WordPress との出会い

WordPress との出会い

五月の或日にふとしたことで WordPress.com でブログを書いている人を知り、このブログがちょっと面白そうだと感じて、二三歩踏み込みかけている。わからないことだらけであるが、そのへんにまき散らしてるブログとは少し違っているように感じている。

これと出会う前に tumblr で少し何かをやってみようと試みていたのだが、着想を刺激するようなものや発想を増殖・拡散させる触媒のようなものを掴めず四苦八苦していた。そのときに WordPress と出会う。

そういうわけでまだまだあれやこれやといじくり回しております。

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あらすじ(鶴さん)

あらすじをおさらいする。

1977年の夏に偶然のことで出会った鶴さんと手紙だけの交流を4年間経て東京で再会する。それは1981年の夏ころのことだった。

大学で足踏みするわたしよりも早く東京の銀座にある優良企業に薬剤師の資格をもって鶴さんは働いていた。

わたしも技術を活かす世界に出て行きたいと夢を描き京都の会社に就職を決めた。
鶴さんと東京で会えた夏からわずか半年余りでの別れとなる。

一緒に京都に行こうと誘うのだが鶴さんには強い考えがあって、京都についていくことはできないという。
わたしはその理由を知って叶わぬ願望を抱き続けることは、自分を悲しませるだけだと考えた。
しかし、思いや感情を意思の力で変えることは難しい。
哀しみや痛みはどんなに強い念力があったとしてもそう簡単に思うようにはならない。

京都に行ってからも鶴さんとの手紙の交流はしばらく続いて、京都で再会、更に彼女の郷里の福島県郡山市でも1度会っている。

ドラマは、わたしが結婚をするという知らせの便りを出した直後で終わった。
ツマはその物語の凡そをわたしから聞いて、それは彼女の正義だったのだと話した。

物語を伝説にしてもかまわないから、鶴さんのことを形で残したいと思い、わたしは「鶴さん」を書いた。

夢に描くべき決着を目指してはいけないにもかかわらず、わたしは探せるものを探そうとした。
それがわたしの性格だったといえばそれまでだが、結末の美しさを失ってしまったのかもしれない。

アートに生きる

或るとき、わたしは父のことを回想している。
そのメモに書き出されてくる人間の姿は
そのまま子どもに受け継がれたのではないか
とわたしは考える。

即ち、父の遺した人物像はそのまま「わたし伝」にもなり得る。

■❏■❏■❏■

(メモ書き写し)

あの人は何かを書き残したいと考えたのではないか。

あの人は、書くことにおいては何も足跡を残さなかった。
誰にもいわなかったのか、いえなかったのかは不明なままだ。

ほんとうは詩人のように何かを書くのが好きだったのではないだろうか。
または、そういうものを書かずにはいられない自分をどこかに秘めていたのではないか。

そのようなことをこのごろ想像することが増えた。それも年齢が近づいてきたからだろう。

一枚の紙切れも残さなかったから、当然のこと、作品も残っていない。

しかし、ある日の夜に日記の片隅におよそ日々の出来事とは思えないような思いや物語が書いてあるのを見つけた。
それが意図的な作品だったと断言はできないし、わたしの記憶も曖昧である。

だから、今となってはわたしがこうして掘り起こそうとすること自体が既に物語りじみてしまうのであるが、あのとき のノートの端くれに細かい字でびっしりと書かれていたのは、あの人の叫びであり夢であったのではなかろうかと思う。

日記は、十数年あるいは二十数年かもしれず書き続けていたはずだし、どっしりと分厚い日記帳が枕元や押し入れとか屋根裏の倉庫とかに積んであっ たのを見た記憶がある。

ただ、母は父の日記にはほとんど関心を示さなかったようで、家を建て替えたときか、父の身体の具合が悪くなってしまったころに、ガラクタと混じって棄てられてしまったのかもしれない。

■❏■❏■❏■

父の物語にはオンナの影は出てこない。

そこだけが大きな相違点になるのである。深く調べると宝が隠れされていた時期もあっただろう。今は掘り起こす物的なものさえも残っていない。

誰にも言えずに

父は鶴さんのことについてほとんど喋りませんでした。

  • バス停で出会って手紙を書いたら返事が来たこと
  • 手紙の宛名は「北海道中央バス終点余別駅の前のバス停でアルバイトをしていた女の子様」だったこと
  • 返事が来たこと
  • 文通が続いたこと
  • 四年後に東京で再会したこと
  • その後も何度か食事に連れて行ってもらったこと
  • 京都に住んで間もなくの頃に再会したこと

