(号外)九月初旬 写真日記

九月初旬 号外

思いついたら
書き足してます

  • シャインマスカットを直売所に買いに出かけた
  • 丸亀製麺でうどんを食べた(ちょっと贅沢なうどん、鬼おろし)
  • ステーキ皿を買った
  • かき氷を食べにコメダに
  • 鰻を食べに大口屋へ
  • サンマ1号
  • いとう料理店
  • ラーメンあれこれ

母の日が近づいている - 立夏篇 裏窓から

夏が来る

母の日

不定期に、およそ週に一度程度で母の顔を見にいく
会うたびに「もう今年の夏が最後やろう」と
その季節ごとにそんなことを繰り返している

母の呟きを聞いているほうは

『そうかもしれない』
『そうであっても仕方がない』
『それが幸せなのかもしれない』

他にも 次々と 思いは浮かんできては
それほど激しく心を打つ願いでもないのかもしれない

そう言いながらも、覚悟はしていながらも
その時が来たら一大事であろう
冷静かどうかも予測はつかない

九十二歳
人それぞれに
長い人もあれば あっという間の人もあろう

母の日といっても 何も考えていない

思えば 父の日や誕生日などのお祝いを 父には一度も贈らぬままであった
母には 後半(父が逝ってから)で 何度か 贈り物をした

田植えが終わったという知らせを聞いて 小さな日本酒(五合)を仏壇に供えてくる
夜に弟から「そんな気を使わぬように」と電話があった
田植え「ご苦労さま」のお返しでもあるのだが 二十五年以上も過ぎながら 父には何もしないままだったことが気にかかっている

母は もう 気兼はもう いいだろう。あれこれ説明もないのが一番スッキリしている

節目を超えるごとに自分の足跡を振り返ることがある

人生の転機を思い起こして あの時の自分の判断を考察して
選択した進路やその出来事によっては ⭕️❌をつけてみるもある

何を今更そんなこと 考えたところで 何も始まらない・・という気持ちもある

🍅

言葉

大きく私の生涯に影響を与えてきた(人生を揺るがした)『言葉』は 何だったのだろうか・・それを考えて時間を手探りしながら巻き戻している

必ず 私の進む道、生きる道を導いてくれた『人』や『言葉』がきっとある
それを 考え続けて『長考』に入っている

(続・考え中)

考え中と書いたものの十日を過ぎても 次々とは何も浮かんでこない

もう、むかしを思い出すのはやめて 新しいことを考えようとしている
しかし 刺激は少ないから 思うようにいかない

思うように進まない
これが 高齢の現象なのだろう

🍅 

三月のはじめに思う

春を迎える

﹅﹆﹅

「微かな濃淡」てのは素敵な言い方です。

モノにはエネルギーってのがあって、赤色ひとつとっても濃度[concentration](赤み度)と振動数[frequency]を持っている。この周波数が大きな意味を持っていると思うのです。まあ、言ってみれば揺れているわけです。

あらゆるものにおいて、この1つの状態を表すためにはこの周波数というパラメータが必要で、モノの状態は「物」でも「精神」でも揺らいでいるのが自然ということです。

銀マド

ふとブログを読み返して見つけたのでメモしておく

﹅﹆﹅

鰻が食べたくて出かけた

幸運にも早春の麗らかな日和になった

コロナ騒ぎもどうなったのだろうというほどに人出が多く お昼どきの鰻屋さんでは 何組も待つことになる

私よりも歳上らしい地元のみなさんや高齢者の夫婦が目につく

二、三人で鰻を食べている

﹅﹆﹅

前回に食べに行った鰻屋さんには今回は行かず 隣町のお手頃価格の鰻屋さんにした
ご飯が丼にたっぷりと盛ってある
「大盛」とはどこにも書いてないけれども 「普通盛り」よりはご飯は多めだろう

この地方で鰻を食べると ご飯はどこに店でも多めになっているような気がする
ご飯をたくさん食べる地域文化のようなものを受けてのことだろうか

伊勢平野の米は 旨い

言い残したい事は何か について考える ー 九月尽 (雷山無言) 

