3月5日(土)に生まれる 啓蟄篇【裏窓から】


啓蟄に幸せの文字見つけたよ
にも書いた通り お昼過ぎに病院に駆けつけて
午後は止まったような期間を過ごしたのだった

病院の待合室(談話室)でツマが待ち続けるのを視界の片隅に置きながら、私もカバンにいつも入れてある「孔子」(井上靖)を読んだりして紛らわすものの孔子様の言葉とこのたび子どもが生まれてくることとの関連性などは何一つもなく重くじんとくる子の言葉を読み続けると自分がこれまでに犯してきた数々の失敗をひとつずつ思い出してしまうのだったが、しかも、子の言葉を読み続けるとあらゆる過ちまでもが然るべき戒めを経て再起へと向けられているようにも思えてきて、こんな時期にこの言葉を読むのが辛くなるのであった


ツマが
「もう母親の役目は終わったのやな」
と生まれた直後に呟いていたのを聞いて

さらに、生まれる少し前にその談話室で何度も涙を拭きながら刻々と時間が過ぎ時刻が来るのを待っているのを見続けて

28年前に今母になる子を産んだ時のことを思い出し、40年前に亡くしてしまったたった16年間しか一緒にいなかったツマの母のことなどを考えると

歴史は否応無しに過去を過去としてのカテゴリーに追いやって着々と新しい幕を開けていることを痛感する。

28年前にこの子の母が生まれた。そのときにわたしは仕事をしていた。

30歳という働き盛りでひとつの方向に向かって進んでいたのだ。そんな時代があって、そのころはおおよそが自分の力で突き進み、苦しい時や悲しい時試練の時には大いに悩み、そのすべての悩みも自分で片付けてゆくのだというような自信や確信に満ちていた。

今更、それを過ちだと言うつもりもないが、それはひとつの未熟のカタチであったのだと思う。

人は、あるいは若者はそういう未熟なカタチでなければ成長できないともいえる。未熟であるがゆえに地につかない不安定さがつきまとうだろう。

そこには必ず差しのべる手があり祈りがあった。ひとつも功を奏しないこともあれば命を救うこともある。その見えない力があってこそ未熟が成り立った。


わたしはこの日記に「伝」という字を入れた。伝えねばならないと考えたからだ。

伝えるものは数限りなくあり、形があるものもあれば恩義のように無形のものもある。哲学じみたものもあっても良い。わたしが祖父や父から受け継いだものの中には教義を受けなかったものもあるし言葉にさえならなかったものもあるが、先代に似ている事を指摘されてそれも受け継いた1つなのだと感じ取る。

さて、
この生まれた子どもがどんな名前をいただきどんな夢を抱いて大きくなってゆくのか。

ツマが言うように「役目は終わった」と私も思う。だから、今度は恩返しをするステージなのだと漠然と考えている。そして、実はこの恩返しのステージが人生で一番重要な幕ではないのかとも思い始めている。

 

 

 

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一瞬をみつめる

私の書いたコメントをメモしておく

このごろ 私も母(85歳)を訪ねて家に帰ることが少し増えたかな

意識して会っておこうと思うのかもしれません

母はむかしの話をしてくれます

私の上に姉があって死なかしてますが、その後に男の子があったけど流産したこと、さらに私の5つ下の弟との間に二人の男の子を8ヶ月と7ヶ月で流産していることなど、を話してくれます

残酷な命の絶える様子などもしますが 私は母が生きていることを染み染みと噛み締めながら同じ話であっても むかしの話を新鮮に聞いて帰ってきます。

新しい世界で行きてゆく練習か準備か まあそんなようにも思えます

話を聞いて帰っては日記に書き留めています

生まれてから一度もしなかった話も多く 脈々と記憶がどこかで生きていたのを感じます

一瞬
例えそうでもあっても とても掛け替えのない時間ですね


コメント元

傾聴ボランティア

先日、ホームの母の部屋に、傾聴ボランティアの実習生(講師は久田恵さん)の方が見えた。母の趣味の墨絵について、いろいろ聞いてもらえることになっていた。母が墨絵を始めたのは40代からで、今から半世紀近く前からのことである。このホームに入る1年ほど前まで、静物や風景などをずっと描いていた。絵の話なら喜んでするのではないかと、周囲の人は予想していた。

ところが、である。母が熱心に話すのは、戦前の女学生時代のことばかり。臨海学校のこと、伊勢神宮参拝のこと、戦争が始まったこと、勤労奉仕のこと・・・話は戦後にさえならない。夫や子供のことも話そうとしない。中年から始め、あんなに夢中だった墨絵も、「もうやってない」と言うだけ。母の戦後は何だったのだろう、結婚して家庭を持ったことも、忘れてしまったのかしら?

