父の日記 その3 ─ 月のはじめに思う

父の日記 その3

役場勤めだったおとやんは息子に夢を描いたのだろうか
曽祖父が村長、曽祖父が村会議員だったので
わが家系はその道を選ぶことを強く願っていたのだろうと思う

しかし、わたしの意思を尊重しようとした
本心は高ぶるほどに悩ましかったに違いない

自分の意思があるならばそれに従うべきだという
自由な発想を持つ側面があり
わたしが東京の大学に進学したいと言い出したときにも
何一つ反対の意見は言わず
引き留めることも
考え直すように促すこともしなかった

のちに何度か
「若いうちは勉強をしておきなさい」
「金の心配はしなくてよろしい」
「しっかり勉強しなさい」
「しょっちゅう手紙を書くと勉強の気が散るので手紙はあまり書かないことにする」
「学費を振り込んだので、しっかり勉強しなさい」
「健康に気をつけて」
などという鉛筆書きの便箋(多くは広告チラシの裏紙だった)に
走り書きをしている手紙が
小荷物と一緒に届いて
そのたびごとに
のらりくらりと怠けていた自分を見つめ直し
強い自責の念に苛まれる夜を送った

▶︎ (架空日記)

カズは勉強しているのやろうか
なまくらこいとらんかな
若いうちは勉強しろと書いておいたが
大人になったらアナウンサーになりたいと小学校の卒業の時に書いておった
もっと小さい時は船乗りになりたいと言うておった
諦めておるのやろうか
家に帰ってきて農業をしながら
役場に勤めるということは考えんか
夢はあったほうがええやろうなあ
(某月某日) ◀︎

わたしは公務の道を選ばなかった
自分で勝手にシナリオを書き換えてしまったと
血族の多くの人々は思っただろう

わたしの選択が
途轍もなく想定外だったことに
わたしが気づくのは
父が亡くなって
わたしが仕事をやめて
色々な出来事があって
幾らかの時間が過ぎてからのことだった

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父の日記 その2

あまりペラペラと喋らない人だった。
私のおしゃべりは誰に似たのかわからない。

帳面を開き鉛筆を持ち小首を傾げるようにして何かを考えていた。
さらさらと書く雰囲気は持たず、どこかを時々見つめたりしながらじっくりと眉間にしわを緩く寄せるかんじで日記帳に向かっていた。

モノの道理を考えてみようとする姿勢の持ち主であった。
しかし、他人に自己を主張しようとはしなかった。
諦めがあったのだろうか。

日記にはどのよなことを書いていたのか。
毎日の出来事の不平不満を書くようなことはなかっただろう。

耳が不自由であったから周囲からイジメや阻害・排他的扱い、誹謗中傷、噂や悪言など(私には想像もできないのだが)を受けることが多かっただろう。
そして、じっとそれらへの反発をひたすらためて食いしばって堪えて生きてきたのだと思う。

辛い(つらい)ことは気にかけない、良いことだけを見つめて生きるのがひとつの道なのだ、と言葉ではなく生きる姿勢の中に持っており、そんな生き方をときどき漏らしたこともあった。

果たして、そんな自分に向けた言葉を日記に残したのだろうか。

♣︎ (架空日記)

台風がまた来ている
田んぼには出ていけないので小屋を片付ける
東京にいるカズは急に来た秋の冷え込みで
風邪をひいてはおらぬかな
栗が採れたので送ってやろか
酒ばっかし飲んで
勉強サボっとらんかな
ニンゲンは怠けたらあかん
面倒臭いということは何もない
コツコツとすれば必ずできる

♣︎

今日のような嵐が近づく雨の日には
こんな日記を書いていたのではなかろうか

父の日記 はじめに

父の日記 はじめに

わたしが子どものころ、そう小学生から中学生のころのことだ。
父は、就寝前にいつも必ず日記を書いていた。
枕を胸に当てうつ伏せで書いていたと思う。

居間や奥の間(寝間)には机などなかったし、卓上の電気スタンドもなかった。
だから、薄暗い奥の間の部屋の灯りだけで書いていたのだろう。
ペンは、鉛筆だったのかボールペンだったのか、今となっては不明である。

