B面 鞄の中身 - 芒種篇 【裏窓から】

 

B面 「雷山無言Ⅱ余禄」をはじめる

雷山無言のカテゴリーにどうしても振り分けたくなる日記ができてしまうがあれはもう一旦終了したのだからと思い直し新カテゴリーを考えることにする

しかしあれこれと思いつくなかから詰まる所「雷山無言」を「そのⅡ」とし「余禄」篇を作ってみた。

長い間書いできた所感にはゴミが多く処分をしたいものが多くあるものの棄ててしまうには名残が惜しいく連想する思い出が出てくることがある

「 断捨離」 という言葉が浮かぶ

この言葉は世の中の人の叶わぬ思いをあたかも歯切れ良く代行しただけのもので実質的で内包した重要な課題はそれほど解決せずにふむふむと思わせるだけのものだとしか思えない

大きな声で最もらしく正義を語る現代の怪しい政治家や評論家や真っ当そうな解説者の発言にも似ていて心酔できないところがある

だからより一層のことこれまでのゴミの所感が引き続いたものを私は棄てられない

🍀
B面でいいのだ

むかしのレコードのように多くの人が目も向けてくれなかった作品でたまにどんな風の吹き回しかB面を聴いてそれを称えてくれる人が現れればそれでいい

そもそも冷めた見方をすれば所詮B面であるしAとBを決めねばならない以上どちらかがB面なのだ

近ごろの風潮として両方ともA面という甘ったれた言い方もあるようだが時代がもたらしている褒めて育てる精神の亜流のような面も感じる

だからわたしの所感はB面なのだ

🍀

肝心の所感には到達できず


 

鞄の中身

一二泊の出張に行けるほどのビジネス鞄を日ごろから持ち歩いていた

もう30年以上は使ってきたこともあって随分と草臥れたし新しいものに持ち替えてはどうだとうちの人が言うのであれこれ考えたすえ小さなショルダーバッグにすることにした

ソフトでカジュアルなものでお弁当箱がようやく入るほどのショルダーバックだ

B4サイズほどでノートパソコンも入るようなビジネス用のバックやリュックをくまなく探し回ったが長考の果てに思わぬカタチに行き着く

さて愈愈中身の引っ越しをするときが来てむかしの鞄の中身を改めてみた

折りたたみの傘、日傘、ポケットティッシュ、名刺、ポケットドライバーセット、調整ドライバ、爪切り、名札、筆箱(USBメモリ、シャープペンシル、万年筆、赤インクのペン、付箋紙、名刺、絆創膏が入っている)、手帖、アドレス帳、印鑑・朱肉、メモ用紙、物差し(20センチの定規)、夜間歩行者用の反射たすき、ルーター、100V用USBアダプタ、各種ケーブル、iPhone、イヤホン、タオル、ハンカチ、 お守り、歯ブラシ、歯磨き、うちわ、孔子(井上靖の文庫)、読書中文庫、クリアケース、水筒、缶コーヒー(冷)

まあいろいろなものを持ち歩いているのだなと我ながら感心をした

困ったことにこれらのすべてが小さなショルダーバックには入りきらないわけで無理矢理入れようとするとパンパンになってファスナーが閉まらんし何が何処にあるのかさえもわからなくなってしまう

あれこれ無いと困るのではないかと思って不安であるから入らないことが気がかりで夜も眠れないし夢に出てきて魘されてしまうところまで追い込まれてゆく


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生きている - 清明篇 【裏窓から】

(四月四日 清明)

社会悪を切り
世間の不条理を掘り起こし
人間関係のつまらなさを嘆き
友情の脆さを指摘し
愛情というものは儚いことを悟り
情熱は冷めやすいものだと見つめ直す

併しながら
長くて冗長な時間に大きな価値を見出し
生涯を共にする人との出会いに感謝し
人生で出会った師匠にこの上なき敬意を抱き
新しい時代を受け継ぐ人に最低限度で最大の言葉を残したいと願う

夢は叶わずとも儚きことに美学があると独りごち
自分の正義を自問をし
怒りと諦めと無駄の流転の中で
泰然と生きている

🍀

ここに書いた一行一行の中に
それぞれ展開をして
あれこれと書きたいことがある

けれどもそのことには触れずにいよう
角が立つこともあるし
反発も食らうし
毎度のこと 変わり者扱いされるだろう

🍀

思いがきちんと伝わらないのは
私の力量不足に他ならない

牡丹雪別れの朝の1ページ ━ 立春篇 【裏窓から】

🌸 サクラサクあなたは都会の人になる
👹 手を振ってホームに消えてゆく二月
❄️ 牡丹雪別れの朝の1ページ

「裏窓から」シリーズにお越しくださってありがとうございます

二十四節気の日に思いを綴りはじめたのがいつのころからでしょうか
はじまりは日記を辿った彼方になってしまいました

「塵埃秘帖」や「雷山無言」と合わさったり離れたりしながら長い年月にわたっ
てやれやれと呟きながら書き続けています

二十四節気という周期がちょうど心地のよい時間の流れなのでしょう
こうして書き続けていられるのはありがたいことだと思います

自分を振り返りつつじっと考えこむ時間と季節が過ぎゆく間合いの調和がうまく取れているのでしょう

前年も前々年もさらにその昔も立春という節には同じようなことを思うことのくり返しです
60年を生きてきても代わり映えすることなくさほど進歩もせず今を迎えています

あらゆるものに過去があります
そこに後悔や反省はつきものです

今となっては突然優れた人物に変身できるわけでもありません
自分の足跡は人間の器に応じた人生であったのだろうと振り返っております

まだこれからも暫くはあれこれと考えたり悩んだりするでしょう
ときには失敗をしまた反省をする日々を送ることがあるかもしれません
しかしながら人生の最終コーナーをのらりくらりと愉しんでゆきたいと願っています

