宮下奈都 静かな雨 (1日後の)感想

静かな雨
宮下奈都 静かな雨
  • 眠れば消えてしまう月
  • 速すぎてつかまえられない夢の場面
  • ふたりで歩いた帰りに浮かんでいた月
  • ただものじゃないこよみさん

そんなふうに走り書きを残して
これは宮下さんが夢で描いた物語の断片であって
それを丁寧に集めてきた作品なのだ
と思っていた

人のイメージをさらさらっと説明するように軽々しくは書かないで
不安と喜びとを混ぜ合わせて
不思議と不明とどうでもいいことなんかもミックスして
そこに優しさもブレンドして攪拌するようにしているみたいだ

そんなふうに言ってしまえば誰だってできるみたいに思えるのだけれども
宮下マジックのようなものがあって読者はそれに掛ってしまう

夢は不幸せあっても幸せであっても構わないし
男の子が情熱的でなくてもいいのだ

日常の詰まらないできごとをちょっとスパイシングすると感動的になってくるのだけど
そんなわかりきったことであっても
いつか覚えていたはずなのに
忘れてしまうでしょ

きっと宮下さんはそれが悔しくて
失ったり忘れたくなかったから

自分の中である日
幻のようにできあがった物語に
意地悪なスパイスも振りかけて
忘れかけていたドラマのようなドラマでない日常を
思い出して
夢の断片のように纏めたんだろうなあ

すらすらすらと書けないときもあったさ
その時間も苦悩も大きな凹みもそれ自体も姿を変えて物語にしてしまった
それが第一作だった

本当は消えていった作品が山のようにあったんだろうけど
いかにもこれですよ…みたいな第一作

宮下さんはもうこれを書いた宮下さんには戻れなくなっている
それでいいのだ

困ったことが僕に一つできたのですよ

鯛焼きを食べるときに宮下さんとこの物語のことを思い出すのです

そして恋するとか愛するとかそういうことを考えて
諦めてきた哀しい過去と叶わなかったいろいろを思い出して考えてしまう

物語には続きもなければ終わりもないのだ
おしまいのシーンって何だっただろうか

それでいいのだ

銀マド(初出ブログ)

宮下奈都 静かな雨 (10分後の)感想

静かな雨
宮下奈都 静かな雨

平成29年(2017年)3月 5日 (日)

どうしてもこの作品を書いた人を
ああだこうだと定義づけて
作品の感動とペアにして
心にしまっておきたいと思うのだ

そう思わせてくれるような作品であり
読みながら何度も立ち止まって
詩人のような変な小説家だと
少し悪口じみたことを呟いてみたりする

そのしばらくあとで
何ページかを読んだところで
ほら哲学者みたいなことを書いているから
物語の後ろにはドラマにならない構想がどっさりと隠れているんだろうな
と思っていたりする

しかしながら
乙女チックには気取らないし気障でもない
詩篇のようなことを歯が浮くような下手くそなタイミングで
書いている

いいえそれは計算どおりなの
いいえそれがセンスというもの

真似ができない
真似しようと思うのが愚かなのか
でも手を伸ばせばそこにいるような普通の変なおばさんな筈だから
私にだって真似ができるような気がするの

「諦めること」をサラリと書いて付箋を貼ってしまうそうになるんですけど
ここで付箋を貼ったらその行だけが一人歩きするからあかん

満月のお月見の話もそこまでで
私の脳みそにメモるだけで
烈しく読み返したくなったら
もう一度最初から読もうじゃないか

「世界の深さ」のこともあれこれと書いてるでしょ
物理学の教科書みたいに
一本の式を紐解けば五ページくらいの文字で埋まるように
付箋を貼りたいところは五倍くらいに言いたいことが詰まっていたはずだ

だから明日になったら私も忘れてしまえばいいのだろうな
ある日思い出したら誰かがこの話をしたらもう一度思い出そう

好きだという言葉も使わないで恋をしているし愛もしている
誰もが夢の中で追いつけなかったようなあのできごとを思い出そうとしている

でもこの人はきっとアルキメデスみたいな考える人なんだと
想像してしまって私は深い深い記憶の沼に沈んでいくのです

銀マド(初出ブログ)

