清明篇 ✳︎ 京都日記、余韻 ー 桜は見ごろ

京都日記 余韻

四月中旬を迎える前
ちょうど桜が咲くのを見物に行くタイミングで
京都へゆく


認知症のその後

症状が悪化した様子もなさそうだ

初日の夕方に着いて「今日のお昼は何を食べたの?」と尋ねても「忘れた」と答えている
メニュー表を見ればカレーだとわかるのに聞いているのだが 覚える気がないのか 気にとめるつもりが無いのか 記憶能力がなくなっているのか 計り知れない

半日前のことを記憶していないのなら 半月前にムスメが訪問をしたことも記憶にないのかと心配すると 少し時間の空いた出来事は ぼんやりとその頃にそんなことがあったと覚えている

しかし 物事によっては 数十日から何ヶ月もの昔になると全く憶えていないことが多いらしい

人を忘れてしまうという事例も耳にすることがあるが 今の所は娘や自分の兄弟のことは 忘れてしまっているということはなさそうだ

生きているということの 愉しみがほとんど削除されてしまっている

一日の長い時間を何に消費しているのか

生きていることと死んでいること
眠っていることと起きていることの違いのように 深く考えねばならない疑問に襲われる


京都日記は『外伝』に書いたのでこちらではお休み
四月初旬の京都日記 ❀ 嵐電鳴滝の桜 車折など 雑記余録

啓蟄篇 ❀ 閏日をすぎて八歳になる写真が届いて

❀❀❀

三月五日は啓蟄
朝から雨降りであったのだが
冷たいはずの雨であっても それほど染み込んでこない
きっと 気持ちのせいだろう
寒暖計の数値とは別に
じわりじわりと春になっているのを感じるのだ
大地が吸収してエネルギーを蓄え始めている
身体は春を迎える準備を万端に整えている

✧✧✧

血圧が高い診断を受けて新しい循環器内科にかかるようになった

そこで心房細動が見つかり アブレーション(手術)をすることになり 近隣の大きな病院で処置を済ませた

心臓の健診では『心房中隔欠損』という病気が子どものころからることもわかり この年齢まで放置したことを驚きながら 治療を進めることになった

近々 近くの大学病院を紹介してもらい 治療を始める

✧✧✧

二十年勉強してて
四十年働いて
さあこれから 何するの

長生きする人なら
我が母のように 三十年
一人で生きる

自分は無理だと悟っているから
さて残りは
十年なのか
二十年なのか
と考え始める

いつか年頭でも書いたように
一年は五十週

「週の初めに考える」を書き続けても
五十回で一年が終わってゆく計算だ

絵を描いたとしても
小説でもエッセイでも
自己反省文でも
一週間に一回考えて
五十回まで行けば一年が終わる

平均寿命を頭の片隅に置いて
これからどれだけ生きるのか
そんなことを考えると
二十年という数字が浮かぶ

✧✧✧

自分をふりかえる

啓蟄の日は ゆうちゃんの誕生日だった
閏年(申年)の二月二十九日が予定日だった
二回目の閏年を迎えて八才
四月から三年生

小学校の三年生のころの記憶を辿っってみると
残っていそうで ほとんど残っていない

裏を田んぼの真ん中を蒸気機関車が走っていたとか
線路で土筆摘みをしたこととか
今の季節なら麦踏みをしに田んぼに出かけていたとか
雲雀が天高く囀っていたこと
まもなく蓮華の花が咲いて 花の絨毯の上に寝そべってあそんんだこと
などが浮かぶ

苺がいっぱいのケーキで誕生日を祝ってもらっている写真が届く
写真も動画も何気なしに残る時代だから その映像記録の価値が曖昧になっている

動画はもちろん 写真でさえ簡単に残せぬ時代だったからこそ あのころを振り返る情景に価値が出るのかもしれない

この子たちが大人になる時代まで私が生きている数学的予測数値は 十年ごとに半減期を迎えるだろう(と思う)

父の死生観のところでも触れたが
六十歳の頃に これから七十歳まで 八十歳まで生きようと
父は それほど強く考えるような人ではなかったのではないか
と想像している

家族関係の折り合いもあり 隣に住みながら それほど孫と触れ合えなかった時期があったし 背中を傷めて腰に痛みを抱いていたことや 高血圧の診断を受けて早い時期から降圧剤を投与されていたことなど

母はあの頃を振り返って 自分が仕事で忙しかったこともあるが 食事制限を何ら考慮することなく 毎日を過ごしたと言う

今更 何が間違いだったか・・などと悔やんでみても及ばないのだが 長い人生にはそんなことは数え切れぬほどあって 何か一つを悔やむというより『どんな姿勢で生きてきたか』が振り返るときの一番の頷きどころになるのだ

母は一月二十一日に九十三歳になった
ちょうど一月前年の暮れ クリスマスに九十八才の姉が逝ってしまい
次は自分の順番だと思っているのだろう

父の二十七回忌を済ませて やれやれという気持ちながらに 死んでしまう怖さを口にすることは全くなく「生きるのがえらい」と繰り返している

京都のとーさん

京都のとーさんも九十二才
痴呆で 毎日をゆるゆると過ごしているものの 明るい話題は何一つない
明らかに 非常な家族たちは今か今かと滅びるのを待っている

✧ ✧ ✧

我思う

自分のあらゆる足跡を残すと考えてみたことがあった

しかし このごろは

残したところで何一つ待たれていないのだから 消滅(消去)しても構わないとさえ思い始めている

つまり

やがて死ぬことを想定しながら 残りを生きるのが賢いのか

車谷長吉の本で 彼は

いずれ死ぬことが分かりながら生きているのは人間だけだ』から・・と書いている

死を覚悟し睨むようになって
ほんとうの人生が始まるのか・・


外伝
啓蟄の雨あがって 土ゆるむ ✴︎ 三月上旬
閏日から三月はじめころまで ❈ 減塩五か月目に入ります

如月や猫の背中の温もりを手のひらで撫でて春を待とう ✢ アブレーションを終えて ❄︎ 節分立春篇

順調に二月を迎えることができた
節分・立春という言葉を耳にすると ウキウキする
恵方巻きを食べて 麒麟百年 を飲んで夜を過ごす(三日)

❄︎ 読み返して
❄︎ 思いつくたびに書き直します
❄︎ 刻々と変化する日記 ✦✦


如月

『如月』という呼び名はなんとも言葉で表せない優しさがある一面、思わぬ厳しい寒さを振り翳して容赦なく襲い掛かってくることもある

おいそれと好きな季節だなどと書き出してしまうと 自己矛盾に陥ってしまいかねない

二つの顔を持った季節であるゆえに 名前まで気に入ってしまうのかもしれない

「ひなた」に ありがたみを感じながら一年で一番寒い旬を過ごしている

節分と立春の暦をこうして捲ると 魔法の杖を一振りするのように心が和らぐ

優しい言葉の響きと共に「きさらぎ」とかなで書いて 春を待とうという決心できるのかもしれない

大きな不安を抱き 自分の行く道をひとつずつ自分で決めていく手応えを感じながら日々を暮らしている

❄︎

人生

一月末に四日間の心房細動アブレーション手術を終えて また新しい1コマへと一歩進んだのだと自分に頷いている

長い人生であるから故に進行方向が前に向くこともあれば後ろ向きになることもある

「三歩進んで二歩下がる」と歌った人の心が 歳を重ねるにつれて染み染みとわかってくるのが 些か気恥ずかしい

『人生』という言葉にも 大仰しく重みを感じてここまで生きてきたのであるが 六十五歳のコーナーで舵を切ったら いつの間にか日常語になるつつある

この変化に薄々気づいて 周囲に打ち明けても 反応するのは年上の人ばかりで 改めてそのことに「なるほど」と納得するのだった

「人生」の説法は お釈迦様の講話に任せるのが良いのだと教えられたわけだ

「人生」を語るのは面白い

❄︎

二十歳前の若者の半数以上が百歳になるなるまで生きると言われている時代だ

そこで 高齢者たちが語る「人生というもの」も 世代を超えてやがては変化していくことになる

そうなると 生まれてから死ぬまでの時間の大部分を占める「働いている」期間を生きるときに その未来の生き方や暮らしの姿を想像する様々な基本が新しく変化していく

ステージが大きく変化をしていくなかで それに伴い 毎日を生きていく姿勢や心構え、夢までもが 想像以上に変化するだろう

(つまり 考え方が全く違ったものになっていくだろう)

夢というものは前例のないものであって 新しい根っ子の上に生まれてくる夢は想像を超えたものとなって出来上がってしまうかもしれない

それこそが本当の意味での夢である

❄︎

時代が生む新しい「人生論」にやがては飲み込まれていってしまうと分かっている

しかしながら 今の人生を語っておきたいと思うのは いかにも古い人間のすることだ

歴史はうねるように進化し また繰り返す

新しい海には 新しい船新しい水夫が 漕ぎ出すのだ


月のはじめに考える

一月の最後の四日間でアブレーションの手術を受けた

健康を真剣に考える機会は誰にも普段から増えていると言えども 真正面に『刃』をたてられたら幾ら呑気に生きてきた人生であった自分であっても 流石に背筋を伸ばすのだった

まだ死ぬとは思わないが 現代の健康医学に疑問ばかりを投げているのではなく 少しは自分の生命も考え これからどのように生き延びるかという その姿勢を考えねばならないと 悟った

誰も『苦言』も『小言』も『助言』もくれない

それは即ち 六十五歳を過ぎれば 誰もがみんな 真剣勝負だからだ



二月初旬 短信 ❄︎ アブレーション その後 節分・立春篇 外伝

『忄』(りっしんべん)の漢字から師走を振り返る ❀ 冬至篇 裏窓から

『忄』(りっしんべん)の漢字のことが目が覚めた直後に浮かんできて 二度寝ができずにしばらく考えていると「亡びる」「亡ぼす」と『忄』を合わせると「忙しい」「忘れる」になることを思い浮かべる。人生の終盤に差し掛かった者にとっては こういう漢字はまさに「心」に沁みこんできて 感慨が深いものが多い

❖ 忘れる

令和五年の師走を迎えている。そんな折に「忘れる」という言葉を思うている

この世を生きてきて 人はそれぞれ忘れたいことがいくつもあるに違いなかろう。だが ヒトは 自らの意思で記憶を忘れ去ることは ほぼ不可能に近く、過去にあった忌まわしい出来事を「忸怩」たる思いで振り返ることもあれば 生きる力となる歓びに感謝することもある

❖ 惚ける

「惚ける」という言葉を今年は頻繁に使った。身の回りでもボケてしまう人と接したり ボケてしまった人の話が耳に飛び込んでくることが多かった。目の前で起こる身近な出来事に目を背けないで 「惚けて」ゆく人を見つめ続けるしかない一年であった

医科学と永年付き合ってきていながら 惚けるということにおいては そそくさと諦めしまっていたかもしれないと振り返った。生命哲学との絡みもあり 精神科学が医学の王道では無い側面もあり、難しい社会問題を抱えている

❖ 忌まわしい

仕事を引退してから人との交流が激減して『忌』しい日常の出来事が少なくなったことは事実であるが それは美しい話では決して無い。忌まわしいものとは一体何かと考える

しかしながらそこで、人が生きていくにおいて 忌まわしいものに出会い 許せないことに怒り 苦い水を飲みながら生きていくのが常道であると気づき、それゆえ 都合のいいことにばかり目を向けて生きていれば 行き詰まりに遭遇して苦しむことになりかねないこともわかってくる

邪魔で都合の悪いことは忘れて仕舞えば良いかろうし 何よりも楽であるものの なかなか思うようにも行かない

平凡に生きている限りは 自らの意思で記憶をコントロールできないのだから 忘れたくても忘れられないことがどうしても残るのは当然のことで、そいつと どうやって付き合ってゆくのかということが 人生の最終コーナーでの課題の一つとなってくる

だから 都合のいいことを自由に勝手に忘れてし舞えるのならば それは死んでいるのと同じだ

忘れたくても忘れられないことがある一方で 忘れてはいけないこと山積している人生の最終コーナーで、物事を都合よく忘れて、大切なこととそうでないことの区別がつかなっくなってくるならば それは「惚」けの始まりだと言える

❖ 年を忘れる

師走を迎えている。忘年会の季節である

塩分制限生活を始めたので 年末年始の飲み食いの誘いはお断りをしていく予定だが それを聞いて寂しそうにしていたのは 母(92)だ
年末年始は 気兼ねなく飲み食いをして 年忘れをしたいと思ったのだろうか

大勢の人が集まった昔の年末年始の頃には 年の暮れを家族だけで静かに過ごしたいと夢見たこともあっただろう

だが、二十六年前に一家の主人である父が死んでしまって以来 その同じ時代に合わせるように 親戚中が寿命を迎え さらにこのご時世で 遠縁の付き合いや先祖の供養を簡素という名目で薄情に済ませるように社会が変化をしている

親子だけで静かに年の暮れを仕舞って 新しい年を厳かに家族だけで迎えたかろうと かつては夢に描いた違いない

今やっと夢が叶いそうな歳を迎えたら 九十歳を回っていたということか

❖ 訃報

こんなことを書いて師走の日々に自問を続けているとき、今朝、その九十二歳の六歳上の姉の死亡の知らせが届いた

孔子の言葉が浮かんだ

『逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず』

❖ 『忘』

忙しい、忸怩、怨めしい、怯む、怯えるなどという字を次々と連想しながら 『忄』(りっしんべん)の漢字を探ってみると 二百以上が飛び出す

忘年会の『忘』という字を白紙の片隅に書いて今年をキッパリと忘れよう……と考えたら 「水には流せない」ことがたくさん思い浮かんできて 一年分の苦渋を思い出し次々と振り返ることになった

『心』という字を漢字に含ませると 喜怒哀楽のうちの『怒』と『哀』に関わる漢字が多いように思えるの気のせいなのか

布団一枚干して寒露の朝を待つ - 寒露篇 裏窓から

布団一枚干して寒露の朝を待つ

寒さが一段飛び上がったようにました
二、三日でこれほどまでに朝が冷え込むようになるものか

#秋を待つ
じっと秋を待っていた九月の末ころの残暑が全く嘘のようだ

気象データの記録を何年か昔まで調べると なるほど十月になると途端に気温が下がる日が増えている
八日(日)は #寒露

❄︎

八日は寒露だから 寒露篇 は 朝を迎えてから考えよう


🍄 朝焼けや寒露の海を焼き尽くす

#寒露
#朝焼け

✴︎

寒露の海を焦がしてゆく
夢のような物語が浮かんでくる

熱さを肌に感じる

空模様は下り坂で
言い訳は許さない

断崖から見下ろす大海原

✣✣

🍄 寒露待つ茶器に迷うた日暮れかな
#寒露

✣✣

🍄 布団一枚干して寒露の朝を待つ
#寒露
#秋を待つ

こんなことを 纏めてインスタやmixi に書き残している
死んでしまったら どれが自然消滅するのか 全く予想がつかない
みんな一斉に泡となって消えるのか

布団を一枚 少し夜中には暑いと感じたものの それもやがてカラダが 馴れるだろう

仕事をしていたときは 毎朝 駅までの道のりを歩く中で 道端の草木に朝露がつくのに気付き さらに空きが深まれば ひつじ田に霜が降りる朝をみて季節を感じた

今は毎日が のんびり 朝寝の日々だ

心配事といえば数日後に控えた 『二十四時間心電計装着』の診断が迫っていることくらいか


いよいよ秋を迎える ひそかに嬉しい - 白露篇 (裏窓から)

白露の時節を迎えた
朝夕が涼しい
さすがに夏の暑さは身体にこたえた
やれやれである

例年にない猛暑日の連続であった夏を過ごし
やれやれと思っている人も多かろう
このまま地球温暖化傾向が続くとなると
人類はどうやって新しい知恵を生み出すのか

冷静に考えてみれば何も難しくない

埋蔵資源や宇宙の光エネルギーを閉ざされた地球の上で消費している
エネルギーは最初の安定した物質から 音、光、熱、動作に変換されていく

石油を消費して電気を起こしクルマを走らせ暗い部屋を明るく照らすときに、効率が100%となることはないのだから 変換の損失は無駄な熱エネルギーとなって発散する

地球の温暖化現象は この熱が蓄積しているからに他ならない

大昔の人々の時代からこのような『発熱生活』をしてきたのだから 消費が悪だとは言えない。だが、消費の量が桁違いになっていることを考えれば 熱を放出する日常を原始時代から送ってきた人類の暮らしを じっくりと省みることが大事だ

現実は簡単なものではなく、家庭で消費する電力を一つ取っても 膨大な熱を生み出す暮らしが常識の時代だ
電気を使わず化石燃料を消費せずにこの地球上で生きていくことは 今や不可能である

しかし 消費すれば必ず熱を発する

九月の初めに三人で昼食を✦悠ちゃんお作品展示を見にいくための休暇✦市内に以前から狙っていたけどいつも一杯だった「いとう料理店」というイタリアンな店

高齢者の仲間入りをしたことにこれまで何度か触れてきた
健康に気をつけて暮らすということに心がけている
だが それくらいか


たった1000週間しかないのだと思うのか
おやおや1000週間も残っているではないかと考えるのか

残りは1000週間 ー 新年年頭に考える

新年にはそんなことを書きながら 一向に進歩がない
裏窓から』見る景色も変わり映えしないものになっているのか

脳神経科、内科胃腸科、呼吸器科、循環器科、皮膚科、耳鼻咽喉科
まさか こんなに多くの医者に定期的にかかっていかねばならないことは想像しなかった

医者にかかれば長生きできるというものでもなかろう
この六つの診療科目はサイコロの目のようだ
僕はどの目を引いて死んでいくのだろうか

ふとそんなことを今思った

大暑篇 「裏窓から」の筆休み 余白

なかなか纏まらずに外伝を書いて さて 裏窓を書こうか
と大きく息を吸っても テーマが浮かばなくて・・
(外伝)➡︎ 梅雨も明けて ゆっくりと大暑に 七月下旬号


───── どうして「裏窓から」を書き出せなくなったのですか?

まず生活リズムが単調化したからでしょうね
朝から晩まで家にいて 日々同じことをして過ごす
テレビや映画を見たりするわけでもない
食事も変化がなく うどんなどの麺類を食べたり冷蔵庫をご飯をチャーハンにしたりしてます
簡単にできる麺類は 飽きもせずに重宝しています

───── それだけではなく生活面ではどうですか

腰痛が少し治って歩けるようになったのですが ウォーキングに出かける頻度が落ちました
歩く距離を不必要に多くするのはやめて 団地内を一周する程度にしています
休日に街歩きや山歩きに行くことがなくなって 家に居て部屋で楽器を吹いている時間が増えました

───── 認知症の心配もするわけですか

そうです
物忘れには気を遣っています
いつから認知症が出てくるかが 全くわかりません
年齢的に いつ兆候が出ても おもおかしくないわけですから 心配をします
しかしながら 簡単にこれといった対策で予防ができるわけではないので 不安が募ります
ただ 必要以上に心配をして精神的に暗くなっていくのは考えものだと思っています

───── おとーさんが高齢者施設にいるんですね?

そうです
高齢者住宅という種類の施設で よく似た高齢者の人が住んでいるマンションのようなものです
介護が必要な人もありますし 痴呆が始まって医者に通院する人もあります

この日記でも 半年ほど前から 痴呆のことに少し触れることがあります(京都日記)
自分の高齢化のことを考える時間も増えたので そのことを書くときもあります

母の日が近づいている - 立夏篇 裏窓から

夏が来る

母の日

不定期に、およそ週に一度程度で母の顔を見にいく
会うたびに「もう今年の夏が最後やろう」と
その季節ごとにそんなことを繰り返している

母の呟きを聞いているほうは

『そうかもしれない』
『そうであっても仕方がない』
『それが幸せなのかもしれない』

他にも 次々と 思いは浮かんできては
それほど激しく心を打つ願いでもないのかもしれない

そう言いながらも、覚悟はしていながらも
その時が来たら一大事であろう
冷静かどうかも予測はつかない

九十二歳
人それぞれに
長い人もあれば あっという間の人もあろう

母の日といっても 何も考えていない

思えば 父の日や誕生日などのお祝いを 父には一度も贈らぬままであった
母には 後半(父が逝ってから)で 何度か 贈り物をした

田植えが終わったという知らせを聞いて 小さな日本酒(五合)を仏壇に供えてくる
夜に弟から「そんな気を使わぬように」と電話があった
田植え「ご苦労さま」のお返しでもあるのだが 二十五年以上も過ぎながら 父には何もしないままだったことが気にかかっている

母は もう 気兼はもう いいだろう。あれこれ説明もないのが一番スッキリしている

節目を超えるごとに自分の足跡を振り返ることがある

人生の転機を思い起こして あの時の自分の判断を考察して
選択した進路やその出来事によっては ⭕️❌をつけてみるもある

何を今更そんなこと 考えたところで 何も始まらない・・という気持ちもある

🍅

言葉

大きく私の生涯に影響を与えてきた(人生を揺るがした)『言葉』は 何だったのだろうか・・それを考えて時間を手探りしながら巻き戻している

必ず 私の進む道、生きる道を導いてくれた『人』や『言葉』がきっとある
それを 考え続けて『長考』に入っている

(続・考え中)

考え中と書いたものの十日を過ぎても 次々とは何も浮かんでこない

もう、むかしを思い出すのはやめて 新しいことを考えようとしている
しかし 刺激は少ないから 思うようにいかない

思うように進まない
これが 高齢の現象なのだろう

🍅 

雨水の時季に のんびりとした日々を過ごしている - 雨水篇 (裏窓から)

雨水篇

松本零士さんが亡くなった 85歳

ボクは漫画やアニメに無縁の暮らしをしているので 松本零士さんの作品を読んでいないし 有名な作品を上げられても 感想は言えないのだが、偉大な漫画家ということと『本郷三丁目』の時代のことを評伝に書かれているのを読むと 苦難の時代を『本郷三丁目』にある下宿で送ったのだろうと想像します

僕より十九年前に生まれた人ですから 十九年前の時代を走っていたと思うと 懐かしい下宿屋の風情などを思い描く

たかが十九年といえど 僕の頃の十九年は現代の十九年とは「速さが違う」から わたしの頃とそう変わりがなかったのではなかろうかと思う

この時代を生き抜いた人の 「不便で貧しい暮らし」は もう二十一世紀の人には実感として伝えられないだろうと思うと それが最大の『寂しさ』だ

『昭和の時代』を取り上げるメディアを近頃見かけることが多いが そこには『昭和後期』が多く 『昭和前期』から『昭和中期』のころは メデイアの(儲けの)ネタにもならず注目もされない時代に なってしまったのだと感じる

汚いトイレ、暗い裸電球、鍵のない戸板の下宿の入口など 歴史の教科書にも登場しない時代になってしまった


﹅﹆﹅

雨水の時季に のんびりとした日々を過ごしている

「技は盗め」
「黙って見て学べ」
「一を聞いて十を知れ」
「見てわからんなら聞いてもわからん」

父はこの言葉をよく口にした

「あのなあ、師匠なんてものは、誉めてやるぐらいしか弟子にしてやれることはないのかもしれん」
(立川談志)

少し前にこんなことを書いている日記を見つけてメモに残している

それを読んで私は
『この二つの正反対の言葉を同じ方向に向けるところに人を育てる難しさがある』と書いている

自分で書いておきながら正にその通りだと思い また 自分にはできないことだとも反省した

もしも わたしの父の日記が残っていたならば その言葉について何か言及していただろう

✪✪

コツコツと農作業をする傍ら口癖のように私に呟くように話したものだ

説教に感じた若きころもあったが 親になって爺いになって言葉の意味が染みるようになった


倜儻不羈
--
(六然から)
自處超然
處人藹然
有事斬然
無事澄然
得意澹然
失意泰然

﹅﹆﹅

十八歳で家を出てから
父とゆっくり話をしたり
食事をした記憶はほとんどない

四十一歳の時に逝ってしまう

説教も聞かなかった
好きな食べ物も話すこともなかった
酒も酌み交わさなかった

ハヤシライスが食卓に出て
一緒に食べたこともなかった


﹅﹆﹅

秘伝日記には 認知症についての所感が多くなる

同じようなことを繰り返し日々考え続けてこの先患う人はどうなるのだろうという不安

そして自分がその時を迎えたらどうするのだろうという想像

﹆﹅﹆

「人は生きるために生まれてくる」

という松本零士さんの言葉

。。

ふとしたことで自分の読後感想を読む

岡持太郎の本だ

岡本太郎の言葉 ─ 強く生きる言葉
岡本太郎の言葉 ─ 愛する言葉

そんなことを考えていた


外伝から

雨水の時季に のんびりとした日々を過ごしている - 二月中旬

はじまりはバレンタインの美術室

タンポポを探しに散歩 ぽぽぽのぽ

春近し明るい農村散歩する

鳥啼けばおんもにでたいとうとた日々

冬の花ちょきんと切って生き返る

母はとてもタートルネックが好きでした

赤鬼のこと忘れていって冬終わる

サプライズの秒読みが始まっている夜明け

結末に見とうもないわ冬景色

花におうて無事澄然な雨水なり  #匂う

春告げる出会があれば別れも告げる

春告げる出会いも告げるし別れも告げる

講義さぼって聖橋から丸の内線を意味もなく見ていた青春時代

スケッチはハイヒールから描きはじめる春の坂道

石畳黄色い花の蝶の道

路地奥に馬酔木隠るる昼下がり

人生は紙飛行機のようなものか ー 春を迎える 立春・節分篇2 (裏窓から)

人生は紙飛行機のようなものか ー 春を迎える立春・節分に考える

節分を過ごして
春を迎えている

毎年思うのだが
あれほど寒くて冷たかったのに

立春の便りを聞くと
日差しが暖かいと思うのは
いかにも 人間が人間らしい瞬間なのだと感じる

✩ ✩ 

立春の一日 せっかくなので ゆっくりと 答えの無いような事を考えているのもよかろう

たった今 死ぬとなって

一、それを無念と思うか
二、もう十分のやり尽くしたので満足と思うか

葉室麟 蜩ノ記  −−  言葉から

秋谷と慶泉和尚との会話に
−−− もはや、この世に未練はござりません
−−− まだ覚悟が足らぬようじゃ。未練がないと申すは、この世に残る者の心を気遣うてはおらぬと言っておるに等しい。この世をいとおしい、去りとうない、と思うて逝かねば、残された者が行き暮れよう

葉室麟 蜩ノ記

と小説で読んだときに『ハッ!』としたのを思い出す
上述の 一、と 二、であれば それまでは 二、が いかにもであったのに
未練』を持って死ぬということは 美しいことなのだと 思い直したのだ

✩ ✩ 

「もういつ死んでも構わない」と口癖のように呟く日々だ
しかしながら その本心は 自分でも見定めたわけではなく

まだ死にたくはない
アレがしたい
そう漠然と思っているので
それを明確化しなくてはならない

✩ ✩ 

ブログのどこかに書いたが
『恩返し』をしなくてはならないと考えている
六十年以上も楽しい人生を送れたのは 自分だけの能力ではない
きちんと恩返しをして 次の世代にその心を伝えておくことは必要だ


