人生を回想する(断章) 裏窓から-秋分篇

22日は秋分
随分と過ごしやすい日々が続いています
台風も暴れていますが

🍀

三千枚の金貨(宮本輝)の中で(上巻192ページ付近)▶️日記

「小宮先生は、水墨画の基礎だけを教えて下さるの。 筆の持ち方、墨のすり方、墨の濃淡の作り方…。○を何百回も描いて、次は横線を一本、それも何百回も描いて、」

どんな世界にも基礎としての決まり事がある。 この決まり事をしっかりと修得しておかないと、自分独自なものは生まれてこない。いわば不動の型で、それをおろそかにして我流で次ぎに進もうとしても必ず行き詰まってしまう。

「いまはとにかく自分で描きたいものを忠実に写生するようにって言われてるの。鉛筆でいいのよ。でも忠実な写生でないと駄目だ、って。適当なデ フォルメは断じて認めない。風景をスケッチするとき、遠くの電線四本を、ずるして三本にしてはならない。瓦屋根の瓦の数を誤魔化してはならない。私、それ を先生の仰有るとおりにやってて、ひとつ気づいたことがあるの」

「私はこれまで風景を見ても花を見ても、人間の顔を見ても、じつはなんにも見えてなかったんだ、ってこと。 斉木さんも一度やってみたらいいわ。 奥さんの顔がいちばんいいかもしれない」

と書いていたことを私の頭がうっすらと覚えている。

すぐには思い出せないし日常は思い出しもしないのだが、どこかに断片が残してあるのだろうことはわかっていた。

それを、とある人の日記で拝見した一文で再び思い出すことになって(簡単なコメント足跡を残して)、自分の日記を懐かしんで探していると上のような切り取りメモが出てきたわけです。

そしてついでに、同じころに読んだ「水のかたち」の読後の日記もあった。宮本輝の言葉が残っていた。

「善い人」もことに触れている
 * 現代社会ではどんどん希薄になっています。それはどうしてなのかと考えてみると、人間って非常に嫉妬深い
 * 友達の旦那は大会社の役員になったのに自分の亭主はリストラされたとなれば、仲のいい友達だろうが妬み心が生じ
 * 立場が逆になったらどうか。そういう嫉妬心が強い人が、今度はきっと必要以上に上から目線になる
 * 収入だとか地位だとか、そんなものを尺度にして物事を考える人の一番欺瞞的なところは、今の自分よりいい人に思われたいという気持ちが人一倍強いということ
 * 僕は人間の一番汚いところは、じつはそこなんじゃないかと思っている
 * 人からもっとこんなふうに思われたい、いい人に思われたいという気持ちは表裏一体で
 * 自分より劣っている人をさげすむのと同じことです。これを同じだ と考えない人が、今すごく増えています

と宮本輝のインタビューをメモ書きしている。▶️日記

人生は、後半戦がおもしろい
という日記もあった

むかしの方が真剣だったのか、このごろの方が腹が据わったのか
横着になったのか、諦めがついたのか

そんなことを考えながら

さて、
秋分篇は何を書こうかとぼんやりと考えている間にアレヨアレヨと時間が過ぎていった。

つづく

小満をすぎて憂いの夏近く─最近の余白から 小満篇【裏窓から】

小満をすぎて憂いの夏近く─最近の余白から 小満篇【裏窓から】 (原版)


最近の余白から 小満篇

▼ 焼き鳥の三本を二人で分ける

と最初に書いて

▼ 焼き鳥が三本ふたりで見つめ合う
と改めようと閃く

そのあとに「見つめ合う」なんていう生易しいものではなく
「睨み合う」ほどに激しい感情が「ぶつかり合う」ほうが激情的でオモシロイと思い直す。
私たち二人は周囲から「おまえらはいつも喧嘩をしとる」ように見えると言われる。
実際には喧嘩などではなく大声で喧嘩のような口調で普通に対話をしているのだ。

電車や街中でときどき夫婦喧嘩をしている二人に隣り合わせたりすることがあるが、あの言い合いを隣で聞かされるのは非常に不愉快で腹が立ってくることもある。そんなものは誰もいないところでやって欲しいと文句も言いたくなったりして後味がいつまでも悪かったりする。私たち二人もそういう不快を撒き散らしていることが多いのかも知れない。
しかし焼き鳥を食うときに「睨み合う」っている心の姿は「見つめ合う」に等しいことを弁明しておく。

ツマが一本でええわとつぶやくようにいい私がそんなこと言わんでもええと同じようにつぶやくように言う。
黙って一本ずつを囓ったところでもうちょいともらうわといってそそくさと二切れほど切り離して持ってゆく。
そんなことは惜しくもないしやらんつもりもない。
むしろ作った者としては食われて嬉しい。

十七音で心のせめぎ合いをすべて表現するのは難しい。この作品は駄作だろうからたぶん十年もたってからもう一度私が読んでも、他の誰かが読んでも、この夜の二人がどんな気持ちで焼き鳥を食ったのかは蘇らないかもしれない。
しかし、私たちはそんな刹那を生きているのだからそれでいいのだとも思う。
お父さんの焼き鳥はおいしかったとだけ語り継がれたらそれでいいのではないか。

「憎しみは忘れられるか」
そんな言葉を紙片に殴り書きして自分なりの答えを頭の中で反復している。
憎しみを抱くには訳があるだろう。たとえどんな事情があってもそれを忘れてしまうようなことがあるならばそれは許してしまったことに他ならない。
一旦許してしまってそれを憎しみと呼べるのか。許さないから憎しみである。