ピンチはチャンス

ピンチはチャンスだ、って誰かがいっていた。何かで読んだんだったか。だとしたら、たぶん、私は今、チャンスの近くにいるんだろう。もしかしたら、目の前にいるのかもしれない。ピンチには気づくのに、チャンスには気づかないなんて不公平だと思う。どうせピンチに気づいたって打てる手などない。黙ってピンチに打たれるだけなのだ。チャンスに打つ手がないのも同じかもしれないけど、気づくことができたら楽しい気分が身体じゅうをぽかぽか温めてくれるはずだ。


いろんなことを誰かが決めている。算数の式では、足し算と引き算よりも掛け算と割り算を先にやる。加減乗除の法則を知ったときのあの驚き。英語でhaveは「持っている」なのにtoをつけると「しなければならない」に変わると教えられたときもうろたえた。世の中は後出しジャンケンに満ちている。


宮下奈都 窓の向こうのガーシュウィン
切り抜いてきたものが二つあったのでここに残しておきます

宮下奈都(その6) 神さまたちの遊ぶ庭

宮下奈都 神さまたちの遊ぶ庭
宮下奈都 神さまたちの遊ぶ庭
平成28年(2016年)5月11日(水)
基本が大事だという。スポーツをするときの指導者の言葉だ。当たり前のことが当たり前にできること。ファインプレーにしてはいけないとも言い換えることができる。

宮下一家は最寄りのコンビニまで37キロもあるという僻地へ山村留学に行く決意をし実際にやり遂げてしまう。遂げるということはファインプレーではなく普通に誰でもができるようにプレーしたのだ。

野球でもテニスでもラグビーでもサッカーでも、普通の処理を失敗なく必ず成功してさり気なくしていること、これはファインプレーより難しいだろう。

この作品を読んで詰まらないとか味気が薄いという人は、これからの人生でも努めて生き方を見なおしたほうがいいかもしれない。

少なくともこの物語は筋書きはなく、そこがオモシロイ。でも、正義の味方は悪役には絶対負けない約束に似たようなものがあるように、留学する主人公たちには突き抜ける勢いがあって、それ加えて、惹きつけていくモノがあるのです。

読書をしておそらく大勢の人が感じ取ったものは共通していながらも、言葉にまとめるにはなかなか手ごわかったりする。

あることを決めるときに1つの物差しあるいは多数決で決めた尺度で測っていこうとする社会、何かルールを作って見つめ合うようにしておく社会から、勇気を持って飛び出そうというのだし、心の何処かで一度は考えた夢の様な社会に、ワープするみたいに行く。飛び出した先は無法でもなければ、規範がないところでもない。人の理想とする夢の様なところ。なのにあらゆることを考えたり悩んだりしながら、留学することに成功した人はおよそ帰還するときも成功を喜んで帰るから、不思議なコミュニティーです。

しかも子どもたちと大人までもが浸っている日常を、どっぷりと感情移入して読ませてくれたのだから、言葉になってすぐには出なくても仕方がない。

宮下さんのペンはじっくりと観察しているはずで、間違いなくその節々で判断をしているのだけど、例えば子どもたちの心の揺れ動きを丁寧には綴っていない。育児日記ではないのだし報告書でもないのだからそれで良いのだが、いわゆるサバサバしている。それが余計に読者とこの村で起こっている現実との間の壁を半透明化しているのかもしれない。

チャンスの神さまの前髪の話、コンタクトレンズが凍りつく話、村の人は純朴と言われて憤りを感じ37キロのコンビニと30分の通勤時間のことを考察して一石を投じるところなどを読んでいると、決して脳天気ではない哲学者だ。(おっと哲学専攻だってね、なるほど)

時にはひょうきんを装い、天然であり、楽天的である。そんな人なわけ絶対にないことくらいわかってますけど、なかなかの役者だ。

そう考えると、このリズムとステップでこれからも宮下風のほんわかコミカルポエムのようなタッチで、リリカルな色合いでやさしい視線を絶やすこと無くドラマは続いてほしい。

多くの読者がトムラウシに出かけてみたくなるでしょうし、こんな理想のような暮らしに自分も飛び込んで行きたいと夢みるだろうな。

家族が仲良しでなくてはと最後のほうでポロリと書いています。毎日そのことに感謝して、うまく言葉にできずその言葉の本意をも間違って伝わらないように考えてみたりするようなことも(私のまったくの想像ですが)多かったに違いないが、さり気なくひとことで多くの読者に一番大事な自分たちのファインプレーをファインプレーに見せないように伝えているのではないか。

