『地震カミナリ火事おやじ』の警鐘  ✦ 令和六年 新年 雑考 (小寒篇・裏窓から)

令和六年 新年 雑考

『地震カミナリ火事おやじ』という言葉がふと思い浮かぶ
現代人が忘れている言葉だ

忘れていってしまうこと自体はとても幸せて豊かなことなのだ

けれども
しっかりと刻んでおくべきことを粗末にすることは 避けねばならない

切り捨てる

先人の言葉をしっかりと受け取ることは大切なことだ

しかし そんな自明なことが わかっていない人も多く、一生懸命に説明をしても 真意が届かぬことも多い

だからと言って 一度 痛い目に遭えばええのや と切り捨てるわけにもいかない

災難

地震と事故のニュースが続いた

報道は 冷ややかな澹然さで震度7を伝えつつも 炎に包まれて飛び散る航空機を映し出す

これを見ていると遠い国で起こっている戦闘の叫びが絵空事のように捉えられて 温かい新年の団欒の中で それらの様子が 歪んで伝わっていくようで恐ろしい

災害の報道を 『高みの見物』的に報道するメディアの姿勢に 思わずとても腹が立ってきて「皆さんはいかがか」と呟いてしまった

恩を返す

だが それは メデイアにとっても安泰で幸福な国民からすれば 本音であり、怒りでありながらも不安でもあり辛辣にいえば『対岸の火事』なのだ

何も手を差し伸べられない焦りとモヤモヤの奥には 本来なら飛んで行って何か役に立ちたい気持ちがある一方で、幸せボケにどっぷりと使った自分に嫌悪感が突き刺さる

だが今の自分には これらの事態に対応できる余力を失った暮らしをしている

かつて 少しばかり豊かだったころには 中流ぶって何も行動を起こせずにいたくせに・・と振り返ると 募る心配のやり場がない

ヒトというものは 辛酸・苦汁を舐めてこそ そこに潜む本当の姿に出会え ヒトとしてのあるべき姿や恩返しの意味をやっと知る

辛酸を舐めることが必要条件とは言えないにしても 「現代人は甘い世界に浸りきってしまい 幸せに溺れている・・少し身勝手すぎるのではないか

そう思いながら 「これを言うたら嫌われる」と言葉を飲み込んだ

✩✩

胸に手を当てる

アル中の従兄弟がいて、家族も(多分本人も)そのことを悩んでいる

人生六十年を過ぎたら 歩く姿勢もモノを見る視点も 喜怒を感じる触覚も 軌道修正をしていくのが望ましいと考えている

鬼が現れて悪戯・愚行をする若造を叱るのは 人生の前半での場面でのことだ

四十歳を超えたら誰も叱ってくれなくなってくる(これは仕事でも似ている面がある)

それには叱る必要がない理由があるからで、愚行を決して許したわけではないのだ

ヒトは この怒られなくなることが怖いことで そこの意味に思いを巡らせ胸に手を当てることが大切なのだ

我が従兄弟には 最早や鬼が近づいて苦言を吐くことはないだろう

『地震かみなり火事おやじ』── 心に鬼を棲まわせて 自分の胸に手を当ててみる

✩✩

孔子の言葉は重く響く

子曰く
吾十有五にして学に志す
三十にして立つ四十にして惑わず
五十にして天命を知る
六十にして耳順う
七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず

✩✩

六十六年

平成六年が明けて いきなり大惨事が連続的に発生した

私にとって六十六年目の年を迎えており、この数字は 祖父や父が亡くなった年であるということであるゆえ 次々と自戒の思いが浮かんでくるのだ

二人は それぞれ六十年・二十七年前に何も言葉を残さずに逝ってしまった

幾つかの格言を口癖にしていたのを記憶するものの それを胸にする自らの思いを聞かせてくれたことはなかった

✩✩

『地震カミナリ火事おやじ』の警鐘

地震に襲われたり 飛行機が炎上する映像を目にして 過去から未来へと必ず右上がりに進化してきた現代を立ち止まって見つめ直してみたい

恵まれた環境を築き上げ、豊かな暮らしと幸せを手に入れて、自らが苦渋を舐めて勝ち取らねばならぬものがなくなっていく

経済の進化がお手本のように与えてくる新しい生活文化やAIが提示する提案に 素直な顔をして暮らしを築くまじめでおとなしい現代人

常に生活の苦痛と貧困に対峙していた世代から見ればもどかしさを拭いきれない

ガス、水、電気、灯(あかり)・・確かに何が欠落しても生活に支障が出ることは否めない

しかし 縄文人・古代人をこんな時に比較に持ち出せば非難されることは納得の上で その時代の人々は 果たして 苦難で不自由で寂しく悲しく貧しく不幸せな生活をしていたのだろうかと思いを馳せる

『地震カミナリ火事おやじ』

この言葉の奥には 現代人への厳しい警鐘が潜んでいるのではないか


 新年ギャラリー


➤ (外伝) 新年 ダイジェスト ✦ 点描

早や夏秋もいつしかに過ぎて時雨の冬近く- 小雪のころ

循環器科の診察の予定がカレンダーの骨組みを作っていく
そんな日々
その間に「ニュー・デューク・オールスターズ」の練習と京都日記が入り込む

早や夏秋もいつしかに過ぎて時雨の冬近く
この部分を引いて、歌舞伎の「雁金」という曲なのだと福永武彦の「忘却の河」で紹介する一節があって、それを読んだときから秋になるたびに、ここにただようもの悲しい風情と秘められた大人の妖しくも美しい惑いを感じるのです
誰が何をどうしようと時間は刻々と過ぎ去りやがてあの忌々しい時雨の冬がやってくるのだろうと思いながらもそこはかとなく冬を待つ私がいるのです