では、憎しみを事情があって解消するとしよう。憎しみではなくなることは即ち「許す」ことになる。
許すことは忘れることともいえる。
許しておきながら忘れもしない憎しみが有り得るのだろうか。
それはもともと憎しみといえるようなものであったのか。
わたしが抱く憎しみとは、もっと真っ黒の憎悪に満ちたドロドロの憎しみだ。

果たしてわたしはそんな憎しみを意思をもって忘れることができるのだろうか。
もっと広く考えて、ヒトは忘れたいことを意思のチカラで忘れられるのだろうか。

世の中の誰もが持つものでもないだろうが、ひとつの憎しみを私は持って生きている。
絶対に許し難いことがあるのだ。
自分のなかの正義がある1つのできごとをどうしても許さない。

だが、しかし、あれほどまでに烈しく憎んだのに風化してゆく気配をこのごろになって感じる。
人間は老化により記憶機能の一部を次第に退化(劣化)させてゆくのだから仕方がないかもしれない。
それも許すことになるのだろうか。


しかしながら、理由は如何にあれ、憎しみを凶器や暴力に頼って晴らすことは許されない。
ならば許すしかないのだが、忘れられないから困る。
風化してゆくのは悔しい。

憎しみのことなどを書き続けると人間の品位が下がるからやめよう。

♠ 小満をすぎて憂いの夏近し
♠ 小満をすぎて憂いの夏近く
♠ 小満やすぎれば憂いの夏近し

理論も何も持っていないから
ただ出任せに呟いてみる

わたしは夏がキライなのだ
ただ暑いだけの夏

バイクに乗って旅をしていた時代は
別人のように夏に走ったなあ

二人分の人生を(二色の人生を)生きている
なんか ええなあ

そうよ
GWにバイクに乗ってかっ飛んでいくツアラーをみていて
そういう時代があったことを回想していた。
みんな 癒やしを求めて走り続けている

わたしはもう癒やしなど不要になったから新しいステージを探す旅を探している

豆ごはん母去年より年老いて

豆ごはんをいただく。
格別、特別、美味しいわけでもなくても、こういう味をその季節に感謝をしながらいただくことが大切だ。
そのものの存在とそれ自体の価値と人々が大昔から嗜んできた味わいや愉しみを、普遍的な価値の上で味わうことが必要なのだと思う。

わが家の豆ごはん。
何度もチャレンジしてなかなかどこにも負けない味になっていると自画自賛して喜んでいる。
幸せとは、完成されてしまったものを、与える側のスケールでポンと置いて、幸せとして味わってくださいと贈るものではないだろう。

食や暮らしに関して、現代人はすっかり肝心な尺度の哲学を失ってしまった。
幸せボケになっているとも言えるのだが、豆ごはんなど典型的ののだが、完成された時代にポンと生まれた子どもたちにはわからない味なのではないか。

ニコニコする。

ふと、そんな言葉を思い浮かべて、身近にも日頃からニコニコとしていない人がいるかも…と考えてみた。
日常会話でも、不必要だから笑わないのだろうが、にこやかな人という表現がピッタリの人もいる。

子どもを育てていくときに、親は、にこやかであって欲しい。

もしかしたら現代が荒んでいるのは、こういった心のゆとりが欠落しているからではないか。

(5月22日)

本心

そう、それでよろしいんや。本心いうもんは、人に明かすもんやあらしません。
(李歐 159ページ)


一彰はそれ以深く考えるの放棄したが、所詮、理性で突き詰めるに足るだけの意味はない。 突発的な歓喜の発熱だと思ったからだった。 熱である限りそのうち冷めるだろうし、熱が下がらなければ死ぬだけだった。
(李歐 180ページ)

本心  at  – Walk Don’t Run – から

かけがえのない贈りもの

語録から

朝日新聞の土曜版にひとつの連載がある。 最近の記事で思わずスクラップしたものがあったのでここに残しておく。

– ジャパネットたかた社長・高田明 「私は、商品はただの物じゃない、生き物だと思ってるんです」と高田はいう。 例えば「ビデオカメラを買ったら、お父さんやお母さんを撮ってください」と強くすすめる。 子どもは成長してから自分の昔のビデオなど大して見ない。 むしろ両親の若いころの映像こそがかけがえのない贈りものになる。 2011年8月6日付 朝日新聞土曜「be」から

子どもの写真をブログやFACEBOOK、instagram にのせている人を見るたびに高田社長(元社長)の言葉を思い出す。
ついついそのことを受け売りで伝えようとしてしまう。 だが「子どもを撮るときには自分も一緒に撮りなさい」と言われてもその人も困るだろう。 「何を言ってるのよ 子どもが可愛いに決まっているじゃないの」と理解をしてもらえないときもあろう。 「そうは言っても子どもが可愛いでしょ」とさらりと聞き流してしまう人もあると思う。
わたしも子どもと一緒に何か ─ 例えばブランコをするとかボール遊びをするとか公園広場を散策するとか ─ の動画はほとんど残っていない。
高田社長のこの言葉を心から理解して、そのあとからじわっと、そのときの撮影をセッティングしてくれる人への感謝のような気持ちが湧いてくる、そういう人がいればその人は本当に自分の人生に感謝できる人ではないかと思う。