柴崎友香 春の庭

宮下奈都「ふたつのしるし」絲山秋子「離陸」柴崎友香「春の庭」の三冊が棚積みのなかで目立ったので、とりあえず書店員さんのセンスを信じて三冊の中から絲山秋子を選んだ。

裏切りも失望もなく読み終えたのだが、残してきた二冊に後ろ髪を引かれるようだったので、柴崎友香を買って読むことにした。

宮下さんは慌てなくてもええような気がした。
春の庭は芥川賞作品なのでちょっと期待も大きい。

読み始めた時に私の芥川賞読破履歴をきちんと調べず、とにかくワクワクで期待も大きい。
読後に調べて見たら、宮本輝の螢川と絲山秋子の沖で待つ、さらに、村上龍の限りなく透明に近いブルー、朝吹 真理子のきことわを読んだくらいに過ぎない。
芥川賞の読書経験はほとんどなかったことになる。

学生時代に登場した村上龍という作家のなんともシャレたタイトルの限りなく透明に近いブルーの読後印象がイコール芥川賞だったのかもしれない。
それで今回久しぶりに、最近の受賞作品を。
なるほど、これが芥川賞か。

柴崎友香 春の庭
柴崎友香 春の庭

時代の変遷で賞の色合いが変わってきたのか。
昔から一貫した方針だったのか。
なんとも言えない。

美味しいと評判のレストランを紹介されて喜んで店に行き特別料理を食べたら、近所の商店街の人気店の方が旨かった・・・みたいなかんじ。
芥川賞はしばらく無関心でいることにする。


というような感想を書いてからも
この本を持ち歩いて列車の中で読み続けた

無機質な感触でありながら
作者のもつ味が随所に出ているのかもとも思えてくる

タイトル作品(受賞作品)よりも
巻末の書き下ろしの方が
深みがあっていいのではないか

B面 鞄の中身 - 芒種篇 【裏窓から】

 

B面 「雷山無言Ⅱ余禄」をはじめる

雷山無言のカテゴリーにどうしても振り分けたくなる日記ができてしまうがあれはもう一旦終了したのだからと思い直し新カテゴリーを考えることにする

しかしあれこれと思いつくなかから詰まる所「雷山無言」を「そのⅡ」とし「余禄」篇を作ってみた。

長い間書いできた所感にはゴミが多く処分をしたいものが多くあるものの棄ててしまうには名残が惜しいく連想する思い出が出てくることがある

「 断捨離」 という言葉が浮かぶ

この言葉は世の中の人の叶わぬ思いをあたかも歯切れ良く代行しただけのもので実質的で内包した重要な課題はそれほど解決せずにふむふむと思わせるだけのものだとしか思えない

大きな声で最もらしく正義を語る現代の怪しい政治家や評論家や真っ当そうな解説者の発言にも似ていて心酔できないところがある

だからより一層のことこれまでのゴミの所感が引き続いたものを私は棄てられない

🍀
B面でいいのだ

むかしのレコードのように多くの人が目も向けてくれなかった作品でたまにどんな風の吹き回しかB面を聴いてそれを称えてくれる人が現れればそれでいい

そもそも冷めた見方をすれば所詮B面であるしAとBを決めねばならない以上どちらかがB面なのだ

近ごろの風潮として両方ともA面という甘ったれた言い方もあるようだが時代がもたらしている褒めて育てる精神の亜流のような面も感じる

だからわたしの所感はB面なのだ

🍀

肝心の所感には到達できず


 

鞄の中身

一二泊の出張に行けるほどのビジネス鞄を日ごろから持ち歩いていた

もう30年以上は使ってきたこともあって随分と草臥れたし新しいものに持ち替えてはどうだとうちの人が言うのであれこれ考えたすえ小さなショルダーバッグにすることにした

ソフトでカジュアルなものでお弁当箱がようやく入るほどのショルダーバックだ

B4サイズほどでノートパソコンも入るようなビジネス用のバックやリュックをくまなく探し回ったが長考の果てに思わぬカタチに行き着く

さて愈愈中身の引っ越しをするときが来てむかしの鞄の中身を改めてみた

折りたたみの傘、日傘、ポケットティッシュ、名刺、ポケットドライバーセット、調整ドライバ、爪切り、名札、筆箱(USBメモリ、シャープペンシル、万年筆、赤インクのペン、付箋紙、名刺、絆創膏が入っている)、手帖、アドレス帳、印鑑・朱肉、メモ用紙、物差し(20センチの定規)、夜間歩行者用の反射たすき、ルーター、100V用USBアダプタ、各種ケーブル、iPhone、イヤホン、タオル、ハンカチ、 お守り、歯ブラシ、歯磨き、うちわ、孔子(井上靖の文庫)、読書中文庫、クリアケース、水筒、缶コーヒー(冷)

