父の最期の言葉

父の最期の言葉

二十年前の大寒の二、三日後に父は亡くなっている

残された母の話によると
亡くなる日の二三日前には
既に意識がぼーっとしてたらしい

ビールが飲みたいと言うのであるが
こんな状態で飲ましてはならんと思い
お茶をやったという

「ビールと違うやないか、まずいなあ」

言うてやったわ
と あのときを母は回想している

それが父の最期の言葉であったことになる

2018年1月29日 (月曜日)
増殖する(秘)伝

 

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三十数年の歳月が過ぎて幻の日記が見えてくる

三十数年の歳月が過ぎて幻の日記が見えてくる

子どもが結婚をしたときに
遠く京都に住んだままで
家のそばに新居を構えることもなく
将来のいつ頃になって帰ってくるのかも
はっきりとさせなかったこと

父はこのことについて
眠れない日が続くほどに
考えて続けて
あらゆる可能性を求めて構想を描いたのではないか
と思う

子どもは
自力でこれからも生きてゆくつもりだろう

自信に満ちているのはわかる
しかし、たとえ自分が頼れるような親でなくとも
親を頼ってそばにいたいというような素振りさえもしなかった子どもを思い
好き勝手にしている様子を見せられるときは
おそらく寂しい思いをしたに違いない

学校にやっているときの六年間の苦労を振り返りながら
東京で学業を終えたら故郷に戻ろうと考えてくれることを
普通に筋書きにしていたかもしれない

それだけに相当に寂しい日々を過ごしたことかと推測する

さらに、後年になって
子どもは夫婦で故郷に帰って来たものの
車でⅠ時間ほどのところに家を構えてしまう
自分たちはその家にのこのこと
立ち寄ることも憚られるようなこともあった

そんな暮らしに、ある時は満足する一方で
何処かしら寂しく思ったことだろう

子は子で新しい時代を生きるのだから
むかしの世代は何も申してはいけない
申したとしても
決してそれが生きてくる言葉にもならないのだ

そう思って黙っていたに違いない

父の日記は紙切れ一枚も残っていない
しかし、こんなことを
必ずあの枕元に置いていた帳面に
書き残していたはずだ

残っていなくても
それが見えてくるような気がする

三十数年の歳月が過ぎて
自分が父と同じような立場になった時に
恐ろしいほどに

幻の日記が見えてくる

門井慶喜 銀河鉄道の父
門井慶喜 銀河鉄道の父

読み始めました
銀河鉄道の父

2018年1月28日 (日曜日)
増殖する(秘)伝

父の日記 その3 ─ 月のはじめに思う

父の日記 その3

役場勤めだったおとやんは息子に夢を描いたのだろうか
曽祖父が村長、曽祖父が村会議員だったので
わが家系はその道を選ぶことを強く願っていたのだろうと思う

しかし、わたしの意思を尊重しようとした
本心は高ぶるほどに悩ましかったに違いない

自分の意思があるならばそれに従うべきだという
自由な発想を持つ側面があり
わたしが東京の大学に進学したいと言い出したときにも
何一つ反対の意見は言わず
引き留めることも
考え直すように促すこともしなかった

のちに何度か
「若いうちは勉強をしておきなさい」
「金の心配はしなくてよろしい」
「しっかり勉強しなさい」
「しょっちゅう手紙を書くと勉強の気が散るので手紙はあまり書かないことにする」
「学費を振り込んだので、しっかり勉強しなさい」
「健康に気をつけて」
などという鉛筆書きの便箋(多くは広告チラシの裏紙だった)に
走り書きをしている手紙が
小荷物と一緒に届いて
そのたびごとに
のらりくらりと怠けていた自分を見つめ直し
強い自責の念に苛まれる夜を送った

▶︎ (架空日記)

カズは勉強しているのやろうか
なまくらこいとらんかな
若いうちは勉強しろと書いておいたが
大人になったらアナウンサーになりたいと小学校の卒業の時に書いておった
もっと小さい時は船乗りになりたいと言うておった
諦めておるのやろうか
家に帰ってきて農業をしながら
役場に勤めるということは考えんか
夢はあったほうがええやろうなあ
(某月某日) ◀︎

わたしは公務の道を選ばなかった
自分で勝手にシナリオを書き換えてしまったと
血族の多くの人々は思っただろう

わたしの選択が
途轍もなく想定外だったことに
わたしが気づくのは
父が亡くなって
わたしが仕事をやめて
色々な出来事があって
幾らかの時間が過ぎてからのことだった

