遺す言葉 - 26 から

平成29年穀雨の季節に書き始める


遺す言葉 - 26

平成27年

26.1 三十年という周期─小寒篇

元日に襲来した寒波が一日二日息を潜めたと思ったが、再び勢いを増す気配だ。愈々寒の入りである。暑さより寒さのほうが我慢が可能でマシだとする気持ちがあるものの、低温というのは身体に大きな負担を掛けることは間違いなく、新聞の片隅に掲載する訃報欄にも御高齢の名前が目立つ気がする。

先日引用した「宮本常一が父から旅立ちの日に授かった旅の十ヶ条」のなかで

7番目にあげている
◎ ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている

8番目にあげた
◎ これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。

そして、9番目の
◎ 自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。

さらに最後、10番目の
◎ 人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。

言葉というのは安易に表出させてしまってはならないと思う。ここでみる文字が意味するものよりも遥かに大きく深く厚くて熱いものが隠れている。補足は不要だろう。

小寒が来れば寒の入り。ちかごろでは、七草粥やどんど焼きでもちを焼いて食べる習慣が消つつある。失くしてはならないと考えている人がたくさんいながらも消えてゆく。

子どものころに母が火鉢の前で編み物や手仕事をしながら「せりなずなごぎょうはこべらほとけのざすずなすずしろこれぞななくさ」と謡のように教えてくれたことが懐かしい。炭を放り込んで布団で覆う炬燵は昭和三十年代に姿を消したし、火鉢も時代を追って使わなくなった。(写真は一部ネットから)

進化の度合いが人の命の周期よりも遅いのであれば、平安時代、江戸時代の暮らしというように語り継がれるのだろう。しかし、高度経済成長の時代を二十世紀で終了させた現代では、いわゆる周波数(1/周期)が速くなっているのだから、そしておまけに寿命がドンドンと伸びているのだから、人々の心は追いついていけないし、社会も迷い道に入り込む。

去年は「結」(結ぶ)という字を当てはめておこうかと考えたりして迷っている間に年が暮れた。今年は、はて、どんな字を目標にするか。これまた迷っていると娘の結婚式まであと1ヶ月となりカウントダウンが始まった。

昔に書いたものに―2013年10月16日 (水)


父の日記
■子どもというものは父や母の日記や行動や考えにはあまり感心を持たないことが多い例をこれまでにもいくつか見てきた。


というのがある。子どもは親のことなど気にかけていないのだという静観的な所感だ。

ツマがムスメと離れるのでメソメソと淋しがっている。そのメソメソを見て、はたと気がついたことは、30年前に、またはその10年ほど前に、わたしたちの親がツマやわたしを自分の手元から手放したときの心情を思ったのであった。

父はわたしが18歳になるときにわたしを東京に送り出してくれた。ツマの父はわたしたちが結婚するときにムスメをわたしに託してくれたのだ。

あれから父は何通にも及ぶ手紙をわたしに送り続けている。ほんの一部しか現存しないのが残念だが、それはそれでいいのだとも思う。

三十年という周期は神秘的であり童話的でもある。長い長い物語がムスメにも始まるのだ。

2015年1月 6日 (火曜日)



26.2 寝巻の紐

▼寝巻きの紐

括り付けられて、叩かれたものだった。
「もうしません」と泣いて謝ったものだ。
小学生のころは、地震や雷や火事よりもオヤジが怖いのだ。
そういう状態であることは、時代が変わっても普遍性を保ってねばなるまい。

▼体罰

体罰がすぐに話題になっていた。
ツイッターやらブログで勝手に思うところを世間の人間たちは言い放題の時代になっている。
先言ったモンが勝ちとか、声が大きい方が正しいとかいう問題では無いのだが、まあそれに近い。
子どもは叱って育てるよりも、褒めてあげたほうが良いという声が一面的に大手を振っている。
反論は萎縮しているのだろうか。
みんなが「右向いて右」で、正しい方法や答はひとつなのだろうか。
おかしいんとちゃうか。
体罰のどこが悪くてどうしたら良くなるのかはっきり言えないまま「右向け右」かよ。

▼体罰2

── もう、手に負えんようになったなあ
そんな話を父と母がしていた或る時間を思い出す。
人権問題というものがクローズアップされている。
それは正しいことで良いことだと思う。
人権を蹂躙されて世の中で蔑まされて生きてきた人たちは大いに救われている。
そのことに異論を唱えるつもりはない。
子どもというものは、一般社会人として手離れをするまでは、気持ちの上ではまだ親の身体の一部であると思う。
いわゆる目の中に入れても痛くないものなのだ。
火事場に身を投げ打って子どもを助けにゆく本能を見ても自明だ。
重篤な病や臓器の疾患の治療のために親が自分の生きた身体の一部を提供するという事実もある。
この時の子どもの身体と体罰を受けるときの子どもは同じ身体だ。
体罰を罰という暴力という色に塗り替えてしまうのが、現代社会学の人権論であろうか。
数学や物理学を学んだ人は、受験時代には1つしかない答えを求めて競い合う。
あるときにこの分野を極めると「答は幾つあっても構わない、物事は多面的に見て多次元尺度で解析してこそ真髄に迫れる」という考え方とも出会う。
人権が提起する体罰についても、同じ尺度で見たり一方的に避難するだけでは本質的な解決にはならないだろう。
体罰の哲学の誕生から考え直すことが大切ではないか。

▼自立

叱られなくなった頃がある。
自立の頃だろう。
子どもはそのとき初めて身体が親から遊離するのではないかと思う。
私の場合はお馬鹿だったので、そののちも、時の流れを堰止めることもできずに勝手気ままに生きてきた。
多くの人に世話になって、またあるときは叱られて生きてきた。
いたずらに馬齢を重ねてしまったことを悔やむ。
自立とは、形や時間が定義するものではないのだ。
私自身が誰にも恥ずかしくなくなったときに見えてくる未来のなかに答えがある。

2015年1月13日 (火曜日)



26.3 おざなりの まえがき

まえがき

わたしが父から何も聞けないままで父を失ってしまったことと
父には隠されたわたしにない魅力があったことなどが
引き金になってこうして父のことを回想することになる。

しかしそれは叶わぬことであったため
推測ばかりの纏まりのないものとなり、
わたしの夢の実現のための語りのようなことばかりを
綴ってしまうことになっている。

わたしの子どもは
わたしにはさほど興味を抱かないだろう
と思う。

子どもというものは
親の生い立ちや学業成就の苦労などに興味を示さない。

特に、
知り合いや親友や自分の家庭を見渡すと、
子どもというのは親の学生時代のことには
あまり関心がないようだ。

田舎人間であるし、
往々にして貧しいことが多いので
興味がわかないのも理解ができる。

しかし
子どもというのは
過去をじっくりみるよりも
未来を夢見る方が幸せだから
過去など振り返らないのだ。

それでいいのだろうと思う。

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そんなことをメモに書いておいてから1ヶ月余りがすぎた。

来月初旬には結婚式を済ませて、
新しい住まい(旦那さんの部屋)へと
出て行ってしまう。

そして1ヶ月もたたないうちに
二人に異動の辞令が出る。

人生とはそうやってトントン拍子に進むのだ。
振り返る暇などない。

それでいいのだ。

2015年1月14日 (水曜日)



26.4 ひの菜 ─ 大寒篇

▼歳を食うきのうは大寒ひの菜食う

ひの菜は旨い。

毎年のことだが、この寒い季節には父の葬式に容赦なく吹きつけた凩への憎しみを思い出す。

もちろん、憎しみと言っても激しい憎悪の念ではない。葬式を行う最中もしぐれ雪が舞い冷たい風が山から吹きつけた。消えることなく燃え続ける焚き火を囲んでわたしは次から次へと事の次第を済ませてゆかねばならないで、忙しいも憎いも、それこそ哀しいも辛いも、何もなかったわけである。

何も憎むものなどなかったことにしてもあの冷たい風だけには参った。結局のところ風邪をこじらせて1週間寝込む結果になった。

まさか、逝ってしまうのが突然やってくるとは想像もしていなかっただけに、哀しみは随分とあとからやってきた。出来のよい息子ならオヤジの逝くときくらい察しがついて仕事のことなど放り投げて来るところなのだろう。わたしはアホな息子であった。おとうも察しがついていたことだろう。

わたしの場合は真面目といえば真面目であるが、あとから考えて馬鹿がつくような真面目さだったなと大きな後悔をした。詰まるところ、会社という実態のない亡霊のようなモノに見事に魔術をかけられ、飼い犬のように使われ都合のいいように行動や思考を抑制されていたのだと、冷静になって考えれば気づく。

仕事をいい加減にしろというわけではない。家族の一大事に何を根拠に仕事などに誠意のようなものを見せていたのか。自分に腹が立って仕方がなかった。会社という巨像はのちに美しい理由を大義名分に掲げて10万人の社員のうちの3万人近くを人員整理をするのだ。パーな会社であったのだが、その喘ぎに今なら笑い飛ばしてやるだけだが、あのときはそれさえもできずにいた自分も悔しい。

パーな奴らの話をすれば紙面が腐る。やめよう。

父は死んでしまう数年前にハッサクと夏みかんを畑に隣どおしに並べて植えた。その木が屋根を越すほどに大きくなって、実がなると軽トラックで貰いに来てくれる人があるほどまでになった。

今年のハッサクは旨い。食ってみてすぐに分かる。旨いと嬉しい。

ハハがひの菜を漬けて「持っていくか」というので何の遠慮もなくもらう。もう今年にもらうひの菜が最後かもしれないと思いながらもらってくる。

いなり寿司、味ご飯、味噌汁、お雑煮、ひの菜、その他にも漬け物の数々。それらの味を受け継げなかったものが多すぎる。

2015年1月21日 (水曜日)



26.5 死に際の一週間

21日に小さなケーキを母に買っていった。誕生日だからケーキなのだが、長い人生でもお祝いにケーキを持参することなどは殆ど稀なことであった。

喜んでいたのかどうかは計り知れないものの大切に冷蔵庫に仕舞っていたのであの夜かあくる日にでも食べただろう。

22日はおとう(父)の命日で、67歳を目前にして逝って以来初めて迎えるひつじ年だ。年月は早く過ぎると言いながらも、たっぷり、じっくりと84歳まで辿り着いた。

ストーブにあたりながら死ぬ間際の話になった。

「痛い思いも辛い思いもしないでストンと死にたい」
「夜眠ったら朝には冷たく息が止まっているような安らかで突然の死がいい」

というようなことわたしが言うと母は即座にそれを否定して

「一週間くらいはしんどくても死に際らしい終わりを送りながら大勢の人に次々と別れを交わしてから死にたい」

そんなことを言うので些か驚いたのだが、年寄ると死に対する恐怖もあろうと思うものの、世話になった方々ときちんと儀式を交わしたいと考えてのことだろう。一週間くらいは生きていて、といいながら、心臓が子供の頃から弱いので心臓麻痺で死ぬと思う、とも話していた。

阪神淡路大震災、オーム真理教事件と事件や災害が起こる直前の師走に大腸のまわりを切れるだけバッサリとやってもらった大腸癌だったが、再発もなく生きてきた。「命拾い」とはあのようなときに使うのだろう。両手サイズほどの大きな肉のパックを見るたびに、あのときに切り出して医者が見せてくれた肉の塊を思い出す。

葬式は派手でなくとも立派な墓でなくともいいと言葉にしたりしながら覚悟を自分に言い聞かせているようである。まあ、墓は粗末では済まされないし済ますこともないから心配しなさんな。

せっかくここまで生きてきたのだから、まだまだ生きて欲しいし、願いを最後に叶えるならばそんな一週間を贈ってやりたいが、魔術師でもないわたしだから祈るだけである。

一方、父はこの22日に逝ったのだが、最後に言葉を交わしたのがいつであったのかとかとかその言葉がどんなものであったのかさえ全く記憶にも記録にもない。母のときはきちんとしなくてはイカンと思っている。

2015年1月23日 (金曜日)



26.6 二月初めに考える − 三十年前の私と三十年後の私

▼「三十年前の私と三十年後の私」と手帳に書いてときどきチラチラと見ては考え続けている。
▼結婚をしたてのころは自信に満ちて生きていた。しかしその実態は未熟に満ちていた。未熟であっても自信と目標が見えていればなかなか堂々と生きてゆけるものなのだ。どうやらそうらしいことを実証している。
▼目標は決して正しかったとはいえないし視点も視線も視座も褒められたものではなかったのだが、世に言う「若さ」のパワーであったのだろう。皆様のお力を最大限に借りながら生きてきた。そのときには借りていることなど微塵も知らずに身勝手な人生道を歩んできたのだから甚だ恥ずかしくて思い出すだけで赤面である。
▼パーに生きることの悪い面をパーな会社で尽く学び人間として生き抜く哲学に自信を持てるようになった。しかし、多くの未熟さを残したままで(人より何事においても数年遅れているから)新しいステージに挑むことになった失策に反省点もある。ただしそれを自らの戦略不足と認めなくてはならない。失策を否定してもいけない。一連の判断には後悔をせず、自分の脂質や器を認めることも大切だろう。

▼さて、ムスメが結婚をして出てゆくので再び二人になる。そこで、タイトルに書いたように三十年という大きな時間で人生道を考えてみたいと思った次第である。ツマはメソメソとしてばかりいるのだが、それは仕方がない。しかしながら、28年前に子どもが生まれたときにこの日が来ることを明るい夢として願ったのだし、その結末を心に決めたのであるから、筋書き通りではないのかと自問をする。母という立場であるゆえに、自問の答を掴み取ることに迷いがあるのであろうか。

