大暑篇 「裏窓から」の筆休み 余白

なかなか纏まらずに外伝を書いて さて 裏窓を書こうか
と大きく息を吸っても テーマが浮かばなくて・・
(外伝)➡︎ 梅雨も明けて ゆっくりと大暑に 七月下旬号


───── どうして「裏窓から」を書き出せなくなったのですか?

まず生活リズムが単調化したからでしょうね
朝から晩まで家にいて 日々同じことをして過ごす
テレビや映画を見たりするわけでもない
食事も変化がなく うどんなどの麺類を食べたり冷蔵庫をご飯をチャーハンにしたりしてます
簡単にできる麺類は 飽きもせずに重宝しています

───── それだけではなく生活面ではどうですか

腰痛が少し治って歩けるようになったのですが ウォーキングに出かける頻度が落ちました
歩く距離を不必要に多くするのはやめて 団地内を一周する程度にしています
休日に街歩きや山歩きに行くことがなくなって 家に居て部屋で楽器を吹いている時間が増えました

───── 認知症の心配もするわけですか

そうです
物忘れには気を遣っています
いつから認知症が出てくるかが 全くわかりません
年齢的に いつ兆候が出ても おもおかしくないわけですから 心配をします
しかしながら 簡単にこれといった対策で予防ができるわけではないので 不安が募ります
ただ 必要以上に心配をして精神的に暗くなっていくのは考えものだと思っています

───── おとーさんが高齢者施設にいるんですね?

そうです
高齢者住宅という種類の施設で よく似た高齢者の人が住んでいるマンションのようなものです
介護が必要な人もありますし 痴呆が始まって医者に通院する人もあります

この日記でも 半年ほど前から 痴呆のことに少し触れることがあります(京都日記)
自分の高齢化のことを考える時間も増えたので そのことを書くときもあります

胃カメラと大腸カメラ ー 大暑篇 (裏窓から)

八日に胃カメラ、十五日に大腸カメラの検診を受ける
書きかけのまま放置をする日が続く

事後報告だが
二十九日には 腹部全般のエコーもする
膵臓、肝臓、腎臓と所見を聞く

脂肪がたくさんと言われる肝臓
血液検査結果からステージ3の腎臓、小さくなっていってます・・

父の年齢にあと1年余りと迫る(祖父の年齢には今年の年末で追いつく)


サドン・デスの恐怖と不安が病気のように脳裡をぐるぐると回ることがある

いつ死んでもいいと覚悟をしているものの、想定外の死に方を考えると怖い
痛みが怖いのもあるが、不自由が怖いのだろう

遺すものは整理しているが 不完全なままだ
それが達成できなかったとしても 不完全燃焼になって残念なだけだ

死んだら終わりだ

そのくせ、かれこれと考える日々が巻き起こり
筋書きのない死にかたを避けようとして 健康診断を受けるのだろうか


胃も腸もポリープがあるが、癌化はしないと診断される
そんなことを考え続けている『七月』である




芥川賞や直木賞の発表がニュースになった

今は作品に魅力を感じない
しかし読まないわけでもなく、騒ぎが収まってから読むことはある

図書館で予約をすると何十人待ちである
本屋大賞の作品を四月に予約をしたが
まだ依然と三十人以上がわたしの前に待っている
果たして待つほどに魅力があるのだろうか

詩集のようなような文章で坦々と綴ってくれる作品に出会う機会が少なくなって寂しい
自らは何も浮き足立たず飛び跳ねず自己主張もしないのに
読みすすむうちに訳もなく惹きつけられてゆく
そんな魔力を持った作品に出会いたい

そんな作品は人気がなく作品として誇示も無く面白味に欠けるからだろうか
物語(ストーリー)の展開を求める人が多いのかもしれない

福永武彦の『忘却の河』の一部分を
意味もなく味気を求めることもなく訥々と読み続けるのが好きだ
空白の空間の中を漂いながら詩篇に満ちた活字の海を泳いでゆくのがいい

直木賞でも芥川賞でも 激しさを持った勇気が湧き出そうな感情を揺さぶる作品にとことん浸りたい

『赤目四十八瀧心中未遂』『利休にたずねよ』 が真っ先に浮かぶ
向田邦子、高村薫、なかにし礼、葉室麟のようにのちに揺るぎない魅力を書いて
数多く作品を残している人もある

