遺す言葉 - 19 から 25

遺す言葉 - 19

平成26年のはじまり

19.1 十二支と五つの神様のこと

平成二十六年元旦。
五十七回目の正月を迎えています。

いつの頃からこのめでたい時期を意識し始めて、いつの頃からどうでもいいと思い始めたのか。一晩だけで大晦日から正月になり新年を祝うという変化をつまらないと思ってみたり、そのような人の作ったものへの反発を持ってみたり、何もすることもないので無意味な時間だとバカバカしさを露わにしてみたりしてきたこともある。

正月だといって慶んで騒ぎ立てていた時期よりも、無機質感を感じてたときのほうが長かったかもしれない。たかが三百六十五日のほんの一瞬だと思って、よそから持ってきてセッティングされたような押し付けと考えていたのかもしれない。それが非常に子ども染みた反抗のこともあれば、大人の理屈のこともあったわけである。

このような感情を誰もが経験をしたかどうかも不明のままであるが、実に社会はそういうお正月を一般化してゆく傾向が一部の潮流の中にある。当然、正反対に捉えている人も紛れもなく存在し、活用して仕事をする人や稼ぎを狙う人たちもいる。社会とはそういうもので、文化とはそういう流れなのだと思う、一方で、お互いの勝手な生活スタイルが全く無関心に、個人主義という言葉が都合のいいように利用された如く融合して、休暇を送りながら祭りを愉しむひとときがあり、これが年末年始であるという感じで進行する。

馬鹿じゃないの?!などと思いながら、1400万人もの人が訪れた伊勢神宮にアホらしい視線を投げかける人がいると同時に、今年こそはきちんとお参りにいって、心身ともに清らかであろうと祈願し意思を固める人がいる。

ここにいる日本の神様には教義があるのだろうか、いや、教義などなく、実はお守りをほぐして開ければわかるようには真っ白ではないのだろうか。つまり、そこには経典の文言が書かれているわけでもなく、まして「真実一路」などと書かれているわけでもない。神様の教えの哲学は、己が心に恥じざれば心がそれぞ真なりけり、というようなものなのだろうと思う。

私たちの暮らしの中には様々な神様がいる。それらと密接につながっているのが暦で、暦は一定の周期をもって人の心に意識を蘇らせる。一年を二十四期に分ける二十四節気、十二の干支でなりたつ十二支、そして五つ神様、木の神、火の神、土の神、金の神、水の神に、兄・弟をもうけて十干とした周期がある。この他に月の(汐の)満ち欠け、四つの季節が織りなすひとつの時間を三百六十五日とし、さらにこれに四年に一度の閏がある。

様々な神様にも守られて、あるときは見張られて生きているという意識が近代社会の発展と並行して希薄になる。社会の発展は人々の豊かさの象徴であり、幸せの充実であった。しかしながら、歪が起こり始めたのもこの充実感がピークに達するころのことだ。

神様を(ある意味では鬼を)心の奥に置き忘れた人が増えている。心に神を持つ人と持たぬ人が、神域へと押し寄せる。さぞや神様もお困りかと察します。

新年を迎えてまた1つ歳をとったというようなことを言ったら、あるところから反発を食らいました。誕生日で歳をとるのだから、新年に年齢を重ねるのは理に合わないと言うのです。まったく、その通りですので、何も申し上げませんでした。

私は節目をなくしてはならないと考えます。年齢は、医学生理学的なものであると捉えて、全くその通りですが、先に書きましたように、ヒトは数々の神様に守られてこの地上に生き永らえてきたわけで、五穀豊穣に感謝し、健康に感謝して、それをそれらの神様とともに祝いあうことが必然であり、その時期が、月が最も高度をあげて天から地上を照らす今の時期なのではないかと思うのです。

だから、私は正月でひとつ齢をとります。

2014年1月 1日 (水曜日)

19.2 (平成26年)成人式のころ・雑感

きょうは成人の日です。
左にあるサイト内検索窓に「成人」と入れればこの「遺言」のブログを輪切りにできる。

昔のほうが─というより、満たされていないときであるとか目標をもってそこに居るときのほうが、物事をしっかりと見ている傾向がある。それのことは知っているのだが、節目ごとに反省をすると再認識をする。

【- Walk Don’t Run -】  遺す言葉を増殖(追記)して時間がすぎる。
どんどんと落ちぶれてゆく日記である。

書きかけが放置したままメモの中に残っている。
纏まることなく消えてゆくこともあれば、下らないままで載せることもある。

自分がどんどん詰まらなくなっている。

1月10日、谷川浩司九段、A級陥落。連続在籍32期。日本将棋連盟会長で十七世名人の資格を持つ谷川浩司九段(51)のB級1組への陥落が決まった。

そんな新聞記事を見て、無敵の谷川浩司にもこういう時期が来るのだが、これからが人生の勝負なのだな、と思う。

今週末に17回忌をすると連絡が来る。

▼予想通り十七回忌で寒波くる

※原文記事ではこのあと
ブログ<http://bike-tourist.air-nifty.com/hiroka/>で「成人式」で検索をした結果を書いている

2014年1月13日 (月曜日)


遺す言葉 - 20

伝記

1

20.1 伝記が書けない

■■
■□ 父の伝記はないのだ。
様々なことを思い浮かべたりどこぞで話をしてきたりして、それを書き留めながら、父の伝記を書きたい考えるようになった。しかし、伝記などというものは、たとえ大物になったとしてもそう簡単に残せるものでもない。死ぬまでに最低1作品は残せても、父はその自伝を書き留めなかった。さらに、先にも書いたように日記は何らかの理由で焼却されてしまっており、掘り起こすことは不可能だった。

■■
■□ したがって、
残された作品を分析するか、人の言い伝えを纏めることくらいしか出来ない。当の本人は自分の人生を記録に遺すことの価値やその必要性をさほど意識していた様子もなく、彫刻や絵画などにおける作品も、死んだらどのように処分して欲しいというようなことを伝言したわけでもなかった。出来上がった作品は、勢いとか愛想とか出任せであっても欲しいと言ってくれた人があればあげてしまっている。残された者としては、それはそれでひとつの宿命であったと諦めねばならないのだろう。お前のおやっさんの絵がうちにあるよ、という人に出会ったことがあるが、そういう人を訪ねて回収するのも躊躇っている。

■■
■□ だから、父の自伝は、纏まらないまま
というのが運命のようだ。自伝(伝記)を残さない運命は、父のすべての作品によって自らを語られるのかもしれない。彫刻や絵画だけではなく、庭に植えた木の一本一本であるとか、小屋の中に作った道具整理用の棚であるとか、居間の柱に打ち付けた何かを掛けるための釘であるとか、もしかしたら、田んぼの土の肥え具合いも何かを彼のことを語ろうとしているのかもしれない。

◎◎

私は去年の暮にここまで書いて、手がかりになりそうな言葉を探し始めて、また、ペンを置いたままにしてしまった。

2014年1月12日 (日曜日)

20.2 春という季節

(そっとここに記事を残しておきます)

▼夜明け前の住宅街を、新聞配達のバイクの音が走り抜けてゆきます。寒い朝、いつも同じ時刻に遠慮気味に配ってゆかれる方、ご苦労さまです。今の家に住んで二十数年、私は目覚まし時計を使うのをやめて、代わりにこのバイクの音で目を覚ます暮らしをしています。寝静まった路地に花の香りが漂う季節になりました。▼小4から小6まで、山間部の小さな集落で新聞配達をしたことを思い出します。早起きはもちろん、寒い朝や氷雨の降る日は本当につらい仕事でした。父が一緒になって配ってくれたものです。▼その後の東京で過ごした大学生時代はグウタラで、ジンチョウゲや梅の香る季節に落第覚悟の進級発表を見に行ったこともありました。事前にジンチョウゲを見ると落第するというジンクスがあるそうですが、結果はやはり落第。▼「倍返し」という流行語が昨年話題になりました。私の場合は、入学の時と卒業の時とで友だちの顔ぶれが違ったので、友だちの数は「倍返し」でした。長い人生、考えようによっては幸福なことです。▼そういうわけで、私にとって春という季節は何となく身を引き締め直す季節でもあります。──────(朝日新聞・声)落第したら友が2倍になった/2014年2月1日

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(投稿原文)

夜明け前の住宅街に新聞配達のバイクの音が走り抜けてゆきます。寒い朝、いつも同じ時刻に遠慮気味に配ってゆかれる方にご苦労様と伝えたいです。

今の家に住んで二十数年、私は目覚まし時計を使うのはやめてしまいました。代わりに朝刊のバイクの音で目を覚ます暮らしをしています。

山間部の小さな集落のことでしたが、小4から小6まで新聞配達をした経験が私にはあります。早起きはもちろんのこと、寒い朝や氷雨の降る日はもっと辛いものでした。父が一緒になって配ってくれたのを思い出します。

未明、バイクの音を聞きながら、寝静まった路地に花の香りが漂う季節になりつつあることを思い、新聞少年時代を回想しておったのですが、東京で過ごした大学生時代はグウタラで、沈丁花や梅の香る季節に落第覚悟の進級発表を見に行ったこともありました。

「倍返し」という流行語が去年の話題になりました。私の場合は、入学の時と卒業の時とで友だちの顔ぶれが違ったので、友だちの数は「倍返し」でした。長い人生、考えようによっては幸福なことです。

進級発表の行き道で沈丁花の香りに出会うと落第をするというジンクスの話を思い出します。「サクラサク」という電報も「落第」という言葉も今や伝説的と思いますが、私にとって春という季節は寒さに身を引き締め直す季節でもあります。

2014年2月 2日 (日曜日)

20.3 二月のはじめに考える ─ 自然と暮らす

椎茸の菌打ちの様子が上野森林公園のHPで紹介されています。筆者が小さいころ、菌打ちの風景は決して珍しいものではなく、どこの農家にもあった暮らしの一齣でした。田んぼや畑や山で働く人が家族にいて、暮らしが自然とともに存在したからでしょう。自然の息づかいを感じることができました。

菌打ちや炭焼き、柴刈りなどを、学校の授業で今の子どもたちが習うのかどうか、年ごろの子がいないのでわかりませんが、農家であれば家業として親から子どもへと受け継ぐのが当たり前だったものだけに、セミナー等の力を借りて、しっかりと伝承してゆきたいものです。

幾つもの風景がうっかりしている間に消えて行きます。それらをジェネレーションギャップという言葉で片付けることもあります。もしもギャップであるならば、長い世紀を経ても簡単に縮まることはなく、それではちょっと困ります。

文明や科学が進歩し暮らしや生活のスタイルが変化し続ける限り、世代間での隔たりは生じますが、その距離間を上手に橋渡ししてやって知恵や工夫を伝えてこそホンモノの文化が永遠に続くのだろうと思います。

サイエンスやテクノロジーの発展に伴い、何ものかに包み隠されるように菌打ちや炭焼きは消えていきました。しかし、椎茸を食べなくなったわけでもないし、炭を使わなくなったわけでもありませんから、ささやかでありながらも体験を通じて暮らしとの関わり合いを学ぶことも大切でしょう。

これから世代の人が暮らしのなかにある自然の息づかいに触れ、それを育んでいくような活動が、太陽や風、水や木の持つエネルギーと共に歩んでいける手応えを掴んでくれるのだろう、と思います。

2014年2月 3日 (月曜日)

20.4 残雪

友だちの家のカーポートが潰れた写真を見て
ただならぬ雪だったのだと改めて思う。

ふだんから何も問題なくのほほんと暮らしている自分だけに
こういうときに弱さを露呈してしまうのは悔しい。

論座を入れ替えて考える、ホンモノの力を身につけたい。

今の日本の中に沢山いる貧乏な暮らしをしている人たち。
その中には、豊かな昔からの友人たちとの付き合いや交流に悲鳴を上げたり
やるせなさを感じている人が多いという。

世代ギャップの中に埋もれて、未来をしっかりと考えることの出来ない人々も多い。

豊かさと幸せに包まれている側からは、貧者の暮らしは見えない。
優しい心をどれだけ持っても見ることができない。

だから、周囲の裕福な暮らしの人をシャットアウトして、
お付き合いや交流をやめる方向へと移動しているという。

私もその集団のひとかたまりにいる。
できれば早く安楽死をしたいと思っている。
幸せなんか何も期待をしていない。

しかし、それでは済まされない使命がちょっとだけあるとも考えている。
情熱を持ったある人が熱く語っていたのを見て、投げてはないけないと知らされたこともあるが、幸せボケしている人たちに何とか早く気づいてほしいこともある。

行動を起こせないのは勇気が足りないのか。
それだけでもないと思っているが。

2014年2月16日 (日曜日)

20.5 父という人は、怒らない、怒鳴らない……

父が長い間書き続けていた日記や大事に仕舞っていた小物、母の(妻の)小物などを燃やしてしまった事件がある。それには深い事情や理由があったのだろうが、事件を記録するという形では何も残らない。だから、私もそれ以上詳しいことは知らされていないのである。

定年を終えてから、別の会社で非正社員として働きながら年金受給を目指していた頃のことであると思う。

高血圧はジリジリと進行していた。主治医の喜多先生は若い時からのお付き合いだったので、最期の迎え方も想定しての治療だったのだろう。つまりは必要以上に苦労や心労をかけて根性で長生きをすることだけが人生ではなく、これまでに生きてきた姿と社会での位置づけなどを見ながら、さらに残される家族のことを思って治療をしてくださっていたと思う。

父はすべてを喜多先生に任せていた。

私は父が定年になる1年ほど前に、私は京都から引っ越しをしてきて今の地に住んだ。車で1時間以内である。父の傍には弟が住んでいるので、私の屋敷を万一建てる時が来たらと思い100坪だけ私のものとして、先祖から受け継いだ残りの田畑と屋敷はすべて弟に相続させた。周りには、長男だった私を気遣って形だけでも兄弟で半分ずつと考えた人もあったらしいが、私は一旦は出てきた身分だからそういうものを受け取る気はなかった。

