ほんとうに断捨離するべきもの - 立春篇 (裏窓から)

遅くなりましたが
立春篇です

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この二つを一月に書いて
ぼくは迷路に入り込む
六十年という歳月を生きてきて
偉そうなことを言うつもりは毛頭ない

むしろ
四十歳を過ぎて五十歳を回ったころに
自分の子どものことも
さらには
子どもを取り巻く社会のことにも
不満と不安をもって
社会やその体勢や
そこで先頭に立って走る人物の人間性に
どことなく怒りを爆発させていた

だが
心配はいらない

もうそんな気持ちは収まった

ぼくは
「伝える」「遺す」
という言葉が引き出そうとするもっと重みのあるものを
一生懸命に自分の人生という過去の中に探し出そうとして
焦っていたのだ

そう思うことにした
いや気づいたのだ

つまり
何かを引き継いだり伝えたりできたとしても
それは精神論であったり
形のない遺産であって

新しい時代の新しい人類のヒトたち
即ちぼくの子ども、孫、ひ孫たちには

それほど役立たないのだということを
自分自身に冷酷なほど強烈に知り
納得しなくてはならないのだ
と思うようになったのだ

あっけらかんと言えば
いつ死んでも誰も困らない

もしも一瞬だけ困ったとしても
パスワードのわからない開からない宝箱は
丸ごと棄ててしまうだろう

新しい時代の人類は宝箱などには
それほど関心がないのではないか

それにもっと言えば
宝物の価値は新しい人類が決めるのだから

断捨離という流行言葉があるが
なんて馬鹿馬鹿しい言葉だと一蹴していたのに

ちかごろ
本当に断捨離が必要だったのは
ぼくの勉強部屋(書斎)のガラクタではなく

自分の自伝や遺言じみたものではないのか

そんな自爆な(秘伝)が浮かんでくる始末だ

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鬼はどちらへ - 鬼は外 そっと裏口の鍵開けておく ━ 節分号 (裏窓から)

鬼はどちらへ ━ 鬼は外 そっと裏口の鍵開けておく

▪️ 鬼は外 そっと裏口の鍵開けておく

鬼は外と叫んだ日は遥かむかしのことだ
大人になってすっかり息を潜めてしまった
果たして現実的でないからといってやめてしまって良いのだろうか
もっと真剣に鬼は外・福は内と叫ぶことが必要なのではないか

ハナからそんな古典的伝統をバカにしているヒトたち
伝統儀式など迷信の延長なのだと高を括るヒト
十分に現在の暮らしに満足して貧しさがあふれた昔の暮らしを引きずったような風習には無関心だというヒト
たった今を生きてゆくので精一杯で他人のことなど構っておれないだろうというヒトもあろう

鬼を心に棲ませる
閻魔様を忘れない
仏を心に秘める

罰が当たるのを恐れる
神の眼差しを感じる

今やそういう時代ではなくなった

コインを二つ三つ手に握って
食べ放題・飲み放題という店へと出かける

ホンモノを見失ってしまった時代を嘆いたことがあるが
そのあとにはホンモノを見分けることのできないヒトが溢れ
もはやホンモノを求めないヒトが常識化し
物の見方が薄っぺらくなってきて

一方で豊かな暮らしを求め続け
あたかも満たされたような錯覚が広がり
幻影と実像が区別がつかないヒトが増えてゆく

回転すし屋が食べ放題に転換しているというニュース
適齢期を少し過ぎた(かも)という女性が五十歳ほどの男性を紹介されたという呟き

モノがどのようにあるべきか
を考え続けると理屈を言うといって煙たがれる

どちらが間違っているのか
何がおかしいのか
考えようとしない世相

やはり
鬼は必要なのだ

どこにいってしまったのだろうか
頼りになる鬼


2018年2月 3日 (土曜日)
増殖する『新・裏窓から』

あれが最期 大寒篇 (裏窓から)

あれが最期 大寒篇 (裏窓から)

平成10年(1998年)
1月の暦を調べると20日が大寒です
そして21日が母の誕生日で67歳を迎えて
22日に父が亡くなります
父は66歳でした
3月20日で67歳になるはずだった

気象記録データを調べると
市内の観測所で測定した最低気温が
22日に2.3℃、23日に3.0℃、24日2.6℃
となっている

とても寒い北風が吹き荒れ
葬儀の時にも寒さが容赦無く襲い掛かり
私はそのあと2週間ほど激しい風邪ひきと前例にない声枯れに襲われたと記憶している
私の弟も(あれから20年たち)86歳になる母も
あのときのことや葬儀のこと、そのあとのことを話すと一致して同じことを言う