雁金の結びし蚊帳も昨日今日 残る暑さを忘れてし 肌に冷たき風たちて昼も音を鳴く蟋蟀に 哀れを添える秋の末 露の涙のこぼれ萩曇りがちなる空癖に 夕日の影の薄紅葉 思わぬ首尾にしっぽりと結びし夢も短夜に 覚めて恨みの明けの鐘 早や夏秋もいつしかに過ぎて時雨の冬近く 散るや木の葉のばらばらと 風に乱るる荻すすき草の主は誰ぞとも 名を白菊の咲き出でて 匂うこの家ぞ 知られける

(黙阿弥 「雁金」から)

飛び石連休であった
何もいつもと変わりなく時は過ぎる

今は減塩との闘い・・いや 闘っているつもりはないけど

✢ 書きかけ

池の底の月を笊で掬う ━ 赤目四十八瀧心中未遂

生島さん、あなたにはも早、小説を書く以外に生きる道はないんです。人は書くことによってしか沈めることが出来ないものがあるでしょう。

尤も小説を書くなんて事は、池の底の月を笊で掬うようなことですけどね

赤目四十八瀧心中未遂172ページ 山根

﹆﹅﹆

赤目四十八瀧心中未遂 (車谷長吉)を何度も読み返す

何度読んでも初めてのときのような感動が迫ってくる

(語る 人生の贈りもの)関野吉晴 を読みながら

旅や探検の醍醐味は、「気づき」。自分が普遍的だと思っていることが、実は他の人にとっては特殊なことだと分かる。そうすると物の見方が変わり、自分が変わることがおもしろいんです。エチオピアでは、ヤギやラクダを飼っている人に「もっと増えたらいいですね」と声をかけたら「いや、これを大切に育てるのが私たちの役目です」と言われた。足るを知る人たちなんですね

いう話を「旅や探検の醍醐味は「気づき」 -関野吉晴」の日記で書いた

11話では

《グレートジャーニーの旅では、出会いにもこだわった》

よく旅を布にたとえるのですが、移動を縦糸とすれば、寄り道して人と出会う横糸もなければ布にはならない。僕は横糸のほうが好きなんだけど、道草ばかり食っていると進まなくて、南米を出るまで2年かかりました(笑)

とも書いている


旅や探検の醍醐味は「気づき」 -  関野吉晴


旅や探検の醍醐味は、「気づき」。自分が普遍的だと思っていることが、実は他の人にとっては特殊なことだと分かる。そうすると物の見方が変わり、自分が変わることがおもしろいんです。

エチオピアでは、ヤギやラクダを飼っている人に「もっと増えたらいいですね」と声をかけたら「いや、これを大切に育てるのが私たちの役目です」と言われた。足るを知る人たちなんですね。いま、「好きな言葉を書いて」と言われると、自戒を込めて「ほどほどに」と書いています。


(語る 人生の贈りもの)関野吉晴:1 アマゾン通い50年、未完の旅



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季節の初めに考える ─  節分・立春篇 裏窓から

月の初めに考える - 待ちながら海路静まる果てを見る  節分号
待てば海路の日和あり

そこには確信がなくてはならない
数々の苦難を乗り越えて克服し手応えのある確信を努力の果てに掴んだ人に言えることである

二月から失業者となり求職者をスタートさせた
その経緯(いきさつ)を語ったところでそれほどに価値もなくことが裏返るわけでもない
静まっている海路を眺めながらさてこれからというところだ

田中角栄の語録をさらさらと読んでいるとこの人の人間味のある言葉に出会う
珠玉の名言は他にも数々あるが

「いやなことは、その日のうちに忘れろ。自分でどうにもならんのにクヨクヨするのは阿呆だ」

という言葉に目が止まった

(🌱断筆再開)

昨今は便利な言葉があって「パワハラ」と言い放ってそれで終わりだ
わたしが仕事を逃げ出した根源はそういったものによると周囲はいうのだが
確かにそれは事実かもしれないものの対策を講じる力があればもう二ヶ月でも生き延びることができたわけでそれが惜しくて仕方がないと残念がりつつ怒りを噴出させる人もいる

(書いておかねば記録に残らず忘れ去れてしまい全く何事があったのか不明となってしまうので簡単に書いておくが、多くは書いても不毛だろうと考えている)

つまりは、パワハラな上司に愛想をつかして二ヶ月後の職務期限を待たずに
私の仕事は後の人にお任せしますので明日から休みます
といって強引に拒否してしまったのだった
早い話が業務の指示体系に不満があり強引に辞任をした形になってしまった

○○

豆を撒かなくなった節分に恵方巻きを食べて孫たちと夜を過ごす

誰が考え出したのか恵方巻き今年は東北東だそうです

巻き寿司作りはツマのワザ寿司飯作りは僕のワザ

🌱

先日お隣さんのご主人が亡くなった
六十九歳だったという
死因はわからないが定年を迎えて家に篭るようになってから体調が悪かった様子が伺えた
施設に入っていたのかもしれない
コツコツと定年まで真面目に勤めてきた人であっただけにまだ十年という年月が過ぎていないのに気の毒な限りである

ご近所のその隣のご主人も一足早く亡くなっていて七十歳を超えたばかりの頃だったという
そのお向かいのご主人も定年を迎えて新しい仕事を始めて出張で飛び回っている姿が元気そうだったのに突然であった

何年かの間に三軒隣のご主人が七十歳という壁と闘ったのだった

次は私の番なのだがと考えると
アホみたいにカラダに鞭打って
ヒトの顔色見て
ココロの奥を推測して
波風を立てないように
丸くモノゴトを納めて
ときには褒めてもらって一喜一憂している
そんな人生を
第四コーナーを回ったのだから
拒否して
ゴールのテープの前でコケてもいいから
ピースで駆け抜けたい

🌱

そういえば

中学時代の運動会の障害物競走で
一位でゴール直前に到達し
クラスの面々にピースをして愛想を振りまいていたら
足がもつれて転倒してビリでゴールをしたことがあったのを思い出す