石原慎太郎の「私」という男の生涯 を読んだが、期待ほどでもなく詰まらなかった
一息ついて考えて こんなもんやろと一つの着地点をみつけたよう気持ちが残っている

とても素晴らしい自伝だろうと 期待した こちらが悪い
大きな偉業を残し数々の発言をしてきた人で、著作品も漏れなく面白かった
だが、これは単なる一人の人間の女性に纏わる話でしかすぎない

それなりの人物が書くのだから 作品として立派なものにできあがることは理解できる
しかし 残念なことに 一庶民からしたら この人の一番魅力的で面白いところには触れていないし 出ても来ない

政治思想は全く逆の人だった
だが 言動には注目できるものが多い
結果も評価できるし 人物として好感度もある

だが、この程度のことを生きている間に書き残しておこうとするところは 所詮、ただの凡人であった
やってきたことは 肩で風を切って颯爽としていただけに 尻すぼみの作品になってしまった

勢いを失速した感があり 最後に書き残したことは 面白味が全くなかった
作品としては 誰でも書けるレベルであるし 内容にも惹きつけるものがなかった
政治家としての生涯を訥々と語るようなものを期待したのがいけなかった


かつて
生きている間に葬儀を済ませて 弔辞を自分で書いて読み上げたらおもしろかろうと言い出したことがある

しかし 石原慎太郎の生前に書いた自伝を読んで 自分の考えを少し訂正したほうが良いと思い直した

死んだら言いたいことを伝えられなくなると 或る種の不安のようなものを抱いたからだろう

皆さんに聞いておいて欲しいことを選りすぐって伝えたいと考えたわけだ

ところが よく考えると そんなものなどが滅多やたらにあるわけではない

死んだら消滅し 残された人が掘り起こしてくれれば幸せであり 埋もれたままならその程度でいいのだ と思い直そうとしている

確かに言いたことを残せず あの男はあの時何を言いたかったのか聞いてみたいと思う事がある

だが よくよく考えれば消滅してゆく者に言葉は不要だ

不思議なままのものが残っていたほうが良さそうだと思い直している

九月のはじめに - 幸福への道のり 白露篇 裏窓から

白露を迎える

容赦なく大きな嵐が近づいてくる九月のはじまりとなった
台風9号10号が発生している
九州地方の西の海上をゆっくりと北上してゆく

今年の夏は、「命に危険を及ぼす猛暑」という警報が出るようになった
天気予報や警報を出す傍らで生命の心配をする時代となった
「果たして」「そもそも」で始まる疑問をこれまでにも投げ続けてきた
だが「警報」の表現について考察したことはなかったかもしれない

太陽の立場から言えば
歴史的太古から何ら変化なく着々と地面を照らし続けている
放出するエネルギーが増加したわけでもない
太陽系の中での物理現象を乱すことが発生したわけでもない

したがって
受け取る側が何か失敗をするか不手際をして
想定外の発熱が発生しているのではないか
ということになる
まさにその通りだ

そこでよく考えると
人類は便利なものをいくつも発明すると同時に
必ずマイナスな物をおまけに産んでおきながら目をつむってきたのだ

核爆弾や原子力発電が最たるもので
他にも自動車は便利で快適であるが排気ガスは有害である

電気エネルギーは優れた発明であるものの
今ほどに地球温暖化を招くようになっては昔に戻らねばならない
都市開発についても集中豪雨に災害が付き物になって来ては
都市設計の原点に戻る必要があろう
地球温暖化だけでもないのだ



台風10号は七日のお昼の間に九州の西地域を北へと駆け抜けた

夏が来たら
この思いがけない長期の休養時間に人生を振り返ってみよう
と考えていたのだが
一向にまとまらないままで七月になり
八月が終わって九月を迎えてゆく


先日、久しぶりに歯の治療で稲森先生に会い
挨拶しながら
「お父さんに似てきたなあ」
と言われた

顔はそれほど似ていないと家族が言うので
おそらく後ろ姿を見て先生は言うてくださったのだろう

六十六歳で逝った父にあと三年余りと迫る私である
大勢の人に「父に似ている」と言われることを振り返りながら
私のようにその頃の日々を暮らしていたわけでもなかっただろう父には
人生に悔いはなかったのだろうかと
今更となっては問うてみることもできない不要なことを想像をしてしまうのであった