ーーー

そんなことをメモに書きはじめて夕方になったので
続きはどこかで書くことになる

夏を待つ 夏が来る 夏を愉しむ - 大暑篇 裏窓から


七夕様がすぎて瞬く間に日が過ぎる
その間に梅雨明け宣言(十七日)があったり
ムスメさん夫婦のコロナワクチン接種があったりして
慌ただしい夏が過ぎる


二十三日(金) 東京オリンピック 開会式

1964年 10月に東京で開催されたときは小学生だ
はっきりと記憶に残るものは無い
のちに映像化されて見たことで脳裏にあるように思うのだろう
直に焼きつけることなど七歳や八歳の子どもには不可能だった


人類というモノの偉大さを感じる
知性を持ち文明を築いてゆく動物たち

たかが地球上ではちっぽけな生き物に過ぎないのだと認識し
大自然にそして歴史に感謝をしなくてはならない

座右の銘を聞かれて思案に暮れる ー 大暑篇 裏窓から


一、

二十四節気ごとに暮らしの中から気づくことを掘り出し考察を交えて何かを書いている

メルマガの巻頭言を書いている時に始めたのである

しかし、仕事を辞めてからそういう考察にメスを入れられずに苦心している


二、

理由は単純明快である

日々の出来事には様々な分野のホットな話題があり、コロナ災禍により発生する数々の驚き、不都合、不満、不手際などにも常に問題意識を持って接してゆくところであろうが、仕事に就かない毎日では、暮らす場所が一種のアウェーであり外野、塀の外(檻の外)であるから、はっきり言って、もうどうでも良くなったのである


三、

第四コーナーを回ったら塀の外で悠々自適に暮らそうと考えていたのだから願いが叶ったのかもしれない

「必要とされる人物ではない」と環境分野からきっぱり縁を切られて、潔く塀の外に出て来た

「塀の外」は気楽でそこそこ楽しいのであるが、資金的な制約が大きい以外は、楽園である

「足を洗って」出直そうどころか、足を洗った後に靴も履かずに裸足でのんびりと沢遊びでもしていたいと思っている

「もう一旗揚げたいところだ」と密かに祈念したこともあったが、金もないが仕事もないのだから、開き直りの日々だ

「他力本願」で呑気な奴でござる、あたしは


四、

先日、就職の面接があって「座右の銘は?」と聞かれた

私の座右は「失意泰然」ですけどそれは他人にペラペラというものではないし、卒業記念の文鎮に学長の筆で「自琢」と彫ってるのをいうわけにもいかない

『切磋琢磨』ですと答えるのが精一杯だった

果たして本当の座右は何であろうか、と思案に暮れている

夏の土用を迎えている(20日から) 大暑篇 - 裏窓から

夏の土用を迎えている(20日から)

ウナギは食べに行けない
スーパーをぶらりとすれば旨そうなものに足が止まる

ID検索によると宮崎県で育った黒毛和牛だ

塩胡椒を振って焼くだけ

気をつけること?
焼く前に部屋の戻して一時間ほど冷蔵庫の温度を取り去ってやることでしょうか

美味しくいただく
一人当たり100グラムほどの贅沢であった



さて その大暑であるが
やれやれ梅雨が明けそうだという気配が見えてきた

林真理子さんが朝日新聞で面白いことを発言している


 ――最近の男性についてはどう思われますか。

「近所で犬を散歩させていると毎朝、若い男性がチェーン店で牛丼を食べている姿を見ます。おなかがすいて食べている風でも、おいしそうに食べている風でもない。つまらなそうで生気がない。私の印象に過ぎませんが、こうした覇気がない男性の姿ばかり見るようになり、この国は大丈夫かな、と思っています」

「一方で、すごいエネルギーを放つ中高年男性がいると、若い男性がそういうカリスマ的な男性を信奉していたりするんですよ。恋愛だって中高年が謳歌(おうか)しているばかりで、若い男性の童貞率はすごく高いじゃないですか」

――なぜでしょう。

「人間関係や恋愛に臆病になったことの理由の一つに、本を読まなくなったことがあると思います。恋愛を知り、憧れを募らせるとか、世の中にはさまざまな人間がいて、いろいろな考えがあることを知るのは、読書から学ぶ経験が大きいと思うんです。私は書店の家に生まれ育ち、本を読み人生を学んで作家になりました。でも今日も電車で本を読んでいたら、『その物体なに?』みたいな視線を浴びせてくる人がいました」

――本を読まないから、人との距離感が変わってきたと。

「『誰かを知る』ということの意味が変わったように思います。相手の話を聞いて少しずつ相手との距離を縮め、その像を形作るという作業が『知る』でした。今はネットで誰かの情報を7割も得たら『相手の人生をつかんだ』と錯覚する。だから相手をこうだと決めつけ、感情むき出しで極端なことを言える。でも現実の女性との関係や人生には臆病なんです」


