飾り気のない素朴なものを摘みながら明日は忘れていてもいい話をする 【裏窓から・立秋篇】

ともだち (七月中旬号)を書いてから何日かが過ぎる

その間にさりげなくツマにこの話を持ちかけてみたところ
「ともだちってのはなんでも話せるけど話せるだけやからな」
と喋りはじめたところで、ツマは大きく相槌を打ちながら
「そういうところがええのよなあ~」
という

「何の支えにもならないし命を賭けて協力し合うなんてほとんど稀で所詮『なかよし』なだけで『ともだちって大事ですよね』という言葉がもたらしているほんとうのともだちのイメージと大きな隔たりがあるのではないか」
と言おうとしていたところを遮られてしまった

そこでさらにぼくは
「たかが学生時代に偶然に同じ釜の飯を食うことになっただけで、一、二年の短い時間に何が分かり合えるわけでもなかったと思うのよ。どん底で一緒に苦労をして過ごしたりしたなら別やけど、たまたま出会ったお見合いの相手も変わらんやろ。もちろんお見合いというシステムは素晴らしい出会いのシステムではあるけど、ともだちをお見合いで決めるというのは一種の無謀な気がするのや」
と付け足した。

++

そのあと、ツマと何を議論したわけでもない

(ぼくたちは)一瞬のタイミングで偶然に出会った仲であり、我々をつないでいる不思議なチカラは、すごく安定してプラス(+)もマイナス(ー)もうまい具合に吸収しているのだ・・・
と似たり寄ったりなことを考えていたのではないか

「我々をつなぐ」不思議なチカラは決して世間一般にある「なかよし」なものではないし、「一日じゅう喧嘩をするように言い合いをしている」と身近な誰もが言うくらいだから「なかよし」でも「ともだち」でもないだろう

「なかよし」や「ともだち」というものはそう簡単に言葉やカタチには表現できないものなのだということが、考えてゆくに従ってわかってくる

おまけに、夫婦というものも得体の知れないチカラで繋がるのだということを再確認して、そんなことを考えて妄想にふけっているのだった

そんなときに大学時代に一二年を共の過ごした「ともだち」の一人がメーリングのグループから抜けてしまった

可哀想に、抜ける決心をするまでは、さぞかし窮屈な時間を過ごして辛抱を重ねたのだろう

これまでの人生をおくった様々な社会のなかで、ポチッとボタンを押して簡単に次のステップへとステージを変化させるようなこと、それは、組織を抜けたり、誰かを動かしたり、何かを壊したりということにも共通することで、このように変化を求めて移れるようなことはとても珍しい部類になる

何事も思い通りに使いこなせる術を、完璧に習得できることは素晴らしいことなのだから、そのことを考えると、思案時間の長短にかかわらず、ポチッと押してグループから抜け出て、新しいステージへと移ろうとする人には、さぞかし窮屈な瞬間があるのだろうと想像するのである

今は、スッキリしたことを願ってやまない

++

ヒトは、絶対に完成できないようなジグソーパズルみたいなシナリオの上で生きている

合わないこと、できないこと
悔しいこと、憤ること
許せないこと、不条理なこと
悲しいこと、うれしいこと
涙さえ出ないようなこと
などにまみれて暮らしている

そんな中で、
涙を見せたり、隠し通したり
笑ってごまかしたり
怒って見せたり
幸せを粧ったり
して生きているのだ

そしてこれからもそうして生きていかねばならない

 

🍀

ツマがおゆうはんのまえに小鉢を出してくれる
居酒屋風でちょっと気に入っている

この日は長芋とオクラ
またある日は、カマスの塩焼き

飾り気のない素朴なものを摘みながら取るに足らない話をする
明日は忘れていてもそれはそれでいいのだ

(八十八夜に考える)

(八十八夜に考える)

案を練る歓びと
作る歓びと
完成品に見とれる歓び
などありましょうか

黙々と手や脳みそを動かす時間は
私たちが永年
すっかりとその本質を注いで
その本当の姿も忘れていたかもしれぬもので
そういう原点に戻ってくることってのは
ヒトの本能であるのかもしれない
と思うことが増えています

アホみたいに何かに取り憑かれたように
ある種のガムシャラで生きてきた長い年月は
一言で申し上げれば愚かであったとまで断言できないにしても
ある時代の人たちが魔法にかかってしまったようであったことは否めない

