夏至のころに 考えるあれこれ - 旅をする 夏至篇 裏窓から

旅をする計画を立てた
飛行機に乗って道東(北海道)へ行こうというものだ


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夏至が過ぎて いよいよ夏本番となる

夏を迎えるにあたってその前に 北海道旅をしようと考えている

父は 亡くなる前の十年ほどの間に母と連れ添って ときどき国内を旅していた

ツアー企画をする人が身近にあって その人の誘いで出掛けたのがきっかけだった

どのような旅をしていたのかを 帰ってから旅談話として聞いたこともある

晩年の旅人生を一通り満足したころに 一段落ついてか まさか ぽっくりと死んでしまったので、旅の話の一部始終や喜怒哀楽な出来事を しみじみと聞かしてもらう機会はそれほどなかった

人生の山あり谷ありの話を ほとんど交わさないまま逝ってしまうとは 考えてもいなかった

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この世を去って何年もして・・父のあのときの年齢に愈々到達することになり考えることが多い

旅をして過ごしているころの父は とても幸せだったのではなかろうか

旅好きだとか こだわり旅を好んだとか 美食家だったかというとそうでもない

しかし 世間様のするような旅を 自分の好奇心のままに愉しんだことと思う

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もしも(どちらが)息が先に途絶えても 悔いのない足跡を残そう、生きてきた証を残そう、それは私の欲望としてではなく 残された人への思いでのプレゼントのようなものとして・・と考えた

父の残した足跡は 残された人にとって掛け替えのないものである

『あの人は 気の毒な人生の一面を持ちながらも晩年は旅もして ゆっくりと生きてなさった』
と多くの人に言うてもらえるような人生の終盤だった

ならば 生きている間にできる最後の責任を私も果たしておこう・・それは四十年以上もの長い間 共に暮らした人へのお礼であり恩返しなのだ、今のうちに(生きている間にできることは)やっておこう・・と考えたわけだ

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父は みんなから 自由に気ままに生きた人だった と言われることが多い。しかし それは 外野の話であるから 人一倍の苦労や悩みや絶望があったのだろうと 子どもの私にはわかる

耳が聞こえなかったことも大きいが 身体も丈夫ではなかったので 無理をして仕事をすると 家で弱って(伏して)いたのを思い出す

明るい性格のようにも見られたが 繊細な一面もあった

あらゆるところで 親譲りであるから わかるような気がする

ということは 私の子どもも 私を少し(私が死んでしまってから)わかってくれるのだろうか・・

* ひとまずペンを置く


外伝🔗:夏を迎える準備をしなくてはならない

 『一緒にかんばりましょう』と人生の舵を切ったころ - 父の日 の頃にあれこれ想う

自伝 三、

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ある時 面接をしている人に 多分気に入ってもらったからだろうと思うが 「一緒に頑張りましょう」と声をかけられたことがある

新しい職を求めて数々の面接に挑んでいた時期があったゆえの その時のワンシーンではないかと思う

その人が声をかけてくれた職場は 今となっては非日常になりつつあるが、 四十五歳の時に新地を求めてこれまでとは違った職種の世界に飛び込もうとする時のまさに「あの時」の面接だったのかもしれない・・と記憶に焼きついている

履歴書を何十通も書いた苦悩の日々があっても 再就職は叶わなかった
人並の資格も能力も実績もあると自信に満ちていただけに さすがに落ち込んでいったことは間違いない

外国語も問題なく扱えるし 国家検定の試験の上級レベルを自慢するように話しても そこで求めている人材は そんな能力を求めていなかった

『あなたみたいな人が来たら うちの会社を乗っ取られてしまうかもなあ』と上手に断られたこともあった。実際 そんな人物は不要だったのだろう。コツコツと謙虚に黙って仕事をする人が欲しかったのではないか

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「一緒にかんばりましょう」と声をかけてくれたのは 国家のキャリアの人で、三十歳そこそこで重要なポストで勤務し のちに任務を終えて国政に戻って 頻繁にメディアに顔を表していたほどの 大人物だった

