辨野義己 免疫力は腸で決まる、他2冊


リヴィエラを撃て(高村薫)を読み終えてから
家にあった土佐堀川と
図書館で借りた2冊を
並行線で読んでいます


図書館で借りているのですが
延長してもらいました

京都ぎらい 朝日新書
の予約をしているのですが
返却された連絡が届かないので
出かける用事を減らすために
もう少しじっくりと読むことにしました

でも
この2冊は

わたしにしたら
買う本ではなかったので
借りてよかった。


♠♠

❏ 免疫力は腸で決まる

本の内容は面白いですし
ためになりますので
おすすめします

高級なことや学術的なことは書いていませんので
そういうつもりで読んではいけません

味わいや深みや厚みや楽しみなどの満足感もないです。
タイトルのことの周辺情報を埋めている週刊誌の読み物欄のような記事を集めた本です

作者は真面目な方で
わたしも生活習慣や曲がった知識を見なおさねばならないと思いました


筆者が終盤でおすすめの食事を書いています。
★ ヨーグルトを1日500グラム

無理でしょ

ミキサーで混ぜて飲むと比較的行けるかも
とも書いていますが

◯ ヨーグルト
◯ 豆乳
◯ 乳酸菌飲料
◯ バナナ
◯ ヨーグルト
◯ 抹茶・ハチミツ


また、腸を良好に保てば
美肌にもなれるから
女子はチェックです

乳酸菌食品が重要です

◯ ヨーグルト+バナナ
◯ ヨーグルト+ニンジン
◯ チーズ+アスパラガス
◯ チーズ+さつまいも
◯ キムチ+豆腐
◯ 漬物+リンゴ


♠♠

❏ バカボンのママはなぜ美人なのか

柴門ふみさんのファンならとても楽しい本と思いますが
タイトルのことを掘り下げて書いている側面が少なく
柴門さんのエッセイ的な本のような印象ですので
嫉妬の心理学について書いているのではないのだなと
思い始めると興味が少し萎縮したかな


♠♠

広岡浅子の生涯ってのは
NHKの朝ドラです(だそうです)

話は面白いのですが
読み物としては味がないです

感想はのちほど

高村薫 リヴィエラを撃て(上・下)

登場人物がかっこいい。
オンナがクールで美人だ。

物語は難解で全然わからないので何度も読み返して進まないから2ヶ月も電車のなかでにらめっこをしていたけど、こういうのが好きな人は絶対に★★★★★になるでしょう。

高村薫
どんな人だろうって。
思うのかもしれない。

読み終わって
もう一回読んで
今度は感動をしたいと思う小説です。

季節は冬ばかりだ。2月とか3月とか。
この国の物語をこの重たさで書こうとすると最も合う季節なのかもしれない。
年末買って1月いっぱい、ちょうどそんなふうに同じ季節に読んできた。

エスピオナージ。耳慣れない言葉はどこかに記憶があるものの、スパイ小説なんてのはふだんから触れる小説や映画、ドラマでは007くらいしか知らない。(それに私は007の映画は1度も見たことがない)

「愛する者を傷つけないために別れ、愛してくれる者を傷つけいないために愛し、遠ざけ、キムは結局ひとりで逝ったのだ。」

こんな一文が目にとまる。
この言葉と出会うのは、物語として第4コーナー付近に差し掛かるあたりになろうか。
もしかしたら、さり気なく行き過ぎる物語のシーンのなかで、ふっと一息つく瞬間に痺れたのは私だけではなかったのではないか。

人が人を愛するとか何かに情熱を燃やすとか執念を煮え滾らせるとか正義を通すとか、そういう人間味からはまったく無縁にも思えるハードボイルドな側面をオモテにしている物語であるはずだったが、作者の思いは決してそんなにもクールではなかったのだと思う。

そんな想像を絶やさせないような只ならぬ作品だと難解と闘いながらも読み始めれば誰もが感じ取ってしまうだろう。

そして読み進むにつれて、人間の愛情や社会の不条理のようなものに熱いものを滾らせているのではないかと思いはじめるのだった。

登場人物が次々と狙撃されて死んでいってしまう。
これほどまでに非情がどこにあろうか。
死んで欲しくない人がことごとく無残に死んでいく。
しかしながら、タダの殺し合いの小説ではないことくらいは、それも少し読めば直ぐに分かる。

