処暑のころ

稲刈り ─ 処暑篇(8月23日)を書いたころを思い起こす。
まだ暑かったなあと思う。

八月もきょうと明日で尽きる。
新しい九月が始まる。

朝夕はすっかり涼しくなった。休日に6キロほどを歩いているが、汗の出る量が少し減ってきたのがわかる。

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ちょうど「水のかたち」(宮本輝)をじっくりと読んでいるころか、読み終わって頭の中を整理していたころだろう。
出穂みて四十日 そう母が言っていたのを思い出し、ちょうど穂が出た写真を撮影して四十日目だと気づくのだ。

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昔の人は、生きるなかで様々な出来事をじっくりと考え、遡って知り、未来の自分たちの暮らしに役立ててゆく。
今でもそのことは変化ないのだが、何事にも分業化が進んで、更に完成されたものが出まわってしまったことで、詰まらんことに悩まされたり病んだりする人も出てきた。

宮本輝は期待通りの物語で、誰もがいう「宮本節」を随所で楽しめた。

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今は、ホテル ローヤル(桜木紫乃)を読んでいる。
感想はそのうちに。

疲れたのであとでかこうかな。

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遺す 秘伝 1

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「遺す言葉」の第1回 「はじめに」で

■はじめに

私には偉大なものは何もない。歴史に残る様な足跡も築けなかったし、実績もない。誇れるものもない。お手本になる様な行いもしなかった。詰まりは何もないのだ。こういう生き方を平凡というのだろう。

では、論理を逆からなぞって、私は平凡な人生を送ったのか。そう問うてみれば、世の中の多くの人たちの人生が見える様な気がし、ヒトというものの生き様が、客観的に見えてくる様な気がするだろう。 そこには、誰一人として同じ足跡を辿りあう人はなく、意識があってかなくてか別として、その人らしさを足跡とする。またそこには、立派も恥じらいもない。

自慢することもなく、後悔もない。 生きて来た結果だけが美としてあると思う。私はそんな美学のなかで心に留めたことを幾らかでも書き残したいと思う。 少しずつ、書き足していきます。(平成22年12月1日)

と書き出している。
心に留めておきたいことがいくつかあるので凡人であるが書いておくことにする。わたしにはわたしの生き方があったのでそちらの視点から書く
そんなつもりであったのだろう。(平成22年師走のころは)

■ちかごろ

どうも余命が気に懸かって仕方がない。
(略)
まっとうに生きていた日々不遜に生きた日々ぐうたらであった日々も掘り起こして、今一度追い続けていた夢の答えを考え直してみたい。(平成22年12月4日)

誰でもこの歳になると思うのであろうな。(回想)

■呟くということ
(略)
悩んで書いている様子が残っている。精神的に苛立っているときは荒々しい筆跡となるし、急いで書いても気持ちが表れる。 思考が三歩進んで二歩戻ったときに、ペンであれば矢印で挿入をしたり括弧で反転させたりすることも珍しくなくて面白い。
(略)
実は日記の面白味というのは文章があちらこちらに散らばっている点にあり、書かれている内容が意味不明とならない限りは、思考の過程や足跡が分散して絡みあっているからこそ興味深いものなのだ。 せいぜい、私くらいの人間であれば記録に残したいことなどたかが知れており、先人が残してくれた言葉にすでに集積されていると言っても過言ではなく、むしろ言いたいことを十七音程度の簡素な言葉にして書く方がその人らしさが出て面白いしスッキリするはずだ。

あちらこちらに書きなぐったものをバッサリと捨てきれない性格なんだと言っているようなものです。
そしてだらだら書いても読まれないから十七音でとなる。でも意味不明になることも多いはず。

遺したいのはこんなありふれたつぶやきであり、すでに確立している格言や評論や小言ではないことは明確だ。つまり、つぶやきとは気持ちの片隅にふわりと浮かんだ感想であるとか、それが泡となって消えていってしまっても何も損をしないし誰も咎めたりしないもの、そして書き留めたところで何も得もしないものである。余韻のようなものを与えてほしいのかもしれない。(平成22年12月4日)

思いついたことを分散的に書き遺そうという思い付きは良かったものの、多くなりすぎて訳がわからなくなって来るのも現実で、作家でもないのだから究極は詰まらない日記になる。