先日、直木賞と芥川賞の発表があった

最近はハズレが多いので みすみす当たる可能性のないものに興味を持てず
世間の書評の方を愉しんで読んでいる

女流作家の作品が入賞するケースが多く 今回も例外ではなかった

はて
(蓋を開けて見ると)男性作品が好きな僕から見ると 女性の作品は「詰まらない」

男性作家は今 どうなっているんだろうか


「欲望も薄い」 と林真理子さんはいう

嫌いな同僚と同じチームに入ったり、無能な上司に無理難題を言われたりしながら他者と折りあい、乗り越えていく。愛する対象を可愛がるという行為に比べ、人間的に成長するのではと思います

吉川英治 鳴門秘帖 の言葉も染み入るものがある
今はもうこんな風に痺れる文章にはなかなか出会えない

文学までもが昭和から平成そして令和になって 姿を変えていくのだろうか



大暑から立秋へ 大暑篇 (裏窓から)

大暑
大暑

大暑(7月23日)が過ぎるころから
何も書かないままの日々がいく日も続く

危険な暑さが続いていると
ニュースでは報じている

果たしてそうなのだろうか
と疑問もある

危険という言葉が安易に暴走していまいか

人(ヒト)が自分の都合のいいように暮らした挙句の果てに
このような暑さが襲ってきたのではないか
と言う疑問が
どうしても拭い去ることができない

便利なことが慢性化して
豊かな暮らしに満たされてしまった挙句の果てに
暑さが襲いかかってきたのだ
と思うと

少しは何かを辛抱するとか
我慢や不自由を受け入れるべきではなかろうか

台風12号が来て
大暑の後にわずかな涼しさが戻ったものの
7月から8月にかけても再び暑さが襲っている

🌱

百円の回転寿司を
あれを寿司(のスタンダード)だと言って
鱈腹食べるのは
もはや現代人の流行りでも何でもなく
日常になっている

「食べ放題」という看板を掲げた店で
空腹を満たそうとするのではなく
上質の味を夢見た果てに
あれも一つの上質の分類の端くれだと認めて
満足している

そんな人たちが標準の時代になった
そしてぼくはそんな標準に乗れないでいる

ぼくは
そういう時代に乗り遅れているのだ
三十年後から人生を始めた人たちに指摘される

では
「遅れる」って何を意味するのだろう
どんな状態を指すのだろう

ステージが違うだけで
時系列の順が前後するだけのことで

指数関数と三角関数とを融合させた空間で
彷徨っているのならば
答えなんてないのだろうと思う

🌱

身近なところで考えれば
離婚をする人が当たり前のようになって来て
社会のなかで結婚をするという根本的なところまでが変化をしてゆく

タバコを吸う人がその辺にフツウに居る社会が消滅して
オトコやオンナの区別がなくなって
子育てはオトコでもなくオンナでもなく
挙げ句の果ては親でもない人が行うようになって

オトコとオンナの差別も区別も存在も特徴も
どうでもよくなって性的な差別も障がいの差別も
影も形も無くなって
ある種の平等が実現してゆくのだろうが

分子生物学が進化した果てには
人が考え出した生命科学のような技術と
脳科学と数学が進化した人工知能を超えた新しい知能により
社会が想像のつかないことになってゆくのだろう

けれども

やはり遅れていると指摘されるぼくが
現在のアタマで考えついたり思いつく想像の空間では

そんな夢のようなものを
進化とは安易に呼べない

「快」と「楽」に走ってしまう生き物は
滅びたほうがいい

地球が滅びても不思議ではないかもしれないような
延長の道程を走っているのかもしれない
この暑さをお祭りにしているようで甚だ滑稽です

まずは豊かさと幸せボケを見直さねばならない

猛暑日を待ち構えていた庭プール (裏窓から) 大暑篇

前略 ご無沙汰しています
と或る人あてに書き始めたものに
少し手を入れてここに残しておく

参議院の選挙が行われてこのあとには都知事選がある
無関係ではあるけどもアホみたいに日本中が気にかけている
誰もがそんな素振りをしている
いや、関心を持ているような錯覚に陥っている

ちまたには情報が溢れている
それも十分すぎるほど錯綜している
メディアは情報を奪い合いい先取りして見せて
何を優位の根拠にしようしているのだろうかと思う
そんな状況でお互いが醜い闘いをしている

新聞やテレビを見せられる側もそれにつられてお祭りのように話題にしている
そんな風潮の中でコチラもアホみたいに必死になって追いかけてしまいそうになっていた
危うく大事な心を見失ってしまうところだった