 

かけがえのない贈り物 芒種篇 - 裏窓から

ジャパネットたかた社長・高田明
「私は、商品はただの物じゃない、生き物だと思ってるんです」
「ビデオカメラを買ったら、お父さんやお母さんを撮ってください」
と高田社長は強くすすめる。
子どもは成長してから自分の昔のビデオなど大して見ない。
むしろ両親の若いころの映像こそがかけがえのない贈りものになる。
2011年8月6日朝日新聞土曜「be」で

🍀

芒種がすぎても「裏窓から」に着手してません
机に座っても考えをまとめようとせず怠けている
まとめたい考えも漠然としているし焦点が定まらないままだ

そんな折に
ジャパネットたかたの高田明(前社長)語録を思い出す
偶然にも高田さんがTVで語っている場面も見かけた

お母さんお父さんと高田さんは語録では言う
おじいちゃんとかおばあちゃんと子どもが写っているところでコメントをしていた

子どもは写真なんか見ないでしょ・・・とはっきりとした上で語っている

🌱

この言葉の意味をじっくり考えてみると良い

写真やビデオに自分の姿が映って残るというのは夢の出来事だった
昭和四十年頃までは、写真は白黒で貴重なものだった

人生の歴史というアルバムのページをパラパラとめくると
昭和五十年頃になると写真はカラーが当たり前の時代に変わる

今や、写真は身近なものである
けれどもその分アルバムに貼ったりすることは怠るようになる(軽率化)
写真に写る自分は、珍しくもなく驚きもない時代が到来する

昔でも
父母と撮った写真は残っている
けれども、父母が子どもの頃の写真となるととても貴重であった
持っている人はお金持ちだろうと思う

昔の人たちは
父母や祖父祖母の若い頃の写真が見たいとは考えなかった
何故ならそれはハナから叶わぬ夢の話だったからだ

一方で今の子たちは
おじいさんやおばあさんが写っていたらいいなあ
とも思わないだろう
何故なら、写す事か簡単な事だから

ゆえに
そんな白黒世代の人のなかには、
過去の中に消えていった歴史を惜しむ人や
少しでも残しておきたいと願う人たちが多い
消えてゆくものの価値に掛け替えのなさを切実に感じているからだろう

🌱

三十年という世代交代の周期は想定しなかったほどに大きな段差を生んでいる
その段差を隔てて現代社会の文化はある

この変化の様子をしっかりと捉えて分析できていることが重要なのだと感じている

時代につれて変化する人々の心のようすとか、その心の礎となるものは何か、 そしてその礎の上に築き上げるものはどのようなもか
現代社会の犯している過ちを発生源まで遡って伝えておくことがわたしたちの使命であろう

高田前社長の言葉はわかりやすい語録であるが、その背景にある厚みやと深さには計り知れないものがあると思う

寒中ど真ん中に考える

■ 巻頭言

小寒を過ぎてただいま寒中のど真ん中あたりを進行中です。

そんな日々を過ごしながら、日暮れが少しずつ遅くなり一日が長くなり始めてゆくのを感じると、真っ暗闇をさまようような不安ではなく随分と明るくウキウキな気持ちになれます。

そういった些細な節目をくり返しながら七十二候や二十四節季をひとつずつ指折り数えて春を待っています。
これが「春を待つ」人たちに通じ合う気持ちなのだろうと思いました。

山茶花が庭に咲いてそれと競うように水仙が咲きました。

結婚何周年かの記念にと、二三年前に植えたロウバイが、そろそろ今年あたりには咲いてくれないかと覗いてみましたら、黄色い小さな蕾がついています。
けれどもまだ、硬く強くしっかりと固まっているように見えました。
晩生種なのでしょうか。

これを書いてホッと一息つけば、やがて、大寒を迎えます。

大寒や転びて諸手つく悲しさ 西東三鬼

庭のロウバイ、節分のころには咲いて欲しいなと思っています。


■ あとがき

毎年一月号を書き始めるのは成人式が終わるころで、受験生がセンター試験に挑む時期でもあります。

どうしてこんな寒い時期でインフルエンザが流行するときに受験を集中させなくともいいのに……という親の温かい声が聞こえてきます。

けれどもモノは考えようで、これから大きな節目を何度も乗り越えることを考えると、荒波に立ち向かうための入門編かも知れません。

前途は未知であり多難を覚悟する人も多いかも知れませんが、人生で何度の嵐に遭遇するか、どれほど花を咲かせることができるかは、幾らかの幸運と不運、そして弛まぬ努力に依るところが大きいといえましょう。

花が咲きそろう春という季節は、ステージの終端ではなくスタートポイントでもあります。

福沢諭吉の言葉に

人生は芝居のごとし
上手な役者が乞食になることもあれば
大根役者が殿様になることもある
とかく、あまり人生を重く見ず
捨て身になって何事も一心になすべし

というのを見つけました。

この冬が大きな節目の人もそれほど大きくない節目の人も、気を緩めることなく試練を乗り越え春を迎えられますようにお祈りします。

成人式やセンター試験のニュースを見てそのようなことを感じながら新年が始まりました。

また一年間、よろしくお願い申し上げます。

熟熟:つくづく  年が暮れゆく前に考える - 小雪篇 (裏窓から)

「よく芸は盗むものだと云うがあれは嘘だ。盗む方にもキャリアが必要なんだ。最初は俺が教えた通り覚えればいい」

立川談志の語録にある。師匠は弟子にお辞儀の仕方から扇子の置き方まで、相手の進歩に合わせながら導いたという。

「あのなあ、師匠なんてものは、誉めてやるぐらいしか弟子にしてやれることはないのかもしれん」

「盗むほうにもキャリアが必要だ」という温かみがあってしっかりと相手を分析している眼が素晴らしい。この人の凄さの一面なのかもしれない。

🍀

「技は盗め」「黙って見て学べ」「一を聞いて十を知れ」「聞いてわからんなら見てもわからん」と一般的によく言われ、私の父もコツコツと農作業をする傍ら口癖のように私に呟くように話したものだ