時々、生家を訪ねて行くのだが、ちょうどそのころは家庭が一番の成長期で、自分も一番忙しい時期であり、遊びにも気が多い時期だったこともあり、あまり足を運ばなかった。そのことで母親が私に、もっと家に顔を出すべきだと叱ったが、時間がないという理由で行かず仕舞いで、父の前では終始出来の悪い息子であったわけだ。

何事も立場を逆転すれば見えないものが見えるように、この話も同じことが言える。だからそのことで多くは言及しない。

父の顔を見に行くこともそれほど多くはなく、1ヶ月に1回ほど顔を出し、夜遅くまでいても泊まることもなく帰ってきた。

前にも書いているが、酒を酌み交わして喋るということはそれほど実現されず、人生観であるとか、生い立ちであるとか、苦労話であるとかは、昔に夢に描いていたようにはしていない。

だから、私は父についてを推測で書くしかない、というわけだ。

焼き棄てられてしまった日記には何が書いてあったのだろうか。

父は、若いころから毎日毎晩、日記を書き続けている人だった。分厚い1年分の日記帳の他に大学ノートのような帳面にサラサラとメモを書いてあるのをみたこともあるが、父が何か意味を見出していたかどうかはわからない。何かを伝える意志があったのか、残そうとする意志があったのか、不明のままだ。

父という人は、怒らない、怒鳴らない、愚痴らない、感情的にならない、不用なことを口にしない、何かを主張しない、押し通さない、説教しない、などなど、そんな人であったのだ。

2014年2月26日 (水曜日)

20.6 ひな祭り

ひな祭りといっても、もはやお雛様を飾ることはしなくなりました。

友だちがブログでお雛様の片付けを済ませた様子を書いているのをみてて
うちはお雛様を飾ったこともあまりなかったし、飾ったときにはいつまでも放置していたのを思い出す。

仕舞い遅れると行き遅れるというけど、そんな父母のもとで育った(我が家の)ムスメさんはどうなるのか、ちょっと心配です。

私の母は、オトコばかりの子どもで、若いころは子育てをしながらもお雛さんを飾りたいと何度も思ったようです。

育った家庭環境にも依るのでしょうが、尋常小学校に入る前に父親が死んでしまっていたということもあったのでしょう。

一方で私のツマは、中学校の卒業式の前日に母を亡くしています。それまでのいくらか恵まれた暮らしから(少しお金持ちでもあったし)どん底に叩き落された日常を味わっている。

世の中には、こういった不幸なことがいくらでもあるのでけれど、今や国民はそんなことを忘れて、豊かさにかぶれて幸せに溺れている。

2014年3月 4日 (火曜日)

20.1 20.7 三月のはじめに考える ─ 草臥れる

▼そうなのか我が人生の草臥れて

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二月の中頃にこんなことをつぶやいている。砂女さんところから「草臥れる」という言葉をテーマとしていただいてイメージしてみた。

不満ばかっしを言ってきた人生だった。今もツイッターの俳句季語が詰まらないと(いや、どんどん詰まらなく変化してゆく)とぼやいている。人の悪口や仕組みや組織の不平を安々と言ってはいけないのだとあるとき気づいて心得てはいるものの、つい口に出さなくてはやりきれないことだってあるのだ。どうして面白く無いのかってのは、自分でもよくわかっている。

自分のつぶやきが面白くなくなってきた。つまり、活き活きとしていないのだ。ヒトはそうあるためには、スパイラルであろうがうねりであろうが、ともかく変化をして大事なことは上昇し続けることだ。今の私にはそれが欠けてきているからなあ。

ほんとうに草臥れているのだろうか。

▼あの人のかしげた首とえくぼ好き

▼好きな人と乾杯するための角煮かな

ちゃんとこんな作品も書いているんだけどね。

2014年3月 8日 (土曜日)

20.8 3月11日に考える

▼3月11日。こんなことを囁いている。

▼あれからどちらの原子力発電設備も停止したままです。エネルギーは.、原子力が不可欠という論理は少し無理が出てきていると思うのは自然でしょう。他のエネルギーは非現実的というような表現をする人がある中で、3年間にヨーロッパの各国では風力発電施設が増え、発電量が占める割合が着実に現実的な次期エネルギーとしても道を歩み始めている。太陽光や洋上風力の応用のテクノロジーは活発化している。

▼社会システムの中には、災害に対する危機管理意識が徐々に定着し始めているし、マニュアルも整備されている。もちろん、施設も改良されているものがあるし、新しく考案されてもいる。あらゆるところで、万一に備えている。

▼人の心は、一方で、風化し続けている。景気が回復する夢を追いかけて、自分だけが生き延びようとする見え見えの生活スタイルを、相変わらず大事にして暮らしている。個人が先か地域が先か。そういうことを突き詰めても、結局のところ上手く行っても答えが出るだけで、その答えが個人だったとしても地域だったとしても、幸せと不幸せを混ぜあわせることなどはできずに、どこかで誰かが不幸せを背負いながらこの世界は成り立ってゆく。

▼だから、大事なのは答えではない。行動なのだ。そう誰もが気づいているのに、社会は相変わらず儲ける話とか増税を上手くやり過ごす話とかに溢れている。近い将来に、今苦労している人たちがみんな幸せになれたときに、優雅なごちそうを食べて贅沢な車に乗って走り回ればいいじゃないか。今は、その豪華な食事の任意の一品でいいから困っている人に役立てようというアクションのほうを私は尊重したい。

2014年3月12日 (水曜日)

20.9 朝ドラ

▼3月11日の通勤列車のぼんやりの中で、NHK朝ドラのことを思い出している。父のことだが、メモは「そういえば」で始まっていた。

▼そういえば、テレビを見ている姿など見かけたことのない父であったが、朝ドラを見てから、または昼休みに飯に帰ってきたついでにドラマを見てから、再び職場に戻っていく姿を見かけたことがあった。

▼私が家でゴロゴロしていた頃のことのだから、それは学生時代のことで、春休みとか夏休みであったのかもしれない。父は40歳半ばだったことになろうか。

▼父はテレビを見ない人ではなく、ひとりでドラマを見ることもあったのだなと今頃になってふと思い出した。

▼日曜美術館を見ている姿と、朝ドラを見る姿。父とテレビとが結びつく僅かな思い出である。

◎追記

▼居間で、母と弟と私と三人がテレビを見ているときに、例えば冬ならば一緒に炬燵に入りミカンなどを食べながらドラマをみたような記憶はない。8時だよ全員集合をみたような覚えもない。

▼子どものころに夢をみたように「一緒にお酒を」飲んだような記憶もない。

▼だからといって、私の子どもに父とそういう時間を作って思い出の足しにしなさい、と言うこともしないでおく。背中を見せてればいいのかなと、近頃はそう考えている。

2014年3月13日 (木曜日)


遺す言葉 - 21

春に思う

21.1 ごちそう

3月14日はツマの母の命日である。中3の卒業式の数日前に緊急手術をするといって京大病院に入院し、卒業式の前日に逝ってしまう。ツマの母はそこで止まったままだ。結婚したころは、思い出してはそれからしばらくは泣いてばかりいたが、16日に30回目の結婚記念日を迎える今では、もう泣いてもいられない。それでも、もう一回逢いたいなあとひとりごとを言っているのを聞くと、居た堪れなくなる。

中旬になって少し暖かい日が続いている。勤行をする部屋にも電気ストーブを持ち込まなくても良くなった。日一日と春になっていくのだろうな。そんなことを思いながら、16日の結婚記念日には何を食べようかな、などと考えている。ムスメは社交的で、毎日友人知人と食事をして帰ってくることが多くなったし、二人の食卓を何で飾ろうか。地味な食事になると思うが。

さて、ごちそうを食べたいな、と考えて子供の頃の食卓(飯台)を思い出してみた。

今日はごちそうを食べる日やなと察していると、母が家で一番大きな皿を持たせてくれて、魚屋さんでお刺身を買うてきてと言う。風呂敷に包んで皿を抱かえて店にいき、お刺身をおじさんにお願いすると綺麗に盛りつけてくれる。

一番大きな皿といっても、大人になった今に思い出すと、手のひらを広げたほどのもので、町の食堂でコロッケ定食を食べたときにキャベツとコロッケが載っている大きさの皿だったのではないかな。あれが我家で一番大きな皿だったのだ。

お刺身の値段が幾らだったかとかどれほどの量を(何グラムほど)買ったのかとかの記憶はない。買う母の方も家族で食べるので、というように私が言伝を受けたと思う。

流通システムが変化し、経済感覚も生活スタイルも大きく違った50年ほど昔、つまり、刺し身は、年に何度かのおめでたいときの「ごちそう」だったのだ。

今は一日一魚ということで、スーパーに並ぶお魚を買う折に、三日に一回くらいで刺し身が入る。私がツマと一緒に店に出かけると必ず刺し身を買うし、県内産で珍しい魚であったりすると迷わず買う。(珍しいといっても変わった魚ではなく、なかなか出回ってこない魚という意味です)

他に、子どものころのごちそうの定番は、寿司、すき焼きだろうか。

寿司は、スーパーで身近に買えるようになってしまった。すき焼きは、ごちそうジャンルから少し影を潜めて焼き肉などにどちらの家庭も変わりつつあろうか。

鍋といえば、水炊きかすき焼きをした。田舎の私にとっては、めでたいことがあって鶏を料ったときに水炊きをするか、牛肉を買いに行ってすき焼きになるか、母が手間をかけて寿司を作ってくれるのがごちそうであった。そうそう、味ご飯をたいてくれることもあった。

というわけであるが、現代はごちそう文化、よそ行き文化というものが消えていってしまったこともあって、毎日がごちそうのおうちも多いかもしれない。(毎日がよそ行きの服で過ごす人も多いでしょうし)

結婚記念日。16日。
何か旨いものを食べたいなあと思うのだが、何にしようかしら。
そうそう、16日は冷蔵庫が届くのだ。505リットルのを買ったんですよ。
実質二人なのに……。

2014年3月15日 (土曜日)

21.2 伝記

16日は記念日で、31年目という新しい日常を始めることになる。

父の伝記は、きちんと構想を立てて書き始めた訳ではないので、どうしても纏まりがつかず、書いている自分でさえもう一度読もうという気にはなれないものとなってしまっている。どうしたものか。タイトルだけでも書き直して、要約文を付け足して推敲した方がよいかもしれない。

だがしかし、書いている人のそのときの気持ちというものも大事であるので、伝えるのが目的であるとはいいながらも、伝わらなくてもいい部分も認めてやって、そのときの感情を尊重するのもよかろう。

というわけで、私が書く回想記の主役はあくまでも私の父でありながら、残される人に向けて書き始めたわけで、それは私自身のためのものであったと同時に、私の子どもやツマへの手紙のようなものとも考えた。

私から見ていた父の気持ちを想像して、なおかつ、父の言伝て(ことづて)を掘りこすように私は言葉を残したい。それが私の回想記であり、私の伝言であり、私の伝記となるのだろう。

まだまだ、しばらくの間、考え続ける。

梅

※オヤジという表現は使わないことは前にもどこかで触れた。私の暮らしの中ではオヤジという日常語はなかったのだから。だから、父と書く。または、おとやん、おとう、と書くこともある。

2014年3月16日 (日曜日)

21.3 あしたを生みだす ─ 裏窓・号外

■■ 巻頭言

春の足音が聞こえ始めるとあっという間に野山が華やかになり街行く人の装いも少しずつ変化してきます。オフィス街に溢れる人たちも颯爽としていて春らしさを感じる毎日です。少しばかりの寒の戻りがあっても、新学期には花が満開になるように植物たちは準備を着々と進めていますし、新学期や新年度をこの時期に決めた昔の人はエライなあと思えてきます。

そんなふうに花の咲く来月、いよいよ三重県総合博物館(MieMu:みえむ)が開館します。首を長くしてお待ちの方々もさぞかし多いことと思います。津駅から偕楽公園に寄り道をしてツツジを楽しんだ後、美術館を経て博物館までとゆっくり歩いてみるのもいいかもしれません。いつかこの道が、四季の花に埋もれるフラワープロムナードのようになってくれるといいなあと夢見ています。

博物学という分野は、子どものころから意外と身近にあったのではないでしょうか。家の本棚にずらりと並んだ百科事典などに植物や動物の図鑑があって、子どものころは絵本代わりにこの図鑑を眺めたりして過ごしました。大人になったら昆虫学者になるんだと夢を持つ友だちがいて、夏休みには一緒に昆虫採集や近所の河原へ化石や鏃(やじり)を採りに出かけたりした思い出などありませんか。

そういう思い出を結集させてくれたのが博物館なのだろうと私はイメージしています。高校の教科書で今西錦司先生の大興安嶺探検という著書を知り、探検家になりたいと夢に見たこともありました。

博物館といえば、京都大学総合博物館(京都市)や国立民族学博物館(吹田市)がまっさきに浮かびます。MieMuもこれらに負けない魅力的な博物館になって欲しいです。そのためには、利用する人たちも本当の博物学の面白さを、知識だけでなく体感して熟成させていかなくてはならないと感じます。

興味深い企画があがっているようです。MieMuに見学にお越しになるみなさんと私たち環境生活部のスタッフが一体となって、あっと驚くイベントや展示を見たり体感できると、三重県がもっとおもしろくなってくると思います。

■■  あとがき

明日を生み出す力。子どものころの生き生きした自分に戻ることからスタートしたいと私は考えています。

博物館のことを書くことで、博物学とは何だろうということを考える機会ができました。それを探っていくと、子どものころには何にでも「わくわく・ドキドキ」な気持ちで踏み込んでいって、知らないことがあっても「知ること」へ変えてゆく原動力としていたことを思い出します。

