✣ GW 五月はいつも旅をしてた 三、 ✣

🔙 ✣ GW 五月はいつも旅をしてた 二、 ✣
から続いてきています


✣ ✣

しかし・・が続く

🏍️ 人生が二度あれば

もう一度同じことを繰り返すだろうか

答えはノー

旅に

⚪︎感動をもとめた
⚪︎未知なるものに惹かれた
⚪︎人のふれあいに喜びを感じた
⚪︎感動を共にしたかった

そこまでは 誰でも同じであった

🏍️ どこまでも『美的』でありたかった

しかしながら

一人旅は 無鉄砲、無謀、身勝手、逃避などの特色を持っていた
だが 決して軽々しくはない慎重な旅でもあった

実際にその地を訪ねてみたときに 想定通りの事柄が無かったりしても 驚愕で行動心が崩れ去る一方で 心のどこかで そんな覚悟も持っていた

すぐに手配できるはずのフェリーや隣街に通じる峠道での臨時工事、通行止め、開いているはずの店や想定外の混雑で泊まれそうに無いことがわかった宿であるとか

1000キロにも及ぶ青森までの道のりを 高速道路を一切使わずにB級国道、峠や歴史街道を選んで走ったりしたし
(笠松峠では涙を流し 海が見えるところでも感涙して)

そんなスリリングで冒険的な旅だからこそ その向こうに楽しみが見つけようとしたほんとうの自由があり 誰にも左右されない自分がいたのだ

自分が自分である旅を続けることができた

・・という 思い出を振り返れば
幾らでも『美的』にあの時代を甦らせることができる・・のではあるが

🏍️ 諦めるための準備

併しは続く・・

九州や東北を 列車やバスで旅をしている今がある

仕事の足を洗ってからは 列車の時刻表を念入りに確認し
宿にあっても空き状況を調べ 可能であれば予約をしてゆく

「ツーリングに飽きたのではないか」と囁かれたことがある

だが 飽きるほど徹底的に行き尽くしたわけではなく そもそも何事も飽きるまで貪り尽くすタイプではない

諦めるために納得をしようとしたのか
自分の限界を確認しようとしたのか
精一杯 死に物狂いで挑むタイプではない
燃え尽きることもない

冷静な自分と向き合いここまでできれば上出来の感触を得たら手を引くのか

それを世の大勢は「諦める」とか「飽きる」と言うのか

🏍️ その辺でやめて一体に戻ろう

そういう感覚があるのだ

家族があってムスメがいて それぞれに暮らしがある

二人の間にも 好き嫌いや興味の違いがあろうけど それを受け止め合う
譲るのではないし 我慢をするのではない 諦めたり妥協をするわけでもない
性格の違いを 合わせるというものでもない

二人が一体になって生きてゆくためにこうしようというものがある
それを自然体で日常にやっていくだけのことだ

自分の体の中で胃と腸が喧嘩をするように 一体になった二人は喧嘩もしながら 生きている

そういう時間を手にするために 実際には
失業して貧しくてバイクを維持できなかったのかもしれないが

すまし顔で 新しいステージのドラマを始めたのではなかろうか

三台の自動車のうち二台を始末して 生活スタイルを大きく縮小したし
高齢者のコーナーに入れば(人生の)ゴールを意識せねばならないことにも気づく

あとがき

家庭のことなど省みるふうでもなく
仕事の時間から逃げ出して 自分だけが
逃避をしていた時代を振り返り
それは危険を伴う旅だったのに
必死になって魔物に憑れたように走ったことを
今となっては落ち着いて静かに振り返れる・・

家庭というのは
もっと 一体となって 苦楽を共にし
日々を過ごすものであるべきだったのだ・・と思う

ただ
人にはそれぞれの生き方があり 夢もあれば幸せのカタチもある
一言では語り尽くせいない


鹿児島 ─ 熊本 ─ 大分 ✫ GW明けの旅 (本篇)

なあ、こんどは 九州 いこか・・  (まえがき)

まず 伊勢志摩ライナー (15:24発)で京都(17:15着)へ
楽しみにしていたポルタのハゲ天で天丼を食べよう‥‥

ところがハゲ天に着くとお目当てにしていた天丼はランチメニューで午後四時で終了
お持ち帰りに切り替えて持って帰る

心配をしていた雨は 嵯峨嵐山駅(JR)を降りたときには まだ降っていない
別邸で食事を済ませて 翌朝の嵐電(始発の次の列車)に備える

夜半から雨が強く降り出している音が聞こえる

5月7日(火) 指宿温泉まで

1︎⃣

車折神社駅(6:15)から嵯峨嵐山駅まで 雨は小降りだったのが幸運だった

2︎⃣ 

京都駅でのひかりへの乗り換えも順調でサンドイッチとコーヒーを買う
新大阪までひかり531号で移動し 乗り換え
みずほ605号で鹿児島中央駅(11:36着)を目指す

3︎⃣

鹿児島中央駅前の観光案内所で情報収集をした後 荷物を預けて バスのフリー切符を買う

まず アミュプラザの中にあるざぼんという店でラーメンを食べて 次にシティビューのバスに乗る

西郷隆盛銅像はバスに中から撮影をして見学を済ませた
城山展望台で途中下車をして三十分で散策を済ませて仙巌園へ向かう

仙巌園は大きな庭園で 桜島が真正面に見ることができる
「千円はちょっと高いなあ〜」と言いながら 一時間余り散策をした

4︎⃣

再びシティビュー(バス)に乗って天文館で降り むじゃき白熊かき氷を食べる
練乳のかかった甘いかき氷で 大きいサイズ1つとアイスコーヒー1つ

その後 鹿児島中央駅に戻り 時間調整をしながら 指宿行きのディーゼルカー(二両)を待つ

5︎⃣

鹿児島中央駅(17:12)から指宿枕崎線の各停で 指宿温泉 を目指す
料金が1,020円なので それなりに遠く一時間ほど揺られていく

計画では指宿駅からバス移動をする予定にしていたのだが
時刻が6時を回っていたこともあってタクシー(¥900)でホテル吟松まで

6︎⃣

ホテルでは 風呂の前に 先に夕食とした
美味しい焼酎も飲んだし さつま揚げ を目前で揚げてくれるのをいただきながら初日が終わっていく

部屋は豪華で が一望でき 上階にあるお風呂も露天風呂
展望も素晴らしいというので 早朝にもう一度入浴しに出かけた

🏨 銀松(指宿温泉)


5月8日(水)鹿児島市内〜桜島観光

1︎⃣

吟松から指宿駅へはタクシー利用で 快速なのはな(8:08)で鹿児島中央駅(9:07)へ
昨日立ち寄った観光案内所を再訪し 観光情報を少し聞く

その後 バスで 桜島フェリーターミナル へ移動し 順調に「桜島フェリー」に乗船して 火山の島へ

2︎⃣

10時過ぎに 桜島フェリーターミナル を出航し 約20分で桜島に到着
島内観光のサクラジマアイランドビュー(循環バス)に乗る
このバスを待つ人の殆どが外国人で 通勤並みの混雑ぶりで 湯之平展望台 まで一時間近く立ったままだった

のちに聞いた観光案内所の人の話では 大型客船が鹿児島港に接岸したらしい
湯之平展望台へは臨時バスが来て 座って港まで戻ることができた
展望台からの桜島(火山)や鹿児島市街の眺めは迫るものがあって勇壮で 鹿児島市街から見るのとは一味違った

現在は噴火をしておらず ゴツゴツした火山の岩肌や頂上も間近に迫って見える
30分ほどで見学を終えて 順調にフェリーターミナルに戻り 天文館へと向かう

3︎⃣

天文館では 鰻の末よしという店を調べていたので直行する

メニューは「鰻丼」と「鰻重」があって 二人別々にそれぞれを食べる
丼は 普通のスタイルで、鰻重は 重箱に鰻とご飯が別々に入っているというのも名物らしい

味は 噂になっているだけあって期待通りで美味しい
思っているよりも薄い気味の味付けで 鰻の味がする‥というか 川魚を食べている匂いがするような気がした

4︎⃣

鹿児島では (バスの中から)西郷隆盛銅像西郷洞窟を見て、仙巌園湯之平展望に寄り、末よしで鰻を堪能した
一日目には「天文館・むじゃき」白熊(かき氷)も食べたし 計画通りで満足できるものとなった

5︎⃣

鹿児島市から熊本市までは さくら564号 に乗る
熊本駅に着いてすぐに 九州横断特急3号 大分行の切符を確保し 観光案内所で観光マップをもらう
少し話を聞いてドーミーイン熊本へ直行する

6︎⃣

ホテルに到着後 まだ明るいうちに 熊本市役所展望ルームを目指し 熊本城全景を楽しむ
次に 太平燕 を食べたくて 通町商店街の 紅蘭亭 で 夕食とした

太平燕のあとは軽いおつまみを買って部屋で寛ぐ
ドーミーインでは 夜鳴きそば サービスも食べて ラーメン三昧を過ごせた
温泉は高層階で 似たり寄ったりの温泉であるが 十分に癒される

🏨 ドーミーイン熊本


5月9日(木)熊本から大分へ

9日(3日目)は熊本城見学と水前寺公園を計画て 順調に進んだ

1︎⃣

まず ホテルを出て すぐに熊本城南口を目指す
入門の前に 桜の馬場城彩苑「ミュージアムわくわく座」を勧められ寄ってから天守閣を目指して歩く

地震災害の復旧が完全に終了するのは35年後になるという
天守閣へと至る歩道も立派に作られているが 崩れている石垣を見下ろしながら 仮設の橋脚が続く

応急処置で 天守閣だけが見学が可能である
お城の歴史展示を見学しながらコツコツと 6Fまで階段を上って行く

2︎⃣

天守閣から見下ろす風景は なかなか見られない雄大な景色だ
お城の見学を済ませた後に 市電のフリー切符を買い 市電水前寺公園へ移動をする

公園は 入園料も360円と安いし 綺麗に整備されていてゆっくり回ることができる
予定通りの時間で周回して 下通商店街へ向かう

3︎⃣

昨日も食べたが再び 紅蘭亭 へきてランチをする(酢豚のようなお手頃価格のランチ)
黒亭のラーメンも候補に上がっていたが 麺類が続いて 少し飽きていたのでご飯を食べる

食事を済ませ 通町を散歩をしながら ホテルに預かってもらっていた荷物を受け取り 熊本駅へ移動する

4︎⃣

駅のスタバで時間調整をしてお土産物屋さんも見て のんびりと時間潰しをして 九州横断特急3号大分行に乗る

切符が 前日に買ってあるので 熊本駅を15:5分に特急で大分駅には17:57に到着する

3時間ほどかかるので 最初は「あらっ」と驚くのだが 阿蘇を横断して行くディーゼルカーで 急な上りを唸りを上げて登っていく列車に乗ってみてなるほどと納得した

途中でJR立野駅にスイッチバックの箇所があり 阿蘇の温泉郷も通過していく
阿蘇山の外輪山も遠くに眺められ 列車に乗る楽しみを味わうことができる

5︎⃣

大分駅に着くと すぐ駅前にドーミーイン大分があった
夕飯を食べる店をホテルで教えてもらい少し歩くが人気の店であったらしく予約で満席

駅まで引き返して 駅構内にある豊後茶屋とり天定食を食べる
美味しいものを腹一杯食べてきているので 少し食欲が低下気味だ

おつまみも焼き鳥だけにしてホテルに帰り 夜鳴きそばサービスもパスした
最終日のターゲットを 海地獄鬼石温泉と決めて ゆっくりと眠った

🏨 ドーミーイン大分


5月10日(金) 別府温泉から新大阪・名古屋経由で帰宅

1︎⃣

ドーミーの朝食は 一部のマニアに人気があるようで 噂の話を聞いていると楽しい
したがって 朝から満腹でホテルを出て 別府駅に9時頃に着き観光案内所で話を聞いて荷物を預けた

すぐに海地獄に向けるバスに乗れて10時前に鬼石温泉に到着する
予定通り家族風呂(二千円)に入ることで万事順調

1時間以内で風呂から上がって すぐ横の 海地獄 に入園し ゆっくりと地獄を見学をする

地獄見物は 鬼石温泉から覗いた鬼石地獄と海地獄 の二箇所の見学で済ませた
12時過ぎに駅へのバスに乗れる

2︎⃣

駅に早く戻れすぎたのであるが 疲れも出始めているので のんびりと贅沢に時間を潰すことにした

観光案内所で聞いていたまやかしやというお店に入ってりゅうきゅう定食(鰤の漬丼)としらす丼を食べる

そのあと 時間があったので別府タワーまで歩いて行ってみる(800円/1人)

3︎⃣

そんなふうにして時間を潰して 帰りの別府駅からソニック38号に乗った
小倉駅で駅弁を買って のぞみ46号に乗り換えて一気に名古屋まで

広島で小6の坊やが乗ってきて新横浜に単身赴任をしている母さんに会いにいくという
一人で寂しく座って本を読んだり居眠りしたりしているのが可愛かった
初めてだとい言っていた
母の日も間近だから会いに行くのだろう

4︎⃣

🚃 別府駅(14:53)ソニック・にちりんソニック38号
🚄 小倉駅(16:16)のぞみ46号
🚃 名古屋駅(19:33)快速みえ23号
🚌 駅からバスで自宅近くまで(8:55)



➤ 九州 おでかけ ✤ ギャラリー(食)
➤ 九州 おでかけ ✤ ギャラリー(風景)・ コンデジ版

「諦める」のは残念なことなのか ✶ 四月尽に考える

➤老いる

ふと「老いる」を深く考えようする時間がある

そのとき 過去を振り返る心は あらゆる方向からのあらゆる視点が幾通りもの答えを導くだろう

何が正しいというものでもない中からどれかを選んで それを信じて 突き進もうと 若いころならば考えたに違いない

しかし そのように必死で抜かりなく突き進もうという気は もう今はさらさらなくなってしまっているのではないかと 自分を見つめて思う

やりたいことはおおよそ済ませたし 出来ないことにチェレンジして 一通りの失敗も経験したから 粉骨砕身の気合いで挑むことなど ひとつもない

だからと言って 達成感に満たされながら身も心も絶えてしまってもよかろうというつもりもない

自分の器に自在の姿で収まって 昔の荒波を思い出すのもよろしい、もう一度 荒波に挑んでみるのもよろしい

大空を飛んでいるような無重力感のようなモノではない、しかしながら、無気力で無欲なモノでもない

もっと冷静にありのままを見つめて 今の自分の在り方を如何にするかという損得も見栄もない落ち着いた自分の姿だと思う

『有事斬然』『無事澄然』 座右に置いた『六然』の言葉を手元によせる

➤諦める

諦めるという言葉を無意識で使っているかもしれないことで 生きる道に尻込みしているのではないかと自分を少しばかり責めてみたときがある

しかし 諦めるという言葉は もっと大きく自分を包み込んで受け止めたゆえに生まれてくる言葉かもしれないと思うことも増えた

諦めれば前に進めないという印象があるが、しかし、立ち止まって自分を見つめている姿には美しさもある

冷静さが感じられ 「考える人」の頷きに似たものが漂うような気がするのだ

素直に自分を見つめて 周囲を見回して 何がどのように変化しているのかと まず考えてゆく

諦めるということは自分の本質と真正面から向かい合うことではないか

➤見つめる

「諦めることは見つめることなのではないか」というような答えともヒントにもならないようなことを考えながら

結局のところは 終着駅に辿り着くまでに自分の着地点をしっかり見定めておくことが大事なんだ

ゴール直前のストレートを駆けるときに明るい顔でみんなに手を振りたいという夢のようなシーンや、ゴールに着いて一息ついて 祝勝会をするときの ヒーローインタビューのようなものでカッコよく人生を振り返りたいとか

そんな夢のようなことばかりを考えている

もうこれ以上 苦しんだり悩んだりしたくないから まず『自分とは一体 何なのだ』という素朴な疑問に向き合うのだろう

諦めることは イケナイことではなくて 自然に還るってことなのかもしれない

➤言い訳

だから「老いることは悪くて残念なことか」という問いに答えを求めようなんてナンセンスなのだ、老いていくことは 悔しくもないし 残念でもないし 後悔もそこにはない

というような・・言い訳のようなことを積み上げてみた

世に出回っているハウツー本や軽々しく一丁前を書く人生論もどきが流行したりベストセラーになったりする時代だ

「何も分かってはいない」と言って世代ギャップを嘆いてはいけない

老人はひっそりと奥に鎮まって居るのがよろしい


✶ 諦める:諦めるを辞書で引いてみる、諦らか:明らかに観る事、現実をありのまま観察する事

穀雨篇 ✢ 京都日記・余韻 二、長生きは 理想か

大観小言という分類にしてみるか
世の中に不平不満はないものの
ちょっと小言ぼやき呟き
吐き出したいことが多くて・・

大観小言

京都日記・余韻 二、

【毎日ぼんやり、寝てばかりいる】

半日前のことを記憶していないのなら半月前にムスメが訪問をしたことも記憶にないのではなかろうかと心配をする

ツマが言うには 少し時間の空いた出来事は ぼんやりと記憶していて そのころにそんなことがあった・・と覚えているのだととそういう説明を聞いて これ以上は理屈では考えてはいけないのだと自分に言い聞かせている

人と会ったことを記憶しないのであるならば また今度 誰かに会いたいから 何か行動をしよう という気が発生しにくくなるだろう

つまり 今日のこの先の時間に何かが起こることを待たなくなってしまうならば 頭の中の時間が止まっている状態と さほど変わらなくなってなってくる

これは 脳みそが生理学的に生きていたとしても 死んでいる脳みそとそれほど大差がない・・とも考えられないか

しかしだから そこで 生きているとはどういうことなのか・・という大きな命題と向かい合うことになる

【長生きは 理想か】

医学という学問を責めるつもりはない

人が知能を持っているゆえに 科学は進化をして 縄文時代には考えもしなかった術を使って命が長くなっていることは 文明の進化であると言えるし、難病も克服したし 高齢になっても日常を快適に暮らせる社会になっている

そのおかげで 長生きできてしまう現代の高齢者が この長生きの時代をどれほどまでに歓迎しているのだろうか、と言う新しい悩みが生まれている

医学の暴走とも捉えられかねない治療技術が一般化しているような声も聞こえ、つまりは 生きている意味を考える というところに到達する

裏を返せば痴呆脳の人は安楽死してくれれば 自他ともに幸福だということか・・

【生きる権利】

人には生き続ける権利があって 勝手に奪うことは許されないわけだが その意思がなくなったら 停止させてもいいだろう、誰かが代わりに止めてもよいのかもしれない

問題なのは 意思がなくなったかどうかを判別する点にある

意思を表示することが出来なくなった人の意思を 奪って勝手にあるなしを判定できないところが難しい


そんなことを書いては消しての繰り返し


診察があった日 鰻を食べて 時を待つ ✷ 清明篇

月のはじめに考える
清明篇

平成三十年三月三十日に花束をもらって職場を去った写真を見て
それは遙か過去だったような錯覚に似た感情が蘇る

しかし それは
実はもう今の僕が求めているノスタルジーではないのかもしれない
と、ふと思った

方向転換をして
生きるということに
真正面から立ち向かおうとしている

世の中の動きに疑問と反発を持って 生きてゆくことが
目に見えない命を脅かすものと闘うことよりも
厳しくて楽しいことなのかもしれない

時を待つ

その言葉が頭のどこかにへばり付くように残っている

それは「待つ」という言葉を 不要なものにするかの如く
忘れかけている現代人への警鐘にも思える

書きかけて温めている間に次のセッションを迎えてしまう
「また明日あたりに書きますね」なんて呑気なことを言ってられない

一年中 次から次へと追われているか または せっかちに急いていたときは
目の前にくる課題を(適当ではないが)テキパキと処理をしていた

「いつかゆとりで仕事をしたい」と夢を見た

何を待つのか

ところがいざ 追われないところに座してみると 『時を待つ』などと
気取ったことを言っている

おい、何を待っているのか


診察があった日、鰻を食べて 雨上がりを待つ ✶ 清明篇 雷山無言

生き続けるとはいかなることか…を考える ❇︎ 春分篇 ─ 雷山無言

啓蟄から春分まで
穏やかな日が続いた
手術を終えて二ヶ月目を迎え
血圧は目を見張るほど改善されないものの
上昇し続けることもなく上限値付近で横ばいを続け
減塩食生活も定着してきている
母親が突発的に体調を乱し急遽入院となったものの
数日で退院をして元通りのように暮らしている

そんな暮らしの中で
次の手術を春から夏ころにしようかとという決心も固まってきている

❇︎ ❇︎ ❇︎

◉麗らかな春に思い出す事がいくつか頭の中を流れていく

  • 入学の頃や卒業のころのこと
  • 吹奏楽団の演奏に夢中にいなっていたころのこと
  • 仕事を引退して もう働きにはいかないのだと決めたころのこと
  • クラスメイトと過ごした学校を卒業して新しい学校に行く
  • 必勝を共にするライバルたちと共に経験のない寮生活を始めたり
  • 大学に合格して大学生活を始めたり
  • 毎日を睦まじく過ごしてきた友と別れ大人の社会に旅立ったときのことなど

◉子どもは巣立って
孫たちは二人とも小学生になる

いよいよ 自分たち人生の終着を計画しなくてはならなくなってきた

若かったころやモリモリと働いていたころには考えも及ばなかった思いが
次々と頭の中に湧いてきて それが姿形を変えて巡ってくる

多かれ少なかれ 同じ年齢の人は横並びに似たような思いなんでしょう


◉そんなことを思いながら今年(令和六年)の年度末を過ごしている
もう年度末という言葉も無縁だ
定年とか出世とか昇進とか異動という言葉も無縁

いつかそんな束縛から解放されて呑気に暮らしたいと夢を見た時代があったのだ


◉仕事をやめたら 日本中の鄙びた気に入った土地に行って住んでみるのもいいな

どこに暮らしても安い家賃だけ払えれば衣食だけは同じほど必要だから…と考えてみたこともあった

雛を旅して まだ知らない村や人を訪ねてみたい…とも思った


◉夢は叶わないものだと諦めることで 人生の最終コーナーのイメージを少しずつ修正をしている
修正をすることは マイナスの判断ではないと思う

なぜならば 想定外なことは いつの時代でも常識的の起こるし ヒトの寿命が予測以上に長寿化して 高齢者の暮らす社会構造や企業体系 さらには福祉体制 景気なども変化してきたのだから

父が亡くなって二十五年以上を過ぎる間に 現代の高齢者社会に追従して生きている九十四歳というのは とても柔軟だともいえよう

***書きかけ

続・死生観  ☆

父の死生観のことをグルグルと考え続けている
前の日記を『死生観』で検索しても似たことを書いているだろう
中には 違ったことを思い直しているかもしれない
定まらない想像の中に 真実の姿を 映し出せるのだろうか

いつか直面する死を想定してあの世のことを父が語ったのを一度も耳にしたことがなかった

身体が弱いことは十分に承知をしていたはずだし 自分も父親を三十歳のころに失っているだけに 短命という不安がなかったとは言い切れない

だが 六十六歳という未来に死んでしまう(かもしれない)ことを不安だ思うとは 誰にも喋ったことはなかった

死ぬ事に立ち向かって生きようという気持ちが激しくなかったのだろうか

運命とは与えられているものだ、その時期が到来したら受け入れるしかないと そう思っている人だったのだろうか

それは子どものころからの病弱さゆえに 自然に受け入れている諦めであり 命は授かったものだという考えだったのかもしれない

命を賭けるほど手術を六十歳で決心している

それほど悲観的でもなく勇敢に挑戦してしまった本当の気持ちを 面と向かって聞けなかったままだった

あの時の決心はどこから生まれたのだろう、もしも死んでしまったらどうするつもりだったのか・・

そのことをあの時に聞こうとしなかった自分を 今となっては悔やんでいる

ぼんやりと人生を捉えて生きてきた

生きるということの壮絶さを甘く考えていた自分の人生観の甘さと死生観の意識の未熟さを今となっては後悔している

つづく


二十七回忌に考える・父の死生観 ✳︎ 大寒篇 

毎年大寒になると『その翌る日が母の誕生日でまたその翌日が父の命日』というように父のことを思い出し 心に命じる戒めを拾い上げて確かめる

日記には似たことばかりを書いているのが些か滑稽であり恥ずかしい思いをしながら 冷静に考えてゆくと 蘇って来る事柄や心に命じる気持ちは何年経っても変わらないのだ……と明らかになってくる

今年も例外になく 止め処なく記憶を辿ろうとしていた

あのときや生前のこと、あの人が生きた時代に何を考え 何を愉しみ 何に向かって生きていたのか、その日々はどんなものであったのか、どのような言葉を語り残してきたのか・・

そんなことを 思い出して考え続けている

六十歳をすぎて腰の手術に踏み切ったときには 現代医学から考えれば まだまだ命懸けであったはずの決断をして腰の手術に踏み切っている

死ぬかもしれないという不安はなかったのだろうか と想像すると 父が『生きる』ということをどのように捉えていたのかが知りたくなる

何度も救急車で病院に運ばれているし 一キロ離れた救急車がある消防署まで自力で這うようにして行き運ばれて入院をしたこともある

高血圧に起因する動脈硬化 心筋梗塞 心不全 腎臓の弱体化 脳梗塞 脳内出血 脳卒中に伴う痴呆 というように教科書を辿るように病気には侵されていた

そのような危険な身体でありながら 腰椎の手術を決断している

「身体が弱いのは若いころからだ」と母は語る

腎臓が悪かったとしか語り継がれていないので真相は全く分からないのであるが 母の語りによると結婚したころから農家の長男でありながら重労働には不適で 農家の合間に出かける土木作業員をしても激しい仕事はできなかった

そんなこともあって持ち前の器用さを活かして片耳が聞こえなかったけど重機の免許を人よりも早く取得して仕事や農業にも活かした人だった

結婚以前のころから農家をしたので 重作業による脊椎変形になりそれが四十年後にはもう我慢の限界だという痛みになってきたのだ

命を賭けて 手術に踏み切っている

その手術の結果が成功で痛みは解消したのかどうかの話も自らの口からは語るような人ではなかったので 手術後(六十歳後の人生)にどのように仕事や生活が変わったのかを はっきり知る人もいない

亡くなるまでの六年間 何を思って生きたのだろうか

しかし 人生は 思うようには行かないものだ

その疑問には 祖父や父が死亡した六十六歳という年齢に 実際に自分が到達すると漏れなくと言っていいほどぶつかる

多くの人が『人生』を考え『生きること』と何かを思案し『幸せとな何か』を何処かに問いかけるのだ

そんなものには「答えなどないのだ」と言いながらも 何かしら確たるもの(それは答えと呼べるかも)を誰ももが胸に抱いている

今 ウチに人は『痴呆脳』のとーさんに寄り添う生活が続いている

一年ほどの間に目に見える変化(悪化)がある

月・日・曜日の感覚を失くしている、面会をした人の記憶が消えてゆく、人物の記憶喪失が身近な人にまで及び始めている

面会に行く連絡をすると前回は何時来たかを覚えていたが 先日では二日続けて顔を見せているのに 昨日来たことをすっかり忘れていたという

父は 脳梗塞で何度も入院を繰り返した

痴呆の症状だったいう人もある一方で 次男である弟は「ボケたふりをしていただけだ」とまで断定したことを言い 死ぬ間際も普通であったと考えている

痴呆か誤魔化せるのなら 日常の暮らしでも極度に老化した爺さんとして扱えるかもしれない

六十六歳になった自分とあの時の父親とを並べて比較はできないのだが 一生懸命に記憶を遡れば 人の老化年齢とは 数字で見極められないことがわかる

六十六歳を過ぎると「幸せとは何か 如何に生きることなのか」「人生とは何だったのか これからどうあるべきか」「親孝行とは 何か」などと これまでに考えながらも 答えを掴めぬまま「おざなり」にしていたことに気づく

