父の逝った歳に迫り あのころの父の気持ちを思う - 天皇誕生日のころ

外伝🔗 あの人の逝った歳に迫り そのころのあの人の気持ちを思う - 天皇誕生日のころ

令和になってから 天皇誕生日は二月二十三日だ
天皇も六十三歳になるという
同じ時代を歩む人(私)が そこにいる


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あの人の逝った歳

あの人の死亡した六十六歳という年齢に迫りながら そのころのあの人の気持ちを思う
あの人とは 父のことだ

父の脳梗塞は死ぬ数年前から起こっていたので 自分にやがてくる最後の瞬間は想像したことがあっただろうに間違いない

しかしながら そのことの気持ちを誰かに語ったというそんな話は耳にしたことはない

妻や子どもにも話さなかったのか その不安と恐怖を(誰かに)口にする機会を得ることもなく淡々と死ぬまでの時間が過ぎたのか

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死亡診断書には 逝く六年前から死因を導く症状が記されている
あの世への道を六年間 たぶん孤独に歩みながら 心を誰にも明かさなかったことになる

「そんなに沈黙を通せる人ではない」というのが 私の推測だが 仮説を証明することも裏返すこともできる手がかりは何も残っていない

証拠はどこにあるのか・・それは遺された息子たちの心の中ということか

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死生観

『生きること』『死ぬこと』『断念すること』をどう考えるか

松本零士さんの『生きるために生まれてくる』という言葉を先日この日記に書いたが そのあとに 色々と頭に浮かんできたことがあって 纏まらずに ぼんやりしている

同年代を走る人は皆同じ死生観を抱いているかもしれない

自分がやがて 死んでしまうなど考えもしなかった時代(人生前半)から 次第に「必ず死ぬのだ」と『観念』するようになってゆき 周りの人々が次々と死んでいき 自分もそのうち死ぬのだというカタチが見え始めと それを否定しなくなってくると その果てには『痛くもなく 苦しまず 怖くもなく幸せに 死んで行きたい』と 我儘なことを望むようになる

『死ぬときに何をどう感じて死んでいけるか』
そのことが大事なのではないか

(長生きが目的ではなく)

死ぬときに

父は人生をどのように感じて 振り返っていたのだろうか
後悔はなかったのだろうか
こうありたかったと言うような願望はなかったのだろうか
子供や孫に託したい夢はなかったのだろうか

* - 書きかけですが置いておきます(続く)

天皇誕生日のころに考える *


* 考えていること

悠ちゃんは 小学校にいくのでしっかりしてきましたが 通学路など心配が募ります
誰もが心配をしてきたことなのかもしれません

健ちゃんは 年中さんになるのでますます頼もしくなってきました
お母さん(ムスメ)は 健ちゃんが幼稚園の間は育児の為の時短で仕事ができますが そのあとは大変です

黄砂や花粉がとんでいる穏やかな日々を送りながら - 雨水篇 裏窓から(天皇誕生日)

雨水を迎えている
穏やかな二月になってホッとしてる

そう書き始めておざなりにして置いた日記

穏やかな日が続いて
花粉が飛散し
黄砂が飛んで来て(二十二日)

楽器が修理から上がってきて
公園に音を出しに出かけたりしていた

飛び石連休であった

 素直におめでとうと伝えたい ─ 天皇誕生日号


天皇陛下が六十歳だ
僕より二歳若い

誰であっても誕生日は素直におめでとうと申し上げたい
しかも六十歳である
この感慨深い意味をわかる人になりたいし
わかってやれるような広い心の持ち主になりたい


 

*つづく

年の瀬に考える その2 ─ 冬至篇

【裏窓から】

冬至のあくる日に母を訪ねた。(23日 天皇誕生日)

ムスメもあと二ヶ月に迫ったこともあるので呼んでやり大きなおなかを母に見せながら正月のことなどあれこれと話をする。

母を訪ねれば昔の話をするのはどこのウチでも例外ではないだろう。近ごろはたとえ同じような話であったとしてもそんな話を聞かせてもらうのがわたしはとても嬉しい。

85歳になろうとするのに話す内容は正確で、細かい点まで記憶していることに驚く。年寄りとはそんなものだでは済ませることのできないレベルである。

例えば、親戚の人の逝去年表、家系図に登場する隅々の人までの名前、生い立ち、数々のエピーソード、それらの出来事に伴う年月日、付随する数字などなど。

真似をするとか、習うとか、はたまた、こうなりたくて自分も鍛えようとか、そう考えてできるものではない。脳みそと心の構造の問題だ。記憶しておくことや分類して整理をしておくことのメカニズムの凄さに感心する。

自叙自伝的な話も多くなった。歳をとることで昔には話さなかったことでも捨てるように吐き出せるんかもしれない。年齢と気持ちがもたらす堰のよなものが外れるイメージで話してしまうのだろうか。

今までは堪えていたのか、話すチャンスがなかったのか、それともわたしが(娘でなく)息子だったからか、孫がこうして大きなお腹をしているからか。理由までは訊ねたりしないけれど、話す内容はしっかりと聞いておかねばならないことの連続だ。

冬至のあくる日に尋ねたのは、正月の餅つきのことを訊いておきたかったからだ。
だが、いつものようにストーブの前で話し始めた母は、自分が赤ん坊を生む頃の話をし始めた。
わたしには弟があるが、死なかしてしまった子が三人あったのだという話である。

大きなお腹のウチのムスメが安心するようにと思ってか、おばあちゃんの経験的な昔話なのか、これから子どもを生む子を心理的に安心させるためなのか、それほど深くを考えてのことでもなく、むかしを単に回想しての話であったのか。

死なかした三人の子について、どんな気持ちで思い返したのだろう。
大きなお腹を見ていると昔の記憶が蘇ってくるのだろうか。

一人は1年半ほどしか生きられなかった長女の話であった。貧しいのと農家が忙しいことで、ろくに医者にも連れて行けず死なかしたという。
あとの二人はわたしと(5つ離れている)弟の間にできた子で、八ヶ月と七ヶ月でそれぞれ流産した。
生まれてからもピクピクと動いていたというような少し怖くて残酷なことも平気で言う。わたしにはこれまで一度も聞かしてくれなかった話であった。

弟は7月10日に生まれるのだが、生まれる間際の6月25日にもまだ田植えをしに田んぼに出ていたという話も聞いた。

今の子は大切にしてもらえて、更に医学も進化して安心して産めるから幸せである……というような単純な話では決してないのだ。

そこには60年の社会の進化と変化があり、人々のイデオロギーの遷り変りがある。暮らしのスタイルが姿を変え、身の回りにある物質が豊かになってきた。家族の体系が新しくなり、幸せ感にも大きな差異が出てきている。

母はそんなことを理屈でいう人ではないのだが、その糾える縄のように変遷する時代の襞のひとつひとつまでをしっかりと見つめ続け捉えている。そういう視線で語っていた。

話の深みを聞き逃すか、聞こうとしないか、聞いても理解できないのか、聞き取れないか。
貴重な話を生かすも殺すも、これからの人に任されている。

年の瀬に母を訪ねて考える ─ 冬至篇

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とうみ