昨日の句会で、こんな句を出した。舌足らずで、子としての無念の思いが出ていないけれど。

鳥雲に母の戦後はただ一瞬〉  こはる

年の瀬に考える その2 ─ 冬至篇

冬至のあくる日に母を訪ねた。(23日 天皇誕生日)

ムスメもあと二ヶ月に迫ったこともあるので呼んでやり大きなおなかを母に見せながら正月のことなどあれこれと話をする。

母を訪ねれば昔の話をするのはどこのウチでも例外ではないだろう。近ごろはたとえ同じような話であったとしてもそんな話を聞かせてもらうのがわたしはとても嬉しい。

85歳になろうとするのに話す内容は正確で、細かい点まで記憶していることに驚く。年寄りとはそんなものだでは済ませることのできないレベルである。

例えば、親戚の人の逝去年表、家系図に登場する隅々の人までの名前、生い立ち、数々のエピーソード、それらの出来事に伴う年月日、付随する数字などなど。

真似をするとか、習うとか、はたまた、こうなりたくて自分も鍛えようとか、そう考えてできるものではない。脳みそと心の構造の問題だ。記憶しておくことや分類して整理をしておくことのメカニズムの凄さに感心する。

自叙自伝的な話も多くなった。歳をとることで昔には話さなかったことでも捨てるように吐き出せるんかもしれない。年齢と気持ちがもたらす堰のよなものが外れるイメージで話してしまうのだろうか。

今までは堪えていたのか、話すチャンスがなかったのか、それともわたしが(娘でなく)息子だったからか、孫がこうして大きなお腹をしているからか。理由までは訊ねたりしないけれど、話す内容はしっかりと聞いておかねばならないことの連続だ。

冬至のあくる日に尋ねたのは、正月の餅つきのことを訊いておきたかったからだ。
だが、いつものようにストーブの前で話し始めた母は、自分が赤ん坊を生む頃の話をし始めた。
わたしには弟があるが、死なかしてしまった子が三人あったのだという話である。

大きなお腹のウチのムスメが安心するようにと思ってか、おばあちゃんの経験的な昔話なのか、これから子どもを生む子を心理的に安心させるためなのか、それほど深くを考えてのことでもなく、むかしを単に回想しての話であったのか。

死なかした三人の子について、どんな気持ちで思い返したのだろう。
大きなお腹を見ていると昔の記憶が蘇ってくるのだろうか。

一人は1年半ほどしか生きられなかった長女の話であった。貧しいのと農家が忙しいことで、ろくに医者にも連れて行けず死なかしたという。
あとの二人はわたしと(5つ離れている)弟の間にできた子で、八ヶ月と七ヶ月でそれぞれ流産した。
生まれてからもピクピクと動いていたというような少し怖くて残酷なことも平気で言う。わたしにはこれまで一度も聞かしてくれなかった話であった。

弟は7月10日に生まれるのだが、生まれる間際の6月25日にもまだ田植えをしに田んぼに出ていたという話も聞いた。

今の子は大切にしてもらえて、更に医学も進化して安心して産めるから幸せである……というような単純な話では決してないのだ。

そこには60年の社会の進化と変化があり、人々のイデオロギーの遷り変りがある。暮らしのスタイルが姿を変え、身の回りにある物質が豊かになってきた。家族の体系が新しくなり、幸せ感にも大きな差異が出てきている。

母はそんなことを理屈でいう人ではないのだが、その糾える縄のように変遷する時代の襞のひとつひとつまでをしっかりと見つめ続け捉えている。そういう視線で語っていた。

話の深みを聞き逃すか、聞こうとしないか、聞いても理解できないのか、聞き取れないか。
貴重な話を生かすも殺すも、これからの人に任されている。

年の瀬に母を訪ねて考える ─ 冬至篇

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とうみ