それを否定する談志師匠の言葉である。

人を育てることの難しさは、この二つの正反対の言葉を融合させて同じ方向に力を向けるところにあるのだろう。

優しい心遣いと厳しい指導力があって実現できる。

🍀

私が社会人になる時にある人から助言として「自分が世に出て大物になるより人を育てて大物にしていけ」という言葉をもらった。

どこまで私がその人の助言に忠実だったかは反省するところも多いのだが、人が持っている力をしっかりと見つめて押したり引いたりしながら大きくするのだという心が言葉の奥には潜んでいる。

🍀

一子相伝。父は私に何かを伝えたかった。それはあまりにも多過ぎたのか、大き過ぎたのか、困難だったのか、私には一つとして受け継いだという納得の物がない。

年末に思う。

上手に藁縄を編み込んで草鞋を作ったり注連縄を作っている父の姿を思い出す。

正月前にはカゴに溢れるほどの出来上がった注連縄をどのようにしていたのか、友人知人に配って歩いたのかさえ知らないままで暮らしていた。

青く瑞々しく逞しい藁が注連縄に編み込まれてゆくのを黙って見ていたこともあったが、編み方の技を教えてくれと進み出たこともなければ、その注連縄を手にとってじっくりと眺めたこともなかった。

師は黙ってモノを作り言葉少なく人生を語った。

子どもに将来の生きかたを語ったに違いないが、言葉は消滅して何も残らない。

🍀

私は伝えることの難しさを熟熟とこの頃になって感じる。

語るのはうしろ姿だった。そして今はうしろ姿の面影だ。

藁をぐっと巻いて締め上げる時に彼は何を考えていたのだろうか。

何を伝えたかったのか。

年の暮れになるとその思いに迫られる。

正月があける大寒の時季を迎えると二十回目の命日を迎える。

(語る 人生の贈りもの)佐藤愛子

(語る 人生の贈りもの)佐藤愛子

半月ほど前から新聞連載に佐藤愛子さん「(語る 人生の贈りもの)佐藤愛子」が登場し、9月1日が、最終回・その15でした。

その14のときに

書き始めると、ハチローのエゴイズムの裏側に潜んでいるものが見えてきました。小説の基本は、人間について考えることです。そして、そのためには、さまざまな現象の下にあるものを見なければならない。

という部分がありました。

そしてさらに、その15では、

私の人生はつくづく怒濤(どとう)の年月だったと思います。しかし、その怒濤は自然に押し寄せてきたものではなく、人から与えられたものでもない。私自身の持ち前の無鉄砲でそうなったのだと気がつくと、よくぞ奔流に流されず溺れずにここまで生きてきたものだと、我ながら驚いてしまいます。とにもかくにも自分の好きなように力いっぱい生きてきました。決して楽しいといえる人生ではなかったけれど、恨みつらみはありません。何ごとも自分のせいだと思えば諦めもついて、「悪くなかった」と思えるのです。

とはじまっています。

二度目に離婚をした夫のことを回想し、思わずマーキングをしたのですが

(語る 人生の贈りもの)佐藤愛子:15 最後はわからずとも受け入れる

 最後の作品になると思い、88歳で長編小説『晩鐘』を書き始めました。小説で彼を書くことによって、私はその変貌(へんぼう)を理解しようと考えました。人間を書くということは現象を掘り下げること。一生懸命に掘れば現実生活で見えなかった真実が見えてくる。そう思って書いたのでした。

 しかし書き上げても何もわかりませんでした。わからないままでした。いくらかわかったことは、理解しようとする必要はない、ただ黙って「受け入れる」、それでいいということでした。

と書いている。
その後、ふらんす堂の yamaoka さんも同じ箇所を自分のブログに引用して「ただ黙って受け入れる」というタイトルの所感で「丹田にズンと来た」に書いた。

ぼくは嬉しくなってきました。

受け入れる、ということは人生の幾つもの節々でぼくたちに要求されてくることで、或るときは否応なしなこともあります。

受験においても、子育てにおいても、社会人になっても、結婚しても。
夫婦お互いに対してもそうでしょう。

受け入れることによって滲み上がってくる身体中の抹消神経を痺れさせるような「苦味(にがみ)」のようなものに、多くの人が共感するのではないでしょうか。

ほんま、ぼくもズンときました。
まだまだ若輩モノですけど。



(語る 人生の贈りもの)佐藤愛子:14
書き始めると、ハチローのエゴイズムの裏側に潜んでいるものが見えてきました。小説の基本は、人間について考えることです。そして、そのためには、さまざまな現象の下にあるものを見なければならない。

(語る 人生の贈りもの)佐藤愛子:15
最後の作品になると思い、88歳で長編小説『晩鐘』を書き始めました。小説で彼を書くことによって、私はその変貌(へんぼう)を理解しようと考えました。人間を書くということは現象を掘り下げること。一生懸命に掘れば現実生活で見えなかった真実が見えてくる。そう思って書いたのでした。

しかし書き上げても何もわかりませんでした。わからないままでした。いくらかわかったことは、理解しようとする必要はない、ただ黙って「受け入れる」、それでいいということでした。

この世をいとおしい、去りとうない、と思うて逝かねば、残された者が行き暮れよう 小暑篇 【裏窓から】

もう三年ちかくもむかしのことになるのだと考えれば
感慨深く思うと同時に三年間とはいとも儚いときの流れだと痛み入る

二十年ちかくまえに父を失い
何が切っ掛けでというわけでもなく
「孔子」(井上靖)を座右に置くようになる

そこから何を知り得たわけでもなく
わけをのみ込んだわけでもなかろうが
「逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず」
しみじみと噛み締めること常々とし
残された人生を
如何に悔いなく生きるべきかと
考え続けてきた