あと三年生きたら祖父や父親と同じステージに立てる
その先祖の人たちのためにもまだもう少し生き永らえなくてはならない

後世の人に幸福の道程の案内を残さねばならない

夏の終わりに考える  白露篇 (裏窓から)

夏の終わりに考える

🌱

受け継ぐ
語らう
耳を傾ける

これまで受け継ぐというキーワードで思いつくことを書いてきた

そのきっかけになったことがある
最近では新聞や雑誌でもテーマにすることが多い
葬儀やお墓のことが引き金だった

身近でも自分が当人になることが一番に確率高そうだから
一般論としてその考えを整理しておかねばいけないだろう

残された人はご先祖や親のことなどを
昔ほどにも大事にしない社会に変化してきている

死んだら終わりという思想もあろう
魂や霊など現代物理学では今のところ証明もできない
墓などを作れば始末に困るだろう
参らされる人の身にもならねばならない
死んであの世でもう一度再会する保証などない

あの世のことを言い始めたら
二十一世紀の人類(ヒト)のおおよそが
あの世の実在性など認めないだろう

科学技術の進歩や情報化社会が社会通年を大きく変化させてきた

脳みそであるとか
そのずっと奥に潜んでいるヒトの心の構え方や拠り所までもを
変化させてしまった

いや
大昔からこういったことは変化しているのだけど
その速さを大きく加速させたと言った方が正しい

🌱

今の時代に亡くなった人の命を弔うモノは
間違いなく五百年や千年の後になったら形として何一つ残っていないだろう

形を残すことが人間の矜持のように大切だった歴史上の時代は
もうすっかりと消え失せているように思う

心は荒れ果てたわけでもないが
命が消えたらそこでお終いで
先祖を弔う、供養する、祀るなどという式は
確実に消滅してゆくだろう

もはやその準備は整いつつあるのではないか

🌱

墓は作らない
骨は散骨する
葬式は行わない

そういったことに異論は無い
だがしかし、その先が大切なのだ

血脈を辿る先祖がどんな偉大な
または愚かな歴史を刻んできたのか

現在の自分の中に流れる血潮の色は誰が作ったのか

それを忘れたり、軽んじたり
将又
その偉大さや足跡を理解できないままで受け継ぐことを怠ってはいけない

墓が、形を変えて消滅しても
昔から果たしてきた墓の果たして来た役割は譲れない
大切なことはそのあたりにある

どこまで心を伝えることができるのだろうか

🌱

新しい時代には新しい考えが存在する
それが進化したものであるとは断言できないし、しない

時代はスパイラルに進化もすれば逆戻りもする
情報化が大きく進化したのは確かだが
文明が進化したとは言い切れない

だから
その点を現代から未来へと生きていく人へ伝えたい

ただ
未来にある幸せが
ほんとうは不幸せであるのかもしれないのだが
それは誰にも判定できない、断定もできない

壇蜜日記3 あれこれ うなぎ

13日 壇蜜
13日 壇蜜


テーマ:
好きな食べ物紹介で
「うなぎ」と書いていた人があって
それが誰かを思い出せずに
モヤモヤしていたら
今朝、壇蜜さんの日記を読んでいて
ぱらりと裏表紙に「うなぎ」とあるのを見つけた

そうだ、これを読んでからずっと頭の片隅に
「うなぎ」が好きな人の人物像が残っていたのだ
と気づいたのでした

うなぎが好きだとプロフィールに書いている人を
見かけるのは意外と少ないにもかかわらず
本当は好物にしているけど「うなぎ」とは
書いていない人も多いのではないかと思う

そうこう考えていると、
好物も含めて
ちょっと変わった人なのかもしれない
と想像を巡らせてしまい
差し向かいでうなぎを食べつつ
少しおしゃべりなどができたら楽しかろうに
などと
夢のようなことに発展してゆく
壇蜜日記を読んでいる
悔しいとか、悲しいとか
苦い記憶とか、暗いできごととか
そういう物語や感情を綴ると
旨味が出そうな人だ

日記エッセイというのはこういうふうに
ねちっとしていて詩的なのがよろしい