スパイ小説とはどんなものなのかをお手本で知らされたわけではないし、このような作品の経験がない私には最後まで読み切る自信が持てなかった。だが、とても難解な物語であるはずだったのに、未知のジャンルに戸惑いながらもドキドキで読んでいく。どこかしらに最後まで読んでしまう理由と確信があって、それは読み終わってみてはっきりと見えたのだった。

私たちの非日常のテロリストというものが登場する。
スパイがいる半ば非現実の社会で、そこには民族の意識の闘いが潜む。
情報機関が事件の水面下でざわざわと動く。

伊勢志摩サミットの警備のニュースはお茶の間で流れ、身近でも囁かれている。

各国でのテロ事件も騒がしいときに読み始めたこともあって、公安警察や外事警察の物語としてもグッドタイミングでドキドキとして読む。

スコットランドの地名や地形や民族の闘争の背景の資料を探して読んで、読者に求められるスタミナをつけた。
さらに、登場人物リストを大きな紙に書き出して自分なりに関係図を描いてみた。
それでも、何度もページを最初までめくり直す日が続いた。

山本兼一 花鳥の夢  感想

2015年10月21日 (水)

長谷川等伯を書いた安部龍太郎「等伯」を読んで山本兼一の「花鳥の夢」へと思いを誘われた。

かつて、山本兼一「利休にたずねよ」を読んだときに、それまでに接してきた歴史的な小説とは全く違った味わいを知らされ、激しい情熱やドロリとした人間味を読ませてもらった。

芸術的に美しく且つ煮え滾る感情のようなものであったのかと、今になってもう一度思い返しながら考えてみている。

歴史小説としてポピュラーな司馬遼太郎の作品は例えれば落語のようで、吉川英治の作品は講談のように読者をその世界に惹き込んでゆくと、私はそう思っている。

では、安部龍太郎や山本兼一はどうなのか。
二人を同じに考えることはできないが、人物が絵師という芸術のうえで、激しく自分を押し出したり、控えたり、噛み堪えたり、ぶつけたり、自省の檻に叩き込んでみたり、もっと激しく自分を責めたり、悩んでみたりして、生きるてゆく人間の姿を手法を違えて物語にしてゆく。

司馬作品のように 俯瞰的な視線はない。吉川英治のように読者を踊らせてくれるような巧妙さもない。

骨子にあるのは、芸術的な視線を持つ山本兼一の眼差しが捉えている狩野永徳の生き様だ。

ときには、芸術素人読者や非読書虫である私のようなものには、些か退屈なところもある。しかし、扱う人物(素材)の力は遥かに大きく、引力が激しい。

安部龍太郎を先に読んだときに、安部龍太郎は自分を等伯と確実に重ねているということを感想で書いた。まさかと思うことを感じたので、そんな思いの人はそ れほど多くも居ないだろうと思いつつそう書いた。なのに、後になって多くの人の感想や談話を読んでみれば、安部龍太郎自身が「私は等伯です」と直木賞受賞 時のインタビューで語ったと書いているから私は驚く。
私は間違っていなかったらしいのが嬉しかった。

「花鳥の夢」の文庫の解説を書いている澤田瞳子さんは「狩野永徳は山本兼一だ」と書いている。そのことは読み始める前に拝見した。その書評を読んだからこ の作品を読まずにはいられない。ということで、歴史作品を連続読書するなどという前例がないまま、二人の絵師の世界、戦国の激しい時代のなかを生きる 人々、芸術家であり人間である姿で真正面から自分の使命と運命に立ち向き合ってゆく物語のなかに私は踏み込んでいった。

安部龍太郎の文章は読み手の心を上手に捉えて離さない。
一方、山本兼一は、美的で考え抜かれて吟味され尽くした厚みのある一節一節で、いかがでしょうかというように惹きつける。
美的なものをきちんと美的に伝えて、物語のなかで粉塵のようにして読者に吸い込まれてゆくように、作品にまとめ上げ てゆく。さながら、この物語のなかの永徳のようでもある。

小説家という人物の頭のなかはどんな構造になっているのか。安っぽい小説なら「ボクも真似して書いて」みたくなるのだろうが、山本兼一はそれを寄せつけないような凄みがある。決して詩的で美文でもないが、やわらかみのある作風だ。

どこまでが史実で、どこからが架空であるのか。それは全く不問でいいのだと思えてくる。そんなことは歴史の教科書や図書館の美術史の書籍に任せよう。狩野永徳という人間の心のなかに踏み込ませてもらうことで、知らない絵の世界が見えてくるではないか。