人生を考える機会が増えている
その理由は 明快で
①身近に高齢者がいて認知症の症状が表出していること
②自分が高齢者の仲間入りをしていることと

さらに 自分に
③人生とは 如何なものであったを考え、これからを考えることが多くなったこと
であろう

﹅﹆﹅

(人生は)
紙飛行機で『どこをどう飛んだか』というような シンプルなものでは無いのではないか

大空を飛べるような鳥になりたいと考えた時も 疲れて不時着する事態を想定しなくてはならない。思わぬハプニングで降り立った地表には恐ろしい敵が命を狙っているかもしれない

自由に飛び回って 華やかにスポットライトを浴びている時もある。注目を浴びてスターのようなこともあった。次々と打つ手が会心続きで 失敗の予感がしないこともあった

しかし 躓くこともあるし 失敗もある。騙されたり恨まれたり陥れられたり憎まれたり妬まれたりもしてきた。邪魔もされることがある。

自分の成功だけでウキウキしているわけにもいかなかった。自分の人生のその裏陰にあるさまざまな出来事や人の涙を知らぬ存ぜぬで済ませることもできなかった

『突然』『想定外』は付きもので、逆境や不運と背中合わせに生きて 憎しみ苦しい恨み辛み怒り、時には歓喜に満ちた日々を過ごしてきた

確率密度関数が捻じれて縺れるような筋書きを潜り抜けてきたのだ

残された事件は 癌に犯されるか 想定しない(あるいは心配した)病魔に襲われるか 痴呆になるか・・最も可能性が高いのは高血圧がもたらす脳障害だろうか

そう考えると 紙飛行機に乗って低空飛行を続けているわけにもいかないのだ

考えは果てしなく続く

春を迎える ー 立春、節分篇 (裏窓から)

ゆく道は開けるという手がかりもない

これまでの人生の反省と
その節々での自分の行ないと
善か悪か損か得かの判断の考察と
欲望、嫌悪、恨み、辛み、人間関係
あらゆる打手に対する諦めなどを
泥を練るような甕に放り込んで
かき混ぜているような日々だ

洗い流すこともできない
捨てることもできない
埋めることもできない
焼き払うこともできない

﹅﹆

辿り着くところ

黙って
忘却』を恐れずに迎え入れる事が
行き止まりの『終点』な気がする

﹅﹆

これは 🔗 一月はトントンと締め括くられて 寒いまま ー 一月尽 に書いた一節だ
少し手直しして持ってきた


春を迎える

多くの人がこの歓びを待っているのだろうと思う 反面 世の中には願いが叶わない人もあるし 無念な日々を送り無念を噛み殺している人もあろう

﹅﹆

いかなる人生だったか

  1. 若き頃は 夢を抱く
  2. 青年の頃は 学びに遊びに羽ばたく
  3. 社会人になって 夢を叶える
  4. 結婚をして 上昇を夢みる
  5. 子供が産まれて 今を抜け出す
  6. 子供の成長とともに 脱出し新しい湯道を探す
  7. 四十不惑の年齢を過ぎ さまざまを諦める
  8. 五十にして 天命を知り 安住を探す
  9. 六十にして耳順 人生を俯瞰する
  10. 高齢を迎え 対空飛行で生き延びる
  11. 七十にして己の欲する所に従えども矩のりを踰こえず 視点を転換する
  12. 後期高齢を目指して 幸せに生きることを考え 覚悟を決める

﹅﹆

そんな事を思いながら節分の夜は更けた

残りは1000週間 ー 新年年頭に考える

月のはじめに考える

新年 あけましておめでとうございます

去年の暮れに Facebook の「職歴」表示を閉じた

もう 歴史に沿うて生きる年齢ではなく 過去に関わった仕事を名刺代わりにするつもりもない

「これから何をするか」「どう生きるか」を考えてステージのあり方を考えていきたい

人生の 第四コーナーはもう数年前に回っているし、自分の器を考えてもこのあと何処かで役に立てそうにないし、何かで勝負をしてどこかに躍り出るチャンスもなかろうと考える

オムロンもパナソニックも 最早や 過去の会社で 僕がいた時代とは別な人格(社格)に変化したし 最後に在籍した県庁「環境部門」での活動にも今や全く無縁になっていることを考えると こちらが過去に歩み寄るような甘い関係は存在せず 職歴として刻んだものを さらりと日めくりを捲るように捨てる選択が良いのだ

そういうわけで「これからを如何に生きて走り抜けるのか」が大きな課題になってくる

ー 令和五年元日


残りは1000週間だ ー 年の初めに考える

古代エジプト人のように考えてみる

1週間を7日として1年を50週間とすると全部で350日になり、1年365日に15日が余るので 春夏秋に5日ずつ余裕日を設ける

60歳までで 50週×60年=3000週
あと20年生きるとして 20年×50週=1000週

そう考えると
たった1000週間しかないのだと思うのか
おやおや1000週間も残っているではないかと考えるのか

老いること 「残りの人生」にどう向き合っているのか ー 小雪篇 裏窓から

総人口における後期高齢者の割合は現在14.9%(1,867万人)
割合は年々増加し2065年に25.5%に達する
宇崎竜童さんは老いること、そして“残りの人生”にどう向き合っているのか

インタビュー記事があったので真似をして答えてみる

⚽️ ⚽️ ⚽️

⚽️ ⚽️ ⚽️

二十二日 小雪 を迎えた
カレンダーによると『いい夫婦』のだそうです

🍷 🍷 🍷

✏️✏️✏️ いまも精力的に活動をされていて、年齢を感じさせません。しかし誰もが老いを迎えます。それをどう捉えていますか

誰もが老いを迎える
それをどのように受け止めて どう対処しようとするかは人それぞれだ

物忘れが酷くなるし 動作が鈍くなる
そんなこと予測通りなのだから それに応じて活動をするのがよかろう
沈み込んで家に引き篭ったり 活動を抑制することで「読む」「書く」「食べる」などを疎かにしてもいけない

健康を気にしすぎて 過剰に医療を頼るのも考えものだ
病気を未然に防ぐことは大切であるものの神経質に心配をする必要はないとも思える

メディアでは 健康にに関わるサプリが花ざかりだ
予防医療に関しても 子宮頸がん、帯状疱疹、肺炎、そのほかの感染症、膝肘の痛みの緩和、頭髪増毛、睡眠、鬱の宣伝が 心配を撒き散らしている

人の命を科学や医学で運命の終始期より引き伸ばす必要があるのか
呪術、祈祷で生き抜いていた時代まで遡ろうとまで言うつもりはないが、身体がバランス良く老化をし 健康に滅亡していくのが望ましいと考える人も多かろう
特別な病気は 医学に頼って取り去って長生きすればよい
脳みそが衰えてくるなど全体のバランスに沿って滅びていきたいと考えるが 都合が良すぎるか

そもそも
命の寿命年数を 太陽暦が算出する時間で区切るのは 不自然ではないか

身体の寿命を 平均化して標準的に考えることは 生理学としては 真っ当な事であるもの 生きる強さや弱さは標準的な寿命から大きく誤差があってもおかしくない
ましてそれを鍛えて延ばそうとするのは どこまで理屈を押し通してよいものか

長生きしたい人も世の中に居るので これを奪うことはできない
だが それ以上に 生きている時間に充実した中身の濃い時間を送れる設計をする生き方を提案してゆくことがいいのだろう

寿命は人それぞれ、という気持ちを持ちたい
そういうわけで 年老いてもできる限り 余命を苦にしないで生きてゆけるのが理想だ

✏️✏️✏️ 「終活」は具体的に考えていますか

「終活」というと遺産であるとか遺言、お墓、葬儀などを思い浮かべるようです
僕の場合は パソコン上に書いた日記の始末をどうするか
読んでもらえれば嬉しいし印刷でもしてまた思い出して貰えればさらに嬉しいけど
元々 何かを言い残して こんな人物が居たのだと語り継がれて欲しい気持ちから書き出しています
でも 語り継ぐほど立派な人物ではないのだとわかってきたら諦めも出てきます

今の時代は メールやブログが僕しかわからないので 死んでしまうとなったら それを始末する作業が大変だと思います
近所や友人を眺めても前例がないかもしれないですから 始末をしてくれる人に申し訳ないですが感謝をします
何かできないかと思い ノートに大事なことを書いていますが 中身が増えてくる纏まりに欠けるのでわけがわからなくなってきます
パズルみたいになっているかも

お墓はそれほど悩んでいません
死んでしまえば 希望も夢もないでしょうし
墓標をどこかに置いてくれればいいです
夫婦が二人で入るお墓は生き残った人が 供養してくれる墓を作る
お金は必要にかけないで

✏️✏️✏️  人生の後半になると残りの時間を考えますよね

病気をしないで 寝込まないように生きて 短期間で素早く死んでしまう
というのが夢です
できることといえば月並みな健康管理だけですね

✏️✏️✏️  現在はすごく元気ですけど、音楽の影響はあるのでしょうか

耳が遠くなってきているんで 音楽を続けるのに不安もあります
一人で楽しむなら いけそうです

✏️✏️✏️  おしどり夫婦として有名ですが、人生の終わりを二人で話し合ったりすることはありますか

あの世では一緒になりたくないとツマは話してましたが
あたらしいあの世の世界で新しい人生があるならば そこで幸福を掴めることが一番の願いでしょう
いわゆる罰当たりなことをしていなければ 後世もそれなりに遅れると思っています
それほど あの世のことは考えたことがないです

✏️✏️✏️  改めて奥様に残しておきたい言葉はありますか

二十四歳で出会って長い間ずっと一緒にいたのですから どちらかが先にあの世に行くにしても寂しものです
否応なしな話ですから 希望を言っても仕方ない

🍂 🍂 🍂

書き足しますので・・ 後で来てね

やっと秋だと感慨深いか、やれやれ秋だとため息か ー 立秋篇 (裏窓から)

むかしの日記を読むと
やっと秋だといってみたり
秋といえども暑さはまだまだだと書いてみたりしている

立秋とは
囁やかな期待と やれやれと過ごす日々へのため息が混じった
考えようによっては この季節にふさわしい節目であるのかもしれない

仕事を退いて三年目を過ごしている
およそ二十年勉強して
二十年必死で働いて
二十年呑気に働いて

さてあと二十年をどうやって暮らそうかと夢を見た時があった

しかし
それはいかにも真っ当な人生設計のようであり
誰もが疑いもしない夢であるには違いないが

三年ほどのらりくらりとしていると
見直すべきことなのかもしれないと思うことがある

そうは思ってみても
だが・・・
なのだけれど

胃カメラと大腸カメラ ー 大暑篇 (裏窓から)

八日に胃カメラ、十五日に大腸カメラの検診を受ける
書きかけのまま放置をする日が続く

事後報告だが
二十九日には 腹部全般のエコーもする
膵臓、肝臓、腎臓と所見を聞く

脂肪がたくさんと言われる肝臓
血液検査結果からステージ3の腎臓、小さくなっていってます・・

父の年齢にあと1年余りと迫る(祖父の年齢には今年の年末で追いつく)


サドン・デスの恐怖と不安が病気のように脳裡をぐるぐると回ることがある

いつ死んでもいいと覚悟をしているものの、想定外の死に方を考えると怖い
痛みが怖いのもあるが、不自由が怖いのだろう

遺すものは整理しているが 不完全なままだ
それが達成できなかったとしても 不完全燃焼になって残念なだけだ

死んだら終わりだ

そのくせ、かれこれと考える日々が巻き起こり
筋書きのない死にかたを避けようとして 健康診断を受けるのだろうか


胃も腸もポリープがあるが、癌化はしないと診断される
そんなことを考え続けている『七月』である




芥川賞や直木賞の発表がニュースになった

今は作品に魅力を感じない
しかし読まないわけでもなく、騒ぎが収まってから読むことはある

図書館で予約をすると何十人待ちである
本屋大賞の作品を四月に予約をしたが
まだ依然と三十人以上がわたしの前に待っている
果たして待つほどに魅力があるのだろうか

詩集のようなような文章で坦々と綴ってくれる作品に出会う機会が少なくなって寂しい
自らは何も浮き足立たず飛び跳ねず自己主張もしないのに
読みすすむうちに訳もなく惹きつけられてゆく
そんな魔力を持った作品に出会いたい

そんな作品は人気がなく作品として誇示も無く面白味に欠けるからだろうか
物語(ストーリー)の展開を求める人が多いのかもしれない

福永武彦の『忘却の河』の一部分を
意味もなく味気を求めることもなく訥々と読み続けるのが好きだ
空白の空間の中を漂いながら詩篇に満ちた活字の海を泳いでゆくのがいい

直木賞でも芥川賞でも 激しさを持った勇気が湧き出そうな感情を揺さぶる作品にとことん浸りたい

『赤目四十八瀧心中未遂』『利休にたずねよ』 が真っ先に浮かぶ
向田邦子、高村薫、なかにし礼、葉室麟のようにのちに揺るぎない魅力を書いて
数多く作品を残している人もある

ーーー

そんなことをメモに書きはじめて夕方になったので
続きはどこかで書くことになる

無痛文明論 ー 芒種篇 (裏窓から)

六月になりました

* このころ 考えていたこと (書きかけに追記)


無痛文明論の記事の中で

+ +

『私たちの社会は痛みや苦しみや不快を取り除く方向へ進んできました。一見よいことにも見えますが、そこでは「生きる意味」がどんどん見失われていると私は思いました。痛みを排除する仕組みが社会の隅々にまで張り巡らされた現代文明のありよう。それを無痛文明と名付けて批判したのです』

+ +

『つらいことに直面させられ、苦しみをくぐり抜けたあとに、自分が生まれ変わった感覚を抱くことが人間にはあります。古い自分が崩れ、新しい自分に変わったことで感じる喜び。それは人間の生きる意味を深い部分で形作っているはずです。無痛文明とは人々が生まれ変わるチャンスを、先手を打ってつぶしていく文明なのです。』


と書いている
これを読んで少し考えて行く

ーーー
(私見)

どれだけ『無痛文明』という言葉に食いついてもらえたか

現代社会では こう行った言葉に食いつくことすらしなくなるほど 感覚が衰えて行ってしまっているのだから 一生懸命に論じようとしても届かない

レストランの前でネットで店の口コミやポイントを検索してから入るのが普通で その行動を否定したりしようものなら 白い目で見られる時代だ

『無痛』の何が悪いんだと斬りかかられる恐れがある

貧困や苦しみ 生きて行く上での不都合を取り除いて 豊かで幸せな暮らしを (自分だけでいいから)勝ち得たいと願う

社会を幸せにしてこそ 豊かさや幸せが全てに訪れるという考えが消滅しようとしている

しかし すでに豊かな人は 無痛文明によりいっそう豊かになってゆく

不幸せで貧困で思うように暮らせず 不平等な行政の制度で貧しいものはより貧しい補助で我慢しろと強制されているような社会

憤りを抱き 辛さを乗り越え 苦しみをくぐり抜けて 頑張れば いつか夢に描いた目標が叶う
そう信じて生きてゆく

頑張るという言葉は そんな時の普通の言葉であって何も惨忍な言葉でもないのに それを「頑張れー」と声援することに疑問を投げる人が出てくる

そんな意見が生まれてくる社会背景に 疑問を持つ人は少ない

生まれ変わって新しい自分を作り出すという 無痛でない文明があった

それは その時でしか味わえない生きるための感動であり 次の世代を作るパワーでもあるのだろう

無痛文明について 考える

兼ねてから『豊かさと幸せ』を追いかけて暮らしている現代人の 『どこか何かが違ってないか』的な疑問は ここでいう『無痛』という言葉が紐解く手がかりをくれるように思う

可愛い子には旅をさせろ
情けは人の為ならず

古臭い言葉だが そういった思想からも伺える人の姿勢を 哲学的に見直せという提案ではなかろうか

ネット社会である

そんなものを切り捨てられるところは切り捨てて 不便な暮らしをして これからの文明が滅びないように考えた出す必要はないか



無痛文明論

『親ガチャ論争に見る人生の勝ち負け 運命の中で生きることを諦めるな』
という森岡正博先生の記事が載ったのは去年の10月のことで、世間がアホくさく『親ガチャ』の流行語で騒いでいる真っ最中のことで、その陰でひっそりと記事は語っている・・・

全文を貼ります

 人生の勝ち負けは親次第――。親は選べず、親次第で人生が決まってしまう。日本社会をカプセル玩具の販売機に例えた「親ガチャ」という言葉がいま流行しています。この諦観(ていかん)にも近い人生観を巡ってネットでは論争もわき起こりました。哲学者の森岡正博さんは、人生を単純に勝ちと負けに分けてしまうのは間違いだとし、「諦めとは違う形で運命と和解することはできる」と語ります。どういうことなのか、聞きました。

 自分の人生がうまくいかないのは、この親から生まれたせいだ。そんなやるせない不満を、多くの若い人たちが「親ガチャ」という言葉で表現しています。根本にあるのは「他の人生があり得たかもしれないのに、現実はそうなっていない」というやるせなさです。

 しかし、私は「私の人生」しか生きたことがないわけです。他の誰かの人生と比較することはできません。にもかかわらず、「勝ち」か「負け」かという単純な人生観・人間観が噴出しているのは、いまの社会がそれだけ息苦しく、生きづらくなっているからかもしれません。

■「自由意志か、運命か」みんな悩んできた

 今回の論争を聞き、最初に私が思ったのは、人間が考えることはいつの時代も変わらないなぁ、ということでした。「自立した個人が思考し、努力を重ねれば未来は必ず開けていく」という自由意志論と、「個人は運命によって敷かれたレールの上を進んでいくしかない」という運命論の関係をどう考えるのか。これは、哲学で繰り返し議論されてきた問題です。

 ギリシャ悲劇の「オイディプス王」、シェークスピアの「リア王」、近松門左衛門の「曽根崎心中」……。文学の古典作品でも、「人間は運命にどうあらがえるのか」という主題が幾度となく扱われてきました。

 この問いは、人生を「他でもあり得たものとみるのか(偶然性)」と「必然によって支配されているとみるのか(必然性)」の対立ともいえます。

 もちろん、どちらか一方が人生の真理であるという決着をつけることはできません。運命に意志であらがったオイディプスも、最期は運命の外に出られていなかったことに直面させられます。運命的な結末に向かって突き進む二人が「心中」という死を自分で選ぶことで解放される。そうした様子を近松は書きました。

 自由意志か、運命か。偶然か、必然か。矛盾するこの二つが絡み合うから、人生は一筋縄ではいかない。だから古今東西、多くの人が悩み、考え続けてきたわけです。「親ガチャ論」にさまざまな意見が噴出している現状も、こうした潮流の中に位置づけられます。

 「親ガチャ論」の不満に対する社会的な答えを出すことは案外、難しくありません。それは、「どんな親から生まれても、個人の努力で未来を切り開いていける社会にしていきましょう」です。

 権力者である政治家の多くが世襲だったり、お金持ちの子どもがお金持ちになったり……。いまの日本では、「平等な個人」という理念が風前のともしびになっています。このままではいけない。だから、生まれてくる環境によって圧倒的な不平等が生まれないように、いまある格差を極力是正していきましょう。これはとても正しい答えであり、社会の一員として私も賛成します。

 ただ、同時に、平等な社会を一朝一夕で実現するのは困難なことも、私たちは知っているわけです。

 格差の消えない現実の社会の中で、どういうふうに自分の運命と対峙(たいじ)して、生きていけばいいのか。この問いをもう一度掘り下げてみるべきです。「親ガチャ論」の本質は、ここにあるのではないでしょうか。


■ 人生の価値は他の人生とは比較できない

 これは、「不平等を甘んじて受け入れろ」という話ではありません。

 たとえば、あなたが大学受験に挑戦し、第1志望の大学に合格できなかったとします。「受験に勝ったか、負けたか」を問われたら、負けたと思うでしょう。「予備校の授業をたくさん受けるだけの教育投資をできるくらい親が裕福だったら」と悔しがるかもしれません。

 しかし、受験では失敗したとしても、進学先の大学では、さまざまな新しい学びや出会いがあるでしょう。その中で「自分なりに頑張ってきたことが実った」「誰かと心が通じて幸せだ」と感じる瞬間がきっとあるはずです。第1志望ではなかった、という悩みが小さなものと思えてくる、なんてことがあるかもしれません。

 さて、あなたの人生は本当に「負け」でしょうか? 「いや、勝ち負けで測るなんて意味のないことだ」と言い返したくなる部分もきっとあるのではないでしょうか。

 たしかに個別の局面で「勝ち・負け」「成功・失敗」はあります。しかし、それらをくぐり抜けて続く「人生の全体」を考えてみれば、勝ちも負けもありません。人は一回限りのかけがえのない人生を生きており、人生の価値は他の人生とは比較できないからです。

 人生には、偶然と必然の両面があります。未来は開かれており、私は自由意志によって未来を作っていける。これが偶然の側面です。でも現実には、未来を思うように切り開けないこともあり、私たちは運命だったのかと諦めるでしょう。これが必然の側面です。

 でも、私たちはこのつらい運命と和解していくことができます。起きてしまったつらい出来事に対しては、それを人生のかけがえのない貴重なピースとして自分の人生に組み込んで、運命と和解し、未来に一歩を踏み出すこともできるのです。長い時間がかかりますが、不可能なわけではありません。そして、格差社会の残酷な現実はみんなで協力して変えていきましょう。

 今回、「親ガチャ」という言葉を巡ってネットで論争がわき起こったのは、「人生の勝ち負けは親次第」という考え方とは正反対の、「人生の全体は勝ち負けなんかでは語れない」という直観を、実は多くの人が共有していたからなのではないでしょうか。(聞き手・高久潤)

     ◇

 もりおか・まさひろ 1958年生まれ。専門は現代哲学、生命倫理学。著書に「無痛文明論」「生まれてこないほうが良かったのか?」など。

—-

あれから もやもやと気になっていた『無痛文明論』

6月7日の記事で
再び 登場

(リレーおぴにおん)痛みはどこから 2 
「無痛文明」に生きる残酷さ 
森岡正博さん

 「無痛文明論」を発表したのは19年前のことでした。私の全存在を懸けた本です。海外でも読まれ、今年は一部がトルコで翻訳・刊行されました。

 私たちの社会は痛みや苦しみや不快を取り除く方向へ進んできました。一見よいことにも見えますが、そこでは「生きる意味」がどんどん見失われていると私は思いました。痛みを排除する仕組みが社会の隅々にまで張り巡らされた現代文明のありよう。それを無痛文明と名付けて批判したのです。

 つらいことに直面させられ、苦しみをくぐり抜けたあとに、自分が生まれ変わった感覚を抱くことが人間にはあります。古い自分が崩れ、新しい自分に変わったことで感じる喜び。それは人間の生きる意味を深い部分で形作っているはずです。無痛文明とは人々が生まれ変わるチャンスを、先手を打ってつぶしていく文明なのです。

 しかし、無痛文明を批判するのは困難です。私を含めて皆がそれに絡め取られ、慣らされているからです。「無痛文明の外」に立つことは実は誰にも出来ない。この難題を解決する答えを私はあの本の中で見いだせていません。ただ「この問題を前に目を閉ざすのはやめよう」とだけ書きました。

 あのときなぜ「苦」や「不快」ではなく「痛」という言葉を使ったのか、ですか? 痛みは誰もが直接に感じるしかないもの、逃げられないものだからかもしれません。苦しみや不快に対しては「見方を変えればそうではない」と言えなくもありませんよね。

 この19年の間に日本社会では、経済格差問題への注目が高まりました。貧困の苦しみにあえぐ最中の人々にとっては、その苦しみを取り除くこと自体が第一でしょう。無痛文明は基本的に、豊かな人々の問題なのです。

 ただし無痛文明には、社会改善を推し進める側面もあります。貧困などの苦しみを社会から取り除こうとするからです。長い時間がたって、貧困の痛みから解放された人々は、再び、生きる意味があらかじめ奪われてしまう現実に直面します。無痛文明は、そんな残酷なシステムでもあるのです。

 私にとって無痛文明論は未完です。続編を書きたいと思っています。(聞き手 編集委員・塩倉裕)

     *

 もりおかまさひろ 哲学者 1958年生まれ。早稲田大学教授。「無痛文明論」(2003年刊)のほか、「人生相談を哲学する」「感じない男」など著書多数。

ーーー

生前葬や自伝のことなど ー 小満篇 (裏窓から)

五月の風 爽やかです



小満篇のころ 断片的に

  • 生きている間に葬式をしてしまおう
  • 弔辞は自分で書いて自分で読もう

と考えていた


小寒のころには『生前葬』について触れていた

  • 弔辞を自筆で書こう
  • 自分の昔話ってのは自らが酔い浸るには十分に面白そう

しかし 他人が聞かされる分には 詰まらないものだ

  • 運動会でパフォーマンスをしてドジをこいたこと
  • 音楽会で目立とうとしてパフォーマンスを失笑にしてしまったこと
  • 受験はことごとく失敗をして情けないこと
  • 入学式は全部雨降りの『雨男』とか

あまりいい話はなかったのだった

  • 恋愛でも 輝かしく華やかでハッピーなものはなかった

数々の出来事から100頁を選ぶのは難しい
長過ぎては誰も読まない
長編を構想しても的が絞れない

いざ死ぬとなっても なかなか難しい


子どもたちには 逞しく育って欲しい ー 立夏篇 裏窓から

こどもの日、立夏


五月四日(水)
ちょうどお昼過ぎに
干潮でした

準備周到で孫ちゃん達は潮干狩りに行ったようです


近年 子どもの日が近づいても家の軒に鯉のぼりを高々とあげる家を見かけなくなった

子どもはすくすくと育って当然であり
そういう条件が整っている

私たちが子どものころは まだまだ健康で明るく育って欲しいと願う親が普通であった
今はそういう願いを持つまでもない時代になったのだろう

鯉のぼりに祈りや願いをかける世紀ではなくなったのだ


世界では争いが起こり
国内の世論も複雑になって
誰もが正義に向かって一つの道を行く時代でもない

それらは
人間関係にも当てはまり
働くにおいても育児をするにおいても
多くの人がストレスを持ち
それを『病的』なものとして捉え

かつて個人主義と称えられた『個人』や
軽く扱われた『人格』というもの
控えめが美学であった『権利』などが
姿を変えたかのように日常の中で判断を揺さぶることが多い

そんな時代を
生き抜いていく強い「人」に育って欲しい
そんなことを
こどもの日には考えていた

旬がくれば 筍と鰹 - 穀雨篇 (裏窓から)

