人生を生き抜く - 啓蟄篇 【裏窓から】 

平成29年3月3日の朝日新聞コラム(おやじのせなか)で小島慶子さんが

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片働きになって痛感したのは、女性は仕事を辞めても責められないけど、多くの男性は「死ぬまで働け」というプレッシャーを背負い続けているんだ、ということ。男性だってもっと色々な生き方があっていいはずなのに、「しんどい」なんて言おうものなら負け犬扱いされる。その上、家で「粗大ゴミ」とか言われたら、心が折れるよな、と。
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と書いているのです
このインタビューには前後があるので
この一文だけではわかりにくいですけど
お父さんの偉大さと苦労が後になってわかってきた
というようなお話です

🍀

私は
小島さんのお父さんのように一生働き続けませんでした

50歳前に仕事を放り出して
定職のない私がいる家庭でありながら
ムスメは私学の中学高校大学を出しました

450万の日本育英会の借金ができまして
就職したムスメにさらにそれも委ねました

10年以上早く仕事を辞めてしまいましたので
年金も最低レベルしかもらえないことがわかっています

一流大企業を退職して年収は4分の1ほどになっても
しかしながら
お金がないこと以外は充実した毎日を
精神的に大きなストレスもなく送れたことは
幸せであったと思っています

世の中にこんな生き方が存在したのだと
人生の終盤になって気づいたのでした

仕事のない恥ずかしさや
社会的地位や名誉がない情けなさよりも
それまで企業というところで
そんなことも知らずに
無知に働き続けていた自分が
むしろとても恥ずかしかった

平均年令よりも10年以上早く死んでしまった
父親の年令に近づこうとしています

父は定年になってから数年間に
どれほど充実した人生を過ごし
どれほどまで満足をして
人生を終わることができたのか

生前の言葉や遺作などを集めて
それを調べたり考え始めてみると
「人生を生き抜く」という
哲学めいたことを考えてしまいます

私は
仕事を勝手に10年あまり早くやめて
いつ何時に死んでもいいような人生を
貧しく(ある意味では)幸せに送りました

あと数年で父の享年になります
その年齢になったら私の新しい人生が
無一文で始まるのです

社会人になった時の同期と比べても
年金は4分の1に満たないでしょう

でももうそんな欲はありません
老後は前借りして過ごしたようなもんです

ですからこれからの私の人生は
いつ死んでもいいような
明るく軽く愉しい人生であって欲しい

だから健康に生きることが必須なんです

🍀

(こんな一筆を知り合いに吐き出しながら)

一瞬でも私がこんなことを考えていたのなら
それを後になって訂正してもあるいは願いが叶っても
書き残しておきたいと思っています

子どもが社会人になる頃から頻繁に思うことは
「人生は恩返しをすることで終わっていきたい」
ということです
そして
その心を引き継いで遺していかねばならない
それはヒトの使命であって
故に結婚もしなくてはならないし
子どももできなくてはならない

私自身も家族も子どもも
みなさん社会の中の様々な繋がりの中にいて
助けててもらいながらここまできたのですが
ちょっとそのことに
気づくのが遅すぎたんではないか
言葉だけでわかったつもりになっていたんではないか
ということです

さらに、しかしながら
何一つ恩返しなどできない私が居るんです

だったら(反面教師であっても)
ヒントになる言葉を遺すしかないです

消えていくもの - 元旦号 (裏窓から )

🍀 (年末雑感) ー 言葉が消えてゆくこと

「ぬくたい」「 ひやかい」「よぼる」「いる」という言葉が消えつつあるのだと実感する
「よぼる」は「呼ぼる」であり、「いる」は「はいる」ことでお風呂に「いる」というように使う
ふと自然に使ってみて、近頃こんな言葉を話す人を見かけなくなったと閃くように思った