作品は1だけ書いて9は読者が考えてみようみたいな哲学書のようなものだったと思えるのだが、これもやはり先入観でしょうか、宮下さん。

宮下奈都「羊と鋼の森」を読んだあとに (その5)

❏ 感想 まえがき

春の連休は宮下奈都さんの本を何冊か読んでいました。
そのなかで「羊と鋼の森」は、急がず焦らずじっくりと読むことができました。

第13回本屋大賞で大賞に選ばれていることが先入観としてどうしても大きな妨げになっているのは避けられないものの、大衆の声がどうであれきちんと見極めるためにもここは本屋大賞を眉唾だと思わずに読んでみようと、博打に出かけるような気持ちで読み始める決意をしたのでした。

嫌わずに読もうと心が動いたのは友だちからメールで宮下奈都さんの作品の感想を少し聞いたからです。
友だちは高校の国語の教師です。
本屋大賞決定の際にも先駆けてノミネート作品やその作家さんの作品を何冊か読んで予想をするなど楽しんでいるそうです。
宮下奈都さんの作品においてもこの大賞作品だけでなく「神様たちの遊ぶ庭」の感触も聞かせてくれました。
そんなことがあって背中を押されたみたいになったわけです。
(こんな先生が高校時代にいたら先生も好きで本も好きという青春時代だったのかななどとアホなことを思い浮かべながら作品に突入です)

実は先生の押しの他にもうひとつ事件があったのです。
それは宮下さんの名前を「宮下奈都」ではなく「宮下奈緒」と間違ってツイッターで書いて(mentionして)しまい、そのミスを宮下奈都さん自身からのツイートで指摘されてしまうということがありました。
一生懸命に書いたラブレターを間違って渡してしまった挙句その子に惚れていってしまう…なんてことはドラマでもありえないのかもしれませんが、わたしは宮下奈都を読み始めるはっきりとしたきっかけを自分で上手に作ったのでした。

「羊と鋼の森」を読み始めるまえに「はじめからその話をすればよかった」を読んでいました。
初めにエッセイを読んだことが親しみを持たせてくれて息を抜きながら少し軽めに宮下さんと接することができた感じです。
偉い先生にインタビューをしに行くとき、十分に予習を済ませたようなゆとりのようなものを持って「羊と鋼の森」へと進んでいきます。


❏ 感想

宮下奈都さんの印象というか作風のようなものをはエッセイを読みながら少し想像をしていました。
詩人みたいなタッチがあるなとか、あれこれと堅苦しく物語を作り上げてしまうようなタイプでもないなとか、どうやって好きになっていこうかを悩むようにあれこれ考えました。
メモを取る習慣の話が書いてあったので、作品の中のひとつひとつの展開がそんなメモから掘り出してきて築きあげられていくのだろうなあ、と想像してみたり、
子どもたちのことを日々眺めている目線から着想を得ているような会話や場面もあります。「面倒くさい」なんていう言葉が小説のなかで急に作者らしく無く使ってあるのをみていると、こういうところも苦心の表れなんだろうなと、余計なところまで考えてしまう。
そんなふうに考えたくなるような身近さを放っている人なのかもしれません。

ストーリーを作っていくタイプではなさそうですし、後になって語録をまとめ上げられるほどに課題を提起するタイプでもない。

優しく(失礼な言い方ですが)行き当たりばったり的に場面や心を映す場面が展開していくみたい。もちろん「だいたい、どの小説にも精魂なんてものはとっくに込められているのだ」と「はじめからその話をすればよかった」のなかで書いてますから、行き当たりばったりなどはないと思いますけど、そのさり気なくファインプレーのようなところが好感度を上げているのでしょう。

ドラマをシナリオ化して映像作品に作り上げたとしても、ドラマになりきらないようなことをしっかりと作文して纏めてくれて(イメージっぽく表現して)わかりやすく伝えてくれる人みたいだ。

悪く言えば純文学のこってりしたものを想像して期待するとがっかりすのだろうけど、まろやかで心がほんのりとほっこりするような末永く大事にお付き合い出来そうな作家なのかもしれないとも思ったわけです。