こんなに激しく燃えて、悩みぬいて、自分を問い詰めて、芸術を極めて生きぬいてゆくなんてことは、誰ができるものでもあるまい。しかしながら、歴史に名を残した人物にはしかるべき苦心があったのだ。

作者は、狩野永徳が持っていた天才肌の他にあるもう一方の面で、彼を責め続けた自分に問いかける正義のようなものを書きたかったのではないか。

いつの時代の凡人にも非凡人にもあるような側面を、歴史的芸術作品の絵の裏にある泥っとした過程のようなもののなかに、物語として書いて、凄まじい永徳の本当の姿を表現したかったのではないか。
等伯と永徳の絵を見に出かけたくなる。そんな作品です。(平成27年11月6日)

花鳥の夢

ここまで一息ついて、最後の方をもう一度読む。
終章(第九章)花鳥の夢の段は興奮も収まり静かな章になっている。
一度登場した利休も姿を表し、芸術から哲学の色合いをもった問答や自責が続く。
戦国の世の激しい闘いのなかでその波に揺られながら命辛辛生きている人間たちである。
物語のうえでは少しばかり悪者のイメージで描かれていて、実像はどうであったのかも気にかかるものの、強くて華麗であった人に少し物語上は悪役を買ってもらったというところなのか。
志も半ばで、等伯よりも遥かに早く、利休が無念で切腹をするより半年早く、永徳はこの世を去る。
なるほど、こうして考えていると、山本兼一は狩野永徳だったという点も見えてくる。
─2015年11月8日 (日)

安部龍太郎 等伯 (感想篇)

20150924等伯上

等伯下
直木三十五の「南国太平記」か吉川英治の「鳴門秘帖」か司馬遼太郎の「梟の城」か井上靖の「風林火山」か。これらの作品を初めて読んだときの興奮と読後の震えのようなものが、等伯を読み終わった私の身震いの中にあった。

終章まで熱気が冷めずにとことん気持ちを入れ込んで、しかも、物語の面白みと人間の心の闘いの醍醐味を存分に味わわせてくれる作品である。

安部龍太郎という人、読んだことがなかったので、いかに読まず嫌いだったのか、と反省する。(人は見かけで判断はしてはイカン:余談)…と言いながら、実は、19年前(平成8年)に私はこの人の記事を読んで、「誰やこの人、只者ではないぞ」と赤ペンでナゾっている。

それが安部龍太郎 「龍馬脱藩の道 ─ 竜馬がゆく<高知>」(文藝春秋平成8年5月臨時増刊記事/文藝春秋社「司馬遼太郎大いなる遺産」に掲載)の(追悼の)記事だった。
印までつけて何度も読み耽って、付箋まで貼って、とても面白い作家だとまで思いながらも彼の作品は読まないままだった。素直じゃなかったのだ。安部龍太郎って誰よ、と思ってストンと忘れたのだろう。

ところが、読書ブログ繋がり(ともだち)こはるさんが、直木賞が文庫になったので(読みました)と、感想を書いていたのを見てわたしも読むことにした。

絵にはからきし弱く、私にはチンプンカンプンだろうし、歴史小説は根性入れないと読み切れないし、文庫で上下もあるし、(それほど知らない)安部龍太郎だし…と思い悩んでいたら、「迫力があって小説であること忘れそう…」とまで言うので思い切った。

久しぶりの★★★★★ですし、私のように10分程度の列車の中や15分程度の昼休みしか(寝床では読み始めると1分で眠ってしまうことが多い)ない人には打って付けの作品でした。買いましたと書いてから随分と時間が過ぎた。敢えて言えば寝床で眠ってしまわず読めば朝になる恐れが高いのでオススメできないようなそういうアツイ作品だった。


能登半島・七尾の下級武士の家に生まれるが、幼少のころに染物屋に養子に出される。それがやがて絵師として見いだされ、何度も降りかかる不運や不幸を突っぱねて歴史に残る絵師として認められてゆく。そういう中の激しい生き方に感動しながら読む。

義父母の壮絶な死、兄の野暮、戦に巻き込まれる被害、筋書き通りにいかない人生、理屈に合わない人間関係、突然襲いかかる不幸、貧困、裏切り、憎しみ、駆け引き。意地、見栄、希望、懺悔、度重なる身内の死。等伯と人生をともにする女性たち。すべてがクセのある人間味を帯びていながらも美しくある。