このごろは、どこかに出かけて何かをするにも、あらゆる面で準備万端になっています。やはり、好奇心を刺激してものごとを探求するには、少し未完成である方がいいでしょう。未熟で未完成なものを散りばめることで、多くの人々を惹きつけて欲しいです。

私たちがふだんから接している環境学だって博物学と仲間の体系で、たぶん同じステージで未来を見つめているのでしょう。だったら、環境創造活動をするたくさんの人たちもMieMuに集い、もっと手を取り合って一丸となって進んでいけるといいですね。

そうすると、MieMuの「明日を生み出す力」が築き上げる未来は、きっと楽しくておもしろいものになって行くのだろうな、と思います。

2014年3月18日 (火曜日)

21.4 わたしの新しいドラマを始めよう ─ 春分篇

(17音のつぶやきを拾い集めるやよい三月彼岸まで)

▼けんけんぱあの人に追いつけないまま

わたしの三月朔日はこんなふうに始まったのでした。いつものようにあの人ってのは架空の人でありながらわたしは誰かを見つめている。

▼雪あかり夢から醒めて火をおこす
▼雪しぐれあなたの髪を眠らせぬ
▼郵便屋さん私の手紙は来てません?
▼凍りつくよな貴方の指と切る
▼雨音がピチピチ春が近づいてくる

三月になっても一向に暖かくなって来ず。お水取りのころに春のジャケットとズボンで出掛けた覚えもあって、あのひんやりと沁み入る寒さが快感だったのだが、今年はしばらくお預けになっている。

▼土砂降りの予感がしたの逢う前に
▼泣き顔がステキ土砂降りハネたボブ

容赦なく夜どおし降り続く雨の音を聞きながらわたしは何をぼんやりとしていたのか。いつもならば32年前に東京で聞いた雨音を思い出すのだろう。今年はそんなにも沁みったれていなかったようだ。ちょうど夢中になっていた本でもあったのかもしれない。

▼蕾待つ誰とは言わぬ露の朝
▼花が咲くまでもう少しだけ頑張る

どうやらひたすら何かを待っているような気配がある。またどこかの街角で素敵な人でもみつけたのだろうと想像しておいていただくことにしよう。

▼よもぎ摘み1両の汽車飄々と
▼下駄の音春はまだかと坂をゆく
▼あの人を憎んで雨水凍りなさい
▼恋空を寒風吹いて片思い

春の足音という表現がある。それが好きで、春が好きであるよりもその言葉の響きが好きなために春を待ち遠しくしているのではと自分で思うことがある。足音が近づいてきたり坂道をのぼっていくドラマの場面には明るい未来へと向かう変化が隠れている。見えないものを待っているのが好きなのだろう。何年か前の今頃の季節にも夜空を見上げては切ない思いをしていたことがあった。そんな時間ばかりであれば死んでしまいそうになるが、片思いであっても終わってくれるからこうして生きているのかもしれない。

▼うしろ向き泣いた笑顔の黒い髪
▼お月様もう貴方なんぞ追いかけない
▼春一番あの子が欲しい花いちもんめ
▼ウグイスや囀りだけが花なりて
▼鴨の池そろそろざわめき始めたる

▼あの人がお伽噺話をしてくれてひとつの恋が終わるのを知る

ちょっとした決心のようなものが見えていると思いませんか。恋が終われば、また新しい恋の予感を感じ始めるというお得な気質なようです。

▼卒業の朝霧雨滲む水銀燈
▼待ち合わせ疏水のほとり柳の芽
▼あの人の言伝てを胸に春に立つ

3月下旬にはおとうの誕生日があります。もう16年も過ぎてしまって、その誕生日を祝うこともないのですが、生きている時にも一度もお祝いをしたことなどなく、言葉に出来ないほど後悔をしています。

ヒトはひとりで生きていることには変わりないのですが、知らない所でものすごい大きな心配や願いが飛び交っていて、そのおかげで自分が成長できていくのだということにあるとき突然気づくわけです。

これは他人に教えられて知ったら無意味なことであり、教えて差し上げてもそれは禁断なことだとつくづく思います。たいていはおとうが死んでしまってからのことが多いと思いますし、死んでしまってからのほうが宝としての価値があるのだとも思う。宝とはそういうものだとも言い換えられるかな。

▼土筆摘み架空の会話を籠に盛り
▼サクラソウお稲荷三つくださいな

春休みに落第が決まった頃だったのか、それとも特別研究テーマが決まった頃だったのか、それははっきりと記録にないのですけど、いつも通りに商店街に出かけた帰りにいつも通りの小さなお店でお稲荷さんを買うのが愉しみでした。可愛らしい頭巾のバイトの女の子で、きっと近所の大学生だろうと思うけど、ショーウインドーの上の小さな寄せ植えの花の名前を尋ねたことがありました。知らなかったようで小さな声で「サクラソウ……」と教えてくれました。あのころの恋はいつもたいていがそんな感じでした。

2014年3月21日 (金曜日)

21.5 桜咲く、桜散る。あっという間に   ─  清明篇

▼大人になる春の嵐を乗り越えて

桜の花は、例外もなく春の嵐に晒されて散り散りに吹かれていった。その様子を見上げながら、三百数十日のうちのたった数日だけ胸を張って咲き誇った花に感謝しその儚さを嘆き悲しんだのであった。しかしながら、これも宿命とあきらめ、そしてまた決まってあくる年にも再会できるという約束を交わして花びらの流れ行くところを見ている。

▼花筏見送る人も無言なり

これは2年前の4月にこの日記に書き残したもので、この年も例外なく悲しい別れがどこかで果たされたあとだったのだ。花びらの流れゆく先は誰もしらないのだろうが、あの夜に月もない宵の中にやがて散りゆく花びらを咲き誇らせた時間があった。

酒を飲んでお祭りのように歓喜を祝えるならばそれが一番だろう。大いに狂うように祝い一陣の風に吹かれて潔く忘れられてゆく。散ればまた咲けばいい。ただそれだけだ。

清明。
4月5日のこの日に車折を訪ね、小倉山から天竜寺あたりをすこし歩いてきた。百人一首の句碑がその数だけ建てられているのを巡るわけでもなく、それは余りにも熱く悲しすぎるからだと言い訳をしながら、街なかでは散りそめているソメイヨシノがここで満開となっているのを見上げてくつろいでくる。少し肌寒い昼間であったが、小倉山の石畳をそろそろと歩けば少し汗ばんだのでした。

11時すぎに四人で廣川に並んで1時に食事が終わって嵐山の人混みへと再び吐き出されて、そのあと中の島の桜を見てからさくら餅を買って嵐電で車折まで帰った。

廣川のうなぎ
廣川のうなぎ

2014年4月 9日 (水曜日)

21.6 父の居場所

いつも現代農業を読んでいた。寝床に入ると勉強をしていたのだろう。

どのようにしたら、この限られた田畑から少しでもたくさんお米が獲れるのだろうか、そのためにはどうすればいいだろう、おいしい米はどうしたらできるのか、と考え続けていた人だった。

収穫高だけではなく、旨い米ができる理由を考え、おいしい野菜を作る工夫もした。仕事の効率や作業性のことにも気を回した。

あれこれと諦めずに工夫をする人だったし、疑問があると必ずその原理を考えた。理由を追求して、変化の流れのようなものを探し出そうとする姿勢があった。

贅沢に物を使うこともあったが、あるだけの資材を工夫して、モノを作る姿勢も持っていた。

何かを発想すると実験的な試みを行ない、どこか他所の職人や専門家の仕事を見に出かけ、見て学んできては工夫を重ねていた。思い付いたときの投資も惜しまない方だった。

玄関に人が来ると(立つと)ブザーが鳴る装置を、私が子供の頃に既に作っていたというのは面白おかしくもある話であるが、輝かしい履歴と思う。

素直に、こんなものがあったら助かるだろうと考える。
技術の進んだ後世の時代から見れば馬鹿げていても、推し進めるところに異才があったと言える。

玄関ブザーは、それなりに重宝した。
それに続いて、自動的に閉まる木戸も作った。

猫が通るとドアを閉めないので冬などは隙間風に悩まされる。猫の奴は開けるのは自分で開けるのだから自動的に閉まればそれでよかった。

決して素晴らしいものができないにしても、工夫をして物を作ることによってそのものがどういう意味を持つのかとか、どのように使われるのか、ということを私たちも理解資するようになり、物を大切に扱う姿勢が備わってゆくのだと思う。

果たして、おとやん(父やん)の居場所とはどこにあったのだろうか。

2014年4月16日 (水曜日)

21.7 切り捨てるもの ─ 一子相伝  立夏篇

夏も近づく八十八夜。子どものころに母と幾度も「せっせっせーのよいよいよい」をして遊んだことを思い出す。科学的・文明的おもちゃもなく、母と二人で遊ぶか縁側で裁縫をしている脇で話を聞くなどをして過ごしたのだろう。

今の時節ならば、もうすでに麦は大きく育って穂を出しているし、当時は現代のように田植えを5月初旬にはせず、1ヶ月先の6月初旬頃にした。。麦を刈り取ってから田植えを始めるので、5月は苗床を作るのも忙しかったに違いない。

もちろん、茶摘みの歌のようにお茶の収穫も農家にとっては大事な仕事だ。また、桑が大きく育ち始めるので、養蚕の方も忙しい。

83歳を超えてしまった母の昔ばなしを聞くのが、近ごろ楽しい。中身は決して楽しい話ではないのだが、苦しかったり辛かったことを、すべて過去のことにしてしまって話す母の姿を見るのが楽しいのだ。

二十歳の頃に嫁いできて、舅・姑、大姑がいて、夫には姉と妹、二人の弟がいた。そんな家族がどのように暮らしていたのかを話してくれる。詳細は書かないでおく。母や私が順次死んでいくときに消えていってしまうような記憶とすればいい、そんな理不尽で不条理な話しであった。

母は当時の人やその人の為したことやしきたりを私たちが想像できるレベルを超えて憎んだに違いない。今さらそのレベルを定量化してみたところで時代は変わらないし巻き戻せるわけでもない。怨みを果たせるものでもなかろう。その時代は既に過去なのだと切り捨ててしまえるような人の方が幸せなのかもしれない。

柱の傷
柱の傷

パソコンのなかの記録写真に柱のキズを写したものがあった。

▼背くらべそれも無縁なひとりっ子

その写真を見ながら、もはや、ここに名前の書かれている子どもたちはこの写真なぞ必要とはしていないのだと感じた。

ひとつずつ明日へのステップを踏み続けるために、もはや、このようなモノが必要な時代ではないのだ。私はもっと冷めてこなければイケナイと示唆されているのではないか。

母が切り捨てた過去は、確かに歴史的には尊いものであり人間の心が未来へと進化し成熟する時代のある種の証であるのかもしれないが、私たちにも(否、私にも)このような「切り」の決断が必要だと迫られたのだ。

父は生前に日記をつけていた。かなり若いころから1年に1冊という立派な日誌をつけていて、私の最古の記憶のころにすでに日記が枕元に置いてある様子がはっきりと残る。しかし、この日記は、晩年には1冊も残っていなかったのだから、どういう事件か事故か判断かで処分をされたのだと思う。

先日、母が更に古い記録を出してきて見せてくれた。それは昭和初期の我が家の家計簿に相当する記録だった。筆で和紙に綴っている。時代劇や平安絵巻の古文書みたいに流れるような墨字で書かれている。祖父が残していたものだと母は説明をしてくれた。

消えてゆくモノと残されるモノ、そして、切り捨てられるモノ。様々な記録や記憶があり、その時代が望んでいる方法でおそらく始末されてゆく。しかし、何等かの形で伝承していけたとしてもやがては消えてしまう。

父は何のために日記をつけて、のちになって、どのような判断で抹消(始末)したのだろか。それは何故だろうか‥‥と大きな疑問が残ったままである。

父からは何ひとつ形見として受け継いだものはなかったが、この心を推測するための目に見えない秘伝書のようなものを、伝心で受け継いだのだなと、このごろ何となく感づき始めている。

一子相伝という言葉が浮かぶ。

2014年5月 5日 (月曜日)


遺す言葉 - 22

話をきく

22.1 高齢者の記憶 ─ 回想

高齢者の記憶障害、精神障害の病気のこと

老人ボケとかアルツハイマーという言葉が身近に迫ってきている時代になった。果たして50年ほど昔にの実態はどうだったのか。

まず、母数が少なかったのでしょうか。老人の人数が少ないならば、ボケの症状を見かける確率も少ない。

一方で、ボケの病理はどうなのでしょうか。生活習慣や食生活の影響を受けて、成人病や肥満、運動不足の人が増えれば、発症の可能性は高くなりましょうか。

では、いよいよ、うっかりしてはおれぬ時代を迎えているということでしょうね。

母は80歳をとうに超えていますし、心配が募ります。ときどきあやしい言動をすることがあります。年寄りなのだからしかたのないレベルとも思える記憶ミスも多くなってきたこと盛りますが、家系にそのような事例の有無を調べるよりも、直面している様子を観察するほうが、しっかりした手がかりになると思います。

アルツハイマーの予防策として
•雑談をする
•運動をする(ストレスを除去、睡眠を十分に)
•成人病に注意(食事を心がけるように)する

などと言われています。

母に話を聞くことは、簡単に出来て予防効果の高いアクションかもしれません。
昔ばなしを聞きに行き、記憶を呼び戻して活性化を図ろうと思い立ちました。

2014年5月 2日 (金曜日)

22.2 話を聞き始める ─ 回想

昔ばなしを聞いてやるという感覚ではなく、昔の苦労を話してもらって私も少しはその時代を知りたいと思います。一緒に並んで聞いてくれているツマはそんな気はさほどなく、幾らかの共感を共にし自分を見つめなおす参考にしている程度かもしれません。