*

わたしの前で祖母ー孫(わたしの母と娘)が話をしているときに祖母の問いに
「ええ?どういう意味」
と聞き返しているのを見かけた

言葉に多少の不明点があっても大抵は想像で話が進むものだ
しかし
このときには何を話されたのかが全くわからなかったらしい
(書き留めず忘れたのが残念)

暮らしの中の物であれば見れば理解できるので話しは続く
しかし
モノの考え方であるとか振る舞いは想像では解決できないことがある

一緒に暮らさず、日常生活品に違いができると
昔ながらの暮らしを守る人と現代人の間には
自然にギャップが出てしまう

言葉も食い違うようになり
会話が成り立たなくなってくる

テレビ文化の侵略で地域文化が消滅してしまうかもしれず
全国レベルで暮らしの中にある言葉が一般化され共通化してゆき
さらに合理化が進んでゆく

異なった生活圏では文化の浸透度合いから温度差が発生して
非常に身近なところで(すぐ隣の空間でありながらも)大きな溝が生まれている

♠️

溝が生まれていることや
或る時代のものが消滅してゆくことに特別な寂しさ
(ときには怒りに似たもの)を感じる人は多いだろう

消えてゆくのも文化の変遷の流れなのだと言えば
消滅させてしまう側をいまさら責めることはできない

そのことに危機感を持つ人はどんどんと消えてゆき
やがてゼロになるだろう

消えていいのかという問いは
投げかけないことにしている

何千年もの昔へ遡って想像してみると
新しいものが生まれるときには
消滅させてしまう次の時代に怒りを持った人が
必ずいたのだと想像できる

この怒りを歴史として伝えた歴史上の人物は偉い
そう思う

🍀 雑感その2

修行という言葉が消えつつある
言葉の意味は、ストレートに行を修めることだ

若くて実力のある人が社長になり事業を進めるケースがある

頭が良く、キレもあり、知才も備え、人脈もある

社会と広く交流をし
大きな流れもしっかりと捉えることができ
将来を的確に見て構想を立てることができ
苦難に出会ってもチャンスに出会っても瞬時に正確に判断ができる

何かが足りないとすれば修行が足りない

早朝に井戸の水を汲み上げにいく行いを千日、二千日続けるようなことを言っているのではない

玄関を毎朝掃き清めて綺麗にし
社長の草履をきちんと丁寧に揃えて
来たるべき時を待つ日々を千日続けることでもない

ただわたしは古い人間なのだろう

温室で十分な栄養と人工の光で育てられた促成栽培の野菜と
大きな大地の畑で自然の光を浴びて育ってのちに収穫された野菜とで
どちらかを選ぶとすると
促成栽培は選ばないと思う

促成栽培の方が格段に美味しくて栄養があって綺麗で整っていても
大地の畑の野菜を選ぶような気がする

人の器とはどんなものだろうか

現代科学や経済理論さらには精神科学や行動科学が
より完成されたニンゲンを開発し続け
都合のよいキレる人材を育成してきたことは
ある側面で反省するべきことであろうとも思え

しかし誰も咎めないから
何も指摘できないし
どこか間違っていると思うのだが
主張もしない

しかし確信はある

出来事を刻む – 裏窓から 冬至篇

出来事を刻む
柱の傷の如く

そのようにゆっくり刻まれてゆく時間のうえで
こつこつと生きてゆきながら
後始末をするような日記を綴るのもいいだろう

冬至を迎える21日は水曜日で
一日とくに用事もなく
身の周りのことを整理したり
一年を振り返ったりしていた
いいえ
・・していたようで何もせずに師走の一日を過ごした

今年のできごとを振り返って重大ニュースを整理する
若いときはそれほど意味あることとは考えてもみなかったし
叔父がむかしみんなを集めてそれを考えてみようと
年末年始の団欒のおりに呼びかけていたのを思い出して
今ごろになってあのことの意味の深さと意義の重さを肌身に染みて感じる