自分の人生を振り返っては
しくじったことあるいはなし遂げことなどを顧みて
二度と苦汁の思いを噛むようなことは避けて生きるべきなのだ
と自分に言い聞かせてきた

たとえ我に失策がなかろうとも反省はせねばならない

何事においても
それは人生の設計にでも例外なく
物事の成就は戦術よりも戦略が大事だと言い続けてきたし
大局を見下ろす俯瞰的な視線が欠かせないと
思い続けて来た

そう言いながらのこの三年
甘くはなかった

🍀

およそ三年まえ
平成26年10月30日 木曜日のわたしの日記の中に
葉室麟「蜩ノ記」の読後感想を書き
物語からある「言葉」を抜き出している

秋谷と慶泉和尚との会話から
─ もはや、この世に未練はござりません
─ まだ覚悟が足らぬようじゃ。未練がないと申すは、この世に残る者の心を気遣うてはおらぬと言っておるに等しい。この世をいとおしい、去りとうない、と思うて逝かねば、残された者が行き暮れよう

その語録を書きとめた日記を
ぱらりぱらりと読む

🍀

歳月人を待たず

わたしたちは老いてしまう時間は早いものだから
一時たりとも時を無駄にせず弛まぬ努力を怠ってはいけない

という教えを胸にしてきた

若くして病魔に屈せざるをえなかった
小林麻央さん死亡がニュースで流れて
残された小さな子どもたちへの思いも伝えられた
彼女を悼む大勢の人々が悔しい思いでコメントを寄せているなかに
中山祐次郎さんという医者の記事があった

それは
「いつ死んでも後悔するように生きる」
として
突然死を迎えることになったときに
もし後悔しないなら
それはどこかが本気ではないのだという

自分の使命に向かい一生懸命
目いっぱい熱狂して夢中で取り組んでいたら
それが中断したら
無念で無念でならないはずだという

命を賭けて生きていき
死ぬ間際までも
目標に向かい続けておれば
無念であるはずだ

人生はそのように生きることが大切だといっている

🍀

わたしの母は八十六歳であるものの
現在も直接死と向かいあうような病気はなく
理系のわたしよりも数字の計算は速く
記憶力に衰えもないようだ

何も思い残すことはないようなことをたびたび話しながらも
死ぬ間際は一週間ほどは寝込んでおりたいとまで言い
その一週間に数々の人に会って最期の挨拶を交わしたいと願っているらしい

息子なので
わかるような気がすることがある

あらゆることを何ひとつ胸に秘めることなく
何から何までを日常の家族の団らんで話してきたわたしたち家族であるがゆえに
言葉にはしなくとも伝わってくるのだ

母は
「この世をいとおしい、去りとうない」
とは一切言わない

しかし、実は思うているのではないか
そんな予感がするのである

「この世をいとおしい、去りとうない、と思うて逝かねば、残された者が行き暮れよう」
という小説の中の言葉が
やけに重い

イチロー、3000安打達成の会見全文 「これからは感情を少しだけ見せられるように」

マーリンズのイチロー外野手が7日(日本時間8日)の敵地ロッキーズ戦でメジャー史上30人目の3000安打を達成した。試合後には記者会見を行い、穏やかな表情で偉業について振り返った。


史上30人目の偉業達成、イチローが試合後の会見で語ったこととは…

マーリンズのイチロー外野手が7日(日本時間8日)の敵地ロッキーズ戦でメジャー史上30人目の3000安打を達成した。試合後には記者会見を行い、穏やかな表情で偉業について振り返った。

3000安打到達までの苦悩や、恩師の故・仰木彬元オリックス監督への思い、そしてチームメートやファンへの感謝の気持ち。イチローは3000安打という金字塔に到達して何を感じたのか。

――3000安打を達成した率直な気持ちから。

「この2週間強、ずいぶん犬みたいに年取ったんじゃないかと思うんですけど、あんなに達成した瞬間にチームメートたちが喜んでくれて、ファンの人たちが喜んでくれた。僕にとって3000という数字よりも僕が何かをすることで僕以外の人たちが喜んくれることが、今の僕にとって何より大事なことだということを再認識した瞬間でした」

――高く上がった打球。本塁打を狙ったのか?

「いやいや、全く狙ってないですよ。そりゃイメージでは、ホームランになったらいいなとかね、考えますけど、そんなに甘いもんではないというのも分かっていますし、ただ打球が上がった瞬間は越えてほしいと思いました。ただ、結果的には、三塁打で決めたというのはポール・モリターと僕ということだったので、結果的にはそのほうが良かったなというふうに思いました」

――116本目の三塁打で、福本豊さんの日本記録を抜く一打となった。

「そうでしたか。あぁ。まぁ福本さんですからね。ごめんなさい、としか言えないですよ」

「2年くらい遅いですよね。感触としては。ずいぶん時間がかかったな」

――三塁にベンチからチームメートが少しずつ近づいていった。どんな気持ちだったのか?

「どういう形になるのかっていうのは僕にも全く想像できなかったわけですから、おそらく一塁の上で達成するなと。達成するなら多分シングルヒットだろうなという風に確率としては思っていたので、チームメートに労力をかけなくてよかったなと思います」

――27歳でのデビューは3000安打到達者でも最も遅い。そこからここにたどり着いたことについては?

「そのことはそんなに僕の中では大きなことではないんですけれども、2年くらい遅いですよね。感触としては。ずいぶん時間がかかったなという感触です」

――2998安打になってから、9日間進められない状況。でも、いつも敵地でも素晴らしい迎えられ方をした。どんな気持ちで毎日を過ごしていたのか?