▼わたしたちは三十年後を見つめなくてはならない。そう考えている。たとえ生きていられる保証がなくとも、下書きは完成させておかねばならないと思う。
▼目標に向かって物事を収束させようとするときに大切なことは幾つもある。どの要素が欠落しても制御は狂うことが多い。目標に向かう道のり、手法、戦略、戦術はもとより、過程での計画管理、進捗状況把握、軌道修正法、想定外の対処方法。それに加えて、自分の強い意志と確固たる目標ポイントの設定など、挙げればキリがない。
▼先日中学以来の友人と話をしているときに私が随分と年寄り臭くなったのではないかと指摘された。ざっぱにいえば反体制の声高らかだった若き頃と違い現状に歯向かわないような優しい考えを口にすることが多くなったらしい。決してそんなに考えが急変しないと思うものの、モノの道理をみて先読みをしてしまう傾向は増してきたかもしれない。たとえ損をしても正論を通すというような心から、出来る限り正論を通したいが正論は何故生まれたのかを考えてはどうだ、みたいな少し引いた人間になってきたのだろう。
▼三十年後に生きていたいとは思っていない。夢を描くこともない。そのころの社会が今と違って間違った方向に行ってしまっていたとしても、それは長い歴史の延長であり今の人々がコントロールして道を作るものであるから私がとやかく言うものでもない。わたしの子どもや家族が不幸せであったとしても、それは自分たちで作った社会なのだから仕方がない。
▼どうすれば社会が良くなるのかを考え、みんなの役に立つような人間になってもらうように、自分の受けた御恩は必ず社会に返すように、そういうことを伝えるだけでわたしの言いたいことは特にない。あるとすれば、わたしの足跡を(ここの筆跡を)時間があったら見て欲しいということくらいだ。(わたしが)周囲の如何なるものに刺激を受けてどのように変化してきたのか。何事においても、物事の変化を捉えることが非常に大事なのだから。
▼およそ三十年前にわたしは結婚をしてムスメができた。そのムスメがこの春に結婚をしてわたしは再び昔に戻る。ムスメは三十年後わたしと同じような子どもを持ち何かを考えるだろう。わたしにはそのことは想像できないし、ましてや口出しもできない。今のところ生きていて見届けたいというような願望もない。

2015年2月 1日 (日曜日)



26.7 心に鬼を棲まわせる ─ 節分はチョコを食べて・立春篇

▼鬼は外 得体の知れないキミを呼ぶ

節分の夜に帰りの駅で鯛焼き(おめで鯛焼き本舗)を買って帰った。
ムスメさんはいつもと同じように残業で、二人で先にお夕飯を食べた。
豆も買ってあったのでストーブで煎って食べた。
子どものころは式台のところで真剣勝負の豆まきをしたものだ。

鬼なんてものは得体のしれないものじゃないのだ、と常々思っている。
おとやんと暮らした子どものころは、世界で一番優しかったであろう父(おとやん)のことを鬼の化身などと考えたこともなかった。

逝って、姿を消してしまってからは、「心に鬼を棲まわせる」と言葉にしてはおとやんを思い出す。

▼神様は春の支度で留守がちで

結婚式のあれやこれやで忙しい。
わたしは何もしないで晩酌をしながらメソメソするツマを慰めているだけである。

▼立春に残った豆を二人で食う

今月から二人で暮らす生活に戻る。
ただそれだけで変わりなし。
そう考えているのだが、どうなるのだろうか。

▼雪まじりの予報を聞きながら寝る

4日(立春)の夜には、雪予報のニュースがひっきりなしに流れた。
5日の朝は春間近を思わせるような雨降りで、それも午前中にあがってしまったみたいだ。
温かい寒の明けです。

▼水たまり雨空映して寒の明け
朝の快速に乗るときにこんなメモを残している。

2015年2月 6日 (金曜日)



26.8 全力で生きてきたか

❏ 80年代後半の頃

▼結婚したばかりのころは無我夢中だった。誰もがそうだろうと思う。だが、よく考えると無我夢中というよりも、自分勝手なマイペースであったともふりかえれる。

▼現代の子どもはかなり完成さた形で社会に飛び出す。精神的に子どもであったり知識が欠乏していることは基本的な有り得ず、日常最低限の必要条件は揃っている。万一の事態でも誰かに助けを求める機知などもあるはずだ。学校で学ぶ知識で法律的なことや社会構造も学んでいる。骨太で独り立ちするといえよう。もちろん未熟な面もある。未熟さがあるゆえその部分に枝・葉や肉をつけていくのだし、その過程でその人の持ち味を発揮するチャンスが巡ってくるともいえる。

▼怪我もせず痛い目にも遭わずにいってほしいと願う。不運なくまっとうに生きていけば、仕事の失敗もせず、人に騙されたり陥れられたり裏切られたり、金銭的に失敗をしたり大きな損失を抱かえこんだりすることなく、社会人として生きてゆく。これは、簡単そうでありながらそうたやすいことではないかも知れない。その暮らしの中で、わずかでありながらも貯蓄をし資産を蓄え、人付き合いもこなし社会の中の1人前になってゆくのだ。

▼結婚をして子どもができるまで3年半ほどの間に、二人の新婚生活から人生設計までを考えたのかどうか、今になって回想すると怪しい面もあるものの、未来にはどうなりたいか、どんな暮らしをしたいのか、どんな仕事をしていたいかなどと、思いを巡らせていた時期がある。夢は多様化して時々刻々と揺らいでいた。その一瞬を切り取って方向付けたのが現在であるのかもしれない。だが、運命とはそんなにもケーキを切るようにさっぱりとしたものでもないかもしれない。

▼二十歳後半から三十歳ころまでは仕事でも遊びでも忙しい時期であった。感情も激しく、チームの上司ともなかなか歯車が合わずにヤケになったり、自分の無力に気付かされたり、不運を羨んでみた時期もあった。あとで考えれば歯車を合わせる手法を変えれば違った結果があったかもしれないし、思うようにいかない人生であっても考え方や視野を広げれば違った作戦も生まれたかもしれない。そう言ってはみても、所詮わたしの器には限界があったであろうし、怠け者の性格は死ぬまで治らないのだろうから、おしなべて幸運に生きてこれたというのがまっとうな反省姿勢ではなかろうか。

❏ デジャヴュ

▼書き尽くせないことは山積だ。だがそれは、誰の眼にも耳にも入ることなく、誰にも注目されることなくわたしの日記の片隅で消えてゆく。それでいいのだろうし、そんなものだ。ただはっきりと言えることは、消えてしまうような事件であっても、同じ血脈を受け継いだわたしの後世の誰かは間違いなくデジャヴュ的に同じようなことを感じたり体験したりするに違いない。時代や文化は変わっていても再現するような気がしている。

❏ 関西支部

▼30歳くらいのころだった。大学同窓会の関西支部の幹事をF君が担当していて、そのつながりがあって支部総会に出席したことがあった。それまでは大学の同窓会など興味もなく面白味も感じなかったが、このときに総会に出席して世の中の先輩に会い、社会に触れることができた。凄い人たちが先輩にいるのだと知って自分もそんなところでおちおちしてはいられないと感じたのだった。

▼TV局の部長であったり関西の総合電機メーカーの取締役などの肩書が並ぶ同窓会に、1人のヒラの私が顔を出して、それは腰が抜けるような思いだったことを覚えている。会食の席でも、見たことのないような高級料理が、私にしたら幻の料理が次々と出てくる。「キミらに金の心配をさせるようなことな何もない。腹いっぱい食って帰ってくれ。僕らはそんな心配させるような給料で仕事なんかしとらんわ」と堂々たるものだった。私も大物にならねばアカンという思いがじりじりと沸き上がってきた。

❏ 人生を見つめなおす

▼あのときに自分の考えが刺激を受けなければ京都の会社は辞めなかったかもしれないし、もっと沢山の給料をくれる会社が世の中にあることにも関心を示さなかったと思う。ツマから見れば、私は荒波の大海に漕ぎ出そうとしていたのだから、恨むのも無理は無い。⭕️か❌をいえば❌であったかもしれない。しかし、マイナスにばかり考えるのもよくないだろう。人生なんてのは結果論でしか語れないのだ。

▼いつかは大きな家を建てて暮らそう。のんびり幸せに暮らしたい。一生懸命に勉強をして賢く教養のある子に育てて社会に飛び出せる子どもになって欲しいと心の片隅で願った。ツマとは仲良く楽しく人生を送りたいと考えた。

(つづく)

2015年3月 2日 (月曜日)



26.9 いつもと同じ春、いつもと違う春 ─ 啓蟄篇

6日は啓蟄

むかしむかし─それは結婚したばかりか、子どもがよちよちだったころとか─そんなころを回想しておりますと、あれこれれと涌き出てくるものがあります。

啓蟄という言葉をラジオの歳時記のような番組で紹介しており、アナウンサーがその意味をわかりやすく解説していました。つまりは、春になって虫たちが蟄居から這い出してくるというような話だったわけです。何を感じたのか、その自然の生業に目を向ける質素な暮らし目線での日常がとても新鮮に感じられ、それ以来季節の移ろいが気になるようになったのです。

自分の力でグイグイと人生を突っ走っているかのように思っていた時期がありました。勉強をして試験を突破し知識を得て自分の筋書きのように仕事を進め余暇に至っても自由に我が身の好きなように勝手気ままをしていたひとつの時代です。みなさまのさんざんお世話になって助けてもらってきた。そのおかげで今があるのだと気付くのは随分と後になってからです

子どもは私よりも三十年後ろの時間軸を歩んでいきます。私は父より二十数年後ろの時間軸を歩んでいる。あのころはそんなことなどこれっぽちも考えなかったし、気付くゆとりもなかった。当然、子どもに対してもそんなふうに考えて明確に未来を構築する手立てを打っているわけではなかった。

正しい方法や選択手段が他にあったかもしれないと反省をする一方で、そういう日常が間違っていたとまでも言わなくてもいいようにも思います。一生懸命にそれこそ全力で子育てをしてツマと二人三脚で三歩進んで二歩下がるような暮らしをしていました。

贅沢と言われるようなこともしていました。不義理なこともしていても気付かずに横着な生活をしていたのでしょうが、それを何ひとつ必要以上には叱ることもなく大きく見守っていた父は二十数年先を歩んでいる自分の道から遙か後方のさらに三十年先にいる孫の世代までお見通しであったのだろうと思うと、正直、親子でありながらこんな恥ずかしい思いはありません。

これから死ぬまでの間、大勢の方々や社会に恩返しをしなくてはならないステージなんだと考えています。

今年は未年ですから父が生きていれば八十四回目の春を三月二十日に迎えたことになります。六十六回目の春を迎える直前で逝ってしまったので、還暦が近づいてやっとのことで父に追いついて手が届く付近まで来ることができ、そんな今に思うと、さぞや心残りであったことだろう、ということがわかってくる。

ツマの母も四十年前の三月十四日に無くなっています。中学の卒業式を翌日に控えた日であったとツマは話します。

逝く人があれば生まれる人、新しく一歩を踏み出す人もいます。ウチの娘さんもその仲間のひとりです。生活道具が全く揃わない一部屋のアパートに移り住んで十日ほどですが、「まずまず」の暮らしが動き出しているようです。

金子兜太さんは「他界」のなかで、逝ってしまう人はもう一つの世界に移ってゆくだけで魂までもが消滅するわけではないのだとおっしゃる。新しい他界で人生を始めるのだから、つまりはこの世には終わりという概念はなく始まりばかりだといえましょう。

そういえば、春は卒業の季節。思い起こすとお別れは確かに淋しかったけど新しい天地で次の出会いやチャレンジが待っていると思うと泣いてなんかいないで、はしゃぎ回って飛び跳ねていたような記憶もあります。

五十年を回ったころから人生を見つめる目に変化が出てきたように思います。それは良いことばかりともいえませんけど、私は喜んでいます。ツマは私のそういうモノの見方に、考え方の後退だとか怠け者になっしまう、生活水準の低空飛行に理屈をつけているだけだなど手厳しく申します。ご隠居するには早すぎましょうが、子どものころなら五十五歳の定年は当たり前で六十過ぎて没してしまうなんてのはざらだったのですから、何もそんなに欲深く生きて行かなくてもいいように思います。

庭の片隅にロウバイを植えました。花が咲くのは来年か再来年の春でしょう。むかしはそのようなゆっくりに進む時間を受け入れるような心のゆとりがなかった。

ほんの五十年ほど昔には、母の背中に袢纏でぐるぐる巻きにされおんぶされて、麦踏みの田んぼでヒバリの声を聞いていた時代があった。

母は私がヒバリをさして「るりるりが鳴いとる」と言ったものだと回想します。「るりるり」は私と母だけの共通の言葉なんです。誰にも受け継げない言葉です。

2015年3月 7日 (土曜日)



26.10 水ぬるむ春分に ─ 塵埃秘帖 春分篇

▼ 耕した真っ黒の土の上にみるみるうちに粉雪が積もってゆくのを何度も見た冬だった。海抜100メートル。伊勢湾が一望できる高台の中をゆく農道の周りは緑の麦畑に変わっている。その数センチの芽がそよそよと、名残惜しく吹く北風にゆれている。自然は逞しいなと思う。ひばりが天高く鳴き、うぐいすが下手ながらさえずり始めている。

▼ ちょうど24年前の今ごろ、私は京都で働くために京都・嵯峨に住まいを決めた。あのころ、御室にあったちっぽけな本社の建物が現在は京都駅前にそびえる高層ビルに変わった。自らの名前の由来するところである御室の地を離れることに対するある種の苦悩も推察できるが、常に新しいモノを追い求めようとし、技術者を大事にする社風をも鑑みてみるなら、それは素晴らしい判断だったと思う。移転のころに、私は別の会社に籍を置いていた。

▼ その会社は大阪の門真市に本社を置いていた。京都で9年お世話になったあと、こちらで12年ほど勤めるのだが、社風は雲泥の差であったので、そのころのことは技術者として思い出したくない。世の中にはモノやコトの真髄が決して立派でなくて、人の心が腐っていて、もはや死んでいるに等しいと思わざるを得ない企業であっても、社会は「誤って」立派な会社だと判断することを知った。同時に、息をさせたままで人間を殺してしまうことが可能なのだということも知った。

▼ 一生懸命に誠意を持って世の中に尽くそうと思う人に、少しでもこのような歪んだ社会構造の事実を伝えたいと思うが、それは私のような無力の小人には不可能だ。

▼ ねぇ、先生。こんなとき、先生は私にどう進言してくださるのでしょうか。「自分で考える、それがキミの使命だよ」と仰るのでしょうか。私が京都に来るとき、先生はポンコツのアルファロメオに私たち研究生を乗せて駅まで送りながら、もうすぐ(子どもが)生まれるからこんなクッションの悪い車ではなく家ではセドリックに乗ってるんですよと仰ってられた。息子さんか娘さんかさえ知らないほどご無沙汰してますが、その子も今はきっとマスターあたりにいるのでしょうね。先生、白髪が増えましたね。