これを書きだした時はそれを逆引きする方法などは考えてもおらない。

■悔しいなりの苦肉作

いつのころからか自分の死というものを意識するようになった。親戚の葬式に順番に顔を出したり、卒業してから会わなくなっている友人の突然死の知らせを受けたり、多かれ少なかれ死というものと向かい始めている。

老衰なら救えるが、成人病、高血圧、糖尿病、心臓病、脳こうそく、癌、交通事故、自殺など、原因はさまざまな人を見てきた。そこで、見送る方としてはやり切れないものが圧倒的に多い。明日は自分も衝動的に首を吊ることがあるかもしれない、と真剣に考えることがある。

目の当たりにする死を見ながら無力な過去と自分の未来を考えたのだろう。

私は人一倍怠け者で、わがまま気ままで、好き勝手に生きてきたし、反社会的なときがあったかもしれない。情熱的に仕事に打ち込んだこともあったが、持ち前の飽き性であることが祟って数年で投げ出してしまい気持ちが継続できないことが多かった。45歳という年齢で大企業を放棄してしまったお馬鹿な奴だから、身近なところからは厳しく非難も受けている。 世間のみなさまよりも15年も早く定年状態に入ってしまって、死んでしまう日々のことを元気なうちから考える暇ができてしまった。それはある意味ではチャンスといえるのかもしれないが、本来なら人間が死ぬ間際になってから、余命の合間に体で感じて考えるべきことであるのに、50歳という年齢であれこれ考え始めるものだから、元気すぎて弊害も多いし、考えにキレを欠くこともある。やはり切羽詰まって考えるのが正しい姿だと思う。

少し早いが、生きてなければ書けないのだからと考えたのだろう。
死んでしまったら、あの人は何を思っていたのだろうか、と想像をされるだけで終わる。
長生きしたら儲けもの(おまけ)と思うのもこのころから。

そういいながらもせっかく得られたチャンスとして死を考えるわけであるからある意味では幸運である。確かに生きる意欲を失くしかけている面もあるし、立身出世欲など皆無になっている点を考えればマイナスが遥に多い。 そういって自分を戒めて足掻いてみたところて波が立つだけで、今の私に飛び立つ力はない。有名人ならばその遺言が文学にでもなるところだろうが、私にはそんなものもない。やっぱし悔しいけど、悔しいなりの「遺す言葉」なのだろう。(平成22年12月4日)

名文など遺せないと思いながら、暇であったことが幸いして、この後に続く長いシリーズを書きはじめた。

適当に思いつくままに書く。まあ、何か書き遺せば、もしかしたら誰かが読んでくれるかもしれない。
そんなふうに始まった遺す言葉です。

モナリザ 秘伝篇

2015年7月30日 (木曜日)  【- Walk Don’t Run -】
モナリザ

モナリザがあったのをふと思い出した。もちろん安物の壁掛け用である。
それがあった部屋は応接間という設定で拵えたのだが、農家に応接間など必要ないのでわたしの第二勉強部屋にしたような記憶がある。
18才で家を出てしまいそのあとは弟が使ったか、それとも誰も使わずに放置したか。
壊す直前には物置になってしまっていたかもしれない。

その部屋の壁に、ポツンと小さなモナリザが飾ってあった。
今思うとあれは父の嗜みの1つであったのかもしれない。
いや、父はそれほど多趣味ではなく、晩年は木を掘ったり絵を描いたりしていたので、その源流に当たる大切な嗜みであったのではないか、と考えて間違いはない。

もうひとつ思い出すことがある。
実はそのモナリザを模写したモナリザが家にあったような気がする。
なるほど、父ならやりかねないことだと今になって思う。
曖昧に記憶を呼び起こすと、その模写は似てもにつかないような下手くそなものではなかった。
決定的にニセモノだと直ぐにわかるものの、何となく優しい タッチの気品の溢れたモナリザだったような気がするのだ。
そのころの私は絵に対する関心などこれっぽっちもなく、可愛くない息子だった。
ワシの描いた絵を見てもくれない、とさぞかし父は哀しかっただろうと思う。
今ならそんな素気ないことは絶対にしないだろうに、あのころは理解をするチカラがなかった。
父は、ゆうはんを食べると一人で自分の部屋に行って絵を描いていた。
どんな気持ちで描いていたのか、考えたこともなかった。