そういうわけで、作品にも大いに興味があるんだけども、欲張りなことに人間的にも大いに興味が湧いてきて、むかし(40年ほど前ですね)遠藤周作さんに会いに行ったみたいに、宮下奈都さんにも家の玄関に普段着でお邪魔してドアをコンコンとノックしてしまいそうな(それを許してくれそうな)味も感じてしまうのでした。

「 羊と鋼の森」というように、タイトルに「森」とつきます。けれども実像としての森は登場しません。作品でイメージされた森は、わたしたちが触れている環境創造活動や森林やみどりとの共存、さらにはおいしい空気や水を育む森と通じ合っているものがありました。
主人公はピアノの調律師をする若者です。ピアノは鍵盤の奥に隠されているフェルトのハンマーが鋼の弦を叩いて音を出します。このフェルトや弦を工夫・調節してピアノの音は調節します。森に生まれ森の大きさに守られて成長する若者の話です。
物語のなかで「古いピアノの音の良さは、山も野原も良かった時代に作られたからだ」「昔の羊は山や野原でいい草を食べて育ち、その健やかな羊の毛をぜいたくに使ったフェルトをピアノのハンマーに使って」いたからいい音がするのだ、と書いています。

作者の宮下奈緒さんは、北海道に山村留学をして家族で1年間過ごした経験があり(それを素材にして)「神さまたちの遊ぶ庭」という作品も書いています。

「羊と鋼の森」も「神さまたちの遊ぶ庭」に出てくる森も、ふだんから仕事で自然保護や環境創造、森や緑との共生などをテーマに仕事をしているわたしたちみんなが夢見ているような森ととても似ていました。
しっとり・どっぷりと何度も読み返せる作品でした。


❏ 感想 あとがき

(試しに本屋大賞を読んで)直木賞とは色合いが違うなあと、優劣ではなく、感じたのでした。
そもそも同じラインに並んで比べなくてもいいような風に感じます。

「博士が愛した数式」という小川洋子さんの作品をむかし読んだけど、ああいう作品のように鋭利でない切り口で魔法にかけたように作品が読者に忍び入って来るのようなところが宮下さんにもあった。
決して軽くはないのだが、作者は冷たい人を装って、熱くならない物語を淡々と続ける。
結論だけどこかで暗示したらいつ終わってもいいような甘いベールに包まれたお話だったのかもしれないな。

・・・・と、ここまで書いて、本屋大賞のことをパラパラと調べたら、さらにわかってきたことはその「博士が愛した数式」(小川洋子)が第1回本屋大賞だったということです。
本屋大賞なんて眉唾やなあ、なんて書いておきながらも楽しく読んでいる作品が何篇かあったので、ちょっと言い過ぎたかと反省しつつ、
小川洋子や石田衣良、絲山秋子、角田光代、三浦しをん…と読んでいるから、あゝわたしも結構ミーハーだったのだ。

自分で書いた感想をもう一度読みなおすと
「ストーリーが荒削りで躍動感のあるモノや、感動の押し付けのような作品が巷には多いこのごろ、素直に小さな物語を、しかも、文学的に彼女は綴っている。
こんな作品は次々と生み出せるようなものではなく、作者の宝物のような感性を繊細にかつ満遍なく出すのですから、きっと彼女の中でも数少ない名作になることでしょう」
と小川洋子さんの作品のことを書いている。(11年前の感想)

わたしが大好きな「赤目四十八瀧心中未遂」(車谷長吉)とか「利休にたずねよ」(山本兼一)ような滾りがない。だからこそまた違った読者が吸い寄せられるのだ。

♠️

もう一つ特記したいことがあったので記録しておく。

読書真っ最中のこと、原民喜の作品を引用している箇所に出会う。(P57)

「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」

これは「沙漠の花」という作品のなかにある一節だ。ちょうど半年ほど前に「原民喜全詩集」を見つけて考慮時間0秒で買ったわたしですから、原民喜という名前が登場するだけでもうお涙頂戴ものでした。