四月下旬を迎えた

腰痛は 正月から継続中
コロナは 四月一日に(+)になって 散々な時間を過ごした

歳を食うたびに人生を考える時間が増える、そういう人も多かろう

残り時間が少なくなる・・つまりは 花の咲く春を迎えるチャンスがみるみるうちに減っていくということで、これを悲壮的の遠らえる人もあれば、前進的に受け取る人もある

心構え、未来と向き合う姿勢の表れである

* 

写真は 『初鰹』、もらった今年最初の筍



新聞の投稿欄に五百字ほどの作文を書いて出した
のちに連絡が来て載せてもらえるという
久しぶりの振りの投稿採用で喜んでいる

👣

先ごろ母親(91)が庭で転倒して骨折し入院となったことで手紙を書く機会ができた
不慮の事故を後悔しながらも、ふとした偶然のことからの意外な幸運に些か喜んだ

コロナの渦中であるから見舞いの不自由さは想像通りで、91歳の老人には家族であろうと面会はできず、老人を寝台に寝たきりにさせることで残された者たちには次々と不安や心配を生んだ
そこで思いついたのが手紙を書くことであった

学生時代に鉛筆書きで「学費のことは心配せずしっかり勉強しなさい」と手紙をくれた父や母であったが、こちらからは書いたことがなかった
タバコ屋の店先の赤電話から仕送りの工面の電話をしても「元気でやっているか」などの手紙は出さなかった

使わなくなった便箋を探し出し、寝たきりの老人を元気づけるために老眼でも読めるような大きな字を意識して「頑張って早く歩けるようになってください」と書いた
今さら母親に何を書き出すか思案に暮れて、日ごろから暮らしへの感謝も疎かにし、畏敬や感謝を粗末にしてきたことに気付かされるのであった

久しぶりに持った万年筆のインクの文字が下手くそで滲みばかりが目立ったが、その辺の戸惑いも母親には届いただろうか。

コロナが来た ー 清明篇 裏窓から

久しぶりに『裏窓から』を考える
入院やら退院やらコロナやら

生きているのが有り難いと思うような年齢である


📌 花も舞う浮世の風やコロナ哉
📌 花咲いてコロナの日々が三日過ぎ(四月三日)


話せば長いような気がするが、きっとすぐ終わる

* *

三月末に若葉病院でもらったコロナが親戚中で蔓延した
家族関係者で15人が感染したのだから、大きな事件だ

若葉病院を退院してからの発覚なので病院が院内感染で最初に40名を公表し次々と増えていった一連の事件には我が家の感染者は関わったことになっていない

これは茶番劇だが、世の中こんなものなのかもしれない

* *

三月二十九日に退院をして、付き添った関係者は、四月一日から次々と症状が出始め
ウチのツマは 一日(土曜日)、じっと我慢をして不安な日曜を過ごして
私は三日に罹患を確認された

一日から十一日までの間は自宅療養であった

* *

所感としては 様々なものがあるものの
詰まるところ コロナのウイルス菌があれば 罹患するということで
一生懸命に対策を打って行動している人たちにおいては
無駄な努力とは言わないものの 虚しいもの潜んでいる

本当に罹ってはいけない人や罹りたくない人は
一切の外部接触を断つことしかない

* *

四月上旬(一日から十一日まで)は ほんとお疲れ様でした

十四日・記

「つづく」で終わったドラマのような - 小雪篇 裏窓から


二十二日 小雪
二十三日 勤労感謝の日

* 書きかけ

朝日新聞(ひととき)23日の投稿に「やさしいうそ」という投稿があった
┸・┸・┸・┸・┸・┸・┸・┸・┸・┸
8月、夫婦で新型コロナに感染した。夫は希望通りの病院に入院できたが、私はなかなか決まらず、3カ所目でやっと入院した。入院期間は1カ月に及んだ。一時は酸素吸入が必要なほど悪化したが、「夫に会いたい。子どもたちのためにも生きて帰らなければ」と気持ちを奮いたたせた。「パパはどうしてる?」と電話で息子に聞くと、「おやじも頑張ってるよ」と教えてくれた。9月に入り、退院の日。迎えの車の中で長男が手を握ってきた。「おふくろ、ごめん。うそをついていたんだ」。後ろに座っていた次男が私の肩に手を置いた。「おやじ、8月29日に亡くなったんだ」私の退院までは伝えないようにしようと、子どもたちで相談して決めてくれたのだ。家に帰り、遺骨になった夫と対面した。おしゃれで、はやり物が好きだった。明るい性格でみんなに好かれ、設計の仕事に打ち込んでいた。遺骨が収まる箱には生前使っていた帽子をかぶせ、シルクのマフラーを巻いている。しょうがないと思う。寿命だと自分に言い聞かせた。でも悔しい。遺影に話しかけずにいられない。「パパ、早く起きて」(東京都中野区 室伏節子 主婦 77歳)
┬・┬・┬・┬・┬・┬・┬・┬ ・┬・┬

上述の記事の話をふとしたことでツマが今朝方 話をしてくれて
私は読んでいなかったので 珍しくどんな話をしてくれるのかと耳を傾けた

。。

パパはどんな人だったのだろう
お幾つくらいだったのか
どんな暮らしぶりだったのか
みなさんの生活ぶりは・・・

「おしゃれで、はやり物が好きだった。明るい性格でみんなに好かれ、設計の仕事に打ち込んでいた」とだけ書いてある

わたしのようなお節介な者には 聞かなくても良いことまでも気にかかる
仕事のレポートの影響なのか モノを正確に再現できるように残すことに気を取られ
こんなとき 構わなくても良いことに気を取られて 人間がつまらなくなったなと
自分を嘆く

パパは 何も言葉を遺す準備もしないで ストンと消えたのだ
と思う

あれこれと説明のない短いこの作文に悲しさが溢れているのが見えてきて
思わず咽ぶのであった


仏壇に鈴虫鳴いて彼岸待つ - 白露篇 裏窓から


▞ ▞ ▞

七日 白露を迎えた


📍 仏壇に鈴虫呼んで彼岸待つ
📍 ゆるゆると酒つぐ湯気や白露かな
📍 秋めいて一人寂しく庭をみる
📍 秋の風 大きく吸える蟄居なり
📍 秋風や誰かに音を届けよう


今年になって実はまだ鈴虫の声を聞いてはいないのだが 涼しい風が吹いて来るのを肌で感じ 俳句の投稿をSNSで眺めていると 頭の中はすっかり秋めいて来る

父は耳が不自由でほんの僅かばかり聞こえて来る生の音を大切にしようとしていたのではないだろうかと思うことがある

残念なのはそのことをその時に理解してやれなかったことだ

死んで二十三年以上が過ぎるが いまごろからでも美しく思い返してやれば 弔えているものだろうか
いえいえ弔うことは当然として 何よりも大切なのは 掛けがえもなく愛した鈴虫の美しい音色(鳴声)を聴いて対話をすることが かけがえのない時間なのではないかとと思うようになった

『禍福は糾える縄の如し』
これを言葉にしたこともない人であったが 静かに語っているように感じることがある

あの人は なくなる二年前の秋に 何を考えていたのだろうか
対話の記録も 日記も何も 残されていない

七夕は雨降りでした - 小暑篇 裏窓から


┏ ┏ ┏

七日、七夕さま 小暑
雨降り

洗濯乾燥機は三日に我が家に来て
連日フル稼働です

雨の隙間に散歩に出たら
稲穂が出ていたので載せておく

森村誠一の「老いる意味」を読み終わって静かな余韻がある
内容的には 同じようなことを考えていたわけで
それを代弁するようなエッセイだったのだが
もう一度問い直されて確認をしているような振動が残っている

この感想は改めて書きます

人生で最も希望に満ちたとき - 月のはじめに考える - 半夏生篇 (裏窓から)


。。。

『月のはじめに考える』シリーズを思案してじりじりと時間が過ぎる

📌 水無月や駆け足人生加速する
📌 あれこれと言い出しかねて 六月尽
📌 七月が始まりましたザザザ降り

七月を迎える

しとしとと降ることあれば気まぐれに
誰ぞの不機嫌のように荒れて散らかす雨もある

雨降り と書かずに 雨ふり と書けば
幾分和らいで見えようか

文月に生まれた人の何人か
名はその人のを表すとはまことなりけり


そんなことをぼんやりと思いながら
雨音の激しい軒先の砂利を見つめて
小さいころの泥んこ遊びの庭を脳裏に浮かべている


『人生において最も希望に満ちた年』

このことを考え続けている

⭕️(高校大学と受験にしくじり)浪人ご大学に受かったとき
⭕️(落第しながらも)卒業して就職したとき
⭕️結婚したとき

「最も」と書きながらそれは一つではなく 三つ すらすらと出てくる


そのあとも

子供ができた
子供が進学した
就職した
結婚をした
孫ができた

と続く

人生は

苦渋に満ちて
暑くて高い壁ばかりが次々とはだかり
波は荒く
流れは早く
浅瀬や深みに富んでいた

悪くて
狡くて
卑怯な奴らが
満ち溢れていた

それでも
ささやかな希望を持って
夢を抱いて進み

何度も諦めかけて
逃げ出す真似事をしてみては
思い直して
なんとかここまでやってきた

もうこれから後の人生に
夢が満ち満ちてくることはないだろう

それならそれで構わない


つづくかも

あ・う・ん - 芒種篇 裏窓から

父親に教わったこといくつか を考えていた

  • パジャマのボタンのとめ方
  • 風呂焚きのマキのくべ方
  • 靴紐の通し方
  • 靴のかかとを踏まない工夫
  • 風呂上がりの身体の拭き方
  • 襖や障子の上手な閉め方
  • 寝巻きの帯の締め方
  • 縁側や軒の庭箒での掃き方
  • 鶏の捕まえ方
  • 蛇の持ち方
  • ナイフで鉛筆の削り方

すぐには思いつかないため
思い出しながら書きなおしていくことにする


一を聞いて十を知れ
見てわからんものは聞いてもわからん

この言葉は 直訳しただけの軽々しいものではない

  1. モノを習う時はまず習うことに集中して
    何を習得するべきなのかを見据えていなくてはならない
  2. わからん時は聞けば良いのだが
    聞いた以上は奥に潜むものを探り出し盗み取ることが大切だ
  3. 黙って仕事の様子を見ることから始めて
    技を見抜こうとする姿勢を磨いた上で要点を一つ聞けば十倍以上のコツが得られる

そういったことを いちいち口で説教することもなく
「黙って見て学べ」と口癖のように言うたものだ

「質問をしてはいけない」とけっして思っていたわけではない

的確な質問をしてこそ モノをどこまで理解できたかが 教える側からも推し量れる
言葉では伝えきれないところまでも丁寧に伝えようとしていた

『あうん』の人だったのだろう


伝えるものそのものやそのこと自体が
明確に言葉になっている必要もない

気持ちや熱意でもよかろうし
興味のようなものでも良い

目のつけどころの生む感性のようなものであっても良い

子どもに伝えて世代を超えて孫にも
『あうん』で伝わっていくものがあるのかもしれない

祖父の足跡や実績、語録などを掘り起こすたびに
そのようなことを感じる

孫たちは大人になってそのことに気づくだろうか

雨がつづく週日です - 小満篇 裏窓から

小満を迎える
今年は梅雨入りが早く十六日ころからはっきりしない天気が続く


📌 雨つづく日曜みたいな金曜日

そのようなことを思いつきで書いて そのあとに
もしも 八十歳を超えていたら 間違いなくボケてしまうような日々を
毎日過ごしていると 反省のようなことを考えるものの

年金が一年半先まで受給できないわけであるし
コロナのワクチン接種のお知らせも回ってこない
期待していた仕事はないと 三拍子揃っている

☔️

雨が続くと 『シェルブールの雨傘』なんて名画を思い出す
「哀しく」「淋しい」歌が多いのは当然のことなのかもしれないが
むかし 職場で 女の子が
「あら 雨に唄えば」
というのもあるわよ
と教えてくれたのが印象に残っている

☔️

雨にまつわる思い出は 数々ある
『蛇の目でお迎え』に来てもらえた子どものころも懐かしい

そういえば  
「さみしい」呟く私に あの人は
– 『寂しい』という字は『淋しい』とも書くわ
と 言ったあとで
– そうや 『淋しい』は『氵』へんや
とも言うていた

『氵』へんは水を表す
『泪』という字も『氵』だ


「涙という字を書いて」で検索をして桜田淳子をHITさせてしまった


写真は
– ウォーキングに出かけた時に田んぼのあぜ道から西の空を撮ったもの
– 公園に楽器を吹きに出かけて少し散歩をした時にJRの音がしたので撮ったもの
の二枚

まだ麦は黄金色で刈り取りを待っている
五月末くらいではなかろうか

五月(GW)始まりに考える - 八十八夜篇

新年度になって瞬く間に五月を迎える


■「Perspectives 視線」から

 「じゃあ、今の時代をどう言えばいいんだろうか、を言葉にするのが僕の仕事だと思っています」

 現代の日本社会では、同時代を生きている実感が希薄になっているのではないか、という危機感が私にはある。

 「個の時代が広がっているという実感は、僕にもあります。僕らが若い頃なら、ラーメン屋に入ったら、みそか、しょうゆか、塩の味を選ぶ程度でした。でも、今は、味だけではなく、麺の硬さまで選べる。それを『個の時代』の一例と取るか、ラーメンを食べるという点では、同じことじゃないかと取るか。しかし、同じ空の下で、老若男女が生きているという意味では、共通項がある」

 秋元の話 続く


コロナ禍という前代未聞の困難をどのようにとらえるのか。

 「これまでの社会問題は突破口が見えたり、克服すべき問題が既に存在したりしていて、とにかく知恵を絞って解決法を探ればよかった。でも今回は何が起きているのかが分からない。人類の英知が試されている気がします」

 自然界の摂理の前では、人間は無力という真理を、コロナ禍で突きつけられた。だとすれば、あるがままを受け入れるしかないのだろうか。

 「コロナ禍では、正解がないことを議論する時のマナーや品も問われています。自分が正しいといくら訴えても、ほとんど根拠がない。なのに、異なる意見を駆逐しようとしたり、勇気を持った提案を攻撃したりするような人が、立場のある人の中にもいる」

 それが、人間の本性かも知れない。うろたえれば、醜い本性がのぞく。

靡く - 穀雨篇  裏窓から

靡くと書いたのだが 考え込んでいる
久しぶりの長考

🐾

靡くものといえば今の季節であれば青空の下に爽やかな風に吹かれる鯉のぼりが思い浮かぶ

近ごろは滅法見かけることが少なくなった
小さい子のなかにはこの風景を見たことがない子もいるかもしれない

そんな大きな幟を立てる必要性がなくなり
社会は子どもの成長を見守り歓ぶ必要や願望も失ってきた

特別な費用をかけて利益に少ない祝福をするのではなく
子どもが直接喜ぶおもちゃの方が実益があると考えるのか

子どもを祝うことと子どもにお祝いをすることは違う

十人以上の子供が生まれておよそ半数ほどまでもが不運や疫病で命を落とした時代に
人々が願うようにしておこなった 祈りであり呪術であった

科学技術が進んで全てを物理現象で片付けることのできる今の世の中
歓びに感謝をして 将来を祈るという心は失せてゆき

はるかに現実的に実利を求める祈りばかりが目立って残る
(その割には当たりが出やすい店に宝くじを買いに人が群がるのは滑稽であるが・・)

🐾

靡くと書いて

鯉のぼりが空に靡くのを思い浮かべたのか
世の中のはっきりしない人たちがニセモノに靡く様子を書きたかったのか

コロナに泥を掻き回されて
底が見えなくなってしまった漁師のようなのかもしれない

魚なんてのはとっくの昔からここには棲んでいなかったかもしれない

四月初旬に考えていること様々 - 清明篇 裏窓から


🌱 命拾い

コロナの騒動はまだまだ続く

母の住む市内ではクラスターが発生していた
友だち(「ひろまさ」君)の母さんと叔母さんが市内の施設に通っていた
報道では 四十人近い利用者と何名もの職員の罹患が確認されていた

身近な人はほかにも大勢いるはずなのだが
如何なる情報も全く届いてこなかった

ところが先日実家に用があって立ち寄って新しいことがわかった
二人は共に コロナに罹り 三週間の隔離入院していたのだ

しかも 一時は命も危なかったという

叔母さんは八五歳を超えている
友人お母さんはうちの母親よりも歳上で九十二、三歳ではなかろうか

一時は「もうあかんと覚悟をした」と言う
その苦痛を誰にも告げることができずに三週間も孤独を過ごしたことになる

単に入院だけでも並大抵のことではない上に
コロナに罹っていたのだから 目の前は真っ暗だったことだろう
家族であっても 友人や親戚に入院の情報を漏らすこともできない

命拾いとはまさにこのことを言うのだ


まだ少し考え中

三月下旬を迎え 春の彼岸に考える - 春分篇 裏窓から

三月は考えることが多い
少し時間をとって考えてみるか
考え中と書きながら


実はそれほど考えていないことが多い
碁を打っているときも散々時間を食いながら
最初に思いついた手を打ってしまって
それが愚かなひらめきであることが多く

人生においても数々の試験においても
最初に閃いた答えで難問を突破できたという例は数少なく
それが成功であった時を深く分析してみれば

十分な準備や鍛錬、経験、考察が事前のなされていたという事例が
二、三見つかる程度で

この仮説自体も根拠となるほど有効なものではないにしても
説得できる要素も持っているので
およそ間違いはないと考えてよかろう

早い話が
そんなに真面目に普段から勉強もしてないのだから
そう簡単に考えたところで的(マト)に当てることなど無理

怠け者はそれなりの失敗を繰り返して
それなりに人生の終末を迎えるのだということだ


加えて
還暦を過ぎて(やっとこさ)判り始めたのだが

私には才能というものが乏しいということである
これについてはここでのコメントは控えて
またの機会にどこかで触れたい

黄砂や花粉がとんでいる穏やかな日々を送りながら - 雨水篇 裏窓から(天皇誕生日)

雨水を迎えている
穏やかな二月になってホッとしてる

そう書き始めておざなりにして置いた日記

穏やかな日が続いて
花粉が飛散し
黄砂が飛んで来て(二十二日)

楽器が修理から上がってきて
公園に音を出しに出かけたりしていた

飛び石連休であった

思い出は自分だけのもの - 裏窓から 立春篇

ゆうべ珍しい夢を見た
オートバイで旅をしていたころの夢だった
どこかを旅していた

ただそれだけの夢である
今の時代の旅ではなく昔のスタイルの旅だった

今の旅のスタイルが十分すぎる点に寂しさを感じているから
考えることがあって脳裏に蘇ったのかもしれない

夏休みや黄金週間は 思う存分に走り回った
懐かしい

身体もヘトヘトになり十日間ほど心も燃え果ててしまうほどまで走った
東北と四国は 十年間に八回ほど行った八十年代が懐かしい


このごろ 思い出は 自分のためにあるのだと気づき始めた
だから 今思う存分振り返って味わってけばいい
そのあと潔く遺物として捨てた方が良さそうだ

残された人もそんなものは面白くも楽しくもなかろう
残っているものを受け取っても困るだろう


今からは 新しい思い出を作り始めなくてはならない
新しい時代に残してやる新しい思い出づくりだ

ジャパネットのタカタさんが言うように

「(写真は子供さんを撮るだけでなく)
お父さんお母さんおじさんおばあさんと撮ってください」

もう一生懸命に楽しんだのだから 次の世代に何かを引き継ぐことを考えねばならない
その一つが新しい思い出なのかもしれない


夢の中には 途轍もなく鄙びた村や山を走り抜ける姿が蘇る
しかしそれは 現実となって戻るものではない
やがて歴史になってしまえば それで終わりだ

。。。

。。。

二月三日は立春

🍇立春や胸さわぎする 不整脈
🍇立春に胸さわぎする 新予感
🍇立春やヨーイドンのドンでゆく

🍇節分や あなたが鬼でぼくも鬼
🍇節分や 勝っても負けてもキミは鬼
🍇晩酌に豆食うている鬼の果て
🍇春が来て何がうれしや花いちもんめ

日記は簡素に - 裏窓から 節分篇

今年は節分が二月二日

立春が二月三日で
節分はその一日前らしい

冬は今日で終わる


ブログは なるべく簡素にするべきだと思っている
短くて用件だけ書くのが望ましい

しかし 過去を読むと無駄が多い

無題が多いと焦点がボケる
何を言いたいのかわからない
最後まで読んでもらえない恐れもある

読み切ってもらえれば救いの道があろう
短ければ読み切ってもらえる可能性はある

長くて モヤモヤしたものが散在して
要点が絞れなくては
まとめて丸めてポイとなろう

いつも同じようなことばかりを考えている - 大寒篇 裏窓から

。。

二十日は大寒です

ここまで書いて大寒の夜はそのまま終わっていったのでした

ここからは追記です
ゆうべ 銀マドに書いたことを貼っておく


⛄ 大寒

今年も大寒を迎えた
ピリッと冷えた感じです
けれども朝寝しているからわからないが

寒かったようです
無理に早くから起きる必要もなかろう
暖房費もかかるし(と貧乏色が出てしまう)

一月に入ってたちまちのうちに日が過ぎて大寒を迎えた
密かに待ち遠しくしていたのかもしれない

何が待ち遠しいわけでもないが
父の命日(22日)が来るというのでそわそわしているのかもしれないし

いえいえ気を引き締めようと
幾つになっても父親には頭が上がらないままの一生なのだろう

あの日も大寒波だったのだと毎年思い起こしている
わかっているのにそのことを日記に書く
こういった反省も必要であろう

今の時代 個々の人たちは自ら豊かで筋書き通りの道を歩んでいる
然るべきに自分を自分で築き上げた錯覚(感覚)を持っ多人々が多い

何事にも反省の念を持つこと
感謝の恩を感じて生きてゆくこと
このような考えば 誰にも強要されることではない

誰かに指示されないから したがって 消滅しかかっている

。。。

⛄人生の幕が降りる

そんな言葉が手にした本のどこかに書かれていて
読むのをやめてあれこれと思いつくことを考えていた

「人生の幕が降りる」と言うけれど
観客席には誰一人いないのだ

もしかしたら家族や知人はいるのだろうか

けれども 誰も帰ろうとしない
ではアンコールを待っているのだろうか

そんなことはありえない
そもそもアンコールなんてあるわけない

私の人生
はじまりからアンコールのようなもの

。。。

⛄ もしも条件が整っていたら

昔の旅を振り返る

もしも現代のように条件が十分に整っていたならば
自分が走ってきたようなツーリングには
行かなかったような気がする

満たされていない条件を突き抜けて旅をすることに
愉しみと喜びがあったのだ

今のような旅の世界にはもう戻ることはないと思う

  • 携帯端末の普及が大きく何もかもが大きく姿を変えた
  • 天気予報をネットで正確に知ることができる
  • 携帯端末で宿を探せるし予約もできる
  • 行き先の情報を収集できる
  • 地図を検索して調べられる
  • 野営地の情報がまとまって正確に手に入る
  • 野営の道具も至れり尽くせり考案されている
  • 資金を投じれば便利なものが大抵何でも手に入る
  • 休暇も苦心しなくても取得しやすくなっている
  • 食事をする場所も探しやすい
  • 温泉がたくさんあって利用しやすい
  • 貴重品などの治安の安全面も十分なところばかりだ
  • 高速道路が充実している
  • 不意の通行止めなども少なく情報は正確だ
  • 道路は整備されているところが多い
  • バイパスが充実している
  • 悪路や辺鄙なところの道路が減少した

。。。

⛄ コロナの制限

時間制限が夜の八時までであるならそれまでに遊べばいいという考え
これには驚いた

日常のあらゆる事柄が制限というもので規制されている生活をしていると自分で考えてものを編み出すという人の機能が本能として備えた機能を退化させてしまうのだろう

決まりがないから守るもをのを失ってしまったのか

コメントのしようがないほどでまさに開いた口が塞がらない
こういうことにあらゆる場面で出会うのが現代社会の特徴なのだろうか

。。。

⛄ 六十七歳の誕生日

二十三年前の大寒を過ぎて二ヶ月後に六十七歳の誕生日を迎えようとしていた
その目前に死んでしまった父に私が似ているのではないか

そう思う
当たり前だ

二十三年間自問をしては自答を繰り返してきている

大晦日に考える - 大晦日 裏窓から

令和二年師走 点描 その3 ー 今年を振り返る

コロナで騒ぎ始めた頃・四月から腰掛ける椅子もなくなり完全に仕事から引き上げた形となった

歴史に残る思い出にできたかもしれない

過去六十数回の大晦日を振り返ると人生が見えてくる

その感慨は誰に語ったところで頷きあえるわけでもなく喜びあえるわけでもなかろう

喜怒哀楽の集大成である

後悔や憎しみ、うらみ、憤り、妬み、裏切りなどが次々と浮かんでくるところが自分の生き様の醜さであったのかと笑い飛ばしておくことにし、歓喜に奮えた瞬間もあったことも思い出したい

。。。。

。。。

風船大晦日 六十数回を振り返る

風船大晦日 一年分をコマ送り

風船大晦日 懺悔も慚愧もひとくくり

風船一年の溜め息集まる大晦日

風船十二月 誰にも言わぬこともある

風船初雪は ついに降らない物語

風船大雪の京(みやこ)で出逢った人がいる

。。。。
   。。。。

ここまで書きながら二つの大晦日を思い出しているのだが
記憶はすでに曖昧である

私の曖昧は
「もうそんなことどうだってええわ」
「過ぎたことやし今更ぶり返しても」
「あの頃のことはもう許してしまおうか」
というような感傷じみたものが多い

📚 大学受験を失敗し浪人生として東村山の寮で迎えた土壇場の年末年始
📚 卒業を控えて論文が書き上がらずに下宿で迎えた年末年始

東京での正月に喜びに満ちたものなどは欠けらもなく
大きな夢はいだいているものの不安と苦難に満ちたものばかりだ

もう一つ厳しい年があった

それは進級試験を控えた冬だ
まず間違いなく落第が決定する試験に挑もうとしていた冬
同年輩は成人式でウキウキだがそれにまつわる思い出は何一つない

しかしこの三度の年末年始があったからこそ 今があるのは間違いない

うしろ姿の静かな意思 - 大雪篇 裏窓から

十二月七日 大雪を迎える

🔥 健ちゃんのうしろ姿

二人兄弟は いつも一緒の服を着ている
だから 双子の兄弟と思われてしまう

それがなかなか嬉しくて
そろいの服を選んで着せてしまうのだろう

兄弟の性格は正反対の点もある
その心理は不明だが

幼稚園に出かける毎朝に
兄は十分に余裕を見て準備ができ
早々に車に乗り込む

(時刻は読めないが)弟は時計を気にせず
急がねばならないことは十分にわかってるだろうに
平気で飯台に向かって正座でパンを食べている
その写真がある

兄の悠ちゃんは 車でスタンバイである

母は玄関で着替えを持ち
「早くしなしなさい」
と叫んだそうだ

それでも泰然としているうしろ姿が美しい

。。。。

。。。。

🔥 師走である

一月から一体どんなことが起こってきたのか
振り返ってみたいと思い手帳を繰ってみた

三月まで勤務してその後はプーの暮らしであった年である
年の初めから耳鼻咽喉科に通い続けなかなか完治せずに悶々と過ごした日々であった
コロナは以前と鎮火することはなく社会の外にいて眺めている
九十歳になる前に二十三回忌の食事として一泊で出かけたいと
母が言うていたことも実現できた