いつどんな時代であってもこのような人物は存在したのだろう。戦国の世の中のことだ、どこまで自分の願いが叶ったのだろうか。京の都に出て絵描きとして認められたいと夢見ることは、その人の才能にかかわらず、現代ならば宇宙飛行士になりたいとか大リーガーになる、ノーベル賞を狙いたい…みたいなものだろう。私たちも子どものころそんな夢を語ったこともあったものだが、それは夢であるから好きなように語れたのだった。現代の若者は─とくに小中学生は宇宙飛行士とか大リーガーなんて現実的ではないと言って弁護士だとか医者などを将来の夢に挙げるとも聞く。

等伯の時代も今も同じように夢は夢であったのかも知れない。しかし、どこかが違ったのだ。安部龍太郎は、そんなどろっとした部分を程よくそぎ落とし、運命に引きずられて都に出て、絵描きとしての道を歩んでゆく情熱的な等伯の姿を書きたかったのだ。烈しい気性を淡々と書いて、講談のシナリオのように、不運をひらりひらりと裏返すように単調な成功物語にしたくないと考え苦心したように見える。

これだけの才人の伝記だから、物語にすれば歴史ファンが増えて仕方なかろう、利休を見直す人も出てこよう、日蓮を読んで学ぼうという人も出てくるだろう、そういう逸る気持ちを鎮めながら一方でどっぷりとハマって読みふける。等伯の苦悩や不幸、不運を、そしてさらには挫折や読者の反発も、全てを味方にしてどんどんとおもしろい物語になっている。どこまでが史実なのか、どうでもよくなってくるくらい、夢のように嬉しい展開である。そこが安部龍太郎の(きっと努力の)文芸の技ではないかと思う。

等伯を安部龍太郎が書かなければ、等伯に関わる文献は歴史の副読本程度で終わっていたかも知れないし、落語のネタ本のようだったかも知れない。そんなことも思いながら、作者・安部龍太郎のことを想像する。情熱を感じさせてくれる人だ。そう意味でも、安部龍太郎が等伯を書き上げてこそ本当に良かった。等伯がつまらなくなる恐れがあったのだから。

人は激しくて揺るぎのない強い執着を持っていれば成就できる…というお手本の生き方をした人物ではなかった。等伯の人生は、ある点では下手くそな生き方だった。だから等伯は、時代のヒーロー的な人物でもなかったし成功をするのも晩年である。そんな人をここまで魅力的に書けたのは、安部さんアナタが共通するものを感じ持ってるからではないですか。(と質問したい)

物語を書くにあたって、安部龍太郎という人は文芸のチカラで引き込んでゆける様々な手段や技法を研究し、知識や常識も調べ上げるなどして研究に余念がない人だったに違いない。そういう厚みを備えて書いたことがこういう巧い作品を纏める才能であった。おそらくこの作品に限らず、一文一文しっかりと着実に書いてゆく作家のだろう。読みながらそんな作者の顔も感じ取りながら読み進む。

それは推測だが、安部龍太郎自身の生きざまや人生そのものに等伯が重なるのではないか。安部龍太郎は、等伯に成り切って命を賭けてこの作品を自伝を書くように書いたのではないか。そうであってもおかしくないほど、等伯という人物には魅力もスリルも意外性もあった。もちろん、あらゆるものを燃え尽きさせる熱いものも持っていた。

歴史を新しい側から辿っていけば、もしかすると、しかるべき成功物語で語っておしまいになっていたかも知れない。しかし、安部龍太郎のマジックのような才能が、誰にも書けない等伯を完成させた。

歴史の試練をくぐり抜けた一つ一つの場面が余りにも激しいながらも真摯であり、単純ではない波乱な人生であったが、決してそれだけで終われないものがある。それは等伯の、漲る才能や絵に対する執念だけではなく、向こう見ずな側面を作品では見せている。

その上に、その強運不運に死なされてしまわずに生き延びた史実を、はらはらとさせるような作り話のような筋書きにして、たぶんほとんどのところが資料に基づく史実に近いものだろうが、小説としてまとめ上げた作者・安部龍太郎のレトリックの凄さでもある。

そして終章。等伯は逝くのだが、逝ったとはどこにも書かずに、安部龍太郎はぐっと映画のようなシーンで終わりとしたのだ。
この作品は、映画にもできない、安部龍太郎の書いたペンが激しく読者にぶつけてくる等伯の叫びを綴ったものだと思う。そんな気がしている。