流はスッキリとは浮き上がれないままで少なからず進化をしてゆく。

◎◎

▼そんな中でも、特定秘密保護法というものを強行に採決をして、さらに多くの反対意見や論考に筋道を立てて説明をすることもなく、感情的な反発心をのこしたまま、メディアにも非難され続けて、走りぬけようとしていることが大きな問題なっている。

▼しかしこのことが、100年単位でまとめてみても、歴史的事件としてとても消すことのできない程のものであるであるのにもかかわらず、国民の隅々までに浸透してるのかどうか不安な状態のまま、政治は過半数を持った勢いでジリジリと進む。

▼止めることをできなくしたのは心まで貧困に成り果てている国民のなしたこと言って終わることも可能であろう。しかし、一旦悪い道に踏み込んでしまっても何らかの方法で未来へと繋げたいと努力するのも私たちの責務である。

▼だから、いい加減で自分のことだけを考えるのはやめて、みんなが幸せになることで自分も幸せになれる政策であり暮らしスタイルを拓かねばならないのですが、国民の「豊かさと満足度」からくるボケはなかなか治らん……。

◎◎

▼(Sさんに書いたコメントから)

そうは言いながらも、最近は節目が大事だなとよく思います。 宗教とかは関係なく、人として暮らす上で、文明が生み出したひとつの知恵でもあるとさえ思えることがありますね。近所のお店。景気のいい時代は元旦営業でしたが、この1,2年前から元旦のみ休業も増えました。今年は、仕事納めの日に、社内のお世話になった人に挨拶にいってきました。齢を食うと(みなさまの)「おかげで」ここまでこれましたありがとう、と思うことが増えてきます。頑固にもなりましたが。

▼(Oくんに書いたメールから)

秋ころから余り見かけなくなったので転勤したか何か事情ができたのかなと気にかけていたりします。この年令では、組織的にも身体的にも社会的にも突然な何かが起こっても不思議ではないので。 多かれ少なかれ冷静ではあるものの不安もあり、便りのないのは(訃報がこないのだから)良い知らせなのだという本質的な意味もこのごろ理解出来つつあります。 お忙しい年末ですか。昔のように正月らしく正月を送ることを忘れた(捨ててしまた)日本人ですが、どうなるんでしょうね。 齢を食ってだんだん、昔の頑固爺さんのようになってきたなと自分でも感心してます。 今年はどうもありがとう。

◎◎

▼脱線修復。

▼そういうわけで、年末年始には何もしないで過ごしたのがこれまでの慣例だったのだが、それを取りやめてできるだけ多くの皆様方に今年一年のお礼を伝え今後ともの発展を祈願しひとつの年の節目として意識を新たにしたいと考えています。

▼もう何年も前から数え年で年齢を勘定するようにしています。若いときはこのシステムをそれほど良いとは思わなかったのですが、なんて素晴らしい方法だろうと思います。

▼十二年毎にやってくる干支。十年毎にやってくる十干、一年を二十四節に分ける二十四節気、29.53日の周期で遷る月齢、一年に四度変化する季節。こういうときの節目に纏わられて生きている暮らしに感謝をしたい。

2013年12月28日 (土曜日)

18.5 島倉千代子さんのこと ─冬至篇

平成25年が更けゆく折の冬至を迎え、心のどっかに寂しさのようなものがひっそりとあるような気がしてならなかった。どうしてもその正体がつかめなかったのだが、どうやら島倉さんへの想いを何らかのカタチにしておきたいのかもしれないと気付き始めた。

11月8日逝去。そのあと、多くの新聞は彼女をコラムに取り上げた。

天声人語は、「いつまでも小料理屋の気さくな女将(おかみ)さんのような風情の人だった。」と結びの部分に綴っている。

「ものに憑かれたような迫力があった。戦争の悲惨。戦後の痛苦。昭和の日本人の情念を託せる歌い手が去った。─日本経済新聞、春秋」

「今、演歌歌手の王道を見事に渡り終え、終生「お姉さん」と仰いだ美空ひばりさんの待つ天国へ旅立った。─毎日新聞、余禄」

あの震えるような歌声が今でも脳裏に蘇る。美空ひばりが唄う歌と違い、心の情念に染みわたるようなかすれた声がいつまでもいくつになっても若々しく可愛らしい人であった。

人生いろいろ。まさに、彼女が歌うことで、感涙を堪えることのできない方々も多いのではなかろうか。

いったい、どれだけの人がこの色々な人生や、または、人生という得体のしれないものを理解して生きているのだろうかと考えさせられることが多い年齢になってきた。

今年はどんな重大ニュースがあったのだろうかと振り返りながら私にはこの島倉千代子さんの逝去が心にズキンと来てポッカリと穴を開けたままになっているのだ。

母よりも7歳若い。7年前の母を思い浮かべると、75歳のころはずいぶん若く元気でテキパキ・溌剌としていたと思う。それだけに余計に悔しく思うのだろうか。

島倉さんの歌を聞いて大きくなった世代は、私より年上の人たちばかりだったのであろうか、私がこれだけ言葉にならないモノを感じているのだから、大勢の人がズキンとやられているに違いない。各新聞社一斉に取り上げたのだから、執筆者のみなさんの年齢も見えてくる。

しまった・しまった・島倉千代子

年の瀬に今年に逝ってしまった人を見て大きな節目を感じる。一昨年よりも去年のほうが節がしっかりしていたように思え、さらに今年はずっしりとした節を迎えているように思う。何年後かは予測がつかないが、私の節が近づいているのだなと思う。

2013年12月28日 (土曜日)