▼ 嵯峨の住まいを決めたときに私はうちのんと出会いました。嵐電の通る音が部屋にガタンゴトンと響いてくる6畳2間の部屋でした。電車の音にはすぐに慣れてしまいました。遠くの友人と電話で話すときに電車が通り、その音が相手に聞こえて「今電車が通ったね」と言われても「そうだったかな」と気がつかないほどになっていた。愛着の深い部屋でした。大文字の鳥居だけでなく東山の大の字まで見通せた。

▼ 娘を連れて嵐山へ散歩に出かけたときに、竹やぶの中で人影が動くので踏み込んでみると映画のロケをしていた。2歳ほどだった娘はときどき「キヤー」とか「ガアー」とか叫ぶのですが、スタッフの向こうから髷を結った役者さんが近づいてきて「お嬢ちゃん、ちょっとの間だけ静かにしててね」と言う。千葉真一さんだったのです。私たちの世代ではキーハンターの主役の千葉さん。娘にその話をしても通じないのは仕方がない。私たちが住んだマンションに、この4月から娘も住みます。中古の文学をしたいという。私のように古刹をたずねて嵐山を歩きまわる日も近いのだろう。

▼ この子の通う大学が五条坂を下がったあたりにあります。私がオ社に居たころに、この女子大を卒業して新採としてやってきた子がいました。「春眠暁を覚えず」、この先を思い出せず苦心していた私に「春眠不覚暁/処処聞啼鳥/夜来風雨声/花落知多少」とすらすらと暗誦してくれたのが強烈な記憶にあります。花は散るのだ。新しい芽を出すために自らを棄てるのだろうか。人間は、自然という奥深いものの、ひとかけらにも満たない小さなものだ。なのに自分が一番だという錯覚に陥っている。

2006年3月21日 (火曜日)



遺す言葉 - 27

平成27年の春のころ

27.1 おひっこし ─ 春分篇


◎○◎◎◎

水ぬるむ春分に─塵埃秘帖春分篇 の随想を書いてから丸々6年の歳月がすぎる。

その年ごとに思うこと感じることやそのアツさ加減も違ってくる。いつもどんなときも全力で生きていることに間違いはないものの、あとになって思えば力の入れ具合が下手であったりもう一つ敷居の隣にあった考えでも良かったかもということもある。

失敗はつきものだ。

(追記分)

作成中としておいてムスメの引っ越しに出かけた。この子が生まれる前に建ったというアパートだそうで、相当に古いモノが各所に伺える。なんぼかの住宅手当のような補助が出て、家賃の何割かに当てるという暮らしがこれから続く。

新婚のおりに二人で住んだアパートを思い出しながらツマとあの頃の暮らしを振り返ってみる機会がこの引越に行ったことで生まれた。お風呂は種火点火をする方式で、追い焚きもできるというのは画期的で新しいお風呂給湯システムだった。台所にもお風呂の給湯器からお湯を送れた。種火の扱いには注意が必要で、長時間つけっ放しには特に気を使うことなどを教わった。次に引っ越しをしたアパートはもう少し進化した給湯システムで種火方式に変わりはなかったが、点火も楽になり使いやすくなっていたが、台所にはお湯は出なかった。

人は不便を直接体験してより暮らしやすいデザインや技術を開発してゆく。今の子どもたちの頭のなかに描いていたお風呂の給湯システムのデザインや技術が30年以上も巻き戻ったことになることを、気の毒だと思いながらも、非常に価値のある体験であるかもしれないと思うような者はわたしくらいかもしれないが、決して間違っていないと確信している。



27.2 刻一刻と過ぎゆく時間

シリーズのなかの15番目(遺す言葉 - 15)で
向き合うということ ─ 平成25年秋へと

の中で

を書きました。それに関連する話を書きます。


1年半前にお見舞いに行きました叔父が23日の朝になくなりました。直接の死因はまだわたしには届いてこない状況ですが、わたしの父が66歳、もう一人の叔父が70歳、そしてこのたび亡くなった叔父が一番弟で75歳で逝きました。

男性は3兄弟でみんな短命です。ガンなどのような手ごわいとされる病気ではなく、ごくありふれた身近に耳にする病気ばかりです。もちろんありふれた病気を軽視するわけではないのですが、早くから病気の症状を予測して対処をしていたにも関わらず、儚くも短い結果となりました。心臓が特別に弱いと言われたわけでもなく、タバコは早々に控えて晩年は断ち切っていましたし、食事の栄養配分や塩分濃度などにも気をつけている(夫婦の)対話を何度も耳にしました。

短命とは、運命でないか、とこのごろになって確信を持っています。だから、どう騒ぐわけでもないし、対応することもできない。あり余るほどに飛び交う情報を大切にして手を打つことも、それほど精一杯できるものでもない。

現在という時間が流れている一種の時空間には、地球とか太陽系が支配する時の流れというものがあり、それによって時間が定義され、人間の生命の周期という80余年の寿命・節目が存在するにすぎない。だから、運命が人それぞれである以上、周期に差異があっても仕方がないし、カラダは千差万別であるわけで寿命もそれぞれでしょう。

だから、わたしも短命の血脈をいただいているわけでして、刻一刻とそのときに近づくわけです。

2015年3月23日 (月曜日)



27.3 進化するものしないもの

ゆうべは、叔父の訃報が飛び込んであたふたとする夜を過ごす。

ムスメさんは引越し後の生活が始まって超オンボロ(旧式)のお風呂と付き合う暮らしを始めている。あまりのポンコツ旧式過ぎる風呂に辟易しているのかどうかその辺りは不明だが、旦那さんが「この家の湯舟には浸からん」と宣言しているらしい。ほんまかウソかはわからんし、理由もボロいからか狭いからか汚いからかもワカランけど、そんな話がツマ経由で耳に入ってくる。(母と娘というのは仲良く話をするらしい)

先の日記にも書いてみたが、技術は進化するので、古い技術を知っている我々にすればなんてことのない只の不便であり、意識を巻き戻せば少し辛抱することで暮らせることだってたくさんある。

技術の進化を否定するつもりはないが、過去の不便を実体験するのは、未来を生きてゆくときに役立と思うのだが。

交換手に話しかける電話、ダイヤルの電話、赤電話、ピンク電話、100円電話、カード電話、コードレス電話、携帯電話と、電話ひとつとってもこれだけ変化をしている。

生まれたときから、携帯電話があり、電子レンジがあり、トースターがあり、自動炊飯器がある。お風呂は温度を設定すれば自動でお湯を張り指定の量で止まる。蛇口をひねればお湯が出て、部屋の温度は常に快適に設定されている。

外に出て電車の乗ってもクルマを運転しても、役所やお店での手続きにおいても、過去を思い出すのが不可能なほどに技術は進化をしている。

暮らしの制度においても然りであろう。あらゆる補助金や保障制度、保険システムは充実して後戻りを許さない。

これらは一種の既得権としてわたしたちに、あまりにも当たり前の権利として存在するのだ。これらの何割かを返上しなくては、次の世紀には万人が幸せといえる暮らしはこないだろう。しかし、誰も返上はしないだろうから、困っているのだ。

30年も昔に食べていた食事と同じようなものを食べなから、進化というものを考えた。

自分は快適に暮らし、他人に迷惑をかけなければいいのだ、というあたかも完成されたような社会システムだけで世の中が進化する事はありえない。

2015年3月24日 (火曜日)



遺す言葉 - 28

平成27年の夏

28.1 もうすぐ死ぬと悟った人たちが、何を後悔しているのか

日々あふれるほどの情報のなかで偶然に目にとまるものがわたしに何かのヒントを与えてくれることがある。
この言葉もわたしをおやっと思わせてくれたものだった。

「死への準備をするということは、良い人生を送るということである」とトルストイが本当に述べたかどうだか。
今の世の中こんな記述情報があるとあっという間い広まって神秘性はあやふやのままだ。
本当に大事なものは情報にチヤホヤされていない冷たい視線だと思う。

記事は「もうすぐ死ぬと悟った人たちが、何を後悔しているのか」を取り上げようとしていた。

17項目をあげていたけれど、商業雑誌だから、わたしから見たら無駄も多い。

◆1 他人がどう思うか、気にしすぎなければよかった
これって、もうすぐ死ぬ人が悟るような内容じゃないだろう。
而立の年に知るべきことだ。

◆2 他人の期待に沿うための人生ではなく、自分が思い描く人生を歩めばよかった
これも死ぬ前では遅すぎる。充実している時期に気づくべき。

◆3 あんなに仕事ばかりしなければよかった
このへんまで読んでくると、いかにみんな死に際まで何も考えてないかってことがわかってくる。

◆4 もっと一瞬一瞬に集中して生きればよかった
一瞬一瞬に一生懸命に生きるなんてことは、死ぬ間際に後悔することではないだろう。
これまで何を生きてきたのか、疑ってしまう。

◆5 喧嘩別れしなければよかった
すこしグサリと来る出来事もあったが、死に際の後悔にはならないだろう。

◆6 もっと他人のために尽くせばよかった
このことは、死に際ではなく、還暦あたりで気づくべき。

◆7 もっと家族と一緒の時間を過ごせばよかった
論外ですね

◆8 友達との時間を大切にすればよかった
いったいみんな、どんな人生を歩んでいるのか。

◆9 もっと旅をすればよかった
段々呆れてきた。

◆10 リスクを恐れずにいろいろ挑戦すればよかった
三十代にこういうことに気づき五十歳くらいには充実してチャレンジしているべきで、やはりぼんやりと生きてきた人が言う言葉だ。

◆11 もっと自分の情熱に従って生きるべきだった
正直に生きてきたわたしにはこの後悔はわからない。

◆12 あれこれと心配し過ぎなければよかった
こういうことって後悔することなのかという疑問のほうが大きい。

◆13 もっと自分を幸せにしてあげればよかった
わたしは幸せでした。貧乏でしたが。

◆14 周りの意見よりも、自分の心の声を信じるべきだった
理解に苦しむ。

◆15 愛する人にもっとたくさん気持ちを伝えるべきだった
伝えてきましたから、わたしは。

◆16 もっと幸せを実感するべきだった
幸せとは何かという原点に帰る話になります。
普通に生きてれば、精一杯幸せを目指すと思うが。

◆17 もっと時間があれば・・・
死ぬ間際に言う言葉ではないだろう

🍀

こんな日記 書かなければよかった……と思った。
しかしながら、このようなことを考えている現実的な側面がこの世に存在することに大きな社会の悩みがある。
その悩みはスパイラルになって増殖してゆく……

2015年4月20日 (月曜日)



28.2 バッタリ ─ 穀雨篇

▼日曜日の夜に眠りにつきながらツマとひとことふたこと言葉を交わす。
・明日は月曜日仕事に行くの嫌やなあ…
・むかし会社にいた頃はそう思う日が何度もあったなあ…

▼あのころは仕事が嫌というのではなかったものの激しい圧迫感の中で生きている表現のしがたい緊張に纏われて日々を辛いと思い生きていた。

▼もちろんそこを生き通したおかげで今があるのだ。もしもあのときに挫折していたら自殺するか家族を棄ててどこか遠くへ逃避してたのだろう。

▼逃げるとはそいう道しかなかった。そこで、もしも一人で生きている身だったならば「人生などどうなっても良い」と思ったに違いない。

▼だが、現実はそのようには展開しなかった。要約して結論づければ、ツマとムスメと親がいたから粘れたのだと考えて良い。

▼ここで、三つ目にあげた親というのが重大な要素だ。親というのは、現代のように入学式や卒業式さらには入社式にまで参上するような親をいうのではない。親という物理的な実体ではなく、一種のカリスマ性を持った鬼のようなものだった。

▼鬼といっても棍棒を持って目を光らせるものではない。孔子のようであり親鸞や日蓮のようであり小学1年生のときの担任の先生のようでもある。そしてそれは心の中で鬼として存在したのだった。

◎◎

▼今は仕事に辛さを感じることもなければ逃げ出したいと思うこともない。理由は簡単である。いつでも逃げられるし嫌ならやめればいい。

▼そう言ってみるものの生きてゆくために選択手段を天秤にかけることはあってそれはそれでストレスである。死というはっきりした到達点が見えて幸せとは何かというものが昔よりもはっきりと実像化してきたこと。さらにそれほど強欲に生きても無意味であることに気づいてきたことなどが肩から荷を降ろさせてくれた理由だ。

▼若いときはそうもいかない。植物だって成長する真っ盛りが在るのだからニンゲンだって同様に無茶をしてでも大きく成長する必要がある。温室で育つか荒野で育つか。十分な雨水に恵まれて大きくなるか。自然の寒暖差の刺激も受けるか。

◎◎

▼ストレスが著しく減少して爺(ジジイ)として厚かましくなってきた。高価なものが欲しい便利なものがほしいなどという欲目もなくなってきた。ビンボーで好きな様に生きている。遺書はないが言いたいことはおおよそ書いた。いつ死んでもいい準備ができた。怖いものはない。

▼否。1つだけ怖いものが在る。地獄のような苦しみで生き続けることだ。逝くなら即座に逝きたい。

◎◎

▼三十代のころに仕事に燃えて国産初、超一流の声に讃えられて数々の発明に関わっていたころ、今考えれば相当に大きなプレッシャーを背負っていたのだなと思う。今だからなおさら冷静にその姿が見えてくる。

▼ではあのときのわたしは可哀想だったかというと(結果論であるが・生き抜いたから)あれはあれで必要だったのだと思う。大事なことは生き抜くこととひとときたりとも夢を棄てないこと、そしてその夢にむかって進もうと努力することだ。