しかるべき時に ふと気がついたところで何ができたわけでもないだろうし 先んじて 手を打てるものでもない

ヒトは 「人生とは?」を考え続けることが一つの宿命なのだと思う

父は六十歳から六十六歳までの短い期間に死の不安を感じながら口には出さずにいたのだろうか

自分の部屋に篭り絵をかき 注連縄や草鞋の作品を作り続けながら 寒い小屋で何を思っていたのだろう

二十六年前の大寒のころには 生きる力を精一杯使い果たしながら 時計が刻む音に誘われるように冷たくなっていった

添い寝しながらその死に際を見届けてくれた人に そのように語り継がれるような死に方をしていった

腎臓が弱っていると診断されて 不整脈の治療を間近に控えているので 例年になく父の死生観が如何なるものだったのだろうかと 想像し考え入ってしまった

父からは画才を受け取れず 母からは長命の血筋も貰えそうにない

「人生とは」などと一言も語るのを口にしたことがない人であった
では 考えていなかったのかというと 人一倍考えていたことは間違いない

「どうしてわかるのですか・・」って「彼の 遺伝子をもらったからだ・・」
と二十七回忌の夜にそんなことを考えていた

受け継ぐもの それは何であろう・・『魂』のようなものなのだろうか



下旬号 ❀ 京都日記 やや温い日が続く 
大寒篇 ✤

自處超然 ✧ 寒中篇

手術を前に色々考えることはある
疾患の場所が心臓ということもあるけど

成人の日が過ぎて
日々日常の様子に特別な変化もなく
時々刻々と時間は刻まれていく

自處超然

福沢諭吉の言葉

人生は芝居のごとし
上手な役者が乞食になることもあれば
大根役者が殿様になることもある
とかく、あまり人生を重く見ず
捨て身になって何事も一心になすべし

を参照した日記を発見

➣ 寒中ど真ん中に考える – わはく㊙️伝2018年1月15日
➣  『二十歳のとき、何をしていたか❓』 ー 十月はじめに考える – わはく㊙️伝

二十歳や成人式のころを 振り返る二篇では「今の自分を見失わないことが大切だ」と言う思いを静かに自戒している

このころ ふと目を通した記事で自らの日記の行方に触れていた人があった

毎日の日記は永年の人生の蓄積だが いざ死を目前にした時にこれを遺族に明かすか明かさぬものかを思案し短い言葉で悩んでいる

日々の思いを新聞コラムの如く書き綴る人があれば どこにも吐き出せない思いを ひっそりと書き留める人もあろう

死の宣告が予期できるものであっても思わぬものであっても この日記の行方をどうしたものか・・と考える人は多かろう

もしも明かしたいというならば それは「伝えたい」のだろうから「受け取る」側にも支度が必要になる

我が日記を振り返れば 四千数百篇の記録がある

命を失えばこの世から姿が消えて PCのリセットボタンを押せば 全ての記述が一瞬のうちに消える

消えてしまう「発言」がとても惜しいと 私は思う

父は 晩年に書いた絵画作品が何点かあったほかには モノも日記も言葉も残さなかった

十年・二十年の年月が過ぎるうちに 思い出という記憶だけなのが「人生最大の失敗であり後悔」と感じるようになる

高齢を迎えて 考えが少しずつ変化し 余分な拘泥は 削ぎ取られてゆく

五百週間生きるか 千週間生きるか

勝負を賭けるつもりもないが 攻略方法を練るのも面白いじゃないか


ちかごろ ギャラリー

塩分を気にしながらも おやつのたい焼きシュークリームを食べたり ガストのランチを食べています
ガストは ランチメニューを検索すると 塩分成分表を参照できます

『地震カミナリ火事おやじ』の警鐘  ✦ 令和六年 新年 雑考 (小寒篇・裏窓から)

令和六年 新年 雑考

『地震カミナリ火事おやじ』という言葉がふと思い浮かぶ
現代人が忘れている言葉だ

忘れていってしまうこと自体はとても幸せて豊かなことなのだ

けれども
しっかりと刻んでおくべきことを粗末にすることは 避けねばならない

切り捨てる

先人の言葉をしっかりと受け取ることは大切なことだ

しかし そんな自明なことが わかっていない人も多く、一生懸命に説明をしても 真意が届かぬことも多い

だからと言って 一度 痛い目に遭えばええのや と切り捨てるわけにもいかない

災難

地震と事故のニュースが続いた

報道は 冷ややかな澹然さで震度7を伝えつつも 炎に包まれて飛び散る航空機を映し出す

これを見ていると遠い国で起こっている戦闘の叫びが絵空事のように捉えられて 温かい新年の団欒の中で それらの様子が 歪んで伝わっていくようで恐ろしい

災害の報道を 『高みの見物』的に報道するメディアの姿勢に 思わずとても腹が立ってきて「皆さんはいかがか」と呟いてしまった

恩を返す

だが それは メデイアにとっても安泰で幸福な国民からすれば 本音であり、怒りでありながらも不安でもあり辛辣にいえば『対岸の火事』なのだ

何も手を差し伸べられない焦りとモヤモヤの奥には 本来なら飛んで行って何か役に立ちたい気持ちがある一方で、幸せボケにどっぷりと使った自分に嫌悪感が突き刺さる

だが今の自分には これらの事態に対応できる余力を失った暮らしをしている

かつて 少しばかり豊かだったころには 中流ぶって何も行動を起こせずにいたくせに・・と振り返ると 募る心配のやり場がない

ヒトというものは 辛酸・苦汁を舐めてこそ そこに潜む本当の姿に出会え ヒトとしてのあるべき姿や恩返しの意味をやっと知る

辛酸を舐めることが必要条件とは言えないにしても 「現代人は甘い世界に浸りきってしまい 幸せに溺れている・・少し身勝手すぎるのではないか

そう思いながら 「これを言うたら嫌われる」と言葉を飲み込んだ

✩✩

胸に手を当てる

アル中の従兄弟がいて、家族も(多分本人も)そのことを悩んでいる

人生六十年を過ぎたら 歩く姿勢もモノを見る視点も 喜怒を感じる触覚も 軌道修正をしていくのが望ましいと考えている

鬼が現れて悪戯・愚行をする若造を叱るのは 人生の前半での場面でのことだ

四十歳を超えたら誰も叱ってくれなくなってくる(これは仕事でも似ている面がある)

それには叱る必要がない理由があるからで、愚行を決して許したわけではないのだ

ヒトは この怒られなくなることが怖いことで そこの意味に思いを巡らせ胸に手を当てることが大切なのだ

我が従兄弟には 最早や鬼が近づいて苦言を吐くことはないだろう

『地震かみなり火事おやじ』── 心に鬼を棲まわせて 自分の胸に手を当ててみる

✩✩

孔子の言葉は重く響く

子曰く
吾十有五にして学に志す
三十にして立つ四十にして惑わず
五十にして天命を知る
六十にして耳順う
七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず

✩✩

六十六年

平成六年が明けて いきなり大惨事が連続的に発生した

私にとって六十六年目の年を迎えており、この数字は 祖父や父が亡くなった年であるということであるゆえ 次々と自戒の思いが浮かんでくるのだ

二人は それぞれ六十年・二十七年前に何も言葉を残さずに逝ってしまった

幾つかの格言を口癖にしていたのを記憶するものの それを胸にする自らの思いを聞かせてくれたことはなかった

✩✩

『地震カミナリ火事おやじ』の警鐘

地震に襲われたり 飛行機が炎上する映像を目にして 過去から未来へと必ず右上がりに進化してきた現代を立ち止まって見つめ直してみたい

恵まれた環境を築き上げ、豊かな暮らしと幸せを手に入れて、自らが苦渋を舐めて勝ち取らねばならぬものがなくなっていく

経済の進化がお手本のように与えてくる新しい生活文化やAIが提示する提案に 素直な顔をして暮らしを築くまじめでおとなしい現代人

常に生活の苦痛と貧困に対峙していた世代から見ればもどかしさを拭いきれない

ガス、水、電気、灯(あかり)・・確かに何が欠落しても生活に支障が出ることは否めない

しかし 縄文人・古代人をこんな時に比較に持ち出せば非難されることは納得の上で その時代の人々は 果たして 苦難で不自由で寂しく悲しく貧しく不幸せな生活をしていたのだろうかと思いを馳せる

『地震カミナリ火事おやじ』

この言葉の奥には 現代人への厳しい警鐘が潜んでいるのではないか


 新年ギャラリー


➤ (外伝) 新年 ダイジェスト ✦ 点描

早や夏秋もいつしかに過ぎて時雨の冬近く- 小雪のころ

循環器科の診察の予定がカレンダーの骨組みを作っていく
そんな日々
その間に「ニュー・デューク・オールスターズ」の練習と京都日記が入り込む

早や夏秋もいつしかに過ぎて時雨の冬近く
この部分を引いて、歌舞伎の「雁金」という曲なのだと福永武彦の「忘却の河」で紹介する一節があって、それを読んだときから秋になるたびに、ここにただようもの悲しい風情と秘められた大人の妖しくも美しい惑いを感じるのです
誰が何をどうしようと時間は刻々と過ぎ去りやがてあの忌々しい時雨の冬がやってくるのだろうと思いながらもそこはかとなく冬を待つ私がいるのです

雁金の結びし蚊帳も昨日今日 残る暑さを忘れてし 肌に冷たき風たちて昼も音を鳴く蟋蟀に 哀れを添える秋の末 露の涙のこぼれ萩曇りがちなる空癖に 夕日の影の薄紅葉 思わぬ首尾にしっぽりと結びし夢も短夜に 覚めて恨みの明けの鐘 早や夏秋もいつしかに過ぎて時雨の冬近く 散るや木の葉のばらばらと 風に乱るる荻すすき草の主は誰ぞとも 名を白菊の咲き出でて 匂うこの家ぞ 知られける

(黙阿弥 「雁金」から)

飛び石連休であった
何もいつもと変わりなく時は過ぎる

今は減塩との闘い・・いや 闘っているつもりはないけど

✢ 書きかけ

燃える秋 - 初めてのバイク旅をふり返る (誕生篇)-『わはく百話』その七、

『わはく百話』に追加します
その七、燃える秋 - 初めてのバイク旅をふり返る (誕生篇)

ちょうど四十年前の十月の今日あたりに僕は初めて信州という未知なるところまでバイクで旅をしたのでした

仕事が連休だったという理由で 何の計画も立てず 夏に買った新しいオートバイで走り回りたかったのだろうと思います

地図も持たずに 中山道を北に向かって走って 木曽の宿場町などで休憩をして 観光案内で名所を探して 乗鞍高原というところに向かって走ったのでした

木祖村から『境峠』を越えて乗鞍高原に入って行くわけです

そこで 初めて 信州の大きなスケールの紅葉との出会います

大きな大きな山が聳えていて その山中が燃えるように色づいていました

名前も知らない樹々が一面に赤や黄色になっている

乗鞍高原というところにやって来ます

地図を持たずに家を出ていましたので 高速道路のパーキングでもらった道路地図を参考に走りました

乗鞍高原は予習をしたわけではなく 全く初めての信州です

宿に泊まって旅をするのも 未経験で 予約の方法も知らないので 観光案内所に駆け込みます

同じように旅館を探している行き当たりばったりの人が大勢あって 数人を纏めて 観光案内所で紹介された民宿では 大きな宴会場のような(屋根裏のような)部屋に案内されたのでした

あの頃は 人を疑うというようなことが今のようにはありませんし 客扱いが悪くても不平も言わずにいましたな・・・

貴重品なども相部屋のその辺に放り出して 免許証や大事なものが入ったツーリングバックも特別に片付けるわけでもなく、共同浴場に行ったり、知らない人同士で夜中まで旅の話をして みんなで枕を並べて寝ました

乗鞍高原では 野原に湧き出している共同浴場という温泉小屋がありました

木の板で囲った東屋のようなところです

そこでお湯に浸かって 温泉ってなんて素晴らしいんだろう と感動するわけです

前に紹介した『バイク考』の中で書いたように このころはあらゆるものが未完成で 進化の途上でした

そういう時代に旅人をできて 僕はとても幸せでした

秋も深まって来ました

四十年昔に訪ねた乗鞍あたりの山が恋しいなと思います

大自然の景色は昔と同じだろうけど 旅をする人の文化は大きく変わっています

もう一度 大自然に再会したいな って思うことが時々あります

心臓のエコー心電図を受診して もう少し詳しい検査をして判断をする必要があると言われました。心電図の結果が出たら 紹介状を書いてもらって 日赤病院へ行くことになります

祖父と父は 『高血圧』→『脳出血』→『脳梗塞』→『腎不全』→『心不全』という流れで六十六歳で亡くなりました

私もその道筋を歩む覚悟をして 人生の後半を歩んできました

今ここで『心臓疾患』の項目がシナリオの一つに出てきました

やれやれ困った

六十六歳です


痴呆の人にはもう会いたくないと・・月のはじめに考える - 京都日記(痴呆脳)

京都に来て座敷机に腰掛け
かれこれと考え始めれば まず『痴呆脳』のことが浮かぶ
不定期の京都日記を少し書こう

秋を迎えた。(新年になれば)とーさん も「サ高住」やがて満一年を過ごす事になる。この三季節ほどで 痴呆の度合いが著しく進行したわけではないもの 行動・思考意欲が低減していることなどから 体力が衰え 暇な時は横になるとか眠っている時間が増えたようだ

何もしなくなって食べることへの自主性も無くなって『眠る時間が長くなって 死んでしまう日が来る』

そう周囲の人たちが口々に言う

「こんな日が続いて やがて 死んでしまうのだ」

はっきりとそう言う人もいれば 頷くだけの人もいる。そんな本音だけの空気の中で 毎日を生き続けている。テレビ番組を楽しみするわけでもなく 時間になれば食堂へ行き 決められた食事をする。何日かおきに 幾つかの医院に通う

医者は症状の診断をするが 死んでしまえば業務は終了なのだろう。大学の研究室なら死んでもその原因や死亡するまでの過程を分析するところだろうが 町医者の仕事としては病人の診断して死亡と同時にその仕事は終了・・となる。よく考えれば医者の本来の姿として オカシイ。

病気の進行過程を分析してこそ医学者の医者たる腕が上がり 庶民の命を預かる使命を長い時間かかって果たして行くのではないのか・・とそう思った

そう言うわけで 記憶が甦ることなど全くない日々が続き 期待もなく 残り時間がじわりじわりと削られてゆく

(私の)伯母さんが施設に入っている。大正十四年(丑年)生まれだ(九十八歳)。昭和元年(大正十五年)が寅年なのでその前年にあたる。その六年後未(ひつじ)年(昭和六年)に母が生まれていて ちょうど九十二歳になる

二人とも元気だ。母は週三回のデイに通うのを楽しみにして 今だに「数独」の腕前は工学部のムスコ(私)よりも達人だ

一方、伯母は数年前から施設に入り 先ごろ少し重度の施設に移動したと言う便りがあった。

数ヶ月前に母は姉の面会に 妹と連れ添って出かけている。その時に実の娘もいて三人が揃ったのだが 娘はわかったもの あとの二人に「あんたら誰や?」と言うたそうである

先ごろ、鰻を食べに出かけた日記を書いたが「もう会いにいく気はない」とその時にそんなことを母は言っている。悲しいのだろうけれども 諦めがついた話ぶりだった

あとは自分がどんな形であの世に行けるのか・・それも神様仏様任せのようだったが、身体はすっかり九十歳を超えた老人の動きである。まだ少し 時間が 残されているものの覚悟はしている

「京都日記」では とーさん のこれからを考えていくつもりで日記にし始めた

ところが 寝てばっかしで ツマが面会に行っても一人でテレビを見て時間を過ごし 身の回りのことあれこれして帰ってくるだけだ


池の底の月を笊で掬う ━ 赤目四十八瀧心中未遂

生島さん、あなたにはも早、小説を書く以外に生きる道はないんです。人は書くことによってしか沈めることが出来ないものがあるでしょう。

尤も小説を書くなんて事は、池の底の月を笊で掬うようなことですけどね

赤目四十八瀧心中未遂172ページ 山根

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赤目四十八瀧心中未遂 (車谷長吉)を何度も読み返す

何度読んでも初めてのときのような感動が迫ってくる

線状降水帯を知らせる報道が続く日々 - 小暑篇 七月初旬号

七月になった
精神的に随分と老いぼれてしまった

痴呆脳の話を書いているが 自分も心配になってくる一方で そのようなことをくよくよ考えるから病に冒されていく側面もあるのではないかとも思う

六月までの電気料金が五千円以下で収まったので 後二ヶ月余りは気兼ねなく冷房を使って過ごそう

『裏窓から』を考えながら 頭の整理をすると

老後の生き方について
痴呆脳が回避できないのをどうするか
一人で暮らさねばならなくなったらどうするか
健康を維持することや病気の苦痛を回避する対策などあるのか

などを考えている

社会が行末に少子化の問題を負うてどうなるかとか
国際紛争が起こって若者が兵役にゆかねばならなくなったらどするか

などとは 想像しても 『勝手にしやがれ』『高齢者や先輩人生からの声に耳を傾けない罰当たりだ』と思っている

そうだ
近年 『バチ当たり』という言葉や概念が消えていった

これが そういう社会風潮が『ストレスを生む社会』を作り出し 『人権ばかりを主張する自己中な世の中』を誘発しているのだ

と 持っっともらしいジジイの主張をして 独りごちている


(短信)
星乃珈琲店でカツカレーを食べて 少し贅沢を味わう
九日は ムスメの誕生日で ケーキの写真が届く
北海道への旅の勢いでワインを五本も買って 一生最後の贅沢
誕生日とクリスマスのお祝いにしようと考えているが・・

* 裏窓から

『しっかり 考えてみたい』と書きながら
一向に書こうとしないのである

待っている人はいないと思うので
その辺で自然消滅をするのがよかろうか

・・

考え中

北海道 旅日記  草稿(二版)

26日 なぎさまち〜セントレア〜新千歳空港〜帯広〜東横イン

出発は朝8時前で 9時ころになぎさ町エアポートライン乗り場に到着。第二駐車場に車を置いて 荷物を押して船乗り場までゆっくり移動

なぎさまち〜セントレア

船は 時刻通り10時に出航し 定刻にセントレアに到着。はじめての飛行場(セントレア)を散策をして回る

ぐるぐるして徘徊している間に迷子の心配は消えていき チェックインの場所などを確認しながら たくさんの店を覗いて回って お昼の食事にお弁当を買ってオープンスペースのテーブルで済ませる

飛行機の展望デッキに出て 離着陸の飛行機をしばらく見て過ごし コメダでお茶をして時間調整をして 定刻に搭乗チェックインを済ませると 心配事が順番に消滅し 安心してピーチに乗り込める

新千歳空港へ

定刻(14時30分)に離陸し 定刻に新千歳空港に到着(16時半ころ)

心配だった荷物の受取りも難なく済ませることができ 到着後一時間以内で新千歳空港駅から列車に乗ることができ、南千歳駅でも迷うことなく乗換えて 特急『おおぞら』に乗車し帯広へ向かう。心配したような混雑もなく やや空席も目立つ程度であった

南千歳駅からは特急おおぞらに乗り少しずつ暮れてゆく北海道の景色を見ながら電車に揺られる

帯広駅(20時過ぎ)

帯広駅に着くとひんやりとやや肌寒く感じる。北海道らしい寒さだ。駅構内にあったセブンイレブンを見つけてビールなどを買ってホテルへ

東横インへ

東横インは駅から数分ホテルで、利用履歴があるので 安心。何もないホテルであるが 泊まるだけなので 簡単な朝食がついていてこれで十分だ。風呂に入って 寝るだけ

27日 オンネトー〜阿寒湖〜900草原〜摩周湖〜硫黄山〜多和平〜細岡展望台(釧路湿原)〜ドーミイイン

晴れ

朝食は東横インのスタンダードな食事で 8時前にチェックアウトを済ませ 駅のすぐ傍のオリックスレンタカーに向かう

車を借りる手続きも順調で 東横インに荷物を引上げに戻り カーナビに阿寒湖を入力して走り出したのが 8時半頃だった。阿寒湖をナビに設定し 足寄町を回って 阿寒湖を目指す

途中でオンネトーの表示が目に止まり 懐かしくなって 寄り道をする

オンネトー

オンネトーへは 車が2台通れるほどの広い道で 交通量はそれほど多くなく、湖岸まで綺麗に整備された道を走り難なく行け、駐車場には車が5台ほどで 最初の展望台で雌阿寒岳をバックに写真を撮る

1977年に野中温泉に来他頃は 山深いひっそりとしたボロボロの一軒宿だったが 今はキャンプ場などの 施設が周囲にできて賑やかになっている

雌阿寒岳が綺麗に見えるのを写真に撮って あんな高い山に夜間登山をしたのだな と感慨に浸る

1977年の周遊券ヒッチハイクの旅は 人間的にも未熟であったし まだまだ未経験で何も知らない危ない青年だった。野中温泉YH主催の雌阿寒岳夜間登山を終えた僕は田辺くんの免許証を預かってウトロへ行くのだ

1977年の北海道(R2)

オンネトーから阿寒湖は近くですぐに到着

阿寒湖畔の観光案内所の駐車場に車を停めておき 少し湖岸を散策する

エルム

『エルム』という喫茶店風の店をガイドブックで見つけていたので そこで『ミートソースとカレーのハーフ掛け』のパスタを食べてお昼とする

駐車場に戻る前に遊覧船が接岸する湖畔に出て記念写真を撮る。その後、松浦武四郎の石碑を訪ねたいと考えていたのだが、車を止めようと予定していた環境省ビジターセンターが閉館日で乗り入れられずに断念する

900草原@弟子屈

松浦武四郎記念碑は早々に断念したので 急いで900草原を目指す。大きな牧草地は広がっている360度の視界の高原だ

ルートに迷いはなく到着できるが 人や車はそれほど来ておらず 牛が放牧されている高原の中を頂上へと向かう

予想以上に時間が押していたので 次は 摩周湖を目指す

展望台には売店も設置されているが 閉まっている。ちょっと寂しい感じがした

摩周湖へ向う

真っ直ぐに摩周岳へと登って行く道路脇は牧草地で むかしに見た景色を思い出す

摩周湖では 第一展望台の駐車場(500円)車を止めて展望を楽しみ 『摩周ブルー』というソフトクリーム(500円)を食べる

摩周湖の展望台で寛いでいる間に突然 霧の雲が流れてきて湖面が隠れてしまった。写真だけを撮って 駐車券が 硫黄山とセットなので 硫黄山も経由で 多和平へと向かう

86年に来た時は硫黄山で食事もし 川湯温泉で宿泊もしている

多和平

多和平には寄りたいと考えていた。むかしに開陽台によった話を懐かしみながら道を辿る。だが カーナビが案内をするルートは寂れていて 地図を持たない旅なので全体が見渡せず不安を抱いての移動だ

天気が 小雨混じりに変わり 多和平の駐車場では少し時雨ていたので 車の中から草原を見渡すだけで済ませて 釧路湿原の『細岡展望台』を目指す

細岡展望台(釧路湿原)へ

釧路方面への道路は 地方道(道道)を通ってゆくが、牧場を横切るところもあり 牛の横断で車を止めねばならないこともあった

国道から 数キロほどくねくねとそれて行き交う車もない道を山の中へと入っていくと釧路本線が通る付近まで行ける

細岡駅釧路湿原駅があって 晴れていれば 綺麗な景色を見下ろせたはずですが・・少し霧雨っぽい

少し雲が出たり霧がかかったりの変化であっても 雨には降られず 傘なしで少し散策ができた

この展望台は 期待以上に良く 感動的だった

幣舞の湯 ドーミーインPREMIUM釧路

ホテルには夕刻6時前に到着できたが、遅かったので 立体に車を止めることになった

小雨がパラパラと降っていた。チェックインを済ませてすぐに食事に

釧路フィッシャーマンズワーフ MOO へ

ちょっと節約ムードであったが せっかく来たのだからと ビールを一杯飲んで ホッケも食べて 地場産の焼き鳥やアスパラも食べてみた

部屋に戻ると ホテルから夜鳴きそばサービス(無料)があるというので 一階のフードコートへ。ちょうどお手頃の量の 美味しいラーメンがご馳走になれて大満足

展望温泉 

13階に展望温泉がある。さらに 休憩スペースがあって アイスや飲み物がご自由にとなっている

アイスクリームは 小さい目だが 何個食べても良さそうなので 何度か足を運んで 二、三個ほど食べた

さらに 朝風呂の後には ヤクルトのような乳酸菌飲料も置いているという 至れり尽くせりなホテルだった

海鮮バイキング(朝食)

このホテルは 朝食バイキングが 海鮮食べ放題だった

朝は混雑すると説明があるが 六時から開けていて それほど並ぶことなくゆっくりと食事ができた

貝やホタテを焼いて一個づつ貰い 小さなどんぶりに海鮮を自由に盛り付けられる

小鉢もいくつか揃っていたし、食べすぎないように気をつけながら食べた

ホタテや貝はもう少し貰っても良かったのだけど 朝から食べすぎても 色々と心配後も起こるし・・・

28日(三日目) 帯広十勝へ

釧路は霧の朝だ。前夜から時雨気味だったが 朝にはほとんど苦にならないほどに小雨になっている。釧路は霧の街らしい

十勝帯広方面へナビをセットして 海岸沿いの道を走っていくけれども 霧が一向に引いていかない

ほんとうなら 十勝沖の大きな海が左手方向には広がっているはずだが 残念なことに 全く霧の中で見渡せない

池田ワイン城

念願のワイン城には11時頃に迷うことなく到着する。真正面で写真を撮って すぐにレストランへと向かう

迷うことなく 十勝牛のステーキを注文する。ステーキを注文すると ガラポンのくじが引けるというので チェレンジをする。なんと ワイン『山幸』ハーフボトルが当たりました

幸運は絶好調です。もちろん 夜にホテルで飲んだ

六花の森

ワイン城で気を良くしたので るんるんで 『六花の森』を目指す。入園料は千円

森の中を一通り回って 『六’cafe』(ロッカフェ)でお茶をしてくつろぐ

愛国駅と幸福駅

幸福駅跡と愛国駅跡 予定通り

今更何があるわけでもないのだが かつて訪ねて写真も撮ったので 同じ場所に降り立ちもう一度撮ってみるのも記念になろうと考えた

建物は廃れていく、人々の記憶も次第に薄れていく

駅に書かれている記録によると 僕たちが初めて来た1986年の夏には まだ汽車は走っていた

でも あの時僕たちが来た時には走っている汽車を見るわけでもなく 汽車と写真を残そうとした記録もない。完全に消滅してから色々な思いが湧き出てくるものだ

あのむかしにどうして汽車が来るのを待ってまで記念を残そうとしなかったのだろうか

レンタカー 雑感

レンタカーに止めるたびに気づくのだが 六割から八割ほどがレンタカーだと摩周湖の駐車場で気がついた。同年代くらいの夫婦か女性の友だち同士のようで、どの辺りから来ているのかはまちまちのようだが コースも似たり寄ったりのような旅をする人六十歳ほどの人が多い

レンタカー操作

レンタカーについては 運転操作は問題ないが 細かいボタン操作がわからないままであった

釧路で濃霧に遭遇するものの フォグランプがあるのかどうか未確認であったし、わざわざ降りて確認するのも面倒で そのままで走った。後で前に回ったら 補助ランプは装備されているものの 点灯スイッチの場所がわからないままだった

燃費

燃費は計算をしなかった

3500円余りの給油だったので20ℓの消費、燃費を30km/ℓとすると600kmになる

平均速度が40キロほど、12時間程度の運転時間ではないか

29日  帯広〜千歳空港〜セントレア〜なぎさまち

千歳空港まで

帯広から特急『とかち』で。空港では お昼に 札幌ラーメン を食べる。『雪あかり』という店だった。お土産を買ったりする余裕も十分

千歳からは順調に飛行機に乗れて

セントレアへ

ここで夕食とする。北海道に向かう時に食べるのを迷った丼物のお店で 今度は親子丼を食べる

待ち時間も 長すぎることもなく 程よいゆとりで なぎさまちまで帰り着けた

我が家に着いたのは九時前でした

なぜ 北海道か その二、

なぜかを考える

旅に出かけようとした動機を振り返る

北海道に旅する必要はなかった

はじめは銀山温泉へを計画してあれこれと宿を探すものの思い通りに計画が立てられず、ふと検索で出てきてしまった飛行機のフライトの値段が安かったので北海道へと心が動いた