それくらいが思い起こせるような出来事ではないか

🔥 うなぎを食べる

うなぎを食べに立ち寄った
(母の耳鼻咽喉科医院への付き添いがメインであった)

三十年以上昔だろう
父と母と私ら夫婦で来た店である

あのとき 母はうなぎをよう食べなかったので
鰻好きの父の連れられて来たものの
席に腰掛けて見ていただけだったのか
ご飯だけを食べたのか
自分でも記憶が曖昧らしいのだが
その時のことを思い出しては懐かしむ

他の記事でも触れてきたが 父との思い出は少ない
食事をしたり 一杯飲んだりした思い出は
指を折ろうとしても出てこない

かと言って 父は寂しい思いをしながらあの世に逝ってしまったのかというと
残された人の話では そうでもないらしい

うなぎを旨そうに食べている姿は 全く強烈には焼き付いていない

蘇るほとんどの記憶が明確ではなく
マッタケを山のように採ってきた時の顔
ズガニをたくさん獲った時の嬉しそうな朝の顔
川で獲ってきたうなぎを 裏の流しで捌いている時の顔

そんなことを偲びながら うなぎを食った
うなぎの味は不変である

。。。。

十二月 月の初めに考える - 裏窓から

十二月が始まる 特に変わったことも起こらない それでいいのだ

メモを残している

。。。。

仕事を退いて体調も快適です

今となれば・・・一生懸命に書いた資料のダメ出しをするような決済体制ではなく五千万円の事業をスムーズに進めるために一緒になって知恵を絞って資料を作り上げることができる人だったら(よかったのかもしれず)、大きな事業をいくつも成功に導けて行けたのにと後悔をするのであるが、あれはあれで仕方がなかった、その人(所長)の持ち味が私とマッチしなかったのだ、と思っている

何も名誉も地位もなく(お給料もなく)日々を暮らすのはある意味では寂しいのでしょうが、もう何を今更 という気もあり、出番は頑張ってみたところで巡ってきそうにありませんし、それほど大きなことをしたいという野望に似たことも全く失くなった今としては、生きること自体を自分の記録更新目標にしてもいいのかもしれない

短命の我が家系の中にいてそんなことを考えている

小雪篇 裏窓から

二十二日は小雪でした

* *

四月から自遊人である

フォルダーを整理していて研究室の面々で撮った写真が出てくる
不思議なもので大方の面々の名前をしっかり覚えているのだ
ネットで検索すると半分以上がヒットする

TV東京で部長になってるYくん、テレビ山梨の部長になってるMくん、
N自動車で本部長やってたMくん、NHK放送技術研究所で部長のNさん
アメリカ支社長になってたUくん、家電会社の取締役常務だったOさん
他にもFさん、Kさん・・・、後輩のFくんもオムロンの執行役員になっている

まさかの・・と驚く奴も中には居ますが
学生時代にやんちゃやりながらも彼らは資質のある人間だったのだ

私は落ちこぼれてと言うか、まあ別世界に逃げ込んだ、居残っても低空の水平飛行すら危なかったのだから仕方あるまい
汽車が二時間おきに走ってゆくのを見ながら白菜畑の出来栄えを伺って暮らす日々だ
住民税も所得税もゼロ円の暮らしである

。。。。。

こちらからの対岸を眺める
人生ドラマのPV時代を一緒に過ごした仲間たち
秘めたる資質や人間性も持ち合わせていたのだろう
チャンスもあったのだろうが、人柄を求められたのだと言えようか

人生は筋書きのないドラマだと言う(人がある)
だが決してそうではなく成るべきように完成されて行くのだ

かつて破竹の勢いで進む彼らを見てそう思ったことがある
身分相応にステージを降りることも大事だと(誰にも言わなかったけど)
そう考えた日々があったのだ

おゆうはんの時に「然るべきところに落ち着いたもんだ」とポツリという
「もっと出世すると期待したわ」と寂しそうにしていたが、まだ幕が下りたわけでもないのだから

* *


昨夜火事(二十六日)の報道がニュースで流れて、母と息子が行方不明で鎮火跡で二人の焼死が確認されたと伝えていた
名前は不明だが偶然にも中学時代の同級生に間違いないので、ここでも人生というものを考えることになる

。。。。。

仕事をしないで半年以上いると自責的回顧が紛れ込んでくる
もはや戻る席はないので昔の畑で仕事をする気力など不要だ
あっさりと忘れてしまえばいいのに
詰まらないことに思い耽る高齢爺いのドラマのようだと苦い顔をしている

。。。。。

第四コーナーまでは、肩書きだ、名誉だ、所得だと息巻いてきた
しかしこれからを生きて行く先ではそういったものよりも大切なものがあって
昔の栄光では胸は張れないんだから・・と自分を慰めて宥めている

一旦素っ裸になって出直そうというてはみたものの
やっぱし裸は寒い、というのが感想である

新しいステージ - 立冬篇 その二、 裏窓から

👻 イチョウ並木 昔の日記は仕舞い込む
👻 日めくりは寒い季節への招待状
👻 窓越しは木枯らし劇場特等席


10日は健ちゃんの誕生日でした
三歳になりましたと上手に指三本立てている

🍀

立冬が過ぎても当然ながら何も目新しいこともなかった
そんな日々が過ぎた

健ちゃんの誕生日が10日だ
ムスメさんもこの日から職場復帰
わたしは新しい仕事を探して面接に出かけたが❌

新しいステージの幕が開いた
鳴り物入りで開いたわけではないけれども
今年度はプー太郎

🍊

わたしの辞書からはすっかり『朝寝坊』という言葉は消えた
早く起きる必要性がなくなったのだから 「朝寝坊」はありえない[

むかし 「スズメはなぜ電線から落ちないか」という問答をした事がある

「落ちそうになったら飛べばいいから」と結論づけたのだが
その後も自問自答は続いていた

飛び続けるためには 体力が必要だ
いつかは着地点を見つけて身体を休めるために降りなくてはなるまい
着地点は安全なのか、襲撃を受けないか

🍊

では

飛ぶ鳥は大空を自由に飛び回れて幸せか
地上から見上げる小さな生き物は不幸せか

人生問答は たぶん しばらくつづく


深まる秋に思うこと - 立冬篇 裏窓から


さて、十一月七日 立冬である

いよいよ冬を迎えるにあたり何を考えていたのか
先日「漸く」という漢字を覚えた(笑)

学は漸(ぜん)を以て日に進むを貴ぶ。 天下の極遠なる、固より人跡の及ばざる所のもの有り。 然れども日日に力(つと)め行きて息(や)まざれば、則ち至らざる所無きなり。 学の源流は遠し。 苟くも下学(かがく)の功、日に進みて已まざること久しければ、則ち以て上達すべきなり。 (貝原益軒 慎思録)

  • 木枯らしや待ち遠しいのはただ一つ
  • 朝ぼらけきのうの焚き火の痕を見る
  • 一通の手紙届いて秋の暮れ
  • 呼び止めて振り向かないで夢の人
  • 北風やコートの裾のその奥へ
  • ふける夜魔法のように寝落ちして
  • 人生を語らずは本当に美学なのか
  • 陽だまりで燃え尽きる人生の焚き火する

🍀

文化の日も過ぎてまた普通の日々が戻って来た
寒波が来ているので覚悟をして朝を迎える
仕事を退いてからは朝寝坊をしているので朝の寒さはそれほど感じない

仕事に出掛けていれば
日に日にイチョウが色づくのやら職場に向かう人の上着が厚くなるのをみながら
冬の到来を肌に感じていたのだろう

十二月から三月まで少し仕事をしたいと思い募集に応募中であるが
願いが叶う可能性は低かろう、こんな爺さんに席を明け渡してはくれまい

僅かでありながらももしも職場に戻るならと想像をしてみながら
一年以上ご無沙汰をしている昔の部署を懐かしんでみている

🍀

サンマ7号を美味しく食べた
家でもらって来た生姜も漬けてみた

甘くて酸っぱい
子供のころにはこんなものは美味しいなどと思わなかったのに
我が家の畑からの里芋も茹でた

🍀

その二へつづく

 遺言も遺書もないと言うているが本当に何もないのか ー 霜降篇 裏窓から

10月23日金曜日 霜降

二十三日は雨の朝を迎えた
二、三日前よりもいくらか温かい
ピリッと冷え込んだ時にはすぐに冬用の布団や敷布、暖房器具の準備に慌てた

寒暖の差が体調を崩す原因になるろう
我が家族も風邪をひいたかもしれないと言うて憂鬱な様子で朝から寝込んでいる


遺言というものも遺書というものも似つかない
しかし無言で死んでしまうわけでもなかろう
「何か一言言いたかったのではないか」と誰かがぼそりと言うてくれたら
「そうよ本当は言いたいことはあったのや」と応じたいところだろう

– –

順番から考えれば、まず昭和六年生まれの母が死んでしまう
次は、長男である僕が死んで
その次は、二歳年下でうちの人の番であろう
さらに、そのあとに僕の弟となる

世間の前例を見ても絵に描いたようには進まない

母は長生きをすれば、息子たち二人のどちらかが先に逝くことがあるかもしれない
まあそんな誰かが流れを変えることが出るわけでもない話をとやかく考えても仕方あるまい

– –

さて遺言であるが、どこかにも書いたのだので重複するか、その時の話とは食い違うぞとなるのか、どちらかわからないが

子どもたち、孫たちが道を外さずに、立派にいきて行ってくれることを願いたい

この一言に尽きるのではないか
言わずと知れたことなのだろうが、自分でしっかりと物事を考えて見極めて行ける人になることが大切だ

残念ながら死んでゆく人は新しい時代を知ることができないのだから、今更何を言うつもりもない

とりわけ有名人でもないからその足跡が歴史に刻まれて後々に語り継がれることもなかろう

凡人には凡人の生き方があるのだ
道を逸らしてはいけない

**

十月中旬のころに考えていること 宅墓のこと - 裏窓から

新聞を読んでいて目に止まるのが 「宅墓」 のことであったりするこのごろである

写真は サンマ1号、サンマ2号、サンマ3号、サンマ4号です
最新版では増えました


宅墓という言葉が目に止まった
その名の通り、家にお墓をおくのだ

遺骨を庭など勝手な場所に埋葬をすることは法律で許されない
そこで、暮石だけを作って家の中に置こうというのだ

昨今は 先祖からのお寺の墓の維持、あとを継いだ人にかかる手間、寺に払う法事の費用やその他の費用、霊園であってもお墓の管理費用などで悩みが多い

掻い摘んで言えば、どこかの宗派に決めて信仰するのではなく、宗教から離れて自分の位牌(のようなもの)だけを残された人が見守レバいいのではないか、と考える人が増えている

お寺さんがビジネスモデルであるとすれば、宗教からの明確な離脱をするわけではなく、お寺の供養の体系が崩壊し始めていると言える

潜在的宗教意識があるので、墓や位牌、お骨というもの廃止する決心はつかない

お寺さんが何をしてくれるのか、葬式はなんのためにあるのか、といったいかにも現代的合理的な着想から、いわゆる無駄を省いてゆく動きが出て、行き着くところは「宅墓」となってゆくのだろう

200万円もの暮石を作り、霊園を100万ほどの維持費で借り、年間管理費までも払って墓をお守りするような人は減っている

宅墓を作る費用が 10万円以下となれば、社会の風習や仕組みも変化してゆくのは必然かもしれない

* * *

仕事がなく暇である

身辺の整理には十分に時間をかける余裕があり
実際に遺言に書くことなど何もなかったことに気づき
資産も無一文であることを再確認できた

あとは
葬式の見積もりを取って
宅墓を作って床の間におけば準備完了である

エンディングノートに何を書くのか ー 寒露篇 裏窓から

十月八日 寒露
ひんやりとした朝になった
台風14号が接近しているからだろう
➡️ 十月上旬号 台風14号 その後さらに接近中


エンディングノートという冊子を市民向けに市役所が配布しているそうだ

そのことをニュースで知りそろそろ何かを書き残して行く準備をしなくてはならないかと考えた

どんなことを書くのか
あれやこれやと考えているとまだ簡単に死んでしまうわけにもいかない


手帳にメモを書いたので書く写すことにした

言い遺すこと言葉などない

ムスメには結婚のときに「なかよく」と書いたがそれですべてである

これに言葉を足すこともなければ不足もない

「人生は糾える縄のごとし」

まさにこの言葉の通りであり、日々縄たどるように生きているのだ

人と接する縺れ具合を確かめつつ、解くも固く結ぶも自らの意思と行いに左右されるだろう

運もあろうが縄を手繰るのも綯うもの自分である

縄とて元々は稲藁であり、所詮その程度のもの

考える葦と人間のことをパンセがいったが、縄にもその何かが似たような点が通じる気がする

控えめなスタンスでいること、踏み出すときには自信を持って確実に踏み出すこと、着地点をしっかり見ながら歩むこと、が大切だ

私が書いた「なかよく」という言葉は、何かの思考に役立つものではない、しかしながら必要不可欠な条件であることはわかろう

どんなときでも柔軟で大局的な視点を持ち瞬時には自信を持って手が打てるための条件として、なかよく誰とでも協調している自分の姿こそが武術でいう「正眼の構え」のようなものだ

したがって、遺す言葉などなく特になく、次の世代の人に伝えたかったものは一つの姿勢のようなものであったことをじっくりと考えて欲しい

時代は何百年も昔の歴史時代から昭和(戦後)へと大きく一気に変化した

それと同じくらい激しく令和へと変化をしようとしている

古い水夫は新しい海に出る船を操ろうとはしない、海とはどんなものなのかを伝えるだけにとどめたい


そんなことを書き留めたのだが、実に面白くない
これでは誰も読まん



エンディングノートには

第一章 伝記篇
第二章 遺言篇
第三章 語録
第四章 雑記

など分けて考えて見たいと思っている

この上段に書いたのは「遺言篇」に当たるところの草稿のようなものと言えるか

生きているのだから日々ころころと変わって(進化して)良いのではないか

十月のはじめに考える

十月一日は中秋の名月

満月のつぶやきがざわつくので月三十日が満月なのかと思ったら十月一日が中秋の名月なのだという、満月は二日の早朝の日出時刻のあたりらしい

縋り付くものが少ないためか余計に二十四節気や歳時記などに心の拠り所を求めようと酢のだろう
ほっと安らぐひとときが欲しいのだであろう、ため息を言葉にして代弁してくれる緊張の解放感に惹きつけられている人が目立つ

ひところよりさらに多くの人がそういったつぶやきの中でほっこりとさせられている

これは今というひとつの時代の潮流のなかにストレスが姿を変えて淀んでいるのを撹拌して浄化して排出しているモデルのようでもある

悪言をつけば、歳時記を片手に猫も杓子も俳句・短歌を楽しみ二十四節気の情景や名月を飾りにして安らぎを求めて自己陶酔に浸っている

私も紛れもなくそのひとりであるのかもしれない

どこまであの満月のホンモノの魔力を体感できているのか

たぶん私には人並みほどにも風流などわかっていないだろう

まあそれでもいいじゃないか

やれやれと夏がおわっていく



遺言状

向田邦子さんが「父の詫び状」というエッセイを書いたのは「遺言状」のつもりであったと別のエッセイで読んだ

だからそれに触発されたのかどうかは曖昧な記憶だが、読んだ時期のころに私も「遺言状」のようなものを残せないかと考え、真似をして書き出したのが「秘伝」のブログである

だがしかし、そんなものは作家でもないのだから思うようには行くわけもなくあのザマで纏まりもないものになっている

思いつく儘に書いてゆき無闇矢鱈に長くなってしまって纏まらず、無駄なものも多くありながらその無駄を削り落とせずに困り果てているい

しかし、伝えたいことを簡潔に、読み手にストレートに伝えるのは到底無理である

「塵埃秘帖」「裏窓から」(ココログ)のシリーズだけでも長い、しかし、これも私にしたら一種の遺言状のつもりで

つまり今になって遺言状を編纂するには資料の整理能力においても不足しており、遺言状として取り止めがつかないのだった

というわけで、読んでくれる人任せということになる

九月のはじめに - 幸福への道のり 白露篇 裏窓から

白露を迎える

容赦なく大きな嵐が近づいてくる九月のはじまりとなった
台風9号10号が発生している
九州地方の西の海上をゆっくりと北上してゆく

今年の夏は、「命に危険を及ぼす猛暑」という警報が出るようになった
天気予報や警報を出す傍らで生命の心配をする時代となった
「果たして」「そもそも」で始まる疑問をこれまでにも投げ続けてきた
だが「警報」の表現について考察したことはなかったかもしれない

太陽の立場から言えば
歴史的太古から何ら変化なく着々と地面を照らし続けている
放出するエネルギーが増加したわけでもない
太陽系の中での物理現象を乱すことが発生したわけでもない

したがって
受け取る側が何か失敗をするか不手際をして
想定外の発熱が発生しているのではないか
ということになる
まさにその通りだ

そこでよく考えると
人類は便利なものをいくつも発明すると同時に
必ずマイナスな物をおまけに産んでおきながら目をつむってきたのだ

核爆弾や原子力発電が最たるもので
他にも自動車は便利で快適であるが排気ガスは有害である

電気エネルギーは優れた発明であるものの
今ほどに地球温暖化を招くようになっては昔に戻らねばならない
都市開発についても集中豪雨に災害が付き物になって来ては
都市設計の原点に戻る必要があろう
地球温暖化だけでもないのだ



台風10号は七日のお昼の間に九州の西地域を北へと駆け抜けた

夏が来たら
この思いがけない長期の休養時間に人生を振り返ってみよう
と考えていたのだが
一向にまとまらないままで七月になり
八月が終わって九月を迎えてゆく


先日、久しぶりに歯の治療で稲森先生に会い
挨拶しながら
「お父さんに似てきたなあ」
と言われた

顔はそれほど似ていないと家族が言うので
おそらく後ろ姿を見て先生は言うてくださったのだろう

六十六歳で逝った父にあと三年余りと迫る私である
大勢の人に「父に似ている」と言われることを振り返りながら
私のようにその頃の日々を暮らしていたわけでもなかっただろう父には
人生に悔いはなかったのだろうかと
今更となっては問うてみることもできない不要なことを想像をしてしまうのであった


あと三年生きたら祖父や父親と同じステージに立てる
その先祖の人たちのためにもまだもう少し生き永らえなくてはならない

後世の人に幸福の道程の案内を残さねばならない

八月下旬に考えていたこと ー 処暑篇 裏窓から

八月二十三日
処暑

暑かった夏も少し和らぎ、朝夕には涼しい風が吹くと言う
秋の実りが始まるのもこのころとしている

稲刈りはお盆が明けて間も無く始まった

夜中の冷房は悩むことなく毎夜入れっ放しにしている



庭にプールを設営し水遊びをする光景は おそらく五十年も昔から変わらないものであろうし これからも受け継がれてゆくのだろう

空気を入れて膨らませるプールが登場したのはおよそ五十年ほど昔にことで それまでは家の軒先を流れる川を堰き止めて水遊びをするか 川まで行き魚捕りをするついでに腰まで浸かって水遊びをする程度だった

大きな川まで出かければ飛び込めるような淵があるので 高学年になってくると深みのある川まで出かけて遊泳をした

十年ほど周期はあっという間に過ぎてしまい 昭和四十年から五十年にかけて学校にプールができ始めるので 川の遊泳場は次々と姿を消してゆく


*加筆中

暦の秋を迎えて考える - 立秋篇 裏窓から

立秋を迎えている
様々なことが脳裏に浮かんできては消えてゆく
それを掬い上げないでぼんやりとしているが
残り少ない時間のことを考えると呑気にしているわけにもいかない



前篇あたりでは最期の言葉について考えている
言葉などはそう簡単に残せない


向田邦子のエッセイ集を読んでいて机のことに触れていたので本を置いて自分の部屋の机のことを考えみた

子どものころは文机をもらったのを記憶する
家にあったものなのか私用に購入したのか

しかし、しばらくして小学生らしい椅子に腰掛けて座る勉強づくを買ってもらっているので最初の机は家の備え付けの机だったのかもしれない

今になって思うのはあの机が懐かしいということだ

正座でも胡座でも良いから畳に座布団を敷いて机に向かうとまとまらない頭の中のモヤモヤやなかなか浮かんでこないアイデアが次々と出てきそうな気がする

子どもたちのそんな話をしても時代錯誤と言われて相手にされないのであろう

座って机に向かい手の届くところに書類や道具がある方がいいに決まっていよう

私は今でも台所用のテーブルを部屋に持ち込んで使っている
理想的には六人がけほどの大きなテーブルが望ましい

書類を広げる他には必要な文房具と辞書程度しか置かない

テーブルの隣にはパソコンのデスクを置いている

*作成中

座右の銘を聞かれて思案に暮れる ー 大暑篇 裏窓から


一、

二十四節気ごとに暮らしの中から気づくことを掘り出し考察を交えて何かを書いている

メルマガの巻頭言を書いている時に始めたのである

しかし、仕事を辞めてからそういう考察にメスを入れられずに苦心している


二、

理由は単純明快である

日々の出来事には様々な分野のホットな話題があり、コロナ災禍により発生する数々の驚き、不都合、不満、不手際などにも常に問題意識を持って接してゆくところであろうが、仕事に就かない毎日では、暮らす場所が一種のアウェーであり外野、塀の外(檻の外)であるから、はっきり言って、もうどうでも良くなったのである


三、

第四コーナーを回ったら塀の外で悠々自適に暮らそうと考えていたのだから願いが叶ったのかもしれない

「必要とされる人物ではない」と環境分野からきっぱり縁を切られて、潔く塀の外に出て来た

「塀の外」は気楽でそこそこ楽しいのであるが、資金的な制約が大きい以外は、楽園である

「足を洗って」出直そうどころか、足を洗った後に靴も履かずに裸足でのんびりと沢遊びでもしていたいと思っている

「もう一旗揚げたいところだ」と密かに祈念したこともあったが、金もないが仕事もないのだから、開き直りの日々だ

「他力本願」で呑気な奴でござる、あたしは


四、

先日、就職の面接があって「座右の銘は?」と聞かれた

私の座右は「失意泰然」ですけどそれは他人にペラペラというものではないし、卒業記念の文鎮に学長の筆で「自琢」と彫ってるのをいうわけにもいかない

『切磋琢磨』ですと答えるのが精一杯だった

果たして本当の座右は何であろうか、と思案に暮れている

半夏生 蛸の気持ちを推し量る  小暑篇  裏窓から

(1日)
半夏生 蛸の気持ちを推し量る
ザーザーと降る雨愉し軒先で
夜明け前 前栽(せんざ)にあふれる鬼の雨


一、七月になりました

梅雨の合間に気温が上昇していよいよ夏の到来だと覚悟をした六月尽であった

過ぎて七月にはいり雨の日が続き少しひんやりとした朝を迎えられるのを歓びながら二、三日が過ぎようとしている

三ヶ月という十分な休息をもらい今月を迎え四ヶ月目に入る

まだまだこの先は未定であることには変わりなく希望のともしびさえ灯る気配はない

諦めて腰を据えて覚悟を決めているのが今の私の姿である


二、豪雨が襲っている

日本中を七夕前の豪雨は襲っている

九州地方、熊本県人吉市とその付近では何十人という多くの死者が出ている

球磨川が集中豪雨で氾濫したためで中流域から下流までの河川周辺では2メートル以上の浸水に遭っている地区も多い

異常気象に注目をする考えもあるが、ここまで自然災害に連続して見舞われてくると、そもそも論を言いたくなる

ニンゲンは自然に畏敬を持つべきものであろうが 科学や工学の進化で何もかもを手中にしたような感覚を持ってしまっているから

技術というもので川の流れを変え山を削り人の住む場所を自分たちの便利なように改悪し心地よさや便利さという麻薬に取り憑かれ幸せという幻の満足に胡座をかいて自然を破壊し環境を人工的なものにしてしまった

そのことを真っ先に反省して太古の昔の人々が神として心の中に棲まわせたようなものを復活させなければならないのではないか

最先端の科学技術がもたらすリアルタイムの河川映像カメラがことごとく豪雨で打ちのめされているのを見るとそう感じる

私だけだろうか

(続く)



三、火の車

貧乏の話をしよう

災害にも見舞われずとりあえず何もなく暮らしておれる幸せを振り返る

話は冒頭から続く

周囲の人にはそんな私でありながらも貧乏人には見えないのであろうか

顔を合わす人たちはそれぞれ「蓄えがあって悠々自適なのではないか」とあっさりとおっしゃる

「まあもうのんびりと暮らせばええですやんか」と助言してくださる折には反論も言い訳も説明もできないのだが

私の家計は火の車で今にも焼け落ちそうであるということはわかってほしい


四、貧乏暮らし

世間にお金持ちの人々は多いが私のように貧乏人も多い

貧乏というのは意識の問題もあって考察が難しいのだが少し考えてみると
客観的に相当貧しくても幸せに暮らしていると自分で納得している人やしようと努力をしている人がいる、一方で
どん底のほどでもない水準の貧乏でも貧乏意識を胸にしコツコツと努力をしている人もいる

当然ながらそれらの裏(反対)の人もいるわけで、人々の暮らしは様々な色合いを帯びている

我が家のように無収入で努力をしないパターンの暮らしをすると、下方向は見えないので上層で幸せに暮らしている人たちが羨ましい

誰もが幸せになりたいと願うから(人を)羨ましく思うのだが、羨ましがっても上昇する努力の足しにはならないので、そのレベルで(自分たちは)幸せだと思い込むしかない

現在の状況はそんな暮らしだ


五、小声でしか言えないが

ささやかに生きる、しかない

住民税の請求が届かないので如何かと役所に問い合わせたら、低所得すぎて免除(0円)になっていることが判明した


六、人間模様

七夕様の夜は雨降りでした

事業が災害で中断、あるいは廃業となる人々
家族を土砂崩れや水害で失った人々
家屋が災害で破滅的になった人たち

いろんな人がいます

コロナの騒ぎのおかげで、すうう百万円で買ってあった株が二千万円以上になった人の話
決して遠くの人の話ではなく、届いてくる

今さら、何を書くことがあろうか

健康で一日でも長く暮らすことのほか思い浮かぶことなど何もない

新型コロナに怯えて生きている 怯えねばならないほど大敵ではある 五月下旬号 号外 -  裏窓から

新型コロナに怯えて生きている
怯えねばならないほど大敵ではある

他にも怯えているものがあるのではないか


Ⅰ.心配

先日、眼が充血して医者に掛かった時に心配してくれる人から、緑内障、白内障、糖尿病、眼底検査、失明、という言葉が飛び込んでくる

身近な人が大腸癌の手術をした折も、あなたも大腸癌の検診を受けたほうがよろしいぞと忠告される

他に、前立腺癌を手術した人から、血液検査でPSA値を確認しておいたほうが良いと忠告を受けた

胃癌の検診は受けているかとか、甲状腺の病気にかかった人があるので、あなたも心配したほうがいいなどと、健康をお互いに気遣い合う会話が絶えない

半年ほど前にも、胸が苦しく不整脈っぽい症状があるとふだんの会話でポロリと呟くと、すかさず循環器内科にかかって24時間の心電図を計測してもらい診断を受け、悪ければハートセンターで手術をすれば五日以内で退院もできる、早期発見であれば安心だ、脈動が欠けた時に血管内の脂肪が剥がれて体内循環し脳梗塞などを引き起こす恐れがあるのだ、と熱くアドバイスを受けた