▼人は前進するために様々な力を必要とし知恵も出さねばならない。夢に到達するまでの企画力であるとか日々の実行力や行動力も不可欠だ。そのように目標を達成するためにあらゆる人がその手段を分析し明確化し手順化してきている。実践的な手法があれば精神論もあるし催眠的なものも在る。心身ともに鍛えるわけだがそこになかなか完璧には出会えない。パラドックス的に言えば完璧であればこそ未完成なのだし。

▼4月20日は穀雨。雨降りの月曜日となった。確か先週の13日14日(月曜と火曜)も傘のいる天気で、2週連続で週のはじめの2日間に傘をさした。

▼雨を憎んでも仕方がないが、中旬の雨のあとには水田に水が張られ休日には一斉に田植えが始まったので何となく気分がウキウキ。3月末に挿し木をした雪柳がまだ枯れずにいる(これは挿し木の技術も知識もないのでさほど期待していない)雨を喜ぶ人だってあるわけでぼやいてばかりもいられない。

▼そうだ。雨降りでしょぼんだったけれども、帰りの駅でいつも会う名も知らないのに通勤時に決まっていっぱいお話をする友だちになっちゃったおねえさんに、久しぶりにバッタリ会ったのだ。
「忙しそうですね、もう会えないかと思っていましたよ、こんなことなら連絡先を聞いておけばよかった思っていたのです……」
「残業で忙しかったのですけど、大丈夫、またこれからこの列車に何とか乗れるから」
そういってかわされてしまったのだった。

▼ちょっとしたストレスかも知れない。

2015年4月22日 (水曜日)



28.3 旅をしたカンナ街道を色褪せて ─ 立夏篇

5月6日は立夏。

逃れることのできない夏が到来する。逃れられぬといえども必ず秋が来るし冬に成ることがわかっているからこれまでの長い歴史の間でも夏を許してきたし辛抱してきている。

ツーリング全盛期は夏を嫌いだと思ったことなどなかった。80年代から90年前半のころだ。

もちろん今でも夏は嫌いではない。だが、おデブになったしバイクに乗って旅をすることもなくなったので夏を歓迎することはない。

そもそも、人間は生理的に少し寒いめの暮らしが健康的ではないか。食欲も出るし心地よく快適に眠れる、魚や野菜などの食い物も旨いものが多い。

さて

大型連休(GW)には京都・別邸に出かけていました。別日記のとおりです。

嵐山を散歩し「嵐山 よしむら」で蕎麦を食べて、帰りには伊勢丹の地下(デパ地下)で弁当を買って電車に乗った。

クルマで出かけることが減りました。かと言って電車に乗れば必ずビールということもない。ぼんやりと車窓を見ている。音楽も聴かないしスマホで暇つぶしも殆しない。

自分の体内時計が20年前、さらに40年前と比べると、まったく違う周期で動いてゆくのを感じる。

実は、二人で嵐山に散歩に行く前に嵯峨野六反田あたりに行ってみようという案があった。何もない場所で懐かしいだけなら「まあまた今度でもええわ いつでも行けるし」となって、日射しが暑かったこともあって、あっさり見送り。

京都を離れたのは90年のことであるから25年を迎えることに成る。82年と90年に屋上から撮影した写真が残っているはず。探しば見ればとても懐かしい。

しかし、技術は今もめまぐるしく進化し続けていく分、情報の貴重さは軽くなってゆくのを感じる。

子どもたちは自分の映った動画にもあまり興味を示さないし、子どものころの記録にも当たり前すぎて感動が薄いみたい。わたしがそう思うだけだろうか。

社会や暮らしや技術など、あらゆるものの変化を微分/積分して捉えることが、今の時代だからこそ大事なんだと思うのだが。

しかしながらここで、そんな話をいくら熱弁したとて、理解してくれる人もなければ、その気になって聞く人も居ない。(そんなもんなのだろう……)

この疎外感のような余韻が、かつて日本が激しく進化した時代をモーレツに生きぬいてきた人々にとっては、とても歯がゆいことなのだ。淀んだような「幸せと豊かさ」から抜け出て羽ばたこうとしない今の若者がとても「トロ臭く」見えてくる。

それは同様に政治にもいえる。政治家に昔の真面目さや真摯さはない。とくに最も先頭を行く人の考え方や実行手段に貧しさを感じる。魅力に欠ける。

◎◎
◯◎

蕎麦どころ「嵐山 よしむら」での待ち時間は1時間半ほどだった。そこでムスメさん夫婦は大堰川でボートに乗ることにしたので、わたしらは、西高瀬川・取水口の前にある木陰で時間を潰すことにした。

ボート遊びを遠くに見ながら、旅人だった時代を思い出す。堰で遊ぶボートを木陰からぼんやりと眺めながらあのころを思い出すのだ。

夏が始まると旅心が抑えきれなかった。ストレスの発散だったかどうかは不明だが、休みには無鉄砲に家を飛び出し、あっという間にGWの10日間を走りきった。カンナが咲いていた国道や山藤の香る街道の峠は、今はどんなふうに変わってしまったかなあ。

そんなむかしを思い出しながら川の畔に居たのだった。(6日)

堰の向こうの山伝いの道を見ながら、下駄の鼻緒が切れた話をツマが突然(思い出して)し始めたりする。

あのときに買い替えた下駄はいつの日にか半分に割れてしまうドジをして棄ててしまった。その残念さまでもがリアルに蘇ってきた。

2015年5月 9日 (土曜日)



28.4 過去への落し物

ここまで忘れていたのだから困っていないだろうということが過去への落し物みたいな気持ちです。

NさんがSNSへのパスワードを
うっかり忘れてしまったときの
その後のコメントで
「過去への落し物みたいな気持ち」
と書いておられて、

わたしはその言葉のことで考え込んでしまう。
彼女が言いたかった真の心の内とは何なのかがぼんやりだったので、
もう少し正体を突き止められないかと思うほど迷路に入っていく。

だからすぐには返事めいたことも書けずに
この一節をメモに書き置いたまま睨み続けた。

睨んでみては諦めて
感情を冷ましてみては
もう一度睨んで考えた。

落し物ってなんだろう
自分の手から離れた瞬間に
もう棄てられてしまうかもしれない宿命があったのかな

それはないでしょ
落としたくて手から離れたわけじゃない。

でも
手から離れた瞬間に
自由になれたと考えれば
どうだろう。

人生の完全燃焼ストーリーのシナリオから
落し物のように遊離して
私は今の人生を歩んでいる。

落し物って
あいつら
いつか誰かに拾って欲しいと思っているのだろうか。


濃密な文章で反時代的な私小説を書いた
直木賞作家の車谷長吉さんが17日、死去した。
うーん。残念。
たくさんの直木賞の中でも「赤目四十八瀧心中未遂」は特に素晴らしい作品です。
おもいきり真面目に感想も書いている。
もう一回読もうと思う。

車谷長吉 「赤目四十八瀧心中未遂」
201505akameimg_1687上手に生きてゆけない男が、身体が震え上がるような女性(アヤちゃん)に出会い、名門の出であることを……

BOOKs(読書日記)

2015年5月19日 (火曜日)



28.5 封じる

🍀 封じる

横なぐりの雨が暴れた夕暮れに
凪の入り江を見下ろすの

汚れたガラスを越してみえてくる
色をなくした波のゆらめき

焼け焦げてピンクに染まった反対の空を
飲み込んでしまいそうな暗い海と闘いながら
時間を刻む

君がここにいたならば
扉を閉めて君を封じ込めて

海に沈んでしまいたくなるだろう

濡れて汚れた君を
僕のものにしたいと願うだろう


🍀 後ろ姿

ディーゼルカーが行き違うために
ほんのわずかの時間だけ
長めに止まる駅で
いつも向こうのホームにいて
到着する列車を待ちながら
ベンチには座らずに
こちらには背中を向けて
立っている女の人がいた

毎日
必ずその列車の決まったドアの前に立って
必ず同じところに乗る

その人は雨でも風でも居て
毎日同じ後ろ姿で
足をクロスさせて
まっすぐに立っていた

いつも必ずスカートで
冬でもブーツの姿を見かけたことがなかった

一年も二年もその後ろ姿を見つめながら
その人がいるホームとベンチと滑り込んでくる列車の
決められたストーリーを
こちらのホームに停まる列車の中から
わたしは見続けていた。

ところが
たぶん
今年の春あたりから
見かけなくなってしまった

あの人は
こちらを一度も振り向いたこともなかったので
顔もわからないままだった

ホームとベンチのあたりが
やけに寂しい


🍀 迷路ごっこ

わたしは
どこか
戻ってゆけるところを
さがしつづけている

果たして
そんなものやそんなところが
この世にあるのだろうか

そんなつもりで
これまで生きてこなかった

しかし
もしも
そのつもりで生きてきて
周到に準備をしたものがあったならば
それは味気ないもので
戻れるようなものではなかっただろう

わたしは
戻るところを探しながら
迷路ごっこのようなことをし続けるのだろうか

2015年6月13日 (土曜日)



28.6 おゆうはん前にかぼちゃでまあ一杯

名古屋に出かけてましてん(17日)

東急ハンズとかJR高島屋とかを少しだけブラっとしてお休みのはんこを買って帰ってきたのが日記的な面白い話題かな。

お昼は黒豚庵というところで「豚しゃぶ冷やしうどん+カツ丼」を食べてそのあとにお皿やお椀やお鉢などをみたりガラスのコップや文房具などもみたりしてまあふつうのデート風のお買い物。ドトールで冷たいコーヒーを1個買ってお持ち帰りにして快速に並んでいつもより早めの時刻に帰ってきた。あさりを買ってスパをしようといいながら駅からの途中に寄ったスーパーで半額のステーキを見つけて予定が変更になったこと。久しぶりにお肉を食べたこと。にんにくを買い忘れていること。そんなにふだんと変わらない。

このごろをときどき振り返るたびに毎日に飲み過ぎているのを反省しているので今夜こそは控えるからと言って朝に家を出るのですけれどもおゆうはんの時刻になって飯台に座るとかぼちゃが三切れ入った小鉢とそのとなりに水と氷の入ったグラスを出してくれますのでまあ一杯ということになるわけです。

2015年6月18日 (木曜日)



28.7 続・かぼちゃでまあ一杯(その2)─秘伝篇



28.8 父の日や父に似ているムスメ哉

子どもと親は似るもんだなと思う

なぜって

父の日のプレゼントが
届いたといって
写真に撮って送ったら

ムスメといったら
そうやったな 何を送ったか忘れとったわ
と電話でツマに言ったらしい

わたしもきっと
同じようなことをしたら
同じような返事をするだろう

本当は覚えているのに
とぼけるのだ

親子ってのは
そんなふうに似ている

2015年6月22日 (月曜日)



28.9 ペンを置いたまま ━ 夏至篇

夏至の日にペンを置いたままである。

土曜日(20日)と野菜がとれたので取りにおいでと電話があって運が悪いことに家に着いてからかけてくるからなんと気の利かない母だと思ってみるものの今に始まった事ではないしふだんからそんな細かいことに気を使って生きていない証拠でもあるのだろうと意味付けて考えてみると腹が立つこともない。

しかし、せめて帰り間際までに連絡が届けば仕事の帰りに寄ってくることができるのだがそんな私の都合のことは一度か二度か何度もか聞いて知っていてもナスビがいっぱい採れたのが夕方だったのかもしれないしインゲンだってそうかもしれないのでやはり人生というのはそういうもんだろうと思うことにする。

父が逝った時と同じように亡くなりましたの電話一本が後から届いて私はあたかも覚悟して準備ができていたような顔をして出かけることになろうと思うとおかしくなってくるのだ。

待っているわけでもないしそんなものを待っている人がこの世にいるとも思えないのだがそんな連絡がいつ届いても不思議ではないのだから夏至になって夏になる準備を着々とするだけである。

あくる日の日曜日に母を訪ねて博物館に連れて行ったりクチナシを挿し木にしておいて欲しいと頼んでその後にナスビとインゲン豆とピーマンと玉ねぎをトランクいっぱいになるほど積み込んで家に帰ってきた。

ピーマンを調理するともう何年も昔から消え去ってしまった本物のピーマンの味がしたのでふだん食べているスーパーの(大量生産の)野菜は偽物のくせに本物の顔をした野菜なんだとつくづく思い昔の味を懐かしみながら食べた。

もちろんナスビもインゲンも夏の味であるからやっぱし夏至が来ているのだ。

▼夏至すぎて二三日目に初なすび

こんなのを書いたのは24日になってからだった。

2015年6月25日 (木曜日)



28.10 雨金 ─ 雨の金曜日

雨金と誰がいうたか豆腐くう

ようふりますなあ
そうですな

そんな挨拶で駆けてゆく帰り道

ウチの野菜を食べているがどれもこれもおいしくて驚いている。たぶん気候や雨のせいだろうと思う。

いんげん豆は最近ではなかなかお目にかかれないほど上質で形も粒も色合いも硬さも申し分ない。

良質の畑は数年や十数年でできるものではなく二十年三十年という月日を経て親子何代もの受け継ぎ完成に近づいてゆく。その間に時代が変化して化学合成肥料が開発・改良され品種も変わる。天候によって土も流されて変わってゆく。

味というものは作る人の心構えで育て方に違いが生まれるのは我が家の米を食べれば歴然とわかる。何も働きかけもしないし望んでもいないのに我が家の米を気に入ってくれている人が増え続けていると(弟は)いう。

今の世のなか贅沢になって満足で豊かに暮らせ幸せに満ちているのだがどこかおかしいと思っている人が少なからずいる。

変化するものを捉える眼と変化を許さないものを見極めて選ぶ力が弱まっているのだ。弱まっているわけはわたしたちのなかに定着した幸せという意識や豊かであるという満足感に関連してくると以前から言い続けている。つまり幸せというものをどうやって手に入れてきたのかを昔の人にまで遡ってしっかりと知り感謝をしなくてはならないのだろうということだ。

2015年6月26日 (金曜日)