まあいろいろなものを持ち歩いているのだなと我ながら感心をした

困ったことにこれらのすべてが小さなショルダーバックには入りきらないわけで無理矢理入れようとするとパンパンになってファスナーが閉まらんし何が何処にあるのかさえもわからなくなってしまう

あれこれ無いと困るのではないかと思って不安であるから入らないことが気がかりで夜も眠れないし夢に出てきて魘されてしまうところまで追い込まれてゆく


価値であるとか本質というものを 見つめる姿勢 - 小満篇 【裏窓から】

ちょうど、バイクの仲間がサンライズ・サンセット・ツーリング・ラリー(SSTR)に出かける日記を載せていたのを読む。

むかしの旅には目的地とか目標とかよりも、旅に出ることそのものや自分の旅の未完成さが生む必死根性のような意気込みが大きかったのではないかと回想をしている。

未完成であるが故に自分で何かを作り上げてゆこう、乗り越えてゆこう、未知なるものを見にいこうというようなある種の燃えるものがあった。

雲の動きはわからない。その日の天気の予測などあてにはならない。今のようにレーダー情報などない。宿の当てはない。ケータイも持たない。衣食住に纏わる道具は半分手作りのようなもので、お金を掛けて手に入れているわけではなく、決して便利で充実していたとも言えない。

しかしそれは当たり前のことだったし、もっと便利を望んだのだろうが、そんな不満のようなものやそこで生まれる向上心を胸の片隅に抱きながらの旅であった。

もしも充分に時間や金や情報があり、旅の予定が完璧に立てられ、安心が保証され、快適さが提供されていたら、ぼくは旅人を続けていただろうかと思うことがある。

🍀

小満のころは、旅の支度をしていた。

新婚旅行の二人旅に出かけたきり列車を使った旅を二人ですることはもしかしたらなかったかもしれないと気づき、なるほどと思うと同時に驚きも襲ってきた。

バイクで旅をする。そのあと子供が生まれて車で旅をした。

二人で出かけたことなどなかったのだった。あれから30年以上が過ぎていた。

そんなことを思いながら、むかしの旅のスタイルや情熱を蘇らせていた。

同じような旅のスタイルである必要は何もないし、気持ちにしても大きく違ってきてもいいだろう。

新しい時代のステージでは新しく思いついた新鮮な気持ちで旅に出よう。そんなことを考えていたのだった。

🍀

「広島・尾道 デジタルスケッチ」の日記のあとがきに

予習不足でしたが、ゆとりのあるときにもう一度散策をしてみたいです
旅に出るしたくをしなくてならない
けれどもなかなか捗らない

どうしてなのかを考えながら、そんな理由などはどうでも良くなってきて、むかしの旅は家を飛び出すときに勢いがあったたことなどを思い出していました

今回の旅は、新婚時代以来の列車旅でしたので、待ち遠しい日を何日も楽しみました

中身が濃い旅にするよりも、旅自体が楽しければそれでいいのだと思い直して、食べることとメジャーなスポットに重点をおきました

二日目には雨に降られましたが、なんとか乗り切りました

と書いた。

🍀

冒頭でも

無作為に撮り続けたカメラのデータを
するっと棄てられないだけかもしれません

デジタル機器が一般的になって
高機能な素子が普及して
身近なもののなかから
価値あるものとそうでないものの区別が消えかかっている

そういう区別からさらに一歩も二歩も踏み込んで
価値であるとか本質というものを
見つめる姿勢を世の中の多くは失っている

それは放棄してしまうことよりも
怖いのかもしれない

と書いた。

🍀

しかし
ぼくたちにできることは
この心意気を受け継ぐことなのだと
切実に思うのです

絲山秋子 離陸

サスペンスタッチな面があるけれども中途半端なところがある。
だから、サスペンスがそれほど好きじゃないわたしが読めてしまうから、この物語のサスペンス色は気にしないことにしよう。
読感のタッチは満足。

