堀川惠子 裁かれた命 死刑囚から届いた手紙

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堀川惠子 裁かれた命

永山事件とその裁判において、私たちが日常では触れることのない数々の背景を深く掘り下げて報告をしたのが堀川惠子著

  • 死刑の基準-「永山裁判」が遺したもの
  • 永山則夫 封印された鑑定記録

の二冊だ。少し間を置くがそれに続いて

  • 裁かれた命 死刑囚から届いた手紙

を読んでみた。読めば随所で身体が震え上がった。ストレートに衝撃がくる刺激的なルポだ。

これまで抱いていた刑法への考え方の浅さを知り、また一人の社会人として、刑法をあるいは刑罰の概念を見直さねばならないのでは、とガツンとやられたのだ。我々の持つ罪と罰の概念が、古くさくて不明瞭だったことに気づく。

この「裁かれた命」は永山事件よりも昔の事件である。死刑囚はもしも生きていたら70歳ほどになる。

事件当時二十歳を少し過ぎた若者で、その兄のような年齢の検事が捜査をし、親に近いほどの歳になる裁判官や弁護士が被告人を裁いた。(一審の弁護人は亡くなられている)
永山事件で「死刑の基準」を考察した堀川さんは、新しい歴史から古い歴史へと事件を戻り、一人の人間に適用される刑法とその罪と罰についてテーマを選んでいる。
決められた仕組みのなかであたかも決められたような手続きで確定してゆく罪と罰を、堀川さんが掘り起こした資料や事実を読んで、もう一度考えてみる。

…と書いたものの刑法がわかるほど私は専門的な人間ではないし、日常でもそれほど興味も抱くチャンスもない。

現代社会に平凡に暮らす人には、刑とか罰というものを深く考える時間などほとんどないのではないか。更に言えば法律(の学問)は面白いとか楽しいとは言い難い。そういう点で、非日常的な(謂わゆるドラマのような日常の裡を)まったく違った切り口で突きつけてくる。

私たちの誰もが心の中に善と悪、罪と罰に対する考えを持っているだろうから、当然のことながら照らし合わせて、テーマが問いかける答えを模索する。

現代であっても、裁判員制度の上で刑事裁判が行われれば注目度が高く、殺人事件などであればさらにメディアが騒ぐ。死刑が求刑されるようなケースは、やはり大勢の人が事実を見つめて、その裁きのゆくえに関心を示す。そのようなことと同じ背景にあって、さらに今と50年近く昔との尺度や仕組みの違いや変化があって消化不良な面を残したままなだけに、このような作品は惹きつけるものがあるのだ。

永山事件とこの作品には共通点がある。死と向かい合う人間がいて、それが死刑とはほど遠い人間であること。必ずそこに日本の歴史背景があって、家庭的で人間的な事情があって、誰もが答えを言葉にできないような人間の心の深層(真相)に迫るものがある。さらにドラマではなく事実だということも重要だ。

終わってしまっているけれども事実が残る。NHKがドキュメントにしたそうだ。たぶん難しかっただろう。中身が濃くても視聴者のレベルにずり寄ってしまえば別のものになる。

テレビは怖い。事実をベタに並べればいいというものでもなかろう。書く人の視線の方向も大事だ。

死刑囚は、事件の捜査検事に宛てて独房から九通の手紙を書いている。さらに、二審と上告での弁護士に四十七通の手紙を書いた。その手紙はいつも、便箋で三十枚にも四十枚にも及ぶ分厚いものだったという。

調査資料として要約した原文を引用しているが、一文一文がしっかりとしていて、手紙として非常に完成度の高いものだということがわかる。二十二歳の若者が書いた丁寧な手紙を読んでいく。

死刑が確定して執行を待つ死刑囚が書いているにもかかわらず、とても冷静で落ち着いていて内容も明瞭だ。手紙の文章は上質で殺人という犯罪を犯すイメージとはかけ離れている。
上告趣意書も一部分を引用している。

関係者を探し出して、話を聞き、上告趣意書や手紙を整理し、公表された数々の資料を掘り起こして、手紙を書いた人物(死刑囚)を見つめ直す。
死刑という刑罰を見直さねばならない、というような表現は、作品のどこにも記述していない(と思う)。死刑を宣告された登場人物の裁かれた判決に(結果に)異論があった、と書いているわけでもない。

捜査検事は、三十年の検事生活の間に一度だけ死刑を求刑したことがあり、それが前科もなかった二十二歳の青年だった。おとなしくて真面目な青年であったという周囲の評ばかりが目立ち、手紙には苦しみや償いについてのあらゆる想いや生きる意志が綴られる。

