鶴さん その後

おゆうはんを食べていつものように寛いでいたら
1通のメッセージが届いて
ホイと開けると驚く人であった

(香港にいる)鶴さんのお兄さんからだったのです

ものすごく激しく驚きながらも血が引くように冷静だった

ずっと昔に出した私からのメールに気づき開封してくださったらしい
そのことにホッと一息つきながら次の展開にも期待を膨らませたのですが
しかし 読み進むとそれは無情なものでした

一行ずつ読めば
(この手紙のように)捉えるのが正しかろうな
と私も同意する
つまり これで終わった としっかりとピリオドを打たれたわけです

喜びも悲しみも湧き上がっては来ない 極めて冷静な感情でした

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メールには

過去の経緯は何となく分かりました。然りとて、彼女には言うつもりは全く有りません。次男坊が今年5月に会社の研修で香港に来てまして一緒に食事しました。子供らの成長は、頼もしいものです。日本の、そして世界の明日を拓く力になるのです。 まあ、昔の思い出は心の奥深くにしまいこんでしまいましょう!!

と書いてありました

お兄さん宛てに、私はある時に手紙を書いたのです
それがいつの頃のことかさえも記憶にも記録にもなく
そのとき書いた文面も
「届かないメールなど保存しておいてももう不要だから」
という理由で削除してしまっています

何を書いたのかは思い出せない
お兄さんを Facebook で発見して瞬間的に手紙を書こうと思いついたのでしょう
どうしても連絡を取りたかったのでしょう あのころは

私がその後どうしているか
あの人がその後どんな人生を送ったのか
思い浮かぶ人それぞれの人生模様を想像しても
今は連絡先さえわからないし
連絡先や住所らしいところを見つけて手紙を書いても音沙汰もない
結婚をしましたと連絡をして以来パタリと便りが来なくなったからね
とツマがいうくらい潔くて清い性格なのでしょう

そういうジレンマの中で 少しだけ期待を持って
お兄さんに手紙を書いたに違いない
と思います

もらった手紙に
簡単なお礼を添えて返事を出したいと思います

何を書こうか
今から考える


まず最初にお礼を申し上げます。
お返事をいただきどうもありがとうございました。
感謝します。

私がFacebookでお兄さんの名前を見つけて 多分必死の思いで書いたのでしょうが 何を思ったのか 何を期待したのか 曖昧になりつつあります。

音沙汰もなかったので、それは無理な話だったのだと思うことにして 送信簿を削除して整理してしまいました。

あの時に(何時のことかも記憶も記録もないのですが)何を考えて どんな文面を書いたのかは覚えておりません。恥ずかしいことを書いていなければ良いのだがとそれだけを思っております。

私が結婚をすると連絡を入れたら パタリと連絡をくださらなくなったので (私の妻が言うには)「きっと潔く澄み切った人なのだろう」と 私の記憶からは薄れていきましたが。

次男さんがと書いてられるので結婚をして子供があるとわかります。
お母さんの面倒みるのでそれが一番大事なのだということを あの頃にはよく話していたので心配をしたりしていました。

自分のその後のことや鶴さんのその後のことなどを 同窓会のように屈託無く、話が聞きたいと私は思ったのでしょう。地震の被害はどうだったのかなど 考えれば次々と思い浮かんで来ます。

こうしてメールをいただいたのが11月で 鶴さんの誕生日が13日であったことを思い出しました。
私がちょうど10月13日なので それだけが理由で記憶に残っているのだと思います。
おめでとうござます。

私はこれまで、今に至るまでに膨大なみなさんにお世話になり 励まされ 叱られ 怒鳴られ 諭されて 生きて来ました。東京時代に膨大な恩や薫陶を受けた人が何名もあります。

その人たちにきちんとお礼を言えていないことが最大の悔やみなので 彼女にも短い日々にお世話になった 数々のことに しっかりお礼を伝えたい。

今はそう思っていますが、声は届かないとしても お兄さんにこうしてお話ができたので ありがたく思っております。

それこそ何かで万一機会でもあれば、一言お礼を言っていたとお伝えください。
どうもありがとうございました。

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あらすじ(鶴さん)

