啓蟄篇 ❀ 閏日をすぎて八歳になる写真が届いて

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三月五日は啓蟄
朝から雨降りであったのだが
冷たいはずの雨であっても それほど染み込んでこない
きっと 気持ちのせいだろう
寒暖計の数値とは別に
じわりじわりと春になっているのを感じるのだ
大地が吸収してエネルギーを蓄え始めている
身体は春を迎える準備を万端に整えている

✧✧✧

血圧が高い診断を受けて新しい循環器内科にかかるようになった

そこで心房細動が見つかり アブレーション(手術)をすることになり 近隣の大きな病院で処置を済ませた

心臓の健診では『心房中隔欠損』という病気が子どものころからることもわかり この年齢まで放置したことを驚きながら 治療を進めることになった

近々 近くの大学病院を紹介してもらい 治療を始める

✧✧✧

二十年勉強してて
四十年働いて
さあこれから 何するの

長生きする人なら
我が母のように 三十年
一人で生きる

自分は無理だと悟っているから
さて残りは
十年なのか
二十年なのか
と考え始める

いつか年頭でも書いたように
一年は五十週

「週の初めに考える」を書き続けても
五十回で一年が終わってゆく計算だ

絵を描いたとしても
小説でもエッセイでも
自己反省文でも
一週間に一回考えて
五十回まで行けば一年が終わる

平均寿命を頭の片隅に置いて
これからどれだけ生きるのか
そんなことを考えると
二十年という数字が浮かぶ

✧✧✧

自分をふりかえる

啓蟄の日は ゆうちゃんの誕生日だった
閏年(申年)の二月二十九日が予定日だった
二回目の閏年を迎えて八才
四月から三年生

小学校の三年生のころの記憶を辿っってみると
残っていそうで ほとんど残っていない

裏を田んぼの真ん中を蒸気機関車が走っていたとか
線路で土筆摘みをしたこととか
今の季節なら麦踏みをしに田んぼに出かけていたとか
雲雀が天高く囀っていたこと
まもなく蓮華の花が咲いて 花の絨毯の上に寝そべってあそんんだこと
などが浮かぶ

苺がいっぱいのケーキで誕生日を祝ってもらっている写真が届く
写真も動画も何気なしに残る時代だから その映像記録の価値が曖昧になっている

動画はもちろん 写真でさえ簡単に残せぬ時代だったからこそ あのころを振り返る情景に価値が出るのかもしれない

この子たちが大人になる時代まで私が生きている数学的予測数値は 十年ごとに半減期を迎えるだろう(と思う)

父の死生観のところでも触れたが
六十歳の頃に これから七十歳まで 八十歳まで生きようと
父は それほど強く考えるような人ではなかったのではないか
と想像している

家族関係の折り合いもあり 隣に住みながら それほど孫と触れ合えなかった時期があったし 背中を傷めて腰に痛みを抱いていたことや 高血圧の診断を受けて早い時期から降圧剤を投与されていたことなど

母はあの頃を振り返って 自分が仕事で忙しかったこともあるが 食事制限を何ら考慮することなく 毎日を過ごしたと言う

今更 何が間違いだったか・・などと悔やんでみても及ばないのだが 長い人生にはそんなことは数え切れぬほどあって 何か一つを悔やむというより『どんな姿勢で生きてきたか』が振り返るときの一番の頷きどころになるのだ