わたしはその日記に感心を持ったことはなかった。
こっそりと読んでみようという気も起こさなかった。
子どもというのはそういうものなのだ。
そういうことに気づくのは自分が父を亡くして、娘に昔話をしておきたいと考えるようになってからであろう。子どもは、昔話や親のことにはさらさら感心がないのだ、と知ったからだ。

日記は全く現存しない。

毎日丁寧にじっくりと時間をかけて綴っているのを見てきた。
日記帳は、1年分の分厚いもので、毎年同じものを使っていた。
部屋の片隅か押し入れには何年分もの日記が積んであったのを憶えている。
おそらく、わたしが生まれる前か子どものころから書き始めていたのだろう。
そのことを考えると相当な冊数の日記があったわけで、あれは曖昧な記憶ではないのだ。

だが、日記は消失している。
無くなった理由を想像すると二つのことが思いつく。

母がある時期に家財の整理をして、その際に廃棄するか焼却したかもしれない。
子どもが高校に行くので(または大学に行くので、または社会人になったので)
生活が一段落して、過去のあれこれやモノを整理した可能性がある。
しかし、そのように廃棄したとして、父は廃棄の様子をどう思ったか。
そこまではもっともな想像はできない。

もうひとつ日記が消滅する可能性がある。
それは父が定年前後から脳梗塞の症状で苦しんでおり、入退院を何度か繰り返した。
その症状が思わしくない時期があって精神的な(一種の強迫症のような)障害があっ たのかもしれない。
その際に、母のバックや貴重品を庭で無理矢理(病的に)焼却してしまうというちょっとした事件じみたことがあったかもしれない。

永年父が、おそらく30年も40年も継続してつけていた日記なのだから、そんなに簡単には焼却できるものではないと想像する。
父はどんな気持ちで消えてしまう記録を見つめていたのだろうか。

あの日記にはどのようなことが書いてあったのか。

あらゆることを思い出せるだけ思い出して、想像してみたいと、先日、ふと、思った。
真相はわからないのだが、あの日記にはどんなことが書いてあったのか。

架空のような夢のような想像を混じえて、少し考えてみよう。
そう思いながら、私はこれを書き始めている。

積読(つんどく)

大きな流れの波の上を
漂うように彷徨うている
そんなふうに思うことがある

若くて元気なころは時に無謀なこともしてきたけれど
今は考えもしなかったような自分がいて
それがやけにしおらしくて苦笑する

周りから仲間が抜けてゆくときもあったし
息が合わずに逸れてってしまったこともある
どっちが本流だったのか
いつまでも考え込んだものだ
さらには、この世から逝ってしまったものもいる

わたしもそんな波の上を
ときには大きく揺られながら
ここまでやってきた

もう沈んでもいいいやと何度も思い
漂うだけで幸せと泣いたこともあった
ほんと
私は今日まで生きてきました♬
と口ずさんだものです

たくさんの人に手を差し伸べてもらい
命を助けてもらい
沈まないように静かな波間を導いてもらい
ここまでやってきた

これからは
恩返しをする番なのです

若い時とは違った使命が山ほどあって
パワーは昔のようになくて
なんの取り柄もなくて
でも
人生の後半戦は忙しい

一緒に頑張ろう
まだまだ この先も

最近どうよ?