安く行けるのならばいつかは北海道へと考えていたこともあって少し詳しく調べ始めてみると すっかり北海道を少し楽しんでみようという気になっていく

心のどこかに北海道はあったのだが

二ヶ月前に予約をすると割安でチケットが買えることがわかり 計画は最初とは大きく変化していく

北海道にこだわりがあったわけではないが 旅人生の始まりが北海道からだったこともあって いざ行くとなったら密かに思い続けている北海道を楽しもうという思いが 日に日に大きくなる

その気持ちを そうように押して行ったのが 父が晩年に旅をした思い出の話であった

最後の思い出に

母は先に死なれてから二十五年を過ごし 昔の話しを時々聞かせてくれる中で 二人であちらこちらにツアーに連れ添ったエピソードを話し「死んでしまう前に満足がいくほどに旅をした 後悔することな何一つない」ときっぱりと言う

そのきっぱりとした言葉のキレが こちらの心を動かしたのだ

思い出は 自分のために作るのではない

残された人のためにも 思い残すことなく北海道の旅を満足しておかねばならないのだ

1977年にヒッチハイクで回ったのが北海道だったと言うこともあるし もう行けないかもしれないという弱気もある

「サ高住」暮らしも六ヶ月になります -  五月尽

GWが明けに京都を訪ねて以来 少し間が空いている。梅雨入りを迎え季節は次第に夏へと移り変わろうとしている

サ高住ぼちぼち

介護サービス付の住宅に入居して 今月で六ヶ月目を迎える とーさんだが 暮らしのリズムは少し落ち着いてきたのかもしない。ほぼ毎日かけてくる用のあってないような電話も 少し時間が短くなっているようだ

無責任な人たち

ツマ(長女)は毎日同じ話を聞き 同じ返事をしている。ムスメ(次女)やムスコ(長男)は 心配をしている様子も見せようとするわけもない。姉のところに (父の)様子を伺うために電話さえよこしてもこない

実のムスメやムスコなのだから 見かけほど以上に身を案じているのだろう とは思ってやりたい。しかしながら、第三者の僕から見る限りでは「もう用はないから苦しまずに凸凹なく日々を暮らして苦難なく (さっさと)亡くなってくれたらええ」と願っているようにしか見えない

今や稼いでもいないから 小遣いをくれるわけでもないし 遺産の相続においては 揉め事がゴタゴタが発生するような心配もなさそうなので、元気なうちにタカれるだけ子どもとしてタカった事だし もう齧りに行く用事もない。面倒で手間のかかる介護の世話など 長女がすれば良いし 必要以上に動いて仕事の役割を被りたくないし 自分たちの出る用はないものとしておきたいのだろう

死人を扱う

残された妻は 遺された会社の経営やお金のことで事細かく(痴呆を伴った症状でもあるが)がなり立てるような暴力的言動があったという理由で一切介護の協議の場には顔を見せず 名義が残してある会社から妻の分の給料を貰って 知られないところに部屋を借りて知らん顔をしている

介護にかかる費用については 月に何日か 面会と介護に行く長女に届くようになっている。長女の介護の様子を伺うように電話をかけてくる素ぶりもなく 全くの知らん顔を通しているように見える

人間の人生が収束してゆく期間とは このように冷たく静かなものなのだろうか、本人の暮らしぶりも周囲の人間の心も まるで死人を扱うように見える

薄情さ・さまざま

生きている時間が今後どれほどなのか・・という想像はできないし計画を立てられるものではない。しかし、たとえそれが一年であろうと十年であろうと顔色を変えずに淡々と水が枯れていくのを見るように これまでにも無関係であったように そしてこれからも何も事件にも幸にも不幸にも関わらないで 死ぬ時期を迎えようと待っているのだ

そんな姿が手に取るように見えてくる

人は その人物が何の得にもならないと分かってしまえば たとえ親子でも それまでの関係がお金をつながりにして結ばれていたのを実証するかのように そう思えるほどに ここまで薄情なものになれるのだ、と知らされる。相手が痴呆を患っていることで記憶や感情を刺激して人を悲しませる事もなくなってきているだけに 尚更 薄情である

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「生きる」と向き合う

六月になれば再び様子を見に出かける予定だ

長女としてどんな気落ちで日々を送っているのかを その私の立場からは尋ねることはできないし 問うてみたところで答えてもくれないだろう。 また その答え自体もなく言葉にもならないのかもしれない

「早く幸せにしてあげたい」という表現をすれば それは即ち「早く楽に死なせてあげたい」と望むのだと思われてしまう。しかし、時期を急いでいるわけではない。日々に活力があるわけではなく 明日への明るさも持って楽しみを胸に抱いて 一日を過ごしているわけでもない

ならば 明日にでも亡くなった方が誰もが幸せを共に受け止めあえるのではないか・・となってくるのだが そう思っていても言葉には出せない

行き着くところは『生きるとは何か』という事なのだ

﹅﹆﹅

行き着く果て

夏を迎えるので 暑くて寝苦しくならないか、脱水症状になりはしないか、窓開けるなどを自由自在にできないので 上手く快適に過ごす方法は無いものか、アイスクリームやお茶やお菓子は足りているのだろうか

そんな心配をしている。だが、先に書いた他の兄弟やツマ(後妻さん)は 何にもそんな事を日々心配すらしないで過ごしている

そのことへの怒りも不条理も感じないのだろうか と第三者として思うのだが その不思議を口に出すこともできないし 誰かに話すこともできないし 機会もないままの毎日が過ぎてゆく

* 考え中(訂正するかも)


千早茜 しろがねの葉 (読後感想) - 小満篇

生きるということは一体どういうことかと考え、はて、相対して死ぬことを見つめている自分の姿がある

それは 手に負えなくて自力ではどうしようもならない人生というものと立ち向かうことでもあって ヒトは いざ そんな得体の見えないものと立ち向かうとなったら闘わねばならないと知らされる

時には自分の信じることには反発をしながら それは諦めという弱い心になって跳ね返ってくることもあり、勝ち負けとは違った大きな舞台で生きながら生きていく数々の壁に抗うことになる

人生を一度でも考えたことがある人であれば 勝てないものに抗うことや時には諦めることが あまりにも当たり前の筋書きの一種で 勝ち負けではなく自分の人生という道を勝手に決めてゆく一面を持っていることも知る

もしも この物語の最初の頁から読者が引き止められるとすれば この恐怖と畏れと悲しみと幸せと歓びが滲んでいる一節に 脳みその痛点をつかれるような感触を感じるからだろう

作者の 頭の中で滾るテーマへの 雄叫びのようにも思えてくる

いかにも今風の人気作品とは 正反対の 分かりにくく難解で馴染みのない筆致がもたらす 底知れぬ震えのようなものを感じながら 特に直木賞ということも気にかけないように心得てながらも 「まやかしの」賞から久々に一歩抜け出す気迫の作品に出会ったと歓びが湧いてきたのだった

読み切る自信がないほどに読者を跳ね飛ばしてやろうというようなパワーが漲った文芸といえようか

なかなかの文学作品であり今の世にも捨てきれない作品があるのだと嬉しくワクワクさせられた

読後の感想など 他人の月並みな言葉をつなぎ合わせばいくらでもかける

大切なのは 歯を食いしばって 軋ませて 死にそうになって血が滲むような怒りや無念や憤りを そして無念と失望を活くる力に変えて行く人物の 強さを どれだけ共感できるかどうかだ

読んだ人にしかわからない

それは歴史の一つの時間をステージにしているのだけれど テーマは果てしなく作者の中で脈打っているのを 感じながら愛すること 生きることを 自分に問い詰めてみたいと思うのだった

❄︎ ❄︎ ❄︎

(読後余話)

作者は女性だと書籍のどこかに書いているし 各種の情報で年齢や紹介までもが書評と一緒に目に飛び込んでくる

物語のいわゆるネタバレはどれだけされても作品自体が持つパワーは簡単にはバレて来ない

そういう意味でネタバレは怖くないが 作者のお顔などの写真や経歴などは 全く初めての私にとっては いささか邪魔な情報だった

学生時代には書物の情報というのは簡単に出回ったりせずに 作者の顔(時には性別)なども謎のままだった

何かの書物の裏表紙などに紹介されるわずかな本の情報でその作家を知り興味を持って やがてはのめり込んでゆく人になって行くケースもあったのだが 今の時代は 出版社の戦略もあろうがすっかり時代が変わってしまった

そのことを責めても仕方がない

ただ この作者には 昔のような出会いをして その作品に踏み込みたかったというような夢のようなことを考えて 作品を読み進んだ

自分を整理すると男性の作家の方を圧倒的に贔屓にする傾向があるが この人は私の中で贔屓の中に男の味を漂わせて 静かに居られる

GWのド真中で 旅について考えてみる

桜が散ってソメイヨシノはすっかり葉桜になってしまった
大型連休が近づいて 巷は賑やかになってきた

仕事時代に、配信する記事に うっかりと『GW』(ゴールデンウィーク)と記載してしまい、チェックで『大型連休』と指摘を受けたころが懐かしい
あんな時代から大きく舞台は回り続けている

人生の憂いにしょげてばかりもいられない
勝てない勝負であっても美しくあるべきであろう
かつて難関至難の中でも 勝ち負けの数字よりも 美を追求しようと こだわり続けたこともあったのだから

﹆﹅﹆﹅

旅のインセンティブ

不便・不自由・不満という面倒臭く世話が焼けて遅くさく格好の悪いものは 次々と世の中から姿を消してきた

野営で旅を続けていた時代にはスマホやケータイ、ETC がなかった
明日の天気がどうなるのかは即座にはわからなかった
天気予報は宿に着いて初めてわかった

ひとり旅は 不便で不自由で孤独であった
けれどもそれは当たり前のことであって 逆説的に言えば そんな情報を遮断して徹底的に孤独になるための一人旅だった

テレビニュースの映像を求めて駅に立ち寄ったことを思い出す
野営旅の道具においても未完成なものが多く 揃ったとしても便利とは限らなかった
火を起こす、湯を沸かす、雨を凌ぐ、明かりを灯す、暖を確保するなどということ自体が 鼻高々であったのだ

ひとり旅をする人は 珍しかったわけではない
だが、店に行っても現代のように十分な道具は揃っていない
旅のための情報も流れていない
だから、地図のない無人島を探検する気分を味わって旅ができた

﹆﹅﹆﹅

好奇心と冒険心

あの時代の旅人の、旅のインセンティブは 自分自身に漲る『未知なるものへの好奇心』が大きく占めていたのだろう
社会の中で窮屈に(今で言うとストレスに)縛られていたから、そこから逃れようとして「今から」飛び出す
そこは 無人島に探検に行くようなものだった

あらゆるところで 何もかもが満たされていなかったことが 「向かい風」になって前進をした

ストレスという「精神的な疾患」を定性的に解析する科学が進んで診断ができる時代になった
そんな社会の歪みの中から 逃れるために、新しいステージの人は 新しい情報や道具に温かく見守られて旅を始められる
『旅』『キャンプ』という言葉は もはや あの時代と同じものを表現していないし 再現もできなくなっている

好奇心とか冒険心の代わりに 十分に吟味して味付けされた旅のメニューが揃えられている
それを旅とかキャンプという食器で味わうようなものだ

新しいステージ

ステージが変わったと捉えねばならない
同時に 僕たちにとっての新しいステージを 僕たちは始めねばならない

社会に立ち向かっていた僕の方に激しく吹いていた向かい風が止んで時に
僕は 旅人(バイクツーリスト)をやめて バイクを手放し 生きるための向きを大きく変えた

﹆﹅﹆﹅

新しいステージの人たち

スマホ、ナビ、様々な旅のツールやグッズが生まれて便利な時代だ
僕たちのかつて夢に見たユートピアは実現された

だが、苦心して休みを取り、何もかもが未知のエリアへ 冒険心だけで突入して行った興奮は 再現できない
今の人には伝わらないということがわかってきた
現代の旅人は あんな旅の冒険を求めてはいないのだ

﹆﹅﹆﹅

四国の旅を回想して考え続けた

峠を越える

大山塊の峰の遥か向こうまで九十九折りになって伸びている山岳道路を見て身震いをした
平家の落人の集落かもしれない鄙びた村を訪ねてゆく
幕末の志士たちが山を駆け上り峠を越えて海へと向かった脱藩の街道を思い浮かべて 辿って走った
村の人と挨拶を交わして暮らしの話を聞いた
なかには泊め待っていけ、風呂に入っていけと招いてくれる家もあった
鄙びた村の人々の温かさには世話になった
景色だけが素晴らしいのではなかった
国道439号線には不思議な魅力があった
歴史時代のままの不便さや狭さ、未完成なままなところ、道路そのものの姿や佇まいにも人間味があふれていた
ヒトが歩くことで移動することを求めた
新しい文化を求めて暮らしを変えてゆくための道路だ
知恵が絞られ人間が生きる力を迸らせたことの証を道路の佇まいは秘めている

それを旅人は追い続けていた
自分の社会や現実からの逃避に重ね合わせて 身震いをしながら 身に染み込ませて 味わう旅をしていた

四国はそんな旅人を大切に見守ってくれているのがわかった
お遍路の旅にもそれが表れている

﹆﹅﹆﹅

令和の時代

情報化社会の近代化が 大きくそんな心に変化をもたらす

何かを求めて 何かを切り開いた時代ではなく
完成されたメニューを用意されて お好きなものをどうぞの時代

つまり 1
「おいしい牛丼、寿司が食べたい!」の時代ではなく
おいしい牛丼があります、おいしいお寿司がありますのでいかがですか

つまり 2
美しい景色を探し求めて彷徨うのではなく
「無人島の 崖の下にインスタ映えのポイントがあります」から ルートをご紹介します

おしなべて
そういう時代に
古い旅人の出る幕はない

そのことについて 僕は何も言わないことにしている

note

ヤマブキの花生けながら聞く母の話し - 穀雨篇 裏窓から (京都日記・継続中)

﹆﹅﹆
太田道灌の山吹の話

ある日、道灌が部下と狩りに出かけたところ、突然の雨に見舞われ農家で蓑(みの)の借用を申し出た。応対に出た若い娘はうつむいたまま、山吹の一枝を差し出すのみ。

事情が分からない道灌は「自分は山吹を所望したのではない。蓑を借りたいのだ」と声を荒げるが、娘は押し黙るのみ。

しびれを切らした道灌はずぶ濡れになって城に帰り、古老にその話をした。

すると、古老は「それは平安時代の古歌に『七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき』という歌があり『蓑』と『実の』を懸けています。貧しい家で蓑一つも無いことを山吹に例えたのです。殿はそんなことも分からなかったのですか」と言われた。道灌は自らの不明を恥じ、その後歌道に精進したという話である。

実話かどうか不明だが、江戸中期の儒学者・湯浅常山が書いた「常山紀談」に載っており、庶民は好んでこの話を講談や落語で取り上げた。八重山吹は実をつけずに株分けでしか増えない。普通の山吹は実をつける。

子どものころのに幾度となく母から山吹のこの歌を聞かされた。そのことに感謝をする

今では苦心もせずに『七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき』と暗唱できる

忘れるということは 意思をもってしても不可能なことがある一例で その歌もその一つだ

﹆﹅﹆
四月二十日 穀雨

ヤマブキの黄色が鮮やかで綺麗だ

父や母は花を愛する人なのだが 同じ家庭で育ちながら 好きな花の話や好きな色の話をしたことがないなとふと思う

ではその話を死に絶えるまでにしっかりしておかなアカンのかというと 人生・第四幕を迎えていながら そんなことでジタバタする必要もなかろうとも思い直す

死んだら幾つか不思議が残っても良い。それが伝わらず 歴史に刻まれなくとも そういう滅びかたがあってもいいじゃないか

父は二十五年前にこの世を去ったが 不思議がいっぱい残った

このごろになって『潔く消えて 忘れ去られるのもよかろう、所詮そんな大物でもなかったのだから』と思うようにしている

✼✼✼

﹆﹅﹆

  • コレステロール
  • 中性脂肪
  • クレアチニン

こんなパラメータを心配しながら生きている
テレビやメディアでは 人が生きてゆくために不安を与える疾患情報を流し続け
人間が健康と向き合う未来を投げかけ 『生きる』『老いる』『安楽』『人生』などのキーワードから 「生きている哲学」を骨抜きにしてゆく

死に絶えることを『恐怖』(怖い)と捉えるようになったあらゆる源は 生きている間の姿勢に理念を無くしたからだろうと考える

それがいかにも「人間らしい」のだとも思うが 「豊かさと幸せ」とは何かに、つまりは振り出しに戻ることになる

「不便・不自由」から生まれて来るものを見失ったことに失策があったと言って間違いない

﹆﹅﹆

京都日記は 細々と継続をしていこうと思っている

✼✼✼

✼✼✼

これからの海に漕ぎ出す人は 新しい船で - 新しい水夫が乗って

宮本常一や種田山頭火の本を読んで しみじみと地方をたずね歩きたいと考えて旅をした時期がある

旅人からすっかりと足を洗い 仕事も捨てて名刺も返上し無冠になってしまった

すっかり身が軽くなったのは良いが あれこれ首を突っ込んで理屈に参加してしまうクセが抜けきらない

バックストレートを全速力でぶっ飛ばす人は応援するものの 高みの見物でいいだろう

僕にはもう出番はないんだから

未来の海へは未来の船で 新しい水夫が操縦していくのがいい

旅を少し振り返ってみることにします

✻ ✻

懐かしむ

四十年ほどバイクツーリストをしていた

歴史は着々と変化をしてゆくなかで その時代がどのような背景に嵌め込まれていたのかを考えてみると 過ぎ行く時間や目まぐるしく新しくなっていく便利さや不便さが 懐かしく思える

だが、それを考えてあれこれと言ってみたところで 『昔は良かった』的な話と すでに自分が時代に取り残された『古い時代の』人であることを 明確にされるだけで 悲しさが滲むだけである

だから そんなことはやめよう

衝動的に

いったい何があれほどまで僕を惹きつけたのだろうか

全く愚かであったと今なら思うような旅であったのに 全く自分を疑うこともなく 危険も常識も世間の声も心配にも耳を傾けることなく まさに我武者羅に旅に出たのだ

そこまですることもなかろうにと思った人があろう。家族は心配をしただろう。人生の第四幕を迎えてから思うに 自分にあんな愚かさを通せる勢いがあったのだから 自分でも不思議になる。人には おそらく誰でも一つくらいは 脇目も振らず 周囲も見ずに突っ走るような力があるのだと言うことなのだろう

惹きつけるもの

何がそうさせたのかを掘り起こすのは 少し怖いし 今更掘り起こしても仕方あるまいと言う気持ちがある

冷静になれば 見えてくるものもあろうが 暴走な旅であったことを冷静に呼び戻して考察をする必要もなかろう

現実逃避

旅先の野営場で焚き火をしながら 『何故 旅にくるのでしょうね』と話した人があった

現実逃避」だと短い言葉でそう呟きながら 心の中では様々な現実への憎しみが渦巻いていたのだろう

その言葉に大きく頷いて 気持ちは通じてゆく

ポツンと

あのころは『ポツンと一軒』だけの家が珍しかったわけでもなかった。社会もそれほど注目もしないし 面白がったりもしなかった

また そのような鄙びたところに憧れるとか行ってみようとすることが 流行りでもなく目立つものでもなく 一目置くようなものでもなかった

『ポツンと』は 唯我独尊的で孤高な息使いに溢れていた

雛をゆく

バイクの一人旅は 誰も注目もしないけれども 孤高に胸を張っているような山奥へと惹かれていくのだ

日本中でここが最高とどれもが横並びになるような山深い鄙びた山村を巡った

そこには人が居て ヒトとして自分を見つめるための静けさと素朴があったのだ

地図を見て雛な場所を探す

そこは なんの手がかりもない場所で 観光案内もパンフレットもないところだった

スマホ

四〇年の一人旅人生に区切りをつける心の準備をし始めたころに 偶然の変化がいくつか重なった

携帯電話が普及し、カーナビが出回り、高速道路が整備され、ETCを使う人が増えた

さらに、やがてスマホが一般化し、情報はいつでもどこででも手に入るようになる

天気予報やキャンプ場や観光名所や道路情報を完璧に事前に入手して旅をできることによって 新しいページを開くことができる

そのことは理解できるのだけれど どうしても 旅の『色付け』や『味わい』が変わってしまうしまうのを受け入れられなかった・・とざっくりと分析している

バイクとの別れ

(トータルに人生を見直して)新しい生き方を 考え始めて 次のステージに出会ったときでもあったので 悲しいけれどバイクを手放した

四十年間、三十万キロの旅をバイクとともにして来たのだけれど 新しい旅の形と 新しい生きる愉しみを探すことにした

これまで家族を置いてけぼりにして 一人で休日を過ごした日常をがらりと塗り替えてしまう

簡単には新スタイルが出来上がるものではないけど まあぼちぼちである

孫もできたし 人生の第四幕にもやはりスポットライトは当たらないものの 上手に幕を閉めたいと考えている

余談

あのころは 就業の都合をつけて 連休は必ず最大限になるように取得した。GWや夏休みは 十日以上の休みにして旅に出た。家族は心配をしたに違いないが そんなことは御構い無しであった

後で考えると なんと酷い事をやらかして来たのかと思う

「ポツンと」のTV映像などで山深い道路が映し出されると そんな道を血相を変えて走り回って居たころのことを思う

もしもあの時にあの谷底に転落してしまっていたらと思うと 昔を思い出すことさえ辛く 思い出に浸るなどというような甘ったるい気持ちは冷めて 申し訳なさと恐怖が混在して今に蘇ってくるのだ

ツーレポ

【バイク】小さな旅
【バイク】旅の軌跡

▶️ note

(その二)飛ぶ鳥には地に降り立つ不安があろう、散る花には 散る間際の無念もあろう

🌳振り返る

三日、三ヶ月、三年、三十年・・人生の足跡を振り返って考えることが多いという一時期があった

時代には節目があり およそ三十年の周期で 人生の転機が訪れることが多いかもと考えた
というものの 三十年という数字にがんじがらめに拘ることもなく それは十八年であっても二十四年であっても それぞれに思い当たるものもある
卒業、就職、結婚をして出産をして、子供が結婚をして出産をする
仕事を変わって暮らしぶりに浮き沈みの変化が出て 人生が開けて 人生が収束して 落ち着いてゆく

厄年に何か事件が起こることもある
偶然に父が死んで 自らは仕事をやめ新しく苦難の道を選択して それは貧困な道となり 様々な夢や希望は悉く諦めてゆかねばならない時代を過ごす

人生も折り返し点を回ったと思うときに 足跡を振り返ってみようと考える人も多かろう

🌳スポットライト

自分が生きてきた道は 輝かしく華やかなサクセスロードではなかったものの、NHKがドキュメント番組で手がけた『プロジェクトX』の如くちょっとドラマチックで情熱的なステージであったと振り返る

ステージの隅っこに居て 私は終始飾りにもなることはなく 自らの実力や能力、突進力が優れていたものでもなかった
振り返れば 同じステージにいたエキストラのようなものだった

才能が漲り迸る人々を スポットライトは 照らし続けた
だが 私の人生にはスポットライトなど当たらなかった

🌳足跡

人生は「第四コーナーを回った」と表現したり ステージの「四幕が上がった」という人もある

そんな人生でも物語にして 「滅びの文学」「どん底物語」 のような三流の暮らしを足跡として記録してもよかろうと考えた

しかし そう考え続ける段階で このこと自体の意味づけの必要性に疑問を持ち始め 周囲の無関心を想像してみれば 人生など遺跡程度に残ればいいのかもしれない と考えてしまい、始末(終活)をする思いにも変化が生まれ始めた

悲しいことに 静かに見つめれば 石に刻む文字のような記録ではなく 線香花火みたいなものかもしれない

自分の足跡は求められるものでないのなら その活かし方をもう一度考えて直してみようと思い直している

🌳 斬り捨てる

今や 過去に保持していた資格や検定や実績や名刺は 何の役にも立たないし、さらには学歴も先祖から伝統も血脈の栄光も無用で、無冠である

まさに私が昔から考え続けてきた『無人島哲学』の域に達したといえよう

つまり 孤島に一人流れ着いた挙げ句の果てには 自らで悩み考え創造し生き抜くところに 善人も悪人、富む人も貧しい人も無い、過去も未来もない

ええカッコをする、見栄を張る、嘘をつく、騙す、裏切る、見下げる、怒る

すべてを 斬り捨てるところから 始めようとしている

🌳 散る花

『願わくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃』

西行が詠んだというその歌を ツマはこよなく愛し こんなふうに死んでいきたいという

生き抜いて終わるということは そんなに美的でもないし 甘さもない と思うものの、そうは思いたくないのが人の心だ

飛ぶ鳥には ある日地上に降り立つ不安があろう

散る花には 散る間際の無念もあろう


(その一)夜が明けぬ静かに雨が降っている - 三月の暮れにあれこれと

三年前を思う
静かに雨が降っている
音を立てず
地面は濡れているのが
カーテンの隙間から覗くと見える
三日、三ヶ月、三年、三十年
足跡を振り返って考えたころ
今がこれでいいのか
今を考える
昔を振り返ったものだ
今は不要かも

早朝 目が覚めてカーテンの隙間から雨降り確認し 日の出時刻を過ぎているのに一向に明けきらない庭を見下ろしていた

🐾

👣

🌸 夜が明けぬ静かに雨が降っている  #春の雨

そう読んで ふとTwitterをさらっと読んでいると
同じ時刻に同じことを感じて 書いている人がいる

「静かに・・雨が・・」

ちょうど私は 三年前のことを漠然と思い出している
きっと 似たようなことを思っていたのだろう
いいえ 違うとも思う

﹅﹆﹅

🌸 しんしんと花に冷たく容赦なく  #花嵐
🌸 雨に花散れば筋書きどおりなり
🌸 桜雨ゆうてはならぬ決意かな

﹅﹆﹅

三年前になる。環境部門の仕事から引退してしまう決心をしたときだ

コロナが流行り始めて 横浜に停泊していた豪華客船で大量の感染者が出たあのときだ

また何か始められるチャンスが来るだろうと 少し軽いフットワークで行こうじゃないかと考えたのだ。しかし その目論見は 筋書き通りにはいかなかった

(その二)に続く

三月のはじめに思う

春を迎える

﹅﹆﹅

「微かな濃淡」てのは素敵な言い方です。

モノにはエネルギーってのがあって、赤色ひとつとっても濃度[concentration](赤み度)と振動数[frequency]を持っている。この周波数が大きな意味を持っていると思うのです。まあ、言ってみれば揺れているわけです。

あらゆるものにおいて、この1つの状態を表すためにはこの周波数というパラメータが必要で、モノの状態は「物」でも「精神」でも揺らいでいるのが自然ということです。

銀マド

ふとブログを読み返して見つけたのでメモしておく

﹅﹆﹅

鰻が食べたくて出かけた

幸運にも早春の麗らかな日和になった

コロナ騒ぎもどうなったのだろうというほどに人出が多く お昼どきの鰻屋さんでは 何組も待つことになる

私よりも歳上らしい地元のみなさんや高齢者の夫婦が目につく

二、三人で鰻を食べている

﹅﹆﹅

前回に食べに行った鰻屋さんには今回は行かず 隣町のお手頃価格の鰻屋さんにした
ご飯が丼にたっぷりと盛ってある
「大盛」とはどこにも書いてないけれども 「普通盛り」よりはご飯は多めだろう