28.11 逃げ道

くみさんがFBで書いている。

■人生の〈逃げ場〉 会社だけの生活に行き詰まっている人へ(朝日新書)上田紀行

こんな本をぽちっと注文してしまったくらい疲れてる。心身ともに疲れてる。

読む気も起きないくらい疲れてる。
読めるくらいに回復した頃には多分もうそこまで行き詰まってないんだと思う。

でもせっかくだから読んでみようとか思う。


私の場合を振り返ってみました。
仕事をしているときは開発部門でしたので潜在的なプレシャーとかが大きかったのでしょうかね。家電屋の製品にはわたしの息がかかった物がほとんどと言っていいくらい溢れてました。
人それぞれのプレッシャーの感じ方は違うと思いますが、あのころはバイクに乗って連休などは1週間以上俗世界を離れるみたいなことをしてさらに週末はかなり身勝手な休息をしていましたが、やめてしまったらプレッシャーはないんです。髪が減っていく速度が急激に遅くなって解放されてます。
別の社会に変わってみて知ったのは、プレッシャーの少ない社会が世の中に在るのだということで、もしもこの世界に24歳から来ていたらどうだったのだろうかと考えることがあります。
長くなるので控えますが、人間は圧力の感じ方や影響の受け取り方に差が大きく在るのですけども、私は仕事をやめてバイクをやめて旅をやめてストレスから解放されて、その後の打ち手が大事だと思いました。辞書からストレス発散という言葉が消滅したのです。でもそれはアブナイことなんです。
人は緊張するから生きているんだなと思いますね。緊張って誰のためのものか。自分のために緊張してるんです。人に緊張させられていると思っていたら負けなんやな。ウマく言えないけどね

嫌なことをたくさん書いたかもしれないと反省していたけど、人生には「嫌い」と「好き」は都合のいいような割合では存在しないのも現実ですね。「向いていない仕事」は良くなかった仕事と言うわけでもなく、わたしは嫌々でも飯を食って子どもを就学させたのだから、◎だったのかもと思っています。自分の夢の仕事をして成功できるなんてのはできないのが当たり前で、それ自体が夢ですね。

人生をあれこれと語れば、たぶん、成功した多くの人の話なんか、参考にならないし、時には自慢話にしか聞こえないから。
私のようにどん底の人の話は、反対に腹立たしいかもしれないけど、上手に聞けば参考になるのは、私のように順風満帆でなかった人のほうがいいんでないかな。

そうそう、流されてゆく?
それは間違い。どんなことがあっても、溺れていても、流れは自分が作るのだ。そう思うことが大事だな。

子どもは親の背中を見ているからね。どういうふうに捉えるかの味付けは、背中を見せっぱなしではなくて、親がする。

背中が大事なのか、真正面からの姿が大事なのか、そこで語る言葉に重みがあるのか(必要なのか)。

どっしりと重いものが親の肩に乗っかっているのですが、ボクは重くはなかったな。楽しかったよ。木を育てるように。

2015年7月 7日 (火曜日)



28.12 七夕や星なき夜やカレーなり ─ 小暑篇

七夕や星なき夜やカレーなり ─ 小暑篇

きのうの話(6日朝)

駅で毎朝会う女子高校生に「試験終わった?」って尋ねたら「ハイ」って言ってた。
「夏休み 楽しみやな」って言うたら「うん」って。
この子は中学の時から駅で顔を合わす子。中学の入学の時にお母さんに連れられて、成長期だからダブダブの制服着せてもらってピカピカの鞄を持って不安そうな顔で汽車に乗っていた。
あれから5、6年か、そのころから知っているけど名前も知らん子です。
大きなったな、と思います。
それだけですけど。

駅に乗り降りするのは数人だし、ぴったしの時刻の列車は1本しかないから、特に理由がない限りは大体いつもの人たちは顔を合わせます。行きが3両、帰りは1両で出口は1つ。

テストが終わって夏休みになるので嬉しそうな笑顔だった。けど、受験勉強もしなアカンから忙しいのだろうな。

今のところ冷夏なので少し助かっているかも。

▼ 七夕や星なき夜やカレーなり

またまた雨降りの七夕さんでした。
受験生のころって夜空がとてつもなく神秘的だった。

▼ 月見草人里はなれて君を待つ

小さな花を道ばたで見つけた。
夏は黄色い花がよく似合う。

2015年7月 7日 (火曜日)



28.13 ソーダ水 ─ 裏窓・番外

私は冷たい麺類が大好きで、夏になっても美味しく食べ続けますので、夏バテという言葉は全く無縁です。好き嫌いも全くありませんので、四季折々の味覚を美味しくいただいて、モリモリと成長しております。

もうすぐやって来る土用の丑の日には鰻も食べます。県内ではなかなか手に入りませんが、鱧も好きで遠くまで買いに出かけたりします。

夏をそれなりに楽しみながら感じることは、楽しもうと思えば思うほどに子どものころに食べた美味しかった食べ物やお菓子に戻って行ってしまう、ということでした。スイカ、かき氷、冷や麦・冷そうめん、ソーダ水…。

文明が進化しても涼しさを呼ぶ夏の味はそれほど変化しないのかもしれません。

一生の楽しきころのソーダ水  富安風生


7月号のメールマガジンのあとがきにはそんなことを書きながら、何十年もの変遷がもたらす味覚の変化や食べ物に対する執着心そして満足心のようなものも、ずいぶんと姿を変えてきてしまったと振り返る。

成長してゆく真っ直中で自分の身体の中に染み込ませていった味とか習慣というものは、容易く変更してしまうことなどできず、好き嫌い旨い不味いなどの感覚に基づくものは他人の忠告や刺激でさえ役に立たないほど頑固であることが多い。

それでいいのだと思う。

政治の方も揺れている。今決めたことは20年30年後になって不安から現実課題へとかわり問題となって人々を困らせたり悩ませることになるだろう。

新しく選挙権を得て勇んで投票をした人々は人生の半分以上を終えたころにあの時の人たちが叫んでいた声の本当の意味を知る。

歴史はそういう長いうねりで躍動している。

「一生の楽しきころ」はたった一回しかないのかもしれないが、間違いなく次の世代に伝わっている。少しずつ姿を変えて伝わってゆくのは仕方がないことだし、何が善くて何が悪いのかは、更にその後の歴史が吟味することになろう。

このうねりを楽しみながら人生の最終コーナーを心地よく走り終えたい。

2015年7月15日 (水曜日)



28.14 エアコンを取り替えました ─ 大暑篇

7月23日は二十四節気の大暑にあたり、いよいよ夏もこれからで覚悟をせねばならない時期です。

この日は朝から空模様が不安定でしたので、雨の合間にすいっと駅まで行ってしまおうと考えましたのに、途中で霧雨に降られて折りたたみ傘をカバンから取り出しました。

空気は じめっとしていましたが、かんかん照りよりは暑くはないので、朝のうちは少し助かったのかもしれません。

その雨も朝のうちにあがって、夕方に家に帰るころに晴れ間が出ていました。暑さは少しずつ襲ってきそうな気配で、天気予報も晴れマークばかり。

夜半になるとじりじりと蒸し暑くなっていきました。台風12号が近畿地方には来ませんでした。

朝のうちの天気予報を見ると雨の確率がやや高めだったこともあり、ツマは前倒しで買い物に出かけてしまったようです。簡単な買い物で済ませてしまいたいと話していたとおり、おゆうはんは冷蔵庫の在庫野菜で作るカレーでした。

大暑ということで「裏窓から」を書こうと思っていました。何かをするときも何処かを歩き回っているときも何の話を書こうかを考え続けているので、きのうきょうあたりはぼんやり顔であったかもしれない。

様々な思いが湧き出てきては消えていきました。でも、ことさらこのごろは平和な日々で、ムスメのつわりがひどいという話だけが気の毒で心配です。


24日は今夏1回目の土用の丑の日です。

夕方のウォーキングから帰るときに通る鰻屋あたりでは、ガードマンが駐車場整理に当たっていて前の道路の車もやや渋滞気味でした。でも、我が家では残念ながら鰻を食べることもなく、慎ましやかに普段通りのおゆうはんでした。

25日は仕事です。

身近な地域の夏祭りや花火大会のニュースが次々と流れて賑やかです。

「裏窓から」のネタはいっこうに浮かばず、書き倦ねている間に土用の丑も終わってしまいました。

大暑が終わって丑の日が過ぎたころから気温がグイグイと上昇し始めまして、連日の猛暑日となっています。

26日にはツマ待望のエアコンが二階の居間(寝室)に設置されました。日曜日でしたので午前中に庭の草引きとか町内会の出合いの掃除を済ませて、お昼はざる蕎麦を食べました。

現在部屋にあったエアコンは動かずに数年放置していたもので、ムスメが生まれる直前に買ったものです。

大塚先輩が東芝ということで、お薦めもあって冷蔵庫とエアコンを東芝製にしました。このエアコンを我が家が使い続けている間に大塚先輩は取締役になっていかれました。

私のムスメも結婚して来年には母になります。月日の過ぎるのは早いなあと一風変わった感慨にふけりながら新しいエアコンを眺めていました。

26日の夜、偶然にテレビをつけると日曜美術館をやっていました。

普段テレビを見ないのですが、たまたまスイッチを操作したらNHKでした。

番組を見て父のことを思い出しました。

父もテレビをほとんど見ない人でしたが、ときどきテレビの前にいることがあって、それがこの日曜美術館でした。

この日の番組は、蕪村の一句をお題にして出演者それぞれが自由に解釈しながら絶妙にマッチする西洋美術の名品を選び披露する、というものでした。

涼しさや鐘をはなるるかねの声 与謝蕪村

絵と俳句が画面に映し出されているのをしみじみと眺めながら、もしも子どものころに絵の手ほどきをきちんと習っていたらわたしも今ごろは父のような作品を幾つも残せたのだろうと思います。

ヒトは深くて味わいのある人生を送りその姿で終わっていけるのが理想だなと思うことが多くなりました。

若いときには上昇気流に乗って舞い上がってゆくことを夢に描きますが、大空を飛びながらも自分の姿勢や地面にいたときの思いを揺るぎなく振り返り続けることが大切なのだと思います。

2015年7月28日 (火曜日)



28.15 モナリザ

モナリザがあったのをふと思い出した。もちろん安物の壁掛け用である。

それがあった部屋は応接間という設定で拵えたのだが、農家に応接間など必要ないのでわたしの第二勉強部屋にしたような記憶がある。

18才で家を出てしまいそのあとは弟が使ったか、それとも誰も使わずに放置したか。

壊す直前には物置になってしまっていたかもしれない。

その部屋の壁に、ポツンと小さなモナリザが飾ってあった。

今思うとあれは父の嗜みの1つであったのかもしれない。

いや、父はそれほど多趣味ではなく、晩年は木を掘ったり絵を描いたりしていたので、その源流に当たる大切な嗜みであったのではないか、と考えて間違いはない。

もうひとつ思い出すことがある。

実はそのモナリザを模写したモナリザが家にあったような気がする。

なるほど、父ならやりかねないことだと今になって思う。

曖昧に記憶を呼び起こすと、その模写は似てもにつかないような下手くそなものではなかった。

決定的にニセモノだと直ぐにわかるものの、何となく優しい タッチの気品の溢れたモナリザだったような気がするのだ。

そのころの私は絵に対する関心などこれっぽっちもなく、可愛くない息子だった。

ワシの描いた絵を見てもくれない、とさぞかし父は哀しかっただろうと思う。

今ならそんな素気ないことは絶対にしないだろうに、あのころは理解をするチカラがなかった。

父は、ゆうはんを食べると一人で自分の部屋に行って絵を描いていた。

どんな気持ちで描いていたのか、考えたこともなかった。


こんな日記を書いてペンを置いてから幾日かが過ぎる。

形にならない思いが巡ってきては何処かに消えてゆく。
それは、父の本心に触れる思いのことであり、届かぬ思いに対するため息でもある。

つまりは、何も父のことを知らなまま、しかも死んでしまってからもそのことを掘り越すこともできないまま長い年月を費やしてしまったことをわたしは後悔しており、それを弁解し、懺悔しようとしている。誰かに向かって、というわけでもない。

モナリザを飾ったり父が絵を描く部屋(それはわたしの高校時代までの勉強部屋)のあった建屋を壊して処分してしまったから、あのモナリザやほかの 絵、そして父の持ち物であった彫刻道具も処分して消滅させてしまったことを後悔しているのだ。その佇まいを記録するための写真も撮っていない。

こういうことを思い出すたびに、何をうっかりしていたのだ、と自分を問いただしてみるが、壊して今は砂利を敷いて庭にしてしまって井戸だけが残っている。あの部屋で何を考えてどんな時間を送っていたのかを巻き戻すことは不可能で、もはや救いようがないのだ。

模写したモナリザに価値はなかった。しかし、わたしは父から形見として貰ったモノなど特に何もなく、たった1枚だけ、村のはずれの河原の景色を描いた絵が一枚玄関にあるだけである。

もしもモナリザがあれば、わたしの宝になるのだが、棄てたのか、母がどこかの押入れか空き部屋の隅にでも積み上げているのか。不明なままだ。

まだ書き足りないような気もして、足したいけど、ちょっと休憩とします。つづきはあとで。

2015年7月30日 (木曜日)



28.16 モナリザ 秘伝篇(WPブログ)

モナリザ 秘伝篇



遺す言葉 - 29

平成27年の晩夏から秋へ

29.1 宮本監督(津商) ─ 頼まれごとは試されごと

基礎的なトレーニングをコツコツ続けることは、体づくりはもちろん、「無意識」レベルで正しく体を動かすためでもある。

「短い距離でのキャッチボールや、緩いゴロをたくさん捕ること。意識が、いずれ無意識になるように。意識、意識、意識、意識・・・とやっていくと、自然に無意識になっていく」(宮本監督)

『分かっていないのに、出来てしまっている』実はこれが一番よくないことなのかもしれません」
と宮本監督は言う。

そのために練習では、目的を明確にして取り組んでいる。

練習中、宮本監督が進行を止めて、「この練習のポイントについて分かる人は?」と選手に挙手を求めるシーンが何度も見られた。当てられた選手が、何に目をやりどう動くべきかを答える。

体が「決まりごと」通りに動くことも不可欠だ。

決まりごとは、投球がワンバウンドになれば「ゴー」、キャッチャーがボールを捕ったなら「バック」だ。

だが練習中、ゴーもバックもせず、二次リードの位置でつい止まったままになりがちな選手が厳しく注意された。チームとしては「ギリギリでアウトになるのは構わない」方針だからこそ、グレーゾーンを狭め、正しくアウトプットできる体にしておく。