そのことをツイッターで mention したら reply がもらえたのでした。

遅読なんです(老眼とも闘いながら) 羊と鋼の森 ぼちぼち進んでます
原民喜 の名前が出てきて超嬉しがっています
去年の秋に「原民喜全詩集」を見つけて即買ったんです
わけもなく好きなん
何か通じるものを感じているのかな
(そんな 予感もしていたのだった)
@NatsMiya

@wahaku よかった たぶんどこかでつながっているのですね


写真日記から

羊と鋼の森(宮下奈都)

宮下奈都さん(その4)「羊と鋼の森 」へと

 宮下奈都さんの話を続ける

宮下奈都さんの「はじめからその話をすればよかった」を
じっくりと読みだして好きになった

しっかりさんなのだが
ちょっとエキセントリックな面もあって
でもお茶目そうな雰囲気も漂わせていて
好きになってしまうタイプなのかも

四月が尽きる頃からちょっと
いろいろ心を刺激することが立て続きあって
今 宮下さんで オロオロしてる
私の心はたった今音楽アプリが流してきている
IT MIGHT AS WELL BE SPRING
そのものなんです

上智の哲学科って城くんが選んだ学科と同じだし
年代も近いし
城くんは結構長い間在籍してたし
もしかしたら知っているかも
なんて考えてるとまんざら遠い人じゃないみたいな
都合のいい錯覚が満ちてくる

♣♣

名前を間違ってツイッターにあげてしまい
すかさず 宮下奈都 さん本人から
間違いの指摘を受けて
顔面から血が吹き出しそうなくらい焦りつつ

魔法にかかったように
宮下ファンになっていくのでした

「羊と鋼の森」の購入はもう秒読みに入っていた

「神様の…」からか「はじめから…」の作品を
ひとまずじっくり読んでから買いに行こうと考えているうちに

めきめきとサイン本が欲しくなってくる
どうしてかって…
一目惚れした高校生にその瞬間の心を尋ねてみれば
同じ答えかもしれない

ともあれ
ときめきに満ちながら5月が始まっている

宮下奈都 はじめからその話をすればよかった(その3)

メモ帖に書きとめたことがらを書き写す。
トリガーになる部分だけ。


【048】 いつか、また会える
もうこれで終わりだとそうはっきり感じることができるのは若さの特権だと思う。痛々しく、残酷な特権だ。泣きながら、さようならと手を振ることができるのは若いからだ。いくつもの人や物事との決別を繰り返し、人は年を重ねていく。

【066】わからないということ
小説というのは、わからないことに言葉で挑むことだと私は思っている。わからないけど、知りたい。つかみたい。何か。それを根気よく追いかける。いい小説には答えではなく、問いがある。

【077】宇宙飛行士になりたい!
子供は種である。どんな種なのか、ぎざぎざの葉っぱが出るのか、赤い花が咲くのか、甘い実がなるのか、ぜんぜんわからない種だ。種に刻まれたDNAがどんなふうに発露するか、それだって誰にもわからない。親にできることなど、少しばかりんことだ。できるだけやわらかい土に蒔いてやり、水をやり、日に当て、すくすく育つように祈るくらいのことだ。

【081】同じ月を見ている
「同じ月を見ている」というのは使い古された言いまわしなのかもしれない。離れていても、隣に並んで月を愛でることはできなくても、きっと同じ気持ちで月を見上げている。そういう糸がいると信じられるだけでどれほど心を強く持つことができるだろう。

【123】 おついたち
その気持が、こどもを生んで少し変わった。誕生日って生まれた日だけじゃない。生んだ日でもある。こどもにとっては、生んでもらった日なのだ。

【126】 チョコレート
若かった頃、バレンタインに意を決して、好きだった人にチョコレートを贈った。

【129】 パン
たぶん、適当に粉と卵と砂糖と牛乳を混ぜて、フライパンにバターを溶かして焼いてくれたんだと思う。

【141】 眺めのいい道
桜はまだ咲かない。凛とした空気の中、上着を羽織って散歩に出る。青い空の下を歩きながら、生き方を突きつけられているのは子供たちではなく、私のほうだ、と思った。


「いつか、また会える」と「おついたち」は
なかでも余韻が強くてピリピリと心の片隅に滲みている。

こういうところがこの人のとても魅力的なところなのだと思う。

いい人に出会えた
小説家でよかった
リアルだったらしばらくは痺れきってしまうかもしれない