「セントルイスから球場の雰囲気、ファンの人たちが特別な空気を作ってくれて迎えてくれたことから始まったんですけど、ずいぶん長い時間、まぁホームで決めるというのがなんとなく人が描いたイメージだったと思うんですけど、なかなかそんなうまくいくわけもなく、それも分かっていたことですし。でも、これだけ長い時間、特別な時間を僕にプレゼントしてくれたっていう風に考えれば、この使われ方もよかったなというふうに今は思います」

――その時はそういう風に思えないこともあったと思いますが。

「人に会いたくない時間もたくさんありましたね。誰にも会いたくない、しゃべりたくない。僕はこれまで自分の感情をなるべく殺してプレーをしてきたつもりなんですけども、なかなかそれもうまく行かずという、という苦しい時間でしたね」

「3000を打ってから思い出したことは、このきっかけを作ってくれた仰木監督」

――イチローさんのヒットには全て意味がある。ただ打ってきただけでないと感じているが、そのことについては?

「ただバットを振って……まぁバットを振ること、それ以外もそうですよね。走ること、投げること。全てがそうですけれども、ただそれをして3000本はおそらく無理だと思いますね。瞬間的に成果を出すことはそれでも出来る可能性はありますけども、それなりに長い時間、数字を残そうと思えば、当然、脳みそを使わなくてはいけない。まぁ使いすぎて疲れたり、考えてない人にあっさりやられることもたくさんあるんですけど、でも、それなりに自分なりに説明はできるプレーをしたいというのは僕の根底にありますから、それを見ている人に感じていただけるなら、とても幸せですね」

――イチローさんはよく感謝という言葉を使います。この3000本を打ったこの日に、感謝という言葉をどなたに伝えたいか?

「それはありきたりになってしまいますよね。これだけ長い時間いろんな場所から集まってくれて、それはもう今さら言うまでもないですよね。でも、3000を打ってから思い出したことは、このきっかけを作ってくれた仰木監督ですね。神戸で2000年の秋に、お酒の力を使ってですね、僕が口説いたんですけど、その仰木さんの決断がなければ何も始まらなかったことなので、そのことは頭に浮かびました」

――イチローさんほど野球を好きな選手はいないんじゃないかと感じる。どうしてそんなに野球を好きでいられるのか。

「そんなこと僕に聞かれても困りますけどねぇ。どうでしょう……うまくいかないことが多いからじゃないですか。これはもし成功率が7割を超えなくてはいけない競技であったら、辛いと思いますね。3割で良しとされる技術なんで、まぁ打つことに関しては。これはもういくらでも自分の『志』と言ったらちょっと重いですけども、それさえあればその気持ちが失われることはないような気がしますけどね」

「もう少し感情を無にしてきたところを少しだけ見せられるようになったらいいな」

――3000安打は通過点。これから何を大事にしながら野球を続けていくのか?

「けっこうしんどかったですからね。特にこの何日かは。その僕の中でまだまだこれから、という気持ちがあったら、それは残念なことだと思うんですよね。まぁこの先は、子供の時のようにとは、そこまではもちろん行くことは出来ない。プロである以上。それは不可能なことですけども、その時の立場というのも影響しますけども。今まぁ4番目の外野手というポジションなので。もう少し感情を無にしてきたところをなるべく嬉しかったらそれなりの感情、悔しかったら悔しい感情を少しだけ見せられるようになったらいいなというふうに思います」

――アメリカでは3000安打は偉大なレジェンドの仲間入りを意味する……。

「レジェンドって何か変な感じですよね。よく最近聞きますけどね。レジェンドって何か馬鹿にされたみたいでね」

――イチロー選手にとって3000本達成はどういう意味を持つものなのか?

「これはみなさんもそうですけど、これだけたくさんの経費を使っていただいて、ここまで引っ張ってしまったわけですから、本当に申し訳なく思っていますよ。そりゃもうファンの方たちの中にもたくさんいたでしょうし。そのことから開放された思いの方が……思いのほうがとは言わないですけど、そのこともたいへん大きなことですね。僕の中では。普段そこにあった空気がなんとなく乱れていたっていうのも感じていましたし、明日から平穏な日々が戻ることを望んでいます」

―― 一般の人間には達成感が今後の目標に向けての邪魔になる。3000本の達成感をどうやって消化して次の目標に進んでいくのか?

「え、達成感って感じてしまうと前に進めないんですか。そこが僕にはそもそも疑問ですけど、達成感とか満足感っていうのは僕は味わえば味わうほど前に進めると思っているので、小さなことでも満足感、満足することっていうのはすごく大事なことだと思うんですよね。だから、僕は今日のこの瞬間とても満足ですし、それは味わうとまた次へのやる気、モチベーションが生まれてくると僕はこれまでの経験上信じているので、これからもそうでありたいと思っています」

――4年後の東京オリンピックに野球が復活したが、野球人としてどう思うか?

「どういう形で復活するのか、ということによるんじゃないですか。オリンピックは、これは僕の意見っていうことですけど、昔から変わらないことですね。アマチュアの最高の大会であるべきだ、っていうふうに僕は思っているので。WBCという大会が世界大会としてもう一つあるんですけど、これはプロがベストのチームですね、プロを含んだベストのチームで戦うべきっていうのが僕の考え方ですね。オリンピックはやっぱりアマチュアの最高の大会であってほしいなっていうふうに思います」

「次こういう状況が生まれるとしたら、4000(安打)しかないですからね」

――到達までに苦しんだ印象があるが、それは何が影響したか?

「代打じゃないですか? 代打。それはしんどいですよ。ただでさえ代打ってしんどいですからね。この状況で代打で結果が出ないっていうのは、ダメージ大きいですよ」

――代打で結果が出ないということは、精神的にダメージが倍加するか?