Ⅱ.長生きな時代

命は惜しいし、長生きはしたい

何かの病気で倒れて、後遺症で辛い予後を送るのは怖いし、そんな心配を日々しているのはしんどい

流行性(はやり)の風邪が蔓延して大勢がかかって倒れているらしい噂のような話を耳にして、自分も気をつけていればいい時代ではなくなった

恐ろしい感染症が発生したという正確な情報が手元に届き、その危険性も解明されてきちんと伝わってくる時代で、巻き込まれたら一溜まりもないこともきちんと理解できる

長生きをしたい人は、怯えながらも恐ろしい情報をしっかりと受け止めて、対応できるし、する時代だ


Ⅲ.むかし

・怖い疫病が流行っているので、それに罹ったら一溜まりもない
・これまで悪行三昧をした者はバチが当たる
・昔からの言い伝えや社会の慣習、掟を守らないと怖い疫病に襲われる
・心を清くして神に祈れば疫病は退散できる

そんな時代があって、その時代には保険もなければ薬もなかった
増して病気の招待やら治療方法などはあってないようなものであった

自分たち庶民は誰もがみんな災難に襲われることなく無理なく暮らして生き続けたいと願っている
病気、災難に遭いながらも、貧しいながらも、幸せに暮らしていた

そういった幸せという形のない漠然とした中で日々を送れることに感謝をし、神に祈り、バチが当たらないように自分自身にも自戒の念をを持っていた


Ⅳ.幸せな時代

当たり前のように十分な情報が、行政を通じて伝達され、誰一人として感染症に安易な形でやられてしまうことのないように、国民は守られている

解明できない難病は数多いものの、現代医学はかなりのレベルまで進化を遂げてきた
人の暮らしに安心を与え、幸せな社会づくりも実現できている

生き続けることから社会的な要素を排除し、自力で、自分の銭金で、自分で得た知識で、自粛の中をそろりそろりと歩いてゆく

迷信で麻薬のような不安定であったつい先ごろまでの暮らしのことを顧みることなく、何もなかったように「解除宣言」に万歳をしている

とはいうものの

実は、現代人はいわゆる病気というものに怯えているし、その度合いは歴史的に大きくなっているのではないか

悪いことをするとバチが当たり禍い(災い)に見舞われると
本当に信仰していた時代と、現代と、どっちの時代が幸せであるのか

ふとそんなことを思った

慎ましやかに暮らそう 小満篇 裏窓から

五月中旬から下旬へと移る、20日は小満だ

さきほどブログを書きながら
◀️ 不要不急について考える _ 5月20日号 小満号

思いつくことといえば コロナで社会全体が騒々しくなっている一方で 自粛という制約を受けて静まっている

その制限も少しずつ緩和されつつあり 中旬から下旬にかけて各種の店舗が営業を再開し始めている

みんな恐る恐るである

私の方は フルタイムの仕事もなかなか見つからずパートタイムでも探して見るものの 採用してくれるようなところもなく 諦めて家に篭っている

みんな健康で元気に暮らしていれば幸せだと言うて感謝をするのだが
果たしてそれは本心なのか

ひと昔、ふた昔前ならば 六十歳で定年を迎え 完全に仕事から引退をしている人は自然な姿であったが

時代は長生きの時代になり 定年が延長されたり 継続雇用が常識化してきているので 再就職せずに自宅にいる姿は珍しくなっている

働ける年齢であり 仕事をするべきであるという社会の流れの中で 無収入でじっとしているのは 姿勢として不安定な時代である

収入がないので暮らしは苦しい
昔ならば苦しい暮らしであればそれなりに慎ましやかに生きる方法を考えたのだが

現代は豊かに暮らして当たり前の時代になっており 慎ましい暮らしを「善」する人はほとんどいない

健康であること 医者にもかからず毎日を送れることが 大きな夢であった時代ではなくなったのである

小満を迎えている

19日から学校が再開したところもあり 社会は普通の姿に戻りつつある

立夏が過ぎて  立夏篇その2 裏窓から

⏪ 五月になったので 気分も新たである 月のはじめに考える - 五月
◀️ 胸の前で腕組みをして考える ─ 立夏篇  裏窓から
🔗 GW終了 年前同月比を漠然と考える


一、立夏が過ぎて

母とそんな話をして短い時間を過ごして

帰って
もらってきた筍ご飯を炊いてもらって
ふだんには食べないのであるが、ご飯を(お米を)食べてお夕飯とした


二、コロナ禍で世間が騒がしい

テレビにニュースもざわざわしている
あらゆる人たちがイライラしていたり
自分の行動のゆくえを見失っているようにも思える

そんなことで迷うなんて ニンゲンとして 未熟ではないか
と思っている

そんなことをいつどんな時でも乗り越えていくのがヒトの知恵であり器量ではないか
知力や機知だけは不十分で

人間にはもっと幅広く奥深い要求が向けられていて
それをさりげなくかわしながら前に進む能力があって
その能力こそが本当の強さであり賢さであるのだろう


三、コロナにもしも罹患したら

長生きできるとは限らない

早くして死んでしまう条件の方が整っている

そんなことを考えると 夢に出るわけでもないが
眠れぬ・・というか白み始めた朝の寝床の中で
二度寝なんか思考なのか鮮明にならない時間が流れる


四、遺言などない

そんなものはない
特に強い意欲に燃えたものを抱いてきたわけでもない

これからの時代を生きていくのはこれからのヒトの使命であり
私がとやかく口出しをすることではない

少し前に - 子どもが結婚する頃には
何かひとこと伝えたいようなことがたくさんあって
書き残すというようなことを思いついていた

自分の生きてきた道も記述して残そうと考えたこともあったものの

そういう気力は失くなったし
必要性もないと判断した

命が絶えればその時に消滅してよいと
そこまでハッキリとは思わないが
それも仕方がないと考えている

したがって、遺言はないのだ


五、しかし、無言で逝くのは辛い

コロナに罹って拘束されたまま逝くのは辛いかも知れない

そう考えるので
おかしな夢のような幻想を持つのだ

もしもコロナに罹ったら
隔離されて
喋る相手もなく
喋る力も病魔におかされて失い

そのまま死んでしまうのはやはり避けたい

確かに交通事故のようなものに遭い
一瞬にして脳死にひきづり込まれるのも嫌だが

ヒトは 勝手なものである

なるようになるか
と考えて暢気にに暮らすのも
一つの人生のスタイルかも知れない

胸の前で腕組みをして考える ─ 立夏篇  裏窓から


一、五月が始まる

動き出すものがいくつもある
夏という季節もその一つで、茶摘みが始まり、日差しが厳しくなり温度計も急上昇する

子どものころには麦畑が多かったので、この季節は青々とした麦穂が風に揺れていた

今は時代が変化して麦を見かけるのは少なくなって、この季節にはおおよその水田では田植えを終えている

コロナ禍であっても田植えの姿に変わりはなかった

五月五日は立夏である

母を訪ねて家に行ったら田植えは完了したと話してくれた
農家の長男であるが、不出来な奴である

タケノコとスナップエンドウをもらって帰ってきた


二、コロナで突然死

コロナをもらったら間違いなく死んでしまう
そんな話をしてきた

死ぬのは怖くない
もう九十歳になろうとしているのやから、惜しいものもない
残すものもない
悔やむこともない

そんなことを繰り返しながらも
生きていたいと思っているのだろう

生きるというよりも
毎日を苦もなく送るのが日常で
昔のように次々とは歓びがくるわけではないものの
暮らしの中に昨日とは違った新しい変化があり
それは進化であって
ヒトがもたらすものであり
孫によるものであったりする

過去のことも振り返りながらも
過ぎたことは悔やんでも仕方がないという感覚なのか
話をしてくれる苦渋に満ちた話であっても
表面的には激しく悲しんだり悔やんだりしていないようで

今日明日をどうやって生き延びようかと考えるような毎日であるものの
日々を、日めくりを繰るように生きている


三、コロナで中断は悔しい

それだけに
コロナで中断するのは惜しいと思うわけで

誰にも会わず
特に用事がなければ出かけず
無理もせず
怒りもせず
後悔もせず
欲もなく
ヒトの言うことに耳を傾け

淡々と生きていくのが
何よりもの得策で
幸せである

言葉にして説教をするわけでもないが
そんな話をのらりくらりとして帰ってくる


四、遺言は喋り終わったか

父が亡くなって23回忌を年度の末にして
ゆっくりと家族で旅をしようとしていたが
四月に予約していた宿をコロナ騒ぎでキャンセルして
どうやらここで打つ手が失くなったと
そんな感覚でいるのだろう

父の死後23年の間に遺言にできることは全て話した
聞いた方がしっかり聞いていなかったことも多かろうが
気は済んだと思う

死ぬときは
一週間ほど床に伏し
訪ねてくれる人に惜しまれて
挨拶をしながら死にたいという

もしも叶わなかっても
おそらく悔いはないだろうけど

禍福は糾える縄の如し ─  清明篇 2 裏窓から

いつのころからか二十四節気ごとにその時々の想いを振り返るようになった
季節が移ろうリズムと自分の生きる足なみとがうまく噛み合うのかもしれない

しかし 二つのものは並んで対座していてはいけないのではないかとも思う

お互いに同じ方角に向かって歩む者どおしが 並んでしまっては 自分の位置を失いかねない

時に応じて
絡むとか縺れるとか
交わるとか結ぼるとか
衝突をして弾け合うとか

平行線というのは とても安定しているのだが
お互いが近づくことがない

交わらないのであるから結ぼることもない
影響も受けない

禍福は糾える縄の如し

この言葉を知ったのは 宮本輝の小説の中でのことである
かけがえのない言葉で 私の人生訓の一つになっている

この言葉が突き進む目標を引き出してくれるというモノではないものの
自分を静かに見つめ等とする姿勢を決める時に なくてはならない言葉になった

そうじ(送辞)ととうじ(答辞) 三月上旬号 ─ 啓蟄篇 (裏窓から)

新型コロナが流行して少し学校も街もドタバタ・あたふたしている
卒業式も縮小になり、受験生を持つ先生は土日も学校へという便りも届く

上級生と下級生のふれあいが日常の中から薄れていっているかもというご時世に卒号式が縮小されれば送辞はなくなったのだろうか

誰しも経験がある低学年時代の心細さをへて小学校時代は六年間という学校で暮らす期間としては一番長い年月を過ごす
その卒業式で読まれる答辞のことがラジオで話題になっていたのでふと思いついたことがあった

答辞なんて面倒臭い儀式であると考えていたなあと懐かしく思いながら本当に心を込めて「答辞」を考えるのは卒業してから十年も二十年も過ぎてから、いや四十年以上すぎて初めてその「辞」をじっくり考えている人も多いのではなかろうか

弱々しくて自信のなかった新人時代に暖かい手や視線を差し伸べられたことはかけがえないことだったと感謝の念が湧いてくるのは、過去を有終の美学として振り返ってしまう世代になってからかもしれない

送辞を読む当人には物語のプロローグも何もわからない
だが、儀式というなかれとも思うのだ

苦節の年月を経て迎える春のこの時期に考える送辞である
送り出す人の心を忘れることなく新しい年度に挑みたいと思う

所詮 儀式なのだよ と言ってしまえばおしまいである

心は言葉に
言葉は態度に
態度は熱意に

考えてみれば
卒業式ってもう半世紀も昔になるのやねえ

もはや送辞か弔辞か、そんなものを受ける立場が近づく身になってしまったが、もうひと頑張りしたいねえ

二月の下旬の落書きに
「自分の人生の大きな方向転換はこれまでに何度もやってきたが もう一度最後に一発決めてみたいような気がします」
というように書いたのだが、これが結構みんなにウケたみたいだ

頑張れということであろう

さて、五日は啓蟄でした

悠人が生まれて四年の歳月が過ぎるのだ
考えてみれば 閏の日に生まれる予定だったのがジリジリと延びたのだった

ラッキな子だ
誕生日はうるう年だというだけで覚えてもらいやすい

子どもはこうして日々すくすくと大きくなってゆく
私は着々と年を食うわけだ

来年度の仕事先が決まらないまま三月上旬を迎えている

長い年月を経てこんな時に取る態度や構え方が
だんだんと ふてぶてしく図々しくなってきている

 素直におめでとうと伝えたい ─ 天皇誕生日号


天皇陛下が六十歳だ
僕より二歳若い

誰であっても誕生日は素直におめでとうと申し上げたい
しかも六十歳である
この感慨深い意味をわかる人になりたいし
わかってやれるような広い心の持ち主になりたい


 

*つづく

節分 立春篇

節分も立春も過ぎてしもうた

朝刊の折々の言葉はデカルトだ
『一生に一度は、すべてを根こそぎくつがえし、最初の土台から新たにはじめなくてはならない』

誰にでも必ずと言っていいほどこの言葉には思い当たるものがあるのではないか

 

 

「人生」という言葉で日記のブログを検索する ─  大晦日号 【裏窓から】

愈愈令和元年が終わってゆきます


▼ 私はどちらの方向に向かって何をするために歩いてゆくのか

朝日が大晦日の社説で問いかけた命題の言葉をちょっとパクってきてここに書き写してみた

人それぞれが持つ生き様は千差万別でそこに掲げる目標も残される結果にも何一つ同じものはない

私には私の人生がありそれを一歩たりとも戻ることさえできずにここまで歩んできたしこれからも同じように歩むことになる

にもかかわらず多くの人が人生の終盤を迎えようとするときをそれぞれに察知して過去を振り返り未来を夢に描いて立ち止まって考えようとする

私は第四コーナーと呼んでみた


▼ 「人生」という言葉で日記のブログを検索する

思わぬほどの数のフレーズが検索にヒットしてきたので驚いている

普段からその言葉を使ってことあるごとに足跡を振り返り夢を見続けてきた証なのだろう

今年の大晦日が特別なものではないが然し乍らそれは特別の集合体の一部分であるのだとも言える

つまり 特別なのか特別でないのかを決めるものはまったく別のステージ(次元)にあるのだ

 

 

自伝のススメ ─ 小雪篇 (裏窓から)

小雪

自伝のススメ

のようなことを考えている

他人(ひと)に薦めるようであり
自分のためにまとめている節もあり

そんなことを思いつくまま書いてみた(初版)


  • 何を書くのか考える
  • 人に読まれなくてもOK
  • 伝えることを書く
  • 百年後に面白いもの
  • 隠れた思い出でも良い
  • 当たり前のことはさらり
  • 未完成で良い
  • 言いたいことから書く
  • 思いつくことを五つ挙げよ

 

  • 長編は読みにくい
  • そもそも誰も読まないと思え
  • 私などには興味はない
  • タイトルを重視しよう
  • 作品名を考える

 

  • 出来事をピックアップしてみる
  • 事件があればいくつか挙げる
  • 発言を掘り起こしてまとめる
  • 意見をまとめる
  • 座右の銘を書いておく

 

  • 人生の節を考えてみる
  • 節を四つ想定する
  • 人生は起承転結
  • 成功物語でなくても良い

 

  • 出会った人を五人あげてみる
  • 思い出の人を五名あげてみる
  • 男子五名、女子五名、先輩三名

 

  • 出版のことは別ステージ

文化の日 〜 立冬篇

立冬(八日)

冬が来る
歴史を辿るとそれは辛い季節の到来であった
同時に農家にとっては勢いを緩めて繁忙期に備える引きの季節でもあった

コタツを出したいと思うが 片付けのことや掃除のことを考えるとなるべく使いたくないらしく
我が家では こたつの代わりに電気座布団を敷いてコタツ布団をかぶって今で夜を過ごす

食事が終わってバラエティのテレビ番組をみたりしているが 面白くないので眠ってしまう
これがどうやら身体の部分の贅肉を増やしているらしい

じりじりと2キロほど体重増加をしたようだ
食べる量は変わらないように心得ているし
ウォーキングは数字で管理をしているので揺るぐことはない

人体というのは面白い反応を示してくれるようで
うたた寝とほろ酔いというのは 確実に効果があると確信してよかろう

さて
どうしたものでしょうか

つづきは後ほど


最近の朝夕手帖から

1 人生の筋書き

「人生に筋書きはない」というところにドラマとしての素晴らしさがあるというが、しかしながら、筋書きはあるのではないか、 むしろ筋書きがあった方が面白いわけで、筋書きを一時的に空白とし、カデンツァのようなものを演じてゆくのが面白い

2 身の丈

「身の丈に」という言葉でニュースが騒々しい
いかにも今の世の中の軽はずみな連中が足場の弱いところを狙って屋台骨を揺らそうとしている指摘だ
滑稽な風景であり茶番劇である

「身の丈」という言葉は本来はとてもうち気品があり控えめを表現するのに適していて
美しい言葉だと思うのだが、すっかり悪い印象で利用された

狙われた人は迂闊だったのだと認めざるを得ない点ががあるものの
攻めた方は、気品のある言葉表現を下品に使ってしまい
味を台無しにしてしまっただけではなく
放言してその後には何の成長も進化も残渣さず、改革も提案せず終いだ
自己満足の淵にいるだけで、また一つ化けの皮を剥がしてしまった感がある

誰もが自由に罵詈雑言、悪言正論を投げ出せる時代だ
それだけに、「自由に」という意味を間違って解釈したままで好き放題を発言するのでは、無力・無知をさらけ出すだけだ

身の丈を知った上でオピニオン・論理を投げてほしい

コメント

思いやりのない人生を送ってきてしまったなあと ふと思うのであった ─ 秋分篇 裏窓から

思いやりのない人生を送ってきたとこれまでの足跡を辿りながら反省をするとあれこれと思い浮かぶことが脳裡に突き刺さるように襲ってくる

後ろめたいことがあるわけではないもののまだまだ頑張り足りなかった後悔のようなものを胸に抱いているだけに申し訳の立たずにいて且つ人に言い訳もできない私がいるのだ

日常の常識的なこともおざなりにしてあらゆるものを自分の勝手な視線から正当化してきながら或るときは言い訳もしながら都合良く生きてきたのだから胸に手を当てると辛いものが止め処なく襲いかかる

すぐに記憶に蘇ることが幾つかある

  1. 親友の奥さんが亡くなったとき
  2. 父が定年で退職したとき
  3. ムスメが就職試験に受かったとき
  4. 初任給をもらったときに誰にも(って常識的には最低でも両親に)お礼も言わず感謝の意も伝えなかったこと

これまでに何度も書いてきたので「またかよ」と思わないでほしい
こういうことは何度反省しても尽きることがないのだ
くどい話だが少し書くことにしよう


  • 親友の奥さんの話である

まだ十年しか経っていないのだと改めて驚く
息子が二人いたのだがまだ二十歳前だったことになる
なんとも罰当たりなことに そのころは
嫁さんを亡くしたことそのものを悲しむばかりで
子どもたちの未来のことなどにはじっくりと考えも及ばずだった

あのときのぼくにはその周囲の人たちの幸せや
これからの様々なことを心配するような器量がなかった
独りよがりであったわけだろうし
自分が生きるのが精一杯であった

ゆとりがなかったといえば許しを乞うようであるが
人生自分の気づいた幸運でここまで来たんだ
・・・みたいな心が奥深くに潜んでいたのかもしれない

思い出すだけで恥ずかしいし
彼には申し訳ない気持ちでいっぱいだ
ぼくの二十歳のころの掛け替えのない友達なのだから


  • 父が定年で退職したとき

どれだけ苦労をして
ときには心配をして
遠く離れたところから
ひとときたりとも忘れることなく
見つめていた人があったことを

いとも簡単に忘れたかのように
人生の最大で最高の一瞬のときに
全く何もせずに過ごしてしまって
六年後に死んでしまってもなお
そのことに気づかずにいたことが

言葉には今さらできないだろうという後悔と
恥ずかしさである

きっとあの世で
子どもとは「そんなもんや」と言うておろうなあ


  • ムスメが就職試験に受かったとき

多分 二十歳から六十までの人生の中で
辛抱をしてお酒を断つなどいうことをやろうとしたのは
子どもが就職試験を受けて合否を受け取るまでの短い時間だけであっただろう

べつに
オメデトウと言ったわけでもなかったと思うが
家族で歓びあったことは確かだ

しかし
何かもっと頑張って祝福もできたであろうと
少しシマッタなと思っている


  • 初任給をもらったときに誰にもお礼も言わず感謝の意も伝えなかったこと

このことも自省の念で心の中に痼ができているのです

初任給をもらったら素直に喜んで飛び回って感謝するべき人にその意を伝えるのがヒトとしての常識であろうにぼくは当たり前のような顔を押していたのか成るようにしてなったからだというような顔をしていたのか

ムスメが生まれたときに病院でどなたかに「二人目のお子さんですか」と聞かれたくらい太々しく憎たらしいのだろう

そんなニンゲンであったのは死ぬまで治らないのだろうから死ぬときにみなさんに恩を受けたお礼を伝えるかあの世で先人に挨拶をして回るかしかなかろう


つまりは

自分のことをうまくやることだけで精一杯に生きてきたわけで
周囲のみなさんのご恩に応えるべきことを
ほとんど欠いてきたわけです

 


続きは時間のあるときに改訂します

新しいものと古いもの - 白露篇 【裏窓から】

九月八日 白露


「そんな古いことを」と投げかけて来る言葉に果たして「古い」といっていいのだろうかと疑問を抱き続けている

若者が-私の子どもがこの言葉を使って私に自分の考えを話してくれる時にずっと疑問は消えないままだ

しかし 反論をするなどの応酬はしておらず「古い」と断定できかねるのではないかと一言提案をしている

結論が欲しいわけではないから急いだ議論をするつもりはなく、視点と論点と論理をゆっくり考えたいのである


お父さんの何を「古い」と言ったのか

今すぐには思い出せないのだが、探せば日常茶飯事にありますよ たぶん


そんなことを考えているときに「雑巾掛け」というものをふと思い出した

今では死語になっている作業なのかもしれないが、人の心の置き方というものを考えるときには欠かせない業であろう

言うなれば、雑巾をかけてそこを綺麗にするというだけのことであるが、その裏には礼節に及ぶ心構えがあり、人の感謝の精神も隠れている(といえば強引か)

掃除機や洗浄剤が一般化している時代であるし、作業の分担化・分業化が進み、お掃除を業務として受け持つ人々もある

合理性やコストダウン、安全性などを考慮すれば、掃除をしている暇があったら仕事を(あるいは勉強を)しなさいということになる

掃除というものも古くさい苦行なのかもしれない

本当にこれを「古い」ものとして置き去ってしまっていいのだろうか、これは一例であるが


なあ 父よ わたしがこのように困窮している時に あなたならどうしたのでしょう - 広島原爆の日のころに考えていたこと

なあ 父よ
わたしがこのように困窮している時に
あなたならどうしたのでしょう

そう問いたくなったのだが
しかし答えはそれほど難問ではなかった

多分何もしなかったのではなかろうか とわたしは想像したのであった

言うてもあかん
泣いてもあかん
怒ってもあかん
それなら黙って待つしかない

と判断して
そうしたのではなかろうか


意地は強く持たず 必要以上に押し通さない
意見も強く主張しない
心の中に強いものを秘めておく

それでいいのかと考える続け
自問自答が続く中から
明かりが差すように答えが見えてくるのだ

それはそれでいつか実を結ぶチャンスに恵まれる
と考えていたかもしれない

チャンスに恵まれるのは
自分のささやかな努力であり
待ちの姿勢であり
忍耐である

待てば海路の日和あり

そのように言葉にして感じていたのかどうかは推測の域であるが
日頃からの自分の姿勢や態度、行いが迎え入れる自らの幸運を招くのだ
と考えて、慌てずに考えて戦略を打つ時期まで待つ人であったかも知れない

貴重な姿勢だ


そういうわけで
私が舞い込んだ迷路において
困窮に陥ってしまったとしても

それは日頃の自分の生き様の写しなのだと忠言されたような気持ちになっている

あの人の最期の言葉 土用の丑 号 - 裏窓から(号外)

父の居場所
いつも現代農業を読んでいた。寝床に入ると勉強をしていたのだろう。どのようにしたら、この限られた田畑から少しでもたくさんお米が獲れるのだろうか、そのためにはどうすればいいだろう、おいしい米はどうしたらできるのか、と考え続けていた人だった


そんなふうに始まっている日記(2014年4月16日)をふと読み返して父の「最期の言葉」を思い浮かべた

「なあ ビール飲みたいなあ」だったか。床に伏している父がそういうようなことを言うので飲ませてやったのだと母が話してくれたのを覚えている。脳梗塞で倒れて元気も失い床に伏したままだったのだ

まさか、そんなにすぐには死ぬとは思ってもいない人が多いという。すぐあとではなく、何日かあとを覚悟をする人は多いが、たった今と覚悟をして待つ人は少ないという。それだけに電話で私を呼びたしたりもしてこない

慌てふためいてあたふたしたり、身近な人たちに電話連絡をする余裕の時間というものは、もしものときでも多かれ少なかれあるだろうという潜在意識を持ってしまっている人が多いのだろう。誰もが「まさか・・」と思っているのだ

ぼくのおとやんが死ぬときはあっという間で連絡が届いたのは死んでしまってからだった


おとやんは ほんまにビールが飲みたかったんやろか

あとで冷静に考えてそう思う。ビールはときに好物ではなかったし、普段からも飲みたがらなかった。まして逝ってしまう大寒のころにビールを欲しがるなんて、喉が乾くわけでもないし、いったい、何を思っていたのだろうか

夢を見ていたのだろうか、意識が朦朧としていたのだろうか。度重なる脳梗塞で倒れてのち幾日もの歳月が過ぎて、いつの頃から生きている時空と死んでいる時空の狭間を彷徨っていたのではなかろうか

好きでもないビールを飲みたいというのだ。そこには深い理由があったのではないか。いいや、なんの理由もないのだろうか

大勢の人が集まり歓談をして話が盛り上がっているところへ彷徨い戻っていたのだろうか

脳みその細胞は日に日に、時々刻々と壊れて失われてゆくときに、残された一欠片の脳みそが人生の最高の瞬間を蘇らせていたのだろうか

母が飲ませてやろうとしたビールは、ほんの少し口に含んで飲んだという。すでに胃潰瘍に激しく侵されていた胃の中へと流れ込んでいったのだろう

亡くなったのはビールが欲しいと言った直後ではなかったと思う。正確には最期の言葉ではなかったのかもしれないが、意識は、記録に残るほど回復をしないまま心臓が止まる時刻を待った

時間は後ろからは遡れない

冷たくなってゆく身体に添い寝いていた母が気付いたとき、冷たくなっていくわ……という意識が身体中に沁み広がっていくようで、すっと死んでいってしまった、と母は回想している