多くのものを取り戻すことは
ちょっとした困難を伴うけど
それこそがそのヒトの本当の腕の見せ所なのだろうと思います

捨てたくないモノを捨てて
新しいステージを築く時の
歓びを讃えましょう

🌿

私はそんなメモ書きを
放置したまま
この春を過ごしました

激しく生きてきた
一時期のような
弾け飛ぶような
パワーは今はもうありません

しかし
冷静に物事を見つめて
見送る心が
少しずつ満ちてきているように
自分では思っています。

新しいものを生み出したり
触発するような閃きもありません

生きている - 清明篇 【裏窓から】

(四月四日 清明)

社会悪を切り
世間の不条理を掘り起こし
人間関係のつまらなさを嘆き
友情の脆さを指摘し
愛情というものは儚いことを悟り
情熱は冷めやすいものだと見つめ直す

併しながら
長くて冗長な時間に大きな価値を見出し
生涯を共にする人との出会いに感謝し
人生で出会った師匠にこの上なき敬意を抱き
新しい時代を受け継ぐ人に最低限度で最大の言葉を残したいと願う

夢は叶わずとも儚きことに美学があると独りごち
自分の正義を自問をし
怒りと諦めと無駄の流転の中で
泰然と生きている

🍀

ここに書いた一行一行の中に
それぞれ展開をして
あれこれと書きたいことがある

けれどもそのことには触れずにいよう
角が立つこともあるし
反発も食らうし
毎度のこと 変わり者扱いされるだろう

🍀

思いがきちんと伝わらないのは
私の力量不足に他ならない

ともだち-春分篇 【裏窓から】

友だちは大切だという
大切には変わりないが


これまで散々世話をかけたりまた心の支えになってもらったり
ときには人生への訓示となるような話をもらったりしながら
友だちに支えられて生きてきたわけである

しかしここに来て
そのような間柄にあった友だちとは一体どういうものなのだろうか
と考えさせられることがこのごろ多い

それは「果たして」という自問から始まってゆく

友だちって掛け替えのないもので何よりも大切なものです
という声は当たり前のように聞く

「果たして」の正体とは何か

ほんとうに大切なものなのだろうか
とい疑問が湧いてきたあとに
その自問に自責の波が覆い被さる

🍀

友だちのおかげでこれまで生きてこられた

つまりそのことに感謝をする一方で
その人たちは人生において
寄り添いながらも掛け替えのない大切なものなのだろうか
いつまでも燦然と輝く宝のようなものなのだろうか
と再考している

🍀

今を生きるのが精一杯で
暮らしにゆとりを失い
お手本のような人物になれるわけでもなく
毎日を生き抜くのに必死で
明日からの日々に遭うかもしれぬ予期せぬインシデントに
怯えながら私は生きている

そんな私から周りを眺めれば
押しなべて
富める人と富めない人の両方を見て
考えることができる

十分に幸せに毎日を送り
暮らしにゆとりがあって
まっとう日々を過ごしている人は
この先を読む必要はないだろう

問題なく暮らしている人がいる一方で
正反対の暮らしをしている人がいる

不安定な日常を刻々と送り
金のやりくりも苦心して
それなりに我慢をしながらも
いつか夢を叶えるために
無心に頑張っている人がいる

その人たちは言葉にしてしまえば
寂しい日常でありながらも
気持ちを切り替えて
元気を出して
哀しみは見せずに
生きている人たちだ

幸せな人の声が
(ネットやSNSでも)
自分の耳にい届いてくるのは
幸せな人が自分の幸せなことだけを
あちらこちらで呟いたり
吐き捨てたりするからであって

その反対座標の先には
言葉にならないため息が
おそらく掃いて捨てるほどに
たくさんあるに違いなく
それらはじっと堪えて
噛みつぶされているに過ぎない

🍀

友だちや先輩やかつての同志などにも
随分と会わない日々が続く

お互いが叱咤激励し合いながら
ときに競い人生を着々と歩んできた過去があった

アクティブに変化をしていたあのころの興奮から
煮え滾っていた熱気を急速で冷却してやり
俯瞰的に振り返って眺めてみると
もはや遠い存在のようになってしまっている友だち像が見えてくる

或るときは遠くから
あるいは近くにいて
刺激し合い支え合った仲だった

富める暮らしならば筋書きどおり
けれども
貧しく不幸な人生を送っていて
何も力になってやれない人物がいると
(まさにそれは自分自身であるかもしれないのだが)
無力を感じる

詰まりは
友だちなんてのは触媒にはなるのだけど
中和剤や解毒剤にはなれないのだ

🍀

ある種の隔たりや格差や不運が
さらには仕事の都合で遠くに住み
家族ができて疎遠になり
やがてお互いの距離が遠くへと離れてゆくのを
感じるのは仕方のないことなのかもしれない