こんな日記を書いてペンを置いてから幾日かが過ぎる。
形にならない思いが巡ってきては何処かに消えてゆく。
それは、父の本心に触れる思いのことであり、届かぬ思いに対するため息でもある。

つまりは、何も父のことを知らなまま、しかも死んでしまってからもそのことを掘り越すこともできないまま長い年月を費やしてしまったことをわたしは後悔しており、それを弁解し、懺悔しようとしている。誰かに向かって、というわけでもない。

モナリザを飾ったり父が絵を描く部屋(それはわたしの高校時代までの勉強部屋)のあった建屋を壊して処分してしまったから、あのモナリザやほかの絵、そして父の持ち物であった彫刻道具も処分して消滅させてしまったことを後悔しているのだ。その佇まいを記録するための写真も撮っていない。

こういうことを思い出すたびに、何をうっかりしていたのだ、と自分を問いただしてみるが、壊して今は砂利を敷いて庭にしてしまって井戸だけが残っている。あの部屋で何を考えてどんな時間を送っていたのかを巻き戻すことは不可能で、もはや救いようがないのだ。

模写したモナリザに価値はなかった。しかし、わたしは父から形見として貰ったモノなど特に何もなく、たった1枚だけ、村のはずれの河原の景色を描いた絵が一枚玄関にあるだけである。

もしもモナリザがあれば、わたしの宝になるのだが、棄てたのか、母がどこかの押入れか空き部屋の隅にでも積み上げているのか。不明なままだ。

まだ書き足りないような気もして、足したいけど、ちょっと休憩とします。つづきはあとで。

もう会えない 続・千夜一夜その235

わたしの頭のなかからディーゼルカーのエンジン音が消え去り、駅前の広場で駆け回って遊んでいる子どもたちの声が戻ってきた。ホームからは真っ白な砂浜が見えた。湘南であるとか九十九里にあるような洒落た砂浜で、海との間に広がる白砂の広さや弓なりになって消えてゆく湾の姿は湘南にも劣ることなく、むしろハワイやグアムのビーチと偽れるほどの美しさだった。

海岸を遠くに眺めながら子どもたちの遊び場を横切って海岸沿いの道路へと歩いて行こうとしたそのときに、一人の色の白い幼稚園児ほどの女の子が駆け寄ってきて髪飾りを作ったのだと言って編み込んだ草の輪を掲げて見せてくれた。わたしは、受け取ってそれを頭に乗せながら峠へのハイキングの近道を尋ねてみた。すると、するりと横へ振り返って古ぼけた土壁の家の方を指さして、あっちが近いのと教えてくれた。

すたすたと先に立って歩き出した道は自転車も押して通れないような生活路で、リュックサックが壁に擦れるのを気使いながら車の走る道路へと抜けた。おかっぱに切りそろえた髪がとても可愛くじっと見ていると小さい目は二重で澄み切っており、ぱちぱちとさせながら泣きぼくろをぴくぴくとさせているの見ているととても美しい子だった。上品で可愛い黄色いワンピースが砂で少し汚れていた。

黄色が似合うという表現はこの子のためのものだと思いながら、またねと言って手を振った。こんな子にまた会いたいとふっと思っても、この子にはもう会えないのだと自分に言い聞かせるしかなく、うしろを何度も振り返っては手を振りながらわたしは峠を登り始めた。

平成23年4月29日熊野古道0

ソーダ水

私は冷たい麺類が大好きで、夏になっても美味しく食べ続けますので、夏バテという言葉は全く無縁です。好き嫌いも全くありませんので、四季折々の味覚を美味しくいただいて、モリモリと成長しております。

もうすぐやって来る土用の丑の日には鰻も食べます。県内ではなかなか手に入りませんが、鱧も好きで遠くまで買いに出かけたりします。

夏をそれなりに楽しみながら感じることは、楽しもうと思えば思うほどに子どものころに食べた美味しかった食べ物やお菓子に戻って行ってしまう、ということでした。スイカ、かき氷、冷や麦・冷そうめん、ソーダ水…。