そう言っても、何もかもを打算的に捉えて話を聞いているわけでもなく、17歳のときに(ツマは)母と死別していることや現在の自分の子育ての心配・不安、娘の結婚に懸ける夢のことなどもあって、何等かを考えさせられてくれるヒントのようなものを見つけられたらいいなと思うことがあるでしょう。人にはそんなふうに控えてモノを見詰める姿勢が大事です。幸せをつかみたいという目標に進むための私たちがするべきことを考えている。

さて、母の回想は結婚したころの苦労に集中していきます。それよりも子どものころは─昭和10年から終戦のころまでは─、学校で友だちと楽しく過ごしたとか勉強したとか、(父親は5歳くらいで死別していましたので)母親と何かをしたとか家事を手伝ったなどの、ありふれたものであるのでしょう。

昭和6年生まれですから、10歳を過ぎるころからは戦争の影響が社会に深く浸透します。食糧難、貧乏などが原因の不幸は、その時代のすべての人々のおよそ平等な不幸であり、時勢はこれらの不幸を本当の不幸であるとは捉えさせなかった。生きていれば幸せと思ったわけではないのでしょうが、非常に非人間的で歪んだ思想に纏わられた暮らしをしていた時代でした。

というわけで、子どものころに尋常小学校の廊下を走り回ってお転婆であった話やそのときに床が抜けた話や同級生のお寺のおっさん(になる子)がいつもクラスで1番だった話などがひと通り終わると、次は農家の話や暮らしの話になります。

2014年5月 8日 (木曜日)

22.3 話を聞き始める(2) ─ 母の回想

昭和26年ころ、母はこの家に嫁いできた。

旧家屋は昭和7年に新築しているので、建って僅か20年ほどあとになる。その時代にすれば新築に当たるほどの新しさであっただろう。

当時、そのような大きな家は近所でも建てる人もなく、今で言えば大豪邸であったのかもしれない。そこに、無理やり父が母を嫁に欲しいと言ったのか、古来の習わしなのか、お嫁に来ることになったのであった。

全く嬉しくはなく、不安であった。仕方がない、そんな時代に生まれ落ちたのだ、と今でこそ話すが、そのころであるから、嫌で仕方がないが家の風習であるのだから仕方がない、と考えたのかもしれない。

家屋の話を簡単にする。

建物のほぼ中央に大黒柱があり、その西側(8時から12時の方向)に8畳の間が4部屋ある。

東側には、飯台などを並べる板間や、さらに東に土間が広がり、奥戸さんや炊事場になっている。

東の出口は背戸と呼び、3時の方向に位置する。背戸へ抜ける脇(0時から3時の位置)には味噌樽などが置ける小さな収納部屋、その向かい側(3時から6時の位置)に風呂、牛小屋が並んでいた。

牛小屋を通り抜ける通路は、5時の方向で東南の隅に通り抜けることができ、その先の外には便所があった。

この便所は家屋とは別棟になってい東南側に突き出す小屋の一番隅で、東南角から南に曲がり屋のように延びる建屋は、言わば蔵のような建物で味噌部屋があり、さらに農機具なども置ける倉庫になっている。

大黒柱が家屋の中央にあるので、4つの8畳間と台所・炊事場・牛小屋域を東西に分けている。そして5時から7時は家屋の正面にあたる。

正面玄関は真南に向かって通っている。その脇には立派な式台があり、格子をはめ込んだ木戸が生活空間である板の間とをきちんと仕切っていた。

玄関は立派なもので、私が子どものころは日常生活でさえもこの玄関からの出入りはしなかった。もっぱら生活通路は背戸であり、牛小屋のなかを抜ける通路だった。

嫁に行くというのが人生の定められた運命であったわけだが、ここに嫁ぐ前に、女学校を出てから働きに出ていた時期が母には2、3年あった。

製糸工場時代と知事の家に住み込んで女中時代を送っている。

だが、その当時にどんな暮らしをしたのかを断片的に話してくれるだけで、この時代のことについてきちんと書き留めて置けるような話はほとんどない。

辛くて厳しい暮らしであったに違いないが、知事の家では時々ご馳走をお呼ばれできることがあったとような思い出話をしてくれるだけで、知事は厳格な人だったので女中としては悲しい思い出もなさそうである。

製紙工場は辛かったようだ。労働条件も厳しかっただろうが、母は恨みのあるような生活を思い出したくないのかもしれない。

世間の大方の人がそのような苦労をする時代だっただけに、仕事に行けたことだけでも喜ぶべきことであったのかもしれない。

いずれにしろ、少しばかり仕事をしてから嫁入りしたわけである。

2014年5月12日 (月曜日)

22.4 話を聞く(3) ─ 昭和30年代の回想

6月初旬の麦畑が台所の窓から見える。もう随分と昔から麦など作らない。20年以上昔の、いや、45年ほど昔の麦刈りのときの思い出が蘇ってきた。鋸鎌(ノコギリ鎌)でザクザクと刈っていく様子や脱穀をした後のはしかかった(「はしか」が痒かった)こと、麦ストローでシュースや牛乳を飲んだことをなどが断片的に記憶に焼き付いている。

麦には、細かい芒(のぎ/ハシカ)があるので、皮膚に付着すると気が狂うほどに痛痒くなる。これを「はしかい」というのだが、現代では麦を収穫することがなくなったので、この「はしかい」という言葉も消えつつあるのだろう。文化が生んだこういった息づかいのような足跡を絶やしてしまうことの罪悪感と喪失の無力が、消える灯びの最後の輝きのように身体の中で騒ぐのがわかる。

この痛痒い身体を風呂に入って流したいと思っても、わたしが生まれた頃の我が家ではできないことが多かったと母は話す。叔父がまだ高等学校に通っていたころの話である。この時代の話を聞くには、予め知っておかねばならないことも数多くあり、その都度話を中断させながら説明を加えて母の話は続いた。

嫁に来た者が風呂を浴びることができるのは、家じゅうが寝静まろうとするときで、もちろん最後にしか入れない。その風呂の湯が棄てられてて風呂桶が空になっていたことが何度もあったという。叔父(M)の意地悪だったと言う。その人がどのような人物であったのか、又の機会に触れるとして、その人はお昼のお弁当が気に入らなかったからという理由で湯を抜いてしまう意地悪をしたそうだ。

そのときはさぞかし辛い思いや悲しい思い、悔しさや憎しみも湧いたことであろう。しかし、あのころのことは、もう今さら、という気持ちもあるようだ。

憎しみや恨みは消えないのだが、今さら何を言って何が始まるのかという思いが母にはあるのか。その人は年金をもらう年齢を迎える前に内臓疾患に起因する症状で逝ってしまっているのだから、責めるものも何もないという気持ちがあるのだろう。

叔父は二人あって、名古屋と大阪という都会へこの田舎から出て行き昭和30年代から現代までをくらした。大阪の叔父(M)は、数々の苦難ののち、勤める会社の経営難、住宅事情の悪化などがあって、悲運の晩年の人生を送り、まだまだという年齢で人生を閉じた。子どもが二人(男女)いて未婚のまま親が先に逝ってしまう。叔母さんもその後すぐに逝ってしまい、人生のドラマの悲しい舞台の主人公のようでもある。そんな人生模様もあってか、嫁いだころの数々の憤怒をこれ以上は言及する必要もないのだろう。私の父が逝ってから今までをひとりで生きて、残された数々の有形無形なものへの感謝を思ったり、今の暮らしが十分に幸せなこともあろうかと思う。

名古屋に出た叔父(T)さんは、電話会社に就職し歴代で記録に残るという管理職早期昇進を果たし、細部では人知れぬ悩みも数多かっただろうが、社会一般として充実した人生を送っている。(今は脳内出血後の病気療養中である)。現実がもたらすドラマは奇しくも2つの明暗の展開であった。

++

母が嫁いだ先の父(私の祖父)は、社会的にも人物としても立派な人であったという。わたしの父はその人を(自分の父親として)語ったことは1度もなかったが、母は、思い出話を度々してくれる。(姑であるのに)賢くて冷静で尊敬のできる人であったと目を細めて回想する。それは、村会議員をしていたからという観念があるからではなかった。日々農作業に出かけた折には、嫁いできた一家の嫁に様々な話をしてくれたり、家の中で農家の雑事をしながら、世間の事や人生のことなどを話にして聞かせてくれたという。

長男をサイパンで戦死させたこと。家を継ぐ倅は(母の夫)は、子どもの時分に外的な病気で耳が遠くなり学校にやれなかったが農作業を全て継がせる決意でいること。弟二人(二人の叔父)は、高等学校というものができたので、学校にやって町に出そうと思うということ。農業は無学なものが継ぐしかなかろう、これからの時代は、学問を修めることは非常に重要な事で、こんな山奥で、お金もなく資産もなく農作業を続けるという、負けのクジのような生き方は長男が引き受ければよいうのだ、という考え。社会は大きく経済的な発展を遂げて、将来は想像もできないような暮らしをするようになるだろうという夢のような話などを、田んぼの作業をしながら滔々と聞かせてくれたそうだ。

そんな祖父に悪いところは全くなかったのだが、あえて言えば1点だけあると母は言う。祖父は仕事好きではなく(怠け者であったというわけではない)、あまり精を出して農家の仕事をする人ではなかったという。よく出来たもので、息子が(父が)よく働く人であったのはそのせいかもしれない。

人として褒められないことがあるとすれば、そのことたった一つだけで、縁側に腰を掛けて新聞を読むか、世の中にはそう多くは出回っていないテレビというものを先駆けて茶の間に置きニュースを見ている人だった。そんなところが、そっくりだと、わたしの方をチラチラと見ながら、懐かしむように母は話す。

わたしは、祖父からも父からも形見らしいものは何一つもらわなかったが、私自身が形見であったと、前にも書いたことがある。こういう点もその所以である。

2014年6月 7日 (土曜日)


遺す言葉 - 23

23.1 剛毅朴訥

子曰わく
剛毅朴訥 仁に近し

いつも持ち歩いている「孔子」(井上靖)をパラパラと。

2014年5月10日 (土曜日)

23.2 知者水楽仁者山楽知者動仁者静知者楽仁者寿

子曰
知者楽水
仁者楽山
知者動
仁者静
知者楽
仁者寿

子曰わく
知者は水を楽しみ 仁者は山を楽しむ
知者は動き 仁者は静かなり
知者は楽しみ 仁者は寿し

2014年5月11日 (日曜日)


遺す言葉 - 24

夏から秋へ

24.1 子どもたちの事故報道を見て考える

新聞のニュースで子ども水の事故が報じられている。真相は出歯亀になるだけであるしそれほど詳しくも読まないが、最近は社会面が新聞やニュースの原動力になるのか、なりふり構わず賑やかだ。果たして時代は変わってきたのか。そういう疑問を持つ人も多いと思う。結論だけを言えば変わったのだろう。しかし、問題や課題はそんなところにあるわけではない。

子どもたちが水辺で遊ぶことや線路で遊ぶことは、子どもが子どもらしくあるならば、当たり前のことだ。私だって小学生のころは線路で遊んでいて、危険を察した汽車が急停車したこともあった。親にものすごく叱られたのをはっきりと覚えている。遊びたくなるような心の持ち主で無くてはならないし、そういう場所が遊びに適している場所だと自分たちで発見することが、子どもの自己形成の出発であるとも思う。

水辺に探検に行くときは、近所の仲間で(悪ガキ連中を想像するとわかりやすい)出かける。親分は上級生である。お墓で野球をしたり川で魚を獲ったり線路沿いで土筆を摘んだりするのはまっとうな遊びだった。ボールが遠くへ飛んで民家や学校のガラスを割っても、深みの潜んだ淵に亀を探しに行こうとしても、上級生がそこにいて見張っているか注意をするか引き止めるか。普段から淵の怖さを唱えるように話をして聞かせるとか、怖い爺さんが住んでいる垣根にはボールを放り込まないように教えるなど、これらを日常の教訓とする社会があった。

今の子どもたちには、年上の悪ガキから掟を教わる社会が消えつつあるのだろう。

少し前、グライダーが不時着できそうなほど真っ直ぐな農道が交差する長閑な村の外れの信号のある交差点を通りかかったときに、小学生が数人いて信号を見て止まっている。車など何分たっても走ってこないようなところで、忘れた頃にやってきたのが私の車であった。

黄色い帽子を被った子が混じっていたので1年生だろう。上級生は、赤信号を見て車など来ない信号であるのに1年生を制している。赤信号だから渡ってはいけないのだという素振りがよく分かる。

その光景を見ながら私が思ったことは、人が築き上げた文明の中で大人が作った決まりで信号機という機械が人をコントロールしようとしている。車も来ないといっても赤だから渡れば法に抵触する。でも、大人であれば、右を見て左を見て渡るのだろう。何しろ、動物も虫もいないような田んぼの真中の信号なのだから。大人は大人でそれで結構。子どもは上級生に止められて法を学び社会の掟を知り人間の関係という社会に参加し自分を築き始める。

このような上級生がいること、閑散とした農村にこの子たちが生まれ住んでいること、信号機の前で立ち止まってじっと青になるのを待ったこと。これらのことに無駄なことなど何ひとつないのだ。

子どものころに線路に石を置いて遊んではいけないとしっかりと教えられた。まあ、それほど汽車も来なかったが、侵入防止の柵もなかった。昔は扇風機にもストーブにも柵はなかったが、柵がなくても、危ないことを知っていたから、誰もがそこには近づかなかった。事故も少なかったし、ニュースもなかった。

時代が変わったと最初に書いたのだが、ひとつの現象が変わったことは事実であろう。人々の心に影響をもたらすあらゆるものが、一方向に向かって倣うように変化してきたことが、暮らしを豊かにし幸せにし充実させて来たのである。しかし、人間の本質的な何か幹のようなモノを蝕んでいる。

腐った幹は切って棄てるというような現代社会。
次々と新しい歪や膿が発生し続ける。

2014年6月 9日 (月曜日)

24.2 水割り

水割り
水割り

6月 9日 (月)