ビールの泡をふとゆっくり見つめる瞬間に、おとやんはほんまにビールが飲みたかったんやろか と思った

いつかは二人でふっくり酒でも飲みたいな と思ったことを一度も叶えることもなく 何を思いながら最期の言葉のあとにビールを飲んだのだろうか

夏の土用を迎えている(20日から) 大暑篇 - 裏窓から

夏の土用を迎えている(20日から)

ウナギは食べに行けない
スーパーをぶらりとすれば旨そうなものに足が止まる

ID検索によると宮崎県で育った黒毛和牛だ

塩胡椒を振って焼くだけ

気をつけること?
焼く前に部屋の戻して一時間ほど冷蔵庫の温度を取り去ってやることでしょうか

美味しくいただく
一人当たり100グラムほどの贅沢であった



さて その大暑であるが
やれやれ梅雨が明けそうだという気配が見えてきた

林真理子さんが朝日新聞で面白いことを発言している


 ――最近の男性についてはどう思われますか。

「近所で犬を散歩させていると毎朝、若い男性がチェーン店で牛丼を食べている姿を見ます。おなかがすいて食べている風でも、おいしそうに食べている風でもない。つまらなそうで生気がない。私の印象に過ぎませんが、こうした覇気がない男性の姿ばかり見るようになり、この国は大丈夫かな、と思っています」

「一方で、すごいエネルギーを放つ中高年男性がいると、若い男性がそういうカリスマ的な男性を信奉していたりするんですよ。恋愛だって中高年が謳歌(おうか)しているばかりで、若い男性の童貞率はすごく高いじゃないですか」

――なぜでしょう。

「人間関係や恋愛に臆病になったことの理由の一つに、本を読まなくなったことがあると思います。恋愛を知り、憧れを募らせるとか、世の中にはさまざまな人間がいて、いろいろな考えがあることを知るのは、読書から学ぶ経験が大きいと思うんです。私は書店の家に生まれ育ち、本を読み人生を学んで作家になりました。でも今日も電車で本を読んでいたら、『その物体なに?』みたいな視線を浴びせてくる人がいました」

――本を読まないから、人との距離感が変わってきたと。

「『誰かを知る』ということの意味が変わったように思います。相手の話を聞いて少しずつ相手との距離を縮め、その像を形作るという作業が『知る』でした。今はネットで誰かの情報を7割も得たら『相手の人生をつかんだ』と錯覚する。だから相手をこうだと決めつけ、感情むき出しで極端なことを言える。でも現実の女性との関係や人生には臆病なんです」


先日、直木賞と芥川賞の発表があった

最近はハズレが多いので みすみす当たる可能性のないものに興味を持てず
世間の書評の方を愉しんで読んでいる

女流作家の作品が入賞するケースが多く 今回も例外ではなかった

はて
(蓋を開けて見ると)男性作品が好きな僕から見ると 女性の作品は「詰まらない」

男性作家は今 どうなっているんだろうか


「欲望も薄い」 と林真理子さんはいう

嫌いな同僚と同じチームに入ったり、無能な上司に無理難題を言われたりしながら他者と折りあい、乗り越えていく。愛する対象を可愛がるという行為に比べ、人間的に成長するのではと思います

吉川英治 鳴門秘帖 の言葉も染み入るものがある
今はもうこんな風に痺れる文章にはなかなか出会えない

文学までもが昭和から平成そして令和になって 姿を変えていくのだろうか



三十年という周期を考えると見えてくるもの - 海の日篇 (裏窓から)

ここ半月の間に身の回りにも微小な変化が起こりつつありそれを微小と捉えるのか大地震の予兆と推測するのかはその人の心の置きどころとこれまでの心配と成功が生むある種の勘であろう

失敗は人生の大きな資産であり失敗こそが成功を生む大きな力となるという言葉もあるものの失敗を何度も繰り返したりここが一番大事という時に失敗をするようでは失敗が財産であるとか良い経験であるという助言は無意味に近くなる

失敗はしてはならないと常にそう考えて真剣に生きていくことと日常からの洞察力を多面的な視点で磨いておくことが不可欠といえる


三十年という年月を振り返ったのはつい数年前のことだった

ムスメが生まれておよそ三十年のときにその三十年をもう一つ前に遡って考えまださらに三十年を遡って掘り起こしてみようと考えた

つまり、ムスメの三十歳、ムスメの生誕、自分の誕生、さらに--三十年をおよその範囲に広げれば--遡ること三十年昔には私の両親の生まれた昭和一桁の時代となる

三十年という数字の微妙誤差は無視をしてこういった周期で人間と社会と文明を純粋に見つめてやることに大きな意味があるのだ



三十年前に何があったのかを考えているメモが手帳にあるので、時間をおいて何度か読み返してみる

続きはあとで

天の川見えねど嬉しく飛ぶ蛍 - 小暑編(七夕号) 裏窓から

さて、と


『人生とは設計(デザイン)するべきもの』で 常にデザインレビューを繰り返しながら 不安を抱きつつ一歩ずつ進むのである

と書いて「人生」「流れを変える」という命題を考えている。
納得のいく答えは程遠い

「そう簡単にオマエらにわかってたまるか」と故人が化けて出てきて叱られそうなことを考えていたのかもしれない
「ずっと前から提言(アドバイス)してきたのに」と言われそうだと胸に手を当てて思うこともある

勢いのあるときは他人のアドバイスはおおよそ「苦言」にしか聞こえない。これが「金言」と思えるようならそれもまたその人物は詰まらない奴で、ノンポリかもしれない

だが、しかし・・・である

と立ち止まって考えて読み返せないようなメモが手帳に蓄積されてゆく。自分でも読むのが面倒なことが書いてある。「人生を考えると面倒なのだ」ということかもしれぬ


ホンモノの天の川(ホンモノの銀河)を見たことがあるか

と書いたメモの前にこんなことを書き留めているのでこれも拾い出しておく


猫も杓子もインスタグラムで騒ぎすぎで白けている。そんなに注目されたいのかね
自己主張はある種の本能だから、努力もなく苦労もなくできるもの(SNS)には 簡単に飛びつくのだ

現代は平等社会であるり、人権も尊重される
誰もが簡単ツールを手に入れて 自由に遊べる時代になったてゆくのはいいことであろう

けど 、と思い立ち止まる


🌱

生まれた時から

ケータイ電話があって
テレビのチャンネルはリモコンで
車にはエアコンがあって
カーナビがあって
100キロくらい簡単に出る車は普通で
家にはテレビが何台もあって
エアコンも各部屋あって
暖房も同じくあって
電子レンジがあって
温度設定が簡単なお風呂がある

そこからスタートした人たちが
大人になっている社会である


🌱

変化してきた過程を見ることができなかった人を
変化の途上を見届けながら老化した人から見ると
大きな意識のギャップが発生している
そのギャップを「その存在さえも理解できない人」が
社会の大半を占る時代を迎えている

生物の進化を冷静に見つめる時に、こういったギャップは然程プラスには作用しないと新時代の人は考えているのかもしれない

しかし、そのことをくどくど説明すると「時代に逆行している」「時代遅れだ」と反撃を食らう

🌱

文化の点と線を「微分する」という発想のない人たちが増えていく

これは「時代遅れ」ではなく、対岸に漂流した自分たちが昔いた岸を見失っているようにも見えて、大航海をしてきた祖国を「時代遅れ」と錯誤しているのだ


人生を設計する人は三十年後を睨むことになる

父、私、子どもたちが残してきた足跡を辿ってみれば見えてくるものがある
しかし、それを一から説明をし始めると諄(ひちくど)くなる


考えながら書くので
足したり消したり です

 

ふたたび職につきトボトボと暮らす とりあえず冬が終わるまでがんばろう -  芒種篇 (裏窓から)

1982年4月末日(初給料の月末)
1991年1月21日(母の六十歳の誕生日)
1991年3月20日(父の六十歳の誕生日)
1991年3月31日(父の退職の日)
2017年10月13日(六十歳の誕生日)
2018年3月31日(退職の日)
2019年6月5日(うちの人の誕生日)


このような記念的な日をこれまでにいい加減に済ませたことを深く反省している
何の記録も残っていないのだから弁解も何もあったものではない

誰や彼やと大勢に世話になり
尻を押され
手を差し伸べてもらい
叱咤激励を受けながら
ここまできたのだ

いったいどれだけの人々に助けられて生きてきたことか
上述した日だけではなく
数え切れないほど機会があったにもかかわらず
数々の皆さんに報恩するべきを怠ってきたことが恥ずかしい

身近な人にさえ、畏まることなく
礼を尽くせばよかったのだ

今更ながらそう思う
もはや、取り返しのつかないこととなってしまった

🕯

・・というのは
6月5日はうちの人の誕生日でした

僕のことだからケーキを買って帰るわけでもなく
おめでとうと言いながら
毎日の晩酌の乾杯と同じように
盃を交わしただけとなった

まあ、それでいいのだろう

🕯

u8292u7a2e

🕯

上に挙げた日のうち、特に
初給料とか父の退職に
何もしないまま特にお祝いもせず
感謝の言葉も伝えずだったことを
顔から火の出る思いで恥ずかしく反省する

親であれば(ふつうの間抜けであれば)警告をできるのだが
しかし、この場合 親からそんな忠告はできない

そういったときに小言やアドバイスができるのは
もっとも近しい立場が親友、妻、兄弟なのだろう

あのころは自分の人生だと思って暴走していた
言ってみれば怖いもの無しだったわけだ

私の人生はみなさまの人生でもあるのだ
(みなさんがあってのうえで 私の人生があるのだ)

と気づいている今となって
もう許してもらえるのだろうか


✒️ メモが残っている

🕯

父が脳梗塞で倒れる一日前は
誰も晩年の闘病は想像しなかった
私も同じ歳ごろを迎えている
明日に倒れても不思議ではない

父は身体の丈夫な人ではなかった
病弱ゆえに農家に生まれながら
農作業には不向きな身体だった

だが、それを庇うためにか
それほど病身には見えず
身体の具合が悪いというて
寝込んでいる姿はほとんど日常では見かけなかった

腎臓が弱かったという
若い頃に長期入院をしたこともある
という言い伝えは聞いている
何歳くらいのことで
どのような病状であったのかはわからない

病弱であったがゆえに農家の労働者や
日銭を稼ぐ土木作業員などをしても体力が続かない
そこで、重機の免許を人よりも早く取り
農作業でも高価な農業機械をいち早く購入したりしたという

採算のことはそれほど考えるような人ではなかった

🕯

六十歳まで公務で土木助手の仕事をして定年退職をする
そのあと生コン車の運転手をして
気楽にしているようにも見えたが
弟の話ではそうでもなかったらしい

好奇心があり目新しい仕事にも顔を出した
刺青をバシッとした男たちが詰めているような飯場に泊まり込み
大型トラックや重機に乗っていたらしい
それを知った弟が大慌ててで連れて帰ったという話は
父が亡くなって何年もしてから聞いた話だ

六十二、三歳のころまでは
自適に楽しく余生を暮らしたのか
(実は他人が考えるほどにそうでもなかったのではないかと思っている)

六十六歳で死ぬ三、四年前に
脳梗塞で倒れた

幾たびも救急車の世話になり
搬送の記録は数知れない

軽トラを運転中に意識をなくして
路肩に転落した事故もあった

僅か一時間程度の隣接市に住む私は
父が死んでから何年もの間
あらゆる日常の事実を詳しく知らなかった

🕯

それでいいのか
何度もそう思って反省した
長男として介添えの看病もしなかった
亡くなる半年ほど前には
周囲のほとんどの人々がそれなりの覚悟を固め始めていても
私はそんなことを知らぬままだった
何と罰当たりな奴だったことだと何度も悔やんだ


🗒 六十歳を過ぎてから
こんなことを振り返ることが多くなった

さて
そのことで

これからの行き方をどう変えていくのか

いいえ
そんな問題でもなかろうと思っている

風邪ひいてますのや 小満篇 (裏窓から)

これから書くとして置いたままにしたのが
小満の日 21日(火)だった

仕事を始めるのが22日(水)であったので
小満篇は21日(火)に書き出せるつもりでいたのだが

風邪にやられいていた
二、三日前から喉が痛くなり
出勤をするころはヤマは越えていたものの
カラダは十分ではなかった

頭がボーッとしていた方が 余分なことは考えないから良いのだが
あれこれとおぼえがきをしておくにはそれほどふさはしい日々ではなかった(25日記)


🔗NEWS
110連休をおえて仕事を始めましたが

平成最後に考える - 裏窓から

1 はじめに - 何もいいことがなかった時代

断片的にあれこれと昭和から平成のことを思い返して、あちらこちらに書いてみている

総じて 何もいいことなどなかった という言葉で表すことになる

  • 経済も不安定であったこと
  • 夢に描いたような暮らしが実現できなかったこと

などが真っ先に浮かぶのだから仕方がない

🍀

2 幸せを考える

では幸せではなかったのか・・・というとそうではない

天皇退位

ムスメは平成直前の生まれで いうならば昭和の最終走者を勤めて平成を走り抜いている

結婚もして
平成の孫っちを1号2号と生み
現在を逞しく走っている

仕事にもついて五百万近くあった奨学金も返済して子どもに振り回されながらもやっている

来年あたりから職場に復帰するつもりだろう

さて、僕はどこまで一緒に生きてゆけるのだろうか

🍀

3 不運な友

学生時代からの友だちには不運な子(♀)もある

平成九年に会社(証券会社)が経営破綻倒産してしまったのだ。人生に大きな打撃を食らって苦労をしたことはお互いに口には出せない

仲がよかっただけにその苦労の度合いなどのことは尋ねるわけにもいかず、そっと心配をして本当にいざとなるときがないように(なったらそのときは役に立とうと)思い続けるだけであった

今は孫が次々と生まれていると Facebook に書いているのでそれ以上は聞いていない

男の子三人を大学にやるなどして社会に送り出し立派に育てた。その母にこそ拍手を送りたい

🍀

4 転職をして羽ばたくという筋書きがあった

三十歳くらいのときに大学の同窓会に顔を出し、先輩たちの話を聞き刺激を受けたのは事実で、オレも二千万円、三千万円も稼げるように頑張ろうと考えたのだ。景気がよかったことや若くて野望を押し切るファイトもあったことが相乗的に働いて転職もした。

しばらくして家も買った。教育にも力を入れるのだと考え、世間に習って私学の中学に進ませたりしたのだが、なかなか筋書き通りにはいかなかったのだ。

🍀

5 低空飛行へと

筋書き通りにはいかなかったのも筋書きのひとつだったのだろう。育英会から多額の借金をしてムスメは社会人になった

私は低空飛行の人生を歩み続けている

悔やむことや、後悔すること、憎むこと恨むことなども後を絶たなかった。世の中の美しいものとそれ以上の醜いものをみながらも、ここまで歩んで来ることができたことに感謝したいと思っている

平成には何もいいことはなかった。それでいいではないか


平成に迎える昭和の日は今日が最後です 様々な回想が巡ります ─ 裏窓から(余録)

1 はじめに - 三十年という月日

昭和の日になって三十年が過ぎていた
早いようで遅いようでもある三十年を無意識に過ごしたのである

新札の絵柄も気にとめこともなく
いつまでも頭の中では聖徳太子のままだ
生活に支障もなく三十年が過ぎた

2 なくしたもの

無くしたものも幾つかある

よしっと思って転職したが成功には至らなかった
自分の人生設計の甘さを突きつけられた

3 伝えること、受け継ぐ人のこと

そのことの反省と戦略 さらに知恵なども含めたあれこれを
次の世代に伝えたいのだが・・・

これらを受け継ぐべき世代が 全く受け入れる体制も持たず 意識も備えていない・・・ときた
もはや「伝えないこと」が一世代前の者に与えられた使命なのかもしれない
新しい文化は 唯我独尊であるのだろう

 

 

日記はここまで (以下は自分メモ)

4(余録)

🔗 書きとめておくべきことの数々がメモにあったのでここに貼っておく (パワハラ余録)

#パワハラ余録

サドンデスを怯える - 裏窓から(余録)

1 「囁伝」という分類を作ってみた

先日 死にそうなくらいというと大げさだが
腹の痛みに襲われて眠れない夜を過ごした

2 その時の妄想が次のものだった

🔗 サドンデス妄想をまとめる


3 死んだら何を言われるかわからんから
何かを予想しておかねばならない

何か、「これだけは…」ということを書いておかねばならんのではないか

  • 部屋にある写真はおよそみなさんには面白くないと思いますので捨ててください
  • あれこれと書きなぐったノートも中身を確認する必要はないのでそのまま焼却してください
  • 本などは読みたい人があるかもしれないですし僕がお勧めするものは少しでも多くの人に読んで欲しいので貰い手を探してください
  • 葬式はしなくてかまいませんが、勝手にするのは任せます
  • 墓は日ごろから言うように特別なものはいりませんが、庭にでも作ってはいかがでしょうか
  • あるいは、家の中のどこかに位牌を保管しておけば、将来に引越しするなり捨てるなり自在です

🌱

4 あとがき

こんな詰まらないことしか浮かんでこないわ

続きは明日考えよう


平成31年4月25日(木) 改訂
平成31年4月24日(木) 作成

花も散って春眠誘う月の暮れ 穀雨篇 ─ (裏窓から)


  1. 仕事をやめて三ヶ月が終わろうとしている
  2. 孫っち1号は幼稚園(年少組)に通い始めた
  3. 憩室炎と緊急診断(17日)を受ける
  4. 平成が終わることで大勢が過ぎ去る時代を惜しんでいる


早いもので三ヶ月がすぎるのだ。毎朝僕の顔を見ながら「仕事をしないで家におるとほんまに元気で楽しそうやなあ」と言ってくれる

そんなに仕事をするのが嫌なのだろうか。はたまた何もしないで家で自由にしていることは歓びと愉しみに満ちているのだろうか

生活資金がないことの想像は容易い。この状態が続けば半年で干上がってしまうことは間違いがない。しかし、こうなったらやけっぱちだと思ってみたりしている。

父や祖父がなくなったのが六十六、七歳の頃であったし、親戚中を見回しても長生きの男性は見つからないことから、持って生まれたカラダの弱さは受け継いでいるだろう。それほど長く生きないのならそれに合わせて目標設定をしなくてはならない。

六月から仕事が見つかればいいなと思うことにして、GW明けに二人で旅をしてくるか・・・などという話も出ている。そんな旅は万一長生きしてしまったら、何度行ってもいいじゃないか。


孫っちは喜んで園児バスに乗って行くそうです
母は(ムスメは)二十分ほどのところにある園児バス乗り場まで
車で車でやって来るのですが、それが大変ではないかと思ったのは
入園式までで、通い始めたら何ところない、孫っち2号と買い物に出かけたりして
動きも孫っちを二人連れて歩き回るより軽やからしい

ただ、孫っち1号のお弁当を作るのはまだまだ大変そうです
おしっこもまだ三才になりたてですから心配なようです


憩室があることは十年ほど昔に大腸カメラでの検査で気づいていました
いつ暴れるか心配があったけど、普段からそれほど気にかけていませんでした

17日の夜です。15日に大腸カメラ検査を一年半ぶりくらいにしまして
気持ちよく食事をできる日が戻りつつあったのですが

夜中から痛み始めました。憩室の炎症とは考えませんでした
何か他の内臓が日常の不摂生で傷んでいる警告ではないかと考えたのです

先生はすぐに血液検査と超音波診断をして憩室炎と判断し三十分ほどの点滴をして、僕に絶食と安静を言いました

痛みが襲っている夜通しには一時間おきくらいに目が覚めて眠れなくなり、トイレに行きます。何度も寝返りを打って痛いところを指でさすってみたり軽く押してみたりして夜明けを待ちました

このまま死んでしまったらどうなるんやろうか。そんなことを考えた

🔗 サドンデス妄想をまとめる

そんなお悔やみが聞こえてくるような
朦朧とした夜を過ごしたのだった


平成が終わるのをここぞとばかりにみんなが惜しんでいる
アホどもが溢れている

何を今更 そんなことを回想して
金でも儲けようという魂胆でもあるんかい

何も良くなかった一つの時代、本当は最低やった時代を
「如何にもだった」と云いたいような回想をして
それを今となっては許してしまっているのか
大バカ総理に誤魔化されて騙されているのか

考えると腹が立ってくるけど、皆さんはいかがお考えか

ぶるっと一回ふるえて冬を思い出す 寒露篇 (裏窓から)

10月8日は寒露だった

少しずつ夏の暑さを忘れ去っていく

冬の寒さが忍び寄る
ぶるっと一回ふるえて冬を思い出す

このごろ

滾る 漲る 迸る

という言葉を考えている日々が続く

🌱

サドンデス(sudden death)という言葉が
じわりじわりと迫って来る

けれどもそれほどの恐怖感はない

恐れているわけではない
しかし
覚悟ができているわけでもない

🌱

礼を欠いたままの恩人がたくさんある
私の人生の舵を切ってくれた人もある

音信の途絶えた人もあれば
先に逝ってしまった人もいる

💦

やり残した・・・感も少しある

春の夢雨あがりとともに忘れゆく 春分篇 (裏窓から)

春分の日の夜、大リーグの開幕戦がTVで中継されていた
それほど熱心に見なかったのが やや後悔だ

試合後、イチロー選手が引退会見をしたという
そのニュースが22日の朝刊1面に載っている

特にイチローのファンではなかったけれども

イチローの活躍、言葉、考え、話などに新聞や雑誌で触れるたびに
刺激を受け、考えさせられ、悩みを解決すべく道を暗示され、勇気づけられ

あらゆることで、あらゆるときに
その姿に感動をしてきた

引退、卒業という言葉が駆けまわる三月

新しい何かを始めようとする人は多いだろう

初心忘るべからず

春風に吹かれながら
汗ばむウォーキングをしながら
そんな言葉を噛み締めていた

散歩道には高等学校の1日入学の親子が溢れていた

散らかっている本棚を見つめている平成最後の春 啓蟄篇 (裏窓から)

断捨離という言葉は嫌いですが、棚の整理は隣の棚へと少しずつ広げていこうかなとも思っている

啓蟄


4日の午後に少し時間ができたので本棚を整理する凄まじい作業をした

じっと棚を眺めてぼんやりしながら断捨離という言葉を考えていて、片付けを思いついたのだった

ふと目をやって手を伸ばした段が不運の棚だった

そこには、学生時代の日記や論文、ノートなどがびっしりと詰まっていた

万年筆で隙間なく書き込みをしたレポート用紙が綴じることなくバラバラのままで封筒に突っ込んである一方でまだ切りはずさないままで書き始めた原稿のような(下書きのような)ページもたくさん残っている

どさりと机の上に積み上げて、封筒から一掴みを取り出してみると、想定しなかった内容で、またまた驚きに襲われる

つまり、それは青春の足跡のようなもので、ちょっとセンチなものだった

確かにオモテ面には論文の原稿が書いてあったり、また、ルーズリーフの左半分には作図や考察が小さな文字で記入してあるのだが、本論とは別に本論にも劣らないほど膨大なメモが枠外から裏面へと行間を埋めるようにびっしりと残っているのだ

しかもその内容が恐るべきもので、読み始めると恐ろし過ぎて最後まで読破するのを途中放棄してしまうのです・・・

おしなべて言えば、要するに、日記や書きかけの手紙、手記風のドラマやフィクション、詩文、妄想中の思いつく言葉たち、何か意味不明のイラストなど、とても多様なものだったのです

中には、今となっては思い出せない人の名前宛てに手紙を書き始めてあったり、それが途中で途切れて放置されていたりする

当時結婚してほしいと詰め寄った女性(実は憧れた人が二人いたのだが)に宛てた手紙の原稿もあったし、またそれらの没稿らしきものもある

田舎の父母宛に書いた近況報告・落第宣告の報告や(その報告のボツ原稿や)、生まれ故郷の旧友であり初恋に限りなく近いある女性宛ての手紙など

もしも僕が著名人であれば莫大なお宝になろうなあと感心する

最初の二、三行を読むと、キザで幼稚で未熟で甘ったれていて、意味不明も多く、独善的で、褒めるところは何もない

何が辛くて読めないのかを自問自答し考えながら中断するタイミングを計っている

もう今となってはそんな過去の『深夜の自画像』のようなメモが蘇ってきたところで、何が復活するのだ(復活するものがあったとしてもそれは儚いものなのだ)・・・と思ったのだろう

「よくこんなことを毎夜毎夜書いたものだ」とほとほと呆れるのだった

しかし、心の片隅ではなんて可愛いやつなんだともちょっとは思うが・・・

思い切ってシュレッダーに突っ込んで、ゴミ袋(大)が満杯になった

もし僕が死んだ時にこの紙切れを誰かが発見していたら、恥ずかしいのだけれど、それとは別に「コイツ勉強もせんと何をやっとんや」と叱る人がいるかも

「いやいや、待てよ、もはや僕のことを叱る人などどこにもいないのではないか、叱られることもなく好き勝手に生きて来て、これを読んだ人がいるならばただただ呆れるだけだろう、名文でもないし、誰にも話さなかったことばかりが綴ってあるのだから」

そんなふうに独り言を呟いていた

シュレッダーに突っ込んだ資料の束の中に「大久保典子」さんという人があって、その人の名前をどうしても思い出せないというヒヤリとする発見もあった

手紙をじっくりと読まずに慌てて裁断(シュレッダーに)してしまったので、今となってはどなたなのかさえ迷宮である

もしかしたら、手紙を読み返せばあの頃の何かを思い出せたのかもしれないのだが・・・と考えてもみるものの、思い出したところで何も始まらないこともわかっている

いつものように、夜な夜な夢に出てくるかもしれないけれど、その際も何処のどんな人なのかはギリギリの線で不明のまま消えるのだろう

ちょっとモヤっと、ちょっとドキドキ、青春とはそんなもんや

そういうわけで、新しいときめきを探した方が賢明と思う

断捨離という言葉は嫌いですが、棚の整理は隣の棚へと少しずつ広げていこうかなとも思っている


断捨離という言葉は嫌いですが、棚の整理は隣の棚へと少しずつ広げていこうかなとも思っている

断捨離断捨離

 

仕事を辞めてから体調は良い 胃腸の調子は特によく 眠りも快適な日が続く 雨水篇 (裏窓から)

2月19日 雨水

この日の前日、ゆうとの体験幼稚園があって
孫っち2号のけんとのお守りをするために
ムスメのいえに出かけた

ラーメン持参でお昼を食べて
午後に孫っち1号・ゆうとが帰って来て
ぼくたち二人はショッピングモールへと向かって
僕は散髪をし
その後、コメダへ
ツマを待たせたのでというのが理由であるが
この日は少し汗ばむ暖かさだった

雨水というわけでもなかろうが
天気は下り坂で
多分(あすは)朝から雨が降っているだろう
と思いながら前日は布団に潜り込む

少し前から時々起こっていためまいが
ゆうべの風呂前に起き上がったときに起こって
この日の朝にも起こった

割と激しいめまいで
座り込むような揺れであった

色々と調べるとそれほど怖くはないようなことが書かれているが
二週間ほど続くようなら医者に行こうか

去年の10月29日に脳外科にかかって
CT検査をしてもらっているが
この時は手が痺れて握力が出なかったこともあった
すでに、めまいもときどきあったので
めまい検査としてのCTの結果はこの時は問題なしと言える

仕事を辞めてから体調は良い
胃腸の調子は特によく
眠りも快適な日が続く

仕事がないと
多少の不安が脳裏にあってか
少しイライラとする会話の応酬をすることはある

🌱

こんな9篇をピックアップしてみて
このごろは 仕事がない不安を除いて
ストレスのない日常を過ごしている

ずっとこんな人生だったらさぞかし
詰まらない人生だったと思うのだろうか

1. 春近し麦の芽見つけて
─ 雨水篇
尽くす季節が来るのだ。◎▼あの人を憎んで雨水凍りなさい  ねこ▼一輪ざし白き吐息の恨み活け  ねこ花を愛した人々のことを次々と思い出す。春が近いと切ない。…

2. 手がかり
雨水が過ぎて日
一日と日の暮れが遅くなるのを感じながら、なかなか温かさが満ちてこないのをじれったく感じている。寒い日…

3. 待ち遠しいものいくつもありまして
雨水篇
18日、雨水の朝。いつもの年よりも幾分寒い日が続くこの頃に、少し辛抱し兼ねている自分をみて、▼卒業に苦心しつつ雨水の暦繰る…

4. 春よ来い、春は恋。
2月中旬篇
窓。2月18日(月) ▼卒業に苦心しつつ雨水の暦繰る懐かしきあのころ。冷たい雨に泣かされたなあ▼こんばんは寒いねだけのメールがたまる2月19日(火)寒いな…

5. 落とし蓋母の手形に指を置く 
─ 雨水篇
ったのに。ブリの照り焼き2月19日(日)雨水。今夜は冷えるな。しんしんと染み通る寒さの違いを天性で感じ取れる様々な条件を失ったら、ヒトは自ら滅びる道を歩み…

6. 夜空舞う貴方に届かぬ恋メール  
おぼえがき録 ─ 二月下旬篇
ろ姿に花粉舞う▼冷え込みの憎くさもゆるむ雨水かな …

7. 手袋はピアノの上に。春を待つ 雨水篇
雨水の朝に、早く目が覚めて、しばらくたまったメモを読む。立春のころから、あっという間に時間が過ぎる。十七音も少し緩…

8. 今朝はうっすら。
ょうか。 このメルマガを書いている間に「雨水」が過ぎ、朝の冷え込みが心持ちゆるんだような気もします。どうぞ、暖房設定温度を1℃下げて、もうひと頑張りしまし..

