温度差のこと(再考) 梅雨あけ篇

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霧雨ふる ─ 小満篇

ここで私は何が言いたかったのか

温度差の事だったはずだ
むかしの友とは温度差ができてしまって話がかち合わない

  • 1000万円以上の給料所得者
  • 世界を股にかけるマネージャ
  • 大手家電会社の取締役
  • 都内有名大学の教授
  • 優良電機メーカーの安定した管理職
  • 個人事業主として成功した人

Facebookには漏れ無くそういう友ばかりが集う
100円のシャケをアテに発泡酒を飲むわたしのような奴は登場しない
 ※ ファイスブック格差

メディアの統計記事では
1000万円超の所得者が5%ほどで
300万円以下の所得者が4割にも及ぶと書いている

信憑度を余分に見ても
この格差は社会が理想的に成り立っていくためには
美しい姿とはいえない

友だちはそういうものとは関係なく
自立したものであって欲しい

心のつながりが昔ながらに生きていて(蘇って)欲しい

さらに定年を迎えて名刺や肩書を廃棄して
生身のニンゲンになってしまう時こそ
そういう昔の友だちと
むかしの(学生時代のまだ殻を持たないころの)関係に戻りたい
葬式だって普段の姿、生身で飾りのない立場でお互いに立ちたい

そう思ったわけだが

現実にはみなさん
自分の人生を華やかに飾ったモノは捨てきれない模様で

1000万円の暮らしを切り捨てて
300万円以下の世界に飛び込んだアホな奴などを
相手にする仲間などは居なかったということだ

アレほどまでに
心から打ち解け合っていたように見えながら
元プロ野球選手の清原が逮捕されたときの
むかしの周囲の人間たちの冷たい態度

アレが人間の正体なのだろう

しかしわたしは
そうではないのではないかと夢をかけた

儚いかもしれない

様々な考え方がある中で
社会は少しずつ少しずつ潜在意識を偏らせていってしまったのだと思う

そもそも論になるのだが
正しい物など存在しない中で極限の倫理観などは守られるものの
自由という言葉のもとに社会は発展する

発展という言葉は魔性の言葉で
経済指標などの数字も魔術に使える

最近は人権(単に権利も含む)であるとか
差別、平等、弱者などというものや概念が飛び交い

社会が表層的なものと本質的なものを(深層とを)
明白にしながらも知らぬふりをして
都合よく表層で押し切ろうとするモノが多い

政治も経済もそうではないのか

どこかが間違っているのだ

続 人生は夕方から楽しくなる

(前回から続き)

「人生は夕方から楽しくなる」 (毎日新聞)の連載記事のタイトルを見ながら、平成26年(2014年)にイオンがGG向けにイメージ・コピーした「人生は、後半戦がおもしろい。」を思い起こした。

「夕暮れ」であるとか「後半戦」という言葉は私がときどき使う「第3コーナーを回った」とか「第4コーナーに差し掛かった」にも似ている響きがある。 「人生の」という形容詞をつけるとさらに具体性を帯びてくる。

もう終わりに近づいているから、もうすぐ終わるから、楽しかったところは過ぎ去ったけど、悔いのないように生き抜こう。
昔ならそのようにいいながら似たもの同士が肩を抱き合って闘志を燃やそうとしたのだろう。

しかし、そうは問屋が卸さないという元気な爺さん婆さんたちが増えたかもしれない。夕暮れからもうひと踏ん張りして楽しさを再び味わおうじゃないか、というわけである。

そこには、人生の終盤ではモノの価値の尺度や方向をもう一度見直して新しい気持ちで自分の体力にあった人生を送ろうという、言ってみれば人生を惜しむような心に立ち向かおうじゃないかという心や負けん気もあろうか。何も歳を食いながら老いぼれていくばかりが人生の後半戦ではないのだ。そんな意気込みを前に出して、同世代の皆々様から共感を呼ぼうとしている。

商業利益率が決して高くないから、若者のようにチヤホヤされなくなった。
TVの視聴率においても50%少なめの重み付けにされてしまっても仕方がない。

むかしは良かったと言って総スカンを食った過去の歴史の老人たちの二の舞いは嫌だからそんなことは言いたくない。
しかしよく考えてみれば確かに昔はよかったけれど今はもっといいのではないか、と気づいているところが現代的老人群である。

そういう老人集団にエールを送ってせめて敬意を表して新しい時代を作るヒントを探ろうと、そんな大それたもんでもないだろうけれども、世の中が経済指数ばかりに重み付けていては、やはりいつかどこかで破綻するような予感がするのだ。



ここまで mixi で書いて放置している

さて続きを書くか

 

 

人生は夕方から楽しくなる

「銀漢亭」主人 伊藤伊那男さん のインタビューが新聞記事(平成28年6月10日毎日夕刊)にあった。(検索で簡単に出ます)

本文をコピペして、思うことをメモっている。

「銀漢亭」主人 伊藤伊那男

以下(mixiからの増殖版)

mixi におぼえがきのようなことを書いて、後で読んで苦笑いをしている。

人の心には、多かれ少なかれ自分を少し説明してみようという気持ちがある。 そんな気持ちが少ない人もあるだろうけど、それは少ないなりに表情に出るのだから、それなりに観察してオモシロイ。