ムスメさん、毎日9時過ぎの電車でないと帰ってこないので帰宅を待ちながら、詰まらない番組しかやってない日は、テレビも見ること無く、取り留めのない話をして過ごす。

今月になって5日間ほどお酒を控えたのだが体重の数字には何も変化も表出しなかったので飲むことにした。

ツマがプシュッとコップに1杯ほど飲みたがるので私も分け前をいただく。

そもそも、ビール好きであった私であるが、仕事から解放されてからというもの、ストレスなど全く喪失してしまったこともあって、呑みたいとかひとり旅に行きたいとかいうような現実逃避発散型の欲望は全く発生しない。

ビールなど無くても一生暮らせる体質になったといっても過言ではない。

だいたいが飲むと就寝時に体調が安定せず安眠できない。飲む分だけ水分のバランスが崩れるとか、アルコールの影響で体内制御に無理が生じているのだろう。

お茶をがぶ飲みした夜は、かえって快眠であることがわかってきた。

しかし、水割りは少しいただく。
体調が良いという証だから。

2014年6月10日 (火曜日)

24.3 夏を待つ ─ 夏至篇

膳

6月21日は夏至で、少し夏らしい空模様になってきたかな、と感じさせてくれる。

梅雨は開けていないので、いったん雨が降り始めるとしっとりと静かに降り続くのものの、降り始めなどは真夏の夕立を連想させるような勢いになることもあり、夏が来るのが嬉しいようで忌々しいような複雑な気分である。

夏がそれほど好きではないわたしは、バイク旅をしていたころは、夏といえばただひたすら走り回るだけで、嫌いだとあからさまに気持に出さないことが多かったかもしれない。

確かに暑いけれど、雨が降るのか降らないのかはハッキリしていたし、明日の天気も1週間後の天気もそれほど予想からハズレなかったから、計画的に楽しい旅をすることができたと思う。滝のように汗をかきながら、走り回ったころが懐かしくもある。

夏至は、そんな夏への入り口で、さあ、はじけるぞ、と意気込む節目にちょうどよい。このごろは低空飛行の暮らしをしているので、日常が不活性であることもあって夏になる歓びはまった無い。将来、平成26年の夏には何をしていたのだろうと振り返るときのトリガーのために何かをやっているような毎日である。

夏至篇で何を書こうかなーと思い浮かべながら、22日の三重フィルハーモニーのコンサートのことを考えたりしている。雨が降れば仕事の休日体制が解散になるのでコンサートに行けるわけで、世の中の大勢の人が晴れることを望んでいるなか、わたしは晴れないで欲しいと願っていたのだった。

(22日当日)
仕事は午前中で完了し、午後は休暇取得とした。コンサートでは、久しぶりにYさんにも会えたし、音楽もいい演奏が聴けたし、申し分のない日曜日であったといえようか。

ついでなので、最近の体調のことについて触れておこう。

季節が移るに連れて少しずつ増え続ける体重であるが、過去のマックスレベルくらいまで達しており、おなかの周囲も過去最大の計測値にあと1センチほどいうところに迫っている。これは、運動量の低下と身体活動の不活性化が原因であろうことはわかっている。

今月のはじめのころ、数日間の断酒を試みてから、ときどき、お酒を控える日を設けてみている。これがなかなかよい。体調は快適で動きも快適で、よく眠れるし、胃腸のほうもスッキリして健康になったような気がする。

ビールは、随分と前から飲まなくても済んでいる。そこで、ウイスキーを控えて烏龍茶に変えてみてはどうだろうかと思い、ペットボトルでお茶を買って冷蔵庫に冷やしている。

朝から晩までパイプの煙が燻っていたころ、突然、タバコはやめようと思いたち、本当は煙は嫌いだったのではないかと思うほどに煙から急激に離れていったのだが、果たしてお酒からも離れて暮らすことがあるのだろうか。

もちろん、離れて暮らそうなんてことをの前でいるわけではない。欲しくならないときは飲まないようにしようとは考えている。

ただ、ささやかな楽しみが1つずつ消えていくようで寂しい。

2014年6月24日 (火曜日)

24.4 六月尽きる

あすから7月になります。

集団的自衛権の行使についての憲法解釈のニュースが連日賑わっている。真面目で真剣な人であればあるほど、国家の行政機関がこのような道を選ぼうとしていることに怒りを持つだろう。当然であり、人間的である。ヒトはそうでなければいけないし、絶対的姿として、そのような考えを持ってこそニンゲンであるといえる。

新聞は、一段と声を張り上げて、国民よそれでいいのか、と言う。今言わなくて誰がいつ言うのだ。

身近な井戸端会議でも、親しい人の集まるSNSでも、FACEBOOKでも、ふだん意見を通そうとしないような人までが、いよいよ声を張り上げねばならないと思い始めている。

そんなことがわかる六月下旬であった。

駅

それでいいのか、オマエも反対しないのか、と問われたら、それでいいのだと答えることにしている。

だって、世の中自分のことしか考えないで、豊かさと幸せを自分の方向に向かって求め続けてきて、そのことに意見を言っても馬鹿じゃないのという視線で見返し続けてきた奴らが築き上げてきた政治なんでしょ。

あれだけ、わたしは熱心に意見を言ってきたんだ、(変人扱いのように)嫌われても言ってきたのだから、もういいよん。みんな、好きにしてちょ。

わたしは、40年近く唯一参政できる選挙で、ただひたすらひとつの考えで一票を投じてきた。疑問を持った日もありながら、諦めの気持ちに襲われながらも、世の中を変えるのだと信じて投じてきたけど。

好きにしてくれ。おれは生きていくだけで精一杯や。人生の非常停止ボタンなんていつでも押せる。

2014年6月30日 (月曜日)

24.5 七月のはじめに考える

一年の半分が尽きてしまったのだ。

いつもの今頃よりも、集団的自衛権の行使のニュースのこともあって、ざわざわと騒がしいようにも思う。

しかし、わたしは至って平常運転。健康も異常なく……
いやスクスクと太りすぎてきて、おなかがいろんなタイミングで邪魔になったりつっかえたりすることが多くなった。

それだけ。

(6月の30日のつぶやきから)
▼夕立は他人事やと大はしゃぎ
▼夕立のことさえ知らずに靡く洗濯物
▼六月のみそかにヘソを掃除する
▼夜更かしもしなくなったの訳あって

そうなんです。他人事。わたしは知らんわ。
その一方で、知らぬが仏で濡れて乾いた洗濯物もあるのだ。

半年が終わったのだと、反省するでもなく。
六月の三十日(みそか)は真ん中・ヘソだと言ってみる。

そうですね、早く寝ますよ。
起きてても面白くもないし。
月も出ていないしね。

(29日には)
▼夕立が来そうでオロオロ物干し台

(28日には)
▼夕立が霧雨になる午後三時
▼蚊に喰われて痒い日の暮れ
▼かき氷あなたも融けてアレになる

氷が融けたらアレになる。
やがてわたしもアレになる。

早く梅雨明けこないかな、と心にもないことを書いてみて、遊んでいる。

メモ書きにこんなことが残っていた。

中旬に政府が公表した意識調査(最新版)でふれている結果を齧り読みする。未婚、晩婚について考える。

◎経済的に余裕が無い(男性多数回答)
◎独身の自由や気楽さを大切にしたい(女性多数回答)
条件を満たす相手に巡り会えないと答える未婚者が多く、女性は4割で男性は2割であるという。

異性との付き合い方も変わってきた。うまく付き合えないと思う人が、男性で2割(女性は7%)いる。

そもそも、女性と男性に考え方や生き方の違いがあっても構わないだろうと思う。
そしてそもそも、最近話題を呼んだ「結婚できないのか」のヤジにも表れているように、その根底には、結婚という大昔からの仕組みに変化が出てきていることにモヤモヤがあるのだ。

でも、このアンケートの答えって、本質的なところで大間違いであり大錯覚と思う。

二十一世紀の人類は、情報という形のないものの価値を見出し、それに育てられて賢くなっていくのだが、それに引きづり回されこだわり続け、幸せや豊かさに錯覚を起こし、新しいスタンダードを築き上げてきた。140文字で語り、その無力や馬鹿さに騙され続け、イデオロギーまでもが方向性を失ってゆく。

棄てられない日常のそれらの文化を棄てる人が出現すると称える。そのくせ、大勢は棄てることもしないで生きている。

でも、わたしが考えることができるのはこの辺りまでで、だから、世の中をどうしようとか、こう変えていかねばならないとかいうように思い患うのはやめることにした。

お好み焼き
お好み焼き

ええ?
どうして?

もう、情熱も意欲も金もないからね。

2014年7月 1日 (火曜日)

24.6 長い野球人生の一部

「このような形でチームを離れることになり、チームメート、そしてファンの皆様には大変申し訳なく思っております。球団からの発表の通り、これから数週間のリハビリに入りますが、これも長い野球人生の一部であると受け止めています。選手としてプレーを続けている以上、故障するリスクは常にあります。そういった状況に陥ったとき大切なのは、しっかりと自分の身体と向き合い、一日でも早く復帰できるように努めることだと思います。皆様に元気な姿を見せられるよう頑張ります」

田中将大投手のコメント全文(原文のまま) ─ 平成26年7月12日ニュースから

ほんとうに実感として彼が「長い野球人生の一部」というものを今の瞬間に理解しているかどうかは、この時点でははっきりできない。人生というものはそんなにたやすく見通せるものではない。なにごともそうだが未来は誰も知らないし正しく確実に予測することもできない。

しかし、根拠のある冷静さと知性と判断で想像をすることはできる。そのような総合力が数々の歴史的な成功を導いてきた。そう思う。

迷走する現代社会や政治の姿にはそんなものはなく、言葉にもならない情けなさと憤りを感じる。せめて、田中投手には夢を叶えてもらいたい。

2014年7月13日 (日曜日)

24.7 舵を切る

何か言葉で自分を納得させようと考え続けているのがよくわかる。バイクを降りたのは決して諦めたり飽きてしまったからではない。そのことは自らの肌が感じている。

だが、スキッとしないのはどうしてだろう。自分で問いかけて、そこに相づちを絶妙に入れてくれるものがあらわれないからか。

その言い訳じみた理屈付けを乗り越えるために、「もしも」という仮説が飛び出す。もしも、仕事を辞めていなかったら、もしも、今の仕事に出会わなかったら、などなど。


□■

水平線しか見えない遠洋への船旅のような人生のあの時期に、突如、航海を打ち切って船の舵を大きく切った。その先にあったものは、衝撃的で新しい世界だった。もしもあのまま航海を続けたら、新しいものには出会えず無知のままだった。一介の総合電機メーカーの技術者としてある側面では優雅で豊かに、そしてもうひとつの側面では井の中の蛙で終わってしまったのだろう。たとえマイナスが大きかったとしてもプラスがあったところに歓びを感じることができた。
(何よりも大勢の愚かな人々が愚かな会社を愚かな方向に導き社会までも変質させてしまうことができるのだということも分かった)

オクラ
オクラ

実際には仕事を辞めて新しいことを始めようとして、それを損なってしまったわけだが、出会ったものが私の心を幸せに導いてくれた。もっと早く二十歳のころに出会えば全く違った生涯を送れただろうにと後悔をした。

だが、冷静に考えると湧き出るように見えてくる人生の筋書きのなかに、二十歳のころに現在の業界のような仕事に出会っていた…というドラマがあったに違いなく、紙一重なのかわたしの失策なのか断定できないが「没」になった。

どこかにも書いたが、曽祖父が村長、祖父が村議会議員、父が公務をしてきた。皆が社会に尽くした人たちだっただけに、わたしだけが恩返しを怠り逃げ出したのは掟破りであったのかもしれない。

人生は一度きりとはまさにその通りで、目に見えない神の導きに出会えなかった不運だとも思う。

急降下のころに、ムスメは受験時代を迎えていた。何がどのように転々とするのか理屈も何もないと思うが、着地点をしっかりと見て、着地するからにはそのモノをよく知り尽くし自信を持って生きてゆく。

果たしてわたしがあのときに感じ得たことは、伝えたい人たちに伝わったのだろうか。舵を大きく切った人生であったが、その舵をこれから引き続きしっかりと操縦しようと考えている。

2014年7月28日 (月曜日)

24.8 アツイ人

熊野大花火も終わって、つまりお盆も終わって、愈々夏から秋へと加速をする。

秋風が吹いて、
ヒグラシが鳴き、ツクツクボウシが鳴く。

子どものころは、親から土用波が立つと言われて海へも出かけなくなったものだ。

夏の暑さをこの世の仇のように憎んだ7月から8月にかけてであったが、今はもう許してやってもいいかな、とさえ思えるほどに風が優しく吹いている。

飄々と、何もなかったかのように。

激しく燃えた日々を思い出す。

先日、ある人の語りから

「あの人はアツイ人やったから……好きやな」

という言葉を聞いた。

アツイ、ってどういうのをいうのだろうかと、あれから考えて続けている。

幾つも頭に蘇る情景がある。
わたしもアツイ人だと人に言われることがよくある。

「あの人」とは、わたしの父であるのだが、果たして、受け継いだのであろうか。

2014年8月19日 (火曜日)

24.9 猫のように

猫のように暮らしている。砂女さんがそんな表現をしているのを読んで、勝手な想像をふくらませてゆく。

猫のようにとはいったいどのようなイメージを持てばいいのかな……と思い、悠々で自由気ままなようにか……などと頭にそんな暮らしぶりを一瞬浮かべてみるものの、アイツらはあれでそれなりに苦労しているのだろうから、ほんとうは夢のような暮らしなどどこにもないのではないか、と思い直してみたりする。

苦労が多くても満足がいけばいいではないか、と自分に言い聞かせて生きてきた。

鳥のように空を飛びたいという人がいれば、奴らはいつか地面に降りなくてはならない時が来るのだし、地に足をつけて大地を水平に眺めて生きている方がたくましく充実しているのだ、鳥のように空を飛ひたいという夢だけを見続けるのが一番幸せなのではないか、と反問を繰り返していた。

