又吉直樹 火花

たとえ純粋なように見える賞であっても
所詮売り上げを睨んでいるのは自明で
その中で上手にステータスを掴んだのが
例えば直木賞のようなものなのだろう

芥川賞は初期の頃の受賞者のころの顔ぶれから
少し路線変更をしたのかと思えてくることが
何度か続いていた

だが、一方で選考委員の顔ぶれを見れば
そんな疑いはなく
ぼくの気のせいか
疲れか、好みの変化か、
読書力の足りなさなど
様々な理由が考えられた

読者側の意見や書評や声が
大手を振って
オモテに出てくる時代になった

誰もが自由に発言できるのだから当然の結果だ
その声は威張っているようにも見える時代になっている

だからぼくのように
「恩田陸 蜂蜜と遠雷」(恩田陸)
を詰まらない
などという奴は
黙殺されて相手にもされない

たくさんの書店が
本の陳列に変化を付けて工夫しているのもわかるが
詰まらないのか面白いのかさえ
独自には判断できないかもしれないような人たちにも
買ってもらわなあかんというか
その辺にも売り込みたいのだから
苦心をしているのだろう

火花は本屋に何度足を運んでも
一発で見つかるところには
置いてなかった

ぼくが時代遅れになったのだ

もう本を読むのはやめにしようか
とも思うほどに
本屋がチヤホヤする新刊本が並ぶ中で
やっとの思いで今風の人たちが目に付きやすいところに
山積みされた「火花」を見つけたときは
こんなカテゴリーの棚に置く本なのかと思い
本屋のセンスまでも推し量ってしまって
本嫌い(本屋嫌い)になってしまいそうなのをぐっと堪えた

++

又吉さんの漫才を見た記憶はあります
ステージで喋っているの様子を思い出せます
画面の右側の位置で話していたように思う
けれども、どんな漫才であったかの記憶が余りない

詰まらない芸人もたくさんある中で
なんにも悪い印象などなく
近ごろ売れているお笑い芸人さんという良い印象が残っている

本が好きでその延長で小説を書いたというのを聞いて
大人しく物静かで
やんちゃなところがない雰囲気から
なるほどそういう人柄なのだ
というのが先入観の第一印象だ

作家になるには並大抵の努力では済まされないだろう

阿保になりきれるほど打ち込めるタイプで
自分を省みるような甘っちょろい面があってもならないし
さらに突進する力も強い意志も必要だろう
しかも孤独で思慮深くて
そして最後に作文をする才能が求められる

立ち読みをしてみると
丁寧に文章が綴ってある印象を受けたので買うことにした

芥川賞作品を
勢いで買うような危険な投資は少し懲りていたので
最後まで読み切る自信があったわけではないが
そのときには「期待ほどに面白くなかった」と
言い訳をするしか無かろう
と思いながら買った

そんなセッティング状況で
こんなに短いのに恐る恐る読み始める

又吉直樹 火花
又吉直樹 火花

やっと本題

いい本でした
若い人から老人まで
みんなが読める作品で
文學(ブンガク)の匂いがしてます

はじまりは酔いしれるようなところがあり
真ん中あたりで
ぼくは漫才のことがわからないし
タレントさんが書いたという先入観が邪魔をすることもあって
詰まらないというか退屈を覚えるところもあるけど
勢いがあったから読み切れた

この人を占うつもりはないけど
似たように同じような賞をもらって
テレビに登場している作家さんを見ると
こちらを応援したくなった

ところどころに
作品の本流とは少しずれて(?)
哲学的なことも書くのだけれど
書かずにはおれんのだろうと思うと
ちょっと好きになる

内容に賛同するわけではないが
姿勢に一途なところを感じる

酒を飲んでは
オロオロしたり
涙を流して泣いてみたり
熱くなっていたりする
まこと この登場人物はよく泣く

純粋というわけでもなかろうが
情熱を持っているならば
次々と作品が出てきても
手にとってもいいなと思った

柴崎友香 春の庭

宮下奈都「ふたつのしるし」絲山秋子「離陸」柴崎友香「春の庭」の三冊が棚積みのなかで目立ったので、とりあえず書店員さんのセンスを信じて三冊の中から絲山秋子を選んだ。

裏切りも失望もなく読み終えたのだが、残してきた二冊に後ろ髪を引かれるようだったので、柴崎友香を買って読むことにした。

宮下さんは慌てなくてもええような気がした。
春の庭は芥川賞作品なのでちょっと期待も大きい。

読み始めた時に私の芥川賞読破履歴をきちんと調べず、とにかくワクワクで期待も大きい。
読後に調べて見たら、宮本輝の螢川と絲山秋子の沖で待つ、さらに、村上龍の限りなく透明に近いブルー、朝吹 真理子のきことわを読んだくらいに過ぎない。
芥川賞の読書経験はほとんどなかったことになる。