たった一言「一緒に頑張りましょう」と面接の最後に出てきた言葉が 採用を意味する本心だったのか 儀礼だったのかは 今となって計り知れない

しかし 誰もが この面接でも 「不採用」だろう予測をしていたし 経験もない私にポストはないと考えていたのだから あの時に採用してくれた言葉には 私を呼んでくれる本心があって かっこよく言えば新しい私に期待をかけてくれたのだと思いたい

雲の上の人だった。職に就いてからも話をする機会はほとんどなかったものの その指導力の敏腕さは私にも手に取るように伝わって来た

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設計開発部門を二十年で見切りをつけて 別天地で新しい人の指揮を受けて働けることになった。心を爽快に持ち 持てる限りの情熱を注いで仕事をやり切れたのは あの時の「一緒に頑張りましょう」だったのだろうと振り返る


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1998年に父は無くなったので2003年の出来事は知らない
人生の後半を 技術者をして生きる道を捨てていることを知らないままあの世に行ってしまったし 親不孝な私は そのことを墓前で正式に報告もしていないかもしれない

そのこと以外にも 父には、何の恩返しも 生前にはお祝いやプレゼントもしなかったので ずっとずっと私は引きずって生きて来ている

だから 父の日は 反省の日なのだ

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* 書きかけ続く


外伝🔗: 父の日号 何の変哲も無い孫日記

梅雨の真っ最中 雑感 ー 父の日 夏至篇 裏窓から

父の日、夏至を迎える



キーワードをあげてみる


1。老後、人生、楽しみ、余暇時間
2。趣味、交流、楽しみ
3。年金、節約、家ごはん
4。支給額、格差
5。居酒屋、贅沢
6。ささやか、幸せ、夫婦
7。健康、通院、持病、成人病
8。運動、ストレッチ、会費、ゆとり
9。家族、孫、子ども


🐾 老後、人生、楽しみ、余暇時間

仕事も引退して 自分時間をマイペースで過ごそうと思った
しかし 想定外だったのは 仕事がなくなり無収入になってしまった
蓄えは 平均には到底及ばない、三年で食い潰す勘定だ
年金受給までの三年間でありったけを食い潰してしまう
年金受給開始時に手元に残っているのは葬式費用だけである

悠々自適かと思われたが 大きく段取りが狂ったというか見込みが甘かった
資金がないと 自由に動き回れない
どうしても勘定が先に立つので 車も手放した オートバイも廃車にした

🐾 趣味、交流、楽しみ

ブログを書いて 楽器を吹いて ウォーキングに行く
(腰ヘルニアで休止中)
余暇時間がたっぷりあるがおおかた家にいる
外出も控えて靴底の減らない生活をしている

お酒は大好きだったのを断ち切って今はほとんど飲まない
酒肴料理は 半分にした(刺身は八切れから四切れに)

