壇蜜日記3 あれこれ うなぎ

13日 壇蜜
13日 壇蜜

テーマ:
好きな食べ物紹介で
「うなぎ」と書いていた人があって
それが誰かを思い出せずに
モヤモヤしていたら
今朝、壇蜜さんの日記を読んでいて
ぱらりと裏表紙に「うなぎ」とあるのを見つけた

そうだ、これを読んでからずっと頭の片隅に
「うなぎ」が好きな人の人物像が残っていたのだ
と気づいたのでした

うなぎが好きだとプロフィールに書いている人を
見かけるのは意外と少ないにもかかわらず
本当は好物にしているけど「うなぎ」とは
書いていない人も多いのではないかと思う

そうこう考えていると、
好物も含めて
ちょっと変わった人なのかもしれない
と想像を巡らせてしまい
差し向かいでうなぎを食べつつ
少しおしゃべりなどができたら楽しかろうに
などと
夢のようなことに発展してゆく
壇蜜日記を読んでいる
悔しいとか、悲しいとか
苦い記憶とか、暗いできごととか
そういう物語や感情を綴ると
旨味が出そうな人だ

日記エッセイというのはこういうふうに
ねちっとしていて詩的なのがよろしい

 

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ともだち (七月中旬号)

ともだち

「ともだち」とは掛け替えのないものだから大切にしよう
と大勢の人が言います

「ともだち」って何でも話せて
言いにくい悩みも聞いてもらえて
居てくれてとても嬉しい

けど
別の見方もしているのです、ちかごろ

「ともだち」って
話を聞いた後にも
本当に相談に乗ってもらって
自分のゆくべき道を考えるときの大きな力になってくれるのだろうか

ともだちって言って居ながらも
それって本当はお互いが何も知らないのではないか
知ってるつもりになっているだけではないのか

ともだちっていうものの概念は
理想であって妄想のようなものではないのか
イザという時に傍にいてくれるわけでもなく
崩れてゆくわたしのあらゆるのもを
しっかりと支えてくれるわけでもない

傍にいて泣いてくれたり
死んだ時に見送ってくれることはあっても

いわゆる
そんなことってのは「なかよし」な話であって

何でも話せて本音を打ち明けてそれを聞くことと
本当の「ともだち」というものの間には
大きな隔たりがあるのではないか

「ともだち」という言葉は安易に使えないし
そんな人はゴロゴロとはいないのではないか

では
「ともだち」とはどこに居て
今のわたしとどんな位置関係にあるのだろうか

そんなことを考えている日々が続く

宮下奈都「羊と鋼の森」を読んだあとに (その5)

❏ 感想 まえがき

春の連休は宮下奈都さんの本を何冊か読んでいました。
そのなかで「羊と鋼の森」は、急がず焦らずじっくりと読むことができました。

第13回本屋大賞で大賞に選ばれていることが先入観としてどうしても大きな妨げになっているのは避けられないものの、大衆の声がどうであれきちんと見極めるためにもここは本屋大賞を眉唾だと思わずに読んでみようと、博打に出かけるような気持ちで読み始める決意をしたのでした。

嫌わずに読もうと心が動いたのは友だちからメールで宮下奈都さんの作品の感想を少し聞いたからです。
友だちは高校の国語の教師です。
本屋大賞決定の際にも先駆けてノミネート作品やその作家さんの作品を何冊か読んで予想をするなど楽しんでいるそうです。
宮下奈都さんの作品においてもこの大賞作品だけでなく「神様たちの遊ぶ庭」の感触も聞かせてくれました。
そんなことがあって背中を押されたみたいになったわけです。
(こんな先生が高校時代にいたら先生も好きで本も好きという青春時代だったのかななどとアホなことを思い浮かべながら作品に突入です)

