寒中ど真ん中に考える

■ 巻頭言

小寒を過ぎてただいま寒中のど真ん中あたりを進行中です。

そんな日々を過ごしながら、日暮れが少しずつ遅くなり一日が長くなり始めてゆくのを感じると、真っ暗闇をさまようような不安ではなく随分と明るくウキウキな気持ちになれます。

そういった些細な節目をくり返しながら七十二候や二十四節気をひとつずつ指折り数えて春を待っています。
これが「春を待つ」人たちに通じ合う気持ちなのだろうと思いました。

山茶花が庭に咲いてそれと競うように水仙が咲きました。

結婚何周年かの記念にと、二三年前に植えたロウバイが、そろそろ今年あたりには咲いてくれないかと覗いてみましたら、黄色い小さな蕾がついています。
けれどもまだ、硬く強くしっかりと固まっているように見えました。
晩生種なのでしょうか。

このメルマガをみなさんところへお届けすると、まもなく大寒を迎えます。

大寒や転びて諸手つく悲しさ 西東三鬼

庭のロウバイ、節分のころには咲いて欲しいなと思っています。

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■ あとがき

毎年一月号を書き始めるのは成人式が終わるころで、受験生がセンター試験に挑む時期でもあります。

どうしてこんな寒い時期でインフルエンザが流行するときに受験を集中させなくともいいのに……という親の温かい声が聞こえてきます。

けれどもモノは考えようで、これから大きな節目を何度も乗り越えることを考えると、荒波に立ち向かうための入門編かも知れません。

前途は未知であり多難を覚悟する人も多いかも知れませんが、人生で何度の嵐に遭遇するか、どれほど花を咲かせることができるかは、幾らかの幸運と不運、そして弛まぬ努力に依るところが大きいといえましょう。

花が咲きそろう春という季節は、ステージの終端ではなくスタートポイントでもあります。

福沢諭吉の言葉に

|人生は芝居のごとし
|上手な役者が乞食になることもあれば/大根役者が殿様になることもある
|とかく、あまり人生を重く見ず/捨て身になって何事も一心になすべし

というのを見つけました。

この冬が大きな節目の人もそれほど大きくない節目の人も、気を緩めることなく試練を乗り越え春を迎えられますようにお祈りします。

成人式やセンター試験のニュースを見てそのようなことを感じながら新年が始まりました。
また一年間、よろしくお願い申し上げます。

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十二月 迫る年の瀬に考える (巻頭言から)

12月号  (巻頭言は重複します・ご容赦)


■  巻頭言

師走を迎えて本格的にいよいよ来たかと思わせる寒波と共にフォークソング「風」を作曲してヒットさせた、はしだのりひこさん死去のニュースも飛び込んできました。

1960年代後半から一世を風靡した「ザ・フォーク・クルセダーズ」や「はしだのりひことシューベルツ」の名前を知らない人も多いかもしれません。

五十年という歴史のページをパラリと捲ってすべては過去の中にしまい込んでしまうこともできましょう。

けれども、それでは少し気が収まらないというわけで、酒を片手に音楽を聴いてあのころ・あの人を偲びました。

北山修・はしだのりひこのコンビでヒット作を放った「花嫁」も回想するなかに出て来ます。

「花嫁は夜汽車にのってとついでいくの」と歌っても何の違和感もないどころか、夢とロマンに満ちていた時代でした。

天国にはこわい神様がいて地上へと追い返されることもあったのかもしれない。

しかし今も昔も「プラタナスの枯れ葉舞う冬の道」は変わりなく、京都・都大路には「プラタナスの散る音に振りかえる」人が溢れて賑わっていることでしょう。師走は刻一刻と暮れていきます。

これを書き始めた日から配信する日まで、日一日と目まぐるしく変化する波のなかで、今年一年を省みて漢字を考えたりしながら、ふっと五十年を振り返ってみる時間があったので、ここに覚え書きをしておこうかなと思ったのでした。

みなさま、良いお年をお迎えください。


■ あとがき

時間という波のなかで新しいモノが生まれ、流行し廃れてゆきます。それをひしひしと感じるのが年末であり年度末でもあるのでしょう。

12月初旬に話題になった流行語大賞も興味深いのですが「羽生善治・永世七冠」のニュースのほうにも惹きつけられました。

そこでちょっと「羽生語録」を辿ってみると、とっても鋭く切れている言葉の数々がありまして、何れにおいても淀みのない深さや重みを感じます。

将棋・囲碁などといった勝負では凡人の私には信じられないような思考や読みが展開されます。

100手以上ともいわれるステップを冷静に見極めてゆくときの頭のなかは、どのような動きをしているのかは計り知れません。

駒や石の展開を追いかけているだけでひとつの美学に出会ったような思いに駆られますし、「羽生マジック」には多くの人が驚かされていることでしょう。もはや勝負の世界を忘れていってしまいそうです。