文明が進化しても涼しさを呼ぶ夏の味はそれほど変化しないのかもしれません。

一生の楽しきころのソーダ水  富安風生


7月号のメールマガジンのあとがきにはそんなことを書きながら、何十年もの変遷がもたらす味覚の変化や食べ物に対する執着心そして満足心のようなものも、ずいぶんと姿を変えてきてしまったと振り返る。

成長してゆく真っ直中で自分の身体の中に染み込ませていった味とか習慣というものは、容易く変更してしまうことなどできず、好き嫌い旨い不味いなどの感覚に基づくものは他人の忠告や刺激でさえ役に立たないほど頑固であることが多い。

それでいいのだと思う。

政治の方も揺れている。今決めたことは20年30年後になって不安から現実課題へとかわり問題となって人々を困らせたり悩ませることになるだろう。

新しく選挙権を得て勇んで投票をした人々は人生の半分以上を終えたころにあの時の人たちが叫んでいた声の本当の意味を知る。

歴史はそういう長いうねりで躍動している。

「一生の楽しきころ」はたった一回しかないのかもしれないが、間違いなく次の世代に伝わっている。少しずつ姿を変えて伝わってゆくのは仕方がないことだし、何が善くて何が悪いのかは、更にその後の歴史が吟味することになろう。

このうねりを楽しみながら人生の最終コーナーを心地よく走り終えたい。

京都日記(宵々山)

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14日の朝は少し早めに駅に到着し、駅前のDOUTORでモーニングというのが定着

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京都駅に降り立ったらちょうど早めのお昼ごはん(よりもまだ少し早かったが)伊勢丹をぶらぶらとして、11階のいつものへんにきて、韓国料理のショーウインドウに目が止まった。美菜莉という店で1500円ほどだったので満足。

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かき氷も食べたい。ポルタに降りて行きランチの人たちであふれる店で冷たい氷を食べました。

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車折の家に着いて真っ先に鱧の話をしたために、お父さんが近所のお店に買い物に誘ってくれはって、ハモを買ってかえることに。

スーパーの鱧でもどこの鱧でも、夏は鱧を1回は食べておきたい。

水無月も食べたし、小鯛の笹漬けも食べた。写真はない。

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15日は朝から四条烏丸あたりへ出かけて鉾を見ようと決めていた。
烏丸の手前でバスを降りて一筋上がって、菊水鉾の前に出てきた。
記念に絵葉書を1枚だけ買ってみる。

暑いので早くご飯を食べたい。

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古今烏丸の中にあるザ・ブッフェスタイル サラに行ってみる。久しぶりだったのでウキウキです。
それほど混んでいることもなく、同じ階にある京都精華大学のギャラリーや京都シネマを見て時間を潰す。

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一生懸命に食べて一息ついて写真を撮る。タイムサービスのフレンチトースト。

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美味しかったパスタをもう一度おさらいして

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ソフトクリームは大好物なのでしっかりと2回も食べる

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高島屋に行く前に長刀鉾をちょいと見ていく

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帰りは車中で鱧の弁当を食べる。

本心

そう、それでよろしいんや。本心いうもんは、人に明かすもんやあらしません。
(李歐 159ページ)


一彰はそれ以深く考えるの放棄したが、所詮、理性で突き詰めるに足るだけの意味はない。 突発的な歓喜の発熱だと思ったからだった。 熱である限りそのうち冷めるだろうし、熱が下がらなければ死ぬだけだった。
(李歐 180ページ)

本心  at  – Walk Don’t Run – から

二十五年ぶりくらいの人に会う

(きのう)

海に来てます
小雨降りだして
また止んで

海に来て木枯らし帰れぬ干潟なり わはく

パクリ先は、コレですな(↓)
海に出て木枯帰るところなし 山口誓子

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干潮時刻
13:30ころ
1時間ほど前に海にいました
25年ぶりの人にも会いました
小雨が降ったりやんだり

楯干しイベントでしたが
わたしは参加者に会いに行っただけですので
収穫なし

でっかいお魚を袋に入れて
持っている人がおって
ええなあって思ってまして

スーパーでお刺身を買いました

旨そうなモノが店にあれば買います
しびの文化

この味が気の毒なことにわからない人があるけど
それは文化の違い
わからない人は食うべからず

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