この地方で鰻を食べると ご飯はどこに店でも多めになっているような気がする
ご飯をたくさん食べる地域文化のようなものを受けてのことだろうか

伊勢平野の米は 旨い

二月尽に考える

そろそろ 令和五年 三月を迎える
新しい年度が始まろうとする三月というのは まさにジャンプをする時の屈んだ姿勢であり 飛行機の飛び立つ助走のような時間でもある

﹅﹆﹅

🌸 花道を如月尽きて幕下りる
🌸 昨日からチャンス伺う沈丁花

こんなことを書きながら 二月が暮れて行った

﹅﹆﹅

悠ちゃんの誕生日(五日)なので人形を買いにショッピングモールに寄った

麦畑は お盆ころに刈り取りになるのだなあと染み染み考えてみたり のんびりした二月尽


父の逝った歳に迫り あのころの父の気持ちを思う - 天皇誕生日のころ

外伝🔗 あの人の逝った歳に迫り そのころのあの人の気持ちを思う - 天皇誕生日のころ

令和になってから 天皇誕生日は二月二十三日だ
天皇も六十三歳になるという
同じ時代を歩む人(私)が そこにいる


﹅﹆﹅

あの人の逝った歳

あの人の死亡した六十六歳という年齢に迫りながら そのころのあの人の気持ちを思う
あの人とは 父のことだ

父の脳梗塞は死ぬ数年前から起こっていたので 自分にやがてくる最後の瞬間は想像したことがあっただろうに間違いない

しかしながら そのことの気持ちを誰かに語ったというそんな話は耳にしたことはない

妻や子どもにも話さなかったのか その不安と恐怖を(誰かに)口にする機会を得ることもなく淡々と死ぬまでの時間が過ぎたのか

﹅﹆﹅

死亡診断書には 逝く六年前から死因を導く症状が記されている
あの世への道を六年間 たぶん孤独に歩みながら 心を誰にも明かさなかったことになる

「そんなに沈黙を通せる人ではない」というのが 私の推測だが 仮説を証明することも裏返すこともできる手がかりは何も残っていない

証拠はどこにあるのか・・それは遺された息子たちの心の中ということか

﹅﹆﹅

死生観

『生きること』『死ぬこと』『断念すること』をどう考えるか

松本零士さんの『生きるために生まれてくる』という言葉を先日この日記に書いたが そのあとに 色々と頭に浮かんできたことがあって 纏まらずに ぼんやりしている

同年代を走る人は皆同じ死生観を抱いているかもしれない

自分がやがて 死んでしまうなど考えもしなかった時代(人生前半)から 次第に「必ず死ぬのだ」と『観念』するようになってゆき 周りの人々が次々と死んでいき 自分もそのうち死ぬのだというカタチが見え始めと それを否定しなくなってくると その果てには『痛くもなく 苦しまず 怖くもなく幸せに 死んで行きたい』と 我儘なことを望むようになる

『死ぬときに何をどう感じて死んでいけるか』
そのことが大事なのではないか

(長生きが目的ではなく)

死ぬときに

父は人生をどのように感じて 振り返っていたのだろうか
後悔はなかったのだろうか
こうありたかったと言うような願望はなかったのだろうか
子供や孫に託したい夢はなかったのだろうか

* - 書きかけですが置いておきます(続く)

春を迎える ー 立春、節分篇 (裏窓から)

ゆく道は開けるという手がかりもない

これまでの人生の反省と
その節々での自分の行ないと
善か悪か損か得かの判断の考察と
欲望、嫌悪、恨み、辛み、人間関係
あらゆる打手に対する諦めなどを
泥を練るような甕に放り込んで
かき混ぜているような日々だ

洗い流すこともできない
捨てることもできない
埋めることもできない
焼き払うこともできない

﹅﹆

辿り着くところ

黙って
忘却』を恐れずに迎え入れる事が
行き止まりの『終点』な気がする

﹅﹆

これは 🔗 一月はトントンと締め括くられて 寒いまま ー 一月尽 に書いた一節だ
少し手直しして持ってきた


春を迎える

多くの人がこの歓びを待っているのだろうと思う 反面 世の中には願いが叶わない人もあるし 無念な日々を送り無念を噛み殺している人もあろう

﹅﹆

いかなる人生だったか

  1. 若き頃は 夢を抱く
  2. 青年の頃は 学びに遊びに羽ばたく
  3. 社会人になって 夢を叶える
  4. 結婚をして 上昇を夢みる
  5. 子供が産まれて 今を抜け出す
  6. 子供の成長とともに 脱出し新しい湯道を探す
  7. 四十不惑の年齢を過ぎ さまざまを諦める
  8. 五十にして 天命を知り 安住を探す
  9. 六十にして耳順 人生を俯瞰する
  10. 高齢を迎え 対空飛行で生き延びる
  11. 七十にして己の欲する所に従えども矩のりを踰こえず 視点を転換する
  12. 後期高齢を目指して 幸せに生きることを考え 覚悟を決める

﹅﹆

そんな事を思いながら節分の夜は更けた

心機一転 如月日記は新ページ ー 二月初めに考える

一月をしっかりと締めたいと思いながら お座なりのまま二月となった

人生の節々できちんとけじめをつけてきたわけでもなかった
なのに 愈々終末が近付けば妙に細かい事を気にするようになる

▾ 結ぼった糸は無理してほどかない  #糸
などと書きながら

▾ 雪嵐去って名残の宇多野かな   #京都
▾ 寒風やねじれる果ての嵐山    #京都

オムライスを大津市で食べて京都入りをする


天山の湯でリラックスして垢も落としてこようと考えたが コロナの時期であるし 高齢者も身近にいるので 控えることにした

❇︎❇︎❇︎

『サ高住』の住み心地は 健康な我々から見たら快適で 食事も粗末なものではなく 家庭で家族に世話になるのと変わりがないだろう

どこまで気持ちが納得できるかである

脳が健常に反応しないことで 健康な人が想定して作り上げた住まいの生活システムが 健常でない人にマッチするかという大きな課題があるものの 多くの人にフットするようにできる限りの仕組みは考えてあるようだ

不満や不具合が出るならば その人に応じた対処法を当てるしかない

❇︎❇︎❇︎

費用にはノータッチで来ているが それなりに高額な様で 私などの年金額では入居できるところではないということもわかってきた

幸せな終活を押し付けるつもりは毛頭ないが ムスメとして頑張って付き合えるだけの準備はできていると思う

可哀想だと思う反面 この条件で幸せを感じてもらうしかない、集束するところは無茶な姿でもないだろう

『サ高住』からの便り ー 一月下旬篇

月末から寒波が襲来し 交通機関が乱れている
京都行きも見送っている

🔗 寒波が来て通行止めなどが発生している ー 一月下旬号


『サ高住』に移り住んだとーさんからは大体 毎日 電話がかかってくる
時間は不規則 話す内容はいつも同じ

「いつ来るんや」と聞いて 返事を聞いて納得する

もしも昨日行っていたとしても、三日前でも 一週間前でも、ずっと行っていなくても 反応はおそらく同じである

「早く来て欲しいと強く思っている」と話すわけでもなく 来ない事を残念がるわけでもなさそうだ

❇︎❇︎❇︎

もう誰も行かなくとも やがて時間が流れてゆくようになってくる

それでは子供として許されないから 顔を見に行こうとするのだが「いつ来るんや」と聞かれて「雪で交通麻痺して行けん」という説明に「そうか・・」と返事をするだけで 感情が電話の向こうから伝わってこない

たぶん世の中の多くの家族は この状態で誰も行かなくなってしまう

住宅に入れられた人は こうして次第に一人に追いやられるのだろう けれども そのことを悲観するわけでもなく悔やんだり怒ったり恨んだりもしない

❇︎❇︎❇︎

放置しないで 様子を見に行く人の足取りは日に日に重くなり やがて 初期のころには思いもよらなかったほどの一定期間を空けるようになってゆくのだ、きっと

そのほうがお互いが幸せにいられるようになってくる

そういう現実が待っている

❇︎❇︎❇︎

❇︎❇︎❇︎


雪で足止めを喰らっているので
冷蔵庫にはストックを入れない暮らしになって
簡単な食事で日々を過ごしている

📌人生に答え合わせはありますか ー (余白篇)

📌人生に答え合わせはありますか

そんな走り書きをノートに残して
ちょっと待って 消さずに少し考えてみよう
と思っている

﹅﹆﹅

僕たちは生まれてからずっと
何かを問いかけられて それに答えて
正解を聞いて 軌道を修正して
歩んできている

必ず そこには答えがある
そして そこには 正しい答えと間違った答えがある

﹅﹆﹅

間違いは 道を進むにおいて 選択してはいけない答えで
普通に経験を積む過程で 間違いを排し 正解を手に取るようになる

だが
人生をそんな明快なステップで歩んでいけないことは分かっていて

時には
正解が無いまま進まねばならないこともあるし
正解ではない答えを頼りにゆかねばならないこともある

﹅﹆﹅

全速力で走り終えた人もあれば
コントロールをしながらゴールを目指してきた人もあろう

足跡を残しても
それが美しいものであるとも限らなし
自分が歩んだ道のりが 正しかったとも言えない

果たして
正解があったのか

あったとしても
その正解を縒り戻してもう一度やり直せるのか

正解を正解だったと誰が何に基づいて断定できるのか

そう考えると
人生に答え合わせはない
必要もないのかもしれない


🔗 一月中旬のころ あれこれ

『痴呆脳』とつきあう人たち ー 一月下旬号

✿❀✿

認知症の『痴呆脳』との闘いが続く日々だ

「お金を取られた」とか「男が(女が)できた」とか教科書通りのような症状が表出するそうである
突如として濡れ衣のようなことを日常の対話の中で言われても 本人にも悪気はないのだから 許せばいいのだろうと分かっていても難しかろう

理屈はわかっていても なかなか対応できないもので 誰にも理解をしてもらえないジレンマでムスメとして苦しんでいるのでしょう

「もう元には戻らない」のだと思うと居た堪れない

✿❀✿

介護に疲れて暴力や傷害にまで発展し 刑事事件になる人のニュースも珍しくない

親の介護に疲弊し 殺人に至る例が最も悲惨だ

事件を起こす人の心理もよくわかる
社会体制の不備も見える
病気の症状が起こす苦難の実態も手に取るようにわかる

それらを真正面から受け止めろと迫られるムスメの気持ちも想像できる

✿❀✿

外野は無責任なものだ

「病気なのだから『諦めて』『病人扱い』に徹するのが良い」と (冷静そうであるが冷たくも)外野の人間は言いたい放題であり 好きなことを言う

そう簡単に 済むわけがないし 気持ちは収まらないだろう

「資産は長男に引き継いだ」と何度も説明をしても通じない
記憶も曖昧であるし 思考もきちんと組みあげることができない
ややもすると 「美味い」の感覚も怪しいし 「嬉しい」の感情も疑わしい

「金を取り返さねばならない」という妄想が突如 泉のように蘇えって狂気のような言葉を繰り返す

ーー

考察はどこまでも続く

寒さじりじり 一月下旬へ ー 続『痴呆脳』から考えさせられること

京都からの帰りに悠ちゃん健ちゃんにみたらしを買って立ち寄った

❆ ❆

❆ ❆

痴呆脳の行き着くところ

『痴呆脳』を考えてはその不安を口にすると 周囲の人々がそれぞれに意見や考えを持っていることがわかってくる

今までに見えていなかっただけで 多くの人が『痴呆』『認知症』に直面していることを知る

考えてみれば30%以上の人が高齢者の現代から30年後には二人に一人が(50%)が高齢者の時代になる

その高齢者の20%が認知症またはその傾向を持つ人と予測をされている
道路を歩いて赤信号で停止をするよりも 認知症の人に会う確率の方が高いかもしれな

さて

自分を(あるいは身の回りの人を)認知できなくなること
即ち人間という知能を持つ動物が 記憶と感情を失うことだ

それは 人間らしさを失ってしまうに等しい
しかしながら それは生命を失うことではない

美しく咲き誇っていた花が 花を咲かせることを終了してしまう
花は枯れてはいないのだけど 花壇から摘み取って捨ててしまうか

人も 動物として生命を絶やさず 血が流れ続ければ「生きて」いる

思考や感動を失い記憶を蘇らせることが無かろうとも 血が流れていれば
その姿が 花は咲かなぬとも光合成を続ける花のようである限りは 「生きて」ゆかねばならぬ

人は「生きる」という「行動を」ではなく「状態を」維持する使命を生物の遺伝的な使命のように守ろうとする

「生きる使命」とは何かという原点回帰を『痴呆脳』は投げかけてくる

ーー

考察は続く

令和五年新年コロナ爆発物価急騰 ー 老後を考える

最近 高齢者の仲間入りを果たした。するとそこで 身の回りに 高齢者として心配を呟く人が妙にたくさんいる ことに気づく

そのような人たちが急に増加したわけではなく 自分がその世界に仲間入りしたのだ

🍏

  • 妻はいなくて 独り者だ
  • 独身貴族できたが もはや独身を通さずに六十歳を過ぎても結婚をした方がいいのか
  • 子どもはないので 一人で生きてゆく計画を立てている

そんな友達が居る。「未婚は気の毒 だが 結婚も地獄」と談笑をした日々がある

どっちが幸せなんだろうか

  • パートナーを探すのがええのか それとも一人の覚悟を決めるのか
  • 子どもがないので どうなるか心配だ 子どもがあればよかった
  • 不妊治療は百万円以上も掛かり それでも恵まれなかった友もあり 人それぞれ事情で子どもが持てなかった人が予想以上に多いので驚く
  • 訳あって夫婦は別れてしまって交流もない
  • 夫婦は仲良しだけど 夫は(妻は)優しくない 老後を円満に暮らせるかどうかが不安

夫婦円満でない人もあるし 別居中に人もあり 人それぞれの考えや事情があろうし 一致しなのが悪いと断じることもできない。マッチング率が 5%程度で暮らしている(我が家のような)夫婦もあるだろうから 趣味やスタイルが合致することだけが全てではない

  • もしも夫が(妻が)先に死んでしまったらどうするか
  • 一人ではうまく暮らしていける自信がない
  • 早く一人になってのびのびと暮らしたい
  • 一人になれば 誰に気を使うこともなく皆に羨ましがれるのだろうか

多くの高齢者が行き着くのは 残された時の不安(歓び)であり どちらが先に死ぬかを予測する人もあって 残される側は深刻な問題だ

先に死んでしまいたいという人が とても多いのに驚く

  • 年齢が近いか離れているかでも事情が変わろうし 残された側の幸せとは何か どうやって保障するかということも深刻だ
  • 病気がちだが 一人になるのは怖く もしもの時に夫婦での相互の介護はどうなるのか
  • 病気がちな人や痴呆が心配な人も不安が募る
  • どれほどまでにお互いを介護し合うのか
  • 今 どれだけ考えても答えは出ない

富裕な人と貧困人での格差も問題で 中には不十分な老後を送る悲しい結末の人もあろうが こういう人は表には出てこない悲しい結果になる

『悲しい』とは 何だろうという社会制度に問いかけるテーマも生まれる
老後の資金がなく 一人残されたら生活費が確実に不足する
中には 家もなく兄弟もいない人もある

時期が来たら『ストン』と終わりたいと願う人は絶えない
社会精度を構築する側の考え方・・なのだが 国家とな何か 誰のためにあるか という事に考えが及ぶ

﹆﹅

30年たてば 高齢者が30%のから 50%の時代になり 二人に一人は 高齢者の時代を迎え 年金制度が今のままならば 働かずに年金で暮らす高齢者が半数となる

高齢者でも働くか または 不要人は早く死んでもらうと歓迎されるというそ時代が来る

﹆﹅

世の中には苦しい人ばかりでもなく 年金は十分にあり生活に困らない けれども 子どもがいないので 夫婦の墓を悩んでいる人もいた

🍏

ここまで書いて ペンを置いて少し考えていたのだが 後で書こうとしても 何を今更 書き足すことがあろうかと思えてくる。それで全てかも知れない。では 答えとして何を求めようとしているのか。混沌としているのだ


🍎

  • 物価が上がる
  • 電気料金も上がる
  • ガソリンも
  • 医療費はかかる

なのに 収入は増えない。もはや何も頼れず 細々ともらう年金だけを頼るという人が多い。しかし 年金は減少し続ける生活は逼迫し 今後も明るい未来は見えない
生活を守る仕組みを考えくれる人が 弱い人をしっかり見ておらず 将来を考えていない失策政治が続くと嘆いても政治には新しいこれからは見えない

『鉄砲で撃ったろか』と思う人が出てきても仕方ないと思う人があっても責められない
こっちは『生きるか死ぬか』なんやから 『撃ったろ』と思うことが正義かどうかは別として すべてを燃やし尽くしてしまえば平等ではないかと思い付く。豊かなステージで豊かな社会を見ているだけの人にはわからないことなのだろう


🍎 🍎 🍎

上記のように書いたら コメントをくれた人があった。お金があったとしても家族があっても老後は不安定な時代だ・・という。そこで私の思案は続きます

人は「ストン」とは死ねません、種田山頭火にしても車谷長吉さんにしても ストン に近かったか

生きるための努力があるならば 死ぬための努力もあってもよかろう
生き延びれば ふたたび 人として活動をできるが 難しいのは 死ぬ場合で『命』を奪えば「終了」となることだ

現代社会には 命を奪う規約がない

伴侶が倒れて看病をして甦ってもそのあとで看病をしていた側が倒れてしまい甦ることなく死亡した例がある。こんな例の組み合わせを上げればキリがない

残された伴侶が自分も後を追って死にたいと思うかどうかは 発生事象の状況によるものの 生き延びる人や生き残る人の命を(「奪う」ではなく)「切り上げる」ということを法的にはできず またモラルや通例としても明確にされてはいない

実際に自分はどうなるのかという可能性を考えると 若くて元気な人ほど曖昧で 高齢で健康でない人ほど現実味を帯びる

もはや他人事ではない時代が来る(30%が高齢者から 50%が高齢者の時代、30年以内になる)

さて 新しい時代に対応した仕組みを考えねばなならないのは 若い世代の人だ
今はまだそれほど問題ではないかも知れないけど 間違いなく深刻な課題になる時代が来る
心配なのは 今の世代の人がぬくぬくで満足そうな暮らしをしているから何にも考えていないならば・・それは大変なことだ

寒の入りぶるりと震えて満月 ー 小寒篇 

新年を京都で迎えてそのあとすぐに家に帰った
生まれてから自宅で新年を迎えなかったのは 十八歳の浪人中だけで それは相応しい決意の行動だった

大晦日から新年をそのように過ごすことは ただならぬ事であり 今年も例外ではなかったと言えるのか

❇︎

正月を京都で迎えて 二日に家に帰る
ラーメンと唐揚げが食べたい
その言葉が表すが如く 何と平和で安泰な新年なことか

❇︎

『痴呆脳』を考え続けていても答えが出るものでもない
正月明けに実家を訪ねて母や兄弟と話すなかで「ボケきってしまっては 生きていても 生き甲斐を失い その人にとっても気の毒かも知れぬ」という内容が話に出る

それほど身近でなかった認知症や介護と併走する暮らしが 今の社会には普通に存在していて 九十二歳を迎える母親の身の回りでも日常茶飯事で そういった人々に囲まれて日々を暮らしながら 母は自分の順番を待っている

その息子たちにも 迫り来る『その時』は決して想像の物語ではない

❇︎

祖父も父も 六十五歳、六十六歳で逝っている
これは紛れもない事実で この血脈を受け継ぐ者には 逃れられない生きてゆく時の条件だ

たかが遺伝といえど されど遺伝である
生命科学や遺伝学をしっかり考えてみれば自明のことで 身体の生きる力を支えるための重要な箇所は その遺伝子で構成されている

だから早く死ぬとは限らない
医学も進化している

❇︎

しかし長生きは 宝くじに当たるようなもので 早いか遅いかは 自分の意思とは別のところにある力が働くこともある

覚悟をして
美しく 生きていたい

いまさら 大きなことをしたいとも思わない

残りは1000週間 ー 新年年頭に考える

月のはじめに考える

新年 あけましておめでとうございます

去年の暮れに Facebook の「職歴」表示を閉じた

もう 歴史に沿うて生きる年齢ではなく 過去に関わった仕事を名刺代わりにするつもりもない

「これから何をするか」「どう生きるか」を考えてステージのあり方を考えていきたい

人生の 第四コーナーはもう数年前に回っているし、自分の器を考えてもこのあと何処かで役に立てそうにないし、何かで勝負をしてどこかに躍り出るチャンスもなかろうと考える

オムロンもパナソニックも 最早や 過去の会社で 僕がいた時代とは別な人格(社格)に変化したし 最後に在籍した県庁「環境部門」での活動にも今や全く無縁になっていることを考えると こちらが過去に歩み寄るような甘い関係は存在せず 職歴として刻んだものを さらりと日めくりを捲るように捨てる選択が良いのだ

そういうわけで「これからを如何に生きて走り抜けるのか」が大きな課題になってくる

ー 令和五年元日


残りは1000週間だ ー 年の初めに考える

古代エジプト人のように考えてみる

1週間を7日として1年を50週間とすると全部で350日になり、1年365日に15日が余るので 春夏秋に5日ずつ余裕日を設ける

60歳までで 50週×60年=3000週
あと20年生きるとして 20年×50週=1000週

そう考えると
たった1000週間しかないのだと思うのか
おやおや1000週間も残っているではないかと考えるのか

痴呆脳 について考える ー 令和四年大晦日に考える

外伝🔗 こがらしの一日吹いて居りにけり ー 年末整理 の日記で

「三途の川への道標」のことに触れた

さらに 静かに考え続ける


(雑記メモ) 痴呆脳 Ⅰ

﹅﹆﹅ 痴呆脳

『痴呆脳』という言葉を思い浮かべた

「痴呆」から「認知症」へと言葉が変化するため「痴呆」は相応しくないとされるが、人の様子を表現する言葉がより病的な色合いを持ち始め 「痴呆」人を

差別的蔑視域に分類することに間違いがあるのであって、人が持っている人間味が備える「うっかり」で「ボケ」な点を 「病気」と今だに一線を引いて区分する事を思うと 「ボケ」は人類と永遠に付き合いをする「病気」であるのだから 目を叛けないためにも『痴呆』でええ

﹅﹆﹅ 脳死

「脳死」と「心肺停止」で 人は「死亡診断」をされ、つまり 生き返ることはなく『死亡』と見なして 荼毘に伏す

そこで私は『痴呆脳』という言葉を造語し 生きている人の痴呆の人の脳をそう呼ぶことにする

痴呆脳は 脳死とは生理学的には全く違うが 脳死の脳と比べて活動具合にどのような差があるというのか

﹅﹆﹅

(雑記メモ) 痴呆脳 Ⅱ

﹅﹆﹅ 痴呆脳は 生きているのだ

  • 生きているのだが 記憶を喪失するし 現状のステータスの確認もできなくなる時がある
  • 会話は交わせるものの 会話を記憶して再生して次の思考をこなすことは不可能である
  • 判断についても 自分の存在の状況を認識していないので その後にある判断は 出鱈目だ

つまり 痴呆脳の人に精一杯の情報を注ぎ込んでも その内容を持って『三途の川』を渡れない

さらには あの世に到達してもこの世のことを再現できないのではないか

そう考える

﹅﹆﹅ 痴呆の世界を無知だった

痴呆は身近であると思っていたのは大間違いだった

実は「痴呆」の人やその症状 そして周囲で介護をする人々を全く知らなかった

社会の実態を全く知らずにきたということだ

離れて住む「とーさん」に怪しい症状が出たのが十二月の初旬で その時から大慌てが始まった

﹅﹆﹅ 介護をしながら「可哀想」を連発する

つまりは 生きながら自分と会話し反応をする相手が 何も考えていないことのジレンマ

正常な時もあるが(これはそう見えること自体がすでに認知症状の一種だが)言うている事がメチャメチャなことが多い

せん妄に惑わされて 行動が不安定(暴れる、暴言を吐く)である

  • 人間らしさを感じられず
  • 元に戻る見込みが無く
  • その人らしさもなく生きている意味が感じられず
  • 見ているのも辛いことがあり
  • 可哀想で仕方がない
  • 元に戻せない
  • このまま行く末は遅かれ早かれ死んでいくのか
  • それを認知症というのだ

だから 可哀想だという

  • この人の幸せは一体何であったのか
  • これ以上の幸せがあるのか
  • 苦しむことなく楽にしてやりたい

様々な思いが頭をよぎる

﹅﹆﹅ 脳死や心肺停止のようには扱えない

しかしながら、当然、生きているのだから死なせてしまってはいけない(殺人)

と言いながらも
痴呆脳は もはや死んでいるに等しいほどに再起不能だ

生理学的に心肺を止めずに脳波が検出できても 再起不能であり 人格の残像が残っていても 脳死に限りなく近い

﹅﹆﹅ 三途の川を渡るまで

最高の介護を誰もが尽くす

この悦びを持って三途の川を渡るとすれば
この人の脳裡の中心に「生きている間の思い出」が、あらゆる過去が回想できるほどに残っているのだろうか

末期癌の人のように痛みに苦しむわけではないが、痛みのない苦しみに締め付けられているかもしれない

だから

「死なせてよい」というつもりは毛頭ない

しかしながら
本人の幸せを通り越して周囲が介護をする姿は 果たして愛に満ちているのか

単に
自分が満足し納得するためだけではないか

痴呆脳との対話が続く

(R2)

認知症と付き合いながら考える日々 ー 師走の或日

12月26日の外伝に
こがらしの一日吹いて居りにけり ー 年末整理
という日記を書いた

﹅﹅﹅

❀ 十二月初旬から

少しずつの進行の中で 激しい暴言が起こったのが初旬のことで 日々寄り添って暮らす老老介護のツマも家を飛び出さざるを得なかった

正常で穏やかな時間もあるものの あばれだすと手に追えないし 何よりもそれ自体を本人が記憶していない

認知症とは一体どんなものなのかと初めて考えだしたのでした

❀ せん妄発症 その後 鎮静化 

荒立てる時間の裏側で 老人同士で「暴れる人の介護は無理」と非難して出ていたツマに帰って欲しいと嘆く日が増えて 逆ギレが出て「離婚だ」と騒いだり「資産が・・」と言い出して 街に徘徊をするようになる

一方でケアマネさんのアドバイスを参考に『サ高住』を探したり 施設に頑固に行きたがらない本人を説得したりしている

少しずつ落ち着いて 入居の契約もして 介護認定が出るのを待ちながら入居日を決めた

❀ 老老介護のゆくえ ー 『サ高住』へ

正月が明けたら 施設に入居させる予定となった
投薬や通院は 施設に入って 介助を受けながら可能である
掃除 洗濯 入浴も家屋の付き添いなしで 介助を受けられる模様だ

家族は ひとまず見込みが立ちそうで 安心をしている
住居が変わるのが心配だが あとはやってっみるしかない状況だ

❀ 痴呆の進行具合は

一ヶ月前と比べると静かである
精神安定の薬の効果だけではなかろうと思う

つまり 脳の働きは 日々進行していて 痛みに例えればもはや我慢できない痛みの域になっているのではないか

❀ 観察していると

脳みそに飛び込んでくるあらゆる事象に敏感に反応する能力は 一気に劣化している
放出する感情的動作も そうとの割合で消滅しつつある

施設に入れば 加速するように「惚け」は進むだろう
「あんた誰や」と言われる日は 近いうちに必ずくる

分かってながら防ぎ様がないので みんな口には出さないが 悩んでいる
いや もう悩まないで待っているのが正しいのか

覚悟を決める時間が 刻々と過ぎてゆく

新しい終活を考えねば・・令和の暮れに ー 冬至篇

12月22日は冬至である

パラパラと昔の日記を手繰ってみると自省的な内容が多い
父や母を思い出し自分の生き方を反省している

六十五歳を超えた
だからと言うわけではないが

過去を振り返ってばかりはやめよう
この年齢からさらに何年か生きていこうとするならば、新しい何かを見つけ出そう
そいつを形にして残せるものを作っていくのも ひとつの案であり 大切な気がする