不幸にみえていても幸せなこともあれば
幸せにみえても悩みを秘めていることもあろう

春分の日の車窓から
春分の日の車窓から

こんな世の中だからなのか
自分が生きるのに精一杯だからなのか
他人は他人と割り切っているからなのか
それって自業自得だろうと思っているのか
世の中を生き抜くのは金だと思っているのか
負け犬にはなりたくないと思っているのか
今を燃え尽きようと思っているのか

・・・

🍀

そんなふうに
友だちは
幸せなときは幸せなりに幸せを装飾させてくれた

けれども
今の自分自身に化学変化を起こさせてまで
何かに近づこうとはしないから

だから
友だちってのは
もう役目を終えているような気もするのである

🍀

行き着くところは
自分を映した鏡の中の自分であるような
逃げ場のない一瞬であり
睨み合う自分の姿なのだ

憎しみや悲しみというものは 赦したり忘れたりできるものであろうか

一月尽

数々のいじめ報道のニュースを見ても電通の過労死事件においても茶番劇のように思えてくることがある
もはや、私は冷めてしまったのだな、という寂しい感慨を抱かざるを得ない

だが、決してこういった事件自体を突き放しているのではない
当事者のみなさんと同じように悔しい思いを持ち憤りを感じている
重要社会問題として捉え、今後の解決課題として必須であろうと思っている

しかし
メディアの御都合的報道では事の本質には何も迫れないとも思うとやるせない

報道メディアは仰々しく正義を見せて大衆に呼びかける一方で
茶番劇のようにしか見えてこないのには理由がある

それは
これらの事の実態はもっと泥臭く水面下は膨大な氷山であること、
これらの事件の陰や裏には悲惨な思いをした人たち一人一人の届いてこない無数の叫びがあること
などを丁寧に掘り下げるべきなのだ

わかっていながら追求しようとしないから歯がゆいのだ
どんな些細なものであっても切り捨てて消滅させてはいけない筈である報道メディアが
弱者のスタンスにまったく寄り添っておらず
弱者の世界での声を聞こうともしていないように思えてならないのだ

だから、冷めて見てしまうのだろう

🍀

事件の裏や陰には無数の声や叫び、怒り、悲鳴、嘆き、泣き、諦めのつぶやきが必ずあったに違いない

私が「パー」で大馬鹿な会社を辞めるときにも周囲では同様の声があった
身近な人が叫び、もちろん私も叫んだ
しかし、それらは誰に注目されるわけでもなく、どこにもオモテに出なかったのだ
報道は大勢の言い分を筋書き通りに書いただけで
社会の枠の外から高みの見物をする人たちを楽しませたに過ぎない

社員およそ10万人のうちの約3万人近くを
「自主退社」とか格好・体裁がよい「人員整理」という形で 処分したときにおいても
どれだけの人間が叫んだのか、誰も知らないままだった

声は誰にも聞いてもらえることなく時代は幕を閉じて新しいステージにすり替えられてしまった

🍀

現代でいう差別やいじめの陰湿さやえげつなさを考えてみると
それが氷山の一角であることくらいはどんなに鈍感な人でも推測できよう

電通の過剰労働の事件、世間を騒がすブラック企業の問題、いじめやそれに伴う自殺事件にしても
実際にはもっと深くて大きな世界で想像以上に泥流やドロドロとしたものが蠢いている

人殺し、惨殺は人道に背くことは自明であるが、それよりもいじめは無残で非人間的である
にもかかわらず、世の中ではそれ以上の悲惨で卑劣ないじめや強要、誹謗、中傷、差別、迫害などが起こっている
人と人との繋がりのある箇所にはもれなく非人道的な行為があると考えて間違いではない

これらは一瞬のうちに人を殺戮する残酷さとはまったく違って
石川五右衛門の釜茹での刑罰や五条河原に生首をさらされることのように
さらには、隠れキリシタンが受けた穴吊りの拷問のように
えげつないものであるのかも知れない

人が人をピストルではないもので攻撃するときはとても卑劣なものになる

何故ならば
それはまっとうな人間が社会の安泰としぬくぬくとしたところから
非人間的に行う(動物でもしないような)許されないような行いであるからで
ピストルというような明確な武器を使わない分だけ陰湿で卑劣になりやすいことを特徴付けている

いじめや過剰労働の強要、ブラックな就業体制など、
人間の醜い行為は、従来の刑法と言う枠をすり抜けるようなものの連続で
動物の世界にはおそらく存在しないものではないか