女性とは思わせないような冷たくて非情な風味を出していることで、作家像においても男性的な一面を垣間見せる人なのだ、と読みながら気づく。その感性が生む筆のタッチで、オトコの人の - 特に主人公の - リアクションや行動や心も嬉しいほどに小気味好く書いている。やはり男性作家ではないか、と思えるくらい。 ロマンチックとかスイートな感覚は欠片もない。

わたしは男性の作家が好きな傾向に(結果的に・無意識に)あるらしいが、絲山さんのこの作品を読んでいるときはその線から外れて、作家の魔術に神経が痺れてゆくようだ。マッチしているのかもしれない。

池澤夏樹が解説を書いているのを読みながら、この作品が「マシアス・ギリの失脚 」と似た雰囲気だと思った人も多いのではないかと想像してニッタリしてしまう。
一方で、ミステリアスでハード・ボイルドなら、高村薫というバリバリでコテコテ、読んだ後どっぷりと疲労感が満ちてくる作品があることを思い、絲山さんはまたそういう人たちとも違った路線で、謎を秘め込めることができる人なのだと思うのだった。

酔いしれるようなドラマティカルな小説ではない。
ドキュメンタリーが得意な公共放送局が得意としている「土曜ドラマ」的な色があって、進展に面白みがあるとか主人公に入れ込んでしまうのを楽しむのではなく、不安定でそれっぽくないミステリアスを追いかけて読み進んでゆく。だから、この作品では主人公がくっきりとクローズアップされてくるわけでもないし、オンナの人や主人公の生き方に同調するというわけでもない。確かに、乃緒という人物の神秘性に魅力を感じたりはするが、心を移入してしまうというようなものではなかった。

普段ならばこのように入れ込めないような小説であると、ツマラナイと感じて投げ出してしまうこともあるのだろうが、こんな小説でありながら惹きつけら続けたのは、やはり絲山さんの男性的な作風だったのでなはないかと確信している。

サスペンスは好んでは読まないのだが。中途半端と批判もあろうが、この作品には、こういった色合いがあったのも大きな持ち味であったと思う。

絲山秋子 離陸
絲山秋子 離陸

(話題の)恩田陸の「蜜蜂と遠来」のすぐ後に読んだのであるが、比較してもこっちの方が文学かもと思えても来る。買う際に迷った宮下奈都の作品ならば、文章に溶け込んでしまって、読みながら作家に少し入れ込んでしまうことがあるが、絲山さんにはそれもない。そういうところでも、味わいは異色と言って間違いない。

(P12)
そして悲しいことに、ぼくはしばしば自分に近しかったひとの面影すら忘れてしまう。
なによりも大切に思い、「好きだ」と何度も言ったひとのことでさえ、きっとどこかで元気に暮らしているんだろうという楽観のもとに忘れ去ってしまうのだ。
人間には想像力があるといっても、結局のところ思い浮かべることができるのは、現在とその僅かな周辺、森の端の川辺のようなところでしかないのではないだろうか。
(P43)
彼女のことを思い出すとき、人間の記憶は時系列じゃないんだな、と思う。
最初に彼女のことをどう思って、どうやってつき合い始めたかではなく、どうしても別れのところから記憶がはじまってしまう。
今でもまだ懐かしさより苦しさを感じる。
肌にくっついたガーゼが傷を破らないか気にしながらじわじわと剥がすように、言うなれば男らしさの微塵もない態度でしか自分の記憶にアプローチできないのだ。
(P94)
「回り道をするような相手はだめだね。上手くいくときは何も考えないでもサッサッといくんだから、そういうんがいい。最初に苦労すれば後からやっぱり苦労する。
なにも考えてなさげなひとのほうがしあわせなふうだよ。」

付箋は貼るつもりでもなかったのだが、電車の中でカラーマーカーを持っていなかったこともあって、何箇所か貼り付けたところがある。そこを読後に見直しても価値あるところだったので、自分の感覚にちょっと拍手を送りたい。

(付箋を貼った)前半のこんな部分を読むと、「沖で待つ」という作品で絲山秋子という作家に出会ったときの冷たさのようなモノを思い出す。

こてこてと着飾ったり、思わせぶりであったり、いかにもなセリフを言わせてみたり、壁ドンのようなシーンも無い。着々と冷たい男の作家が男の心を切り裂いてゆくような淡々とした筆を感じる。そのくせちょっとは揺らぐ心にも触れている。こういうところが好きな人には、程よい辛さが味わえる小気味よさと言えよう。