関わった人々を探し当て歴史を掘り起こしてゆくに従って見えてくる青年の実像のようなものを洞察すると、死刑という裁きについての他に、刑法が捉える犯罪概念と人間への罰のことを考える事になる。

偶然、半月ほど前にも新聞記事が目にとまった。2010年に宮城県石巻市で当時18歳の少年が元交際相手の少女の実家に押し入り、少女の姉ら3人を殺傷した事件で、死刑判決が確定した。裁判員が裁いた少年事件では初めてということでメディアが騒いだ。

犯罪者を「生きる価値がない人間」として社会から消すことで何が生まれるのか、と問い続ける声は世を絶たない。奥に潜むものが解決されないままになっていることを意味するのだろうと思った。

宮下奈都(その6) 神さまたちの遊ぶ庭

宮下奈都 神さまたちの遊ぶ庭
宮下奈都 神さまたちの遊ぶ庭
平成28年(2016年)5月11日(水)
基本が大事だという。スポーツをするときの指導者の言葉だ。当たり前のことが当たり前にできること。ファインプレーにしてはいけないとも言い換えることができる。

宮下一家は最寄りのコンビニまで37キロもあるという僻地へ山村留学に行く決意をし実際にやり遂げてしまう。遂げるということはファインプレーではなく普通に誰でもができるようにプレーしたのだ。

野球でもテニスでもラグビーでもサッカーでも、普通の処理を失敗なく必ず成功してさり気なくしていること、これはファインプレーより難しいだろう。

この作品を読んで詰まらないとか味気が薄いという人は、これからの人生でも努めて生き方を見なおしたほうがいいかもしれない。

少なくともこの物語は筋書きはなく、そこがオモシロイ。でも、正義の味方は悪役には絶対負けない約束に似たようなものがあるように、留学する主人公たちには突き抜ける勢いがあって、それ加えて、惹きつけていくモノがあるのです。

読書をしておそらく大勢の人が感じ取ったものは共通していながらも、言葉にまとめるにはなかなか手ごわかったりする。

あることを決めるときに1つの物差しあるいは多数決で決めた尺度で測っていこうとする社会、何かルールを作って見つめ合うようにしておく社会から、勇気を持って飛び出そうというのだし、心の何処かで一度は考えた夢の様な社会に、ワープするみたいに行く。飛び出した先は無法でもなければ、規範がないところでもない。人の理想とする夢の様なところ。なのにあらゆることを考えたり悩んだりしながら、留学することに成功した人はおよそ帰還するときも成功を喜んで帰るから、不思議なコミュニティーです。

しかも子どもたちと大人までもが浸っている日常を、どっぷりと感情移入して読ませてくれたのだから、言葉になってすぐには出なくても仕方がない。

宮下さんのペンはじっくりと観察しているはずで、間違いなくその節々で判断をしているのだけど、例えば子どもたちの心の揺れ動きを丁寧には綴っていない。育児日記ではないのだし報告書でもないのだからそれで良いのだが、いわゆるサバサバしている。それが余計に読者とこの村で起こっている現実との間の壁を半透明化しているのかもしれない。

チャンスの神さまの前髪の話、コンタクトレンズが凍りつく話、村の人は純朴と言われて憤りを感じ37キロのコンビニと30分の通勤時間のことを考察して一石を投じるところなどを読んでいると、決して脳天気ではない哲学者だ。(おっと哲学専攻だってね、なるほど)

時にはひょうきんを装い、天然であり、楽天的である。そんな人なわけ絶対にないことくらいわかってますけど、なかなかの役者だ。

そう考えると、このリズムとステップでこれからも宮下風のほんわかコミカルポエムのようなタッチで、リリカルな色合いでやさしい視線を絶やすこと無くドラマは続いてほしい。

多くの読者がトムラウシに出かけてみたくなるでしょうし、こんな理想のような暮らしに自分も飛び込んで行きたいと夢みるだろうな。

家族が仲良しでなくてはと最後のほうでポロリと書いています。毎日そのことに感謝して、うまく言葉にできずその言葉の本意をも間違って伝わらないように考えてみたりするようなことも(私のまったくの想像ですが)多かったに違いないが、さり気なくひとことで多くの読者に一番大事な自分たちのファインプレーをファインプレーに見せないように伝えているのではないか。