学生時代に登場した村上龍という作家のなんともシャレたタイトルの限りなく透明に近いブルーの読後印象がイコール芥川賞だったのかもしれない。
それで今回久しぶりに、最近の受賞作品を。
なるほど、これが芥川賞か。

柴崎友香 春の庭
柴崎友香 春の庭

時代の変遷で賞の色合いが変わってきたのか。
昔から一貫した方針だったのか。
なんとも言えない。

美味しいと評判のレストランを紹介されて喜んで店に行き特別料理を食べたら、近所の商店街の人気店の方が旨かった・・・みたいなかんじ。
芥川賞はしばらく無関心でいることにする。


というような感想を書いてからも
この本を持ち歩いて列車の中で読み続けた

無機質な感触でありながら
作者のもつ味が随所に出ているのかもとも思えてくる

タイトル作品(受賞作品)よりも
巻末の書き下ろしの方が
深みがあっていいのではないか

絲山秋子 離陸

サスペンスタッチな面があるけれども中途半端なところがある。
だから、サスペンスがそれほど好きじゃないわたしが読めてしまうから、この物語のサスペンス色は気にしないことにしよう。
読感のタッチは満足。

女性とは思わせないような冷たくて非情な風味を出していることで、作家像においても男性的な一面を垣間見せる人なのだ、と読みながら気づく。その感性が生む筆のタッチで、オトコの人の - 特に主人公の - リアクションや行動や心も嬉しいほどに小気味好く書いている。やはり男性作家ではないか、と思えるくらい。 ロマンチックとかスイートな感覚は欠片もない。

わたしは男性の作家が好きな傾向に(結果的に・無意識に)あるらしいが、絲山さんのこの作品を読んでいるときはその線から外れて、作家の魔術に神経が痺れてゆくようだ。マッチしているのかもしれない。

池澤夏樹が解説を書いているのを読みながら、この作品が「マシアス・ギリの失脚 」と似た雰囲気だと思った人も多いのではないかと想像してニッタリしてしまう。
一方で、ミステリアスでハード・ボイルドなら、高村薫というバリバリでコテコテ、読んだ後どっぷりと疲労感が満ちてくる作品があることを思い、絲山さんはまたそういう人たちとも違った路線で、謎を秘め込めることができる人なのだと思うのだった。

酔いしれるようなドラマティカルな小説ではない。
ドキュメンタリーが得意な公共放送局が得意としている「土曜ドラマ」的な色があって、進展に面白みがあるとか主人公に入れ込んでしまうのを楽しむのではなく、不安定でそれっぽくないミステリアスを追いかけて読み進んでゆく。だから、この作品では主人公がくっきりとクローズアップされてくるわけでもないし、オンナの人や主人公の生き方に同調するというわけでもない。確かに、乃緒という人物の神秘性に魅力を感じたりはするが、心を移入してしまうというようなものではなかった。

普段ならばこのように入れ込めないような小説であると、ツマラナイと感じて投げ出してしまうこともあるのだろうが、こんな小説でありながら惹きつけら続けたのは、やはり絲山さんの男性的な作風だったのでなはないかと確信している。

サスペンスは好んでは読まないのだが。中途半端と批判もあろうが、この作品には、こういった色合いがあったのも大きな持ち味であったと思う。

絲山秋子 離陸
絲山秋子 離陸

(話題の)恩田陸の「蜜蜂と遠来」のすぐ後に読んだのであるが、比較してもこっちの方が文学かもと思えても来る。買う際に迷った宮下奈都の作品ならば、文章に溶け込んでしまって、読みながら作家に少し入れ込んでしまうことがあるが、絲山さんにはそれもない。そういうところでも、味わいは異色と言って間違いない。

(P12)
そして悲しいことに、ぼくはしばしば自分に近しかったひとの面影すら忘れてしまう。
なによりも大切に思い、「好きだ」と何度も言ったひとのことでさえ、きっとどこかで元気に暮らしているんだろうという楽観のもとに忘れ去ってしまうのだ。
人間には想像力があるといっても、結局のところ思い浮かべることができるのは、現在とその僅かな周辺、森の端の川辺のようなところでしかないのではないだろうか。
(P43)
彼女のことを思い出すとき、人間の記憶は時系列じゃないんだな、と思う。
最初に彼女のことをどう思って、どうやってつき合い始めたかではなく、どうしても別れのところから記憶がはじまってしまう。
今でもまだ懐かしさより苦しさを感じる。
肌にくっついたガーゼが傷を破らないか気にしながらじわじわと剥がすように、言うなれば男らしさの微塵もない態度でしか自分の記憶にアプローチできないのだ。
(P94)
「回り道をするような相手はだめだね。上手くいくときは何も考えないでもサッサッといくんだから、そういうんがいい。最初に苦労すれば後からやっぱり苦労する。
なにも考えてなさげなひとのほうがしあわせなふうだよ。」