けれども一方で
普遍性をもって揺るぎないものを伝えてくれるモノがどっしりと不敵に存在する
どんな流行にも動じず泰然とするものがある
何もかもを巻き込み去ってしまうような勢いにも動じずにそこに存在するモノ
そういうモノにあこがれとか美的さをや落ち着きを感じてしまう

でも、待てよ
そしてそのこと自体がとてもアブナイのかもしれない
そう思ってしまうことがあるのだ

そんなものを美しいとか毅然としていて頼もしいとか思うことがすでに心が蝕まれている証ではないか
しっかりと自分を見つめようと思う

これから暫くの間、暑くなります
あんばいようお暮らしなして

手紙はそこでおしまい。


♣ マネーをたくさん潜ませた軽々しい情報が世の中の流れを作っていくことへの怒りなのだろう

怪しい情報が出まわっていても誰も咎めないで、むしろそれが堂々としている
そのあてにならいものを根拠にして大事なことを判断しているヒトがたくさんいる
そのくせ、そういう情報の海を悠々と泳ぐようにいて、上手に問題を拾い上げて一丁前な意見や苦言を呈している奴が居る

あるときは、1つの人権を主張して大きな盾にして、クレーマーみたいなことをやって満足している(アホがいる)
アホとまでもいかなくても、意見は自由だから(言論の自由)ということで、いかにもな論法で勝手なことを自由に無責任に言う
(マスタベーションのようなものだ)

世の中には詰まらない情報が溢れている
それに詰まらないヒトが寄って集(たか)っている

都知事選挙だってまともそうに見せかけて熱狂的にメディアが騒ぐ
必要以上に騒ぐのはニーズがあるからなんだろう
儲けが出るからなんだろう
儲かれば何でもするというのは矜持としてどうなんだ

けれども、ニーズを求めている方がまたそんな群衆の階層だ
そんなことに関心があるなら真剣に国会議員を選んでくれよと言いたくなる

そうは言いながらも選挙はいつも真剣勝負の結果だ
だから、今回の結果が真剣な結果だ
そういう人がこれからの行政を引っ張っていくのだという事実と現実を明示している

情報という簡単に手が伸ばせるものに安易に手を伸ばしているのだということは誰もが知って認めている
けれども、深く考えずに表層の波の美しさを見て、思いつくように物事を決めいく

そんなことをしていてはいけないと思いながらも、それでも事が進むことを知ってしまった
だから、社会が段々と崩れていっているのだ

エロな映像がいつの間にか無制限に流出しているように、政治をコントロールする哲学も、崩れている
個々の持つ重みや色合いを無視して目に見えるダイジェスト的なデジタルの姿だけで選ばれていく

「表層と深層」という言葉が浮かんだ
深層を誰も見つめようとしない
いつかその深層から泥が吹き出すかもしれないのに
いったいいつごろから深層に目を向けなくなったのだろう

こんな愚痴や新しい提案を日記やブログに書いている人を見かけない
そのくせ、イケガミとかいうそれらしい解説者に人気が集中したりしているから、オカシイ

昔なら読みに来てくれる客が無くてもブログや時事解説を書いている人が多かれ少なからずいた
しかしそういう人は売れないから消えていき、このごろはほとんど姿を消してしまった

その代わりに写真を掲載して何かを書く
写真だけがネットを流れて人の目をキャッチする
活字を読む人が少なくなった

ケータイが多いから長文をじっくり読まなくなった
読むべきものが多すぎて全ての意見を読み切れなくなった
全ての記事にゴミのような記事がどんどん増えているので選別が難しくなった
下手くそな文章と上手な文章を区別することなど、どうでも良くなってしまった
ツイッターで流れる文章を入試の国語の問題のようにして真剣に読むならば
全部読んでしっかり考察するのに3,4時間では読み切れないだろう

やっぱし

多すぎる情報
切り捨てられる情報
どうでもいい情報
などが多いのだ。

今の世の中をこれらの情報がめちゃめちゃにしてしまった
読者が軽薄でミーハー的になった
誰でも書けるのは望ましいことだし自由に意見が出るのもいいことだが
質は間違いなく低下してゆく

だから反発して(変人になって)わたしは自分のために
(1)なるべくテレビは見ない(2)流行りには注目しない(3)怪しい解説は聞かない
ということに気を使っている

近ごろは、朝日新聞や毎日新聞も信用度が低くなってきたこともあって、何を頼りにしたら良いのかを見失いつつあります

でもね、1つ言えるのは
「時代は巻き戻せないので、これからの時代はこれからの人が作る」
ということだ
そして「わたしの出番はもうない」


M’s Zoom から

ムスメLINE

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