父の日記 その2

あまりペラペラと喋らない人だった。
私のおしゃべりは誰に似たのかわからない。

帳面を開き鉛筆を持ち小首を傾げるようにして何かを考えていた。
さらさらと書く雰囲気は持たず、どこかを時々見つめたりしながらじっくりと眉間にしわを緩く寄せるかんじで日記帳に向かっていた。

モノの道理を考えてみようとする姿勢の持ち主であった。
しかし、他人に自己を主張しようとはしなかった。
諦めがあったのだろうか。

日記にはどのよなことを書いていたのか。
毎日の出来事の不平不満を書くようなことはなかっただろう。

耳が不自由であったから周囲からイジメや阻害・排他的扱い、誹謗中傷、噂や悪言など(私には想像もできないのだが)を受けることが多かっただろう。
そして、じっとそれらへの反発をひたすらためて食いしばって堪えて生きてきたのだと思う。

辛い(つらい)ことは気にかけない、良いことだけを見つめて生きるのがひとつの道なのだ、と言葉ではなく生きる姿勢の中に持っており、そんな生き方をときどき漏らしたこともあった。

果たして、そんな自分に向けた言葉を日記に残したのだろうか。

♣︎ (架空日記)

台風がまた来ている
田んぼには出ていけないので小屋を片付ける
東京にいるカズは急に来た秋の冷え込みで
風邪をひいてはおらぬかな
栗が採れたので送ってやろか
酒ばっかし飲んで
勉強サボっとらんかな
ニンゲンは怠けたらあかん
面倒臭いということは何もない
コツコツとすれば必ずできる

♣︎

今日のような嵐が近づく雨の日には
こんな日記を書いていたのではなかろうか

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父の日記 はじめに

父の日記 はじめに

わたしが子どものころ、そう小学生から中学生のころのことだ。
父は、就寝前にいつも必ず日記を書いていた。
枕を胸に当てうつ伏せで書いていたと思う。

居間や奥の間(寝間)には机などなかったし、卓上の電気スタンドもなかった。
だから、薄暗い奥の間の部屋の灯りだけで書いていたのだろう。
ペンは、鉛筆だったのかボールペンだったのか、今となっては不明である。

わたしはその日記に感心を持ったことはなかった。
こっそりと読んでみようという気も起こさなかった。
子どもというのはそういうものなのだ。
そういうことに気づくのは自分が父を亡くして、娘に昔話をしておきたいと考えるようになってからであろう。子どもは、昔話や親のことにはさらさら感心がないのだ、と知ったからだ。

日記は全く現存しない。

毎日丁寧にじっくりと時間をかけて綴っているのを見てきた。
日記帳は、1年分の分厚いもので、毎年同じものを使っていた。
部屋の片隅か押し入れには何年分もの日記が積んであったのを憶えている。
おそらく、わたしが生まれる前か子どものころから書き始めていたのだろう。
そのことを考えると相当な冊数の日記があったわけで、あれは曖昧な記憶ではないのだ。

だが、日記は消失している。
無くなった理由を想像すると二つのことが思いつく。

母がある時期に家財の整理をして、その際に廃棄するか焼却したかもしれない。
子どもが高校に行くので(または大学に行くので、または社会人になったので)
生活が一段落して、過去のあれこれやモノを整理した可能性がある。
しかし、そのように廃棄したとして、父は廃棄の様子をどう思ったか。
そこまではもっともな想像はできない。

もうひとつ日記が消滅する可能性がある。
それは父が定年前後から脳梗塞の症状で苦しんでおり、入退院を何度か繰り返した。
その症状が思わしくない時期があって精神的な(一種の強迫症のような)障害があっ たのかもしれない。
その際に、母のバックや貴重品を庭で無理矢理(病的に)焼却してしまうというちょっとした事件じみたことがあったかもしれない。

永年父が、おそらく30年も40年も継続してつけていた日記なのだから、そんなに簡単には焼却できるものではないと想像する。
父はどんな気持ちで消えてしまう記録を見つめていたのだろうか。

あの日記にはどのようなことが書いてあったのか。

あらゆることを思い出せるだけ思い出して、想像してみたいと、先日、ふと、思った。
真相はわからないのだが、あの日記にはどんなことが書いてあったのか。

架空のような夢のような想像を混じえて、少し考えてみよう。
そう思いながら、私はこれを書き始めている。

(八十八夜に考える)

