ともだち (七月中旬号)

ともだち

「ともだち」とは掛け替えのないものだから大切にしよう
と大勢の人が言います

「ともだち」って何でも話せて
言いにくい悩みも聞いてもらえて
居てくれてとても嬉しい

けど
別の見方もしているのです、ちかごろ

「ともだち」って
話を聞いた後にも
本当に相談に乗ってもらって
自分のゆくべき道を考えるときの大きな力になってくれるのだろうか

ともだちって言って居ながらも
それって本当はお互いが何も知らないのではないか
知ってるつもりになっているだけではないのか

ともだちっていうものの概念は
理想であって妄想のようなものではないのか
イザという時に傍にいてくれるわけでもなく
崩れてゆくわたしのあらゆるのもを
しっかりと支えてくれるわけでもない

傍にいて泣いてくれたり
死んだ時に見送ってくれることはあっても

いわゆる
そんなことってのは「なかよし」な話であって

何でも話せて本音を打ち明けてそれを聞くことと
本当の「ともだち」というものの間には
大きな隔たりがあるのではないか

「ともだち」という言葉は安易に使えないし
そんな人はゴロゴロとはいないのではないか

では
「ともだち」とはどこに居て
今のわたしとどんな位置関係にあるのだろうか

そんなことを考えている日々が続く

へんてこな日々から

歴史の鼓動がする坂道を登りながら
このまま街道を1人で歩き続けるのが
ある種の自虐的な遊びのように感じられてくる

襲いかかる現実と同時に
その坂道を歩いて
わたしは架空の日常の風景も想像した

へんてこな日常であったのかもしれないけれども
海を目の当たりにして
わたしは思い浮かぶ限りの架空の物語を
作り出そうとしていた

電車のすれ違いざまに
メールをくれた超偶然的な人に
ますます惹きつけられていってしまいながら
非日常の夢の中をさまよう

夕焼けを待つのさよなら言いたくて

ボクがノートの片隅に
夕焼けを待つのさよなら言いたくて
と書き残したのは11日のことだった

どんなことをそのときに考えていたのかはまったく思い出せない
けれども、どこかで美しい夕やけが見えたのだろう

誰を待つわけでもなかったし
待ちたい人がいるわけでもない

かつて
夕やけを仰ぎながら坂道を二人で歩きながら帰ったことはあったかもしれないが
それも後になって数々のドラマを書いているときに
日常と非日常が混ぜっこぜになってしまったのかもしれない

確かに
そんな風に二人で睦まじく坂道を帰れるような仲良しな人は数少なかった
或るとき偶然にバッタリと校門ではち合わせになった人が
クラスの人気者の可愛らしい子だったりすることは
ドラマでなくとも限りなく日常に近いことであったかもしれない

しかしボクの学校時代の思い出は
授業が終わると誰かの自転車のケツに飛び乗って駅までぶっ飛ばしていったような
校則との闘いのような青春だった

さようならを言って別れてまた明日会えるようなピュアな
ドラマのような日常を夢見たわけではないものの

夕やけを見ると
胸がときめくような人を
坂道の下で待ち伏せして
取り留めもない話を交わして
さようならをするというドラマを
頭のなかで創りだしてしまう

同じ夕やけを見ているかもしれない人のことを
切なく思い続けるような人は
もう今はどこにもいないのだろう
そんな気がする