昔を振り返ることに貴重な価値があったのではなく
自分の足跡を丁寧に見つめ直して
大勢の人に世話になりながら一歩一歩を踏み出して来たことに感謝し
反省するべきことをしっかりと戒めとして受け取り
次の一歩あるいは百歩への根拠を見出さねばならない

何もしなくても時間は過ぎてゆく
何かをして考えても何の変化もないことも多いかもしれない
しかし
違いを大切にして前を向いて堂々と歩んでゆくためにも
よくきく眼とあらゆるものを受け止める感性が必要だ

冬至を迎えさらに
時間(とき)は刻まれ
クリスマスのお祭りも楽しんで
年末年始へと向かってゆく

できごとにそれほどの変化がなかったとしても
そこには常に新しい自分でいて
弛まぬ変化をしている(いなければならない)

丁寧にできごとを刻むということは
今になってとても基本的で大切なことだと思う

柱時計
柱時計

忘れる

平成22年(2010年)の年末に「遺す言葉」を書き始めている。

忘れようとすることとはどういうことかをあのときは考え続けていたのかもしれない。

忘れてしまうには覚悟が必要だ。
そのことを薄々感じ始めいるようだ。

恩返しをしないままですべてを忘れてしまっていいのか。
何も残さずに命を絶やしていいのか。
そんなことを考えたのではないか。

許すということは忘れるということだ。
そのことが言葉になって迫ってきたときにこれまでの許せない数々の出来事を次々と思い出してゆく。
しかし、次々と出てくるはずのものがそう長くは続かなかったから慌てた。
こんなに少なくはないはずだ。
もっと憎しみや恨みに満ちていたはずだ。
だから、許せないアイツらのことは必ず山のようにあるはずだ。

そう考えたのだろう。

ところが、あたかも許したように出てこないのが悔しい。
許すということは忘れるということ
その言葉を何度も頭のなかで反芻した。
忘れてしまっては許したも同然だ。

怒りも湧き上がりながら
万事休すなのかと悲しくなる。
諦めもどこからか忍び寄る。

けれども、ゆるさないために思い出さねばならないのだ。
ペンを置いてはいけないと誓おう。

見てわからん者は聞いてもわからん

見てわからん者は聞いてもわからん
ヒトのふり見て我がふり直せ
この二つの言葉について考える

父には頻繁に注意をされたものだ。
小言ではない。説教でもなかった。
偉い人の説法に似たようなモノであったのかと今ごろになって回想する。

▼見てわからん者は聞いてもわからん

この言葉の本当に深い意味考えてみるとき、ずっと50年以上もの間にわたって本当の「その心は」の部分をわたしは理解しないままでいたのだと気づく。ちょっと恥ずかしいのだが、当たり前のことを理解していなかった自分の愚かさをさらけ出す話だ。

「見てわからんことがあっても、聞いたらわかるやないか」
さらには
「見なくてもきちんとした設計図があれば完璧に学ぶことだって出来るはずやないか」
と若いときには何度も思ったものだ。

そう考えた理屈は決して間違っていないとも言えるし、その言い分で成功を収めることも出来るだろう。そのまま完了して終わってしまうこともある。さらには、成長していく段階においても「見てわからん者は聞いてもわからん」という言葉の真意を理解しないままで何も困らずに安泰に過ごせた人も多いかも知れない。

しかし、この言葉にはもっと深い哲学が潜んでいるのだ、と歳を経る毎に思うのである。

見てわからん  → 聞いてもわからん
聞いたらわかる → 見てもわかる

論理式はこうなるのだが、それだけではない。
じっと見つめて、観察することからすべては始まる。

そこに隠されたコツであるとかその手法を考案した人の視線や視点・考えを想像して学ぶこと。
さらにはその技が生まれてくるまで、頭脳のなかを駆け巡った工夫や着想の切っ掛けやアイデアの変化を肌身で感じて自分のモノにしなくてはならない。