まあ 楽器を吹いているから時間は過ぎる
コロナ渦中で 楽団には参加をしていないが そのうち戻ろう

酒を飲んで喋る楽しみは 封印してしまった
健康を意識する行動に転換

🐾 年金、節約、家ごはん

年金はまだ支給されないため 現在は無収入の暮らしが続く
友達が少し前から受給していて その金額を聞いて ガックリきて 涙が出たわ

おうちご飯は 一、二年前と比較すると半分ほどに変化した

🐾 支給額、格差

年金支給額は 友人と比較すると 『20分の12』 ほどしかないことが判明した
仕方がない
厚生年金をかけた額が少ないのだ
そのまま支給額の結果に出ている

世の中には私よりも豊かな人もあるだろう
反面 使い切れないとまで言う知人もいる

簡単に格差という言葉でも済まされないが
僕の年金の 五倍ほど(大雑把に50万円)なんていう友人の話を聞くと 脱力感に襲われる

一方で 僕よりもさらに少ない人がある
社会の制度に怒りを感じる
弱い人はより一層弱っていくだけだ

🐾 居酒屋、贅沢

お酒は外では飲まない
もう何年も前から禁止にした

コロナ渦中 出かけられないのはありがたい
外に行くゆとりはないのだから ありがたい

🐾 ささやか、幸せ、夫婦

夫婦が健康で慎ましやかに暮らす
これしかない

🐾 健康、通院、持病、成人病

健康でいることは 難しい

腎臓が弱い
特に医者の強い指示はないが我が血族は間違いなく弱い

そこで 腎臓病食の勉強をして食事を考えている

🐾 運動、ストレッチ、会費、ゆとり

ストレッチのジムなどにも行けると良いのだが そんな金銭的なゆとりはない

生活にゆとりがないから自由に動けないのが実情で
ジムなどに通える人が羨ましいものの 自分で工夫をする

そんなかで 老後のゆとりを見つけたい
日々の暮らしは 貯蓄を食い潰して暮らしていても 費目の上で貯金をし 旅行などに当てて行きたい

🐾 家族、孫、子ども

やはり
資金がないのだから 孫には何もしてあげられないのです
しかしこれも日々の支出の中で費目を分けて 孫にも使う

子どもには迷惑をかけた
大学時代には育英会から五百万円近くの借金をして それも卒業後数年で返済処理を完了し 結婚もした

これからは親が子どもに何かをする時代ではなくなった
二人で働いて頑張ってもらいたい


夏至のころには そんなことを考えていた

父の日を考え続けている - (裏窓から・号外) 父の日号

昔からある「父の日」を特別な日にしてこれほどまでに騒いだのだろうか、と考えながら、父のことを思い返している

裏を返せば 新聞の一面の上段に 二十四節気や祝日と同様に「父の日」と特別に書くほどの日なのだろうか

死んだ父であれば これを見てさぞかし喜んでくれることと思うものの 苦々しい顔も想像できるような気がする

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『遺す言葉』の中でも回想しているが 父親とはどういう人であったのか、などを考える機会になっている

さほど顔を見せに出向いたわけではなかった
したがって 必然的に身体の具合の悪さをそれほど知らないままであった
体調を崩していたことも知らずに 亡くなって初めてそのことを知らされる
狐につままれるとはこのようなことだったのだ
そんなにすぐに死んでしまうとは考えもしなかった

後から様々な人々と話をしながら判明するのは 人間として弱っていたことだ
健康ではなかったのは周知のことだったが 死に一歩一歩近づいていたのを 感じてやれなかったのが残念だ
人の話も様々で痴呆の兆しがあったという人もあるが 誰も真偽を明言できない

あの人は(父は)生きたかったのだろうと思う
死ぬこともあるかもしれないと元気な時代に診断されて 死んでしまうかのように沈み込んでいたことがある

生きることを強く希望した人だったに違いない

人生論を話したわけでもないし 酒を飲んで本心を語り合ったことも一度もなかった

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二十三年以上が過ぎて、今

生前の映像が残っているのであるが それをもう一度出して来て見ようともしない

普通ならば生きていて元気だったころを懐かしみたくなるのは当然だろう

どうしてなのかは自分でも明確には答えられない

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「何を今更」・・みたいな感情なのか

見たところで何が蘇って何が嬉しいのか
途絶えて消滅したものはそれまでなのだから
そういう時があったという記憶だけでいい
そのように感じているのだろうか

今はすでに昔ではなく 今を精一杯生きている
昔を見るのではなく 今を見つめて 今からをどうするか
そう考えているのだろうか

✂︎ ・ ✂︎ ・ ✂︎ ・ ✂︎ ・ ✂︎ ・ ✂︎

わからないことばかりが
次々と浮かんでくる

続く かも

どこで転機を迎えたのか - 小満篇二、裏窓から

人生のどこで何が大きく影響したのか

高三の進路調査で「英文科」「工学部」と不安定な回答をした記憶がある
英語が好きで且つ科学好きなためエンジニアになって生きてゆくのが有利だと考えていたのだろう
英語文学には興味はなかった
言語学のようなものに興味があったのではなかろうか