🍀

最初に書いたように
私はもう冷めてしまっている

いわゆる大企業を渡り歩いて技術者として名誉・地位・お金を得て
悠々に暮らしてゆこうと考えたことの土台からが大間違いだったと
気が付いた時には半世紀が過ぎていた

温度差がある「ヒト」と「ヒト」との関係
毅然と尺度が異なる中での歩み寄りやら繋がり
または社会での共存・共栄の考えに
もう今更何を言う気もない

それが今である

恨みがあったらあの世に行ってから
化けて出て果たすしかないだろう
と笑い飛ばしている

父が逝った十九年前のこの季節、大寒が過ぎて舞った雪も凍えるように冷たかったが
いつの時代になってもこの季節は寒いもので
あのとき逝った人は凍える土の中であの世の三途の川を渡ったのだろうかと思うと

憎しみや悲しみというものは
赦したり忘れたりできるものであろうか
と改めて思うのであった

便利さと豊かさがもたらすもの ➖ 小寒篇 (裏窓から) 

🍀 便利さと豊かさがもたらすもの

人工知能という言葉をよく耳にする
学生の頃(1975年-82年頃)にそんなことを夢見たが
世の中は振り向かなかった
先取りしすぎで 人工知能学会でさえ数年後に発足したのだから
当時は現実味のない分野だったかもしれない
目指す定義も変化した

わたしは 人間の行動を人工知能という一つのシステムでモデル化することを夢見た
行動科学や認知心理などの方面と医学生理学(脳科学)と情報科学とを融合させるような夢を描いた
コンピュータの性能が格段に向上し夢自体が別のものを目指すことができる世紀を迎えて
わたしが当時の論文に書いた人工知能は歴史上の幻となった

♦︎

必要は発明の母である

しかし便利さと豊かさに満たされた今では必要(や欲望)などは必ず叶うもので
テクノロジーの進化で必ずや実現されてしまうものである

今では発明は必然であり 夢としての姿を もはや抱く人もなく薄れている
ヒトの不満や要望を叶えて自動車の高性能化はますます進む
けれどもヒトはそれをコントロールできずに暴走させることがある
人の心もそれを抑制できずに高速状態での事故を起こしたり
ゲームや酒を抑えることができずにいる

きっと人工知能は人の住む社会をとても便利にするのだろうし満足させるはずだ
だが一方できっと想像を絶するような愚かでアホなことを当然のようにして反省も起こらず事件を必然にしてしまうだろう
知は僅かなマイナスを押し切ってプラスを誇る

原発や戦略兵器がそうであった
情報化社会というシステムの総合体も似たようなもので
視点を変えれば人が生んだ愚かなモノだといえないか

荒んで歪んでゆく人の心を救うことができず傷ついた人を(あるいは心を)綻びを治すように繕うだけだ
やがて
人の住まない街で信号機が動き続けような
荒廃した未来が来るようなドラマじみた風景を想像してしまう

便利さがもたらすものは一つ一つを取り上げれば豊かで幸せなものである

経済は発展し物質文化はスパイラルのように向上する
一方で
間違いなく人間から人間らしさを奪ってゆき
人間から人間らしい能力を引き抜いて潰していってしまう

🍀 困った時には鏡を見る

わたしは成人のころの日記に度々こう書いた
さほど深い意味はその時にはなかっただろう

♦︎

新年にふとしたところで思いつき的に
「常に遠くから見るという視線(眼力)を持って邁進してください
困った時は一歩さがってモノを見る
見えるところまでさがってみるのも勇気」

と書いた

この言葉はありふれた一般的なものであろうが書いたあとで派生する異なることを考えていた

<大きな流れを泳ぎ渡るときに父(オヤジ)の背中と言葉を思い出してください
きっと最初の大きな壁のときにはその人の言葉はチンプンカンプンであるとか意味不明とか時には反発のことがあると思いますがこれが珠玉の金言に見えてきたら相当に一人前に近づいていると思っていいのではないでしょうか>

このわたしの意見はその子に届けることはできなかったがいつかきっと彼も気付くだろうと思う

困った時には鏡を見る
これは鏡に映った自分自身を見つめるのではなく
自分をここまで作り上げ導いた人の情熱をじっと静かに振り返ることなのだ

あの時の父の言葉が蘇ってくるようになれば一人前に近づいてゆく兆しだ

🍀 地震・雷・火事・親父

小寒から成人の日の間の頃になると父の命日も近くなることから様々な後悔や懺悔のことが多くなる
全く幾つになっても進歩のない爺爺ぃである

若い頃とは打って変わって
考え方や生きる姿勢の舵を大きく切った
義理人情の義理などは糞食らえと暴言を吐いていたことがあったのだが

このごろは 義理がこの世を渡る人の心得の中で最も大事なことなのだとまで言う
義理を果たせないような奴は人の屑だ
果たして初めていっぱしの人の道を歩む資格ができるとも言う