と尋ねられて

井上靖の「孔子」を
もう10年以上鞄に入れて
持ち歩いているけど
やっと読んでて泣けるようになったよ

と答えている


平成28年12月17日中日春秋(中日新聞)から
「積ん読」という言葉は、世界に誇るべき日本語らしい。オックスフォード大学出版局は、「愛書家が知っておくべき十の言葉」の筆頭に、tsundoku(ツンドク)を挙げた
▼買った本を読まないまま、積んでおく。そんな状態をずばりひと言で表す言葉が、英語などにはない。日本の読書文化が生み出した見事な言葉なのだ
▼だが、胸を張ってばかりもいられない。本棚からあふれ、廊下や枕元などで山となった本に、自己嫌悪さえ覚えるのに、その山は確実に成長し続ける。そういう「積ん読病」患者にお薦めなのが、若松英輔さんの近著『言葉の贈り物』だ
▼若松さんのお父さんも大変な愛書家で、晩年に目を悪くして満足に読めなくなっても、買い続けた。どう見ても無駄である。父の「積ん読病」を若松さんが同僚に嘆くと、こう言われたという。「読めない本は、読める本より大事なのかもしれない」
▼<人は、いつか読みたいと願いながら読むことができない本からも影響を受ける>と、若松さんは書く。<私たちは、読めない本との間にも無言の対話を続けている。それは会い、話したいと願う人にも似て、その存在を遠くに感じながら、ふさわしい時機の到来を待っている>
▼いい言葉だなと思い、こういう本はじっくり噛(か)みしめるように読もうと、枕元の本の山の一番上に置く。かくして積ん読の山は、また高くなる。

スモモ成り父の形見や十六年

スモモ成り父の形見や十六年

父が逝ったのは平成10年(1998年)のことで夢のように私の前から消えてしまう。
あれからやがて20年を迎えることになる。

ヒトの人生とは考え尽くしたところで何も答えは出ない。
だが考えつくされてゆく。

生まれてから成人するころまでは父や母というのは居て当然という無意識のなかにある。
そんなふうにして大人に成長してきた人が大部分だろう。

スモモ
スモモ

私も例外ではなかった。
貧乏な農家の長男として(非常に古典的な宿命も背負いながら)東京に遊学させてもらい親不孝を鈍感に続けてきた。

ちょっと誰にも話さないような野望に似た夢を抱いていた時代があった。
「いつかはオヤジと」という言葉があるように  ─  ウチらには「オヤジ」「おふくろ」と呼ぶ方言はないが  ─  「いつかそのうちおとやんと」と考え続けて青年のころを生きていた。

二十歳を回って苦労をかけるのも限界に近づきそろそろ社会に出る時期が近づいたというころには切実に「いつかおとやんと飲もう」という気持ちも手の届くところに来ていた。
ところが、(油断のようなものだろう)自分の選んだ道は自分の手柄のように勘違いして三十過ぎても突っ走っていた。

社会人になってからその次の約20年間 ─  2ndステージで何かを実現させたかといえば勢いに甘んじていたのだった。
散々ヒトにお世話になっておきながらなんの恩返しもせずに生きていた。
今のナリで生きておれるのは自分の手柄なのだみたいな顔をして生きていた。

おとやんと話をしたのかと問われればそんな記録も記憶も殆ど無い。
何をしていたのか
キツネに抓まれたように貴重な時間や金を浪費した。
父とゆっくりと話をした記憶もない。

その大バカな人生の 2ndステージを10年ほど過ごし、33歳のころに京都から古里に戻るのだ。
だがその後の時代には、クルマで45分ほどという好条件であったのに、あまり家には帰らず、泊まることも滅多になかった。

そしてそんな20年という 2ndステージの終盤で父は夢のように逝った。

あれから18年が過ぎてしまっている。

「今年の初なすびを持って帰るか」
茄子(なすび)を袋に詰め込みながら
「スモモが成ってなあこれも持って帰り」
と母が袋に詰めてくれる。

トウモロコシが欲しくてそのことをいうと「あと二三日先や」と言う。

そんな気の利いたときにモノが思い通りに手に入るものか
親が死ぬときにも傍にいなかった者に──
と思ったかどうかはわからない。
18年前には何度もそう思っただろうがもう感情も風化したかもしれない。

「スモモの木をおじいさん(父のこと)が死ぬ前に植えてあってな それが二年ほど前から成るようになったんや 桃栗三年柿八年というやろ 桃と違うてえらい暇が掛かったわ」