「倍かどうかわからないですけど、重いですね。それなりに僕も、切ったら赤い血が流れますから。緑の血が流れてる人間ではないですから。感情ももちろんあるし、しんどいですよ」

――3000安打は通過点だと思うが……。

「僕は通過点とは言ってないですよ。ゴールとも言ってないけど」

――この次はどういったことをゴールに置いて進んでいくか?

「どうかなあ? 次こういう状況が生まれるとしたら、4000(安打)しかないですからね。そこまではなかなかですから。まあでも200本を5年やればね。なっちゃいますからね。どうっすかねえ? 3000っていうとみんな、ホール・オブ・フェイム(野球殿堂)とつなげることが多いと思うんですけども、僕にとっては将来そんな、いつの日のことか分からないことよりも、まあ明日の試合に出たいっていうことが大事なことだということですね」

――昨年と今年と残っている数字に違いがあると思うが、オフの期間にどういったことを変えたのか?

「わかりやすい数字の目標があったので、それはいつの段階でかっていうのはわからないですけども、今シーズン中にやりたいというふうには思ってました。あのローズおじさんの記録と、この3000っていうのはわかりやすい数字だったので。でも、春の段階ではどういう起用のされ方か、まったくわからない状況でしたから。ざっくりとそういうものがあったという程度ですね」

「ヒットをがむしゃらに打とうとすることがいけないことなんじゃないかって混乱した時期があった」

――技術の見直しなどということも?

「技術は毎年、特に打つことに関しては変えることはあって、それがうまくいくこともあるし、そうじゃないこともあるし。すごく繊細な技術ですから、打撃というのは。ただ、例えば走ることとか投げることっていうのはわかりやすく計ることができますよね。それを見た時に、例えば走ることとかっていうのは明らかに速くなってしまっているので、その諦めることはできないですよね。これはスピードも落ちてしまったとかっていうのなら、なんとなくそれなりにあの人も時間が経ったんだなとかっていう、それはわからなくもないですけど。残念ながらスピードは上がってしまっているので、打つことだけが能力が落ちるっていうことも考えにくいというふうに僕の中ではつなげていましたけどね」

――肉体的な部分が変わらないとして、年齢を重ねることで精神的な部分と一致することも多くなってくると思うが?

「若くないとは言ってないですけどね。今も」

――その状況が一致してくるということに関してはどう思うか?

「一致してることもあるし、してないことも多いですよ。だってしてないから、こんなに経費を使わせてしまったわけですからね」

――16年間、これだけの変化があった中で、その中でこれだけは変えなかったという軸となるものはなんだったのか?

「ある時から、先ほども言いましたけど、感情を殺すことですね。このことはずっと続けてきたつもりです。今日、達成の瞬間もすごくうれしかったんですけど、途中ヒットをがむしゃらに打とうとすることがいけないことなんじゃないかって僕は混乱した時期があったんですよね。そのことを思うと、今日のこの瞬間、当たり前のことなんですけど、いい結果を出そうとすることがみんなも当たり前のように受け入れてくれていることが、こんなことが特別に感じることはおかしいと思うんですけど、僕はそう思いました」

――しんどいという中で、久しぶりの先発を告げられた時の気持ちは?

「昨日のゲームの直後ですね。伝えられたのは。ただ何番かは伝えられなかったので、そこも教えてよと思いました」

――そのことを伝えられて。

「ひょっとしたら1番じゃないかなって思ってたんですよね。ディートリックが昨日途中で出ましたけど、休んでいたので、ディー(ゴードン)を休ませてひょっとしたら僕が1番、そんな粋なことをやってくれるのかなと思ったら、そうではなくて。まあ粋という概念がないですからね。それはちょっと期待しすぎたということでしょ」

達成後の打席は「できればホームランを打とうと思いました」

――モリター監督が3000安打に近づくにつれて今までとは違う重圧を感じて、その先にはとてつもない快感があったと話していたが、これまで達成してきた記録と比べて違うものは感じたか?

「それはあるんですけど、そもそも毎日先発で出て、5打席、毎日立った中で、じゃあ10試合結果が出ないことと、その代打で1打席ずつ、同じ10日間でもまったく意味が違うことなので、実はそのこれくらいのことはあるよねっていう感じだったんですよね。僕の中では。まあしんどいですけど。当然、普段とは違う精神状態に追い込まれて、勝手に自分で追い込むんですけど、追い込んだ中で結果を出すことが難しいのはわかっていますから、まあ当たり前のことが起きた、考えられることが起きたということなんですよね。明日からのことわからないです。ただ、そうなるんだろうという推測はしますけど」

――今日の試合で感情の振れ幅というのは大きかったと思うが、一番振れた瞬間というのはどういうものだったか。

「この国には、さっきも言いましたけど、粋という概念がない中で、でも察するという概念はあるんだなというふうに感じていて、みんな察してくれてるんだって。1打席、2打席、3打席と終わった時に誰も何も言わないんですよ。それがうれしかったですね。みんな口にしなくても、言葉にしなくてみんなわかってくれてる。だからこそ結果を出したいという気持ちがもっと強くなるし、まあでも誰も声をかけなかったというのは本当にうれしかったです。だからまあ、あのヒットが出た時は、当然そのギャップがあるわけですから、みんなのあの顔を見た時はすごく安心しました」

――これまで記録を達成してきた時は、必ずその試合か次の打席で次の1本というのを放ってきたと思うが、3000安打を達成した次の打席の気持ちというのはどういうものだったのか?

「仰るとおりです。打ちにいきました。できればホームランを打とうと思いました。(カウント)3-1から狙いにいきました。で、3-2のカウントになって、おそらく3000を達成していなければ、体が反応して打ちにいったと思います。それで凡打になったと思います。ファウルもしくは凡打です。あれを打ちにいくのをやめたことっていうのは、3000を打ったことによってそうさせたんだと言えると思います」

――3001本目が持ち越されたが、それはマイアミのファンの前で打つことになるが、そこについては?

