積読(つんどく)

大きな流れの波の上を
漂うように彷徨うている
そんなふうに思うことがある

若くて元気なころは時に無謀なこともしてきたけれど
今は考えもしなかったような自分がいて
それがやけにしおらしくて苦笑する

周りから仲間が抜けてゆくときもあったし
息が合わずに逸れてってしまったこともある
どっちが本流だったのか
いつまでも考え込んだものだ
さらには、この世から逝ってしまったものもいる

わたしもそんな波の上を
ときには大きく揺られながら
ここまでやってきた

もう沈んでもいいいやと何度も思い
漂うだけで幸せと泣いたこともあった
ほんと
私は今日まで生きてきました♬
と口ずさんだものです

たくさんの人に手を差し伸べてもらい
命を助けてもらい
沈まないように静かな波間を導いてもらい
ここまでやってきた

これからは
恩返しをする番なのです

若い時とは違った使命が山ほどあって
パワーは昔のようになくて
なんの取り柄もなくて
でも
人生の後半戦は忙しい

一緒に頑張ろう
まだまだ この先も

最近どうよ?

と尋ねられて

井上靖の「孔子」を
もう10年以上鞄に入れて
持ち歩いているけど
やっと読んでて泣けるようになったよ

と答えている


平成28年12月17日中日春秋(中日新聞)から
「積ん読」という言葉は、世界に誇るべき日本語らしい。オックスフォード大学出版局は、「愛書家が知っておくべき十の言葉」の筆頭に、tsundoku(ツンドク)を挙げた
▼買った本を読まないまま、積んでおく。そんな状態をずばりひと言で表す言葉が、英語などにはない。日本の読書文化が生み出した見事な言葉なのだ
▼だが、胸を張ってばかりもいられない。本棚からあふれ、廊下や枕元などで山となった本に、自己嫌悪さえ覚えるのに、その山は確実に成長し続ける。そういう「積ん読病」患者にお薦めなのが、若松英輔さんの近著『言葉の贈り物』だ
▼若松さんのお父さんも大変な愛書家で、晩年に目を悪くして満足に読めなくなっても、買い続けた。どう見ても無駄である。父の「積ん読病」を若松さんが同僚に嘆くと、こう言われたという。「読めない本は、読める本より大事なのかもしれない」
▼<人は、いつか読みたいと願いながら読むことができない本からも影響を受ける>と、若松さんは書く。<私たちは、読めない本との間にも無言の対話を続けている。それは会い、話したいと願う人にも似て、その存在を遠くに感じながら、ふさわしい時機の到来を待っている>
▼いい言葉だなと思い、こういう本はじっくり噛(か)みしめるように読もうと、枕元の本の山の一番上に置く。かくして積ん読の山は、また高くなる。

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続 人生は夕方から楽しくなる

(前回から続き)

「人生は夕方から楽しくなる」 (毎日新聞)の連載記事のタイトルを見ながら、平成26年(2014年)にイオンがGG向けにイメージ・コピーした「人生は、後半戦がおもしろい。」を思い起こした。

「夕暮れ」であるとか「後半戦」という言葉は私がときどき使う「第3コーナーを回った」とか「第4コーナーに差し掛かった」にも似ている響きがある。 「人生の」という形容詞をつけるとさらに具体性を帯びてくる。

もう終わりに近づいているから、もうすぐ終わるから、楽しかったところは過ぎ去ったけど、悔いのないように生き抜こう。
昔ならそのようにいいながら似たもの同士が肩を抱き合って闘志を燃やそうとしたのだろう。

しかし、そうは問屋が卸さないという元気な爺さん婆さんたちが増えたかもしれない。夕暮れからもうひと踏ん張りして楽しさを再び味わおうじゃないか、というわけである。

そこには、人生の終盤ではモノの価値の尺度や方向をもう一度見直して新しい気持ちで自分の体力にあった人生を送ろうという、言ってみれば人生を惜しむような心に立ち向かおうじゃないかという心や負けん気もあろうか。何も歳を食いながら老いぼれていくばかりが人生の後半戦ではないのだ。そんな意気込みを前に出して、同世代の皆々様から共感を呼ぼうとしている。

商業利益率が決して高くないから、若者のようにチヤホヤされなくなった。
TVの視聴率においても50%少なめの重み付けにされてしまっても仕方がない。

むかしは良かったと言って総スカンを食った過去の歴史の老人たちの二の舞いは嫌だからそんなことは言いたくない。
しかしよく考えてみれば確かに昔はよかったけれど今はもっといいのではないか、と気づいているところが現代的老人群である。

そういう老人集団にエールを送ってせめて敬意を表して新しい時代を作るヒントを探ろうと、そんな大それたもんでもないだろうけれども、世の中が経済指数ばかりに重み付けていては、やはりいつかどこかで破綻するような予感がするのだ。



ここまで mixi で書いて放置している

さて続きを書くか