職人の技を弟子入りした者が何年もの下積みを経て身につけて一人前にしてゆくときの姿勢のようなモノを説いているのだ。襖張りであるとか寿司職人が師匠から学ぶのに十年二十年という目の眩むような年月を要して血と涙の足跡やワザを受け継ぐ。

こんな伝承のスタイルは、今の時代には消えかかっているのかもしれない。
だが、自分が1つのモノを完成して揺るぎない技として完成して、さらにそれを未来に受け継ぐ確固たる作品や無形の力にしてゆくために、本当に真剣にやり遂げようとするならば、まずは「見て」学ぶのだと父はわたしに教えていたのだ。

この「見る」と短く表している言葉の奥には果てしなく揺るぎない厳しさがあったのだと思う。

荒んだ学生時代

 

  • 萩山寮(久米川寮)
  • 出席(無断欠席・サボり)
  • 落第(奨学金停止)

このことを書き残そうと考えたのは、懐かしさからだけではない。


▼ 萩山寮は東村山市の西武線久米川駅と萩山駅のどちらから歩いても同じ程のところに位置していた。久米川病院というやや大きい病院を裏に入ったところだった。

予備校の寮だった。

田舎から出てきた浪人生だけが住むところでかれこれ30人ほどは住んでいただろう。多分、ピンからキリまでの顔ぶれだったに違いない。

鹿児島で整形外科医院を開業している村永君であるとか、現在東京新聞の政治部長をしている高田(旧姓岡田)君(イオンの岡田会長の息子)もいた。1年限りの短い付き合いだったが、結構アツイ1年を過ごした。

朝早くにブリジストンのグランドへ忍び込んで野球をしたり、玉川上水の散歩道を走ったり、空調などなかったので、寮の前の道路で涼みながら話をしたり勉強をしたりした。

学校にはちっとも行かなかった。何して過ごしていたのか。夜型人間になりきっていた。


出席しないという癖は予備校時代についてしまったのだろう。週間テストというのだけを受けに行き、授業には出なかった。父や母が聞いたら嘆いただろうな。もしも、わたしが親だったら泣いても泣ききれないようなグウタラなことをやっていたのだから、思い出すだけでも申し訳なく、辛いものがこみ上げてくる。

大学時代も全然講義に行かなかった。どこでそう吹き込まれたのか、大学生は授業をサボって遊んでばかりいるものなのだというイメージを持っていて、講義に出てまじめに勉強しようとはしなかった。

勉強しなくてはいけないと考えていた点は真面目であったので、自分で独力で教科書を読んで頑張ればいいと思っていたのだ。それも浪人時代の自分勝手な考えから来ていたのだろう。

浪人時代には試験に通りさえすれば自力で勉強していても構わないと考えた。授業なんて信用出来ない。そんな考えがあった。それもこれも、できの悪い高校だったことで授業を信用できなくなったからだと自己分析している。


▼ 挙句の果てに落第だ。

人のノートをコピーするとか、試験答案を覗く、カンペを使う、などは嫌いだった。そのへんは真面目といえば真面目だったのだが。勉強が下手で、やり方も頑固だった。

勉強と向き合う姿勢は年を経て随分と変わってきたと自分でも思う。変わってきたというより遅れていたのを修正しつつあるというのが正しい。

 

むかしの話をしょうか(12月号)

11月に【むかしの話をしょうか】と書きはじめていましたが
こちらにコピーしてつづきを12月号として書いてみたいと思います。

「暑い地下鉄」まで書いていたのでその後の段からがこのページだけになります。
始まりは ▶ 最後の言葉 ─ 小雪篇


❏ ちょっとしたこと

  1. 書道をする
  2. 絵を描くこと
  3. 彫ること
  4. 暗記をすること
  5. 鉄棒をする
  6. スポーツをする

❏ 昔話をしようじゃないか


書き足し中(月が改まったらそこまでをコピーしていきます)