そのような出来事を話したくらいで、どう思っていたかとか、どんなふうになって欲しかったのかなどは話さなかった。

ですが、東京を離れる最後の日に鎌倉へ行ったときの写真は大事に置いていて、誰がみてもといってもお母さんかわたししかいませんけど、勝手に見ても何も言いませんでした。

棄てようともせず押入れの箱に入れたまま放ったらかしにしていました。

鶴さんを読むと激しい思いがこもっているのがわかります。しかし、誰にも言えずにいたのでしょう。

紙切れメモ

[走り書き]
一枚の紙切れの端くれに走り書きがありました。

あのときに心の奥深くから
目がしらのあたりを通って
頭のなかのすべての隙間に
いきわたるほどに
スパークする衝動が走ったのでした

そんなものが
自分の感情のなかに
隠れてでも存在していたことに
ある種の違和感のようなものと驚きを感じながら
仕方ないじゃなか湧き出てくるんだ
と素直に湧き上がってくる思いに従っていたのです

冷静な一面が自分のなかにあって
こんなことをやらかしてしまって
取り返しがつかなくなったら
大変なことになると思っている自分が
滑稽なほどに冷静に行動を起こしているのです

あとになって考えれば
そういう突発現象は普段でもときどき起こっていて
判断する知性のようなモノを無視して
行動していることはあったのでしょうが
あのときに
心の奥深くから飛び出したのが
それまで長い間生きてきていながら
一度も経験したことがなかったような
揺さぶりであったのは間違いなく
長い人生には似たようなことが何度か有りながら
激しく動揺するものがたった今起こっているのだと知る
初めての経験でもあったのでした

つまりわたしは
そこにいたひとりの女の人に
釘付けにされてしまうようなことは
かつて一度も経験したことがなく
腰が抜けたように
そこから動けなくなっていたのでした

鶴さんの物語の
バスを見送ってからヒッチハイクで帰るシーンは
このように
激しい心の葛藤があったということなのでしょう。

鶴さんとの出会い

[人生のトビラ]

人生を歩んでゆくうちに開けてみたくなるような扉(トビラ)がいくつもある。開けなくとも人生は滞ることはない。どれだけの人がトビラを開けることを試みて、そこへ踏み込んでゆくのだろうか。出てこられなくなるかもしれないのに。

トビラの存在に気がつかないことだってあろう。トビラではなく路傍の石であるかもしれない。いったん腰掛けて休まれば今まで歩み生きてきた道が違って見えてくる。これから行く道が明るく見えるかもしれない。

[旅とバイク]

1987年に北海道に旅立ったときのことを「小さな旅」と「旅の軌跡」のなかに書いてい る。ふと立ち寄った本屋で手にする北海道の観光ガイドブックがきっかけだった。無鉄砲に急行銀河に乗って北海道まで行っている。中学時代から文通友達だっ た裕ちゃんという女の子が天塩町にいたが、訪ねる意思があったわけでもなかった。ただ、頭の片隅に置いて北海道を選択していることは間違いない。

後にバイクでも行っている。最果ての場所への憧れがあったし、高校時代に仲良しだった友人が二人とも先を越して裕ちゃんを訪ねて行っていることもあったのかもしれない。だから、大学1年の夏に北海道周遊券で行くことを思い立ち、迷いもなく実行している。

しかし、学生時代には長い旅には出ていない。これは貧乏だったことが理由であるため、社会人になって爆発したかのようにバイクに乗ってあちらこちらへと出かける。オートバイとのつながりは子どものころにまで遡ると不自然ではなく、根っから二輪が好きなんだろう。

[旅で出会った女性]

1987年の汽車の旅で鶴さんと出会う。余別という町の行き止まりのバス停で一人の女の 子と言葉を交わすところから「鶴さん」の物語は始まる。きちんと書いてないので、断片から二人の関係や気持ちを想像して読むことになる。この人は鶴さんが 好きだった。おそらく、人生で最も好きだった人ではないか。大学時代には手紙のやり取りが続き、それがダンボールいっぱいになる。写真を送ったことは1度もなかった。

東京で再会をするのが4年後のことだった。高田馬場の駅前で待ち合わせるが、互いに向かい合うように歩いてきて一旦は行き違っている。それほど面影が記憶になかったのだ。

遺された膨大な日記を隈なく読んでいくとそのことを始めいろいろなことがわかってくる。この人とはもう会えない絶望の時を迎えてもまだ、もう一度会いたい、と強く激しく思い続けていたこともわかる。