母はそう言ってスモモを手のひらに載せきれないほどにくれた。

「おやじのせなか」をおやじ側から書いてみる

よくしゃべる人です。自分の言いたいことや主張とか理屈はとことんしゃべりたい人です。

テレビは食事の時に見るくらいで、ほかの時間にはPCで何か書いているとか読書をして過ごしています。

仕事を45歳で早期退職してからは落ちぶれていったように見えます。

お給料が4分の1になったというのが口癖でして、最近は行動力もなくなりました。

永年乗っていたオートバイからも足を洗ったし、車もフランス車から国産の軽自動車に乗り換えてしまって、それでも満足そうに振る舞っています。

金がないと行動力が鈍るけれども、金があっても自己満足や自分のためだけに使って社会に役に立たないのは立派とは言えなかった、と現代社会情勢を今頃になってチクリチクリと非難しています。ある種の反省なのでしょう。再起を狙っているのかもしれませんが、もう起死回生は無理でしょう。

◽️

大企業の名刺や肩書き、国家検定試験、学歴、まあそんな武勇伝のようなものは素っ裸で社会に出たら何の役にも立たんのだと言ってます。

悔しかったのかもしれませんね。そういうモノを纏って土俵に上がって闘ってきた自分が愚かだったと言いたかったのかもしれない。そう考えているのかな。

おデブになりました。若い時はスリムで映画俳優みたいだったかもしれません。もちろん、母もそうだったのですけど。

◽️

おじいさんは几帳面だったと聞いています。けれどもお父さんは、結構いい加減です。本棚の本は決して規則的に並んでいないし、机に積み上げてあるものも多い。片付けも苦手のようです。

でも、時間を守ることにはやかましいです。遅刻はもちろん許されませんが、ノロノロと準備をしていてもイライラの元になり、1時間前には準備完了!しなさい…みたいな。

お酒が好きです。どれだけでも飲めますし、よく喋ります。
やかましい。くどい。

健康が心配です。


子どもから見たらこんなふうになりますかね

不思議な友だち

あれこれと書きながらもなかなか登場しない人(Kさん)がいます。

その人(Kさん)は学生時代に心の拠り所の人として存在したとても大切な人です。

都内に住み車でならば30分ほどで辿り着けるような近所にいながら五年間の暮らしで一度しか会わなかったというような一風変わった関係の友人です。

わはくさんはこの人のことをペラペラとは喋りませんでしてどんな間柄でどんな友だちだったのかもあまり話してくれませんでした。

初めて出会ったときのこともサラリと教えてくれただけです。

合コンをやってその会場で息が全然合わずに貶(けな)し合いばかりをして終了となったにもかかわらず手紙のやり取りが始まってそれで長い友だちになっていることは結構色んな人たちに喋っているみたいですがそれ以上はあまり知らされない。

近くにいても会わなかったのだし実際のところそんなにみなさんにペラペラと教えて回るような出来事もなくて手紙の友だちだったようです。

文學部の彼女でしたが熱く文学作品のことを語り合ったりしたわけでもなかったみたいですし趣味もお互いでよく知り合って理解しているわけでもないらしい。

就職が決まって浮かれているわはくさんをお祝いするために新宿の飲み屋街の地下の一角にある小さな居酒屋でひっそりと二人だけのさようならパーティをやっています。

就職で京都に去ってゆくわはくさんとのお別れの挨拶だったのです。

合コンの後で会ったのは五年間でこの1回きりでした。

五年間不定期に手紙だけはやりとりをしていましたが電話もかけないし写真も見せあわないし近くにいながら会わないで合コンのときの面影だけを胸に抱いていた人に新宿で再会したその雰囲気は想像できないものがあります。

わはくさんが京都に行ってからも細々と文通は続いていました。

わはくさんのツマ(J)さんはわはくさんが京都に来たばかりのころのことをよく覚えていていつもポストに手紙が届いているのを見かけたと言ってます。

でもその手紙は実は半分は鶴さんからのものだったかもという心配もあってもう半分が(Kさん)からのものだったかも知れないのですけれども今となってはそんなことはどうだっていいことです。

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