最初に書いた「地震・雷・火事・親父」という言葉における自らの対峙の仕方も変化してきている

去年は地震も雷も火事も災害をもたらした年であった

怖いものは怖い
親父なんてものは怖くないと思っていた時もあった
今でもそうでもないのかもしれない
逝ってしまって二十年も経てば鬼ような怖さは全くない

世の中の最も怖いものがわたしを睨みつけているとするならば
その後ろでもっと怖い眼で睨んでいるような気がするのが親父ではないか

若者よ 心に鬼を棲ませなさい

消えていくもの - 元旦号 (裏窓から )

🍀 (年末雑感) ー 言葉が消えてゆくこと

「ぬくたい」「 ひやかい」「よぼる」「いる」という言葉が消えつつあるのだと実感する
「よぼる」は「呼ぼる」であり、「いる」は「はいる」ことでお風呂に「いる」というように使う
ふと自然に使ってみて、近頃こんな言葉を話す人を見かけなくなったと閃くように思った

*

わたしの前で祖母ー孫(わたしの母と娘)が話をしているときに祖母の問いに
「ええ?どういう意味」
と聞き返しているのを見かけた

言葉に多少の不明点があっても大抵は想像で話が進むものだ
しかし
このときには何を話されたのかが全くわからなかったらしい
(書き留めず忘れたのが残念)

暮らしの中の物であれば見れば理解できるので話しは続く
しかし
モノの考え方であるとか振る舞いは想像では解決できないことがある

一緒に暮らさず、日常生活品に違いができると
昔ながらの暮らしを守る人と現代人の間には
自然にギャップが出てしまう

言葉も食い違うようになり
会話が成り立たなくなってくる

テレビ文化の侵略で地域文化が消滅してしまうかもしれず
全国レベルで暮らしの中にある言葉が一般化され共通化してゆき
さらに合理化が進んでゆく

異なった生活圏では文化の浸透度合いから温度差が発生して
非常に身近なところで(すぐ隣の空間でありながらも)大きな溝が生まれている

♠️

溝が生まれていることや
或る時代のものが消滅してゆくことに特別な寂しさ
(ときには怒りに似たもの)を感じる人は多いだろう

消えてゆくのも文化の変遷の流れなのだと言えば
消滅させてしまう側をいまさら責めることはできない

そのことに危機感を持つ人はどんどんと消えてゆき
やがてゼロになるだろう

消えていいのかという問いは
投げかけないことにしている

何千年もの昔へ遡って想像してみると
新しいものが生まれるときには
消滅させてしまう次の時代に怒りを持った人が
必ずいたのだと想像できる

この怒りを歴史として伝えた歴史上の人物は偉い
そう思う

🍀 雑感その2

修行という言葉が消えつつある
言葉の意味は、ストレートに行を修めることだ

若くて実力のある人が社長になり事業を進めるケースがある

頭が良く、キレもあり、知才も備え、人脈もある

社会と広く交流をし
大きな流れもしっかりと捉えることができ
将来を的確に見て構想を立てることができ
苦難に出会ってもチャンスに出会っても瞬時に正確に判断ができる

何かが足りないとすれば修行が足りない

早朝に井戸の水を汲み上げにいく行いを千日、二千日続けるようなことを言っているのではない

玄関を毎朝掃き清めて綺麗にし
社長の草履をきちんと丁寧に揃えて
来たるべき時を待つ日々を千日続けることでもない

ただわたしは古い人間なのだろう

温室で十分な栄養と人工の光で育てられた促成栽培の野菜と
大きな大地の畑で自然の光を浴びて育ってのちに収穫された野菜とで
どちらかを選ぶとすると
促成栽培は選ばないと思う

促成栽培の方が格段に美味しくて栄養があって綺麗で整っていても
大地の畑の野菜を選ぶような気がする

人の器とはどんなものだろうか

現代科学や経済理論さらには精神科学や行動科学が
より完成されたニンゲンを開発し続け
都合のよいキレる人材を育成してきたことは
ある側面で反省するべきことであろうとも思え

しかし誰も咎めないから
何も指摘できないし
どこか間違っていると思うのだが
主張もしない

しかし確信はある