実は先生の押しの他にもうひとつ事件があったのです。
それは宮下さんの名前を「宮下奈都」ではなく「宮下奈緒」と間違ってツイッターで書いて(mentionして)しまい、そのミスを宮下奈都さん自身からのツイートで指摘されてしまうということがありました。
一生懸命に書いたラブレターを間違って渡してしまった挙句その子に惚れていってしまう…なんてことはドラマでもありえないのかもしれませんが、わたしは宮下奈都を読み始めるはっきりとしたきっかけを自分で上手に作ったのでした。

「羊と鋼の森」を読み始めるまえに「はじめからその話をすればよかった」を読んでいました。
初めにエッセイを読んだことが親しみを持たせてくれて息を抜きながら少し軽めに宮下さんと接することができた感じです。
偉い先生にインタビューをしに行くとき、十分に予習を済ませたようなゆとりのようなものを持って「羊と鋼の森」へと進んでいきます。


❏ 感想

宮下奈都さんの印象というか作風のようなものをはエッセイを読みながら少し想像をしていました。
詩人みたいなタッチがあるなとか、あれこれと堅苦しく物語を作り上げてしまうようなタイプでもないなとか、どうやって好きになっていこうかを悩むようにあれこれ考えました。
メモを取る習慣の話が書いてあったので、作品の中のひとつひとつの展開がそんなメモから掘り出してきて築きあげられていくのだろうなあ、と想像してみたり、
子どもたちのことを日々眺めている目線から着想を得ているような会話や場面もあります。「面倒くさい」なんていう言葉が小説のなかで急に作者らしく無く使ってあるのをみていると、こういうところも苦心の表れなんだろうなと、余計なところまで考えてしまう。
そんなふうに考えたくなるような身近さを放っている人なのかもしれません。

ストーリーを作っていくタイプではなさそうですし、後になって語録をまとめ上げられるほどに課題を提起するタイプでもない。

優しく(失礼な言い方ですが)行き当たりばったり的に場面や心を映す場面が展開していくみたい。もちろん「だいたい、どの小説にも精魂なんてものはとっくに込められているのだ」と「はじめからその話をすればよかった」のなかで書いてますから、行き当たりばったりなどはないと思いますけど、そのさり気なくファインプレーのようなところが好感度を上げているのでしょう。

ドラマをシナリオ化して映像作品に作り上げたとしても、ドラマになりきらないようなことをしっかりと作文して纏めてくれて(イメージっぽく表現して)わかりやすく伝えてくれる人みたいだ。

悪く言えば純文学のこってりしたものを想像して期待するとがっかりすのだろうけど、まろやかで心がほんのりとほっこりするような末永く大事にお付き合い出来そうな作家なのかもしれないとも思ったわけです。

そういうわけで、作品にも大いに興味があるんだけども、欲張りなことに人間的にも大いに興味が湧いてきて、むかし(40年ほど前ですね)遠藤周作さんに会いに行ったみたいに、宮下奈都さんにも家の玄関に普段着でお邪魔してドアをコンコンとノックしてしまいそうな(それを許してくれそうな)味も感じてしまうのでした。

「 羊と鋼の森」というように、タイトルに「森」とつきます。けれども実像としての森は登場しません。作品でイメージされた森は、わたしたちが触れている環境創造活動や森林やみどりとの共存、さらにはおいしい空気や水を育む森と通じ合っているものがありました。
主人公はピアノの調律師をする若者です。ピアノは鍵盤の奥に隠されているフェルトのハンマーが鋼の弦を叩いて音を出します。このフェルトや弦を工夫・調節してピアノの音は調節します。森に生まれ森の大きさに守られて成長する若者の話です。
物語のなかで「古いピアノの音の良さは、山も野原も良かった時代に作られたからだ」「昔の羊は山や野原でいい草を食べて育ち、その健やかな羊の毛をぜいたくに使ったフェルトをピアノのハンマーに使って」いたからいい音がするのだ、と書いています。