しかし、気象データは2℃以上あって、二、三日前の寒波よりも温たいことになる
記憶がいい加減で曖昧なのか、色褪せるのか、それとも人が死んでしまうようなことがあると身体がまた違った反応を示すのか
私の父は数年来に経験がないほどの寒い日であった1月22日の正午前に亡くなったと大勢が記憶している
そんな記憶があるのだということは事実である

その1週間ほど前から周りの人はそろそろを覚悟したり、まさかまだやろうという感触を持ってみたりしていたそうだ
本人はふだん通りの日常を過ごしていたのだろうと思う

車で1時間ほどに住む私のところには何の連絡もないし心配事を伝える電話もなかった
私の方も別段に憂うことも心当たりもないので、冬が終わって春が来て、きっとのらりくらりといつまでもこのままでいてくれるだろうと考えていたのだった
のちに私は自分の日記にあの頃の様子を母が話してくれたのを書き残している

近づくところ

「なあ、うちのお父さんが逝くときには、どんなふうやった?」
「そうやなぁー」

と母は目を細めて話し始めた。
高血圧で、脳みその中のあちらこちらで血が滲んでいたのだろうか。

「その日の二三日前には既に意識がぼーっとしてたなあ。ビールが飲みたいと言うので、こんな状態で飲ましてはならんと思い、お茶をやったら、『ビールと違うやないか、まずいなあ』と言うてやったわ」

「どこかが痛かったとか、そういうことはなかったのか」

と尋ねると

「そんなに苦しがることはなかったな。布団に入ってスースーと眠っていて、(父の実姉と三人で布団に入って)向こうから姉さんが身体を暖めて、わたしがこちらから暖めていたんやけど……姉さんが『なあ、仁(じん:父の名前)、冷たくなっていくわ。あかんな、もう』と言うて……あれが最期や」

🍀

さすがにここまで書いて
私もペンが揺れるわ

少し休憩

旅路のはてに求めたもの

遥かむかし
旅路の果てで
心から切実に願ったこと
それは何にも縛られぬ
解き放たれた自分の姿だった

だが、しかし
ある場所に辿り着いてみるとそれは
幻想にも似たもので
空間をさまよう得体の知れないもの
カタチのなどなく
影もなく

現実からはかけはなれた夢物語であり
負け犬が見た逃げ道の筋書きにも思えた

夢など追うて生きてゆくことなど
実に儚いことだと感じたことと
それに気づくことの遅かったことを
不安と疑いの気持ちで知らされるのだが

認めたくもない気持ちが
自分自身と葛藤していた

あのときにあそこで気がつけば良いものを
運命の知らせも察することなく
願いも叶わず
ひたすら夢を追いかけ続けていた

間違いではなかったと
言い続けている自分を
いち早く捨てねばならないのにもかかわらず
着地点から目をそらせ続けていた

ぼくは
遥か遠くまで
旅をしてきたのだが
辿り着いたところは
青い鳥が見つかった夜明けのように

ぼくと背中合わせに
潜むかのようにあったステージだった


逝く人や伝えたきこと問い返せず ─ 冬至篇 【裏窓から】

▶️ この世をいとおしい、去りとうない、と思うて逝かねば、残された者が行き暮れよう 小暑篇 【裏窓から】 – Walk Don’t Run –

これを書いたのは七夕のあくる日だった

そして作家の葉室麟さんが亡くなったのは冬至(22日)を一日過ぎた十二月二十三日のことで、翌朝の新聞を読んで知り驚く

**

小林麻央さんの悲しい知らせのニュースのこともあって夏の盛りには
▶️ 「いつ死んでも後悔するように生きる」その姿を考える ─ 立夏篇 【裏窓から】
という回想もしている  - – Walk Don’t Run –

刻々と月日は過ぎてゆく
次々と此の世をさる人の中に同世代が年々増える (同世代=年齢±6歳)

私の父も六十六歳という年齢だった
そのことをこのごろになって考える
20年前には思いもよらなかったことを考えつく

たぶんあの年齢のときにあの人は
とてつもなくたくさんのことを考え
小さなことから大きなことまでを
尽きることなく案じ続け
それを言葉にできずに悔しがり
伝えられず考え
その果てに諦めたのかもしれない

**

亡くなった人にはそれぞれの人生があった
それははかり知れないものだが
何一つにも無駄はなく失われてはいけないものだったに違いない

まだまだ生きねばならない人もあっただろう
生きる必要もあったし
生きて
やらねばならないこともあったはずだ

そのときは予告通りだったかもしれないし
曲がり角を曲がって突然現れるようなものであったのかもしれない

**

死んでしまって
此の世で忘れ去られようという時期が
いつやって来ても
あの人はかけがえのない人であった
と振り返ってもらえるような足跡を残さねばならないし
いつまでも語ってもらえるようなヒトでありたい
と考えて生きてきた