きっぱりと言えば、昔の事はブログ日記などにたくさん書いた
だからそれで完結させたのだということで良いではないか
誰も読まないかもしれず、やがて消えてしまうのだから・・ということもわかってきてた

だったら、そんなに一生懸命になるのも甚だばかばかしいような気がする
ここでひとつ線を引いて新しく新しいステージを考え出そう

今更、何もすごいことを考えつくわけではない
大きなことをやろうとしてできるわけでもない

死ぬまでの間に何かを残そう
そう考える

一生懸命残しておこうとする考えは 一旦あっさりと諦めてみてもええやんか


認知症日記は 本日 お休みします

寒波くる ー 京都師走日記 番外

寒波が来て
北信越の方では大雪になって
交通遮断などが起こっている

京都は幸いにも積雪もない

☃︎☃︎☃︎

着々と『サービス付き高齢者住宅』の調査や検討が進んでいる
今月の暮れには『サ高住』に契約をして家電製品を買いに行きたい と考えている

﹅﹅﹅

♖ 認知症とどう付き合うか

認知症の進行具合は家族にしたらそれほど目まぐるしくなく日々に悪化はしていない思っているのだろうが、「高見の見物」をしているこちら側から見ると数日おきに段差を持って悪化しているのがわかる

だからといって「早く手を打たなばいけない」気持ちが押し寄せてくるわけでもなく、ある種の諦めというか 無力を感じながら、もう引き戻せないという失望感と中途半端に引き戻して手に負えなくなるのも困る、という気持ちを抱いている

うまく引き戻せたところで必ずどこかしらに認知症の症状の破片が残る事は間違いないだろうから、にこやかに話をし続けている表情を見ていると一層、そっとしておいてあげたいと思うのは周囲のほとんどの人の優しさなのだろう

どうしても入院させて是が非でも治療をしたいと思うような精神科学者の立場の医者がいるとも想像しがたいが、実際のところ本人が穏やかにしているのであれば、もうこのままそっと筋書きもなく自然消滅をしていってしまうのが幸せなのだろうと思うのも一つの見方であろう

外科的に神経のどこかを切り捨てるとか繋ぎ換えてみるとかとか刺激を与えるとか、そのような治療などないだろうし、穏やかに静かに何もなく見守ると言うのが今の処方なのかもしれない

﹅﹅﹅

気の毒にならないように幸せに暴れることなくどこかの部屋に収まってくれていれば自分たちが毎日世話をしに来るのでそれで良いではないか、と家族のそれぞれは考えているのだ

目に見えるものを感じることはできるものの、それをどうしようというような本人の意思はほとんど生まれてこない

短く切り刻まれた現在の時間があるだけであり、それは記憶にも残らない時間で、刻む事はあっても空白のまま足跡にも残らない時間である

﹅﹅﹅

このまま一人で家に置いておくわけにもいかない

  • 一人で薬は飲めない
  • 食事も取ることもできない
  • 電話はかけることもできない
  • 洗濯も風呂もままならない

こんな状態で放置してはおけないから介護に来たのであるが、ずっといて欲しいと言われても不可能なこともあるし、いつまでも傍に居てあげて対応するわけにはいかないのが実情だ

『サ高住』に出来る限り早くおさまって 介護認定に基づく介護を受け、定期的な診察や投薬をしてもらえる助けを受けながらこの先を暮らすという選択を取るのが懸命だ

本人が、当初から「ずっと家にいたい」(死ぬ時は家で死にたいというニュアンス)と言い張るのを聞いて 周りはそれに頷くしかなく それが優しさを表すことだと最初は判断したのだが・・

﹅﹅﹅

現実に 幸せとはどういう形で何を求めているのかを考えると 考えても答えの出ない事が続く

だか、日々見ていると決して我が儘を聞いてやる対応が正しいというわけではなさそうだ、とわかってくる

「男のことやお金のことを解決させるために離婚をしなくてはいけない」と頭の中で話を発展させてしまっているため これも解決させるために忘れさせなばならない

別に騙すつもりも誤魔化すつもりもないが、考える力を持たない人の言うことを聞くわけにはいかない

穏やかな時に穏やかに話をしているときにサービス付き高齢者住宅に収まろうという気持ちにさせる事が大切で 気持ちが静かな間に 契約を進める段取りで話を進めてきた

少し先が見えてきたと言うところに来ている

続 京都師走日記 ー 十二月下旬 雷山無言

(追記中・・日記R2)

九時ごろに多分お風呂に入ってそれから寝ますので今日一日を寝る前に整理しておく

パソコンが到着してセッティングはおよそ終了していますが、机が無い畳の部屋で椅子を机にする姿勢で使っている
書机スタイルは 腰が痛くなるので短時間でしか使えないが 何とか知恵を縛って使えるよう工夫したい

ボクが持ってきた膝掛け用毛布は とーさんに貸したので、二十四日に届くように通販で買って手配をした
二階のボクたちの部屋は日当たりが良いのだけど 昼間でも 温か「膝掛け」がないと結構 寒いです
寝るときには返却してもらってお布団の上に載せて使います

﹆﹆﹆

とーさん頭の中にある事 はオトコの事とお金の事だけなんです

結婚したころに周りにいた友だちとして交流のあった人のことなどが記憶に蘇ってくるようです

それは別に大した問題でもないのだけれども、何十年も経って回想とするとそれが事件に化けてしまうらしい
そのころの友人と深い関係が続いているというようなある種の病気的な「妄想」が襲ってくるらしい
そこで、妄想に腹を立てて頭に血が上るのだろう、物を投げたり危害を加えようとする行動が表出するようになる

かーさんは 別に相手(とーさん)が嫌いではないし、手間がかかり困っているわけでも世話を焼きたくないわけでもない
ただの普通の高齢者同士の夫婦だけれども、暴れられたら手がつけられ無くなるし 一旦避難をするしかない

とーさん側からすれば何もしてないのに 姿を消されたことで また再び 妄想が勝手に暴走していく
「出ていってしまったのならば早く帰ってきてほしい」と弱気に出ている時もあれば、逆上して暴言を吐き捨て危害を加えそうになる行動が出る

さらに弱ったことに その行動の記憶が残っていない

後になって静かに話かけても全てを忘れており「覚えていない」を繰り返し 事件の説明を聞き入れることができない
したがって、事態の解決方法を提案し始めても そんな事は知らないことだと説得に応じてくれず、一向に話は纏まることがない

﹆﹆﹆

厄介なのはオトコの友だちのことだけではなく お金の事にも及んでいる

自分の管理する会社のお金が悪用されているのではないかという月並みな疑念(妄想)に襲われて、早く口座を作って自分のところに振り込ませねば 大変なことになるので大急ぎで対処をせねばならない・・と言い出します
(ドラマのように妻が金を持って逃げたとか、金を持たせておくのを回避せねばならないとか・・そんな妄想が次々と出る)

会社は事業を受け継いだ息子がお金なども全て引き継ぐのだから心配不要だと、どれだけ言ったところでそういう事は理解できず、さらに妻が帰ってこないのはそのお金を悪用しているからだ、というように考えてはじめ、早くお金の流れをしっかり管理しなくてはいけない、という妄想のスパイラルに陥っていく

世の中にはこのような事例は多分いくらでもあるだろう

﹆﹆﹆

僕は悪い人間なのかもしれませんが、
全く高見の見物をして茶番劇のドラマを見てるような気持ちでいることにしています
僕が介入したところで何が解決するわけでもないし、僕の意見が聞き入れられるわけでもない
傍で見ているのはとても気の毒であるものの、一生懸命になっている長女を見ていると可哀そうだ、しかし、助けてあげることはできない

「仕方がないやろ あなたのおとうさんなんやから」というような態度で知らんふりをしている冷酷な人間になっている

﹆﹆﹆

人として とても大切な能力の一つに『重大な局面に遭遇したときに あっさりと投げ出してしまう』という性格がある

一生懸命やっても成功の道は無い、その時は 一刻も早く投げ出してしまえるような気持ちに転換すること、を僕は望んでいます

もしも僕が同じ立場になっていたとしたら、投げ出せる物なのかどうか それは 全く想像ができません
そういう意味でも無責任な発言であるが 今最も必要なのは「無責任」っぽく投げ出してしまうことだと思うんです
だって責任を持って何か努力をしても何も解決ができないからです

実はそうすることは
全く無責任でも冷酷でも投げやりでもないし、介護を放棄したことにもならないと思う
本当の愛とは何か、優しさとは何かを 試問されているのではないか

記憶を失う ー 続 京都師走日記 ・ 雷山無言

(師走日記続き)

夜も更けて参ります
更けゆく夜に日記を書き始めて二日目になります
(読み返しては書き直すので 刻々と変わってしまいます)

﹆﹆﹆

もうそろそろ今日のお勤めを終えてお休みしようという時刻ですが、とうさんは リモコンをなくしたと言うて大騒ぎをしておる

どうせ、狂気なって怒ってゴミ袋に投げつけたか、どこかに投げつけて壊したのでそれをゴミ箱に放り投げたんではなかろうかと僕は推測する

認知症に伴う「せん妄」が日常になってきて 「狂気」に似た症状になることが増えている

ツマが浮気をしているというような根拠のない記憶が真実のように変化して、似たような事件が創作ように枝葉をつけて膨れ上がり、過去の出来事もねじ曲げられて、その大間違いに興奮して「真っ赤」になって怒りを表して物を投げたり叫んだりする

次第に人は寄り付かなくなる

家人(ツマ)は (オトコのところに)逃げていった、と妄想は発展する
(暴れるのを避けて部屋を借りて出ていってしまったのが真相)

帰ってこないからキレるのは 当人にしたら当たり前のことで、リモコンはそんな暴挙・暴動の末に壊れてゴミ箱に投げ入れたとしても不思議ではない

自分で投げ捨てておきながらそのことは記憶から消えてゆくのだろう

﹆﹆﹆

人間(ヒト)は挙げ句の果てには 全てを忘れていくものなのであろう

昼間に 長男が訪ねてきた

徘徊をして「ケーサツに保護され電話があって引き取りに行った」というのが真相で 『いづうの鯖寿司』を一つ置いていったのだが、そのことさえ 尋ねても 記憶にないという

この人の幸せとは一体なんであろうか
三途の川を渡るときには 真実を知り 『せん妄』を拭って渡らせてあげたい

痴呆と向きあう Ⅱ ー 暮れゆく師走に

ウチの人はとーさんのところに行って相手をしているときは必死で 一日中相手をしてあげるのが お勤めのようにいく

明日になったら何を話したかどんなことをしていたのか半分ほども記憶にないのに
そのときは正常だという

「それは正常ではないのだ」と私は言う
「病気(異常)でありその症状が正常に見えるという異常なのだ」と私は言い続ける

可哀想なことを言う酷い奴だと思われているのであろう

自分の部屋に戻ってきてその異常度合いを思い出しながら、なぜこんなになるまで医者にかからず放置していたのだろうか、と悔やんでいるのだろうか

悔やんでも始まらないから精一杯尽くそう、と思っているのだろうか

⛄︎ ⛄︎ ⛄︎

そんなことを記録メモに書いて、私は日々を過ごすことになります

たぶん、十日ごとに定性的な観測をすれば 痴呆の悪化具合がさらに明確に目に見えて把握できるのだろうと思うものの、今更 特効薬を求めて走り回る気も残されてゆく人に湧いてきてはいないようで これらの重要な人たちは 他人事のように静かに時を待っているようにも見える

こんなにも 身内は無責任で 利己的なものか

癌に犯されたとき寄り添うて悲しそうなフリをするのも 痴呆に向き合いよそ見をして知らんふりをしているのも その根底に流れる心は 突き詰めれば同一の姿であるのであろうに・・

しかし あまりにも非情で情けが見えてこないので 驚くばかりだ

⛄︎ ⛄︎ ⛄︎

(とーさんの住む地に遠方から痴呆の生活を助けるために来ている長女がウチの人である、次女や長男は市内に住んでいるのに世話をしにこないという事実に直面してこれを書き始めている)

⛄︎ ⛄︎ ⛄︎

ウチの人は同じ屋根の下で寝泊まりを始めただけに 噛み砕けないような辛さに直面しているのだ

人間が知性とか知能というものを得たために 『知』を失うことへの抵抗や失望が発生した
『知』の喪失はどんな動物にもあるのだろうけれども そのことはすなわち野生で生きる力を失うことで 生命を賭けた大きな衝撃であったのだ

縄文人であったならどうであろうか
妖術や呪術に頼って 祈祷をするのだろうか

✾ ✾ ✾ ✾ ✾

もう何日も(無理をして)生きていても仕方がない
九〇歳で死ぬと四柱推命で占われ もうその年齢を超えたのだから死んでも構わない

投げ槍にそう言っている訳ではないことは理解できる
しかし もしも死んでしまったら後になってから そんな諦めを許せる訳でもないし
実際に過去を振り返って悔やむ人もいる
悔やむことは間違いではない

十年後に 二十年後に そのことを悔やむ

⛄︎ ⛄︎ ⛄︎

病気と向きあい死と接することは普遍的なことだ
命が滅びることは避けられない

では
この壁と いかなる姿勢で向き合うのか
早く衰弱して ほんとうに死んでしまった方がいいのか

師走澹然 ー 初旬から中旬へ 大雪篇

自處超然 
人處藹然
有事斬然 
無事澄然
得意澹然 
失意泰然


🐜 🐜 🐜

痴呆と向き合う
2022/12/15 木

『痴呆』という漢字を書いてみて改めて次々と頭に浮かび明らかなるものと向かい合う
その時間の中で、それは「知」を病むことなのだと知らされる

『癌』であれば 例として肝臓なり膵臓の臓器の一部が侵されるのだろう。
しかし、痴呆と呼ぶ疾患は 身体を切り捨てて欲しいと叫んでしまう癌のような痛みを感じるわけでもない
生命を即座に断ち切ってしまうような一撃があるわけでもない

おそらく 長い歴史の上で 祈祷や霊感が大きく人の心や生き方を左右していた古代から痴呆というものは存在したのだろう
それが文明の進化や変化に伴い信仰とも融合し 病気の中から少し片隅に追いやられて扱われてきたのだろうか
厳しく冷たい現実である

人間が心臓を拍動させながら生き続ける生命体であるがために 病気として扱われてきた「痛み」や「苦痛」の病気とは違って、知性という目に見えない感情の病は 掴みどころのないことで 祈祷や霊感の力に頼ってしまい 近代医学の治療のステージから取り残されてしまった感がある

取り残されたというようよりは むしろ 迫害されて 「気狂い」扱いの分野にも放り込まれてきた

ーーー

身近でアルツハイマーの診断を受けた人が出た
そのことで 初めて痴呆という病気の現実が身近に寄ってきている

つまり、これまで日常生活の中に全く無縁であった『介護』と言う世界がすぐ傍までやってくることになった
アルツハイマーになってしまった人を傍で見ていると気の毒でありながらも、冷酷に判断すると もはや生きている分類の仲間に入れては気の毒であり 尊厳とプライドを奪っているよう見える

癌の痛みに苦しむ人が人生を振り返ってあらゆる想いを語り吐き出して、痛みをモルヒネで誤魔化しながら命を尽くしてくのとは 痴呆は違う
何故ならば、認知症の人はもうすでに三途の川の領域に足を、紛れもなく踏み入れているのだ

正常の様相をしばしば表出するために(厳しく冷酷な言い方であるが)死人の扱いをされず、生きてる人として守られる
それを否定するつもりは毛頭ない
しかし 三途の川にすでに足を踏み入れていると割り切らねばならない

ーーー

あの世に行ってから生前にもらった言葉を思い出すとするならば、記憶障害を起こしている当人はこの期に及んでかけられた言葉を持ってあの世にゆくことはできないのではないか・・と考えた
確かに息をして体温が温かく生命としては消滅していないのだけれども(どれだけ続くかわからない最期までの時間を有意義に送ろうとするのは理解できるが)『知』は全く喪失してしまったのだから、然るべき方法を考え出してなんとかしたい、と痛切に思う

ーーー

一生懸命に「痴呆」の人を救おうとすればするほど 行き詰まってゆく
つまりは 救えないのだ。
現実社会や医学では、痴呆を救うことはできず 引き摺り回しているだけではないのか

救う決定的な方法が提案できないから 苦心している


思いつくままに書いた
間違いも 考え違いもあろうし
この後に新たえねばならないこともあろう

時間が過ぎる刹那に
何を思っていたか

十一月の或る日切り取りペンを置く ー 下旬のころに考えていること

🐤 🐤 🐤

霜月中旬に とーさんに微妙な変化が出始めたことに これまでに触れてきた
想定外ではないにしても「急に変化が…何故に今ごろ」とも 言える

九十歳を超えているのだから 何を油断していたのか
もっと早く手を打っていたならば 病状の進行は最低限に抑制できたのではなかろうか

そういうことを 寝ても覚めても悶々と考えつつ 一方で
本人は 日々 時間を何も考えることなく 曜日も日付けも怪しいまま 時間を送っている

医学も精神科学も 時代と共に進化する
幸運にも 現代人は 幸せを目指しながら 長生きをできるようになってきた

こういう状況に追い込まれて はじめて
「幸せとは何か」ということを 改めて考える人も多かろう

🐤 🐤 🐤

🐤 🐤 🐤

🐟 🐟 霜月の暮れ尽きる時の秋刀魚かな

二十九日(水)にサンマ15号を食べた
京都にしばらく居住することになる
そんな言い訳を持ち出し 鰻を食べてきたのが三十日(水)

呼び止めてもいってしまうあの人 ー 夜明けの頃に夢を見た 十一月下旬

渋柿

散歩に出たときに柿の木がある
田舎では 普通の風景だ

木の下では このうちの人が焚き火をしていた
落ち葉を燃やしているのか ゴミを燃やしているのか

話しかけるわけでもないから不明のままだが
干し柿にしないのだろうかと 疑問に思いながら 通るたびに見上げている

青空が澄み渡る日だったので 写真を撮った
ちょうど 飛行機が飛んでいて 得した気分だ

🔗 日が暮れるまでに青空を見ておこう  (二十五日


📌 呼び止めてもいってしまうあの人
📌 夜明け前そんな一句を思いつき
📌 目が醒めて時計を探せど見当たらず
📌 夢に出ても振り向いてもらえぬ悔しさ

♠︎ ♠︎

ゆうべ(二十六日)
特別な 変わった 珍しい 夢を見た
ちょっと切なく辛い朝を迎えた

偶然と不思議が同時に現れて
急にドキドキし始める
心臓が騒ぐ、胸が高鳴る

縁起でもないから 早く夢から醒めよう
そんなことを夢の中で考えたのだろうか
起きることにした

考えれば 悪循環になる

たった今
反対に
そういうふうに 思うのだから
きっと何も起こらない
大丈夫と思おう

たいてい
悪いことが起こってしまったときってのは
あとになって あれこれ思い当たるものだから

♠︎ ♠︎

今なら
もしも幸せでなくても
幸せに向かって
一生懸命になれるはず

明日が見えれば
それも幸せの予感だ

『頑張る』という言葉は辛いけど
頑張っていけるということは
ええことやないか

♠︎ ♠︎

十一月の中旬に とーさんに異変が起きた
突然ではないと思うが 症状を聞けば突然かもしれない

痴呆に関わることを調べると『せん妄』という言葉が出てくる
まだまだ痴呆には 至らないと 安心をしているわけではない
しかし 身近に迫り来ていることを実感する

追記は つづく

老いることを考え続けている ー 勤労感謝の日がすぎて

勤労感謝の日 二十三日

勤労をしていなくとも
日々に感謝をする
休日である

前回の日記で
「老いること、残りの人生」を考えた

考えたところで何がどのようにできるものではなく
自分の力で曲げてゆくこともできない
そういう事実・実態と向かい合いながら生きている

しかし
それで済ませる訳にもいかない

🧄   🧄

友だちと顔をわせれば「健康であり続ける」ことの話になる
六十歳ころまでそんなことなど気にかけずに生きてきた

もう遅いわ
というのが 率直な評価だろう

🧄   🧄

ではどのように生きるか
そこで 現状の「健康維持」というささやかな目標に到達する

病気に罹らなければ生き続ける
それはエネルギー保存の法則で物体が運動し続けるのに似ている

音響エネルギーが減衰するように身体は衰え始め
一定レベルまで減衰したところで急降下する
このポイントを明確に掴める人が「よい死に方」のできる人だ

🧄   🧄

お酒は やめた
栄養バランスに気をつけて暴食はしない
ウォーキングは ほぼ毎日続けている

スポーツといえるような運動をしていないのが気にかかるが
寝てばかりでゴロゴロしているわけでもなく
適度に頭も使っているつもりだ

金は無い


二十三日(水)の昼に『一風堂』のラーメンを食べた
うーん ラーメンを食べる日が多いか

夜は 鱈の西京味噌漬け(焼き)と小松菜豚肉厚揚げの煮浸し
これは多すぎることもなく 許容レベルか

  • ブログを書いて
  • 楽器を吹いて
  • 食べて
  • 歩いて(5千歩前後)

・・の日々が続く


📚 📚 書きかけ つづく

秋刀魚を食いながら考える ー 十一月中旬号

🍂 🍂 🍂 

サンマ14号にまで到達している(十二日)
実は食べ飽きたと繰り返し言いながらも 他の魚よりも手ごろ価格であるし
一匹程度ならタンパク質やカリウムを とりわけ気を使うこともなく食べられる
小松菜を一皿つけて 味噌汁でご飯をいただく

これを食べたらクレアチニンが減りますという話はなく
ひたすら心掛けて食事をするだけです

🍂 🍂 🍂 

さて
🌱具合がわるいということがわかってきた京都のとーさんのことで
周囲の人々がざわざわとする

🌱押し並べて述べれば 九十歳を超えて 精神的に不安定な時がある
いわゆる 認知症を疑いたくなる行動が出ることがあり
早急にしかるべき医者にかかった方がよいのではないかとなっている

🌱自分がいつかそんな時を迎える恐れがある
そういう不安を持ちながら多くの人は日々を送っている
それを考えると 日常から手を打っておくことが必要だ
遺言も大事だが 残された人が困ってしまってはいけない

🍂 🍂 🍂 

十一月十日は 健ちゃんの誕生日でした
お祝いをしてもらっている写真は 省略しますが ポケモンの人形をプレゼントをしてもらうためにサンバレーにきて ゲームセンターで遊んでいる写真です

書きかけながら・・ つづく

『二十歳のとき、何をしていたか❓』 ー 十月はじめに考える

『二十歳のとき、何をしていたか❓』
そんなタイトルが目に止まった
はて 私は如何なることをしていたか
思い返してみようではないか

・ ・ ・

ひとことで二十歳を語れば
夢と野望に満ちていた時代だ
といえようか

年を重ねるにつれて『野望』という言葉を使わなくなってきた
夢から野心が欠落してきて、叶わぬ野蛮は考えなくなってきたのか

無理を承知で夢に挑むことをしない
既得権としてえた幸福を大切に、事件の起こらぬようにくらす

とかく若い時は、そのような現実に妥協をした人生の歩み方に反発してしまう
自分を勇気がないとか果敢的でないと思うのだろう
若者は、意気地なしには行きたくなわいわけです

それがやがて、現実に沿うようになる
現実的な考えというように普通表現する

四十歳を超えると子供の学校のことを考えたりしながら
就学も卒業させ 今度は子供が第二の人生を掴む時が来る

私の場合はその前に仕事にかける夢を捨てて新しいステージを探すと決めた
結果は成功ではなかったのだし、そんなことは予想通りだったかもしれない

然し乍ら 子どもは離陸をしてくれた

夢は追いかけても もはや叶う年齢ではない
実力が備わっているわけではない
人生運もこっちを向いてはいない

必然的に低空飛行で飛ぶしかない
上空に舞い上がるパワーはない
着陸するとして どんな場所かもわからない
飛び続けるのが安全策となって今を飛んでいる


『二十歳』から脱線してしまった

つまりは 人生はその後どのように展開をするかわからない
ハナから詰まらないと決めて人生設計をしてはいけないし
あまりにも身分不相応なものを二十歳の頃に考えてもくじ引きを引くようなものになり兼ねない

確かに運は自分で引き寄せるものだ
その根拠を構築するのは非科学的で非論理的であってはならないと考える


成人式のころのブログでも書いたように 迷っていたのでしょう

結局 多くの人のに苦労をかけ世話になって今に来ているということです

そういう時期を「必須不可欠」と捉えるか、また「通過儀礼」と考えるか
これは死んでも続く永遠の課題です

🍘 🍘 🍘

🍘 🍘 🍘

九月の下旬が尽きて十月に変わってゆく

スマホ画面がスワイプされるように
幕がとじて新しい幕が開く

人生はそのことの繰り返しで
幸せを抱いていても
苦労を背負っていても
ステージは新しくなってゆく

スポットライトの当たらないステージ
役者の顔も変わらない

ーーー

🌿 猪木79円楽72自分を置いて65
🍎 頑固でもたまには素直にふうをきる
🍧 おろおろと暮れる九月のかき氷
🍨 サヨナラ夏 きな粉のアイスで九月尽
💖 新月や忍者のような恋仇
🫘 豆腐屋のラッパ哀しく今夜は湯豆腐
🌥 意地っ張り鰯雲にも愚痴もらす
🍄 父と食う松茸 山は謎のまま
✈️ 坂道といえば夕やけ学校帰り
🧄 茗荷つまんでホントのことを噛み殺す
🛩 ジェット機が夕焼け雲の幕を引く
🌀 あれこれと多く語らず念願のうなぎ


ニュースで
猪木79
円楽72

亡くなったねえ

ーー

72歳ってすぐそこで、あと7歳引き算すれば自分に届く

その年齢の人って
遠藤周作73
司馬遼太郎72
いかりや長介72

です

言い残したい事は何か について考える ー 九月尽 (雷山無言) 

石原慎太郎の「私」という男の生涯 を読んだが、期待ほどでもなく詰まらなかった
一息ついて考えて こんなもんやろと一つの着地点をみつけたよう気持ちが残っている

とても素晴らしい自伝だろうと 期待した こちらが悪い
大きな偉業を残し数々の発言をしてきた人で、著作品も漏れなく面白かった
だが、これは単なる一人の人間の女性に纏わる話でしかすぎない

それなりの人物が書くのだから 作品として立派なものにできあがることは理解できる
しかし 残念なことに 一庶民からしたら この人の一番魅力的で面白いところには触れていないし 出ても来ない

政治思想は全く逆の人だった
だが 言動には注目できるものが多い
結果も評価できるし 人物として好感度もある

だが、この程度のことを生きている間に書き残しておこうとするところは 所詮、ただの凡人であった
やってきたことは 肩で風を切って颯爽としていただけに 尻すぼみの作品になってしまった

勢いを失速した感があり 最後に書き残したことは 面白味が全くなかった
作品としては 誰でも書けるレベルであるし 内容にも惹きつけるものがなかった
政治家としての生涯を訥々と語るようなものを期待したのがいけなかった


かつて
生きている間に葬儀を済ませて 弔辞を自分で書いて読み上げたらおもしろかろうと言い出したことがある

しかし 石原慎太郎の生前に書いた自伝を読んで 自分の考えを少し訂正したほうが良いと思い直した

死んだら言いたいことを伝えられなくなると 或る種の不安のようなものを抱いたからだろう

皆さんに聞いておいて欲しいことを選りすぐって伝えたいと考えたわけだ

ところが よく考えると そんなものなどが滅多やたらにあるわけではない

死んだら消滅し 残された人が掘り起こしてくれれば幸せであり 埋もれたままならその程度でいいのだ と思い直そうとしている

確かに言いたことを残せず あの男はあの時何を言いたかったのか聞いてみたいと思う事がある

だが よくよく考えれば消滅してゆく者に言葉は不要だ

不思議なままのものが残っていたほうが良さそうだと思い直している

彼岸を迎えて考える ー 秋分の日篇

この「裏窓から」に社会への意見(不満)やら環境への提言・所感を書いていたのは昔のこととなって、近ごろは苦言の一つさえも出てこなくなった。それは或る意味での諦めであり、また完成された到達点でもあるのかもしれない。夢を失い行き場をなくしてしまうのが 譲って考えて必然であったとしても、やはり人として人らしく生きていく必要があろうから 何か波を起こすことを見つけたい