揮毫で「玲瓏」と書きます。その言葉の意味は、雲ひとつない晴れ渡った景色またはそのような心境で透き通った静かな心持ちを表します。「八面玲瓏」からの言葉です。

語録には

「いかに戦うか」は大局観にかかわるが、その具体的な戦略は事前研究が決め手になる。
事前にしっかり準備して万全の態勢で対局に臨んでくる人は強い。

誰でも最初は真似から始める。
しかし、丸暗記しようとするのではなくどうしてその人がその航路をたどったのか、どういう過程でそこにたどり着いたのかその過程を理解することが大切。

勝負の世界では「これでよし」と消極的な姿勢になることが一番怖い。常に前進を目ざさないとそこでストップし後退が始まってしまう。

などの名言が並びます。

顧みることも大切としながら、来る年を如何に構想するかを考えることにして本年最後のメルマガのペンを置くことにします。

1年間ありがとうございました。

霜月中旬は あたふたと 暮れてゆく

小夜時雨 ピーポーの音遠のいてゆく

18日の早朝にそんな一句を書いてみた
幸せに満ちていると
川柳が廃れてしまって
切れや味が失われていく

駄作が多くて結構 それでいいじゃないか

🍀

十一月中旬は
あらよあらよという間に過ぎてゆく

なぜって 孫っちが10日に生まれて
ムスメが15日に退院をして
そのあと名前が決まって

我が家の普段通りの
二人だけの暮らしに戻るのは
お正月までなさそうである

(週末に11月号のメルマガを発行した)

■ 巻頭言

10年ぶりに広辞苑を第七版に改訂するというニュースが、先ごろ、ちょっと話題になっていました。

広辞苑といえば、社会人1年半のころにわずかなボーナスで新しくなった第三版を思い切って買ったのが懐かしい思い出です。あれから広辞苑は3度の改訂を重ね、まもなく新たに第七版となるわけです。ちょうど同級生の多くが一斉に定年を迎えて、職場の肩書きから重荷を下ろす時期と重なり、妙な感慨が湧いてきます。

社会人として歩んできた歴史と重なることもあって、約35年の社会変遷をダイジェストで早送りするようにも思えました。

広辞苑改訂の記事では、過去に追加・廃止をした数々の「言葉」が紹介してありました。第七版に追加される身近なものとして「エコバック」「クールビズ」「ゲリラ豪雨」「熊野古道」がありました。

『無人島に移住するとして一冊だけ本を持っていけるなら何にするか』というような面白いアンケートを見たことがあります。模範や正解はもちろんありませんが、現代は電子情報の時代で辞書離れ・活字離れと言われながらも、「辞書」「広辞苑」という答えが上位にあるのを見ると、見掛け以上に活字文化が健在していて少しほっとしました。

第三版のころにはたぶん想像もしなかった世の中に変化したのではないでしょうか。あのころの葉書の値段は30円、封書は60円、大瓶ビールが120円余り、(少し大雑把になりますが)国立大学の授業料が15万円程度、大卒初任給が14万円前後。

思い出すと切りがないので、あとは晩酌の時にでもみなさんで思い出してみてください。……というわけで、広辞苑が新年早々に「クールビズ」などを追加して第七版となります。

■ あとがき

毎年のように 松茸(マツタケ)が不作というニュースが流れてきます。

子どものころは秋になると近所の山へ茸狩り遠足に行きました。わたしの地域では「茸狩り遠足」は一般的な小学校年間行事で「茸」=「松茸」のある山へ歩いて遠足に行きます。クラスの何名かは松茸を必ず見つけるので、それぞれの班の飯盒炊さんには松茸がありました。

少し前に熊出没の報道があった山ですが、近年はゴルフ場に変化してしまい、その隙間に残された山々へ茸狩りや山菜採りが目的で入山する機会も減りました。

松茸の菌を拡散するシステムがますます消えていき、松茸は年々減り続け、ご近所からお裾分けでもらう機会も少なくなりました。

一子相伝という言葉がありますが、松茸山の在処(ありか)を父親から受け継いだかというと、それは叶いませんでした。「松茸山は子にも明かさず」と昔から言うそうです(或る年寄りの話)

そんな松茸を若者の間では「好き」と答える人が年々減ってきていると耳にします。あの最高の香りを現代の若者は、決して好まないようです。

また、若者の好みの変化の話では、コーヒー好きなアラビア人たちの間で、ここ20、30年で伝統のアラブコーヒーが若者にあまり飲まれなくなり(国立民族学博物館・菅瀬晶子准教授)、代わりにインスタントコーヒーとあたためた牛乳でいれる「ネスカフェ」が好まれているそうです。