何よりも悔やむのは
その様々な場面において
きちんと義理を果たして来なかったことだろう

**

さあ、私の番が近づいている

あれこれとそんなことを言いながら年賀の宛名を書いている
近年、宛名を書くのが座禅のようで楽しい

12月27日朝日新聞
12月27日朝日新聞

– Walk Don’t Run –

落ち葉舞う師走の風は冷たかろう ─ 大雪篇 【裏窓から】

師走を迎えて本格的にいよいよ来たかと思わせる寒波と共にフォークソング「風」を作曲してヒットさせた、はしだのりひこさん死去のニュースも飛び込んできました。

1960年代の後半から一世を風靡した「ザ・フォーク・クルセダーズ」や「はしだのりひことシューベルツ」の名前を知らない人も多いかもしれません。

五十年という歴史のページをパラリと捲ってすべては過去の中にしまい込んでしまうこともできましょう。

けれども、それでは少し気が収まらないというわけで、酒を片手に音楽を聴いてあのころ・あの人を偲びました。

北山修・はしだのりひこのコンビでヒット作を放った「花嫁」も回想するなかに出て来ます。

「花嫁は夜汽車にのってとついでいくの」と歌っても何の違和感もないどころか、夢とロマンに満ちていた時代でした。

天国にはこわい神様がいて地上へと追い返されることもあったのかもしれない。

しかし今も昔も「プラタナスの枯れ葉舞う冬の道」は変わりなく、京都・都大路には「プラタナスの散る音に振りかえる」人が溢れて賑わっていることでしょう。師走は刻一刻と暮れていきます。

これを書き始めた日から配信する日まで、日一日と目まぐるしく変化する波のなかで、今年一年を省みて漢字を考えたりしながら、ふっと五十年を振り返ってみる時間があったので、ここに覚え書きをしておこうかなと思ったのでした。


もう少し書き足したい

熟熟:つくづく  年が暮れゆく前に考える - 小雪篇 (裏窓から)

「よく芸は盗むものだと云うがあれは嘘だ。盗む方にもキャリアが必要なんだ。最初は俺が教えた通り覚えればいい」

立川談志の語録にある。師匠は弟子にお辞儀の仕方から扇子の置き方まで、相手の進歩に合わせながら導いたという。

「あのなあ、師匠なんてものは、誉めてやるぐらいしか弟子にしてやれることはないのかもしれん」

「盗むほうにもキャリアが必要だ」という温かみがあってしっかりと相手を分析している眼が素晴らしい。この人の凄さの一面なのかもしれない。

🍀

「技は盗め」「黙って見て学べ」「一を聞いて十を知れ」「聞いてわからんなら見てもわからん」と一般的によく言われ、私の父もコツコツと農作業をする傍ら口癖のように私に呟くように話したものだ

それを否定する談志師匠の言葉である。

人を育てることの難しさは、この二つの正反対の言葉を融合させて同じ方向に力を向けるところにあるのだろう。

優しい心遣いと厳しい指導力があって実現できる。

🍀

私が社会人になる時にある人から助言として「自分が世に出て大物になるより人を育てて大物にしていけ」という言葉をもらった。

どこまで私がその人の助言に忠実だったかは反省するところも多いのだが、人が持っている力をしっかりと見つめて押したり引いたりしながら大きくするのだという心が言葉の奥には潜んでいる。

🍀

一子相伝。父は私に何かを伝えたかった。それはあまりにも多過ぎたのか、大き過ぎたのか、困難だったのか、私には一つとして受け継いだという納得の物がない。

年末に思う。

上手に藁縄を編み込んで草鞋を作ったり注連縄を作っている父の姿を思い出す。

正月前にはカゴに溢れるほどの出来上がった注連縄をどのようにしていたのか、友人知人に配って歩いたのかさえ知らないままで暮らしていた。

青く瑞々しく逞しい藁が注連縄に編み込まれてゆくのを黙って見ていたこともあったが、編み方の技を教えてくれと進み出たこともなければ、その注連縄を手にとってじっくりと眺めたこともなかった。

師は黙ってモノを作り言葉少なく人生を語った。

子どもに将来の生きかたを語ったに違いないが、言葉は消滅して何も残らない。

🍀

私は伝えることの難しさを熟熟とこの頃になって感じる。

語るのはうしろ姿だった。そして今はうしろ姿の面影だ。

藁をぐっと巻いて締め上げる時に彼は何を考えていたのだろうか。

何を伝えたかったのか。

年の暮れになるとその思いに迫られる。

正月があける大寒の時季を迎えると二十回目の命日を迎える。