節分・立春のころに「裏窓から」シリーズに何を書こうかと考えはじめます
ですが、なかなか纏まってきません

ゆるくなった寒波がジリッと戻って牡丹雪を舞わせる朝がありました
そんな日は昔の辛かった朝を思い出したりしました

昨日までの纏まらないモヤモヤを置いてふっと立ち止まってみると
7日はムスメの結婚記念日だと気がつきました

結婚をして子どもができてその子が三月五日でマル一歳になります

数日前にわが家に来たときにはつかまり立ちの手を離してゆらゆらと数秒立っていましたから
今度来るときには一歩が踏み出せるかもしれません

昔ならば一歳までに歩き始めた子にはお餅を背負わせたのだと母が歩きそうにな
る姿を見るたびに呟いています

一歩を踏み出すことは目を細めて子どもを見守る大勢の大人たちにとって格別の思いなのです

紆余曲折から低空飛行の人生を送っています
人生に追い求める哲学って何なのだろうと考えることもしばしばあります
けれども近ごろは「これでいいのだ」と思うことが多くなってきました

消えていくもの - 元旦号 (裏窓から )

🍀 (年末雑感) ー 言葉が消えてゆくこと

「ぬくたい」「 ひやかい」「よぼる」「いる」という言葉が消えつつあるのだと実感する
「よぼる」は「呼ぼる」であり、「いる」は「はいる」ことでお風呂に「いる」というように使う
ふと自然に使ってみて、近頃こんな言葉を話す人を見かけなくなったと閃くように思った

*

わたしの前で祖母ー孫(わたしの母と娘)が話をしているときに祖母の問いに
「ええ?どういう意味」
と聞き返しているのを見かけた

言葉に多少の不明点があっても大抵は想像で話が進むものだ
しかし
このときには何を話されたのかが全くわからなかったらしい
(書き留めず忘れたのが残念)

暮らしの中の物であれば見れば理解できるので話しは続く
しかし
モノの考え方であるとか振る舞いは想像では解決できないことがある

一緒に暮らさず、日常生活品に違いができると
昔ながらの暮らしを守る人と現代人の間には
自然にギャップが出てしまう

言葉も食い違うようになり
会話が成り立たなくなってくる

テレビ文化の侵略で地域文化が消滅してしまうかもしれず
全国レベルで暮らしの中にある言葉が一般化され共通化してゆき
さらに合理化が進んでゆく

異なった生活圏では文化の浸透度合いから温度差が発生して
非常に身近なところで(すぐ隣の空間でありながらも)大きな溝が生まれている

♠️

溝が生まれていることや
或る時代のものが消滅してゆくことに特別な寂しさ
(ときには怒りに似たもの)を感じる人は多いだろう

消えてゆくのも文化の変遷の流れなのだと言えば
消滅させてしまう側をいまさら責めることはできない

そのことに危機感を持つ人はどんどんと消えてゆき
やがてゼロになるだろう

消えていいのかという問いは
投げかけないことにしている

何千年もの昔へ遡って想像してみると
新しいものが生まれるときには
消滅させてしまう次の時代に怒りを持った人が
必ずいたのだと想像できる

この怒りを歴史として伝えた歴史上の人物は偉い
そう思う

🍀 雑感その2

修行という言葉が消えつつある
言葉の意味は、ストレートに行を修めることだ

若くて実力のある人が社長になり事業を進めるケースがある

頭が良く、キレもあり、知才も備え、人脈もある

社会と広く交流をし
大きな流れもしっかりと捉えることができ
将来を的確に見て構想を立てることができ
苦難に出会ってもチャンスに出会っても瞬時に正確に判断ができる

何かが足りないとすれば修行が足りない

早朝に井戸の水を汲み上げにいく行いを千日、二千日続けるようなことを言っているのではない

玄関を毎朝掃き清めて綺麗にし
社長の草履をきちんと丁寧に揃えて
来たるべき時を待つ日々を千日続けることでもない

ただわたしは古い人間なのだろう

温室で十分な栄養と人工の光で育てられた促成栽培の野菜と
大きな大地の畑で自然の光を浴びて育ってのちに収穫された野菜とで
どちらかを選ぶとすると
促成栽培は選ばないと思う

促成栽培の方が格段に美味しくて栄養があって綺麗で整っていても
大地の畑の野菜を選ぶような気がする

人の器とはどんなものだろうか

現代科学や経済理論さらには精神科学や行動科学が
より完成されたニンゲンを開発し続け
都合のよいキレる人材を育成してきたことは
ある側面で反省するべきことであろうとも思え

しかし誰も咎めないから
何も指摘できないし
どこか間違っていると思うのだが
主張もしない

しかし確信はある