あらすじをおさらいする。

1977年の夏に偶然のことで出会った鶴さんと手紙だけの交流を4年間経て東京で再会する。それは1981年の夏ころのことだった。

大学で足踏みするわたしよりも早く東京の銀座にある優良企業に薬剤師の資格をもって鶴さんは働いていた。

わたしも技術を活かす世界に出て行きたいと夢を描き京都の会社に就職を決めた。
鶴さんと東京で会えた夏からわずか半年余りでの別れとなる。

一緒に京都に行こうと誘うのだが鶴さんには強い考えがあって、京都についていくことはできないという。
わたしはその理由を知って叶わぬ願望を抱き続けることは、自分を悲しませるだけだと考えた。
しかし、思いや感情を意思の力で変えることは難しい。
哀しみや痛みはどんなに強い念力があったとしてもそう簡単に思うようにはならない。

京都に行ってからも鶴さんとの手紙の交流はしばらく続いて、京都で再会、更に彼女の郷里の福島県郡山市でも1度会っている。

ドラマは、わたしが結婚をするという知らせの便りを出した直後で終わった。
ツマはその物語の凡そをわたしから聞いて、それは彼女の正義だったのだと話した。

物語を伝説にしてもかまわないから、鶴さんのことを形で残したいと思い、わたしは「鶴さん」を書いた。

夢に描くべき決着を目指してはいけないにもかかわらず、わたしは探せるものを探そうとした。
それがわたしの性格だったといえばそれまでだが、結末の美しさを失ってしまったのかもしれない。

誰にも言えずに

父は鶴さんのことについてほとんど喋りませんでした。

  • バス停で出会って手紙を書いたら返事が来たこと
  • 手紙の宛名は「北海道中央バス終点余別駅の前のバス停でアルバイトをしていた女の子様」だったこと
  • 返事が来たこと
  • 文通が続いたこと
  • 四年後に東京で再会したこと
  • その後も何度か食事に連れて行ってもらったこと
  • 京都に住んで間もなくの頃に再会したこと

そのような出来事を話したくらいで、どう思っていたかとか、どんなふうになって欲しかったのかなどは話さなかった。

ですが、東京を離れる最後の日に鎌倉へ行ったときの写真は大事に置いていて、誰がみてもといってもお母さんかわたししかいませんけど、勝手に見ても何も言いませんでした。

棄てようともせず押入れの箱に入れたまま放ったらかしにしていました。

鶴さんを読むと激しい思いがこもっているのがわかります。しかし、誰にも言えずにいたのでしょう。

紙切れメモ

[走り書き]
一枚の紙切れの端くれに走り書きがありました。

あのときに心の奥深くから
目がしらのあたりを通って
頭のなかのすべての隙間に
いきわたるほどに
スパークする衝動が走ったのでした

そんなものが
自分の感情のなかに
隠れてでも存在していたことに
ある種の違和感のようなものと驚きを感じながら
仕方ないじゃなか湧き出てくるんだ
と素直に湧き上がってくる思いに従っていたのです

冷静な一面が自分のなかにあって
こんなことをやらかしてしまって
取り返しがつかなくなったら
大変なことになると思っている自分が
滑稽なほどに冷静に行動を起こしているのです

あとになって考えれば
そういう突発現象は普段でもときどき起こっていて
判断する知性のようなモノを無視して
行動していることはあったのでしょうが
あのときに
心の奥深くから飛び出したのが
それまで長い間生きてきていながら
一度も経験したことがなかったような
揺さぶりであったのは間違いなく
長い人生には似たようなことが何度か有りながら
激しく動揺するものがたった今起こっているのだと知る
初めての経験でもあったのでした

つまりわたしは
そこにいたひとりの女の人に
釘付けにされてしまうようなことは
かつて一度も経験したことがなく
腰が抜けたように
そこから動けなくなっていたのでした

鶴さんの物語の
バスを見送ってからヒッチハイクで帰るシーンは
このように
激しい心の葛藤があったということなのでしょう。