(八十八夜に考える)

案を練る歓びと
作る歓びと
完成品に見とれる歓び
などありましょうか

黙々と手や脳みそを動かす時間は
私たちが永年
すっかりとその本質を注いで
その本当の姿も忘れていたかもしれぬもので
そういう原点に戻ってくることってのは
ヒトの本能であるのかもしれない
と思うことが増えています

アホみたいに何かに取り憑かれたように
ある種のガムシャラで生きてきた長い年月は
一言で申し上げれば愚かであったとまで断言できないにしても
ある時代の人たちが魔法にかかってしまったようであったことは否めない

多くのものを取り戻すことは
ちょっとした困難を伴うけど
それこそがそのヒトの本当の腕の見せ所なのだろうと思います

捨てたくないモノを捨てて
新しいステージを築く時の
歓びを讃えましょう

🌿

私はそんなメモ書きを
放置したまま
この春を過ごしました

激しく生きてきた
一時期のような
弾け飛ぶような
パワーは今はもうありません

しかし
冷静に物事を見つめて
見送る心が
少しずつ満ちてきているように
自分では思っています。

新しいものを生み出したり
触発するような閃きもありません

3月のなかごろに考えていたこと

3月16日
33回目の結婚記念の日の頃に考えていたこと

(3月号のメルマガ巻頭言)

あっという間に3月を迎えて、年度の節目ということで忙しい人も多かろうと思います
新しいステージへと旅立つ人もあるのではないでしょうか

落第も二度目は慣れてカレーそば  小沢信男

季語の「落第」というが面白くて目にとまりました。愉しい俳句です
作者の小沢さんは昭和2年生まれの人で、興味深い作品がたくさんあります

「落第」の季節今ごろですから、春の句になります
「落第」って恐ろしい言葉ですけど、 もしかしたら死語になりつつあるかも知れません

この季節には花が咲きますからのんびりと花見をしたいものです

しかしながら、思い出は苦々しいものばかりで、散歩をしながら湯島天神の梅や千鳥ヶ淵の桜を 見物に行くにはちょうどよいところに母校があったのに一度も花見に出かけて行く余裕はなかったです

あのころは「留年」などという生やさしい言葉ではなく「落第」という言葉が春の日常語でした

(私の母校では)新入生の6割ぐらいが浪人生で卒業時にはその半分くらいが「落第」の洗礼にあっていた時代です

あれから時代が過ぎて二期校という呼び名が消えて共通一次試験ができて後にセンター試験に変わって、学生の顔ぶれは金太郎アメのようだと評されるようになり、浪人とか落第
という言葉も廃れていきました

3月のメルマガを書く時節は、そんなわけで節目がズレて2倍、3倍にも膨れあがった友人たちから異動の便りが届く季節でもあります

みなさんはいかがな年度末をお送りでしょうか。

続・スズメはなぜ電線から落ちないのか

(余録ノート)

スズメはなぜ電線から落ちないのか。
そんな問題提起をあげて何かモヤモヤとするものを手さぐりで探すように考え続けていた。

スズメは飛べばいいから電線からは落ちないのだ。
しかし、そこで考えるのを完了していいのか、と思い直して何日が過ぎてゆく。

そうすると、飛び続けることに対して幾つかのことが浮かんでくる。

うるさく目の前を飛ぶハエを退治する方法がある。
しかも3分程度で簡単に可能だ。
それは、ハエに止まるチャンスを与えないことだ。
ハエ叩きで叩く必要はない。
止まろうとするハエを追い払うだけで良い。
3分ほど飛び続けたハエは力尽きてぽたりと落ちる。

飛べないスズメがいたとしたらそれはどうだろうか。
夏がくるころに雛は巣立つ。
スズメも母のもとを旅立ち1人でお外に出るのだ。
飛べないスズメは地面をヨチヨチと歩くだけでまた巣に帰ってゆく。
飛べるようになるまでの2,3日はその辺を歩いて過ごすのではないか(推測)
歩く(というよりも跳びはねるだけの)スズメを何度も見かけたことがある。
猫やヘビに狙われて食われてしまえばそれまでだ。
食われてしまって途絶える人生があるかもしれない。
もしかしたら恐ろしいことが自分にふりかかる可能性があるとは子スズメは考えてもせずにヨチヨチと歩く。
飛べるようになれば親スズメとさほど区別がつかなくなってしまう。