作者の宮下奈緒さんは、北海道に山村留学をして家族で1年間過ごした経験があり(それを素材にして)「神さまたちの遊ぶ庭」という作品も書いています。

「羊と鋼の森」も「神さまたちの遊ぶ庭」に出てくる森も、ふだんから仕事で自然保護や環境創造、森や緑との共生などをテーマに仕事をしているわたしたちみんなが夢見ているような森ととても似ていました。
しっとり・どっぷりと何度も読み返せる作品でした。


❏ 感想 あとがき

(試しに本屋大賞を読んで)直木賞とは色合いが違うなあと、優劣ではなく、感じたのでした。
そもそも同じラインに並んで比べなくてもいいような風に感じます。

「博士が愛した数式」という小川洋子さんの作品をむかし読んだけど、ああいう作品のように鋭利でない切り口で魔法にかけたように作品が読者に忍び入って来るのようなところが宮下さんにもあった。
決して軽くはないのだが、作者は冷たい人を装って、熱くならない物語を淡々と続ける。
結論だけどこかで暗示したらいつ終わってもいいような甘いベールに包まれたお話だったのかもしれないな。

・・・・と、ここまで書いて、本屋大賞のことをパラパラと調べたら、さらにわかってきたことはその「博士が愛した数式」(小川洋子)が第1回本屋大賞だったということです。
本屋大賞なんて眉唾やなあ、なんて書いておきながらも楽しく読んでいる作品が何篇かあったので、ちょっと言い過ぎたかと反省しつつ、
小川洋子や石田衣良、絲山秋子、角田光代、三浦しをん…と読んでいるから、あゝわたしも結構ミーハーだったのだ。

自分で書いた感想をもう一度読みなおすと
「ストーリーが荒削りで躍動感のあるモノや、感動の押し付けのような作品が巷には多いこのごろ、素直に小さな物語を、しかも、文学的に彼女は綴っている。
こんな作品は次々と生み出せるようなものではなく、作者の宝物のような感性を繊細にかつ満遍なく出すのですから、きっと彼女の中でも数少ない名作になることでしょう」
と小川洋子さんの作品のことを書いている。(11年前の感想)

わたしが大好きな「赤目四十八瀧心中未遂」(車谷長吉)とか「利休にたずねよ」(山本兼一)ような滾りがない。だからこそまた違った読者が吸い寄せられるのだ。

♠️

もう一つ特記したいことがあったので記録しておく。

読書真っ最中のこと、原民喜の作品を引用している箇所に出会う。(P57)

「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」

これは「沙漠の花」という作品のなかにある一節だ。ちょうど半年ほど前に「原民喜全詩集」を見つけて考慮時間0秒で買ったわたしですから、原民喜という名前が登場するだけでもうお涙頂戴ものでした。

そのことをツイッターで mention したら reply がもらえたのでした。

遅読なんです(老眼とも闘いながら) 羊と鋼の森 ぼちぼち進んでます
原民喜 の名前が出てきて超嬉しがっています
去年の秋に「原民喜全詩集」を見つけて即買ったんです
わけもなく好きなん
何か通じるものを感じているのかな
(そんな 予感もしていたのだった)
@NatsMiya

@wahaku よかった たぶんどこかでつながっているのですね


写真日記から

羊と鋼の森(宮下奈都)

ひの菜が旨い季節

2015年11月16日 (月)
ひの菜 食う
ひの菜が旨い季節やね

20121130

20150119


そんなことを遡ってブログに書いた。
載せた写真も昔のものである。

11月8日の朝に風邪症状が出て
ミドラの練習・初参加を断ることになった。

それは、1週間後にもまだ治らず
14日の練習も断念。

仕事は9日(月)から11(水)まで おやすみ状態となる。
(火曜日は早引き)