「それは3001本も3002本もそうなんですけど、これはもし今日3001本を打ったとしても、3002本目はそうなるわけで、そこにあまり大きな意味はないかもしれないですね。その数に」

――マイアミのファンに向けたメッセージと。

「次のヒットがそういうメッセージであるということは想像していますけれども、それもごくごく普通のことといえば普通のことですよね。ロードで達成して、ホームに帰って。次どういう起用のされ方かわからないですけど、次に立つ1打席というのはまた違う意味で特別なものになるというふうに想像はしています」

【了】

ピンチはチャンス

ピンチはチャンスだ、って誰かがいっていた。何かで読んだんだったか。だとしたら、たぶん、私は今、チャンスの近くにいるんだろう。もしかしたら、目の前にいるのかもしれない。ピンチには気づくのに、チャンスには気づかないなんて不公平だと思う。どうせピンチに気づいたって打てる手などない。黙ってピンチに打たれるだけなのだ。チャンスに打つ手がないのも同じかもしれないけど、気づくことができたら楽しい気分が身体じゅうをぽかぽか温めてくれるはずだ。


いろんなことを誰かが決めている。算数の式では、足し算と引き算よりも掛け算と割り算を先にやる。加減乗除の法則を知ったときのあの驚き。英語でhaveは「持っている」なのにtoをつけると「しなければならない」に変わると教えられたときもうろたえた。世の中は後出しジャンケンに満ちている。


宮下奈都 窓の向こうのガーシュウィン
切り抜いてきたものが二つあったのでここに残しておきます

自分のなかにある自分がいちばん知りたくないこと

「小説というのは、自分のなかにある自分がいちばん知りたくないことを、取り出そうとする作業だと思うんだよね。それをやろうという奮闘の跡が一行でも見えれば、それでいい」
@arereno

(快感語録・久々)朝日から
posted at 11:02:41

人生は紙飛行機━初心とは

ぼんやりと毎日を過ごしていても
自然に勝手に耳に飛び込んでくる音楽があって
歌詞が所々聞き取れてそれがいつも
「人生は紙飛行機…」
と歌っているのだった

「距離を競うよりどう飛んだかどこを飛んだのか」
というふうに歌詞は続いていく
調べてみると
そのあたりが一番大事な部分だったらしく
ネットでチェックをすると
それほど外れてはなさそうだった

音楽は非常に単調で
30年ほど昔の流行ソングのような
哀愁を伴ったリズムとハーモニーだ
今の時代の若者を中心としたリスナーに受けるとともに
この歌を主題歌にしたドラマの視聴者世代にも
支持されそうな万能な音楽である

そのリズムに載せて「人生は紙飛行機」とくると
グサリとやられてしまう人も多かろう


初心を忘れずに
意思を持って公務に着いたのですから、公僕としての責任感を感じ、また、使命感を持ち充実感も感じて日々職務に服していることと思います。
職務経験は、まだまだ未熟でありますが、今後も努力を惜しまず、強い意思を持って業務を推進できるような人を目指すことが大切です。
社会においても家庭においても充実した日々を達成するために、初心を忘れずに誠意と真剣味を持ってあらゆることに向かっていってください。2012年4月 2日 (月曜日) 【語録選】


わたしは上述のような言葉を3年目になるムスメに贈った。

当時ムスメが赴任した部署の上司(署長)だった方から家族にひとこと書いてもらって提出するように指示があったのだったか。

ここで書いた「初心」というモノはとても大事だ、とわたしは思っている。
その「心」のなかには、将来を見据えた夢と展望と数々の計画と1つの像(自分の姿)がある。
さらにそれを推進する戦略と闘志とパワーも備えている。

そうでなくては「初心」とは呼べない。

確かに紙飛行機のようなものであるのかもしれないが、操縦桿はしっかりあるしパイロットは自分だということをしっかりと心得ておくことも不可欠である。

本心

そう、それでよろしいんや。本心いうもんは、人に明かすもんやあらしません。
(李歐 159ページ)


一彰はそれ以深く考えるの放棄したが、所詮、理性で突き詰めるに足るだけの意味はない。 突発的な歓喜の発熱だと思ったからだった。 熱である限りそのうち冷めるだろうし、熱が下がらなければ死ぬだけだった。
(李歐 180ページ)

本心  at  – Walk Don’t Run – から

かけがえのない贈りもの  ジャパネットたかた社長・高田明

語録から

朝日新聞の土曜版にひとつの連載がある。 最近の記事で思わずスクラップしたものがあったのでここに残しておく。

「私は、商品はただの物じゃない、生き物だと思ってるんです」と高田はいう。 例えば「ビデオカメラを買ったら、お父さんやお母さんを撮ってください」と強くすすめる。 子どもは成長してから自分の昔のビデオなど大して見ない。 むしろ両親の若いころの映像こそがかけがえのない贈りものになる。

ジャパネットたかた社長・高田明 2011年8月6日付 朝日新聞土曜「be」

子どもの写真をブログやFACEBOOK、instagram にのせている人を見るたびに高田社長(元社長)の言葉を思い出す

ついついそのことを受け売りで伝えようとしてしまう。 だが「子どもを撮るときには自分も一緒に撮りなさい」と言われてもその人も困るだろう。 「何を言ってるのよ 子どもが可愛いに決まっているじゃないの」と理解をしてもらえないときもあろう。 「そうは言っても子どもが可愛いでしょ」とさらりと聞き流してしまう人もあると思う

わたしも子どもと一緒に何か ─ 例えばブランコをするとかボール遊びをするとか公園広場を散策するとか ─ の動画はほとんど残っていない

高田社長のこの言葉を心から理解して、そのあとからじわっと、そのときの撮影をセッティングしてくれる人への感謝のような気持ちが湧いてくる、そういう人がいればその人は本当に自分の人生に感謝できる人ではないかと思う