母は一月二十一日に九十三歳になった
ちょうど一月前年の暮れ クリスマスに九十八才の姉が逝ってしまい
次は自分の順番だと思っているのだろう

父の二十七回忌を済ませて やれやれという気持ちながらに 死んでしまう怖さを口にすることは全くなく「生きるのがえらい」と繰り返している

京都のとーさん

京都のとーさんも九十二才
痴呆で 毎日をゆるゆると過ごしているものの 明るい話題は何一つない
明らかに 非常な家族たちは今か今かと滅びるのを待っている

✧ ✧ ✧

我思う

自分のあらゆる足跡を残すと考えてみたことがあった

しかし このごろは

残したところで何一つ待たれていないのだから 消滅(消去)しても構わないとさえ思い始めている

つまり

やがて死ぬことを想定しながら 残りを生きるのが賢いのか

車谷長吉の本で 彼は

いずれ死ぬことが分かりながら生きているのは人間だけだ』から・・と書いている

死を覚悟し睨むようになって
ほんとうの人生が始まるのか・・


外伝
啓蟄の雨あがって 土ゆるむ ✴︎ 三月上旬
閏日から三月はじめころまで ❈ 減塩五か月目に入ります

燃える秋 - 初めてのバイク旅をふり返る (誕生篇)-『わはく百話』その七、

『わはく百話』に追加します
その七、燃える秋 - 初めてのバイク旅をふり返る (誕生篇)

ちょうど四十年前の十月の今日あたりに僕は初めて信州という未知なるところまでバイクで旅をしたのでした

仕事が連休だったという理由で 何の計画も立てず 夏に買った新しいオートバイで走り回りたかったのだろうと思います

地図も持たずに 中山道を北に向かって走って 木曽の宿場町などで休憩をして 観光案内で名所を探して 乗鞍高原というところに向かって走ったのでした

木祖村から『境峠』を越えて乗鞍高原に入って行くわけです

そこで 初めて 信州の大きなスケールの紅葉との出会います

大きな大きな山が聳えていて その山中が燃えるように色づいていました

名前も知らない樹々が一面に赤や黄色になっている

乗鞍高原というところにやって来ます

地図を持たずに家を出ていましたので 高速道路のパーキングでもらった道路地図を参考に走りました

乗鞍高原は予習をしたわけではなく 全く初めての信州です

宿に泊まって旅をするのも 未経験で 予約の方法も知らないので 観光案内所に駆け込みます

同じように旅館を探している行き当たりばったりの人が大勢あって 数人を纏めて 観光案内所で紹介された民宿では 大きな宴会場のような(屋根裏のような)部屋に案内されたのでした

あの頃は 人を疑うというようなことが今のようにはありませんし 客扱いが悪くても不平も言わずにいましたな・・・

貴重品なども相部屋のその辺に放り出して 免許証や大事なものが入ったツーリングバックも特別に片付けるわけでもなく、共同浴場に行ったり、知らない人同士で夜中まで旅の話をして みんなで枕を並べて寝ました

乗鞍高原では 野原に湧き出している共同浴場という温泉小屋がありました

木の板で囲った東屋のようなところです

そこでお湯に浸かって 温泉ってなんて素晴らしいんだろう と感動するわけです

前に紹介した『バイク考』の中で書いたように このころはあらゆるものが未完成で 進化の途上でした

そういう時代に旅人をできて 僕はとても幸せでした

秋も深まって来ました

四十年昔に訪ねた乗鞍あたりの山が恋しいなと思います

大自然の景色は昔と同じだろうけど 旅をする人の文化は大きく変わっています

もう一度 大自然に再会したいな って思うことが時々あります

心臓のエコー心電図を受診して もう少し詳しい検査をして判断をする必要があると言われました。心電図の結果が出たら 紹介状を書いてもらって 日赤病院へ行くことになります

祖父と父は 『高血圧』→『脳出血』→『脳梗塞』→『腎不全』→『心不全』という流れで六十六歳で亡くなりました

私もその道筋を歩む覚悟をして 人生の後半を歩んできました

今ここで『心臓疾患』の項目がシナリオの一つに出てきました

やれやれ困った

六十六歳です


胃カメラと大腸カメラ ー 大暑篇 (裏窓から)

八日に胃カメラ、十五日に大腸カメラの検診を受ける
書きかけのまま放置をする日が続く

事後報告だが
二十九日には 腹部全般のエコーもする
膵臓、肝臓、腎臓と所見を聞く

脂肪がたくさんと言われる肝臓
血液検査結果からステージ3の腎臓、小さくなっていってます・・

父の年齢にあと1年余りと迫る(祖父の年齢には今年の年末で追いつく)