プロフィール写真などを見ていると、顔を出していない人が何割もある。あれって本当は出したくてムズムズしている人もあるわけで、観察してみるとそれが伝わってくる人がある。

この人 美男子/美人なんだろうなと想像できる人も多くて、大体そういう人ってなんにも隠す必要ない人だったりするのだが、隠してみたいのだろうか。ちょっとした見栄で隠してみるけど、公開するチャンスを待っているようにも思える。そういう人は、むしろ、早めに見てもらった方がその人にも好印象であったりすると思う。それでも隠すのがストーリーなのだ。

見せたからといって印象がねじ曲がってしまうと思うのも、あれも虚栄の1つなのだろう。人は町中を歩くときは顔見せているわけだし、電車の中でも隠してないから、意識しすぎているのだが、それがその人流のオシャレだ。

そうしてみていると、人の心理ってのはおもしろくて仕方がない。

俳句をする人には、現代詩を書く人と違って、密やかな主張があると思う。押しのようなものも秘めている。

17音以上の説明はしませんとかいう。

なのに、チャンスがあったらたくさん語るときもあるし 、その語りがその場その場でいい加減だったりもする。自己陶酔の領域に入っている人もいたりする。

言葉が少なくて語り足りない気持ちがあるのだろうか。
想像力を生かして私の心をわかってほしいと思うのだろうか。
わかりっこないから、いいわ、と諦めるのだろうか。

無言でありながらキツイ主張がある。
コチラが味わっている顔色までも観察されているような気がする。

俳人ってのは、
ロマンチストで見栄張りで、
自己主張が強くてはにかみ屋で……。

挙げれば何でも当てはまるけど、ちょっと補足説明がいる人ばかりだ。

頑張る

4月10日の朝日新聞「折々のことば」から


まわりから「頑張って、頑張って」って言われ続けるよりも……ほかの人に「頑張って」って言うほうが力になったのかもしれない。

火野正平

テレビ番組で全国、自転車の旅を続ける俳優は、震災後2年経って東北の被災地を回った。応援するはずが反対に応援されて「逆やんけー」ととまどう。ひとは誰かに見守られていることで力をふりしぼることができるが、見守られてという受け身ではなく、誰かのことを案じ、支えることでもっと力を得る。「人生下り坂最高!」から。(鷲田清一)


それを読んで

「頑張れ」 という言葉は良くないという人がいて、賛同する人が集まっていかにもそうだというようになっているけど、「頑張れ」という言葉は何も悪くないのではないかと常々思っている。

言われたら頑張ればいいのだし、頑張れないときは頑張らなくてもいい。

「頑張れ」と心から暖かく声援を送る人の心は、否定する人の言っている意味とはかけ離れていて、そんなに反発しなっくてもいいと思う。

温かい言葉に励まされて、素直に頑張ればいい。
そしたらパワーが漲ってくる。
ダメなときは諦めればいい。
泣かずに頑張る、でも泣いてもいい、またチャレンジする。

「頑張る」とは本当は素敵な言葉で(美しい姿で)、その声援もとても素敵だとわたしは思っている。


と書いた(mixi)の日記であるが、コメントが付いたのでまたコメント返しを書いている。

それが

Kさん

このことを考えると頭のなかの思考が絡まって結ぼってしまうのですが、人それぞれの受け取り方はあるのだなと言ってしまえばそれまでだとも思って、またもう一回考え直し始める。

つまりは、何でもかんでも簡単な言葉で済ませてしまっているのがこの「頑張れ」という言葉なのではないかというところに向かう。

言っている人の心に表裏はないのだから、「頑張れ」と言ったことを否定されることもなかろうにと思う人も多いはずだ。

頑張れでも気持ちは通じるが、(例えば)大切な人を亡くして沈んでいるときなどは、「頑張れ」という言葉が気に入らなかったりふさわしくないこともあろうから、だったら「元気を出して」でもいいだろうし「しっかり見送って代わりに音返しをしよう」みたいな言い方もあるだろう。(ガンバレの言葉選択ミス)

頑張らねばならないことは、自分が一番良く知っているんだから、何も言ってあげないという人もいました。最近は逃げていいんだよというような言葉の選択もありで、一種の褒めて育てる式の流れなのでしょうが。(それでいいのか、という話もしたいところだが省略)

しかしながら、物事を大局的に見ることは大事です。

だから「頑張れ」と厳しく言われるべきときにその言葉が飛んで来ることの意味はとても大きい。
「バカモン(あほんだら)そんなことしとってはアカンやろ!」と叱られることも大事で、「上手や」「綺麗や」などと長所ばかりを並べ立てても、アカンときはアカンものです。

「頑張れ」には目的語が伴えないようになっているのかもしれないが、例えば失意で沈んでいる人には、浮かび上がる手段やポイントを指摘しながら、そういう点で頑張れといえばいいのだということを伝えればいいのだ思う。

言葉が軽々しくなり、しっかりと意味を伝えきれていない、というケースは他にもたくさんある。
(貧弱ボキャブラリーの現代人達が増産されている。ネット社会の功罪か)

Kさん

よく読み返すと Kさんとわたしは同じようなことを言っているみたい。

それで Kさんは「あまり言われたくない」と付け足している。
わたしは何も書いてないけど。
(言われるべき人から言われたらすごい力になるだろうと考えているのだった)