手が見えて父が落葉の山歩く  飯田龍太

手が見えて父が落葉の山歩く  飯田龍太(昭和三十五年)

飯田龍太のこの句に出会ったのは最近のことでそれほど深い意味もわからず静かな落ち葉の公園の遊歩道のようなところを想像していた。

然しのちになってもう少し深い意味があるのではないかと思い立ち評論や引用などを手探りで辿ってゆくと、今度はわたしの文学の知識や資質を大きく上回るような解説が出てきて、これはこれは大変偉大な作品に出会ったのだと密かに喜んだのだった。

手が見えて父が落葉の山歩く(昭和三十五年)

[自選自解 飯田龍太句集]の解説から

<実景である。早春の午下がり、裏に散歩に出ると、渓向うの小径を、やや俯向き加減に歩く姿が見えた。この季節になると、楢はもちろん、遅い櫟の枯葉もすっかり落ちつくして、梢にはひと葉もとめぬ。乾いた落葉がうずたかく地につもる。しかし、川音でそれを踏む足音はきこえない。明るい西日を受けた手だけが白々と見えた。くらい竹林のなかから、しばらくその姿を眺めただけで、私は家に引き返した。この作品は『麓の人』のなかでは、比較的好感を持たれた句であったようだ。しかし、父が、これから半歳後に再び発病し、爾来病牀のひととなったまま、ついに 回復することが出来なかったことを思うと、矢張り作の高下とは別な感慨を抱かざるを得ない。いま改めてその手が見えてくる。父は生来、手先は器用の方であった。>

昭和三十五年の秋といえば、わたしは3歳になるときのことだ。父はもちろん祖父も元気であった。
母がいる実家の押し入れには、おそらく、わたしが父に肩車をしてもらって祖父と並んでお伊勢さんの鳥居の前で撮った写真が残っているはずで、それがそのころのものだ。

伊勢まではどうやって行ったのだろうか。
写真には書き添えられてはいないが、ディーゼルカーはあったのかどうかもあやふやで、蒸気機関車が普通に長い長い客車を引いて走っていたころのことだから、汽車かもしれない。近鉄電車にも乗っただろう。

父も祖父も重苦しい外套を着てカメラに向かって最高の顔をしている。
三十歳に満たない時代は誰にでもあった。わたしは自分が子どもである写真よりも父と祖父がここにいることに大きな価値を抱いている。

祖父は二三年後に亡くなってしまう。わたしには祖父の記憶がある、と思いながらそれは遺された数少ない写真を見て作られたイメージであるような気もする。しかし、5歳ほどなら記憶があっても不思議ではなく、何となくであるが祖父の葬儀に参列しているような像も頭の片隅にある。

子どものころは事ある毎に父に肩車をしてもらったものだ。今の子どもたちがお父さんに肩車をしてもらっている光景をあまり見かけないのは何故だろう。高く突き放す感じよりも子どもを大事に抱きかかえる動作のほうが日常になったからかも知れないと推測したりしている。子どもは宝なのだがある一面で抱きかかえ過ぎていることの象徴のようにも思う。

父も祖父もいなくなりわたしが父という立場から祖父へと代わる時がもうすぐに来る。
そんなこれからのかずかずの光景のなかで、ほんの少しでよいからこの句の「手」のようにありたいものだと思う。

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