付箋は貼るつもりでもなかったのだが、電車の中でカラーマーカーを持っていなかったこともあって、何箇所か貼り付けたところがある。そこを読後に見直しても価値あるところだったので、自分の感覚にちょっと拍手を送りたい。

(付箋を貼った)前半のこんな部分を読むと、「沖で待つ」という作品で絲山秋子という作家に出会ったときの冷たさのようなモノを思い出す。

こてこてと着飾ったり、思わせぶりであったり、いかにもなセリフを言わせてみたり、壁ドンのようなシーンも無い。着々と冷たい男の作家が男の心を切り裂いてゆくような淡々とした筆を感じる。そのくせちょっとは揺らぐ心にも触れている。こういうところが好きな人には、程よい辛さが味わえる小気味よさと言えよう。

しかし早い話が、謎を放ったらかしたのか、空想に任せるとハナから決めて謎のままにするつもりだったか。という点など、野暮ったいようにも思えて、面白くないとも言えるけど、そこが味わいだとも言える。

まさに何処に行くのかわからない作品だった。
しかしながら、エピローグはすでにできあがっていたのだ。
だから、ミステリーなのかも知れない。

最後に、四日市の言葉が上手に使われている。涙が出るほどに感動する。
この作品は、テキトーに書いた作品ではないことがそこからも窺い知れる。

恩田陸 蜂蜜と遠雷

(ともだちに書いたメールでは)

読み終わったけど 確かに良かったけど
みんな大絶賛してるのが 共感できずに 少し沈んでいます

感想を纏めながら今日1日を過ごすかな

確かに直木賞だけど
恩田魔術にハマってないかな みんな
今はこういうのが 作品として輝いているのかな

モヤモヤな読後
考え込んで 布団の中
言い訳

恩田陸さんは合わなかった
というわけでもないと思っているんですが
高級で豪華なホテルのコース料理を食べに行ったけど
完璧満足というわけではなく
あれが美味しかったという印象もなく
もう一度食べたいというのもなかったままやなあ
というような感じかな

同じアヤさんという人が登場する
赤目四十八瀧心中未遂 (車谷長吉)
のことをずっと思い浮かべていて
あの作品は直木賞の中の最高の傑作と思っていますので
余計に物足りなかったのかもしれません

恩田さんのこの作品は
感動的なところもたくさんあったし
ドラマチックな流れもあったし
作者の腕を見せているところもたくさんあったけど
美味しい料理じゃなかった・・・みたいな

恩田陸 蜂蜜と遠雷
恩田陸 蜂蜜と遠雷

(さらに続きを)

恩田陸を考え続けていて
Y先生にもメールで感想を伝えて
返事で

「蜜蜂と遠雷」、合いませんでしたか…あせあせ(飛び散る汗)
あんなに分厚い本を読んでもらったのにねぇ

と慰めてくださったんですが
私はモヤモヤとしていて
あんな感想【BOOKs 】を書いているのです

けど

心を切り替えて
宮本輝の満月の道( 流転の海 第七部)を
鞄から取り出してふたたび続きを読み始めると

恩田陸のモダンなタッチと違う
宮本輝のしなやかさのようなものに
再会するのです

宮本輝を読んで今までには一度も思ったことはなかったのに
谷崎潤一郎をふっと思い出すような宮本輝の物語の作風であったりして

ここに戻ってきてみると

私がモヤモヤしていたのは
恩田陸のこの作品の良し悪しではなく
味わいの違いに旨味を感じられなかった
としか考えられない

夕暮れの公衆電話ボックス

平成28年11月27日福島礼子さんカフェ日和(朝日)
平成28年11月27日福島礼子さんカフェ日和(朝日)

私が書き出して素晴らしい文章を濁してしまってはいけない
と思いながらも少し自分に言い聞かせるように言葉だけを

💚

銭湯にかよった時代の回想
風呂上がりに公衆電話ボックスから故郷に電話をする女性
念願が叶いそうだと親に報告している
洗面器を抱かえながら電話の順番を待つ
彼女の話を聞きつつ後ろ姿を眺めている
遠い昔の夕暮れ時の話

💚

福島さんは少しだけ歳上です
でも時代は同じと考えていいでしょう

まだまだ社会は未完成で
経済成長もこれからという時代だった

大学に進学することや
都会に働きに出ること
もっと言えば
企業というところに勤めに出ることなどにも
手探りの時代だったわけです

一人で都会にいる責任の重さのようなものを背負い
未来にかけた大きな夢を抱きながら
時には孤独と闘い
時には羽ばたく自分の姿を大きく描き

一生懸命に生きていた

したたかな若者がそこらじゅうにいて
みんなが目に見えないもので繋がり
守られて未来に向かって歩んでいた

現代の若者にはわかってもらえない歯がゆさと
そんな幸せに守られるような社会にこれまでを導いてきたという自負と
目に見えないこの先の不安を胸に

静かに回想をする大きな頷きのようなものを感じます

続・スズメはなぜ電線から落ちないのか

(余録ノート)