二十年後のこの国の教育や生徒の将来を田舎教師が見抜いていたとは思えない
そのころの教師なんて寺子屋レベルである
「大学進学」と生徒が言い出しても進路指導には無理があった

地元の教育学部の教員養成課程を終了してきた先生である
受験生を叩き上げる術など持たないに等しい
それを今更責めるつもりはないし失策とも思わない
不運であったのは田舎に生まれた生徒の方だった

英語が好きだから英文学科という一本道で進学した子は多かろう
それで人生が決まった人もあるだろう

ともあれ 工学部と言いつつ「地学科」というマイナーな学部を受験したりしながら
迷いに迷って大学になってからのそのあとの夢を見た

華やかな応用物理学科や電気通信工学科というスター街道も受験する
受験が将来の道の選択手段ではなく
試験勉強の成果確認であり見栄の誇示という側面を持っていた

電気通信工学科に進んだ
数学は全科目で最も苦手だった
しかし そんな学科に飛び込めばどうなるか・・火を見るよりも明らかである

どん底に落ちこぼれてしまうのだが・・転機も来る
チンプンカンプンの日々を送りながら「情報科学」という新しい分野に出会う

同様に受験の荒波を泳いだ仲間から見れば
明るい未来に向かって楽しそうでカッコいいのが「情報科学」であった
みんなには羨ましがられた

最先端・一番乗りであったから 成績が悪くても前例もなく
注目を浴びて卒業できたのは幸運だった


🎬

社会人になって最初の配属は基礎研究室

生理学 生物学 薬学 生化学 機械工学という顔ぶれに電気通信工学科の私である
これも火を見るよりも明らかで 一年二年はうだつの上がらない暗い日々だった
組織変更で転々とした

今になって体制側から考えると使えない奴だったということだ
のちに様々な影響を受ける上司に出会うことになる

しかし幸運もそのあたりまでで 次に選んだパーな会社は期待はずれの会社だった
世の中をハスにかめて正直に生きてはいけないということを学んだという意味では成果はあった

あまり書きたくない十年間だった


🎬

自分の能力などタカが知れている
大物になれる器でもないし金道になるような機運も持っていない
それを自ら悟るときが一番の転機だったのだろうか
時は既に遅いのであるが 生きる道をしっかりと自分で決めようとし始める


🎬

仕事はのらりくらりの道を選んだ

最初の転職のころにパソコンを買ったのが出会いでホームページや電子会議室にのめり込む
のちに ブログも始める

友人間の連絡はメールが中心になりコンピューターが欠かせない暮らしになる

それが 人生を良いか悪いか導いたのは間違いない

不惑を過ぎて数年後にパーな会社を辞めて一年ブランク後に公務についた

こちらで情報科学の技術と経験を生かして日々を送ることになった
二十年間ほど 情報機器と付き合う形で日々を送り六十歳を迎えるのである

🎬  🎬

つづきは機会があったらまた書こうか

父の日雑感(回想) - 予告篇 

週末には
父の日篇を
書きたいと思います


父の日が近い

生前の父を振り返ることに意味のあるのだ、と父の死後になって感じる人も多かろう

その一方で、日常から丁寧にきちんと感謝の心を伝えている人もあろう

✍️

父の立場から考えると
生きているときはそれが当たり前で
そのことすら気にかけない人も多く
人生の上での父の重要性など考えにも及ばないものかもしれない
となる

だが
「どうでも良い人」=「役立たず」
ではない

一方で
母の日にプレゼントをしましょうと世間は騒ぎ立てている
そこで
商業効果も狙って父の日が生まれたのだろうと
冷視線を送ることもできる

✍️

父の役割に気づかない人の多くは、失くしてから重要性に気づく

(つづきは週末にでも)

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    まり好まないのかも知れない。6月19日▼父の日や普通に1杯酒を飲む▼父の日や部屋で形見の絵を睨む▼父の日に鬼の顔して我を見る父の日に、三句いじって、黙り込む…