しかし早い話が、謎を放ったらかしたのか、空想に任せるとハナから決めて謎のままにするつもりだったか。という点など、野暮ったいようにも思えて、面白くないとも言えるけど、そこが味わいだとも言える。

まさに何処に行くのかわからない作品だった。
しかしながら、エピローグはすでにできあがっていたのだ。
だから、ミステリーなのかも知れない。

最後に、四日市の言葉が上手に使われている。涙が出るほどに感動する。
この作品は、テキトーに書いた作品ではないことがそこからも窺い知れる。

二人で生きている - 立夏篇 【裏窓から】

5月5日(立夏)

夏になる
こどもの日であったが仕事に出かけて
帰り道でケーキ屋さんに人の群れがあるのを見て
そうか
子どもたちにケーキを買うとか
夕飯でご馳走を食べるとか
そういう日だったのか
と気づく

日記には何も記録がなく
6日に

🌱こどもの日子どもは巣立って夫婦だけ

そんなことを書きおいて
ゆうはんには二人で餃子を食べている

当たり前のことにもっと感謝をして生きていきたい
言葉にしてしまえばタダそれだけのことである

🍀

目が見えて
耳が聞こえて
心に何らかの病を患うこともなく
身体の機能も不自由なく
生きている

わたしの父は耳が聞こえなかったのだが
日常生活であの人の苦労を推し量ることもせずに生きていたわたしは
なんと無謀な人間だったのか今頃に気づく

身の回りに至ることで考えてみると
わたしは結婚をして
子どもがいて
孫ができて
まずまずの近所に住んでいる

🍀

金はない
これは当たり前のことで
自らの能力と力量の限界から考えれば
こうして暮らしておれるのは
贅沢なほどに真っ当なのだ

人に騙されたり
悪い企みにハメられてしまったのも
今思えばお人好し過ぎた

🍀

人間というのはあれほどに
絶対忘れないぞと思ったことまで
はっとして忘れてしまうのだから
哀しいものだ

わたしはお人好しなのだ
(だったら)バチは当たらんやろ
アタマの閃きは決して良くない
だがそのことと生きる道とに相関性はないだろう

🍀

ツマには感謝している
しかしそんなことを言葉で語っても
ツマは一切喜ぶことは無く
寧ろ昔まで遡って
不平不満をわたしに向けて
これまでの人生を悲しみ悔やむだろう

🍀

しかし
それでいいのだ
仕方なかろう
誰にも打ち明けられない弱音があってもいいのではないか



わたしは
初夏の風になって
蜜柑の花咲く丘を
一気に海まで駆け下りて

あの人の前に
かくれんぼの鬼のように飛び出してみたいと
夢のようなことばかりを考えていたひと頃があったのだ

伸ばした髪を短すぎるまでに切るのもやめて
ふわりとした天然のウエーブにブラシを当ててみたり
置きっぱなしになっていた若い頃の大事なコロンを
本棚の片隅で見つけて
少しつけてみたしりている

本当に会いたい人は
何処にいるのかわからず
何をしているのかもわからない

遺す言葉 - 平成27年までのものを書き写し完了しました

遺す言葉 26〜30まで これで転写終了

「あいさつ」のメニューにて
ぼちぼちと書いてきました
(書き写してきました)

平成27年のものです

平成28年からのものは
このブログに書いています



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(八十八夜に考える)

(八十八夜に考える)

案を練る歓びと
作る歓びと
完成品に見とれる歓び
などありましょうか

黙々と手や脳みそを動かす時間は
私たちが永年
すっかりとその本質を注いで
その本当の姿も忘れていたかもしれぬもので
そういう原点に戻ってくることってのは
ヒトの本能であるのかもしれない
と思うことが増えています

アホみたいに何かに取り憑かれたように
ある種のガムシャラで生きてきた長い年月は
一言で申し上げれば愚かであったとまで断言できないにしても
ある時代の人たちが魔法にかかってしまったようであったことは否めない

多くのものを取り戻すことは
ちょっとした困難を伴うけど
それこそがそのヒトの本当の腕の見せ所なのだろうと思います

捨てたくないモノを捨てて
新しいステージを築く時の
歓びを讃えましょう

🌿

私はそんなメモ書きを
放置したまま
この春を過ごしました

激しく生きてきた
一時期のような
弾け飛ぶような
パワーは今はもうありません

しかし
冷静に物事を見つめて
見送る心が
少しずつ満ちてきているように
自分では思っています。

新しいものを生み出したり
触発するような閃きもありません