サドン・デスの恐怖と不安が病気のように脳裡をぐるぐると回ることがある

いつ死んでもいいと覚悟をしているものの、想定外の死に方を考えると怖い
痛みが怖いのもあるが、不自由が怖いのだろう

遺すものは整理しているが 不完全なままだ
それが達成できなかったとしても 不完全燃焼になって残念なだけだ

死んだら終わりだ

そのくせ、かれこれと考える日々が巻き起こり
筋書きのない死にかたを避けようとして 健康診断を受けるのだろうか


胃も腸もポリープがあるが、癌化はしないと診断される
そんなことを考え続けている『七月』である




芥川賞や直木賞の発表がニュースになった

今は作品に魅力を感じない
しかし読まないわけでもなく、騒ぎが収まってから読むことはある

図書館で予約をすると何十人待ちである
本屋大賞の作品を四月に予約をしたが
まだ依然と三十人以上がわたしの前に待っている
果たして待つほどに魅力があるのだろうか

詩集のようなような文章で坦々と綴ってくれる作品に出会う機会が少なくなって寂しい
自らは何も浮き足立たず飛び跳ねず自己主張もしないのに
読みすすむうちに訳もなく惹きつけられてゆく
そんな魔力を持った作品に出会いたい

そんな作品は人気がなく作品として誇示も無く面白味に欠けるからだろうか
物語(ストーリー)の展開を求める人が多いのかもしれない

福永武彦の『忘却の河』の一部分を
意味もなく味気を求めることもなく訥々と読み続けるのが好きだ
空白の空間の中を漂いながら詩篇に満ちた活字の海を泳いでゆくのがいい

直木賞でも芥川賞でも 激しさを持った勇気が湧き出そうな感情を揺さぶる作品にとことん浸りたい

『赤目四十八瀧心中未遂』『利休にたずねよ』 が真っ先に浮かぶ
向田邦子、高村薫、なかにし礼、葉室麟のようにのちに揺るぎない魅力を書いて
数多く作品を残している人もある

ーーー

そんなことをメモに書きはじめて夕方になったので
続きはどこかで書くことになる

「つづく」で終わったドラマのような - 小雪篇 裏窓から


二十二日 小雪
二十三日 勤労感謝の日

* 書きかけ

朝日新聞(ひととき)23日の投稿に「やさしいうそ」という投稿があった
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8月、夫婦で新型コロナに感染した。夫は希望通りの病院に入院できたが、私はなかなか決まらず、3カ所目でやっと入院した。入院期間は1カ月に及んだ。一時は酸素吸入が必要なほど悪化したが、「夫に会いたい。子どもたちのためにも生きて帰らなければ」と気持ちを奮いたたせた。「パパはどうしてる?」と電話で息子に聞くと、「おやじも頑張ってるよ」と教えてくれた。9月に入り、退院の日。迎えの車の中で長男が手を握ってきた。「おふくろ、ごめん。うそをついていたんだ」。後ろに座っていた次男が私の肩に手を置いた。「おやじ、8月29日に亡くなったんだ」私の退院までは伝えないようにしようと、子どもたちで相談して決めてくれたのだ。家に帰り、遺骨になった夫と対面した。おしゃれで、はやり物が好きだった。明るい性格でみんなに好かれ、設計の仕事に打ち込んでいた。遺骨が収まる箱には生前使っていた帽子をかぶせ、シルクのマフラーを巻いている。しょうがないと思う。寿命だと自分に言い聞かせた。でも悔しい。遺影に話しかけずにいられない。「パパ、早く起きて」(東京都中野区 室伏節子 主婦 77歳)
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上述の記事の話をふとしたことでツマが今朝方 話をしてくれて
私は読んでいなかったので 珍しくどんな話をしてくれるのかと耳を傾けた

。。

パパはどんな人だったのだろう
お幾つくらいだったのか
どんな暮らしぶりだったのか
みなさんの生活ぶりは・・・

「おしゃれで、はやり物が好きだった。明るい性格でみんなに好かれ、設計の仕事に打ち込んでいた」とだけ書いてある

わたしのようなお節介な者には 聞かなくても良いことまでも気にかかる
仕事のレポートの影響なのか モノを正確に再現できるように残すことに気を取られ
こんなとき 構わなくても良いことに気を取られて 人間がつまらなくなったなと
自分を嘆く