父の日記 その2

あまりペラペラと喋らない人だった。
私のおしゃべりは誰に似たのかわからない。

帳面を開き鉛筆を持ち小首を傾げるようにして何かを考えていた。
さらさらと書く雰囲気は持たず、どこかを時々見つめたりしながらじっくりと眉間にしわを緩く寄せるかんじで日記帳に向かっていた。

モノの道理を考えてみようとする姿勢の持ち主であった。
しかし、他人に自己を主張しようとはしなかった。
諦めがあったのだろうか。

日記にはどのよなことを書いていたのか。
毎日の出来事の不平不満を書くようなことはなかっただろう。

耳が不自由であったから周囲からイジメや阻害・排他的扱い、誹謗中傷、噂や悪言など(私には想像もできないのだが)を受けることが多かっただろう。
そして、じっとそれらへの反発をひたすらためて食いしばって堪えて生きてきたのだと思う。

辛い(つらい)ことは気にかけない、良いことだけを見つめて生きるのがひとつの道なのだ、と言葉ではなく生きる姿勢の中に持っており、そんな生き方をときどき漏らしたこともあった。

果たして、そんな自分に向けた言葉を日記に残したのだろうか。

♣︎ (架空日記)

台風がまた来ている
田んぼには出ていけないので小屋を片付ける
東京にいるカズは急に来た秋の冷え込みで
風邪をひいてはおらぬかな
栗が採れたので送ってやろか
酒ばっかし飲んで
勉強サボっとらんかな
ニンゲンは怠けたらあかん
面倒臭いということは何もない
コツコツとすれば必ずできる

♣︎

今日のような嵐が近づく雨の日には
こんな日記を書いていたのではなかろうか

父の日記 はじめに

父の日記 はじめに

わたしが子どものころ、そう小学生から中学生のころのことだ。
父は、就寝前にいつも必ず日記を書いていた。
枕を胸に当てうつ伏せで書いていたと思う。

居間や奥の間(寝間)には机などなかったし、卓上の電気スタンドもなかった。
だから、薄暗い奥の間の部屋の灯りだけで書いていたのだろう。
ペンは、鉛筆だったのかボールペンだったのか、今となっては不明である。

わたしはその日記に感心を持ったことはなかった。
こっそりと読んでみようという気も起こさなかった。
子どもというのはそういうものなのだ。
そういうことに気づくのは自分が父を亡くして、娘に昔話をしておきたいと考えるようになってからであろう。子どもは、昔話や親のことにはさらさら感心がないのだ、と知ったからだ。

日記は全く現存しない。

毎日丁寧にじっくりと時間をかけて綴っているのを見てきた。
日記帳は、1年分の分厚いもので、毎年同じものを使っていた。
部屋の片隅か押し入れには何年分もの日記が積んであったのを憶えている。
おそらく、わたしが生まれる前か子どものころから書き始めていたのだろう。
そのことを考えると相当な冊数の日記があったわけで、あれは曖昧な記憶ではないのだ。

だが、日記は消失している。
無くなった理由を想像すると二つのことが思いつく。

母がある時期に家財の整理をして、その際に廃棄するか焼却したかもしれない。
子どもが高校に行くので(または大学に行くので、または社会人になったので)
生活が一段落して、過去のあれこれやモノを整理した可能性がある。
しかし、そのように廃棄したとして、父は廃棄の様子をどう思ったか。
そこまではもっともな想像はできない。

もうひとつ日記が消滅する可能性がある。
それは父が定年前後から脳梗塞の症状で苦しんでおり、入退院を何度か繰り返した。
その症状が思わしくない時期があって精神的な(一種の強迫症のような)障害があっ たのかもしれない。
その際に、母のバックや貴重品を庭で無理矢理(病的に)焼却してしまうというちょっとした事件じみたことがあったかもしれない。

永年父が、おそらく30年も40年も継続してつけていた日記なのだから、そんなに簡単には焼却できるものではないと想像する。
父はどんな気持ちで消えてしまう記録を見つめていたのだろうか。

あの日記にはどのようなことが書いてあったのか。

あらゆることを思い出せるだけ思い出して、想像してみたいと、先日、ふと、思った。
真相はわからないのだが、あの日記にはどんなことが書いてあったのか。

架空のような夢のような想像を混じえて、少し考えてみよう。
そう思いながら、私はこれを書き始めている。