決まりごとを言えないようでは、ゲームのときに役に立たない。話が聞けて、指示・発信ができるコミュニケーション力も大事です」
とは坂倉コーチの解説だ。

精度の高さは、意味を理解できるかどうか、役割への理解ができているかに通じる。

心が体を動かすということも、忘れない。生活に「考動力」を求める。

「中村文昭氏(飲食店・レストラン経営者) の『頼まれごとは試されごと。相手の予測を上回れ』という」話をする。

相手から使われる(頼りにされる)人になる。
部訓は「心豊かなれば技冴ゆる」だ。


「頼まれごとは試されごと」

こんな解説をしている人を見つけました。

人から何かを頼まれるということは、「この人は信用できる人間かどうか」を試されているのです。 頼む方だって、悪いなと思って頼んでいるのです。

頼まれた方が「面倒くさいな~」と思っていることは百も承知なのです。

それだからこそ、気持ちよく引き受けてくれることに感謝、感動して「この人は信用できる」ということになっていくのです。

2015年8月10日 (月曜日)



29.2 立秋と書き出す手紙蔓の花 ─ 立秋篇

立秋(8日)の前日夕方の散歩でツクツクボウシ、その明くる日の散歩でカナカナの鳴き声を聞いた。蜩(ひぐらし)はカナカナと鳴くのでそう呼ぶようにしている。

カナカナは6月の末ころから鳴き出す夏のセミらしいが、秋になると目立って気にかかるようになる。その鳴き声を今の時期に聞くと季節感を感じてしまうのは、寂しそうな響きによるものだろう。

ギラギラと真夏の日差しが照りつけてクマゼミがとても喧しく圧倒しているときにはどこかでカナカナが鳴いていても気付かなかないのだろう。住宅街の雑木ではクマゼミの声であったのが、高校の山ランコースの方まで登ってくるとアブラゼミに代わる。立秋からはカナカナとなった。

山ランコースからは遠くの海岸や造船所、海の向こうに火力発電所らしきものまで見える。野球部も近くで練習をしているから呼び声やボールを打つカキーンという音も聞こえる。セントレアから飛び立つジェット機の音が聞こえてくれば、上空に残る太陽光線で真っ赤になって去り行く翼を見上げ、遠くへ旅立つ人がここにもいるのだな、といつも思うのだ。世の中にはさまざまな人がいてそれぞれの暮らしがある。ここはその一コマなのだ。

立秋と聞くだけで季節が移り変わってゆく風情を感じる。夏休みの空っぽの校舎も秋を待っているだ。

20150809img_1850

かなかなやまっしろおばけの宿題帳  岡田葉子

「増殖する俳句歳時記」の清水哲男は、「決して上手な句とは思わないけれど、読者に素朴に過去をふりかえらせてしまう力はある」と書いている。

そういえば、お盆を過ぎたころから夏休みが忙しくなってきて、手を付けずにほったらかしにした宿題も気になってきたな。

夏の思い出にもまた格別な味わいが残っている。

▼ 立秋と書き出す手紙蔓の花

暑中見舞いも書かずにいてこのままだと手紙は出さぬまま夏を終えるかもしれない。

毎年そんなことを思いながら秋めいて来る風にウキウキしている。

2015年8月11日 (火曜日)



29.3 心は巧みなる画師の如し ─ 水のかたち(宮本輝)から

宮本輝の水のかたちのなかで、志乃子が

私ねェ、「心は巧みなる画師の如し」っていう言葉が凄く好きなの

心は画師の如し、じゃないのよ。
巧みなる、っていう言葉が付くのよ。
つまり、心に描いたとおりになっていくってことなのよ。
心には、そんな凄い力がある
だから、不幸なことを思い描いちゃいけない。悲しいことを思い描いちゃいけない。不吉なことを思い描いちゃいけない。
楽しいこと、嬉しいこと、幸福なことを、つねに心に思い描いていると、いつかそれが現実になる。お伽噺みたいだけど、これは不思議な真実だ

と語る。

「華厳経」の「唯心偈」に説かれた  「心は巧みなる画師の如く、種々の五陰(ごおん)を画き一切世界の中に、法として造らざるもの無し」

を引いているものだろう、とメモしておく。

2015年8月20日 (木曜日)



29.4 稲刈り ─ 処暑篇

▼ 秋立てば長い日記が書きとうて

と今朝からつぶやけば、昨日は

▼ 朝の田を稲刈り機がのそりのそり
▼ おつかれさん日暮れのホームは秋の風
▼ 回れ右すれば一面が秋の田
▼ 日暮れの田んぼには秋風が吹く

とつぶやいたのだった。

「出穂して四十日」という言葉がある
まさにその通りであった。

秋の風が坂道を吹き降りてゆく
ホームを吹き抜けてゆく
田園の道でわたしを追い抜いてゆく。

水のかたち(宮本輝)を
シバタさんに LINE でオススメしたりしながら
心に残った言葉を拾い出しては
ぱらぱらと斜め読みをして
本をめくってゆく。

負けるな、負けるな、あきらめるな。
心は巧みなる画師の如し、だ

この一節を感想で引いている人があった。
だが、どのあたりに書いてあるのかを思い出せなくて焦っていた。
ぱらぱらと見る程度ではヒットしなかった。

探し出すまでに結構な時間を費やす。
サラサラとめくって行くだけでは何度繰り返しても見つからない。
歯の奥に何かがはさかったようで気にかかって仕方がない。

よし、こうなったらもう一回全部読むか
と決めて再び読み始めた。

ありました。
いろんなところで尋ねてみたけど無反応だったし
教えてあげない。

2015年8月23日 (日曜日)



29.5 北海道 ─ 花も嵐もⅢ その84

長~いバイク仲間のえみさんが八月の下旬にフェリーで北海道へ行ってしまった。FACEBOOKやInstagramで届いてくる景色や食べ物や野営の様子などを見ていると、バイクを降りてしまっている私であっても、グイグイと心を揺り動かされる。

砂埃を巻き上げながらオートバイで山道を駆け上がってゆく自分の姿が、今さら蘇ることはないのだろうと思うと少し寂しいのだけれど、あの時代の私だって、あの時代なりに一生懸命走り回ったのだから、それはそれでいいと思うことにしている。

懐かしいとか戻りたいとか再び駆けずり回りたいとか、もう一度冒険心を燃やしたいとか、そんなふうに思うことを「寂しい」というのだろう。しかし、「寂しい」のはそれ自体が「悲しい」ことではない。

今のように道具も地図も情報も充実していなかった時代であったからこそ私らしくあれたのだ。

自分の頭のなかに大きな構想として未知の大地を描き上げて、ルートを思案し、作戦を練ってチャレンジできたのだ。

お金がなかったし、十分にモノがあったわけでもない。それでも、快適でないとわかっていながら、必死で自分の夢に向かってぶつかていった。

寝ても覚めても無我夢中の精神があったからやれたのだろう。

便利なモノがあの時代の人々により実現化して、割と不自由なく満たされている今のツーリストたちとは違って、歓びや失望の凸凹レベルの差が烈しかった分おそらく驚喜になれるときの味が濃かったのではないだろうか。

えみさんの北海道は、もはや私の時代のツーリングステージではなく、今の時代のステージの上のものである。そう考えて楽しませていただいている。

だから、自分の昔を懐かしみ昔は良かった…みたいなことは思わない。

むしろ、あまりにも上手に満足のいく楽しい旅をしているので、もう一度生まれ変わって、30歳ほど若返って、チャレンジできるならやってみたいと夢見てしまう。

えみさんは、一生懸命に仕事をこなして、勝ち得た時間をフルに活用して、一分一秒も無駄にせず旅を充実させている。いつの時代だって若者は一直線だ。それが素敵で美しい。

私にはもうそんなふうに夢中に立ち向かってゆくような情熱も行動力もなくなった。

だから、多くのツーリストたちがみんな一生懸命に旅のために普段からがんばっているのを見ていると、ちょっと自分が情けなくなることも、正直いってありますけど…。

次のステージへと自分で決めたのだから、刺激を受けて新しいことを始めねばならないと、自分の心に鞭を打っている。

2015年9月 5日 (土曜日)



29.6 秋風に吹かれて鉄棒にぶら下がる ─ 白露篇

九月になって瞬く間に秋めいたような気がする。雨が二三日続いてバスに乗った日もあったものの8日に台風18号が伊勢湾の上を通過してからというもの風がすっかり秋風になった。

白露は9月8日で台風の来る前日の事だった。毎朝に駅まで歩く間に汗をかいてしまうので困っていたが、この頃から少しマシになった。ゆっくりと休憩をしながら行けばびっしょりにならずとも済む。

休日ごとに近所を5キロあまり歩いている。コレもあれこれ夏の終わりから続いているのだが、始めたころにはTシャツから汗が滴り落ちたころもあったのだ。今は行程の後半になるころにすっぽりとシャツが汗で浸っているくらいだ。

いつまで歩けるか自信がない。しかし、健康のことを考えるとやめるのが怖くなってきた。心配が実感として湧いてくるようになると食事においても食べ過ぎに気をつけるようになる。体重計には毎日乗る。それほど変化はないが、もうひと頑張りは続くと思う。
この行程の途上に高等学校のグラウンドがある。背中を伸ばそうと思ってたまたまぶら下がってみたらめちゃめちゃ驚いたことがあった。小声でしか言えないが、懸垂ができなくなっているのだ。体重が20キロほど重くなったのが原因だろうが、100回くらいは学生時代にやっていたことを思い出すとちょっとショックです。たぶん、逆上がりもできないのかもしれない。

20150911img_1888鉄棒は子どものころから好きだった。父が庭に作ってくれたがきっかけで大体の事はできた。わたしの数少ない得意なことだった。お陰で上半身の体格はしっかりしていて、共同浴場でレスリング部ですかなんて声を掛けられたのは懐かしい思い出だ。

そんなことを思い出すと、もう一度できるようになるために、ココに来て時々ぶら下がって、這い上がれる
ようになりたい。


青森産にんにく入りスパ
シャケとホタテのスパに青森産のにんにくを入れてキャベツ、しめじも合わせて炒めたら、グッドになりました。キャベツとしめじは冷蔵庫の残りものでした

2015年9月12日 (土曜日)



29.7 舌まがりアナタを好きと言いそびれ

(Sちゃん-さっちゃんとでもしようか-には)
ひとり息子がいる。
大学に進学して卒業して立派な職場で働き始めた。
勉強もしながらさらに望みを叶えるように転身してゆく。
結婚をした。
と同時にアメリカに渡り数年間は研究者として
そしてツマを日本に
自分はアメリカいて
離ればなれで暮らしている。
仕事で新潟に用ができて一時帰国した。
けれどもとても忙しいらしい。
そんな理由で実家には顔を出さずにアメリカに帰っていたという。
この子の父は子どものころに離婚をして実家にはいない。
母は嫁ぎ先の名前のままでいる。
今も仕事をしてひとりで暮らしている。
この息子は東大だった。
そこを出たあと京大でも研究者として
さらに理研での研究経験もしている。
こういったことを回想しながら将来展望を考えてみる。
しかし
母の立場からは
何も見えてこないのではなかろうか。

この子の母には兄がいてその人には息子がいる。
似た年代のつまり従兄弟にあたる。
この子も良くできる子だと小さいころからいわれた。
進学校として有名な中学に進学しトントン拍子で地元の国立大学に合格。
この子の父は役所勤めで周りからも安定した家庭で
良くできる子が育ったと評判高い。
自分は地元の国立
従兄弟は東大理科一類に進んでいる。
できる子の話題になっても
地元に進んだ堅実さを大きく買われて
二人は良くできた息子たちの評判が高い。
しかし
地元の国立大学に進んだものの
卒業を目前にして大学から離れていってしまう。
卒業したかどうかさえ親戚でも推測話になって飛び交う。
しばらく引きこもったあとに公立の農業大学校に通い始める。
順調に卒業をして地元で大規模農業を運営する企業に勤め始めた。
結婚をしたかどうかは不明である。
仕事は上手くこなして
引きこもり時代の不安などは一切なくなっている。

なかなか子どもは
夢に描いたように大人になってくれない。

だから
なまじっか成績が良くても子どもは都会にいってしまうだけや
大学なんかにいったら古里に帰ってこなくなる
といわれる。
大学に行っても地元に何も貢献しない
農家の跡取りとしてしっかりして欲しい
などと言われる。
良く耳にする話だ。

この子の母親と仲良しにしている子がいる。
自分の従兄弟に当たる。
その子が便りをよこし

(アナタから)
見たらかわいそうに見える?男の子は元気で頑張って自分の生活をやってくれればいい。人に迷惑かけたり借金作ったりしなければ。だから結構楽しくやってるみたい

と書いている。

別に言い訳をするつもりも反論をするつもりもない。
人生は人それぞれで自分の思うように操って暮らせるわけでもない。
流れに任せて
その結果が幸せかどうか
なのではないかとも言える。

しかし
わたしは意思で流れを変えていきたいといつも激しく考え続けた。
叶わぬことであったのだが。

何もいいことがなかった人生だったかもしれない
それだけに
数々のお世話になった方々に恩返しをしたいと
日々
思いが強くなっていく。

自分たちだけが
迷惑をかけずに
幸せに暮らしていればいい
という甘っちょろい時代ではないだろう。

恩返しをするための強い意思を持って
親のもとへ帰ってきて
社会貢献をするべきではないか。

2015年9月17日 (木曜日)



29.8 むかしの話 ─ 花も嵐もⅢ その85

わたしが若いころ、つまり子どもが小さいころから大人になるまでの間、わたしは色々なところに旅(ツーリング)をしてきました。そしてまずまずマメに足跡を日記に残してきました。