。。

彼岸に墓参にゆく
台風が接近している雨模様の合間を縫って急いで行ってきた
ぎゅーとらで物産販売をやっていて茶団子がったので買うてゆく

母を訪ねると、近所の美和子さんが急死だったことを寂しがっていた
前日まで元気に普通に話をしていたの 救急車で運ばれてそのままだったという

少し若く(八十七、八くらい)のだ
もう同じ年くらいの人は数えるほどしか残っていない

果たして
日々どんな心境で暮らしているのだろうか
動くのがしんどいという
出かけたりするのは昔のように元気にはいかないらしい

しかし
努めて散歩には出ているし、食欲もある
テレビを見たりして一日を過ごすことは諦めておらず

喋ることも達者であり話の筋にも揺るぎない
記憶も私以上に正確である

『数独』は 周囲や家族、子供、孫たちよりも 多分達人だろう

。。

言いたいことは残さずに言うておきたい
と私なら考える
やりたいことは 今やそれほど欲もないだろう

さて

時間の問題を考える
姉が大正生まれで元気にしている
「まだまだ・・だ」と内心は思っているだろうか

縁起でもないことがあったらいけないので、いきなりは私もここで書けない

。。

彼岸もすぎるので
少し 人生を振り返ってみるのも良かろう

石原慎太郎 「私」という男の生涯 を手元に置いてぼちぼち読む

梅雨の真っ最中 雑感 ー 父の日 夏至篇 裏窓から

父の日、夏至を迎える



キーワードをあげてみる


1。老後、人生、楽しみ、余暇時間
2。趣味、交流、楽しみ
3。年金、節約、家ごはん
4。支給額、格差
5。居酒屋、贅沢
6。ささやか、幸せ、夫婦
7。健康、通院、持病、成人病
8。運動、ストレッチ、会費、ゆとり
9。家族、孫、子ども


🐾 老後、人生、楽しみ、余暇時間

仕事も引退して 自分時間をマイペースで過ごそうと思った
しかし 想定外だったのは 仕事がなくなり無収入になってしまった
蓄えは 平均には到底及ばない、三年で食い潰す勘定だ
年金受給までの三年間でありったけを食い潰してしまう
年金受給開始時に手元に残っているのは葬式費用だけである

悠々自適かと思われたが 大きく段取りが狂ったというか見込みが甘かった
資金がないと 自由に動き回れない
どうしても勘定が先に立つので 車も手放した オートバイも廃車にした

🐾 趣味、交流、楽しみ

ブログを書いて 楽器を吹いて ウォーキングに行く
(腰ヘルニアで休止中)
余暇時間がたっぷりあるがおおかた家にいる
外出も控えて靴底の減らない生活をしている

お酒は大好きだったのを断ち切って今はほとんど飲まない
酒肴料理は 半分にした(刺身は八切れから四切れに)

まあ 楽器を吹いているから時間は過ぎる
コロナ渦中で 楽団には参加をしていないが そのうち戻ろう

酒を飲んで喋る楽しみは 封印してしまった
健康を意識する行動に転換

🐾 年金、節約、家ごはん

年金はまだ支給されないため 現在は無収入の暮らしが続く
友達が少し前から受給していて その金額を聞いて ガックリきて 涙が出たわ

おうちご飯は 一、二年前と比較すると半分ほどに変化した

🐾 支給額、格差

年金支給額は 友人と比較すると 『20分の12』 ほどしかないことが判明した
仕方がない
厚生年金をかけた額が少ないのだ
そのまま支給額の結果に出ている

世の中には私よりも豊かな人もあるだろう
反面 使い切れないとまで言う知人もいる

簡単に格差という言葉でも済まされないが
僕の年金の 五倍ほど(大雑把に50万円)なんていう友人の話を聞くと 脱力感に襲われる

一方で 僕よりもさらに少ない人がある
社会の制度に怒りを感じる
弱い人はより一層弱っていくだけだ

🐾 居酒屋、贅沢

お酒は外では飲まない
もう何年も前から禁止にした

コロナ渦中 出かけられないのはありがたい
外に行くゆとりはないのだから ありがたい

🐾 ささやか、幸せ、夫婦

夫婦が健康で慎ましやかに暮らす
これしかない

🐾 健康、通院、持病、成人病

健康でいることは 難しい

腎臓が弱い
特に医者の強い指示はないが我が血族は間違いなく弱い

そこで 腎臓病食の勉強をして食事を考えている

🐾 運動、ストレッチ、会費、ゆとり

ストレッチのジムなどにも行けると良いのだが そんな金銭的なゆとりはない

生活にゆとりがないから自由に動けないのが実情で
ジムなどに通える人が羨ましいものの 自分で工夫をする

そんなかで 老後のゆとりを見つけたい
日々の暮らしは 貯蓄を食い潰して暮らしていても 費目の上で貯金をし 旅行などに当てて行きたい

🐾 家族、孫、子ども

やはり
資金がないのだから 孫には何もしてあげられないのです
しかしこれも日々の支出の中で費目を分けて 孫にも使う

子どもには迷惑をかけた
大学時代には育英会から五百万円近くの借金をして それも卒業後数年で返済処理を完了し 結婚もした

これからは親が子どもに何かをする時代ではなくなった
二人で働いて頑張ってもらいたい


夏至のころには そんなことを考えていた

コロナ・やれやれ - その後(号外5)

コロナ
終わった

やれやれ


11日までは 自宅療養
色々と考えると 災難だったが 珍しい経験でもあった

生きててよかったと思う
基礎疾患系の身体なので もしものことがあったら苦しくことになる

当然 母親の心配もした
それほど症状が出ることもなく
冷や冷やドキドキすることもそれほどなかって 幸運だった
長生きしたら この事件を大いに語って振り返りたい


以下のようなことを書き残しているので 貼っておく

* *

先ごろ母親(91)が庭で転倒して骨折し入院となったことで手紙を書く機会ができた
不慮の事故を後悔しながらも、ふとした偶然のことからの意外な幸運に些か喜んだ

コロナの渦中であるから見舞いの不自由さは想像通りで、91歳の老人には家族であろうと面会はできず、老人を寝台に寝たきりにさせることで残された者たちには次々と不安や心配を生んだ
そこで思いついたのが手紙を書くことであった

学生時代に鉛筆書きで「学費のことは心配せずしっかり勉強しなさい」と手紙をくれた父や母であったが、こちらからは書いたことがなかった
タバコ屋の店先の赤電話から仕送りの工面の電話をしても「元気でやっているか」などの手紙は出さなかった

使わなくなった便箋を探し出し、寝たきりの老人を元気づけるために老眼でも読めるような大きな字を意識して「頑張って早く歩けるようになってください」と書いた
今さら母親に何を書き出すか思案に暮れて、日ごろから暮らしへの感謝も疎かにし、畏敬や感謝を粗末にしてきたことに気付かされるのであった

久しぶりに持った万年筆のインクの文字が下手くそで滲みばかりが目立ったが、その辺の戸惑いも母親には届いただろうか。

転倒による肋骨骨折事故 - その後(号外2)

▼ 三月十日

肋骨骨折のため緩やかなギプスで胸部を固定されて寝台に横になったままのようです
血圧は 元々やや高めで監視状態であったので 異変がないかを監視中
脳のCTは以上なし
食事は 平常通り摂取できている
その他 特に注意点なし


電話で簡単な対話をした結果、筆記用具が欲しいと言われました
そのほかには、マスク、櫛、手鏡 などです


▼ 入院をしてしまった当人は気の毒極まりない
しかし、ほかに処置の方法がないので 現況の治療を受け入れるしかない

では、少しでも快適な入院時間を過ごすための工夫を 周りも手伝って考えてゆくしかない


▼ sudden deathの恐怖が襲います

『死亡』でなくとも、身体・身柄の拘束に遭うことになったら 想定していないことが次々と浮かびます

もしも自分が急遽入院をすることになったらと考えると非常に恐ろしいし不安が襲い掛かります

可能性を考えれば、人によれば運命と割り切っておられる人もありますが、なかなかそうもいかないでしょう

▼ 面会不可で 孤独状態になる恐怖

日常の暮らしでは自由に話をし 物を手に取り 希望を叶え テレビやネット、新聞などを見たり読んだりして快適に暮らしています

これが 「ぷつり」と断ち切られてしまうのですから 怖いです


書きかけ *

やはり sudden death を 考えぬわけにはいかない - 三月中旬 特別号

サドンデス(sudden death)
決して遠くない言葉だと実感をする

5日(土)に溝にはまった時のけがで、肋骨の骨折が7日(火)に見つかって
その後、病院から何の音沙汰もない時間が過ぎる

マイナスの予感はいくらでも湧いて来る
何しろ91歳になっているので、明日にでも認知が発症してもおかしくない
そのことが 周囲の人々の最も最大の心配だろう

骨折は 整形外科の治療に委ねる


※ 日付を変えて時々刻々と書きます

突然事故(母の怪我)- 啓蟄篇 (裏窓から)


書きかけておいた日記継続する(追記)


三月五日土曜日に母親が家の裏の路地脇の溝に転落をした
夕方に携帯の連絡が入り頭を打ったので市内の病院で診察してもらえるようにし緊急診断として脳のCT雨を取って確認をした
初見では異常は見られずに自宅に帰るのだがにはくしても痛みが取れないしふらつくというので再び病院に行く
検査のため何一日ニュイんとなるという報告を聞いて病院からの連絡がプツンと切れてしまった

病院とのやりとりは弟がしているため、明くる日の午後に連絡が入った
病院の説明では精密に検査をした結果肋骨の骨折が見つかったという
脳梗塞などの頭部の心配はない


心配事は 湯水のように出るということだ

突然に予定が変更になることは、日常ではあり得る
もしも自分が 『突然死』(サドンデス)に遭ったらどうなるか・・

改めて危機管理のデシジョンを明確にしておかねばならないことを思い知らされる

* 五日の日付日記であるが継続追記をしました
* 続きは日付を改めて考えることにする

月のはじめに考える ー さようなら

人生に「さよなら」は つきものだ

「さよならだけが人生だ」

皆さんの多く誰もが真似をして口ずさんでいるかもしれない

人生‥‥などと大仰しく斬り込むつもりはない

『ほな、さいなら』

毎日学校帰りに「さいなら」というて手をふることも日常であったし、きっともう再会できない人とのお別れに駅のホームで手をふったこともある

人を荼毘に伏すほんとうの別れのときは「さようなら」などの言葉も出なかった

歓喜に満ちた明るい「さよなら」もある

数々の別れをへて人は歳を重ねてゆく
その間にも随分と 人として強くなってゆくものなのか、鈍感になってゆくのか‥‥

二十歳前の「別れ」はどれもこれも悲しみに満ちていた
残された人生で、再会のチャンスなども無限に残されているのに「悲しみ」を堪えた
あれは旅立ちの歓びでもあったのだろう

何はともあれ 若いときはよく泣いた、泣いてばかりいた
年を食って涙もろくなって 昔とは違う泣き方をするようになった

不惑の歳を過ぎてからの「別離」はどれも辛くて耐え難いものが増えてくる
そんな別れの歴史を、試練のように思って強く逞しく乗り越えてきたと自分もいる

その時代を振り返る自分もいる

私の人生にスポットライトなどが当たる瞬間など いっときもなかった
そう 日記には何度も書いてきた

しかし、光が当たるとすれば 死んでしまったその時かもしれない
ドラマとはそんなものなのだ

三月になった

小学校、中学校、高校、大学と卒業式は二月から三月に、ちょうど十日おきくらいにトントン拍子に行われる

「あさま山荘事件五十年」という新聞記事が目にとまる
あの年に京都大学を卒業予定だった元上司からは全学生卒業延期の逸話なども聞いたことがある

現代は コロナ である
(けれども 大海原をゆく水夫たちはこんなことでへこたれていてはいけないのだ)

そうこう考える一日が過ぎて 三月も一歩一歩進んでゆく

タイムリーに卒業式のニュース映像が流れていたので懐かしむ
三月一日は高校の卒業式である

高校時代は 受験に失敗して入った学校だった三年間だから 一刻も早く卒業をしたかった
新しい道を自分の手で開くために 合格を勝ち取る必要があった‥‥

だが、道は開けないまま上京するのだ
人生でもっとも壮絶だと思える六年間はその後のことだ

しかし、「壮絶」という言葉をつい使ってしまったが、荒波なんてのは 次々に押し寄せるものである
荒れる大海原を航海しているなら 壮絶など果てしなく続く

……どうやらそういうことに気づいて開眼したのが 還暦を回ってさらに数年が過ぎてからだった

波は 穏やかで 高鳴ることもなければ 潮流が向かってくることもない、そんな日々が続く


『禍』という字は 忌々しい字だと思うので 「コロナ禍」という言葉は意識をして使わないようにしている

『禍福は糾える縄の如し』

数多い座右の言葉のなかの一つである
ここにも そんな漢字が使われている

厳しく冷静に生きる道を見つめねばならない
そこには自らの手で、自らの力で、自らの知恵や工夫ではどうしようもならないことが蠢いている

(新しい海に漕ぎ出した新しい水夫の腕の見せ所だ)

だが
子どもたちには

・・
若き血に燃ゆる者
光輝みてる我等
希望の明星仰ぎて此処に

見よ精鋭の集う処
烈日の意気高らかに
遮る雲なきを
・・


弛まぬ努力を惜しまぬように
燃える情熱を胸に‥

そんな話をする時間もなく
孫ちゃん1号は新年度から一年生だ

つまり

「さようなら」は
「さて、はじめましょう」なのだ

「さいなら、はじめましょか」


*(エキサイトと同内容)

あす死ぬと知っていること、知らぬこと ー 小正月号


あす死ぬと知っていること、知らぬこと

クリスマスイブのころ、義妹の父が裏山の枇杷の木の剪定をしている最中に梯子から落下して入院をした
最初の情報では、落下して首を傷めて、山から一人で戻りその晩は静観していたが、明くる日になって痛みが激しくなり救急車で搬送となった

ところが、14日間に容体が急変し亡くなってしまった
リハビリをできる病院を探して転院しようと進めているところだった

落下直後にどんな状況であったのか誰も詳しく聞いた人がいない
推測をすると、一人で山を這い降りて痛みを堪えて家で静観していたものの、もしや首の骨折ではないかと思え、急遽救急車で搬送してもらったという

のちの情報では、落下によって首が骨折したらしく、死因は骨折によると診断書に書かれているそうだ
93歳であったから身体はそれなりに老衰していて多臓器の機能も衰えていたことも原因だろうと家族などは話している

突然にこんな形で死んでしまうとは 多くの人が思ってもいなかっただろう
コロナの影響で面会には大きな制限があり、家族でさえ自由には会いに行けなかった
救急搬送の直後に奥さん(義妹母)が下着を持って行き、わずかに話したのが最後という

言いたかったことはなかったのだろうか、あったに違いない、それは何か

私が父を亡くしたときも、その後いつまでもこの疑問が脳裏に焼き付いている
永遠に答えの出ない問いかけだ

あす死ぬと 知っていること、知らぬこと

知っていても何ができるわけでもない
一言は残せるか

事故、災害、不運、自死など、この先に何が起こるかわからないのは、いつのどんな時代であろうと同じだ

成人45周年 ー 物語は四十五から始まる


正月が終わり
七草が過ぎて
成人の日の三連休を迎えている

思うところはいろいろとある
過ぎてしまったことは
もうええか

四十五年という歳月
数々の歴史を刻んできた長い年月

四十五歳でスピンアウトし
くしくも本年が成人後四十五周年

物語は四十五年目から始まったことと重なって数字が重く問いかける

年末年始 に考える

大晦日から元日へと


生前葬はイベントであるけど 弔辞は作文なので何かを考えたいと思っている

去年のいつ頃からだろうか
自分が死んでしまうときのことを考えることが多くなった

死ぬことを恐れているのではない

死んだ後のことを心配するのだ

もしも自分が残されたということも考える


つまりは 二人のどちらかが一人で生きてゆくことになったときのことを考えるのである

暮らしの貧富のことを案じているのではない

豊かであっても貧しかっても
不幸せになることもあれば幸せに暮らせることもある

ひとりになって寂しくなることもあろう

これまで一緒に暮らして来た夫婦が
消滅して家族が欠落してしてガタガタになったりはしまいか

冷静に考えれば
離婚をしても単身赴任をしてもひとりなのであるから
凌げるものかもしれない

だが 突然死という形で
自分がそんな目に遭ったら(遭わせてしまったら)どうなのか・・

仕事をしないで家にいると
ロクなことは考えない
困ったものだ

それよりも健康に気をつけて日々を過ごそう
精一杯生きることが大事だ


まあ新年はそんな感じでぼちぼちと発進です

(続)冬至篇/弔辞考 生前葬と弔辞 - 師走の或る日に 裏窓から


続 冬至篇

年の暮れが近づいて
生前葬と弔辞のことを考え続けている


書き晒したまま二、三日が過ぎている
自筆版弔辞を作りたい
何を書くかは決まっていないが
他人(ひと)の書かない内容が面白かろう

このブログで引き続き考えていこう

* 書きさらし

何も凸凹しない 凡凡とした時間が過ぎた一年であった - 大雪篇 ・ 裏窓から

令和三年(2021年)が愈愈カウントダウンで暮れようとしている

歳を重ねるごとに師走に考え込むことが増えた
使命感のように一年を振り返らねばならないと考えるのだろうか
残りの年月が時々刻々と減少していくことの焦りなのか
考え込むほどに諦めが湧いてきて投げ出してしまう

* 考え中

そうこう考えている間に
十二月九日がすぎ 東海柳壇 に投句が載ったこともあって
時間は過ぎてゆくのであった

日を改めて書くことになろうか・・


父の日を考え続けている - (裏窓から・号外) 父の日号

昔からある「父の日」を特別な日にしてこれほどまでに騒いだのだろうか、と考えながら、父のことを思い返している

裏を返せば 新聞の一面の上段に 二十四節気や祝日と同様に「父の日」と特別に書くほどの日なのだろうか

死んだ父であれば これを見てさぞかし喜んでくれることと思うものの 苦々しい顔も想像できるような気がする

✂︎ ・ ✂︎ ・ ✂︎ ・ ✂︎ ・ ✂︎ ・ ✂︎

『遺す言葉』の中でも回想しているが 父親とはどういう人であったのか、などを考える機会になっている

さほど顔を見せに出向いたわけではなかった
したがって 必然的に身体の具合の悪さをそれほど知らないままであった
体調を崩していたことも知らずに 亡くなって初めてそのことを知らされる
狐につままれるとはこのようなことだったのだ
そんなにすぐに死んでしまうとは考えもしなかった

後から様々な人々と話をしながら判明するのは 人間として弱っていたことだ
健康ではなかったのは周知のことだったが 死に一歩一歩近づいていたのを 感じてやれなかったのが残念だ
人の話も様々で痴呆の兆しがあったという人もあるが 誰も真偽を明言できない

あの人は(父は)生きたかったのだろうと思う
死ぬこともあるかもしれないと元気な時代に診断されて 死んでしまうかのように沈み込んでいたことがある

生きることを強く希望した人だったに違いない

人生論を話したわけでもないし 酒を飲んで本心を語り合ったことも一度もなかった

✂︎ ・ ✂︎ ・ ✂︎ ・ ✂︎ ・ ✂︎ ・ ✂︎

二十三年以上が過ぎて、今

生前の映像が残っているのであるが それをもう一度出して来て見ようともしない

普通ならば生きていて元気だったころを懐かしみたくなるのは当然だろう

どうしてなのかは自分でも明確には答えられない

✂︎ ・ ✂︎ ・ ✂︎ ・ ✂︎ ・ ✂︎ ・ ✂︎

「何を今更」・・みたいな感情なのか

見たところで何が蘇って何が嬉しいのか
途絶えて消滅したものはそれまでなのだから
そういう時があったという記憶だけでいい
そのように感じているのだろうか

今はすでに昔ではなく 今を精一杯生きている
昔を見るのではなく 今を見つめて 今からをどうするか
そう考えているのだろうか

✂︎ ・ ✂︎ ・ ✂︎ ・ ✂︎ ・ ✂︎ ・ ✂︎

わからないことばかりが
次々と浮かんでくる

続く かも

六月のはじめに考える - 六月初旬号

水無月

梅雨入りも早く
雨は降り続いた日があった

(書きかけ)


人生をドラマにしてはいけない

確かに人は生まれて次々と苦難にぶつかり数々の苦節を乗り越え様々な人に出会い幸運を喜び大勢や家族で助け合い励まし合い生きて来た

間違いなく前に進んで来た証が現在の自分の姿であるといえよう

振り返れば人生には曲がり角がたくさんあったのかもしれないが 誰もがそうとも限らないだろう

まして 曲がり角の一つ一つは迷路であったなどとも考えない

人生は『燃え尽きる』ようなものとも思えない

どうして 『尽きる』という言葉を選んだのだろう

振り返って語ろうとするときにむかしを単に美化したいからそんな修飾語を当てはめたのだろうか

燃え尽きてしまっては『燃え殻』が残るだけだ

それではいけない

そう考えると ドラマのようであったのだが しかしながら 人生をドラマにしてはいけない


人生は夕方から楽しくなる

曲がり角など無いのだから 第四コーナーも 存在しないはずだ
『人生は夕方から楽しくなる』と言うてみて頑張ろうと思いたいのだろう


「第四コーナー」であっても「夕暮れから」であっても
死ぬまで走り続けねばならない

前を見て淡々と走っていけばよかろう
じっと 苦しいなんて考えずに
欲どおしいことも高望みも大きな夢も

ひとまずは傍らに置いて これまで生きてきたことに「感謝」をしよう
と考えた

「五月尽」の記事を大雑把に読み返すと 「詰まるところ」が見えてくる

大した大物でもない人間であるのに
大物になろう 大物みたいに振舞おうと
頑張って生きてきたのは それはそれでいいけれど

所詮 詰まるところ 自分の器などその程度のものであったのだ
そう気付くのが「夕暮れ」であり「第四コーナー」なのだ

残りの人生をゆっくりと漕いでゆこうではないか
と、まあそんな風に漠然と思っているらしい


どこで転機を迎えたのか - 小満篇二、裏窓から

人生のどこで何が大きく影響したのか

高三の進路調査で「英文科」「工学部」と不安定な回答をした記憶がある
英語が好きで且つ科学好きなためエンジニアになって生きてゆくのが有利だと考えていたのだろう
英語文学には興味はなかった
言語学のようなものに興味があったのではなかろうか

二十年後のこの国の教育や生徒の将来を田舎教師が見抜いていたとは思えない
そのころの教師なんて寺子屋レベルである
「大学進学」と生徒が言い出しても進路指導には無理があった

地元の教育学部の教員養成課程を終了してきた先生である
受験生を叩き上げる術など持たないに等しい
それを今更責めるつもりはないし失策とも思わない
不運であったのは田舎に生まれた生徒の方だった

英語が好きだから英文学科という一本道で進学した子は多かろう
それで人生が決まった人もあるだろう

ともあれ 工学部と言いつつ「地学科」というマイナーな学部を受験したりしながら
迷いに迷って大学になってからのそのあとの夢を見た

華やかな応用物理学科や電気通信工学科というスター街道も受験する
受験が将来の道の選択手段ではなく
試験勉強の成果確認であり見栄の誇示という側面を持っていた

電気通信工学科に進んだ
数学は全科目で最も苦手だった
しかし そんな学科に飛び込めばどうなるか・・火を見るよりも明らかである

どん底に落ちこぼれてしまうのだが・・転機も来る
チンプンカンプンの日々を送りながら「情報科学」という新しい分野に出会う

同様に受験の荒波を泳いだ仲間から見れば
明るい未来に向かって楽しそうでカッコいいのが「情報科学」であった
みんなには羨ましがられた

最先端・一番乗りであったから 成績が悪くても前例もなく
注目を浴びて卒業できたのは幸運だった


🎬

社会人になって最初の配属は基礎研究室

生理学 生物学 薬学 生化学 機械工学という顔ぶれに電気通信工学科の私である
これも火を見るよりも明らかで 一年二年はうだつの上がらない暗い日々だった
組織変更で転々とした

今になって体制側から考えると使えない奴だったということだ
のちに様々な影響を受ける上司に出会うことになる

しかし幸運もそのあたりまでで 次に選んだパーな会社は期待はずれの会社だった
世の中をハスにかめて正直に生きてはいけないということを学んだという意味では成果はあった

あまり書きたくない十年間だった


🎬

自分の能力などタカが知れている
大物になれる器でもないし金道になるような機運も持っていない
それを自ら悟るときが一番の転機だったのだろうか
時は既に遅いのであるが 生きる道をしっかりと自分で決めようとし始める


🎬

仕事はのらりくらりの道を選んだ

最初の転職のころにパソコンを買ったのが出会いでホームページや電子会議室にのめり込む
のちに ブログも始める

友人間の連絡はメールが中心になりコンピューターが欠かせない暮らしになる

それが 人生を良いか悪いか導いたのは間違いない

不惑を過ぎて数年後にパーな会社を辞めて一年ブランク後に公務についた

こちらで情報科学の技術と経験を生かして日々を送ることになった
二十年間ほど 情報機器と付き合う形で日々を送り六十歳を迎えるのである

🎬  🎬

つづきは機会があったらまた書こうか

四月中旬 - 続・ぼんやり (号外Ⅱ)

前篇で「断捨離」と書いたが
何をどうするかというような中身はなかった

『何故 電気通信工学科か…』
なんてどーでもええやん ということになるし

たくさん溜まった資料(史料)類を始末したい


それよりも
写真を整理して

部屋にあるツーリングの思い出や記念資料を始末したいと考える

所詮 死んだら(サドンデス)

あいつには
単車で走り回っていた日々があったなあ
勝手なもんやなあ
家族ほったらかしで…

と回想されて
写真などはパラパラと捲って見たらええ方で

十把一絡げにして ポイ と捨てるのだろう

それで終わり


有名人みたいに
『わはく記念館』‥‥なんてのが できるわけないし
作るくらいなら 「おとやん」が死んだ時に私が作っておるわ


たくさん(でもないけど)ある写真を
整理して 棚に収納しておきたい

そう考える

日記は『【バイク】旅の軌跡』にあるのを参考にすると
二十冊ほどになると見込みます

三月十六日に考える - 雷山無言・号外

アニバーサリーなどという洒落た言葉も似合わない
単なる結婚記念日というだけである

ゆうちゃんの誕生日(5日)に写真が届いて 嬉しそうにしている顔がなかなか可愛い

三月は ツマの母の命日と私の亡き父の誕生日と私たちの結婚記念日がある

昔を振り返って偲んだり懐かしんだりするには まことにぴったしの季節であると思う


👈今年もまた三月十六日を迎えているを書いて一息

🍓 まわり舞台
人生はドラマで自分の生きて来た道はステージであった

そのステージ(幕)もクライマックスも弁当幕も終了して
終幕へと向かっている

人生のステージ(まわり舞台)はもうぐるりとまわり終わったところで
観客は弁当も食い終わって帰り支度しながら
本日の舞台の感想などを頭の中で巡らせているのだ


三十七回目の結婚記念日であった

出会った時がスタートで
未来のクライマックスをいくつも考えながら生きて来たわけではない

生きてきた後ろにドラマがあり
その舞台から見れば後ろ姿が見える

私には自分の後ろ姿は見えない
まわり終わった舞台も見えない


人生はドラマであり
幕は惹かれればドラマは終わる

名作は語り継がれることもあろうが
私は名俳優でもないし
名作の主役でもない

スポットライトを浴びて
見得を切るような場面を演じることもなく

それはそれで
よかったのだろう

・・・考えながら

うしろ姿の静かな意思 - 大雪篇 裏窓から

十二月七日 大雪を迎える

🔥 健ちゃんのうしろ姿

二人兄弟は いつも一緒の服を着ている
だから 双子の兄弟と思われてしまう

それがなかなか嬉しくて
そろいの服を選んで着せてしまうのだろう

兄弟の性格は正反対の点もある
その心理は不明だが

幼稚園に出かける毎朝に
兄は十分に余裕を見て準備ができ
早々に車に乗り込む

(時刻は読めないが)弟は時計を気にせず
急がねばならないことは十分にわかってるだろうに
平気で飯台に向かって正座でパンを食べている
その写真がある

兄の悠ちゃんは 車でスタンバイである

母は玄関で着替えを持ち
「早くしなしなさい」
と叫んだそうだ

それでも泰然としているうしろ姿が美しい

。。。。

。。。。

🔥 師走である

一月から一体どんなことが起こってきたのか
振り返ってみたいと思い手帳を繰ってみた

三月まで勤務してその後はプーの暮らしであった年である
年の初めから耳鼻咽喉科に通い続けなかなか完治せずに悶々と過ごした日々であった
コロナは以前と鎮火することはなく社会の外にいて眺めている
九十歳になる前に二十三回忌の食事として一泊で出かけたいと
母が言うていたことも実現できた