ノドが痛いくらいで
カラダが怠いくらいで
咳が出るくらいで

仕事を休むなんて
(本当は休みたいけど)
(仕事に行っても捗らないけど)
許されないと考えていた時代があった。

そう、まさに「時代」と呼べるようなほど昔であり
何かの信仰か魔術か
自爆か束縛かのように

必死になって仕事に行ったのだ。

スピンアウトして人生を考えなおしたら
なんて馬鹿馬鹿しくて愚かな事だったのかと反省する。

尽くすことや誠意を示すこと
至誠を旨に突き進むことは大切なことではあるものの

立ち止まって考えれば
別の見方もあることを【知る】ことも大事なのだ。

もっ早くそのことに気付けば
曽祖父が村長、祖父が村議会議員、父が公務と歩んでいた本当の意義を「知り」
わたしも道を選び直すべきであった。

若い時代に自分の人生など決めようとすることは
時によっては無謀である場合がある。

そんなときに
親のうしろ姿はとても大事なのだと知るのも
ずっと後になって天命の年齢を迎えてからだった。

しかし

行きつくところは
「これでいいのだ!」(バカボンのパパ)
なのだ

これでいいのだ

手が見えて父が落葉の山歩く  飯田龍太

手が見えて父が落葉の山歩く  飯田龍太(昭和三十五年)

飯田龍太のこの句に出会ったのは最近のことでそれほど深い意味もわからず静かな落ち葉の公園の遊歩道のようなところを想像していた。

然しのちになってもう少し深い意味があるのではないかと思い立ち評論や引用などを手探りで辿ってゆくと、今度はわたしの文学の知識や資質を大きく上回るような解説が出てきて、これはこれは大変偉大な作品に出会ったのだと密かに喜んだのだった。

手が見えて父が落葉の山歩く(昭和三十五年)

[自選自解 飯田龍太句集]の解説から

<実景である。早春の午下がり、裏に散歩に出ると、渓向うの小径を、やや俯向き加減に歩く姿が見えた。この季節になると、楢はもちろん、遅い櫟の枯葉もすっかり落ちつくして、梢にはひと葉もとめぬ。乾いた落葉がうずたかく地につもる。しかし、川音でそれを踏む足音はきこえない。明るい西日を受けた手だけが白々と見えた。くらい竹林のなかから、しばらくその姿を眺めただけで、私は家に引き返した。この作品は『麓の人』のなかでは、比較的好感を持たれた句であったようだ。しかし、父が、これから半歳後に再び発病し、爾来病牀のひととなったまま、ついに 回復することが出来なかったことを思うと、矢張り作の高下とは別な感慨を抱かざるを得ない。いま改めてその手が見えてくる。父は生来、手先は器用の方であった。>

昭和三十五年の秋といえば、わたしは3歳になるときのことだ。父はもちろん祖父も元気であった。
母がいる実家の押し入れには、おそらく、わたしが父に肩車をしてもらって祖父と並んでお伊勢さんの鳥居の前で撮った写真が残っているはずで、それがそのころのものだ。

伊勢まではどうやって行ったのだろうか。
写真には書き添えられてはいないが、ディーゼルカーはあったのかどうかもあやふやで、蒸気機関車が普通に長い長い客車を引いて走っていたころのことだから、汽車かもしれない。近鉄電車にも乗っただろう。

父も祖父も重苦しい外套を着てカメラに向かって最高の顔をしている。
三十歳に満たない時代は誰にでもあった。わたしは自分が子どもである写真よりも父と祖父がここにいることに大きな価値を抱いている。

祖父は二三年後に亡くなってしまう。わたしには祖父の記憶がある、と思いながらそれは遺された数少ない写真を見て作られたイメージであるような気もする。しかし、5歳ほどなら記憶があっても不思議ではなく、何となくであるが祖父の葬儀に参列しているような像も頭の片隅にある。

子どものころは事ある毎に父に肩車をしてもらったものだ。今の子どもたちがお父さんに肩車をしてもらっている光景をあまり見かけないのは何故だろう。高く突き放す感じよりも子どもを大事に抱きかかえる動作のほうが日常になったからかも知れないと推測したりしている。子どもは宝なのだがある一面で抱きかかえ過ぎていることの象徴のようにも思う。

父も祖父もいなくなりわたしが父という立場から祖父へと代わる時がもうすぐに来る。
そんなこれからのかずかずの光景のなかで、ほんの少しでよいからこの句の「手」のようにありたいものだと思う。