ムスメが家にいる最後の夏をまもなく終えようとしている。

夏に掛かるころにはそんな話は具体化されてもおらなかったのに、私が冬に決めなさいという意志表示をしたらコトから転々と進化して結論まで見えるところにいってしまった。

まさか、この夏が最後の夏になってしまうとは。

◎○

周囲の人が猫か犬を飼いたいね、寂しくなるから、という。だが、猫か犬と暮らす日々は容易に想像できるが、現実として考えていない。

鳥は空から大地を見下ろし外敵も少ないように思われがちでも、決してそうはないだろうことはわかる。命を懸けて飛んでいるのだ。

猫だって誰かに飼われて幸せそうに見えるが、猫のほんとうの人生は野良の方が幸せかもしれないし、毎日同じ時刻に餌をもらってご主人の足に擦り寄っていても、別のところで夢を抱いているかもしれない。

○◎

私にも、猫のように暮らす日々が待つのだろうか。
またはそれとも猫を飼って、猫らしい人生を送る猫を眺めながら共に暮らすのだろうか。

親子丼
親子丼

2014年9月 5日 (金曜日)

24.10 語り合う

▼何を書くか

私はこのブログの中なかで何を書きたいのか。それは、タイトルに表現したように何かを遺したいということだ。手法は、断片的な思いつきを連ねていくだけでまとまりがなく、読んでいてもわかりにくい。しかし書いているわたしはそれなりに必死です。1つずつの断片を書き出すときには必ずモチーフがあって小さなテーマを持たせるようにしている。

▼夏の終わりに考える

今年の夏はムスメが家にいる最後の夏だ。そのことを先ごろの日記に書いた。その後、なるほどと気づくことが自分のなかにあった。それは、わたしの父も同じような時期を過ごしたことがあったに違いないということであった。

わたしが結婚をするときには嫁さんに倅を盗られてしまうような感覚に囚われたかどうか。その一方で、嫁さんが自分のムスメになるのであるから、ムスメのなかった自分に女の子の子どもが増えることでもあった。古里に帰省するたびに子供のようにはしゃいで、父はツマを自分の娘のように可愛がったし、わたしにムスメが生まれたときもとても喜んだ。そんな複雑な心理のなかで、孫と一緒に暮らせない自分の晩年や、定年を迎えてからのその後の人生のなかに並行して存在する孫たちのことを考えたに違いない。それは、とても哀しくて寂しいドラマであったのだ。

▼還暦を間近に控えて

父が様々なことを考えた一つ一つを、自分もこの歳になって捉えることができるようになってきた気がする。つまり、同じ血脈を受けた人間である以上似たようなことを考えていても全く不思議ではないのではないか、ということである。父が27歳のときにわたしが生まれた。そしてわたしは、30歳でムスメをもうけた。つまり、57歳で孫を得たわけであり、わたしは今57歳になろうとしている。その年齢になって初めてわかることがあるはずだ。子どもが独り立ちしてわたしの手綱ではどうにもならないという、極めて当たりまえの状況は、多くの人たちはこの年令で出会うのだ。

▼これから

こういう極当たり前のことに気づくのが遅かったのを悔やむ年代も今であり、楽しく走ってきたマラソンゴールに周回遅れで到達する直前の孤独感のようなものを感じるのも今ではないか。誰もが健康で苦しみもなく充実して生きていたいと願う。自分に湧いた自然な気持ちを迷うことなく口にし自分を見つめようとする人や新しいもの模索する人に出会うことが増えるのも今からだろう。

▼冷静に考える

みんな、冷静に考えている。世の中の大勢が似たような状況であり、先手を打てなかったことを悔やみながらもそれが敗者ではなかったこともわかっている。人はそういうものを宿命と呼ぶように定義付けて来たわけで、宿命を認めながら、エンジンを止めて不時着できる場所を探している。できることなら美しく朽ち果てたい。

▼さて、そんなことを考えながら。

いっしょに酒を飲み交わすことも殆どなかった父の心の内を推測してみようと、また静かに考え始めた。果たして、父にはわたしに遺したいと思った「言葉」があったのだろうか。こんな答のないことを考えようとする自分になってきてしまった。

▼手綱

つまり、自分の持つ手綱が届きにくくなってムスメやツマとの間に細やかな隔たりのようなものが見えてくることに思考は遡る。手綱をなくしてしまったが実は手綱は杖のようなものだったのではないか。新しい杖を見つけ出さねばなるまい。綱を張り直すのかは正しい手段ではないだろう。比喩的に言えばそんなところではないか。

▼ムスメのいない家で

ムスメが嫁に行ってしまえば寂しいから、犬とか猫とかを飼えば……と言っていた人があった。ツマは動物嫌いであるし、世話を焼くのはもう勘弁して欲しいと思っているだろう。自分自身が猫になったような暮らしをしたいと願っていることだろう。(しかし世の中の人々を見ていると孫に夢中になって必死になって動きまわり、子育ての時以上に苦心をして、小言も嘆きも果てないようだが)これからどんな暮らしへと変化していくのだろうか。

▼父の哲学

父は仕事を退いて、長男の(孫)娘とも同居できず、健康も害し不自由な身体で過ごす日々を送ることになる。いわゆる誰もが描く夢の様なバラ色の晩年を迎えた人ではなかった。思うがままのように絵を描き木を彫り磨くという日々を送る。農業を諦めず、たまに競艇へと出かけて楽んでくるというようなスタイルであった。酒を飲み交わすこともなければ人生論を話すこともなかった。テレビを見ている姿も記憶にないが、NHKの日曜美術館を見ていたのは憶えがある。あのとき一緒に並んでテレビを見ていればまた得るものがあったのだろう。よくいっぱしの大人になった人が父に敬意を表しながら「いつかは二人でのみたい」というようなことを言う。おやじの背中、みたいなシリーズ物でも定番である。つまりそこで「語る」のは「人生哲学」であり、聞きたいのはその「哲学」であり、自分がこれまで培ってきた哲学との差異を確認すること、そして多かれ少なかれ「軌道修正」をしたいということであるのではないか。

▼遺産

わたしには、父から受け継いだり刺激を受けたりする哲学はなかった。それは、人生の後半でほとんど哲学を交えた対話をしなかったからだ。言葉は何も遺らなかった。だからと言って遺産はある。それは私自身であった。

父の絵
父の絵

2014年9月 6日 (土曜日)

24.10 仕舞い支度ひとつ重ねて白露かな ─ 白露篇

(8日)

中秋の名月と白露が同じ日になったようで秋の風情をゆっくり楽しむ人にとっては味わい深い一日になった。

九月上旬にやってくる中秋の名月というのは意外と珍しいらしく多くの場合は九月下旬あたりに来るらしい。彼岸花が咲くのが不思議にもちょうど20日ころのことでこれは多少の気候変動感じてもズレること無く間違いなしにこの日ごろに咲き始める。中秋の名月はその時期に見上げることが多いらしい。

秋の七草に歌われるススキにおいてもまだわたしの居る人里ではそれほど風情を出し始めているわけではないので実際にはもう少し秋が深まった方が秋らしくしんみりとしてくるようだ。

味覚モノも同じで栗であるとかキノコなど九月の今ごろではまだ少し早い気がする。

九月になれば一気に涼しくなるのでかき氷を食べたいとか水遊びがしたいという欲求はいつの間にか消え去っている。

そして、スーパーの商品棚にはお鍋の具材が並び始めて、初物のサンマなどが登場する。そうするとさすがに、味覚を先取りしたくなってくるのだ。

▼秋の月かじってみれば失恋味

農業も実家の弟に任せたままだ。相続も済ませた。

全然手伝いに行かない悪い長男坊主だが弟が快く田んぼを継いでくれることになりわたしに残してくれたのは100坪ほどの畑でそこには柿の木と栗の木がいっぱい植わっている。実はそれもほったらかしで実家の母がせっせと草取りなどをしてくれている。

白露などという洒落た時節を味わうような暮らしをしていないくせに白露篇を書いている。

三十数年前の大学生活を送っていた頃であれば、試験の季節を終えて文化祭でざわめき始めるのがこのころで、父から送られてくる秋の荷物には、鉛筆書きの手紙と両手で持てないほどの栗と新米が詰まっていた。

来春にはムスメが嫁ぐので今年は最後の夏であり秋である。父もアツイ人であっただけに今のわたしと同じような節目を超えるときに私と同じような気持ちを抱いたのだろう。

過去は消失してゆく。それでいいのだ。

2014年9月10日 (水曜日)

24.10 SAPPORO CLASSIC ─ 寒露篇

きのう(8日)は、二十四節気の寒露にあたる。朝から少しひんやりとして、机に向かいながらも一枚長袖を羽織ったほどだった。

この日記ブログのなかでも、これまでの季節の変わり目では自分を振り返り多くの人たちに感謝をし、これからの決意を新たに固めた日々が何度もあった。

寒露という季節は、晩秋に向かってゆく少し寂しい感じのする節目であり、もう一つ、自分の誕生日を数日後に控える貴重な戒めのときでもあるのだった。

サッポロクラシックというビールを、珍しくスーパーの棚で見つけたので嬉しくなって買っきて、ツマと飲んだ。コップに一杯ずつついでムスメに誘いをかけてみると、珍しく飲んでみるという。少しだけ口をつけて味わって一丁前なことを言っていた。

味がわかるのだろうか。「旨い」と言うので、この子もビールの苦味がわかるようになったのか、と思うと些か嬉しくなってくる。

実をいうと味については、それほど期待をしていたわけではなかったのだが、
いさ飲んでみると懐かしい泡の味がするので、少し見直した。世間で馬鹿騒ぎをして買い求めている人々のブログ記事などをみて、ブームや広告が主流の今の世にどこまで味がわかっているのだろうかと猜疑心を抱いていただけに、まんざらでもない人がいるのだと思ったのだった。

というか。

このビール、50年ほど昔に父が、ポンと栓を抜いて、どくどくどくとコップに注ぎ、唇に泡を残して飲んでいたあの時のサッポロ(★マーク)の味なのだ。コップの上に吹けば飛ぶように柔らかく載っていた泡をぺろりと舐めて「わー苦いっ、まずい、大人の飲み物って苦くてまずい」と強烈に思ったあの味だった。(それでも何度も舐めてみたのだったが)

ビールの何が好きだったのだろうか。

麦茶を高いところからコップに注ぎビールのように泡立てて飲んで「ぷふぁ〜」と大人の真似事をしていた時代があった。あのときテーブルにあったビールの苦味なのだろうか。

高校を卒業して上京して一人暮らしをするうちに憶えたビールの味は、子どものころの味とは変わっていた。それでも、一丁前に大人ぶってビール党を気取っていたりした。

ビールを愛してきた自分にも密かながら歴史があるのだなと染み染みと泡の香りを楽しみ苦味を飲み込んだ。

昔と変わったことといえば、この一杯をじっくり飲んでそれでオシマイにしてしまうことだろう。旨いものを旨いときに適切なだけいただく。

ゴクリと飲みながら、本当にムスメさん、味がわかったのだろうか?
そうだとすると、もはや追い越されているのかもしれない。

サッポロクラシック
サッポロクラシック

2014年10月 9日 (木曜日)

24.10 10月。晩秋の台風19号情報を見ながら考える

干し柿
干し柿

ちょうど今の季節に書いた昔の日記を読み返すと
不思議にもあれやこれやと鮮明にものごとが蘇ってくる。

昔の話といえば一気に時代を50年ジャンプすると

ちょうど、東京オリンピックのときの映像をTVが盛んに流していたので、毎度のことながら思い出すことをメモ書きしておく。

新幹線が開通して新大阪と東京を結んだ初列車の運転席にNHKがカメラを載せて3時間生中継をした。

とまあ、信じられないような話だが、あの時代はそれが凄いニュースだった。
でも、たかが50年じゃないか、されど50年ともいう。

赤電話の話で、先日なるほどと思ったこともあった。

知らないという人の年齢層が思っていたより高かったので驚いている。
(35歳くらいの子に聞くと知らないと言っていたのだ)
赤電話を見ながら様々なことが浮かんでくる。

当然ムスメも知らなかったわけであるから、その頃のことを伝えておかねばという気持ちが出てくる。

当たり前のように携帯して持ち歩いている電話である。生活文化や暮らしのスタイルを知る意味でも聞きたくもない歴史に少し耳を貸していただき、是非とも過去に興味を持って知っておいて欲しいことが幾つかある。

昭和50年ころ、東京で学生暮らしをしていたあのころは、郷里と電話で話をしたければ、公衆電話に出かけて行って10円玉を5秒おきくらいに投入しながら話した。

(公衆電話そのものが今では見かけることが少なくなった)今では街角から姿を消してしまった赤電話だが、あのときの電話がその赤電話であった。そしてその電話が設置されていた路地の一角は、たばこ屋であった。これも今では姿を消してコンビニになっていることが多い。

貧しかった下宿生は誰もが10円を40個も50個もポケットに入れて電話をする。それでも足りないときは下宿のおばさんの家に電話をかけさせて取り次いでもらった。(でも金持ちの子でも電話を持っている子は少なかったと思う)

時代は少しずつ変化してゆく。

公衆電話BOXの一般化が進み、街角で用意に電話をかけられる時代が来る。
(10円玉の時代が長かったが)コレクトコールや100番通知を利用するいっときを経て、100円硬貨が使える電話が登場し、すぐにテレホンカードが使えるようになる。

このころは下宿生でも部屋に電話を引いている子が増えていた。

しかし、わたしは手紙を書いた。電話はカチャンという硬貨の落ちる音の哀愁のあとに淋しさが残り、言葉は消えてしまうからだったのだろう。

古里の友だちや、会いたくても会えない友だちと交わす手紙は1週間に何通も届いた。

まだまだ手紙の時代で、わたしは下宿を引き払ったときにダンポールに幾箱にもなる手紙の束を残していた。

赤電話はやがて街角から消えて、コードのない電話が常識化され、その電話が個人のための携帯電話へと変化してゆく。

2014年10月11日 (土曜日)