9. 銀マド>もうひとりの私  <雨水篇>
なのですね。淡々と・・・・—-今日は雨水。朝、6時に庭に出て新聞受けから朝刊を取ってくるのですが、空が明るくなっていることに驚きます。雨水だと知ってい…

季節の初めに考える ─  節分・立春篇 裏窓から

月の初めに考える - 待ちながら海路静まる果てを見る  節分号
待てば海路の日和あり

そこには確信がなくてはならない
数々の苦難を乗り越えて克服し手応えのある確信を努力の果てに掴んだ人に言えることである

二月から失業者となり求職者をスタートさせた
その経緯(いきさつ)を語ったところでそれほどに価値もなくことが裏返るわけでもない
静まっている海路を眺めながらさてこれからというところだ

田中角栄の語録をさらさらと読んでいるとこの人の人間味のある言葉に出会う
珠玉の名言は他にも数々あるが

「いやなことは、その日のうちに忘れろ。自分でどうにもならんのにクヨクヨするのは阿呆だ」

という言葉に目が止まった

(🌱断筆再開)

昨今は便利な言葉があって「パワハラ」と言い放ってそれで終わりだ
わたしが仕事を逃げ出した根源はそういったものによると周囲はいうのだが
確かにそれは事実かもしれないものの対策を講じる力があればもう二ヶ月でも生き延びることができたわけでそれが惜しくて仕方がないと残念がりつつ怒りを噴出させる人もいる

(書いておかねば記録に残らず忘れ去れてしまい全く何事があったのか不明となってしまうので簡単に書いておくが、多くは書いても不毛だろうと考えている)

つまりは、パワハラな上司に愛想をつかして二ヶ月後の職務期限を待たずに
私の仕事は後の人にお任せしますので明日から休みます
といって強引に拒否してしまったのだった
早い話が業務の指示体系に不満があり強引に辞任をした形になってしまった

○○

豆を撒かなくなった節分に恵方巻きを食べて孫たちと夜を過ごす

誰が考え出したのか恵方巻き今年は東北東だそうです

巻き寿司作りはツマのワザ寿司飯作りは僕のワザ

🌱

先日お隣さんのご主人が亡くなった
六十九歳だったという
死因はわからないが定年を迎えて家に篭るようになってから体調が悪かった様子が伺えた
施設に入っていたのかもしれない
コツコツと定年まで真面目に勤めてきた人であっただけにまだ十年という年月が過ぎていないのに気の毒な限りである

ご近所のその隣のご主人も一足早く亡くなっていて七十歳を超えたばかりの頃だったという
そのお向かいのご主人も定年を迎えて新しい仕事を始めて出張で飛び回っている姿が元気そうだったのに突然であった

何年かの間に三軒隣のご主人が七十歳という壁と闘ったのだった

次は私の番なのだがと考えると
アホみたいにカラダに鞭打って
ヒトの顔色見て
ココロの奥を推測して
波風を立てないように
丸くモノゴトを納めて
ときには褒めてもらって一喜一憂している
そんな人生を
第四コーナーを回ったのだから
拒否して
ゴールのテープの前でコケてもいいから
ピースで駆け抜けたい

🌱

そういえば

中学時代の運動会の障害物競走で
一位でゴール直前に到達し
クラスの面々にピースをして愛想を振りまいていたら
足がもつれて転倒してビリでゴールをしたことがあったのを思い出す

 

三十年間を「激動」という言葉で済ませていいのか ─ 大寒篇 裏窓から

三十年という月日を振り返る

ムスメが生まれて十年ほどして父が逝く
平成の前半は私にとって激震・激動の時代だった
だが後半もどん底の時代であったのだから

つまるところ
私にとって平成は何もいいことのなかった時代であり
考えようによっては
ベールで覆ってしまってもかまわないし
塗りつぶしてもいいのかもしれないもので
記録にとどめておく必要のない三十年であるのかもと思う

では
ムスメが成長した三十年間は詰まらない歳月であったのか
意味のないものであったのか・・・というと、それは違う

ムスメにとってこの三十年は人生の始発からの三十年であるから
どの瞬間を切り取っても掛け替えのない一瞬の連続であろうし
とても棄てることなどできない時間であるだろう

同じ屋根の下で暮らして来たのだが
私の頭の中にある記憶は私だけのもので
私が忘れてしまうことに支障などないし
記録に残したところで、さほど価値があるものでもない

一方、ムスメの視点で見た私の三十年間がどのように映っていたのかは
私にはわからないし
知ったところで仕方がないものかもしれない

三十年間という私の歳月に(時間に)
ムスメが価値を見出してくれるかどうか
それは私が決めることではない

🌱

同様に
ムスメの三十年という人生を振り返ることができる
けれども
あの子はそんな三十年を
ジメジメと振り返ってみようなどとは考えもしないだろう

なぜなら
私が三十年ほど前に
その年だった時にはそんなことは思いつきもしなかったのだから

その十年あまり後の年に父が逝ってしまうことさえ
想像も想定もしなかったのだ

人間とは
そんなものだ

そういう未熟を積み重ねて
生きてゆくのだ

バカボンのパパは「いいのだ」と言っている
本当の意味を理解している人はどれほどいるのだろうか

これでいいのだ

正月をすごして愈々寒の入り ─ 小寒篇 裏窓から

寒空が好きやといえば嘘が吹く(1月12日)
椿咲いて隣の庭を羨やまん(1月14日)
成人式ねぇーもう三倍も前のこと(1月14日)

(ここから未来)

好きだった人 星を見るのが好きだった(1月15日)
冬の薔薇 鋏の音も凍り落ち(1月19日)

新年が明けたころには
アツイ自分と冷たい自分がいた

二つの自分が見えてきて
どちらがホンモノなのかを
悩んでしまう時間があった

🌱

夢は叶えるためにあるのか
人生は楽しもうと生きてゆくものか
負け越しの人生だったわけです

そんな疑問を提起して思案をしても
行き着くところなどない

これでいいのだ

そうだ

わたしには
何かを目指し辿り着くところなど想定できない

何も残されているものなどもない

命題も
使命も
宿命も

そんなものはもう意識しなくてもいいではないか

許してやろう


NEWS

新年 雑考 そのII ─ 元日篇 (裏窓から)

そんなことをあれこれ考えて
正月を普段通りに過ごしている


平成最後の元旦に考える

人生は第四コーナーから……などと定年のころに自分を回顧しながら言ってみた
あれからまだ一年も経たないが、自分の大したことのなかったこれまでに(人生に)
一区切りをつけて残り少ない人生を悠々と歩み始めていたかどうか

静かに考えてみるとやはり長い年月の突進する勢いからスピンアウトしきれていないのではないかと思う

人生を振り返りながら「第1コーナー」とか「第4コーナー」などと書いて見たのだが
別の書き方であれば始まりを<序>として次から順に<起><承><転><結>の章ともいってよかろう

では
ちゃんと「起・承・転・結」な時代を踏み固めながら人生を送ってきたのか

🍀

昭和から平成に変わってゆくころ
わたしは「承」の章から「転」の章へと駆けていた
子どもが生まれて家族は一つの目標へと必死で向かっている時期だった
迷うこともなく、日々の暮らしは幸せに満ちていてそれをエネルギーにして突き進もうとしている
むかしに夢に描いたように仕事と向き合い豊かさを力にして幸せを追いかけている姿があった

だがそんなふうに生きる中で私は自分が飛べない鳥であることを認めなくてはならないことも気付き始めていた
本来ならば助走を終えて天高く飛び立つところだ
しかし、磨き抜かれた才能を纏いつつ勇敢に飛んでゆく鳥たちの集団にまみれて私はそれほど飛べる才能を持っていない

つまり、身の回りでは大きく出世をしたり成功をする先輩や同僚の声が騒々しかったのだが
自分も飛び立とうと思い切ってみたところで、それは魔法の掛け声のようなものだったのだ

🍀

1から2へと、2から3へと、そして3から4へと跳ぶ「転の章」では自分も飛び立とうと思い切ってみてもそれは魔法の掛け声のようなものだったのだ

力不足だったのだ
もともと才能もないのに錯覚のようにいい気になっていたのだから救えない

上司の一人だった人の「一度地獄へ落ちてみるといいわ」という言葉が頭の中で響いた

🍀

わたしはここまで生きてきました
と歌うフォークソングが頭の中でリフレインをした
どん底の暮らしも見た
そんな世界も経験した

どう変えたところで一朝一夕で別人になれるものでもなかろう
善人にもなれないし
世の中のお役に立てるような奇特な者にもなれまい

意地を張らず
見栄を張らず
迷惑もかけず
愚言を慎んで

いきてゆこう

平成最後の師走を迎えている ─ 冬至篇 (裏窓から)

足跡(犬) 平成三十年師走

平成最後の師走を迎えている

その時刻を刻む時計が近ごろになってコツコツと音を立て始めたようにも思えそんな魔術のようなことはないのだからとひとりごちて暦を見る

社会がお決まりのように騒ぎ立てている
はたしてそんなに大勢がこのささやかな時刻の一瞬を凝視しようとしているのだろうか

あっと言う間にまさに表裏が入れ替わるように
そして何事もなかったかのように年は暮れてしまう

まるで戸板返しのように私は別人になって
新しい年を迎えるだろうか

メディアがチヤホヤするのとは裏腹に
静かに確実に数に限りがある人生の終盤の正月をいかに過ごそうかとお考えの方々も多かろう

新しい年を迎えて
新しいステージに装いを改めて

幕が降りて再び上がった歓びを
しっかりと平成最後のこのひとときに刻んでおこうと
熱く拳を握りしめている人もあるだろう

これまでに数々の失意に遭いどん底に引き摺り下ろされながらも
こうして生きてきた自分の足跡を振り返ると

あれほどまでに憎しみや恨みをこらえて
許しがたい憎悪を噛み殺さねばならなかった一つの時代のことを
もはや諦めでもなく寛容でもない心で忘れようとしている自分がいて

足跡とはいとも儚くあるのだと振り返る
しかしながら
その消えてしまいそうな楔に手と足を掛けて
第四幕まで辿り着いた

第三幕は弁当幕だったのだ

芽

昭和が役目を終えて平成に変わるころに
子どもが生まれて
自分は子どもに育ててもらってきたのだと思うことも多い
平成を振り返ると必ずそう思う

幸運なことなのかもしれないとありがたみを感じながら
この平成の中に第二幕と第三幕を立て続けにおけたことが
私のこの上ない幸運であり幸せであったのかもしれない

足跡(犬) 断捨離

十二月のある日
仕事帰りのNHKラジオで
断捨離をテーマにバラエティーが進行していた

棄てること

大学の一般教養である先生が「棄てる」とは紙くずを丸めてゴミ箱に入れるようなことをいうのだ・・・みたいな話をされて

それ以来、その本論外の言葉が私の人生のサイドをずっと並走している
丹羽先生の揮毫にあった「失意泰然」という六然からの言葉とともに私の座右にあり続けたのだ

その棄てるという言葉をいとも簡単に断捨離のなかに紛れ込ませているところが現代の軽々しさでありある意味では知性であり聡明さでもあろう

棄ててはいけない
と私は考える

あらゆるものは棄ててはいけない
(わが家の蔵から出てきた昭和初期のころの古文書も棄てられずに県立博物館に寄贈したし)

では、いつ棄てるのか
消えるまで待てばいい

足跡(犬) おかあちゃん

母のことをおかあちゃんと呼んだ子どものころを回想している投書を読んでいた
そうやなあ 子どものころはおかあちゃ おとうちゃんと呼んだものだ

いつの時代からおかあさんと呼ぶようになったのか

🌱

そういえば
うちのまごっち
「ねえママはどの人?」
とあるお店で聞かれて
ママ は使わない言葉なので
まんま??~
と困っていたので
「お母さんはこの人やな」
とフォローされてました

私のことはちゃんと
じいちゃん
と呼んでくれます

一年を振り返るゆとりがあるか ─ 大雪篇 (裏窓から)

秋の色が次第に枯れて
風に引きちぎられて
消えてゆく

森羅万象
あらゆるものは朽ち果てる運命にあるのだ

しかし
生まれ変わるという使命も同時に負うているのではないか

毎年ながらそんなことを
大雪に始まりの深夜から早朝に考えていた

それは月のはじめに考えたことよりも
数日分だけ進化して
容体を語るように振り返れば
小康状態なのか
少し快方に向かっているなのか
明るい兆しが見えてこない

ソフトバンクのネットワークで障害が発生したニュースが駆け抜けた

使用者ではなく無関係なところにいるので
無責任を言っていると思われるかもしれないが
そもそも、な話ではないか

ヒトは便利を当たり前と思いすぎているのではないか
支障や障害がひとたび発生し
自分の身に不都合が降りかかったら
親の仇のように不手際を攻め立てる

ちゃんちゃらおかしい

そんなものに甘えて
そこがしっかりした地盤だと思って暮らしている

あるいは生きていることが甘えではないのか
大災害が起こってモノの大切さ・有り難みがわかった

そのときに
もっと真剣に自分というもの原点を見つめ
畏怖の念を失ってはいけないのだ

第35回ユーキャン新語・流行語大賞
発表されて

  • そだねー(年間大賞) 
  • eスポーツ
  • (大迫)半端ないって 
  • おっさんずラブ 
  • ご飯論法
  • 災害級の暑さ
  • スーパーボランティア
  • 奈良判定
  • ボーっと生きてんじゃねーよ!
  • #MeToo

ぼくには
まったく無縁の一年間だった

流行語大賞

布団こうて暮れる霜月ふる里へ ─ 小雪篇 (裏窓から)

布団こうて暮れる霜月ふる里へ

小雪が十一月二十二日
着々と日は過ぎて
今年も残すところ一月である

🍀

霜月が暮れてゆく
その或る日にふる里の母を訪ねてゆく

メモには
🖌 ふる里に凩吹いて暴れとる
🖌 故郷の陽だまりに一人母がいる
🖌 木枯らしや麓の村が凍えとる
などと書きとめていたので
少し風が肌寒かったのかもしれない

🍀

これまでに
いくたびも
暮れてゆく十一月を
送って来たわけであり
今月の暮れも
然程特別なものでもなかろう

ただ
父が二十年前に
ストンと息を引き取ったように
やがては必ず母にもその時がやってくる

覚悟というものは
できているようで実は脆いものだと
わかっていながら
また今年も暮れを迎えよとしている

🍀

そのときどきで
揺れ動いたり乱れたりするような師走を迎えて来た

今年も例外ではなかろう

それほど多くは残されていない時間と
誰も知ることのできない残された時間の果てを
探ろうとしながら

突き放してしまいたい衝動と
抱きかかえたい弱さのようなものが
一枚の暦をめくると
潜んでいる

🍀

十二月という月は
そんな節目であり
格別なひとときでもある

勝負には勝てないツキを持ちながら
もう少しだけ
人生に勝負を賭けているのかもしれない

立冬のころに考えていたこと ─ 立冬篇 (裏窓から)

立冬が過ぎる頃から次第に
気持ちに決心がついてきて
もう今の仕事は年度末で終わろう
と思い始めた

急に新しいことを探そうかと考えるなんて
想像もつかないことだったし
そもそも 今さら 新しいことに挑むのもどうなのか
という疑問も多い

ツマは言い訳ではないかと手厳しく
いつものように怒りを私に向けて
もう少し働いてもらわねば困ると言うのだ

言い分はとてもよくわかる
しかし 私だって
生死をそろそろ自分で決めることが許されてもよい「としごろ」ではないのか

そう思うと 還暦を超えても 尚
自分の意思の割合より他人様の意思の割合の方が多めになっているような職場環境で
オロオロと頭を下げて 仕えていることもなかろうに

そう思えてきたわけである

このままでは終われない
そんな気持ちが枯れ果てていた心の中から湧き上がってくる

復活したいのかもしれない

 


ひの菜 と ぶり大根 を 食う

十月の満月 - 霜降篇 (裏窓から)

霜降篇

20日に熊野古道を歩きに出かけて
ご機嫌で家に帰って
いつものようにお酒を飲んで
その後に居間で横になって
うたた寝をする

飲んで食べて
うたた寝をして
風呂に入ってねる
という日常の繰り返しです

仕事はそれほど複雑ではなく
高度な知識や技術を求められているものでもないとは思うものの
もうこの歳なって
正規の職員と同じような成果を望まれているとしたら
光栄ではあるものの幾分重荷ではある

脳梗塞の症状は
そんなのんべんだらりとした日常の真っ最中に起こったのだった

20日の夜のこと

うたた寝から目がさめると
手が痺れていて風呂から上がっても心地が良くない

布団に寝転んで
スマホ(iPod touch)を仰向けになったまま
左手で操作しようとするけれども
手が痺れている

まるで
足が痺れて動かなくなり
突いても痛くなく
立とうとしても力が入らない状態になったときの様子に似ている

来たか 冷静にそう思った

(終)

霜降

十月のある日に
届いた手紙は
雨に濡れてインクが滲んでいた

返事を書こうと思うものの
意気込みすぎてなかなか書き出せない

メールは出しても読んでもくれない憎いやつ

ぼくも滲むインクで返事を書けたら

と ふと思う

意地っ張り

泣きっ面

🌱

ごめんねと言い出せなくて俯いて

🌱

満月の静かな夜のひとりごと

満月や思い出すのは君ばかり

🌱

25日は満月でした
今更眺めに庭に出ることもなく
しかし
夕刻の頃にどこかで真正面に向かい合ったが
さらりとかわして行き過ぎた

月を見あげるのが辛いというわけではないが

心が飢えていないと
人間は枯れてゆくのだと思う

星を見ても月を見ても
思い出すことはいろいろあるわ

暮れゆく秋に
今更何を
言えというのか

サドンデス(sudden death) 寒露篇 裏窓から

秋分から神無月を迎える時期に色々と思っている

其の一つに

🌱 サドンデス(sudden death)

これはジョーダンで語れるものではない時期に差し掛かってきた

祖父も父も六十五歳と六十六歳でこの世を去った

叔父もまだまだこれからというときに病で倒れて再起を図る前に逝ってしまう

顔がそっくりなように性格もよく似ていた

似ていることに薄々は気づいて大人になってゆくのだが
父が死んでからそのそっくりなことを確信する

たった十八年間しか同じ屋根の下では暮らさなかったのだし
とりわけ突っ込んだ対話をしたわけでもない

いわゆる親子で飲むことを愉しんだことも数えるほどだった

だが確実に似ていることを確信する

何故に似なくてはならないのか
同じ血脈であるのだからだ

だから身体の弱さもよてもよく似ている

ヒトは万能のように見える科学が支配する時代になっても
天地人のさらに向こうにいる神が与えた滾るものを簡単には変えることなどできない

やがて確実に来る サドンデス(sudden death)

待ち遠しいようで
怖いもの見たさで待ちわびるようであるものの決して歓迎はできない

負けないようにしておくつもりでいるが
勝てないだろうと思う、血脈には

続・旅とはそもそも(2)- バイクでゆく 立秋篇 裏窓から

🌱🌱
🌱🌱 旅とはそもそも(2)- バイクでゆく

バイクを買いました
新入社員のころです

休みが続くと旅に行きたくて
紀州の山の中を彷徨うように走り回ったりしたのですが

秋の連休に

仕事の束縛(休日出勤ですね)に反発するように
出勤明けの日に信州に向けて飛び出しました

地図を持たないあてのない旅でした

宿の予約もしませんでしたし
そのあとの行き先も決めていませんでした

もっと言えば
信州とはどんなところかも知らないままだった

卒業の間際に友だちの車で
麦草峠を越えて
蓼科や別所温泉に入ったりしながら
諏訪の街並みも楽しんできたことがありました

あのころに考えていた旅とは
ふらっと出かけるものだったのです

☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️☀️

🌱🌱
🌱🌱  旅とはそもそも(3)- 筋書きのないもの

旅に
用意周到な計画などなかった

天気を予測することも(ネット情報も)なかった
オススメのガイドブックのようなものは無縁だった
(あれはお金持ちの人が行く優雅な旅のためのものだった)

高速道路を利用するお金はケチった
(そもそも高速道路もそれほどなかった)

貧乏旅であったので野宿もした

ユースホステルも利用した

ビジネスホテルは贅沢だった

誰かが行って良かった評判も大事だったが

地図を見てココに行ってみたいという衝動が大事だった

鄙びた温泉は大きな魅力だった

安くて美味しいご当地の料理(B級グルメ)を求めて走った

人里を離れた寂しい峠をひっそりと越えて昔の旅人の足跡を偲んだ

山村の道端の人とお尻が冷たくなるほど長く座り込んで話すこともあった

バイクを止めてそばに偶然止まったライダーと話し込んだ

女性ライダーも気さくな子が多く長々と話し込むことが多かった

総じてみんな気安く声かけあって楽しく語らった

YHの談話室では
「私たちも仲間に入れてください」
といって話に加わってくる子がたくさんあった

旅とはそもそも ─ あのころのバイクの旅とはいったい何だったのか 秋分篇 裏窓から

振り返っている時間が時々ある
このごろ

だが
懐かしむわけではない

そういう足跡を振り返ってそれがどのようなものによってもたらされたのかを考えると人生がとても不思議に思える一方で必然にも思える

サドンデス(sudden death)を想像する年齢になってきたから
ひとつの区切りで何か纏めておこうという気持ちがあるのか

sudden death いずれそのうち触れていきたい

まずは

旅とはそもそも
を考えているので 引用してから

続く

何を受け継ぐべきなのか - 処暑篇 (裏窓から )

語らなければ何処にも記録されなかった話

🌱

私が生まれる何年か前に私には姉があった
そのことを母が話し始めたのだ

お盆の静かな午後のひととき
危険な暑さと報道や気象予報が
やかましく報じているけれども
部屋はクーラーを入れて快適にしている

八十七年あまりを生きてきたうちで
夏の暑い一日のいくらかを
クーラーが効いた部屋で過ごしたことなど
恐らくなかったに違いなく

こうして語ることも
時間を過ごすことも
歴史上で
とてもかけがえのない時間であった

貴重な宝のようなときが時々刻々と流れていった
そこで起こっていることを冷静に考えれば考えるほどに
残り時間が幾ばくかしか残されていないことを思う

しかし
残念にも思わない
悔みもしない
怒りも憤りも湧かない
もうどうだっていいのだ
感情や感動はそのうち尽きるのだ

そこにある一つの出来事を
ひとつのモノとして私は話に耳を傾けている

🌱

姉は生まれて一年ほどで亡くなった
今の時代ならば間違いなく生きていたのだが
栄養のあるものを食べされることもできず
病気になっても治療もできず
誰もが死なせてはいけないという行動も取らず
そんな心も 必要以上に持たないし見せもしない

とびきり貧しかったわけでもなかったが
この家系の家族がフルセットで同じ屋根の下に
暮らしているのだからというのも遠因ではあろう

父には弟が二人、妹が一人、姉が一人いる
これで五人
父(私の祖父)がいてその人の妻(祖母)がいる
さらにもうひとつ上のばあさん(曽祖母)が寝たきりでいた
それで三人が追加となる

母を入れると九人が暮らしていたわけで
しばらくして、義姉がお嫁に行く
そこで子どもができて
一人目の子を死産させて
二人目の子の時にお腹が大きくなって帰省する

秋に生まれるというので夏ころから
家に居座ったそうである

それが私の姉の誕生の時期と同じであったのだ
(母も同様に同時期に第一子を流産していた)

母の話の大事なところはこの先だ

🌱

「ねえさんは大事にしてもらっていた」

母はそう話してくれる
もちろん姉さんはそんな優遇のことは考えたこともないし
今でも知らないままだ(姉さん=私の伯母さん)

妹が家事や食事を取り仕切り(妹=私の叔母さん)
姉の食べものは最大限に手厚くしていた
(もちろん自分も都合よくしていた)
弟たちにも心配りをして食べさせた(弟=私の叔父さん)
高校生だったからたくさん食べたという