作品は1だけ書いて9は読者が考えてみようみたいな哲学書のようなものだったと思えるのだが、これもやはり先入観でしょうか、宮下さん。

古川智映子 小説 土佐堀川─広岡浅子の生涯

平成27年から28年にかけて
NHKの朝ドラの主人公だそうです

ドラマを夢中になってみている人が
身の回りにはたくさんいて
この本もツマがドラマに並行して読んだものでした

ドラマは半年間ほどするようですから
早々に読み終わってしまっていて
コタツの上の放置してあったのを借りて読む

小説とタイトルに書いているけど
ほとんど実話なのだろうと思っていいのではないかな
作者に小説のような架空は書けないでしょう

というわけで ほぼ伝記に近いような物語で
とても面白く読めて 為になったような気持ちになれる本です

主人公は結核を患っていても生き抜いて
数々の業績を遺すのですが
TVを見ていた人に尋ねると
ドラマではまったくそのことには触れていないそうで
物語として楽しむのであればTVドラマが良かったかも

俳優さんも味がある別嬪さんのようで
映像・演劇作品として楽しんでみたかったです

小説は取り掛かりでやや面白みがありますものの
中盤から後半に掛けては
教科書で伝記を勉強している副読本のようで
味気ないし 小説や文芸の味はないといえましょう
何度も繰り返して読んで味わうこともなさそうです

冬じたく ─ 立冬篇

11月8日は立冬で暦のうえではこの日から冬となる。また寒い季節を迎える招待状が届いたようなものかもしれない。

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それほど冷え込んでこないのは雨が近いからだろうと天気予報を見て、前日の土曜日にお出かけをした帰りにムスメと合流しておゆうはんを食べた。

鍋が食べたいというのでお手ごろな店に4人で入ったのだが、焼肉とお鍋とがセットになったコースを注文して、みんなで汗だくになって食べた。

食事が終わって店の外に出ると、傘なしでどこまでも歩くわけにもゆかないほどの雨が降りだしていた。天気予報は夜半を回ってからといっていたのが、少し外れたようだ。

今の季節などは、天気や気流、気温の予測をすることにおいて難儀な時期ではないと思えるのだが、珍しく外してしまったには訳があったことだろう。何事も安易に見えてそこには無数の奥があるのだ。

▼ 雨静かに降り出して今年の秋と別れる

家の前まで車で送ってもらって週末・土曜の夜が更けた。

二三日前に「花鳥の夢」を最後の第九章を残すところまで読み終わっていた。感想は思いつくことをメモ書きするように書き溜めていたので、第九章を読み終えて読了とする。

山本兼一の作品は「利休にたずねよ」を読んだのみで二冊めであった。

小説として作品を見ると、文芸の域より大きく文学に傾きながら、文学に偏らずに芸術をしっかりと手のひらの上に置いて書いているのを感じる。

利休の言葉がいい。第八章最後にある。

性分でございますゆえ、お許し願いたいが、見せよう、見せよう、という気持ちの強い絵は、どうにも好みに合いませぬ。絵師がおのれの技倆を鼻にかけているようで、いかにも浅薄な絵に見えてしまいます

そして、秀吉の言葉が更に素晴らしい。(第九章P485、486)

そなた、悪相になったな

秀吉の命を受け東福寺法堂天井画を描きはじめる直前の永徳は、自分と格闘をしている。悩み苦しみ命をも削っている(…ことに気づかない)

なにごともな、すべてを一人で掴もうとすると、し損じる。わしの天下統一でも、すべての大名たちが従うわけではないぞ。従わぬ者を討伐しても、皆殺しにするわけにはいかぬ。生かして残してやらねば、連中は追い詰められて、死にもの狂いで歯向かってくるぞ

・・・

絵は、もっと楽しんでゆるやか描くがよい。長谷川の絵は、観ていて気持ちがゆるやかに楽しくなる。絵のなかに、観る者の居場所がある

花鳥の夢

言葉というのは、受け取る人の心の状態でいくらでも変化する。
気にもとめられないこともあれば、言った本人がまったく違ったことを考えていたりすることもある。

秀吉が狩野永徳にそのように言い放ったとき、利休はまだ秀吉から切腹を命じられていない。

秀吉からの厳しい言葉を浴びたあとにも永徳は描き続け、龍の瞳に丸い二つの目玉を入れて、鼻の線を引いたところで永徳の命は尽きる。

小説は永徳が死んでしまうのだとは明確に記述していない。まして、利休がこの半年後の春に切腹を命じられこともどこにも触れていない。

ムスメさん夫婦は私たちを家の前まで送り届けたあと、簡単な買い物をするためにスーパーに寄り深夜に家に着いたらしい。

ツマが、あの子たち買い物してから帰ったんやって、と明くる朝に話してくれた。
そうか、と返事をするときにノドが痛いことに気づいて風邪のはじまりとなった。

ぬくい夜がおわって雨の立冬の朝を迎えた。その雨も夕方には小止みになったかのように見えたが、月曜日の昼過ぎまで降り続いた。

わたしの風邪は、雨がやんでも、知らぬ顔。ノドはまだ痛いが、明日は休めない。