24.10 誕生日は地味に

誕生日(平成26年)
誕生日(平成26年)

誕生日を祝うといってケーキを買くれた。わたしには不要だと何度も言ったが、それでは気が済まない。デコレーションはやめて、ツマはショートケーキを3個だけ買ってきてくれた。甘いモノを食べるのは好きですが、多過ぎても困るので、わたしにしたら十分過ぎる。

一方、食卓のほうは普段よりも地味で、シャケとシュウマイとほうれん草のお浸し。
ビールもなし。

それもこれも、台風19号のせいだということにしておく。

■□

というわけで、心配をかけた台風19号は、九州に上陸をしたあと、夕方ころに四国あたりに再上陸して、深夜11時から12時ころに奈良市あたりから名古屋の方へと駆け抜けていったらしい。

わたしは、普段通りにウイスキーを飲んで風呂に入って9時過ぎに寝た。

誕生日だからといって肩に力を入れても名作ができるわけでもない。
先日、鼻の下のカミソリで怪我をしたところが痛いのでひげを放置している。
このままむかしのように生やしていようかなとも思うものの、みんなはヒゲが嫌いなだけに、あまり自分の趣味で伸ばし続けるわけにも行かない。ただ、誕生日だから一つの節目としておまじないのように復活してもいいかもしれない。

今のわたしには、心を入れ替えるという意味でも、結構、こういうトリガーが不足しているのかもしれない。

2014年10月13日 (月曜日)

24.10 小松菜とおあげ  ─ 霜降篇

(23日・霜降)

小松菜という野菜を
子どものころにはあまり食べていないように
記憶する。

それは、ひとえに、
母がその菜を好まなかったのか
はたまた、
わからないように姿を変えた料理にしていたのか

もうひとつ考えられるのは、
あまりのも当たり前の料理として食べて
名も知らぬまま口にしていたかもしれない。

ツマは、京都の人なので、
こういうものを作るときの味にはやかましい。

しかし、中学の卒業式の前日に
突如母を失ったこともあって
可哀想なことに母の味を完璧には受け継げなかった。

味とは受け継ぐことも大事だが
新しい我が家の味文化として拓くことも必要だろう。

そこには、気質(かたぎ)のようなものが脈々とあるのがよい。

ムスメはやがて出てゆく。

受け継ぐということの深い意義と美しさに気づくのかどうか
気づいたとしても
それはわたしが八十歳くらいになるころのことだろう。

小松菜とお揚げ
小松菜とお揚げ

2014年10月23日 (木曜日)


遺す言葉 - 25

平成26年の暮れる頃

25.0 山頭火をふたたび思う

タイトルだけが残っていて
記事が消滅している

25.1 夫婦岩の月・秋の月─立冬篇

11月7日・立冬

立冬の朝はそれほどに厳しい寒さを感じることなく、家族もふるえることなく朝の挨拶を交わしながら、仕事に出かける支度をして、それこそ、いつもより30分ほども早い列車に乗れるほどのゆとりで家を出た。

外はやや冷え込んでいたけど、立冬だということはすっかり忘れていた。

それよりも朝の5時過ぎに月が西の山に沈むときの激しい輝きように驚いたので、そのあともドキドキが続いているような感じだった。

堀坂山の頂上付近に雲がかかり、月がその雲のなかに沈んでゆくのだ。

太陽のように赤く燃えないのは誰もが知っているし、真っ白に透き通るような満月の天空の姿も知っているのだが、その月が地平に消えるときの激しさというのは、天頂にいるときの物静けさとは全く違っていた。

もちろん物音は立てないのだが、月は、
山に激しく激突して怒りに燃えて山や雲を粉々に叩き割っているようにも見えたのだった。

あっという間に太陽が昇り、月は沈んで、空は朝を迎えた。

この今朝の風景には実は前触れがあって、きのうの夕刻に東の空に昇った真っ白の満月が神秘的で綺麗で、帰りの列車の中から洋上に浮かぶ真白の真っ白の月を見て、今までに見てきた晩秋の満月とはまた違っているなと思っていたばかりだったのだ。

やはり、11月の満月は、美しい。

▼水平線のまんまるの月見ながら汽車に揺られていた
▼十五夜は迷い道への誘いかな

ゆうべはこんなふうにつぶやきを残している。

やや冷え込んでいるものの、まだ手袋やコートが欲しいわけではない。

コートを着るのはいつごろだったかな、12月のなかごろであったかななどと考えていると、マフラーを巻いている高校生などがスタスタと駅に向かって歩いていった。(太もも寒そうだった)

高校時代に母が編んでくれたマフラが長くて(もちろんそう要望したのだ)、ぐるぐる巻きにして駅までバイクを飛ばしたのを思い出した。

二見の月
二見の月

この写真は平成21年12月2日のものです。

2014年11月 8日 (土曜日)

25.2 父に似る

父に似る猫背の娘温め酒   砂女   (雨降茫々日々記・1245 から )

砂女さんのブログで人生を見つめなおすきっかけをいただいている。そんな日々が続く。(ブログに書き残したコメントを書きなおしてます)

この言葉が句のなかに含まれていて、勝手にわたしはここで立ち止まってしまったのである。早くいえばその言葉が一番に「ジン」と来たともいえる。

昔はそんなことを考えたこともなければ感じたこともなかった。歴史の頁(ページ)をめくって、過去は過去としてどこかにひとまず仕舞ってしえば、消えたも同然のように扱う。

ところが、それがあるとき奥の方から出てきて、静かにわたしの前に現れる。気付いたときの驚きはあと戻りができないほどになっていて、奥に仕舞ったときのことなど忘れている。

自分と似た人がいた。世の中にはわたしと似た人が二人いることがわかってくる。当たり前のことだが、それが感動的に自分に迫ってくるのだ。どうして今までそんなことに無意識でいられたのだろうかが不思議なほどに。

探っていくと根拠も証拠もないところに、血脈だけでつながった人が浮かび上がる。似ていることの歓びのようなものがこんこんと湧いてくるのだ。悪いことであっても構わなくて、似ていることが嬉しい。

このごろは、自分の余命も大目に見てもそんなに多くないことがわかってきたし、それはニンゲンの宿命なのだから許容していて、残り少ない(と言っても運が良ければ長いかもしれないけど)人生で、未練を残さずに生き抜くことが大事だと思っている。

語録のところでも引いたのだが未練という言葉は用法が難しい。

父が私に遺したような影響力を、わたしは子どもに引き継げるのか。

この年令になって思うのは、子どもがわたしの何割かを受け継いでくれるのだろうか、という心配のような思いです。DNAは受け継がれるからある程度は似るんですが、わたしなりに一番期待するような要素というのがあって、そういうところがきちんと伝わるかどうかが重要なのです。でも、それも無駄な心配や悩みのうちでしょう。

もはや未練はないと言いたいけど、気に掛かることは絶えない。(正直)

たぶん、わたしが思っている以上にムスメはわたしにソックリだろうと思う。そしてたぶん、肝心なところも悪いところも隈なく卒なく受け継いでいると思う。

それでいいのだ。

2014年11月13日 (木曜日)

25.3 父の生命力

いつも現代農業を読んでいた。寝床に入っては勉強をしていたのだろう。どのようにしたら限られた田畑から少しでもたくさんお米が収穫できるのか、そのためにはそうすればいいだろうと考え続けていた人だった。

収穫高だけではなく、旨い米や野菜を作る工夫もした。何事も諦めずに工夫をする人だった。疑問があると必ずその原理から考えて、理由を追求し、変化の過程を追いかけて探求しようとする姿勢があった。

物を贅沢に使うこともあったが、手持ちの資材を工夫してモノを作る姿勢も持っていた。何かの実験的な試みを思い付いたときの投資は惜しまない人だった。

玄関に人が来るとブザーが鳴る装置を、私が子供の頃に既に作っていたというのは輝かしい履歴だろう。素直に、こんなものがあったら助かるだろうと考える。技術の進んだ後世の時代から見れば馬鹿げていても、推し進めるところに異才があった。

玄関ブザーは、それなりに重宝した。それに続いて、自動的に閉まる木戸も作った。猫は自分で木戸を開けて家に入るが閉めない。そこで自動的に閉ってくれればよかった。

決して素晴らしいものができないにしても、工夫をして物を作ることの大切さを学んだ。

物の存在価値や意味合い、使われた方を考えて理解することで、あらゆるモノは作品であり、作品は大切に扱うべきものだという姿勢を教わった。

現代の子どもたちには伝えることはおよそ不可能な掛け替えのない哲学だった。

2014年11月14日 (金曜日)

25.4 師匠をもつ

心から信頼し尊敬し慕える人を師匠に持ちたかった。
そしたらいつか成功して、先生こんなにまで成長しました、と言えるときを目指して頑張る。

ヒトはそんな先生に、生涯1人で良いから出会えるように、普段から自分自身の心身を鍛えていなくてはならない。
出会うためには待ちの姿勢ではダメだ。自分が清く正しく熱意を持って自分で決めた目標を見つめ続ける姿勢が必要だろう。

2014年11月16日 (日曜日)

25.5 父は設計者というより芸術家であった

父は設計者というより芸術家であった。
モノを構想して組み立てあげてゆく過程は似ていても、本質的にわたしと大きな違いがあった。

理屈を言うところは私も同じだが、モチベーションが違う。
第一歩のパワーの軽さが直感的でストレートだ。型を気にしてない勢いがある。

そうれ故に、理屈を言うくせにそれを食いつぶしたような芸術味のようなものがあったのだ。
そう今になって思う。

2014年11月17日 (月曜日)

25.6 手帳

二三年ぶりに手帳を買った。これを買う決心をした日の夜にひとつの歌と出会っている。

あんなにも憎みしひとの去りしのち古き手帳に残る筆圧 砂女
(題詠2014:67 手帳)

この人の前にあるのは「手帳」なのだ。理由は不明だがその手帳を開けている。そこにある「憎しみ」という言葉から発せられる振動が私に届いた。強烈に私に響く。

文芸の才がない私には、ひとが去ったのか憎しみが去ったのか、わからない。そして筆圧は誰のものなのか、最初一回読んだときには、憎しみが去って、砂女さんがあるとき(時代)の手帳を見ている光景を想像したが、そんな単純なものでなくともいいのではないか。(勝手で失礼だが)

人がこの世を去って、憎しみが消えて、ある時代を遺した1冊の手帳があり……
考えるのはイケナイコトかも…と思い始めたのでやめることにする。

手帳を買うかどうするか私は迷っていた。その背中をこの歌は押したのだった。「憎しみ」という言葉が私の古傷を穿るようで、そこで感情は歌から私自身の記憶にスイッチされてしまって、憎しみの回想からくる思いを私は言葉に残そうとして、吐き捨てるように何度も書き直している。(その文章は罫線で区切って付けておく)

五十を過ぎて筆圧が弱くなった。大抵のことが許せるようになったから今さら強く書かねばならないような激しい思いを抱かなくなったのだろうか。しっかり字を書こうと迫るものがないともいえよう。しかしその反面、書道や写経をするときのような気持ちで字を書くことが増えた。心掛けてというと格好が良すぎるが、努めてせっかちさを排除しょうとしている。

字を書くことは座禅のようであり勤行のようでもある。一画一画、部首を考察したり、考え出された時代や考え出した人のことを想像すると禅の哲学の境地に踏み込めるような気持ちである。

憎くて恨めしい人間が三人いる。八つ裂きにして粉々にしても気が済まないような人だ。そう書けば血が騒ぐが、座禅を組めば忘れる。

手帳には、つぶやきを書こうと思う。たくさんの色ペンを使って予定も日記も書こう、小さな付箋をいっぱい貼って賑やかな手帳にしよう、そんなことを考えている。

許したふりをしながら、その手帳の隙間には断片的に私の憎しみが滲み続けるのだろう。死んでも正義を問い続けたい。

❏❏ (憎しみ)
私は罪深いニンゲンだ。愛する人を一時であろうと裏切り、あるときには信用した人に裏切られたのだ。1つの償いは済ませたし本来なら生きられずに罪も償うことも許されなかったかもしれないけど、こうして生きている。だから、憎しみを抱くことなどは許されないとしても、それでも私は私を裏切って陥れようとしたそれぞれのニンゲンを憎んでいることを心の奥にしまい続け封印したりしない。

何をいまさらと思うほどに憎しみが湧き上がって破裂しそうになる。その一方で、何を今さら怒ったり憎んだりしたところで何も変わらない、とも思う。モノゴトの流れが変わるわけでもないし、巻き戻してどこかを組み直すことも出来ない。そんなことができたところで誰にも幸せはこないだろうという冷めた気持ちがある。

世の中の大勢が言う「憎しみ」と言うものは、まだまだ甘っちょろいものだと思う。(私が持っているような)ほんとうの憎しみとはコレだ!と手にとって見せることができるならば見せて教えてやりたい。世界が滅びてもいいほどの憎しみを持っている私は罪深い人間だ。

憎い奴の胸を引き裂いて切り刻んですり潰して焼き焦がして火山の噴火口にでも捨ててやっても気がすまない。出来る限り残虐で出来る限り苦しい罰を与えてやりたい。

参照作品;砂女さんのブログ
雨降茫々日々記から  2014.11.15

1249 あんなにも憎みしひとの去りしのち古き手帳に残る筆圧
(題詠2014:67 手帳)

2014年11月18日 (火曜日)

25.7 虚構

わたしは優良な読者じゃないです。文才がない。「全て虚構」って嘘つきの事やんなぁ、と解釈している程度ですから。ただ、虚構を取り留めもなく書くのなら好きです。嘘つきで見栄っ張り。そして弱虫ですもの。