遺す言葉 - 29 をまとめる

遺す言葉 - 29
をブログからピックアップしている

目次ページを作成するのは「その29」が初めての試みで
これまでには このようなページを思いついていないので存在しません

構想はあとから湧いて出るものだろうから
遡って目次を作ることはせず
その1からその28までを読む人があったならば
お手数ですが ブログを辿っていただくことでおねがいしたい

こんな記事を
本当に必要とする人が
この世にいるのかどうか
不明なままである

❏ 「遺す言葉 - 29


2015年8月10日 (月曜日)
宮本監督(津商) ─ 頼まれごとは試されごと
【雷山無言・語録選】


2015年8月11日 (火曜日)
立秋と書き出す手紙蔓の花 ─ 立秋篇
【裏窓から】


2015年8月20日 (木曜日)
心は巧みなる画師の如し ─ 水のかたち(宮本輝)から
【雷山無言・語録選】


2015年8月23日 (日曜日)
稲刈り ─ 処暑篇
【裏窓から】


2015年9月 5日 (土曜日)
北海道 ─ 花も嵐もⅢ その84


2015年9月12日 (土曜日)
秋風に吹かれて鉄棒にぶら下がる ─ 白露篇


2015年9月17日 (木曜日)
舌まがりアナタを好きと言いそびれ
【余録】ねこさん通信


2015年10月 2日 (金曜日)
むかしの話 ─ 花も嵐もⅢ その85
【花も嵐もIII】終楽章


2015年10月31日 (土曜日)
等伯と永徳 ─ 霜降篇
【裏窓から】


霜月ときいてぬるめの燗をする

霜月というといかにも寒さがただよう。11月の初日は日曜日で、ムスメが美容室に来るというので駅まで迎えに行った。もう一回、お正月ころに 切ったらそのあとは子どもが生まれてそれどころではなくなるだろう。髪を切ったり何か出来事があったりしながら季節はこつこつと過ぎてゆく。Photo冬の寒さは嫌いではないものの、カラダの動きが鈍くなったり動き出すのが億劫になったりするので、少し自省の気持ちも出てくる。しかしながら、ぬくたい布団のなかでひとときを過ごすのも快感だ。

時間がもったいないと思ったころもある。そんな時間を過ごすならば読書をするか、何か外で行動でも起こす、日記を書こうかなどと忙しい心に責められていたあるときが懐かしい。

今は「これでいいのだ」という精神で生きている。わたしの父はまさにバカボンのパパと同じような雰囲気を持った人であったなあと、亡くなって年が過ぎるごとにますます痛切に感じる。

ぬるめの燗。

霜月という言葉をきいて「ぬる燗」の酒を思い浮かべた。日本酒を飲まないくせにこの季節のピリッとする寒さを連想させるには持って来いな言葉だ。

わたしはこれまでの人生で日本酒をほとんど好んで飲んでこなかったので「ぬるめの燗」の旨さは知らないし、今でもそのような域には到達していない。

ムスメが嫁いで居なくなってから二人でお猪口に二三杯ほどのお酒を飲むことがあるものの贔屓の酒に出逢えたわけでもない。味わいが酒それぞれに少しずつ隠れていて個性の幅が大きく、私のような者でも味わいやすい面をそれなりに愉しむ。

味は極めるほどにはわからない。それでいいと思っている。

ムスメさんの夕飯の写真がLINEで送られてきた。(おゆうはん

旦那さんはお酒を飲めない人なのだが飲み会があるとわりと楽しそうに出かけていくそうで、深夜の帰りを待ちながら、そそくさと簡単に一人ご飯をいただいたらしい。

わが家はおでんだった。

しらたきという関東風のこんにゃくみたいなのが食べたいと言って買ってきて冷蔵庫にしまってから二度おでんをしたけども二度とも入れるのを忘れてしまったらしいうちの人。

よほど馴染みがないのだと思うとますます食べたくなってくる。