パパは 何も言葉を遺す準備もしないで ストンと消えたのだ
と思う

あれこれと説明のない短いこの作文に悲しさが溢れているのが見えてきて
思わず咽ぶのであった


山栗を剥いている黙々と ー 霜降篇 裏窓から


* 書きかけ のまま放置していたのだが エキサイトの流用改訂で載せておきます


秋を迎えている

この季節の思い出といえば 寒々とし始めた下宿に 山栗がたくさん詰めてある小荷物が父から届いたという出来事が真っ先に脳裏に浮かぶ

小荷物には 鉛筆書きの手紙が添えてあり 文面こそ覚えていないが つまりは「しっかり勉強しなさい」ということが 決して小言っぽくなく書かれていた

そうのように あの時代は故郷から小荷物が届く下宿生も多かったわけで そこに手紙が入っていて 親のひと言が添えられていることは稀ではなかった

そういう社会文化がこの時代には存在していて この国が繁栄をして国民が豊かになってゆく過程で その暮らしの姿が消滅してゆくことになる

したがって このとが貴重なものだったし そのことに気づくのは 何年も歳月が過ぎてからのことで さらに私たちの子供世代にはそういったことは伝わらないまま消えてしまう

この世の六十歳を超えた超えた人々の中には 同じ思いの人も多かろうから 余計な説明は省略するが 三十年という周期の回想の中には 奥深くこのような出来事も秘めているのだろう

栗の実は 剥くのが厄介で面倒臭いので 家族も丁寧に剥いてまで炊き込みご飯にしたり煮たりするのを嫌がる

だが あの時の小荷物の栗を思い出せば 手間がかかっても包丁を持ってひとつひとつ剥いてゆく

まるで 手間をかけてやり遂げねばならない使命のように黙々と剥くのだ


年が明ければ (この世から)父が消えてしまって二十四年目を迎える

「24」という数字は 野球をしていた頃の背番号を「24番」としたことでも 数字にちょっとした理由があったことを振り返ることができる

生まれてから二十四歳になるまで学校に通い のほほんと暮らした大ばか者であったが 社会人になれた時は自分なりに嬉しかったわけで それが二十四歳だったから24番としたのではなかったか

当時(昭和五十年代なか頃) そんな年齢まで ぐうたらな学生生活を送るような奴は とびきり優秀で学問好きで何かに秀でているか 全くその逆でどうしようもない怠け者で愚図であったろう

中流には決して及びもしない山村の農家の倅が どれだけ身の回りの大勢の人に苦労をかけてきたのかは語るまでもなかろう

教授のおかげで就職はできるものの その後の三十八年を見れば 人生はそう簡単にはいかないのだということもわかる

二十四年・・という歳月や 三十年という周期 この数字は考えれば意味深いものがあるなあ と感慨にっ引き戻されてゆくのも 深まってゆく秋の特徴ではないか


さて
その程度の人間であったのだと 匙を投げるわけにもいかないのが 最終コーナーを回ってからの生き方である

人生はレースでも競技でもないのだから 何も最終コーナーの姿がとびきり美しく華やかである必要はない

まして その姿に拍手や歓声を投げるような誰かが居る場面もシナリオもない

(同級生で)まだ教師をしている友だちが 秋の体育祭の練習中の校庭の様子をFacebook に写し「木枯らし1号」だ と書いていたので てっきり木枯らしが吹いたのかと思ったら 賑やかにはしゃいで楽しく授業をしているところだった

木枯らし一番というのは「霜降」が過ぎてから近畿地方で吹く一番の北風を言うらしい

まあ何であっても一番乗りを制覇するのは嬉しいもので そのお祭りの精神は掛け替えのないものだと思う

そんなわけで
栗を食っても サンマを食っても 秋を染み染みと感じられるし とーちゃんやおばあさんを思い出しながら秋刀魚の味を噛みしめるのである

🔖 秋刀魚食う おとやんの箸の癖思い出す


二十四節気に書くことといえば 散々好き勝手に行きてきた人生を ひたすら振り返ることが多い

もう増殖するものなど何もない
あったとしたら病原細胞くらいか

(二十四日)