その日記や出来事そのものにもウチの子どもはあまり関心を持とうとしない ─ 聞こうとも読もうともしない ─ みたいです。

早い話が、父親の若いころにはどんな遊びをしていたか(またはどんな暮らしをしていたか)などということにはそれほど関心がないのです。

これは、わたしが子どものころに父親に昔の話を聞かせて欲しいとせがんだ様子とは、とても大きな違いだと思います。

こういった現象(傾向)は、昭和末期から平成に掛けての子どもたちには当たり前のようにみられることで、言いようによってはマイペースで個人主義の表れです。あまりにもこのごろになってから顕著になってきているようで、些か驚きます。

その理由を次のようにわたしは考えます。

世の中の成長曲線がなだらかになって、社会の変化率が小さくなってきたことは明らかです。不況ではありますが、安定しているともいえます。そんな日常で、何事に向けても好奇心や関心が薄れているのでしょう。

いつも何らかの形で満たされている状態で、お金があれば何でもできるという冷めた感覚が存在するのかもしれません。

自分なりに誰の影響も受けずに、ある種の平和を確保し、楽しそうなものを楽しもうという考えでしょう。受験もほとんど苦しいイメージを持たずに推薦で合格し節目は楽ちんに通過していく人が多いし、浪人という考え自体がかなり死滅しかかっているわけです。みんなのらりくらりと誰かの指導を受けて作られた道をきちんと歩む。

そうして生きていれば、これから新しい楽しみがやってくるし、それなりに夢が実現できてゆく。そう考えるのが一種の真面目な人の考えだ。そういうところでしょうか。

ですから、父親の生き方やその記録なんてのは、一種の古いスタイルであり、いわば歴史的レトロであるわけです。わたしには関係ないむかしの話だし、これから楽しむとすれば、レトロというジャンルで特別扱いになってしまう。

以前、日記のどこかにも書いたが、子どもというものは親の足跡や日記を読もうとはしないし、あまり熱心に話を聞こうとしないのは別に普通のことです。これは、50年くらい昔の子どもでも同じで、子どもとはそんなものでしょう。

それが大人になって、親を亡くしてしまうころから変化し始める人があります。

わたしに当てはめて言えば、父や祖父が(母や祖母でも)日記を遺していたら間違いなく貪るように読もうとしたわけで、何か記録に残ったものはないかと必死で探したり、老人に話を聞きに行ったりもしたのでした。

だからといって、子どもたちに先取り精神を教えてやろうというのは正しいとも言えないでしょう。若いうちから自分の一世代二世代むかしの人から話を聞きなさいな、というのも出過ぎているかもしれません。

その子がおとなになったときに、何をどう感じるかはまったく想像はつかないけれど、所詮儚いものなんですから、無理に伝える強引さはいけないのかもしれない。

調べたくなったときに発掘する資料を残しておくだけでいいのでしょう。そんな気がします。

2015年10月 2日 (金曜日)



29.9 等伯と永徳 ─ 霜降篇

10月24日が二十四節気の霜降なのにとりわけ寒くはない朝を迎えたのだが、あくる日の朝には冷たい風が吹いた。
その日(25日)は日曜日で、午前中に地区の掃除があったので団地内の街路の掃除や草取りなどをする。風が強く、道路に刈り散った草が強風で吹けてゆくほどだった。

この次の週からカッターシャツを長袖にしてジャケットを羽織って衣替えとした。
昼間でも窓を開けて風を呼びこめば半袖ではゾクッとする日がある。
ちゃんと秋になってきているのを身に沁みて感じる。

人の話では今年は秋が早いのだという。
京都の紅葉の見頃は勤労感謝の日のころだが、そのころに行けば紅葉(もみじ)は散りかけているのだろうか。

長袖に衣替えしたのはほどよいタイミングだったものの、こたつを出しても布団を被せていない。早くしないと寒くなると焦って思いながら、先延ばしにしている。

本格的な寒さがやってくれば、こたつに潜り込んでうたた寝をする。
いまはまだそんな季節ではなく、食事が終わったらそそくさと風呂に入り、布団に潜りこんで本を読んでいると、そのまま眠ってしまう。

長谷川等伯を書いた安部龍太郎の「等伯」を読み終えたあと、山本兼一が狩野永徳を書いた「花鳥の夢」を読んでいる。
トントンとは読み進まない。

2冊の本を逆順で読んだら違っていたかもしれない。

どちらが面白い本であるという話はできない。
人物においても優劣はなく、善も偽もない。

こういう本は、例えば三十歳くらいに読んだとしたらそれなりに消化ができただろう。
この年齢になって読んだら受けるものも多いが、もはや受けてもとどめることのできないものもある。

わたしの人生の見えないレールを構想するころに、数多くの人間の、その人間味に出会えていたら、わたしは違ったレールを敷いていたのだろうか。

もし、それが実現していても、正しかった言い切れるだろうか。
そんなことを考えながらゆっくりとゆっくりと二人のことを考えている。

2015年10月31日 (土曜日)



遺す言葉 - 30

平成27年の暮れに考える

30.1 霜月ときいてぬるめの燗をする

霜月というといかにも寒さがただよう。11月の初日は日曜日で、ムスメが美容室に来るというので駅まで迎えに行った。もう一回、お正月ころに切ったらそのあとは子どもが生まれてそれどころではなくなるだろう。髪を切ったり何か出来事があったりしながら季節はこつこつと過ぎてゆく。

Photo冬の寒さは嫌いではないものの、カラダの動きが鈍くなったり動き出すのが億劫になったりするので、少し自省の気持ちも出てくる。しかしながら、ぬくたい布団のなかでひとときを過ごすのも快感だ。

時間がもったいないと思ったころもある。そんな時間を過ごすならば読書をするか、何か外で行動でも起こす、日記を書こうかなどと忙しい心に責められていたあるときが懐かしい。

今は「これでいいのだ」という精神で生きている。わたしの父はまさにバカボンのパパと同じような雰囲気を持った人であったなあと、亡くなって年が過ぎるごとにますます痛切に感じる。

ぬるめの燗。

霜月という言葉をきいて「ぬる燗」の酒を思い浮かべた。日本酒を飲まないくせにこの季節のピリッとする寒さを連想させるには持って来いな言葉だ。

わたしはこれまでの人生で日本酒をほとんど好んで飲んでこなかったので「ぬるめの燗」の旨さは知らないし、今でもそのような域には到達していない。

ムスメが嫁いで居なくなってから二人でお猪口に二三杯ほどのお酒を飲むことがあるものの贔屓の酒に出逢えたわけでもない。味わいが酒それぞれに少しずつ隠れていて個性の幅が大きく、私のような者でも味わいやすい面をそれなりに愉しむ。

味は極めるほどにはわからない。それでいいと思っている。

ムスメさんの夕飯の写真がLINEで送られてきた。(おゆうはん)
11月2日 シャケで一人ご飯

旦那さんはお酒を飲めない人なのだが飲み会があるとわりと楽しそうに出かけていくそうで、深夜の帰りを待ちながら、そそくさと簡単に一人ご飯をいただいたらしい。

わが家はおでんだった。

しらたきという関東風のこんにゃくみたいなのが食べたいと言って買ってきて冷蔵庫にしまってから二度おでんをしたけども二度とも入れるのを忘れてしまったらしいうちの人。

よほど馴染みがないのだと思うとますます食べたくなってくる。

2015年11月 2日 (月曜日)



30.2 花鳥の夢(山本兼一)から利休と秀吉の言葉

利休の言葉がいい。第八章最後にある。

性分でございますゆえ、お許し願いたいが、見せよう、見せよう、という気持ちの強い絵は、どうにも好みに合いませぬ。絵師がおのれの技倆を鼻にかけているようで、いかにも浅薄な絵に見えてしまいます

そして、秀吉の言葉が更に素晴らしい。(第九章P485、486)

そなた、悪相になったな

秀吉の命を受け東福寺法堂天井画を描きはじめる直前の永徳は、自分と格闘をしている。悩み苦しみ命をも削っている(…ことに気づかない)

なにごともな、すべてを一人で掴もうとすると、し損じる。わしの天下統一でも、すべての大名たちが従うわけではないぞ。従わぬ者を討伐しても、皆殺しにするわけにはいかぬ。生かして残してやらねば、連中は追い詰められて、死にもの狂いで歯向かってくるぞ

・・・

絵は、もっと楽しんでゆるやか描くがよい。長谷川の絵は、観ていて気持ちがゆるやかに楽しくなる。絵のなかに、観る者の居場所がある

2015年11月 6日 (金曜日)



30.3 冬じたく ─ 立冬篇

11月8日は立冬で暦のうえではこの日から冬となる。また寒い季節を迎える招待状が届いたようなものかもしれない。

それほど冷え込んでこないのは雨が近いからだろうと天気予報を見て、前日の土曜日にお出かけをした帰りにムスメと合流しておゆうはんを食べた。

鍋が食べたいというのでお手ごろな店に4人で入ったのだが、焼肉とお鍋とがセットになったコースを注文して、みんなで汗だくになって食べた。

食事が終わって店の外に出ると、傘なしでどこまでも歩くわけにもゆかないほどの雨が降りだしていた。天気予報は夜半を回ってからといっていたのが、少し外れたようだ。

今の季節などは、天気や気流、気温の予測をすることにおいて難儀な時期ではないと思えるのだが、珍しく外してしまったには訳があったことだろう。何事も安易に見えてそこには無数の奥があるのだ。

▼ 雨静かに降り出して今年の秋と別れる

家の前まで車で送ってもらって週末・土曜の夜が更けた。

二三日前に「花鳥の夢」を最後の第九章を残すところまで読み終わっていた。感想は思いつくことをメモ書きするように書き溜めていたので、第九章を読み終えて読了とする。

山本兼一の作品は「利休にたずねよ」を読んだのみで二冊めであった。

小説として作品を見ると、文芸の域より大きく文学に傾きながら、文学に偏らずに芸術をしっかりと手のひらの上に置いて書いているのを感じる。

利休の言葉がいい。第八章最後にある。

性分でございますゆえ、お許し願いたいが、見せよう、見せよう、という気持ちの強い絵は、どうにも好みに合いませぬ。絵師がおのれの技倆を鼻にかけているようで、いかにも浅薄な絵に見えてしまいます

そして、秀吉の言葉が更に素晴らしい。(第九章P485、486)

そなた、悪相になったな

秀吉の命を受け東福寺法堂天井画を描きはじめる直前の永徳は、自分と格闘をしている。悩み苦しみ命をも削っている(…ことに気づかない)

なにごともな、すべてを一人で掴もうとすると、し損じる。わしの天下統一でも、すべての大名たちが従うわけではないぞ。従わぬ者を討伐しても、皆殺しにするわけにはいかぬ。生かして残してやらねば、連中は追い詰められて、死にもの狂いで歯向かってくるぞ

・・・

絵は、もっと楽しんでゆるやか描くがよい。長谷川の絵は、観ていて気持ちがゆるやかに楽しくなる。絵のなかに、観る者の居場所がある

言葉というのは、受け取る人の心の状態でいくらでも変化する。
気にもとめられないこともあれば、言った本人がまったく違ったことを考えていたりすることもある。

秀吉が狩野永徳にそのように言い放ったとき、利休はまだ秀吉から切腹を命じられていない。

秀吉からの厳しい言葉を浴びたあとにも永徳は描き続け、龍の瞳に丸い二つの目玉を入れて、鼻の線を引いたところで永徳の命は尽きる。

小説は永徳が死んでしまうのだとは明確に記述していない。まして、利休がこの半年後の春に切腹を命じられこともどこにも触れていない。

ムスメさん夫婦は私たちを家の前まで送り届けたあと、簡単な買い物をするためにスーパーに寄り深夜に家に着いたらしい。

ツマが、あの子たち買い物してから帰ったんやって、と明くる朝に話してくれた。
そうか、と返事をするときにノドが痛いことに気づいて風邪のはじまりとなった。

ぬくい夜がおわって雨の立冬の朝を迎えた。その雨も夕方には小止みになったかのように見えたが、月曜日の昼過ぎまで降り続いた。

わたしの風邪は、雨がやんでも、知らぬ顔。ノドはまだ痛いが、明日は休めない。

2015年11月 9日 (月曜日)



30.4 手が見えて父が落葉の山歩く 飯田龍太

手が見えて父が落葉の山歩く 飯田龍太(昭和三十五年)

飯田龍太のこの句に出会ったのは最近のことでそれほど深い意味もわからず静かな落ち葉の公園の遊歩道のようなところを想像していた。

然しのちになってもう少し深い意味があるのではないかと思い立ち評論や引用などを手探りで辿ってゆくと、今度はわたしの文学の知識や資質を大きく上回るような解説が出てきて、これはこれは大変偉大な作品に出会ったのだと密かに喜んだのだった。

手が見えて父が落葉の山歩く(昭和三十五年)

[自選自解 飯田龍太句集]の解説から

<実景である。早春の午下がり、裏に散歩に出ると、渓向うの小径を、やや俯向き加減に歩く姿が見えた。この季節になると、楢はもちろん、遅い櫟の枯 葉もすっかり落ちつくして、梢にはひと葉もとめぬ。乾いた落葉がうずたかく地につもる。しかし、川音でそれを踏む足音はきこえない。明るい西日を受けた手 だけが白々と見えた。くらい竹林のなかから、しばらくその姿を眺めただけで、私は家に引き返した。この作品は『麓の人』のなかでは、比較的好感を持たれた 句であったようだ。しかし、父が、これから半歳後に再び発病し、爾来病牀のひととなったまま、ついに 回復することが出来なかったことを思うと、矢張り作の高下とは別な感慨を抱かざるを得ない。いま改めてその手が見えてくる。父は生来、手先は器用の方であった。>

昭和三十五年の秋といえば、わたしは3歳になるときのことだ。父はもちろん祖父も元気であった。
母がいる実家の押し入れには、おそらく、わたしが父に肩車をしてもらって祖父と並んでお伊勢さんの鳥居の前で撮った写真が残っているはずで、それがそのころのものだ。

伊勢まではどうやって行ったのだろうか。
写真には書き添えられてはいないが、ディーゼルカーはあったのかどうかもあやふやで、蒸気機関車が普通に長い長い客車を引いて走っていたころのことだから、汽車かもしれない。近鉄電車にも乗っただろう。