蝶がふわふわと飛んでいた。
止まるところがないチョウ
はいつまでも飛び続けるのだろうか。
ハエのように力尽きて落ちることはないのだろうか。
蝶の場合を想像したのはここまでなのだが、これを書きながら思ったことが1つある。
蝶を止まらせずに手で払おうとしたならば
疲れた蝶ならその手に止まろうとするかもしれない。
ヒトの手はそれを拒まないかもしれず、蝶のほうに軍配があがる。

飛べばいいからという答えも名答のように見えるものの
飛んでいる側から見れば大変な努力をしているのだということが分かる。
安易に「飛べばいいから」などと言えない。

できればそんな危険を犯してまで飛びたくないのかもしれない。
逆にそのものたちには「飛ぶ」という概念や言葉などがないともいえる。
飛ぶことはすなわち生きることなのだ。

「ヒトが考えること」=「生き続けること」みたいなもんだろう。

書きかけはつづく

スモモ成り父の形見や十六年

スモモ成り父の形見や十六年

父が逝ったのは平成10年(1998年)のことで夢のように私の前から消えてしまう。
あれからやがて20年を迎えることになる。

ヒトの人生とは考え尽くしたところで何も答えは出ない。
だが考えつくされてゆく。

生まれてから成人するころまでは父や母というのは居て当然という無意識のなかにある。
そんなふうにして大人に成長してきた人が大部分だろう。

スモモ
スモモ

私も例外ではなかった。
貧乏な農家の長男として(非常に古典的な宿命も背負いながら)東京に遊学させてもらい親不孝を鈍感に続けてきた。

ちょっと誰にも話さないような野望に似た夢を抱いていた時代があった。
「いつかはオヤジと」という言葉があるように  ─  ウチらには「オヤジ」「おふくろ」と呼ぶ方言はないが  ─  「いつかそのうちおとやんと」と考え続けて青年のころを生きていた。

二十歳を回って苦労をかけるのも限界に近づきそろそろ社会に出る時期が近づいたというころには切実に「いつかおとやんと飲もう」という気持ちも手の届くところに来ていた。
ところが、(油断のようなものだろう)自分の選んだ道は自分の手柄のように勘違いして三十過ぎても突っ走っていた。

社会人になってからその次の約20年間 ─  2ndステージで何かを実現させたかといえば勢いに甘んじていたのだった。
散々ヒトにお世話になっておきながらなんの恩返しもせずに生きていた。
今のナリで生きておれるのは自分の手柄なのだみたいな顔をして生きていた。

おとやんと話をしたのかと問われればそんな記録も記憶も殆ど無い。
何をしていたのか
キツネに抓まれたように貴重な時間や金を浪費した。
父とゆっくりと話をした記憶もない。

その大バカな人生の 2ndステージを10年ほど過ごし、33歳のころに京都から古里に戻るのだ。
だがその後の時代には、クルマで45分ほどという好条件であったのに、あまり家には帰らず、泊まることも滅多になかった。

そしてそんな20年という 2ndステージの終盤で父は夢のように逝った。

あれから18年が過ぎてしまっている。

「今年の初なすびを持って帰るか」
茄子(なすび)を袋に詰め込みながら
「スモモが成ってなあこれも持って帰り」
と母が袋に詰めてくれる。

トウモロコシが欲しくてそのことをいうと「あと二三日先や」と言う。

そんな気の利いたときにモノが思い通りに手に入るものか
親が死ぬときにも傍にいなかった者に──
と思ったかどうかはわからない。
18年前には何度もそう思っただろうがもう感情も風化したかもしれない。

「スモモの木をおじいさん(父のこと)が死ぬ前に植えてあってな それが二年ほど前から成るようになったんや 桃栗三年柿八年というやろ 桃と違うてえらい暇が掛かったわ」

母はそう言ってスモモを手のひらに載せきれないほどにくれた。