それくらいが思い起こせるような出来事ではないか

🔥 うなぎを食べる

うなぎを食べに立ち寄った
(母の耳鼻咽喉科医院への付き添いがメインであった)

三十年以上昔だろう
父と母と私ら夫婦で来た店である

あのとき 母はうなぎをよう食べなかったので
鰻好きの父の連れられて来たものの
席に腰掛けて見ていただけだったのか
ご飯だけを食べたのか
自分でも記憶が曖昧らしいのだが
その時のことを思い出しては懐かしむ

他の記事でも触れてきたが 父との思い出は少ない
食事をしたり 一杯飲んだりした思い出は
指を折ろうとしても出てこない

かと言って 父は寂しい思いをしながらあの世に逝ってしまったのかというと
残された人の話では そうでもないらしい

うなぎを旨そうに食べている姿は 全く強烈には焼き付いていない

蘇るほとんどの記憶が明確ではなく
マッタケを山のように採ってきた時の顔
ズガニをたくさん獲った時の嬉しそうな朝の顔
川で獲ってきたうなぎを 裏の流しで捌いている時の顔

そんなことを偲びながら うなぎを食った
うなぎの味は不変である

。。。。

新しいステージ - 立冬篇 その二、 裏窓から

👻 イチョウ並木 昔の日記は仕舞い込む
👻 日めくりは寒い季節への招待状
👻 窓越しは木枯らし劇場特等席


10日は健ちゃんの誕生日でした
三歳になりましたと上手に指三本立てている

🍀

立冬が過ぎても当然ながら何も目新しいこともなかった
そんな日々が過ぎた

健ちゃんの誕生日が10日だ
ムスメさんもこの日から職場復帰
わたしは新しい仕事を探して面接に出かけたが❌

新しいステージの幕が開いた
鳴り物入りで開いたわけではないけれども
今年度はプー太郎

🍊

わたしの辞書からはすっかり『朝寝坊』という言葉は消えた
早く起きる必要性がなくなったのだから 「朝寝坊」はありえない[

むかし 「スズメはなぜ電線から落ちないか」という問答をした事がある

「落ちそうになったら飛べばいいから」と結論づけたのだが
その後も自問自答は続いていた

飛び続けるためには 体力が必要だ
いつかは着地点を見つけて身体を休めるために降りなくてはなるまい
着地点は安全なのか、襲撃を受けないか

🍊

では

飛ぶ鳥は大空を自由に飛び回れて幸せか
地上から見上げる小さな生き物は不幸せか

人生問答は たぶん しばらくつづく


十一月のはじまりに考える - 文化の日のころ

漸を以て

学は漸を以て日に進むを貴ぶ
天下の極遠なる、固より人跡の及ばざる所のもの有り
然れども日日に力め行きて息ざれば、則ち至らざる所無きなり
学の源流は遠し
苟くも下学の功、日に進みて已まざること久しければ、則ち以て上達すべきなり
(貝原益軒 慎思録)

註:漸(ぜん)を以て、力(つと)め行きて息(や)まざれば、下学(かがく)の功

🍊

「ようやく」と読む
何度頭に叩き込んでも忘れている

脳の記憶細胞の特定の箇所に破損があるのだろう
特定の字だけが(名前だけが)繰り返して忘れているということが起こる
脳科学の問題である

八月のはじまりに考える - 最期の言葉

梅雨明けは例年よりも八月一日と発表された

そんなこともあって、七月は下旬ギリギリまで雨降りの日が続き
夜から朝にかけては涼しい日になることがあっても
日中は容赦無く蒸し暑かった

集中豪雨のニュースが続く
コロナ感染の数値が毎日報道される

うんざりする人もあろう
立場上、うんざりなどという表現をすることが許されない人もあろうが
本音のところではうんざりしているのではなかろうか
個人的にできることはそれぞれが一生懸命やっているはずだ


▼まずデータを上述しておく
コロナ災禍のなかで国民一人一人が闘いを続ける

▼はて?
何と闘っているのか

▼暮らしが大事である、経済も大事である
昭和から平成へそして令和へと着々と築き上げて来た幸せな今の暮らしを乱されたくない

疫病の流行で大切な命を失いたくない
罹患して苦しい夜を送りたくない
家族と平和に暮らし続けたい
順風に暮らす毎日の不満のない(偽的であろうが)豊かさに満足している日々を脅かされたくはない
自由に音楽や食事や旅行やショッピングを楽しみたい
誰に制限を受けるわけでもない自由に守られて獲得してきた既得権を失いたくない

▼失うものは計り知れない
被害も大きいだろう
自然災害によるものとは違ったもの
天災が招く人災によるもの
社会的に、地位、名誉、お金も失うこともあろう
精神的に、リズムを失うこと、生きる意欲も失墜させるかもしれない
けっこう、ズタズタにやられているのではないか

▼それでも今まで通りを追い続ける
社会のシステムは新しいものを生み出しかけている
少しずつ試しているものがある
一方で、激しく強く保守的に、元どおりを目指す勢いがある

▼新しく生まれ変わらねばならないのかもしれない
そんな時に
誰でもそうであろうが、守りの体制になってしまう
新しいもの生み出そうとするならば古いものを捨てねばなるまい


▼自分のことをじっと見つめてみる
三月で仕事から退いた形になってしまったのでぷー太郎をしている
日々諦めの心が座ってきたが復帰は願い続けている

▼私の父は退職をしてから
亡くなるまでの約六年間に何を遺しているかを追うてみようとした
過去の日記を焼却してしまうという事件もあった
それは今、客観的に追想してみれば必然であったのかもしれぬ
そう思わせるのは受け継いだ私の血脈がそう思わせるだ
過去は不要だと考えたのだろうか
数々の足跡が忌々しいものであって消去したかったのか
私が何度もPCなどのツールで操作してきたリセットボタンのように
人生をリセットしたかったのか


▼長かった梅雨が明けてやれやれである
春から夏に移ろう折にもう一旗揚げて社会復帰を果たそうかと考えていた
その一方でもう役目は終わったのだという説得の気持ちも満ちてきていた
誰も説得をしてくれないから自らで説得をするのだ

▼大学受験時代には両手で余るほどの学部に落ちた
受検料だけで二十万円前後は必要だったのだろうがそのあたりの神経は麻痺していた
もしも私が親ならば頭に血を昇らせてそんなことは許さなかっただろう
その親の対応を私の両親は「親が無知であった」と言った

▼青春に悔いはなかったかと六十歳を過ぎてから考える
考えながらこれも一つの「通過儀礼」なのかもしれない思う
答えなどなかっても良い

▼人生には幾つもの正解を持つ命題がある
答えのない問題もある
そして答えなど求めなくても良い課題もある

▼仕事に戻るつもりはない
三十年後に生きている確率よりも
一年後に死んでしまっている確率の方がいかにも最もらしい

▼日々
自らの『最期の言葉』を考え続ける
金言を残したい


座右の銘を聞かれて思案に暮れる ー 大暑篇 裏窓から


一、

二十四節気ごとに暮らしの中から気づくことを掘り出し考察を交えて何かを書いている

メルマガの巻頭言を書いている時に始めたのである

しかし、仕事を辞めてからそういう考察にメスを入れられずに苦心している


二、

理由は単純明快である

日々の出来事には様々な分野のホットな話題があり、コロナ災禍により発生する数々の驚き、不都合、不満、不手際などにも常に問題意識を持って接してゆくところであろうが、仕事に就かない毎日では、暮らす場所が一種のアウェーであり外野、塀の外(檻の外)であるから、はっきり言って、もうどうでも良くなったのである


三、

第四コーナーを回ったら塀の外で悠々自適に暮らそうと考えていたのだから願いが叶ったのかもしれない

「必要とされる人物ではない」と環境分野からきっぱり縁を切られて、潔く塀の外に出て来た

「塀の外」は気楽でそこそこ楽しいのであるが、資金的な制約が大きい以外は、楽園である

「足を洗って」出直そうどころか、足を洗った後に靴も履かずに裸足でのんびりと沢遊びでもしていたいと思っている

「もう一旗揚げたいところだ」と密かに祈念したこともあったが、金もないが仕事もないのだから、開き直りの日々だ

「他力本願」で呑気な奴でござる、あたしは


四、

先日、就職の面接があって「座右の銘は?」と聞かれた

私の座右は「失意泰然」ですけどそれは他人にペラペラというものではないし、卒業記念の文鎮に学長の筆で「自琢」と彫ってるのをいうわけにもいかない

『切磋琢磨』ですと答えるのが精一杯だった

果たして本当の座右は何であろうか、と思案に暮れている

第四コーナーに来てみて思う もう昔のことは忘れていいのだ 新しいステージに漕ぎ出した船に乗っているのだから 四月下旬号 - 昭和の日篇

◀️ 一生懸命に生きてきたのに肝心のところをそれほど覚えていないのはなぜだろう 四月下旬号 -  昭和の日篇

(先のブログで書いたことを重複させながら要約みる )


一、

「昭和の日」に考える
「昭和とは一体 如何なるものであったか」

昭和の六十余年を前半後半に分け、前半を戦後と捉え
後半を自分の成長の時代と考えている

昭和が終わる直前に子どもが生まれた
したがって平成は 子どもの時代だ

父や母の時代をステージ0とすると
私の時代は ステージ1、2となる

平成に育つ娘の時代は ステージ3である

私はステージ3からステージ4と移るポイントを第四コーナと呼ぶことにした

第二コーナーから第三コーナーを回りきるまでは必死であった
精一杯全速力で駆けることができた と振り返っている
つまり
第二コーナーからバックストレートを駆けて
第四コーナー直前までの頑張りが全速力であったことは
私の昭和だったと言えよう


二、

振り返ってみると未熟であったことがわかる

知力、体力、技量、器量、どれも全く不十分であった

横着に、勇敢に、果敢に、自信に満ちて、走り抜けた
不安や迷いも抱きながらであった


三、

結論は

能力もないのにそのギリギリのところで
至難の道を走り抜けてきたことを感心する

幸運であった
皆様のおかげであった

感謝をしたい


四、

第四コーナーを回ったら

違う人生を歩もう

まずみなさんに感謝をして
もう昔のことは忘れて

新しいステージに漕ぎ出した船に乗ろうと思っている


 

三月十四日 命日号

中学校の卒業式の前日、ちょうど今日という日に母を亡くしている
四十年前のことになる

この日の二日前に緊急入院をして、あくる日に手術
何がどのように進行したのかわからないままわからないままで今日を迎えたという

頭には数えられないほどの電極のようなものが刺さったままの姿で手術は成功しなかったと知らされたという

四十年の歳月は技術を進化させ治療の分野、病気を解明する分野においても目まぐるしい発展を遂げている

あの時代のあの時にあの病院で何が起こっていたのかは謎のままであるし巻き戻すことできない

脳腫瘍であったという

何ヶ月も前から頭痛を訴え数日前にはもう我慢できないものになっていたという

頭蓋の中で何かどうなっているのかは想像できない時代だった

解析する手法も未熟で切開し腫瘍を切開し除去する技術すら今と比べられないほど歴史的レベルであろう

*

ツマの卒業式はあくる日だった

彼女は卒業式には出ずに中学を終えた

あれから幾度この出来事を思い出したのかは私は計り知れない

その後の人生は波乱だったことは想像を絶するであろう

人生とは 不思議なもので

波乱を超えて短期大学部を卒業した二年目の春に
就職で上洛してきた人がひょっこりと下宿人として現れることになる

後なって判明するが、その人は彼女が悲しみに沈み込んだまま過ごしていた高校時代の修学旅行で同じ青函連絡船に乗り合わせていたらしい

母を亡くしてから九年後のこの三月十六日に私たちは結婚をしている

偶然な話がひょっこり出てきてニッコリである

だが、これも決して偶然でもないような気がしているのだ

命日に手を合わせて結婚記念にも合わせる

 

 

如月やゴホンゴホンの風邪をひき ─ 雨水篇 裏窓から


2月19日 雨水
暦にそう書いてみるだけで
寒くて厳しい冬から
過ごしやすい季節へと
移ろう喜びを感じる

ちょうどバレンタインデーの日に
風邪の症状がピークを迎え
医者に診てもらうことになった

薬をもらって週末にはヒーヒーというような咳も治まってきて
やれやれと思ったのであった

一週間は長いようで短いようである

風邪の症状は役者が幕の向こうに消えるようにはいかなかった
咳がこんこんとしつこく続き職場では週の後半からマスクをし始めた
大陸から伝染してきて大騒ぎをしている
コロナウイルスの蔓延もあって
ゴホンとしたらジロリと睨まれる

静かさやゴホンとすればジロリかな


三日間じっと家にいると決めたのは良いものの
運動不足になってしまうのが気がかりである

さてさて二日目あたりには
晴れ間も出て来て陽気もよくなるのなら
やはり公園散歩には出かけたい


バレンタインデーが過ぎた頃にうちの人も風邪をひいて
というか、ムスメの一家が胃腸風邪で大騒動になっており
そこを少しだけ訪ねたこともあって
風邪が我が家にもやって来たのか

うちの人がその風邪のせいで下痢と嘔吐に悩まされることとなる


 

二十歳のころのともだち - 大寒篇 (裏窓から)

あのころはあの仲間を人生の中で一番大切なともだちだと思っていた

だが、ともだちに差があるわけではなく「大切」という形容に優劣はないからその時に感じた大切さというものは一体どこからくるのだろうかとのちになって思う

🌱

同じ釜の飯を食い大きな夢を見て共通した情熱を抱き「ヨイショ」勢いで同じ時期に社会に飛び出した

そのあとは砂漠か深い森を手探りで歩むようなものでみんなは各々の道を歩んで行ったのだ

彷徨い歩いたのは迷路であったかもしれないし原野の果てまで続く一本道のようなものであったかもしれない

自動車会社やテレビ局、通信会社、総合電機メーカー、世界に誇る技術部門でのホープとして飛び込んでいった仲間たちはその後の四十年間にどのような旅姿でどんな道を歩んでいったのだろうか

40年間に彼らは、何を考えながら、どのように夢をカタチを変えていったのだろうか

定年の年齢が近づいているころ、奴らの名前をネットで叩くとその有名会社の部長だとか取締役だとかXXXリーダーだとかの肩書きが付いて検索にヒットした

だが、この頃はそれほど見当たらなくなったのは、引退をしたのか重役を退いたのか悠々自適に道を変更したのか

🌱

社会は高度経済成長をしてそのあと急旋回をしながら急降下をしてゆく

多面性・多様化という変化球のような得体のしれないものが、胸に抱いていた夢や希望を無価値に変えていってしまう

グローバル化という変化は確かに華やかで強さを盛り返している不死鳥のようにも見えるのかもしれないが、私には焼け落ちてゆく巨大な宇宙船のイメージだった

「幸せと豊かさ」は原動力で、核燃料のようなものだろう

格差付されたピンからキリまでが、この微かなる夢を喰いながら手探りで生きていたのだ

「いつまで幻を追うのだ」といったところで底辺から叫ぶ声は響くことはない

いつまでも幻を追うことを「愚か」と言って切り捨てても、今の時代から次の時代へと代わり行く新しいビジョンも手がかりも明確に打ち出せないのだから、負け犬であった

🌱

あのときの仲間たち、あるいはそのあとに親しくなっていった仲間たちは、今どうしているのだろうか

いいえ、それはそれほど重要なことではなくて、その仲間たちが四十年間吹き荒れた大きな嵐が去った今、あの時代をどのような気持ちで振り返っているのだろうか、が気にかかるのだ

でも

今の政治の支持率の報道を見たりネットの馬鹿げた言いたい放題のコメントを見ていると、期待はほとんどできないかもしれない


🌱🌱 あのころのともだち達

もしも今という瞬間に初めて出会っていたら、全く興味もわかないような人であるだろう

つまり、あの時代の価値観で今でもともだちでいようと思うことは所詮無理なことで、大きなズレが生じてしまうに違いない

そして、あいつたちとともだちだった時代はもう終わったのだ、と切り捨ててしまわねばならなくなる

それは悲しすぎるでしょ


🌱🌱 ともだちは、異質な人の集まりであり、違った価値観の人の集まりであって構わない

それが分裂しないで語り合えるのは四十年前の同じ釜の飯の味を共有するだけところにあるのではないか

と僕は考えるのだが

奴らの中には大きく変わりすぎた者が多いのも事実だ


「人生」という言葉で日記のブログを検索する ─  大晦日号 【裏窓から】

愈愈令和元年が終わってゆきます


▼ 私はどちらの方向に向かって何をするために歩いてゆくのか

朝日が大晦日の社説で問いかけた命題の言葉をちょっとパクってきてここに書き写してみた

人それぞれが持つ生き様は千差万別でそこに掲げる目標も残される結果にも何一つ同じものはない

私には私の人生がありそれを一歩たりとも戻ることさえできずにここまで歩んできたしこれからも同じように歩むことになる

にもかかわらず多くの人が人生の終盤を迎えようとするときをそれぞれに察知して過去を振り返り未来を夢に描いて立ち止まって考えようとする

私は第四コーナーと呼んでみた


▼ 「人生」という言葉で日記のブログを検索する

思わぬほどの数のフレーズが検索にヒットしてきたので驚いている

普段からその言葉を使ってことあるごとに足跡を振り返り夢を見続けてきた証なのだろう

今年の大晦日が特別なものではないが然し乍らそれは特別の集合体の一部分であるのだとも言える

つまり 特別なのか特別でないのかを決めるものはまったく別のステージ(次元)にあるのだ

 

 

続「自伝のススメ」を考える  クリスマス号外


▼ 年賀状 それは自伝の終楽章

年賀をやめるという話のネタをあちらこちらで読む
みんなよっぽど嫌や嫌やと思い続けていたのですなあ

しかしながら、よく考えるとそれはおかしい
むしろ反対ではないか

**

「自伝のススメ」をこれまで考察してきているのだが
年賀状というものは手紙の形をしているが
あれは失われていった「自伝」の一部であって
六十歳を過ぎてから毎年年末に書く年賀状というのは「自伝の最終楽章」のようなものだ

グランディオーソで終わるためにも
止めるなんていう愚かな発想は捨てて
今こそ年賀状を書くのが美しい姿と言える

年賀状は「状」であって表彰状、感謝状の「状」を頂いているんだということをしっかりと受け止めていきたい


▼ 反論もいただいた(ツイッターで)

義理の年賀は今年でやめますと強い姿勢だ


▼ 義理を書いてきたという歴史があるのですね

ぼくは そんなものは一枚も出したことがない!

何十枚の手紙はみんなぼくからの激しいメッセージでした
だから もう直ぐ死ぬぞ!と死ぬまで叫び続けるのだ

あとで回収して「年賀自伝」(冊子)ができるほど書くのだ、と思ってます

 

「自伝のススメ」 を考えながら 同世代たちよ自伝をかこうではないか と呼びかけてみたいと思いながら  ─ 冬至篇 (裏窓から)

満月や今年最後のご挨拶

そう書いて十二月の十五夜を送って以来とんとんとんと日々は過ぎまもなく大晦日を迎えようとしている


▼ 月日は容赦なく過ぎてゆく

今のままをとどめっておきたいという気持ち存在する傍らで物事を否応もなく忘れていってしまうという現実と闘う

過去の栄光や足跡は非常にも忘れ難きものである一方で捨て去っても惜しくないことも多々ある

忘却という生理現象は意思を持って自由にコントロールできないのが歯がゆいところで本当に忘れたいことであっても頭の片隅に忌々しく残る

にもかかわらず この複雑な気持ちを無視するかのように 時間は過ぎ去り、掛け替えのないことは次々と忘れ去られてゆく

悔しさがスパイラルで頭の中を駆け巡るが、どうしようもないことは諦めるしかない

そのような世の無常を痛切に骨身に染み込ませながら近年は十二月という暮れの時節を送る

そして毎年同じようなことを思ったり言ったりしているのがとてつもなく滑稽である

老化というひとつの生理現象は避けがたいもので分厚い壁であるのだがこの年の瀬を迎えての儀式が殊の外心地よい

何かいいことの一つや二つありますればため息も笑い飛ばしておけるのでしょうがなかなかそういうものでもないと思いながらも年末の時間を回顧に費やす

空っぽなのだ
思い出しているふりをしているけど何も考えていない

それでいいのだ

頭の中にあるのはあと五年で父が逝った年齢に到達するというどっしりと重くて静かな振動のようなものを身体のどこかが支えている

そいうことだ
誰もわかるわけがない



▼ ひとつの言葉

散々過去を振り返ってきたわけであるがやっと今頃になってひとつの言葉に到達した

あの人は可哀想な人生を過ごしたようなところもあるものの
自分勝手に過ごしたり、自分勝手にしてきたことも多いのやし
大方満足に生きてきてそんなに可哀想な人生でもなかったのではないかな

不運なときもあったけど
好き勝手なことを言うてそんなに好かれる人でもなかったけど
悪い人でもなかったので世間にもそれほど恥ずかしいこともないし
それほど大した力もないし何もできるわけでもないのに
理屈こいて大きなことばっかし言うて
まあ楽しい生きてきたんとちゃうか

多分
そんな言葉に尽きるのではなかろうか

「自伝のススメ」
を考えながら 同世代たちよ自伝をかこうではないか
と呼びかけてみたいと思い

自分の評伝ダイジェストを推測してみて思い浮かぶのがこのような言葉であった


三十数年前に子どもの名前を考えたことがあって 思い浮かんだ数々の名前の中に 「令以知」というのがあった ━ 裏窓から・番外


◾️ 2019年12月18日

冬枯れや一人花畑を覗き込む / 草も枯れて どくだみさえしおれてしまっている畑が 暖かい雨で湿っている この年の瀬のひと時に 雨は地面にしっとりと染み込んでゆく


この記事の中で

令和からとった一文字の「令」という字が今年の漢字であるそうだ

三十数年前に子どもの名前を考えたことがあって
思い浮かんだ数々の名前の中に
「令以知」というのがあった

子どもにはその名前をつけるチャンスはなかったが
今頃になって「令」という字が表に出てくるのをみて
人の一瞬のすれ違いのようなものを感じるのであった

というようなことを書いた

こっちに書くのが相応しかったかとずっと考え続けていて年が更けてゆく

日記帖をどさりと積み上げて - 言葉とイマージュ


▼ 本棚の一番上の一角に大学ノートが無造作に突っ込んである
日に焼けているものもある
古臭いリングノートもある

日記である
タイトルを覗いてみる


* ほら、冬眠していた好奇心が起き出してきた

* 人間はいつだって夢中なんだ

* 荒野では人はいつまでも少年のままだ

* このひとことで決まった
YOUにおくる現代名言集

* 限界を走り抜けば、そこには静かさがある

* イザというとき読んでも間に合う

* ロマンの復活
忘却を決して恐れない

* 感動の瞬間
いつまでも大学を卒業できないボクの記憶


 

誰もしないことを始めよう ─ 自伝のススメ

機械にできることは機械に任せ、人間はより創造的な分野で活動を楽しむべきである
約四十年前に遡り社会の新人であった私たちに立石社長はそう話した
純心にその言葉を受け座右に置き人生を走り続けた

真剣に夢を夢見て技術者は未知へと挑戦しようと挑み続けた時代だった

生体信号を検出処理して臓器をコントロールすれば人工臓器が実現できると考えた時代である
現代では当たり前の挑戦であったが血圧や心電位や体温を計測するのに必死だった
デジタル画像を処理して特徴抽出をする技術にも関わった

二十歳の頃の輪講テーマまで遡って自分の情熱の源流を思い起こしている
コンピューターが鉛筆が二本重なる画像を認識するのに何時間も要していた
CCDカメラは現代と比べるとおもちゃよりも粗末で処理能力も電卓以下であった時代があった

科学技術史を丁寧に辿って人々の心意気とポリシーを学ぶことはとても有意義で重要と考える
開発エンジニアにならなくても技術者であれば基礎学問として必須にして良い

技術が空(empty)から抜け出して新しい輝きを始めるとき
その技術を求めた人たちの気持ちや夢はもちろんのことであるが
人々のその時代の暮らし、技術と向き合う意識、生活の不便や不満の感触などを分析しておくことは不可欠だ

どういった思考の過程で新しいものが生まれてきたのか(思いついていったのか)という流れを明確にしておくことが次の世代がさらに次へと進む時に軌道を確かなものにしてくれるだろう

・誰もしないことを始めよう
・超一流を目指そう

そういう言葉に情熱を燃やしていた時代があった

文化の日 〜 立冬篇

立冬(八日)

冬が来る
歴史を辿るとそれは辛い季節の到来であった
同時に農家にとっては勢いを緩めて繁忙期に備える引きの季節でもあった

コタツを出したいと思うが 片付けのことや掃除のことを考えるとなるべく使いたくないらしく
我が家では こたつの代わりに電気座布団を敷いてコタツ布団をかぶって今で夜を過ごす

食事が終わってバラエティのテレビ番組をみたりしているが 面白くないので眠ってしまう
これがどうやら身体の部分の贅肉を増やしているらしい

じりじりと2キロほど体重増加をしたようだ
食べる量は変わらないように心得ているし
ウォーキングは数字で管理をしているので揺るぐことはない

人体というのは面白い反応を示してくれるようで
うたた寝とほろ酔いというのは 確実に効果があると確信してよかろう

さて
どうしたものでしょうか

つづきは後ほど


最近の朝夕手帖から

1 人生の筋書き

「人生に筋書きはない」というところにドラマとしての素晴らしさがあるというが、しかしながら、筋書きはあるのではないか、 むしろ筋書きがあった方が面白いわけで、筋書きを一時的に空白とし、カデンツァのようなものを演じてゆくのが面白い

2 身の丈

「身の丈に」という言葉でニュースが騒々しい
いかにも今の世の中の軽はずみな連中が足場の弱いところを狙って屋台骨を揺らそうとしている指摘だ
滑稽な風景であり茶番劇である

「身の丈」という言葉は本来はとてもうち気品があり控えめを表現するのに適していて
美しい言葉だと思うのだが、すっかり悪い印象で利用された

狙われた人は迂闊だったのだと認めざるを得ない点ががあるものの
攻めた方は、気品のある言葉表現を下品に使ってしまい
味を台無しにしてしまっただけではなく
放言してその後には何の成長も進化も残渣さず、改革も提案せず終いだ
自己満足の淵にいるだけで、また一つ化けの皮を剥がしてしまった感がある

誰もが自由に罵詈雑言、悪言正論を投げ出せる時代だ
それだけに、「自由に」という意味を間違って解釈したままで好き放題を発言するのでは、無力・無知をさらけ出すだけだ

身の丈を知った上でオピニオン・論理を投げてほしい

コメント

サンマ5号を食いながら西東三鬼を読む - 寒露篇 (裏窓から)

寒露篇
十月八日から寒露の節に入る

そろそろと夏の暑さが引きそのように影を潜めて秋の気配が漂いはじめて
九月には秋らしさのちょっとした歓びを見つけては一喜一憂をしていた

彼岸花、萩の花、サンマ、運動会などなど

台風もむかしならば夏から秋にかけてであったのであろうが、地球温暖化が叫ばれてからそうとも限らなくなってきた

ちょっと前に来た台風15号に続いてまた台風19号が襲来する週末になりそうである


六十二歳
西東三鬼を読み終わって一息をついている

1900年から1962年までを生きた彼のような人が書き留める作品である
舞台は神戸
人間は人生で一番イキ盛んな頃を突っ走っている泥臭くて汚くて一途で悪くて善良な戦中を生き残って来た人たちである

林芙美子の浮雲を並行して読んでいる
ここにも戦争で焼け野原になった土地の上に生えるように生きている人々が登場する

西東三鬼も戦中をくぐり抜け戦後の混乱を生き延びて来て戦後に差し掛かったところでストンと人生を終えた人である

昭和三十七年にこの世を去らざるを得なかったときに六十二歳であった
ぼくはそのとき五歳
そしてあと数日で六十二歳である


人生はクローズアップで見れば悲劇だが,ロングショットで見れば喜劇だ
Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.