母は農作業にも出た

夏から秋にかけては農家の一番大切な時だ
お腹が大きくて赤ん坊が今にも生まれそうでも田んぼに出たし
生まれてからも娘をほっておいて仕事をさせられたという

「ねえさんは暖かい縁側で大事にしてもろて本読んだりしてたわ」

テレビドラマの残酷な話そのもだが
まさにそんな状態が
子どもが生まれるまでから
生まれてのちも一年間続いたのちに
私の姉は肺炎で亡くなったのだ

帰省して手厚く迎えてもらっているねえさんは一人目を死産
私の母は同時期に流産をしての二人目だったのだが
今では信じられないような差別的な暮らしだった

🌱

母は怒りも見せず
悲しそうな顔もせず
淡々と振り返りながら
あのころを話す

言い終わっておかなければ死ねないとでも考えたのか
いつまでも自分の中に置いておいても仕方がない
と考えたのか

その話を聞くと
母が言い終わってそれで尽きて
死んでしまうのではないか
とさえ思えてくる

処暑
処暑

父が亡くなって二十年以上が過ぎる
一人で二十年は長いと思う

わたしのツマは
姑が二段構えで生きていて
おまけに夫の兄弟妹まで住んでいて
さらに私の父は小さい時に耳の治療を怠って
耳がほとんど聞こえなかったという苦を患っていて
そんな苦とともに四十数年一緒に生きてきたのだから

のちの二十年の間に
孫にもひ孫にも恵まれて
のんびりと農作業を愉しむように暮らしてきたのだから
それはそれで幸せであったのだろう

今さら怒りを思い出したくもないのではないか

父が亡くなって十七年ほど後に
生前に植えた杏子の木が真っ赤な実をつけた

私はとても嬉しくて
ブログなどにも書いたけど
母は淡々と
今年は成らんだなあ
と言ってお終いだった

このマイペースの幸せがとても大事なんだろう
そのときはコロリと逝けるようにと切実に祈っている

はや夏がすぎようとして手さぐりで  立秋篇 (裏窓から)

結論から書かねば成らない

🌱

そんなメモが見つかった

🌱

  1. まずまずの人生であったと思って満足している
    周りは不満だと思っているだろうが
    人間なんてのは勝手なものだから仕方ない
    許してやってくれ
  2. 金は稼げなかった
    そのことは自分の打って出た勝負が失敗だったことを意味する
    貧乏を共有させたり金に世話になった人が多かったことで
    今更何も弁解はできない
  3. 身分相応の人生だったのではないか
    見栄を張ったわけでもなく
    必要以上に立派を装ったわけでもなく
    将又見下されて生きたわけでもなかろう
  4. 楽しく生きたという点でよしする
    金がなかったことは前に書いたが
    貧乏であったことが不幸ではなかった
    大金を使って生きる人生もあっても良いだろうが
    そちらを残念ながらその道を選択できなかったというだけで
    幾らかの無念や寂しさも残るものの
    こちらも堂々とした人生だったと思う
  5. 他人と比べるものでもなかろう
    自分の裁量程度で生き通せたのではないか
    器以上の仕事を請け負うても苦心するだけだったに違いない
    怠け者な側面も持っているのだから表裏なく生きて来たと思う

🌱

書き始めてほったらかしにしたのだろう

真面目に書くと長くなる
長くなると読まれなくなる
読んでもらえないと伝わらない

しかし
短いと誤解を招く
または不十分であったりする

本当のことはどうやって受継げばいいのだろう

8月6日 巨峰と水割り
8月6日 巨峰と水割り

8月も25日になり末を迎えているが
日付は立秋(7日)とします

大暑から立秋へ 大暑篇 (裏窓から)

大暑
大暑

大暑(7月23日)が過ぎるころから
何も書かないままの日々がいく日も続く

危険な暑さが続いていると
ニュースでは報じている

果たしてそうなのだろうか
と疑問もある

危険という言葉が安易に暴走していまいか

人(ヒト)が自分の都合のいいように暮らした挙句の果てに
このような暑さが襲ってきたのではないか
と言う疑問が
どうしても拭い去ることができない

便利なことが慢性化して
豊かな暮らしに満たされてしまった挙句の果てに
暑さが襲いかかってきたのだ
と思うと

少しは何かを辛抱するとか
我慢や不自由を受け入れるべきではなかろうか

台風12号が来て
大暑の後にわずかな涼しさが戻ったものの
7月から8月にかけても再び暑さが襲っている

🌱

百円の回転寿司を
あれを寿司(のスタンダード)だと言って
鱈腹食べるのは
もはや現代人の流行りでも何でもなく
日常になっている

「食べ放題」という看板を掲げた店で
空腹を満たそうとするのではなく
上質の味を夢見た果てに
あれも一つの上質の分類の端くれだと認めて
満足している

そんな人たちが標準の時代になった
そしてぼくはそんな標準に乗れないでいる

ぼくは
そういう時代に乗り遅れているのだ
三十年後から人生を始めた人たちに指摘される

では
「遅れる」って何を意味するのだろう
どんな状態を指すのだろう

ステージが違うだけで
時系列の順が前後するだけのことで

指数関数と三角関数とを融合させた空間で
彷徨っているのならば
答えなんてないのだろうと思う

🌱

身近なところで考えれば
離婚をする人が当たり前のようになって来て
社会のなかで結婚をするという根本的なところまでが変化をしてゆく

タバコを吸う人がその辺にフツウに居る社会が消滅して
オトコやオンナの区別がなくなって
子育てはオトコでもなくオンナでもなく
挙げ句の果ては親でもない人が行うようになって

オトコとオンナの差別も区別も存在も特徴も
どうでもよくなって性的な差別も障がいの差別も
影も形も無くなって
ある種の平等が実現してゆくのだろうが

分子生物学が進化した果てには
人が考え出した生命科学のような技術と
脳科学と数学が進化した人工知能を超えた新しい知能により
社会が想像のつかないことになってゆくのだろう

けれども

やはり遅れていると指摘されるぼくが
現在のアタマで考えついたり思いつく想像の空間では

そんな夢のようなものを
進化とは安易に呼べない

「快」と「楽」に走ってしまう生き物は
滅びたほうがいい

地球が滅びても不思議ではないかもしれないような
延長の道程を走っているのかもしれない
この暑さをお祭りにしているようで甚だ滑稽です

まずは豊かさと幸せボケを見直さねばならない

大雨の降る空を見あげて晴れを待つ 七夕号 ─ 小暑篇 【裏窓から】

九十四歳のお母さんを亡くされて
そのあれこれとあったあとに
きちんとした便りも書けるわけでもなく
そっとブログが復活するのを
お待ちしていました

ブログのタイトル通りの「静かな生活」が
ふたたび蘇ってきて
「静かな」暮らしが淡々と過ぎてゆくのを
お祈りするばかりです

自分をじっくりと見つめる日々が
歳をとることで次第に増してくる

このような時間が一日のなかで多くを占めるようになってきても
そこにはそれほど決定的な答えがあるわけでもなく
考え込んだところで探り出せるものでもない

ずっと遥かむかしに
自分のゆく果ての姿を想像しながら描いたような
人生の第四コーナーのようなものあるのだと
このごろ やっと気づきはじめている

これまで歩んできた道が
人生行路だったのか
苦行の修験道だったのか
将又、明るい光を受けたステージへの花道だったのか

もはやそれは振り返って酒の肴にするくらいしか使い道もなく
次の世代に語り継ぐような価値などはないといえよう

胸に秘めて
静かに暮らしていきましょう
ということだと感じている

そしてそれがわたしの使命なのだと
このごろ痛切に感じます

人生は第四コーナーから 夏至篇 - 裏窓から

第一コーナーから第四コーナーまで
それは15年という月日で区切れることに気づく

1コーナー:15歳で高校入試(失敗)
2コーナー:30歳でムスメが生まれる
3コーナー:45歳で仕事を離脱
4コーナー:60歳で再び仕事を始める

大雑把に言えばそんなところだ

振り返ってみればどの時期もすべてかけがえのない思い出がたくさんある

しかしどれも幸せには満ちてはおらず荒波に揺られている苦渋の時節だということもじわりとわかる

幸せ度という指標でみれば第二コーナーから第三コーナーへ向かうときが最高であったのではないか

ムスメが生まれて仕事もしんどいなりに充実して人生にも迷いはない

自信を持って前進をしている

一方でツーリングばっかし行っていたと非難も受ける

ペラペラとおしゃべりを始めた子どもが2歳になったばかりの夏に、二人を置き去りにしたまま北海道へとツーリングに行ったという事件がある

後年ツマとあのころのことを振り返り合うことがあたびに、ツーリングに夢中になっていた自分はいったい何だったんだろうか、と回想する

子どもを置いて休日はバイクばかり乗っていたのだが、今もしもあの時代に戻ったらそんなことは絶対にしないだろう

子どもと一日中触れ合っていることは間違いがないのだが、あのころは全く違ったカタチで日常を満たしていたし、過程をお座なりにしていたわけでもなかった・・・のではあるが

子どもを置いたまま一人ででかけてしまい、残された母と娘はどれほど寂しく心細かったのかを知っているのか……とツマは言う

ひどい父である。だから「家庭をどう考えているのだ」と指摘を受けてもそれは当然のことであろう

もしも万一の交通事故にでも遭おうものなら言葉では吐き尽くせないほどの最低の父になってしまうこともある

ともかく勝手な父であったのだが、偉大なる反面教師であったと誰かが言ってくれるだろうか

夏至

月はひとり 星は二人で見上げたい」のブログのサブタイトルに
人生は第四コーナーから」と書いている

そこへ「少しダッシュしてみた」と続けてみる

どの直線を走っている時もどのコーナーの時もいつも必死だった

割と手抜きのなかった人生だったとも思う

(作成中) 穀雨篇 (裏窓から)

穀雨の時節を迎えている

🌱

(作成中)と書いたままで『穀雨』の時間が過ぎてゆく
もう新しいことを書き足す気力がなくなったのか

🌱

言葉なんて
無力だったのだと
つくづく思う
では一体何が私に
力を与えてくれるのだろうか
沈黙だったのだろうか

18日のメモにそんな言葉が残っている


 

♠♠

20日の夜に親睦会があって
置きっ放しにした車を取りに行って
家を訪ねて母の話を畑で聞く

おとうとは田植えの準備で
裏の田んぼへ出かけていて留守

ムスメは
「もしも家を建てるならどこが良いか」
という話が少し拗れて二人がギクシャクしている

🌱

人生とはそんなもんだが
幸せボケの域に入りつつあるのだと思う

設計力を失い
将来を見抜いて行く力と
築き上げる知恵を
失ってはいけない

🌱

私を
奮い立たせたのは
何であったのか
沈黙だったのであろうか

(作成中)のままにしておこう
(28日)

 

 

ハナミズキ ひっそりと咲いていました 清明篇・その二

ひとつの節目が過ぎてゆく
古い時代が終わってしまい
新しい時代が始まったのだ

というように

振り返りながら
思いを書いてみた

このハナミズキもムスメの結婚記念で植えたもので
やがて大きく成長してベランダを超える日が来ることだろう

だがしかし

人の心にも諸行無常なところがあり
この家に子供や孫たちがいつまで暮らしてくれるか
そんなことの筋書きなどは易々とは書けない

ある日突然に枯れ果ててしまうこともあるかも知れない

🌱🌱🌱

語り伝えたかったものは何であったのか
そこを考えることから始めねばならない

ひとつの節目が過ぎてゆく - 清明篇 (裏窓から)

ひとつの節目が過ぎてゆく
古い時代が終わってしまい
新しい時代が始まったのだ

つい先ごろまでは
そのようなドラマじみた
あるいは 誰かの説教のような
ありふれた筋書きを
現実へと受け入れる心づもりなどは
全く持つつもりもなかった

還暦祝いや厄払いをしたわけでもなく
淡々と仕事を辞めて立ち去る挨拶をし
心から清々として三月を終えて来たのだ

四月からは新しい場所で
新しい面々に挨拶をし
心を新たにして
今までをさっぱりと切り捨てて
毎日に臨んでゆこうと考えた

🍀❤️

エイプリルフールが
そそくさと終わって
二日から仕事に出かけた

『清明』の五日は
何やかんやに夢中になって過ごし
四月になってからの日記は
一向に書き進まない

本当は休みたかったもしれない八日の日曜日に
友だちを誘ってお花見ウォーキングに行った

誰かに伝えたいと思って書く日記はもうすでに終わった
何かを遺したいと思うこともそれほど強くない

自然消滅でいいのだ
遺してきたものは昔の文化だ
遺産とはそんなものだ
そう思うようになった

🍀❤️

新しい時代の人は
新しい文化の上を生きてゆく
それが苦しくても
寂れたものであっても
その人たちが構築してゆくものであり
改革してゆくものなのだと思うから
私の文化は遺す必要はないのだ

歴史とか足跡は
残された人のために書いたのだ
確かに
新しい文明を開拓するときに
役立てばと思い
少しくらいは
記録に残るようにしてもいいかも知れないが

これからの水夫は
新しい海へと
新しい船で出帆してゆく

未知である宇宙には
自らが考え出した技術でゆく

社会は
新しい人の認めた法律や秩序で築かれてゆく

深夜の自画像(七日間)- 春分篇 (裏窓から)

秒読みが始まったとは誰も気づけない
したがって架空で語ってゆくか
過去を巻き戻して書きとどめるしかない

この際どっちだっていいだろう
七日後には消えるというものがたりを追いかけてみる

————————————————————————
◆ 七日前
朝はいつもどおりに目ざめている
歳を食ってからは床をあげるようなことは全くない
身のまわりの几帳面さも欠乏して
寝床の周りには着さらしの服を放置したままだ

日記はもう数年前から書かなくなってしまった
枕元に昨日の夜の書きかけの日記があったのは
もう数年前のことで
今では幻の風景になってしまった

最初に脳梗塞で倒れたとき
激しい衝動が湧き上がり
何十冊とあった若い頃からの日記に
火をつけ燃やして灰にした

大きな事件であったが
誰も深刻な脳梗塞の重篤さを
気にかけなかった

生涯で怒りを噴出させたのは
二度だとすると
このときがその二度目だった

寒いなあ、正月が過ぎて一段と寒いなあ
と呟いたかどうかはわからない

1月15日木曜日
脳梗塞の症状ものらりくらりだ

むかしからときどき
ひとりごとをいう癖はあった
ツマの誕生日が近いことは
気づいていただろうから
もうじき歳を食うなあと囁いたかも知れない

そして自分の誕生日が
あと二か月後にくることに
何かを期待したのだろうか
まだ67歳ではないか
しかし80際までは生きられない
そんなことを漠然と思っただろうか

まさかこの冬に
自分が67歳を2か月後にひかえながら
逝ってしまうとは想像もしていない

もう少しだらだらと生きてゆくのだと
漠然と感じていたのだろう

————————————————————————
◆ 六日前

その朝いつものように起きて
いつものように朝ご飯を食べて
寝たままで一日をはじめた

救急車まで自ら出向いて
病院まで運んでもらったことが過去にあった
死んでたまるか
そう思ったのだ

あのとき
頭蓋骨の中には
毛細血管から吹き出た血が
満ち溢れていたのだ

そんな事件があったことを
ムスコ(長男)には話したことなどない

あのときは生きていくことに夢中で
ムスコと会話を愉しむというような歓びはなかった

いつか忘れてしまうほどのむかしに
体調を崩して寝込んだことがあって
あの日のできごとが蘇る

身体は丈夫な方ではなかった
だから寝込むことが多かった
あのときは今までにない痛みを感じたのだったか
家族が(たぶんツマが)
冗談めいて
「それはガンかも知れない」
などというものだから
落ち込んでしまう

二日間ほど床に伏していた
気持ちが落ち込んだのだ

家族は
おとうちゃん気が弱っとるわ
と冗談を言ってケラケラとしたような気がする

根っから怠け者ではないので
明るい時刻に寝ているようなことはしない
そんな姿を見た人もいないはずだ

もしも寝ていたなら
たとえそれが朝であって
誰よりも遅くまで寝ていれば
どこか具合が悪いのではないかと
誰もが疑う

頭痛や腹痛で横になることもない
根っから身体が弱かったのだが
特化した症状が出るのではなく
弱い身体が全体で悲鳴を上げるタイプだった

66歳という若い年令で
死に絶えてしまったことを考えると
身体そのものの頑丈さは持って生まれたものであり
弱い人は長くは生きられない宿命を秘めていると気づく

努力をしても早く坂道を駆け上がることもできなければ
どんなに節制してさらに上質な栄養を摂取し続けても
元々が弱い人があるのだ

それがウチのこの人であり
ウチの血脈の宿命なのだった

————————————————————————
◆ 五日前

当然、自分の命が果ててしまうとは想像していない
18歳で出て行ったムスコだが
まずまずのところに住んでいる
ひと目でもいいので逢っておこう
などとは考える必要もない

この日は1月17日土曜日
ムスコも休みではないか
正月に顔を見せたきりだ

クルマで1時間走れば飛んできてくれる
その時間くらいはいつでもあるだろう
そう考えていたのか

まだ生きると信じていたから
遺言を伝えようとも考えない

そもそも遺言などと言うものは
ヒトが元気なときにぼやく愚痴に似たものでもある
オラには何の不満もなければ
言い伝える言葉もない
と思っていたかも知れない

ムスコのことを
子どものころは賢かったが
大人になっても大きな人間にはなれなかったな
と思い続けていただろう

小学校の卒業文集で
アナウンサーになりたいとか
もっと小さいときには
船乗りになりたいと
言っていたのを
強烈におぼえていて

そんな夢を大人になるまで持ち続け
実現するまで粘るだろうと
心の側面で固く信じているような人だった

つまり
自分の子どものころに抱いた夢がきっとあり
それが幾つになっても夢として心の片隅に
存在していたのではないか

夢は誰にも語ることはなく
秘めたままで
誰も夢の存在すら知ることはなく
消えていったのではないだろうか
————————————————————————
◆ 五日前

日曜日
NHKの日曜美術館を見るのを楽しみにした

ドラマは見ないし
バラエティーも見ない

脳梗塞で倒れて頭が……
というか
記憶が曖昧になってきた頃から
絵も描かなくなった

几帳面な性格で
絵を描く自分の部屋はいつも片付いていた
目を閉じても何がどこにあるかを探り出せるほどだった

それも
脳梗塞の進行とともにかすれてゆく

酒も飲まないので
遊びもしないので
時間が止まったように過ぎる日々を送り

秒読みが始まると
秒針がいらないほどに
静かに呼吸だけを続けた

————————————————————————
◆ 四日前

寒さが来るとニュースが伝えても
元々が寒さには弱音を吐かないので
それほど苦にしていなかった

死の時刻が迫っていた
そんなことには気づかない
誰かが察することができたのだろうか

姉には
わかるのだ
予感なのか

ジンはどうや
電話をかけてくれたのか
前もって問うこともなく
この家に来たのか

兄弟には淡白だった
喧嘩をするようなこともなく
付き合う人たちにも
悪く評されることなど一切ない

日常の人付き合いも
そのままの顔で
蔑まれたり妬まれたり
憎まれることなどもない

自分を主張することもなければ
無駄に意地を張ったり
相手を貶したりもしなかった

寝床に伏しても
我が儘をねだることもなかった

したがって
人間関係において敵など居なかった

しんしんと一つの方向へと
向かっていたのだろう

静か過ぎて
気づかなかったのは
ムスコがアホだったとしか言いようがない

————————————————————————
◆ 三日前

明日は大寒
明後日はツマの誕生日
そう思っていたのだろう

自分の心臓の勢いが弱くなっている
そのことに気づいていたのだろうか

周りが少しざわつき始めるけれども
隣に住むムスコは仕事に出かけてゆく
月曜日

30キロほど離れたところに住むムスコ(カズ)は
この人の微妙な変化など何も知らない

正月に会って
話したことすら
どんな内容だったかも忘れている

まさか……
と楽観的に考えているのか

最期に及んでどんな言葉を交わしたかなど
誰も知ることができない

逝く人のほうも
意識がぼーっと朦朧になり始めて
あらゆることが記憶にとどまらない

カズのことも
気にとまらなくなっている

————————————————————————
◆ 二日前

隣のムスコは仕事に出かけ
危篤が迫るのを
ムスコたちは何も知らずにいる

ざわざわと人が集まってくる
しかしながら
いつものようにお粥を啜り
えらいなあ、ぼーっとするなあ
と言うていたのか

カズは何をしとるか
正月から顔を出しておらんな
東京に行って就職で京都に来て
そのあとこっちに帰って来ても
ロクに話もしなかったなあ
と思ったは夢の中のことか

もしも
あの世で再会できたら
そのことを問うてみよう

夢うつつの時間が過ぎて
食欲も衰えてきている

————————————————————————
◆ 一日前

ミエコさん(姉)が来る
家族(ツマ)と並んで布団に入って
さすってもらったり
何やら話しかけてくれたりする

記憶はうっすら・ぼんやりとして
周囲の人は予感を感じたに違いなかろう

離れたムスコは何も知らない
誰も知らせようともしない

ムスコ(フトシ)は覚悟をした
しかし兄を呼ばない
まだ生きると信じている

————————————————————————
◆ その日

姉やツマが悟る
残された人の話によると
既に相当に意識がぼーっとしてたらしい

ビールが飲みたいと言う
しかし付き添っているツマは
こんな状態で飲ましてはならんと考えた

代わりにお茶をやる

「ビールと違うやないか、まずいなあ」
そう言うて寂しそうにする

他人(ヒト)が飲むと真似して飲んだ
だから楽しそうに飲むことが多かった

タバコも嫌いなくせに吸う真似をしたし
お酒は好きだったわけでもないのに
好きなふりをした

くしくも
そんな言葉が
最期になった

死んでしまう間際でも
そういうところがあった

さよならとふる手を濡らす春の雨 - 啓蟄篇 (裏窓から)

雨水が過ぎて啓蟄へと日々が刻まれてゆく

その間にオオツカ先輩に会いに行き若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」を読み
ひな祭りのあくる日に生まれて一度もひな祭りをしたことないかもしれない母を訪ねてゆく

カンレキの父にも母にも何もしなかったわたしなのにムスメが何かというので万年筆をと答えた

三年前から産休に入って二人目も続けて生まれたのでまだあと一年余りは仕事に復帰しないだろう そろそろ働きに出ねば家計運営も揺らぐかもしれないのに

🌱

三月になって周期的に天気が崩れるようになり、まさに三寒四温の日々が訪れた

雨あがりの石畳の坂道をゆっくりと行き来しながら時間を待ったある時代が無性に懐かしい

センチメンタルでノスタルジーに満ちた感慨がある一方には自分に言い聞かせるようにあのころの自信に満ちた姿を回想するぼくがいる

若いときは確実性など重要視せずに、質量がもたらすエネルギー量よりも速度によって生み出されるエネルギーを、最上の美しさのように捉えていたのだ

ヒトは、そういう刹那を「がむしゃら」とか「ハングリー」などという形容詞をかりて褒めてみたり貶してみたりする

それも四十歳すぎのころまでのことであろう

その年齢を超えたら 誰も何も言わなくなってきて

叱らない、笑わない、褒めない、貶さない、蔑まない、罵らない、咎めない

大声で注意もしない


🍀 雨が好きと嘯いている水たまり
🍀 やれやれと春を迎える支度して
🍀 さよならとふる手を濡らす春の雨
🍀 あなたとはここで別れる春の雨

三月を迎えています
卒業の季節です
初旬には高等学校、下旬に大学の卒業式でありましょう

卒業という言葉からは人それぞれの思い出が蘇ります

その時期に間違いなくあった節目や転機の重大な意味を数十年後になってようやく気づくこともあります

自分の活躍するステージを大きく変化させる人があれば、一方で同じステージで勢いよく加速をする人もありましょう

わたしの年令ではステージを降りる人もたくさんあります
そしてまったく新しい世界を探し始める人もあります

こんな季節が偶然に春であったのかそれとも春であるから大きな節目が合うのか

この季節の時空を「サクラサク」という電報が飛び交ったのは今や伝説的なものになりました

しかし、いつの時代になっても、ヒトの心は咲く花や散る花に息吹を吹き込まれて新しい形へと感化され続けるのだろうと思います

花といえば、井伏鱒二の「コノサカヅキヲ受ケテクレ」訳詩であるとか、世阿弥の花伝書(風姿花伝)「初心忘るべからず」の言葉について触れたことがありました

歴史に残る言葉や教えの数々には表面的なものだけではなく奥深くにまで真意が及ぶものも多く、昨今、軽薄と危惧される現代人が誤って理解して都合よく伝えを塗り替えかねないのが心配ですが

🌱

卒業の季節
身のまわりに生じた変化に乗って頭をリセットして、少し「哲学的」に色々と考えてみようかな、と思う

卒業のことであれこれと思い浮かびます

もう四十年ほどむかしのことで、記憶は曖昧です
そんな「遙か」と形容をしてもいいくらいの年月が過ぎました

このごろはそれを「遥か」と書くか「僅か」とするか思案することが多くなりました
その真意をわかってもらえる人は「僅か」かもしれません


わはく(秘)伝

 

金子兜太さん 逝く 雨水篇 (裏窓から)

裏窓から・雨水篇を書く時節が来たのに
なかなかまとまらない頭を突っつきまわしているときに
大変なニュースが飛び込んで来た

かつて私は金子兜太さんの著書を読んで
人生の後半戦を生きてゆく考え方を
おおもとから見直してしまうほどに
大きな影響を受けている

カラカラとした語り口で(筆致で)重い波のようなことを
さらりと言ってのけてすまし顔をしている

実際のお顔はご覧のように渋いのですまし顔という表現が
相応しいかは意見があるかもしれませんが
とてもすまし顔をするのが似合うお人だと感じたのです
照れ屋さんのようですし


ブログには少しばかり感想が書き残してありました
自分で読み返してもさっぱり意味のわからない感想もあって
おそらく誰も読んでくれないのだろうなと思いますけど

  1. いつもと同じ春、いつもと違う春 ─ 啓蟄篇0
    「まずまず」の暮らしが動き出しているようです。金子兜太さんは「他界」のなかで、逝ってしまう人はもう一つの世界に移ってゆくだけで魂までもが消滅するわけではないのだとお…
  2. 金子兜太 他界
    金子兜太 他界2015年2月20日 (金)図書館で借りたのでさらりと読んでホイと返却してしまった。読み終わったあと、し…
  3. 春はじりじり
    に立たんが少しは手伝っているかな。雨水。金子兜太を読み始めました。さっぱりした作品です。引っ越しの荷物運びなどの予定で休暇にしていたのですが、割と暇だったので…
  4. 温い日寒い日 ─ 雨水篇
    書館に予約を入れておいた本が届きました。金子兜太さんの「他界」です。少し前に金子兜太さんの語る 兜太 ─ わが俳句人生 金子兜太を読んで以来、カリスマ的に手が…201502119takaiimg_1510
  5. 語る 兜太  ─  わが俳句人生 金子兜太金子兜太さんという人は、朝日俳壇の選者もやっていて、テレビで何度か見たことがあり、ラジオでも話を聞いたことがある。95…
  6. 金子兜太 わが俳句人生 語る兜太
    BOOKs(読書日記)から金子兜太さんの魅力と凄さはいったいどこから湧き出てくるのだろうか。そう思うと、むかしを掘り起こして、自らが描く姿にお目…
  7. 枯野
    よく眠る夢の枯野が青むまで  金子兜太私は夢をほとんど見ない。眠ったら朝までまっしぐらで、眠っているときの歓びはない。したがって、どんな寒い朝でも起…