いずれにしろ、嗜好は時代とともに変化するものだ、ということかもしれません。

わたしは「すどうし」が好きで、松茸も大好きです。でも、今年はまだ、どちらも食べていません。

夜が静かで長い季節 十月中旬篇

■ 巻頭言

10月号をお届けします。

夜が静かで長い季節を迎えています。

ついこの間、子どもにお風呂が沸いているので早く入るように促すときに
── お風呂が沸いとるので「早よいり(入り)」
と言いました。

そのあとで、ふと、この言葉は通じるのやろうかという心配が浮かんできました。

はて、そうすると、今の季節であるなら
── ええお月さんが出とるのを観るから、みんなをオモテに「よぼって(呼ぼって)」
という言葉も通じないかもしれない、とも思えてきました。

少し質問をしてみると、言葉の使われ方の違いが分かってきました。

お風呂に「いる」(入る)と言うことや人を呼ぶことを「よぼる」(呼ぼる)と言うこの地方特有の音便や活用形は、聞けば分かるのですが、自分で話すことはほとんどないと説明をしてくれました。

── 「夜さり」に遅うまで起きとったらあかんわ、早よ「ねりぃ」
と、夜更かしを注意してもチンプンカンプンの時代はやがて来るのでしょうか。

地域特有の言葉において、その活用は、母から子どもへと受け継がれます。
漬け物や、味噌汁、お雑煮などの味付け度合いやコツも母から子どもへ…です。

コミュニケーションの消滅だと一言で済ますこともできますが、名月を見上げて感じる風流もしっかりと伝えたいと、丸い月を眺めながら考えていました。

すっかり秋めいてきました。

風邪などお召しにならぬように(インフルの流行も今年は早そうですし)
暮れてゆく十月をお愉しみください。

 

■ あとがき

巻頭で月の話を書きましたが、今年の中秋の名月は過ぎてしまいました。

きれいな月を見上げて、美酒を愉しんだ方々も多いかと思います。

十月よりも十一月、さらに十二月と冬至に近づくにしたがい、お月様は空のてっぺんあたりまで登るようになります。

幾分大きくなるようにも思えます。

凍えるほどの寒さのなかで見上げる冬の満月が私は大好きです。

来月号のメルマガもそんな大きな月を見上げたあとのころに発行します。

「あとがき」から 15日号 

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巻頭言

9月7日は二十四節気の「白露」でした。

俳句を愉しむテレビ番組の影響でしょうか、暮らしのなかで季節を感じるひとときを言葉で味わおうという俳句人がジリジリ増えているような気がします。

手紙を書く習慣や文化がそこはかとなしに廃れようとしていっても、日本人の脳は時候の挨拶の作法を忘れたくはないのかもしれないな、と僅かながら歓びを感じます。

白露や茨の刺にひとつづゝ 与謝蕪村

この季節に蕪村だったらどんなふうに詠むのだろうと想像しながら歳時記の本をパラパラとめくるとこんな句に出会いました。

芭蕉と蕪村、二人の句にはそれぞれの味わいがありますが、夏色が微かに残っている初秋なので、芭蕉よりも蕪村のほうが何か気持ちに響くものがありそうだと期待をしました。

引っ張ってきたこの句は、蕪村が放つ絵画的イメージをきりっと表した優しく深みのある句に思えます。

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■ あとがき

お盆過ぎころから朝になると我が家の付近でとても奇麗な声で囀る鳥がいることに気づきました。

「ちちい、ぴゅるるる…」と二三度繰り返して鳴くのですが、物陰に隠れて姿は見えず、探している間にやがてどこかへ飛んでいってしまいます。

環境学習情報センターの木村さんに、今ごろの時節に急に家の軒先に現れて早朝に奇麗な声で囀る小鳥がいるのだが、名前の見当は付きませんか、と質問をしました。

すると、声を録音するか姿の写真を撮るなどしてください、と返事をもらいました。

残念ながら、小鳥を追いかけるカメラや録音機を持っていないので、早々に諦めてしまいました。

「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」 この歌は立秋のころに詠んだものでしょうが、「風」ならぬ「小鳥の声」に季節の変化を感じながら毎朝を迎えています。

さて、おおかた記事を書き終わってふっと気がついたのですが、七十二候・第四十四候(9月13日~17日)が「鶺鴒鳴」(せきれいなく)と暦に書いてあります。

そうか、あの鳥の声の正体は、鶺鴒(セキレイ)だったのでしょうか。