スズメはなぜ電線から落ちないのか。
そんな問題提起をあげて何かモヤモヤとするものを手さぐりで探すように考え続けていた。

スズメは飛べばいいから電線からは落ちないのだ。
しかし、そこで考えるのを完了していいのか、と思い直して何日が過ぎてゆく。

そうすると、飛び続けることに対して幾つかのことが浮かんでくる。

うるさく目の前を飛ぶハエを退治する方法がある。
しかも3分程度で簡単に可能だ。
それは、ハエに止まるチャンスを与えないことだ。
ハエ叩きで叩く必要はない。
止まろうとするハエを追い払うだけで良い。
3分ほど飛び続けたハエは力尽きてぽたりと落ちる。

飛べないスズメがいたとしたらそれはどうだろうか。
夏がくるころに雛は巣立つ。
スズメも母のもとを旅立ち1人でお外に出るのだ。
飛べないスズメは地面をヨチヨチと歩くだけでまた巣に帰ってゆく。
飛べるようになるまでの2,3日はその辺を歩いて過ごすのではないか(推測)
歩く(というよりも跳びはねるだけの)スズメを何度も見かけたことがある。
猫やヘビに狙われて食われてしまえばそれまでだ。
食われてしまって途絶える人生があるかもしれない。
もしかしたら恐ろしいことが自分にふりかかる可能性があるとは子スズメは考えてもせずにヨチヨチと歩く。
飛べるようになれば親スズメとさほど区別がつかなくなってしまう。

蝶がふわふわと飛んでいた。
止まるところがないチョウ
はいつまでも飛び続けるのだろうか。
ハエのように力尽きて落ちることはないのだろうか。
蝶の場合を想像したのはここまでなのだが、これを書きながら思ったことが1つある。
蝶を止まらせずに手で払おうとしたならば
疲れた蝶ならその手に止まろうとするかもしれない。
ヒトの手はそれを拒まないかもしれず、蝶のほうに軍配があがる。

飛べばいいからという答えも名答のように見えるものの
飛んでいる側から見れば大変な努力をしているのだということが分かる。
安易に「飛べばいいから」などと言えない。

できればそんな危険を犯してまで飛びたくないのかもしれない。
逆にそのものたちには「飛ぶ」という概念や言葉などがないともいえる。
飛ぶことはすなわち生きることなのだ。

「ヒトが考えること」=「生き続けること」みたいなもんだろう。

書きかけはつづく

木瓜のはな ─ 裏窓から 春分篇

♠ 桜咲けば別れのカーテンそっと引く

架空であるそんな情景を浮かべて
春分の一日は過ぎていった

桜が咲く半月ほど前のまだひんやりとしている今の季節には独特の匂いがあって茂みを歩いているとこれだと思い見渡すのだがそれらしい木はなく花もなかったりする

新芽が放つものか、花粉が湿気と気温で変化を起こすのか
わからないままだが春の匂いだ

20日は67回目を迎えることなく大寒のころに逝ってしまった父の誕生日であった
18回忌を済ませてこの頃にようやく熱心に墓に参るようになったのは苦々しい話であるものの妙に納得がいくような気がしている

日記にも登場することが増えたのも訳あってのことなのだろう
その訳は日記を探ってみるしかない

墓参りのときに母の所に寄りぼた餅と赤飯をもらって帰る
挿し木をした沈丁花が庭の片隅で咲いている
見回すとあちらこちらで根がついている

6月ころが植え替えどきだから忘れないように念押しの話しぶりで頼んでくる

木瓜の花も玄関の脇の花畑で咲いている
背が高くならない目立たない木だが色は鮮やかでハッとさせられる
これも9月頃が挿し木どきなのでちょっと狙っておこう

我家の庭ではユキヤナギが花を咲かせてくれた
1年かかってここまで辿り着いた

花の知識はからきし無しで庭に咲いているのが何であるのかなど気に留めたこともなかった
そのくせ、花屋になりたいなどと言っていた三十歳のころもあったのだが

このごろになって草茫茫の庭の草取りもせずにその隙間を耕して木を植えてみたり挿し木をしたりしている
といっても皐月とユキヤナギとハナミズキくらいで、その前にロウバイとオリーブなどを植えてみている

そうそう、オリーブは長めの枝を土の深くまで刺して放ったらかしにしていたのだが随分と時間が経っても枯れないところを見るともしかしたら…と期待をしている

庭を弄っているところなど、先代からの爺さんによう似てきとるそうである