題詠っていいですね。自分を振り返るきっかけになる。

手帳というものが該当の年度を働き終えたらそれは素晴らしい読み物に変化し、一種の芸術的作品でないかと思うこともある。真っ白だったとしてもそれはそれなりに。

そうなると、筆者が誰かということよりも、どのような心の側面の表現が裏に隠れているのかみたいな話になってくる。まして、訳あって自分の手元にあるのだから、宝物なのかもしれません。

「微かな濃淡」てのは素敵な言い方です。

モノにはエネルギーってのがあって、赤色ひとつとっても濃度[concentration](赤み度)と振動数[frequency]を持っている。この周波数が大きな意味を持っていると思うのです。まあ、言ってみれば揺れているわけです。

あらゆるものにおいて、この1つの状態を表すためにはこの周波数というパラメータが必要で、モノの状態は「物」でも「精神」でも揺らいでいるのが自然ということです。

先年から読書をするときに紙とペンを用意して読みます。それをしながら気がついたことがあります。読書にしてもおしゃべりにしても、記憶力に頼って負ぶさって生きてきたことがわかってきました。近頃は読書をしてもすぐ忘れます。一晩で百人一首を全部覚えた(満点ではなかったが)高校時代のようには行かないのだ。

だから、忘れることに逆らうのはやめました。手帳が付箋で分厚くなります。嬉しい。

参照作品;砂女さんのブログ
雨降茫々日々記から  2014.11.15

1249 あんなにも憎みしひとの去りしのち古き手帳に残る筆圧
(題詠2014:67 手帳)

2014年11月20日 (木曜日)

25.8 コートと手袋─小雪篇

❏ 小雪

年が暮れてゆく。身の回りの整理もしなくてはならない一方で携帯端末のメモ帳にもたくさんの断章が散らかっている。

整理をせねばならない。面倒くさいという気持ちがあるけど、実はその陰にそのまま書きっぱなしで放置して、余りじっくり考えないままの宝にしておこうというような気持ちが潜んでいる。

▼冬来る父の命日近づきて

わたしにとって冬は凩容赦なく吹き付ける厳しい季節だ。12月13日にこんなことを呟いている。父が逝った1月22日という日は大寒の直後で県境の山脈からは北風が吹き下ろし、峠を越えて通夜に来てくれる人は毎年ごとにもこない寒波に言葉も凍らせていた。

愚かにもわたしは父がたった3週間ほど後に逝ってしまう運命であったことをこれっぽっちも予測できずに正月を送り日記には何も触れていない。

得てしてそれが平和というものだろう。呑気とも言えようか。
わたしもそういう平和のなかで許されるのならば死んでいきたい。

平成26年の小雪はそれほどの冷え込みでもないように感じる。しかしこれは朝寝をして布団のなかからの感想である。新聞受けまで小走りにトントンと駆けたときに見た庭の車の窓ガラスは一面が露で濡れていた。

きのうの朝、通勤列車のなかから窓の外を眺めていると線路沿いの田んぼがほんの薄っすらと霜のようなもので覆われていた。地面は冷え込んだのだろう。初霜なのかもしれない。

コートと手袋はまだ出していない。

▼おはようと言い出せなくて金曜日

駅

2014年11月22日 (土曜日)

25.9 幸せ

ツマに

── 今まで一番幸せやったときっていつ?
三つくらいあげてみるか。

と、何気ないふりを装って尋ねてみたら

── 結婚したとき。
[子ども]が生まれたとき。
それから、大学時代も幸せやったなあ〜

そんなふうにつぶやいて、むかしを振り返るようにその頃を懐かしんだ。

今現在が幸せではないというではない。

心のなかにどれほど幸せを感動として残しているかということや、幸せとは何かというような普段から言葉で定義しないようなものをどのように心に仕舞いこんでいるかに触れてみたかったのである。

このことでじっくりと考えてみたり、自分を見つめてみると様々な思いが次々と湧いてくる。

しばらく、ぼんやりと考えてみようか。

生姜焼き
生姜焼き

*写真は本文と無関係

2014年11月26日 (水曜日)

25.10 脱輪騒動で考える─無言の偉大さ

12月14日の夜に小さな事件がありました。きっと何年もしたら忘れてしまうことと思います。それでもかまわないような事件でした。

ムスメさんが仕事から帰ってすぐに近所に住むニッチャンとお喋りをするために出かけたのですが、その帰りに彼女を送り届けたあと、田んぼ道で脱輪をしました。電話をかけてきて、母が出ました。「えーーーーーー」って驚いてすぐさま歩いても10分ほどのところですが車で出かけました。

寒い夜です。田んぼの道は真っ暗です。踏み出した足の先がどんなになっているかわからないほどの暗さで、たぶん都会にはこんな暗いところはないでしょう。

真っ暗な田んぼのなかにクルマは右前輪を溝に落として傾いていました。

JAFのお世話になるのですが、

(詳細省略)

おでん
おでん

そういえばわたしも若いときにクルマをぶつけて、クルマのフロント部分が大破して、10万円以上(推測)の大修理となったことがあります。免許をとっていい気になって、駅からの帰り道に、ラリー気分でダートを走って水たまりに突っ込んだら、ハンドルを取られて大きく滑って道路脇の障害物に衝突したわけです。

シートベルトの義務もない頃ですが一丁前に締めていたのでしょう。怪我がなくて何よりでした。

父は、その事故のことで何も小言を言いませんでした。修理費にいくら掛かったかとか、(暫くは謹慎しろとか)危ないから気をつけて乗れとか、なんでそんな事故になったのかと追求もせず悔やみもせず惜しみもしなかった。

その道は、わたしが高校2年のときにも、オートバイでクルマと接触をして右足の向こう脛部分を40数針縫うという事故を起こしたところだったのに、数年後のこのお馬鹿な破損事故でも苦言は一言もなかった。

JAFが来るまでの暫くの間にわたしは、ムスメに、嫌味ったらしく説教とも言えないような小言ともいえないような話をしました。

話をしながら、父の無言を思い出し、その偉大さを感じていたのでした。

2014年12月17日 (水曜日)

25.11 冬至に考える─冬至篇(その1)

冬至に考える(その1)

11月の末に一通のメールが届いた。従兄弟(♀)からのものであった。

手紙には季節の挨拶のほか、日頃の自分の暮らしのことに触れて自分の時間をそこそこ持ててそれなりに楽しく暮らしていると書いている。生まれ故郷で同窓会を開きたいが、地元に残った人で誰か骨を折ってくれるような人はいないものかとか、1月の下旬になったら海外に行ってこようと思うとも書いている。

従兄弟の中でもかなり身近なところにずっといる子で、何でも思うことを話せる兄弟のような存在でもあり同級生でもある子だ。旦那さんは国家公務で、定年間際まで転々とするか離れ離れの暮らしをして、血縁もない年寄った姑を長年面倒を見たりして生きてきた苦労人である。人柄もおっとりとして他人の悪行や悪戯や意地悪にも激昂したりするような激しい面もなく穏やかな子だ。

海外旅行の話を気の置けないわたしにすることは一向にかまわないが、ふと感じたことがあったので返事を書き始めたら私自身が過熱気味になった。

こんにちは。今の時代、海外旅行にひとりで出かける話などを周りを気にせずしたら仲良くなれる友達も遠ざかっていくことがあるから気をつけてください。

海外旅行に行けるような人は、時間についても、お金についても羨まれる事が多い今の御時世です。僕に話す分には気を悪くはしないけど、(世間の)多くの人は気を悪くすると思うのでやめたほうがいいです。

今の時代は、殆どの人はそんなゆとりを持って生きていないと考えた方がいいです。景気が良さそうなことを言っているのは、政治家のいいところを宣伝しているだけの話と考えていいのではないでしょうか。

ほんの一部の企業で、クビにもならずに、普通にボーナスを貰えるのは、今や特別な人です。そのような人が一般的なように報道されているけど、きちんとお給料やボーナスを貰える会社に子どもや家族が勤めているなんてことさえ、話をしたら威張っているか自慢しているようにしかとられません。そういう時代です。

(報道やメディアに登場する人や、報道している当人たちは、既得権の上にドッカリと胡座をかいて自分の立場や環境をしっかり守っているのだから、書いていることが事実に近かろうが掛け離れていようが、お構いなし。自分が流れのなかにいることが大事なのだ。その水面下には、隠れた人々の暮らしや思いがたくさん埋もれているのだということを知らなくてはならない。)

絶対に気をつけたほうがいいですよ。従兄弟のSちゃんにそんな話をしてみなさいな。僕がそう言っていたと言ってみれば全部は賛成してくれないかもしれないけど、納得はしてくれると思います。

Sちゃん自身の家庭だって悲惨じゃないですか。(苦労して東大までやったのにその)ムスコにどっかに行かれてしまって、自分はひとりで田舎暮らしです。逢いたいときにも叶えられないじゃないですか。ある意味では死ぬほど淋しいはずやし、仲良く家族で1つの家に暮らす夢を何度も見ると思います。

子どものことを考えれば色々な思いを抱いている人が見えてきます。

(子どもが)
結婚してくれなくて困っている人
恋人ができなくて悩んでいる人
定職につけなくて悩んでいる人
思うように進学ができなくて苦労している人

お金が無くて、夢のように自由に使ってみたいと思っている人
介護で苦心している人
ディズニーランドに行ってみたいと思っている人なども含めて

みんな願いが叶わないか
どこかで辛抱している人か
悩みを誰にも相談できないか
愚痴にして吐き出せないでいるか
そんな人ばかりです。

長くなったけど、そのようなことは、身の周りの人たちは本音では絶対に話してくれないから、僕みたいな人が言わなければ、気づかないままになります。(嫌な話かもしれないけど腹を立てないでね)

同窓会は、そう簡単にはできないと思いますが、還暦同窓会は頑張ればできます。

でも、今、上に書いたように毎日に悩みをたくさん持っている人は、同窓会には間違いなく来ません。
昔仲良かった友だちであったとしても、悩みもなく幸せに暮らしているような話を聞かされに、同窓会に行っても楽しくないでしょ。同窓会に来る人はゆとりがある人だけです。

一度、僕がこんなことを言っていたと、旦那さんとか、息子さんとか、こころの許せる人に聞いてみると意見が聞けると思う。

気を悪くするかもしれんけど、今の世の中をしっかりと見ないと世間知らず扱いされるかもしれません。

ごめんな、嫌なことをたくさん書いたかもしれんけど、今の世の中は、貧しいのよ

わたしの手紙を読んでくれたであろう。さぞかし反論もあったのではないかと思う。
ときどき、その後にも便りをくれる。

彼女にも悩みはあるはずだ。ムスコだってまだ結婚をしていない。住んでいた家はダム湖の底に沈むので引っ越しをさせられたし、自分の弟だって苦労して毎日を送っている。

自業自得の成したことかもしれない。自業って何だろうか。

2014年12月22日 (月曜日)

25.12 何事もふだんどおりの冬至なり─冬至篇(その2)

(12月22日・冬至の晩)

▼ いつの日か父と湯に入る冬至かな

▼ 小雪舞う追い焚き口まで柚子香る

▼ ゆず風呂に入っている夢のうたた寝

まき
まき

仕事を終えてエレベータに乗るときに一緒になった早苗さんが柚子風呂に入る話をしてくれた。むかしからの伝統的な習慣は守るような暮らしを心がけているという。

いつもどおりに快速列車に乗って帰ってくる。その話を思い出しつつ明るく華やかに瞬く無数のイルミネーションが車窓の向こうをながれてゆくのを見ている。

頭のなかでは、数日前からピックアップ課題にしているわたしの今年の重大ニュースと漢字1字が、答に近づかないままぼんやりしている。

もうそんなことはどうだっていいのだと思う心がある一方で、何かをある意思で変えようなどとしてももはや変える力などないのだとわかっていても、きちんとその時間を精一杯に生きることが大切なのだと自分に言い聞かせている。決して投げているわけではないのだ、と言い訳を心のなかで呟いているが。

柚子のお風呂に入るつぶやきが飛び交っている。父はこのような習慣やお祭り、習わしには非常に素直な人であった。柚子を手に入れてきて風呂に入れ、極楽気分を何度も味わっただろう。

子どもの頃に患ったせいで耳が遠かったから、風呂につかっていても物音らしいのが耳に届くと湯舟の中から「ええかげんやあ~」と頓珍漢な返事をしていた。「焚こかぁ?」(追い焚きをしよか〜?)と誰かが声を掛けてくれたのだと察していたのだ。父は静かな柚子風呂にゆっくりとつかれたのだろうか。

薪の風呂は、理屈は分からないが、とても暖かい。非常に身体が温もるのだ。分からない理屈を色々と考えるに、薪を燃やす釜のなかに炭火が残るので、風呂釜全体がいつまでも保温されているからだろと推測する。

つぶやき句に書いたように柚子の香りを湯舟で感じたことは(架空の話で)実際には無いのだが、追い焚きをしてもらうと煙が窓から忍びこんできて蒸気と混じると子どものくせになんとも温泉気分に浸れたのを思い出す。

追い焚きをする釜の口は小雪が舞い込むような外ではなく風呂場の建物の中だったものの、寒かったことには違いない。薪の燃え具合を確かめるために釜を覗き込む顔がホカホカと温かかった。

2014年12月23日 (火曜日)

25.13 宮本常一が父から旅立ちの日に授かった旅の十ヶ条

1.汽車に乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へ着いたら人の乗り降りに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置き場にどういう荷がおかれているのかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるのか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。

2.村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見下ろすような事があったら、お宮の森や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目を引いたものがあったら、そこへは必ず行って見ることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。

3.金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。

4.時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。

5.金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。

6.私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十すぎたら親のあることを思い出せ。

7.ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている。

8.これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。

9.自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。

10.人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。

2014年12月27日 (土曜日)


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