父も祖父も重苦しい外套を着てカメラに向かって最高の顔をしている。

三十歳に満たない時代は誰にでもあった。わたしは自分が子どもである写真よりも父と祖父がここにいることに大きな価値を抱いている。

祖父は二三年後に亡くなってしまう。わたしには祖父の記憶がある、と思いながらそれは遺された数少ない写真を見て作られたイメージであるような気もする。しかし、5歳ほどなら記憶があっても不思議ではなく、何となくであるが祖父の葬儀に参列しているような像も頭の片隅にある。

子どものころは事ある毎に父に肩車をしてもらったものだ。今の子どもたちがお父さんに肩車をしてもらっている光景をあまり見かけないのは何故だろう。高く突き放す感じよりも子どもを大事に抱きかかえる動作のほうが日常になったからかも知れないと推測したりしている。子どもは宝なのだがある一面で抱きかかえ過ぎていることの象徴のようにも思う。

父も祖父もいなくなりわたしが父という立場から祖父へと代わる時がもうすぐに来る。

そんなこれからのかずかずの光景のなかで、ほんの少しでよいからこの句の「手」のようにありたいものだと思う。

2015年11月14日 (土曜日)



30.5 最後の言葉 ─ 小雪篇

わはく(秘)伝 のブログにメモ書きを始めたら長くなってしまった。
移動しながらコチラで書く

あのひとの最後の言葉


▶「ひとの最後の言葉」(大岡信 ちくま文庫)をみて、大岡信さんが亡くなられたころに買ったことを思い出し、さらに、わたしの父はなにか言葉を遺したのかを回想していた。

▶わたしは何を残せるだろうか。
残せる業績などなかったと卑下しても構わないが人として何かを感じたはずでゴミでもであろうがそれを残したい。

▶年が暮れてくると1年を振り返ることが多くなるので些細な事でも気にかかることが次々と頭のなかを掠めて通る。それが身近な人々の最後の言葉であるとか口癖であったりする。その人を偲ぶたびに切なくなり自分の覚悟ができてくるのが分かる。


▶父はなにか言葉を遺したのか
そのことが真っ先に浮かんだ。答えな曖昧なままなのだ。あのときを看取ってくれた人に尋ねたわけではない。なぜこれまで尋ねなかったのか。死んでゆくときの様子を何度も聞かせてもらってはその場所にわたしがなぜ居なかったのかを悔やんできたのに。わたしは知ろうとしなかったのだった。

ひのな
ひのな

22日 (日) おゆうはんにひの菜があったのだ(嬉)

▶ひの菜で夕飯を食べながら
今夜はわが家の母の美味しいひの菜のことを考えていた。

▶母は80歳を過ぎてから
(細かいことを気にすれば)味付けの腕も変化したてきたものの、これを衰えというよりは進化のようにわたしは思う。

▶そもそも旨味というものがヒトの身勝手な趣向で線引きされたものであり、漬物の味が変わったり、煮物の味が濃くなったり薄くなったり、寿司の甘酢の味加減に変化があったり、日によって違ったり、味ごはんの醤油や甘さ加減が昔と変わったとしても、それは母のサジではないかと思う。

▶母のたくあん漬けはわたしだけが世界で一番おいしいと思う。だから、ひの菜も母のひの菜が一番旨い。写真は地場産の店で買ったもので今年は母の漬物をまだ食べていない。

▶そんなふうなことを考えながら他愛ないおしゃべりをしておゆうはんを食べてたのだが、ちょうどそのときに日曜美術館を放送していることを新聞TV欄で知った。わたしはNHKは見ないが父がいつも見ていたのを思い出してそんな日々もあったなあと染み染み漬物でごはんを食べた。

▶父という人はテレビを自分から進んでみることは全く無かったのだが、日曜美術館はいつも見ていた。あのころのわたしはあの人の気持ちをわかろうとしなかったのだな。もう少し近づける努力はできたのかもしれないのに、なぜ、一緒に見て共感しようとしなかったのか。幸せだったというのが答えのひとつかもしれんと思っている。だからそれを知っていて父はわたしに見ろとも言わず、また、自分の絵も押し付けようともしなかった。

▶父は朝ドラも時々見てた。仕事に出かける前に家で見るか、ご飯を食べに昼休みに家に帰ってきてドラマを見てから仕事に戻っていきました。あの人が見たテレビは、おそらくその二つの番組だけだっただろうと思うと、またまた切なくなる。

▶そんなことを思い出しながら まだ、あの人のあの人らしい言葉がするりと思い出せません。

(次篇へとつづく)

2015年11月23日 (月曜日)



30.6 満員電車と暑い地下鉄の話

むかしの話をしょうか
の続きを書く

冷房がない通勤列車

最初に「冷房がない通勤列車」と書いてみたが「満員電車がキライだった」が正しい。そして「暑い地下鉄」はその一例だ。

まだ冷房を備えた電車は珍しかった。

西武池袋線の江古田駅を7時45分ころはまだ朝の通勤ラッシュ時刻であるが、1時間に6本ほどやって来る各停の中に、1本だけが冷房車に当たるというくらいのレベルではなかったか。

地下鉄ではトンネル冷房というものが実施されつつあった。丸ノ内線はボロかったので、設備が充実するのも遅かった。
地下通路やホームは涼しかった記憶があるものの、まだまだ列車の中は地獄のように暑かった。
冷房をする装置がパワーや効率面で現代ほどには進化していなかったのだろう。

世の中のあらゆるものが現代のように大量の電力を消費するようには設計されていなかったのだ。

2015年11月30日 (月曜日)



30.7 拗れる、拗ねる ─ 月のはじめに考える

12月1日(朔日)

キリも良いのでダウンジャケットを背広の上から羽織ってゆく。そうだ去年は1日に出したのだっといった具合に思い出しやすい。

野菜炒め
野菜炒め

今のように症状が治まらないのを風邪が拗れたというのだろう。インフルエンザの接種を受けに行きたいのだが、打てないかもしれない。11月8日からひいているのでもうすぐ1ヶ月になる。

咳が止まらない。静かにデスクに座っていれば問題ないのだが、電話に出て一言でもしゃべろうとすると言葉を遮るように咳が出る。

拗らせてしまったのかと思う。
拗れると漢字で書く。
漢字を調べてみると面白い。

拗れる、拗ねる、拗れる、拗らすと送り仮名がある。
執拗、拗音、拗強、拗者、拗体と例がある。

これらを見ながら「月のはじめに考える」ことになった。

(つづく?)

2015年12月 1日 (火曜日)



30.8 拗れる、拗ねる ─ 月のはじめに考える(その続き)

▼ 拗れる─こじれる
風邪をひいて8日にあったミドラの練習を休んだのを始まりとして
ずーっと風邪の症状が続き、12月になってからは胸の真ん中奥深くで引っかかったような咳が出るようになっている。

静かに20151206_82001座っていると何ごともなく過ぎてゆく

▼ 拗ねる
「すねる」という読み方もあるのだと改めて印象を強く焼き付けている。

わたしはおすね(お拗ね)であるとよくいわれたので、こじれると読むこの漢字を少し特別な思いで読む。

拗ねる拗れるに何か共通すつ点があるのだろうか。
人間の一面をじっと見るように考え続けている

霜月から師走へと ─ 言葉おぼえ帖から

▼ ささやか
細やかと漢字が飛び出すが、あまりピンとこないのでかなで書く。

ささやかにボーナス明細でた夜のケーキ

ここでも書いたようにささやかなことは大切なことだ。

▼ 手遅れ
お給料をもらって暮らしているときにはそんなことには感謝もしない。
多大な人々に世話になったことに感謝をしなくてはならなかったのだと
気づいた時は手遅れである。
残念ながら手遅れにならぬようにとお節介をしたり言ったりしても
受け皿にその用意がしてなければ果ててゆく。

どっかに書いたが「これでいいのだ!」と思う。

禍福は糾える縄の如し
そうか おとやんは こういうことを伝えたかったのではないか

▼ おでんの鍋突っつきながら酒も飲まない父だった

▼ 年末の忘年会11月下旬から週末5連続で10万円ほど

  • 高雄のもみじや別館で桜鍋
  • 雄琴温泉で鴨鍋
  • 四条河原町東華菜館で豪華な中華コース

懐かしがるわたしにムスメは

バブルな時代やったんやな

と言っていた。
厳密にはバブルよりももう少し前やったよ。
成績ビリ(わたし)でも大手企業に好きなように就職できた時代やったのよ
(地道に大学の残った友人が大学教授・学部長の時代や)

揺らぐことなく真面目に生きよということや



30.9 冬眠をする ─ 大雪篇

7日は大雪

それほど寒くないなと思っていたのだが 大声で さむ~い と叫んでいる子がいたので 一生懸命に歩いたわたしだけが寒くなかったのか

廊下からデスクに入り込むときに天井の送風口から なま温かい風が顔をさするように吹きつけた

外は冷たい風が吹いている

大雪の日 つぶやきを拾ってみる

夢のなか好きだと言って 逃げだすの
12-07 08:25

大雪や赤いセーター追いかけて
12-07 08:26

追いかけて遮断機くぐる月曜日
12-07 08:27

母は七十一年前のきょうの地震の日の思い出を話してくれたことがあります。終戦前のころの正月前で 麦踏みをしていた と言っていたかな。今度もう一回訊いてみよう
12-07 23:27


母が話してくれたむかしのことを単に物語や出来事として聞くだけではもったいないと歳を食うに従い切々と思う。平成10年に逝ってしまった父の話もわたしに話してくれたときの年齢を越えるころになって初めて心に響いて届く。

母は正月があけたら八十五歳になる。わたしはこの歳まで生きていないだろう。祖父も父も短命で六十五歳、六十六歳で逝っている。生まれながらにして内臓が丈夫ではないのだから、よく頑張ってもそのころまでか。あと、7、8年ほどの勘定になる。

冬眠なんて そんな甘っちょろいこと言っていたら時間がもったいない。

7日は月曜日で大雪。それほど寒く感じなかったのだがあくる日の8日の朝は少しピリリと寒かった。

太陽はは地平線の下にあって東の空が赤くなり始めたころに霜が降りた真っ白の田んぼの横をコツコツと歩いて駅まで出かける。いつの間にか吐息が白くなるまでに寒くなていた。

ダウンジャケットは羽織ってみたが手袋が見当たらずカバンは幼稚園掛けをして手はポケットに入れて歩いてゆく。

夜明け前 初霜ひかりごけのよう
12-08 07:02

そんなふうに書いている。本当に初霜だったのかどうかはわからない。ただ、日の出は着実に遅くなっている。

つづきはあとで

2015年12月 8日 (火曜日)



30.10 年の瀬に母を訪ねて考える ─ 冬至篇

冬至のあくる日に母を訪ねた。(23日 天皇誕生日)

ムスメもあと二ヶ月に迫ったこともあるので呼んでやり大きなおなかを母に見せながら正月のことなどあれこれと話をする。

母を訪ねれば昔の話をするのはどこのウチでも例外ではないだろう。近ごろはたとえ同じような話であったとしてもそんな話を聞かせてもらうのがわたしはとても嬉しい。

85歳になろうとするのに話す内容は正確で、細かい点まで記憶していることに驚く。年寄りとはそんなものだでは済ませることのできないレベルである。

例えば、親戚の人の逝去年表、家系図に登場する隅々の人までの名前、生い立ち、数々のエピーソード、それらの出来事に伴う年月日、付随する数字などなど。

真似をするとか、習うとか、はたまた、こうなりたくて自分も鍛えようとか、そう考えてできるものではない。脳みそと心の構造の問題だ。記憶しておくことや分類して整理をしておくことのメカニズムの凄さに感心する。

自叙自伝的な話も多くなった。歳をとることで昔には話さなかったことでも捨てるように吐き出せるんかもしれない。年齢と気持ちがもたらす堰のよなものが外れるイメージで話してしまうのだろうか。

今までは堪えていたのか、話すチャンスがなかったのか、それともわたしが(娘でなく)息子だったからか、孫がこうして大きなお腹をしているからか。理由までは訊ねたりしないけれど、話す内容はしっかりと聞いておかねばならないことの連続だ。

冬至のあくる日に尋ねたのは、正月の餅つきのことを訊いておきたかったからだ。
だが、いつものようにストーブの前で話し始めた母は、自分が赤ん坊を生む頃の話をし始めた。
わたしには弟があるが、死なかしてしまった子が三人あったのだという話である。

大きなお腹のウチのムスメが安心するようにと思ってか、おばあちゃんの経験的な昔話なのか、これから子どもを生む子を心理的に安心させるためなのか、それほど深くを考えてのことでもなく、むかしを単に回想しての話であったのか。

死なかした三人の子について、どんな気持ちで思い返したのだろう。
大きなお腹を見ていると昔の記憶が蘇ってくるのだろうか。

一人は1年半ほどしか生きられなかった長女の話であった。貧しいのと農家が忙しいことで、ろくに医者にも連れて行けず死なかしたという。
あとの二人はわたしと(5つ離れている)弟の間にできた子で、八ヶ月と七ヶ月でそれぞれ流産した。
生まれてからもピクピクと動いていたというような少し怖くて残酷なことも平気で言う。わたしにはこれまで一度も聞かしてくれなかった話であった。

弟は7月10日に生まれるのだが、生まれる間際の6月25日にもまだ田植えをしに田んぼに出ていたという話も聞いた。

今の子は大切にしてもらえて、更に医学も進化して安心して産めるから幸せである……というような単純な話では決してないのだ。

そこには60年の社会の進化と変化があり、人々のイデオロギーの遷り変りがある。暮らしのスタイルが姿を変え、身の回りにある物質が豊かになってきた。家族の体系が新しくなり、幸せ感にも大きな差異が出てきている。

母はそんなことを理屈でいう人ではないのだが、その糾える縄のように変遷する時代の襞のひとつひとつまでをしっかりと見つめ続け捉えている。そういう視線で語っていた。

話の深みを聞き逃すか、聞こうとしないか、聞いても理解できないのか、聞き取れないか。
貴重な話を生かすも殺すも、これからの人に任されている。

とうみ
とうみ

2015年12月23日 (水曜日)



このあとは平成28年版になりますので
わはく(秘)伝 にて書こうと思います。

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