夏を待つ 夏が来る 夏を愉しむ - 大暑篇 裏窓から


七夕様がすぎて瞬く間に日が過ぎる
その間に梅雨明け宣言(十七日)があったり
ムスメさん夫婦のコロナワクチン接種があったりして
慌ただしい夏が過ぎる


二十三日(金) 東京オリンピック 開会式

1964年 10月に東京で開催されたときは小学生だ
はっきりと記憶に残るものは無い
のちに映像化されて見たことで脳裏にあるように思うのだろう
直に焼きつけることなど七歳や八歳の子どもには不可能だった


人類というモノの偉大さを感じる
知性を持ち文明を築いてゆく動物たち

たかが地球上ではちっぽけな生き物に過ぎないのだと認識し
大自然にそして歴史に感謝をしなくてはならない

あ・う・ん - 芒種篇 裏窓から

父親に教わったこといくつか を考えていた

  • パジャマのボタンのとめ方
  • 風呂焚きのマキのくべ方
  • 靴紐の通し方
  • 靴のかかとを踏まない工夫
  • 風呂上がりの身体の拭き方
  • 襖や障子の上手な閉め方
  • 寝巻きの帯の締め方
  • 縁側や軒の庭箒での掃き方
  • 鶏の捕まえ方
  • 蛇の持ち方
  • ナイフで鉛筆の削り方

すぐには思いつかないため
思い出しながら書きなおしていくことにする


一を聞いて十を知れ
見てわからんものは聞いてもわからん

この言葉は 直訳しただけの軽々しいものではない

  1. モノを習う時はまず習うことに集中して
    何を習得するべきなのかを見据えていなくてはならない
  2. わからん時は聞けば良いのだが
    聞いた以上は奥に潜むものを探り出し盗み取ることが大切だ
  3. 黙って仕事の様子を見ることから始めて
    技を見抜こうとする姿勢を磨いた上で要点を一つ聞けば十倍以上のコツが得られる

そういったことを いちいち口で説教することもなく
「黙って見て学べ」と口癖のように言うたものだ

「質問をしてはいけない」とけっして思っていたわけではない

的確な質問をしてこそ モノをどこまで理解できたかが 教える側からも推し量れる
言葉では伝えきれないところまでも丁寧に伝えようとしていた

『あうん』の人だったのだろう


伝えるものそのものやそのこと自体が
明確に言葉になっている必要もない

気持ちや熱意でもよかろうし
興味のようなものでも良い

目のつけどころの生む感性のようなものであっても良い

子どもに伝えて世代を超えて孫にも
『あうん』で伝わっていくものがあるのかもしれない

祖父の足跡や実績、語録などを掘り起こすたびに
そのようなことを感じる

孫たちは大人になってそのことに気づくだろうか

誕生日記念号 - 体育の日篇

日記に


お互ひの心の交流のなかに、少しづつ、死の意識が薄昏うすぐらい影になつて、眼底をかすめた。富岡は馬鹿々々しいと思ひながらも、また、東京へ戻つてからの現実を考へると、落莫らくばくとした感情が鼻について来る。

苦しさや、悩みに押しひしがれてゐる時は、まだ生きられる力を貯へてゐたが、いまは、悩みも苦しみも、煙のやうに糸をひいて消えてしまつた。


林芙美子 浮雲 25節終段から

■■

この部分を手帳に書き写しながら
私は何を思っていたのだろうか
思っていたというより
考えていたのだろうか

煙のように糸をひいて消えてしまう


私には
忘れてはいけない怒りや憤慨、憎悪、があったはずなのだが
それをまるで煙のように忘れてまうところがあって
それが自分に対して途轍もなく腹立たしいのだ

忘れてはいけない

そう自分に言い聞かせても
脳裡から消えていってしまうのだ

消してはいけないと思っていても
その憎しみに満ちた像が姿を消してゆく

悔しいのだが
お人好しなのだろうか
阿保んだら なのだろうか

これもひとつの
持って生まれた避けられない人間性なのだろう

一番自分の嫌いなところである一方で
憎めない一面であった


そんなことを書きながら日が過ぎた