西東三鬼「神戸・続神戸」の解説で森見登美彦がそんな言葉を引用している
チャップリンの言葉だそうだ

かくして、ようやくおぼろげながら判ってきた執筆の目的は、私という人間の阿保さ公開することにあるらしいのである。だから、私のくだくだしい話の数々は、何人のためのものでもなく、私にとっても恥を後世に残すだけの代物である。しかし私は、私が事に当たるたびに痛感する阿保さ加減を、かくす所なくさらけ出しておきたいのである。(「第九話鱶の湯びき」冒頭から)

ただの凡人の私が書けば屑かごに棄てられる運命の言葉も然るべき人であれば歴史に残せるということだ

その辺にある白い紙に

熟れ柿や赤い日暮れに沈みゆく
かげふみで遊び疲れて秋の暮れ
ふゆ柿や 軒の日暮れも賑やかに

と書いてみるものの
やがて消えゆくのだろう

六十二歳を目前にしながら何事もなく淡々と
ぼくのおとやんのように体調を患うこともなく

毎日「貧しいなあ」とばかり呟きながら生きている
恩返しができなかった人には申し訳ないとしきりに反省しながら


メモの最後にあった一節を貼っておく

恋に破れ十七音の旅に出る
鰯雲あれが私の遺言や
夕暮れのあのひとことで恋実る

赤い実のその名を聞いて

思いやりのない人生を送ってきてしまったなあと ふと思うのであった ─ 秋分篇 裏窓から

思いやりのない人生を送ってきたとこれまでの足跡を辿りながら反省をするとあれこれと思い浮かぶことが脳裡に突き刺さるように襲ってくる

後ろめたいことがあるわけではないもののまだまだ頑張り足りなかった後悔のようなものを胸に抱いているだけに申し訳の立たずにいて且つ人に言い訳もできない私がいるのだ

日常の常識的なこともおざなりにしてあらゆるものを自分の勝手な視線から正当化してきながら或るときは言い訳もしながら都合良く生きてきたのだから胸に手を当てると辛いものが止め処なく襲いかかる

すぐに記憶に蘇ることが幾つかある

  1. 親友の奥さんが亡くなったとき
  2. 父が定年で退職したとき
  3. ムスメが就職試験に受かったとき
  4. 初任給をもらったときに誰にも(って常識的には最低でも両親に)お礼も言わず感謝の意も伝えなかったこと

これまでに何度も書いてきたので「またかよ」と思わないでほしい
こういうことは何度反省しても尽きることがないのだ
くどい話だが少し書くことにしよう


  • 親友の奥さんの話である

まだ十年しか経っていないのだと改めて驚く
息子が二人いたのだがまだ二十歳前だったことになる
なんとも罰当たりなことに そのころは
嫁さんを亡くしたことそのものを悲しむばかりで
子どもたちの未来のことなどにはじっくりと考えも及ばずだった

あのときのぼくにはその周囲の人たちの幸せや
これからの様々なことを心配するような器量がなかった
独りよがりであったわけだろうし
自分が生きるのが精一杯であった

ゆとりがなかったといえば許しを乞うようであるが
人生自分の気づいた幸運でここまで来たんだ
・・・みたいな心が奥深くに潜んでいたのかもしれない

思い出すだけで恥ずかしいし
彼には申し訳ない気持ちでいっぱいだ
ぼくの二十歳のころの掛け替えのない友達なのだから


  • 父が定年で退職したとき

どれだけ苦労をして
ときには心配をして
遠く離れたところから
ひとときたりとも忘れることなく
見つめていた人があったことを

いとも簡単に忘れたかのように
人生の最大で最高の一瞬のときに
全く何もせずに過ごしてしまって
六年後に死んでしまってもなお
そのことに気づかずにいたことが

言葉には今さらできないだろうという後悔と
恥ずかしさである

きっとあの世で
子どもとは「そんなもんや」と言うておろうなあ


  • ムスメが就職試験に受かったとき

多分 二十歳から六十までの人生の中で
辛抱をしてお酒を断つなどいうことをやろうとしたのは
子どもが就職試験を受けて合否を受け取るまでの短い時間だけであっただろう

べつに
オメデトウと言ったわけでもなかったと思うが
家族で歓びあったことは確かだ

しかし
何かもっと頑張って祝福もできたであろうと
少しシマッタなと思っている


  • 初任給をもらったときに誰にもお礼も言わず感謝の意も伝えなかったこと

このことも自省の念で心の中に痼ができているのです

初任給をもらったら素直に喜んで飛び回って感謝するべき人にその意を伝えるのがヒトとしての常識であろうにぼくは当たり前のような顔を押していたのか成るようにしてなったからだというような顔をしていたのか

ムスメが生まれたときに病院でどなたかに「二人目のお子さんですか」と聞かれたくらい太々しく憎たらしいのだろう

そんなニンゲンであったのは死ぬまで治らないのだろうから死ぬときにみなさんに恩を受けたお礼を伝えるかあの世で先人に挨拶をして回るかしかなかろう


つまりは

自分のことをうまくやることだけで精一杯に生きてきたわけで
周囲のみなさんのご恩に応えるべきことを
ほとんど欠いてきたわけです

 


続きは時間のあるときに改訂します

日記伝(カテゴリ)を作ってみました

(号外)

どんなカテゴリ名称がええのか考え中ですが

■■

 自分史とはなにか。最初の講座で、真知子さんは言った。「お魚が美味しい干物になる前の、元気に大海原を泳いでいた頃のお話です」 「皆さんが泳いできた海の広さや、深さ、海の色の青さや、海から見上げた空のまぶしさを、ぜひ教えてください。自分史とは長い自己紹介ではありません。自分の出会った人たちや、自分の生きてきた時間の素晴らしさの物語なんです」


(ひこばえ):457 重松清 終章 きらきら星  (朝日:

■■

「出会った人に語られる人生が、その人のほんとうの人生かもしれませんよね」――弁解交じりの屁理屈とは思いながらも、「だって、人間って、誰かと出会うために生きてるわけじゃないですか」と言葉を重ねられると、屁理屈が二乗されて、あんがいと説得力を持つものなのだ。 「出会うために生きてるって、別れるために出会ってるのと同じなんですかねー」


(ひこばえ):460 重松清 終章 きらきら星 (朝日:

■■

というのを読みながら

むかしブログに書いたことも転載してみたり
新しく日記風に思い出してみてもいいかもしれない

と思い始めたのです

新しいものと古いもの - 白露篇 【裏窓から】

九月八日 白露


「そんな古いことを」と投げかけて来る言葉に果たして「古い」といっていいのだろうかと疑問を抱き続けている

若者が-私の子どもがこの言葉を使って私に自分の考えを話してくれる時にずっと疑問は消えないままだ

しかし 反論をするなどの応酬はしておらず「古い」と断定できかねるのではないかと一言提案をしている

結論が欲しいわけではないから急いだ議論をするつもりはなく、視点と論点と論理をゆっくり考えたいのである


お父さんの何を「古い」と言ったのか

今すぐには思い出せないのだが、探せば日常茶飯事にありますよ たぶん


そんなことを考えているときに「雑巾掛け」というものをふと思い出した

今では死語になっている作業なのかもしれないが、人の心の置き方というものを考えるときには欠かせない業であろう

言うなれば、雑巾をかけてそこを綺麗にするというだけのことであるが、その裏には礼節に及ぶ心構えがあり、人の感謝の精神も隠れている(といえば強引か)

掃除機や洗浄剤が一般化している時代であるし、作業の分担化・分業化が進み、お掃除を業務として受け持つ人々もある

合理性やコストダウン、安全性などを考慮すれば、掃除をしている暇があったら仕事を(あるいは勉強を)しなさいということになる

掃除というものも古くさい苦行なのかもしれない

本当にこれを「古い」ものとして置き去ってしまっていいのだろうか、これは一例であるが


親は「小言」を言わねばならない それが一つの使命であろうか - 九月のはじめに考える

昭和と平成を比較してその変化を微分して意識しているかどうかで
その人の考えや観点が変わってくる
時系列的に観る力が必要だ
昭和を知らずに生き抜くことは可能だが
物足りない人間になって欲しくない

先日の日記にそのようなことを書いた


親の小言となすびの花は千に一度の無駄がない

これは母が事あるごと、私にあれこれとものの教えを(いわゆる説教して)話すときに教えてくれた言葉だ

ヒトはそういう言葉さえその時は棚に上げて自分の思い通りに好き勝手をしてきているのかもしれない
好き勝手にできる時代に生まれたことは幸せなことである

遥かあとの時代になって、三十年という人生の周期を過ぎたころに
多くの人が立ち止まって「言葉」を振り返る

同じ言葉を子どもたちに繰り返して言うてその意味を噛み砕いて事例を交えて伝えるのか
そんな言葉は今の時代にはそぐわないのだと判断して黙って事態を見やるのか


「親の小言」ではなく「意見」としているネットの資料なども多いが
「小言」のほうが重みがあるし、言葉の本来の意味をしっかりと含蓄しているといえないか


果たして「古い」のだろうか

いつの時代も先代の言葉や行動を「古い」というが
私が子どもたちならぬ今の社会に向けて放つ「小言」は古いのだろうか

そのことに疑問と反感を抱きつつ「古い」でないならばどのように表現すれば相応しいのかを考えている

技術進化を取り上げてCPUの処理速度が著しく遅いやその時代の設計思想を「古い」といって一刀両断することは間違っていないだろう

人間関係の処方、物事への戦略への構築手段や取り組み姿勢など挙げればキリがないが
そういったある種の「哲学」「鉄則」を何でもかんでも古いといって、歴史の遺物のように扱って良いのか


流れの変化を微分的視野で分析する視線が必要だ
とこれまでにも書いてきたが

時系列的にマイナス座標の方にあるものを全て古いと言い切ってしまっては解析学が成り立たない

実際に「先人の知恵」を生かして新しい時代を切り開くのであるから「昔のもの」=「古い」訳であるが、「先人の知恵」=「先人の失敗」でもあるのだと考えると、哲学に古いも新しいもないのではないか(三角関数のようなものですか・笑)


そういう訳で、親の小言は「鬱陶しい」ものであろうし
スパイラルで上昇をして行く今の時代を生き抜いている人からすれば
「何を今更」のような感覚もあろう

新しい時代の苦難は新しい手法で切り抜けてゆくのが戦略というものであることも理解できる

新しい海に出る水夫は
新しい船に乗り
新しい技術を身につけた
新しい水夫だから

そんなことを考え
首をタテに振ってみたりヨコに傾げたりしながら

戦略とはどのように考え出されてきたのかという
思想史と技術史を そろぉーっと 振り返っている

これ以上 話すのはやめよう
「小言」がホンモノの「小言」になってしまう

 

ふたたび 五年を考える - 八月下旬 2号

僕の歳よりも五年も先のころには
ご先祖だった僕のお爺さんも
僕のお父ちゃんも
生きていることができなかった

けれども
僕は
きっと生きていると思う

だからというわけではないのだけど
僕は
何か
言い遺す準備をしておかねばならないではなかろうか

ところが
恐ろしいことに
何を言ったところで
残りそうな言葉が見つからない

ジュリアスシーザーや
ニーチェのように
かっこいい言葉は残せなくても

何か
ひとつでも と

思案の日々が続くのだ

🌱

「なあ、ビールが飲みたいわ ビールくれるか」
と最期に私の父は言うたそうです

ビールはそれほど好きでもなかったと思います
その冬 最大と言われる寒波が来ていた「大寒」の前日でした

昭和から平成への変化を微分して解析できることが大切 - 八月下旬に考える

時代の年表を30年ごとに色分けすると面白い

平成30年を基点の色として昭和を昔へと遡ってゆく

昭和は六十四年までで一週間ほどと短いので考えないことにして

昭和の六十三年間を真ん中の三十二年、三十三年付近で前後に分けて考える

昭和三十二年は誕生の年、三十三年は昭和天皇のご成婚の年である

昭和の歴史はこの付近を区切りとして急激に変化を遂げたとして考えてよく
政治・経済が激動したのが手に取るようにわかる

☕️

昭和三十九年には東京オリンピックが開催されて
東海道新幹線が東京と大阪を結び、カラーテレビ、冷蔵庫、洗濯機などが登場して
暮らしぶりが大きく充実し始める

我が家のような田舎にまで新文化の波が届くのはこの数年後のことだが
昭和三十年代に生まれた子供たちは新しい潮流に乗って颯爽と未来に踏み出し始めていた

昭和カラーと平成カラーとの子どもたちを比較すれば
変化を学んで意識しているかどうかで
その人の考えや観点が変わってくる

時系列的に広く見て
物事の変化を微分して解析できることが大切と言える

昭和を知らずに生き抜くことは可能だが
物足りない人間になって欲しくない


三十年前に子どもが生まれ
家を買い
仕事に追われながらも慎ましやかに暮らし始めた

将来を設計して生きてきたのか
そのために時代の流れを冷静に解析していたかを
考えてみると

次の世代に伝えたいことが次々と湧き上がってくる

こんな「小言に」耳を傾ける意思はあるのか
そんなゆとりがあるか

五年間を幸せに生きよう - 処暑篇 裏窓から

欲張りに書きましたが
タイトルの通りのことを考えていたということかな


父が亡くなったのが六十六歳と十ヶ月であり、そこから五年を遡ると六十一歳と十ヶ月である

令和元年の終戦の日はまさにわたしが六十一歳と十ヶ月を迎えた瞬間で、つまり後五年ちょうどでわたしは父の年齢に追いつく

それゆえ、五年という月日を一日一日丁寧に着実に考えながら生きてゆかねばならない、とそんなことを考えながら

この五年を充実した日々にすることが父を超えて生きてゆく者の使命であるのではないか、と考えた

父は死ぬ六年ほど前に脳梗塞で倒れており、今のわたしのように自由な暮らしではなかった

だからこそ わたしは健康であるがゆえに、この人の分もしっかりと生きねばならない

さて、その五年前にあたる今年の夏である
わたしは孫たちと京都を訪ねているのだが、お盆のお墓参りであるから特に記録することなどない

孫一号はおしっこがときどき言える三才五ヶ月、孫二号は十一月で二歳になろうとするときで言葉はまだ話せない


孫たちの父さんが五十日ほどの長い研修で缶詰にされている間、母と三人で我が家に転がり込んでいる

我が家は毎日お祭りとお祝いと地震とが同時に来たくらいの騒動となっていた

処暑が過ぎて九月になると研究も終わり普段の家庭に戻るのだろう

我が家にも静かな夜が戻る


処暑を迎える夜にあれこれと思い浮かんで来たことがあった

音楽を聴いたむかしのことから思いは始まってゆく

あのころは、音楽を聴くために給料1ヶ月分ほどをスピーカーにつぎ込んだり 、別の月にはアンプを買ったりしている

部屋は一間しかない貧しい暮らしであるのに、贅沢な条件でオーディオ機器を揃えて愉しんだ

そのことだけを今の人と比較すると、iPod 一つで済ませている時代の音楽は安っぽく薄っぺらいようにも思える


時代に連れて変化したパラメータは数多くある

聴く場所を選ぶことなく、簡単にパーソナルに聴く便利さがある
音楽を入手するダウンロードが容易で便利になって身近である
曲のジャンルが広がり、個人の好みもそれにつられて様々になって自由さが溢れている
音楽のPRの方法も宣伝媒体も変わってきた
ミュージシャンが遠い人からすぐそこの人のイメージになってきている

他にも挙げればいくらでもあろう


マランツのアンプによって増幅され、ダイアトーンのスピーカーから音が出てくる

そのようなサウンドに酔いしれる人は数少なくなったのだ


時代が変わったことを考え続けながら、身近な暮らしの中にも、姿を変えてしまった文化があることを思う

キャンプを楽しむ人たちの考え方もその一つであって、不便さや異空間を求めようとする昔のような思いは殆どなさそうだ


谷に水を汲みに降りて重いバケツで水を運ぶ
焚き火のためにマキを集めるために周辺の森の中を探して回る
マッチを擦って火を起こす
煮炊きは決して便利ではなく、道具も整わない
明かりは電気ではなくロウソクを使ったりする
楽しむ人々も電気製品などは不要だと思い、ラジオや電話から離れて時間を過ごそうと考えた
暑さ寒さも愉しみのうちで、その対処方法も自然と寄り添って工夫をした


ニュースで、コンビニ24時間営業の問題や悩みを報じていた

そんなことは源流に遡って考えていけば素直に見えるはずだが、そこはなかなかみんなの意地があって素直にゆかない

少し不便になったうえでその不便を体感しながら工夫をするという姿勢が大事であって、コンビニが深夜や休日に閉まってしまってどうするかを本質から見直すべきだ、というと恐ろしいほどに反発を食らう


オーディオの音(サウンド)のことも、野外を楽しむ話も 、便利さに満たされた人たちにとっては、受け入れる器がないのだろう

だから手っ取り早く、逆戻りをするような話としてしか受け止められず、「時代遅れ」という範疇に分類してしまう

「時代遅れ」としか決めて掛かれない器量の方に心配が募る


10

時代が進むと文化が進んで、便利になって不満がなくなってストレスも対処して幸福な暮らしが実現できる

だが

プラスチックごみやマイクロプラスチックの汚染が進めば、生物界・自然界にも大きな影響が出る

汚染された環境に生息する生き物を捕獲して食べたりすると身体に環境汚染が浸透するという弊害が出始めるだろう

地球は温暖化を微妙に進化させていることは明らかになりつつある

人類はニンゲンの知恵であらゆる異常に立ち向かい大きな課題を解決してきているのだが、源流まで戻るという勇気は持てないままだ

ニンゲンのプライドなのだろうと思う

やがて、不便さとか不満足という状況を表す言葉をヒトは失っていくことになって、それでもヒトは自分たちは賢くてそれ故に幸せだと思い続けるのだろう

見てもわからん奴は聞いてもわからん - 立秋篇 (裏窓から)

 

見てもわからん奴は聞いてもわからん

これは口癖だった
父の耳が音を失っていたからではない
学ぶことを教える言葉であったのだと後年になって気がつく

深い意味がある
安易に聞いてはならぬという教えはすぐにわかる
しかし聞けばもっとより深くわかることもあろう
しかし、見て学ぶことが大切だという

見て学ぶだけが大切だとまでは言うておらず
まず見ること、つまり見つめること、じっくり見ること、バラバラにして見ること
流れを見ること、生い立ちを見ること、なぜ今があるのかを見て探ること
見ることを通して自分の考えをフル回転させろというのだ

なんぼでも教えてくれたし
手取り足取りコツを伝授してくれたことがあるだけに
基本の姿勢を見て学び忘れないようにしっかり身に付けるところから

学ぶことはそこから始まったのだと知らしめたかったのだ


 

ムスメたち夫婦が家を購入する話が夏になってから急に耳に飛び込んで来て
その判断過程に疑問を持ちながら
あの子たちのすることはあの子達が決めるのだという考えと平行線で
自分が三十年前に判断をして来たことを振り返って
その未熟で愚かなことを 考え直している

まず 私が今の家を買うことを決めたのは
父が逝く瞬間から逆算をすると八年を遡る

死亡する六ヶ月前に脳梗塞で倒れている

およそその八年間に一体どんなことがあったのか

おそらく誰も日記に残してなどおらず
カルテも焼却されているであろうから
今生きている者の記憶を辿るしかない

父の死は時間軸が焦点に吸い込まれるようにあの日に向かって収束をしていた

だが誰もその日を事前に知ることなどできないのは当然のことで
収束点が見えないうちから丁寧な記録を取ることは普通はしない

運命とはそういうもので八年前には予感は感じ取る者の予兆はどこにもなかった

ニンゲンの能力なんてのはその程度のものだ

幸せであってもそうだろう

最高峰にいると考えることはあっても
関数の最大値は微分値にマイナスの変化が出て初めて確認できるのだ

最高の幸せだと考えることはある意味では未熟であることになる


見ることで奥にあるものを、過去にあったものを盗め、見抜け

そういう父は「一を聞いて十を知れ」という言葉でもよく説教をした

見てわからんなら聞いてわからんのやから聞くな!
と言っておきながら「(一を聞いて)十を知れという

一を聞いてもええのかいな

なかなか
言うてくれるやないか

教えてもらうために聞いたら
そのあとは黙って見て磨け

そういうことでもあるらしい

なあ 父よ わたしがこのように困窮している時に あなたならどうしたのでしょう - 広島原爆の日のころに考えていたこと

なあ 父よ
わたしがこのように困窮している時に
あなたならどうしたのでしょう

そう問いたくなったのだが
しかし答えはそれほど難問ではなかった

多分何もしなかったのではなかろうか とわたしは想像したのであった

言うてもあかん
泣いてもあかん
怒ってもあかん
それなら黙って待つしかない

と判断して
そうしたのではなかろうか


意地は強く持たず 必要以上に押し通さない
意見も強く主張しない
心の中に強いものを秘めておく

それでいいのかと考える続け
自問自答が続く中から
明かりが差すように答えが見えてくるのだ

それはそれでいつか実を結ぶチャンスに恵まれる
と考えていたかもしれない

チャンスに恵まれるのは
自分のささやかな努力であり
待ちの姿勢であり
忍耐である

待てば海路の日和あり

そのように言葉にして感じていたのかどうかは推測の域であるが
日頃からの自分の姿勢や態度、行いが迎え入れる自らの幸運を招くのだ
と考えて、慌てずに考えて戦略を打つ時期まで待つ人であったかも知れない

貴重な姿勢だ


そういうわけで
私が舞い込んだ迷路において
困窮に陥ってしまったとしても

それは日頃の自分の生き様の写しなのだと忠言されたような気持ちになっている

あの人の最期の言葉 土用の丑 号 - 裏窓から(号外)

父の居場所
いつも現代農業を読んでいた。寝床に入ると勉強をしていたのだろう。どのようにしたら、この限られた田畑から少しでもたくさんお米が獲れるのだろうか、そのためにはどうすればいいだろう、おいしい米はどうしたらできるのか、と考え続けていた人だった


そんなふうに始まっている日記(2014年4月16日)をふと読み返して父の「最期の言葉」を思い浮かべた

「なあ ビール飲みたいなあ」だったか。床に伏している父がそういうようなことを言うので飲ませてやったのだと母が話してくれたのを覚えている。脳梗塞で倒れて元気も失い床に伏したままだったのだ

まさか、そんなにすぐには死ぬとは思ってもいない人が多いという。すぐあとではなく、何日かあとを覚悟をする人は多いが、たった今と覚悟をして待つ人は少ないという。それだけに電話で私を呼びたしたりもしてこない

慌てふためいてあたふたしたり、身近な人たちに電話連絡をする余裕の時間というものは、もしものときでも多かれ少なかれあるだろうという潜在意識を持ってしまっている人が多いのだろう。誰もが「まさか・・」と思っているのだ

ぼくのおとやんが死ぬときはあっという間で連絡が届いたのは死んでしまってからだった


おとやんは ほんまにビールが飲みたかったんやろか

あとで冷静に考えてそう思う。ビールはときに好物ではなかったし、普段からも飲みたがらなかった。まして逝ってしまう大寒のころにビールを欲しがるなんて、喉が乾くわけでもないし、いったい、何を思っていたのだろうか

夢を見ていたのだろうか、意識が朦朧としていたのだろうか。度重なる脳梗塞で倒れてのち幾日もの歳月が過ぎて、いつの頃から生きている時空と死んでいる時空の狭間を彷徨っていたのではなかろうか

好きでもないビールを飲みたいというのだ。そこには深い理由があったのではないか。いいや、なんの理由もないのだろうか

大勢の人が集まり歓談をして話が盛り上がっているところへ彷徨い戻っていたのだろうか

脳みその細胞は日に日に、時々刻々と壊れて失われてゆくときに、残された一欠片の脳みそが人生の最高の瞬間を蘇らせていたのだろうか

母が飲ませてやろうとしたビールは、ほんの少し口に含んで飲んだという。すでに胃潰瘍に激しく侵されていた胃の中へと流れ込んでいったのだろう

亡くなったのはビールが欲しいと言った直後ではなかったと思う。正確には最期の言葉ではなかったのかもしれないが、意識は、記録に残るほど回復をしないまま心臓が止まる時刻を待った

時間は後ろからは遡れない

冷たくなってゆく身体に添い寝いていた母が気付いたとき、冷たくなっていくわ……という意識が身体中に沁み広がっていくようで、すっと死んでいってしまった、と母は回想している



ビールの泡をふとゆっくり見つめる瞬間に、おとやんはほんまにビールが飲みたかったんやろか と思った

いつかは二人でふっくり酒でも飲みたいな と思ったことを一度も叶えることもなく 何を思いながら最期の言葉のあとにビールを飲んだのだろうか

天の川見えねど嬉しく飛ぶ蛍 - 小暑編(七夕号) 裏窓から

さて、と


『人生とは設計(デザイン)するべきもの』で 常にデザインレビューを繰り返しながら 不安を抱きつつ一歩ずつ進むのである

と書いて「人生」「流れを変える」という命題を考えている。
納得のいく答えは程遠い

「そう簡単にオマエらにわかってたまるか」と故人が化けて出てきて叱られそうなことを考えていたのかもしれない
「ずっと前から提言(アドバイス)してきたのに」と言われそうだと胸に手を当てて思うこともある

勢いのあるときは他人のアドバイスはおおよそ「苦言」にしか聞こえない。これが「金言」と思えるようならそれもまたその人物は詰まらない奴で、ノンポリかもしれない

だが、しかし・・・である

と立ち止まって考えて読み返せないようなメモが手帳に蓄積されてゆく。自分でも読むのが面倒なことが書いてある。「人生を考えると面倒なのだ」ということかもしれぬ


ホンモノの天の川(ホンモノの銀河)を見たことがあるか

と書いたメモの前にこんなことを書き留めているのでこれも拾い出しておく


猫も杓子もインスタグラムで騒ぎすぎで白けている。そんなに注目されたいのかね
自己主張はある種の本能だから、努力もなく苦労もなくできるもの(SNS)には 簡単に飛びつくのだ

現代は平等社会であるり、人権も尊重される
誰もが簡単ツールを手に入れて 自由に遊べる時代になったてゆくのはいいことであろう

けど 、と思い立ち止まる


🌱

生まれた時から

ケータイ電話があって
テレビのチャンネルはリモコンで
車にはエアコンがあって
カーナビがあって
100キロくらい簡単に出る車は普通で
家にはテレビが何台もあって
エアコンも各部屋あって
暖房も同じくあって
電子レンジがあって
温度設定が簡単なお風呂がある

そこからスタートした人たちが
大人になっている社会である


🌱

変化してきた過程を見ることができなかった人を
変化の途上を見届けながら老化した人から見ると
大きな意識のギャップが発生している
そのギャップを「その存在さえも理解できない人」が
社会の大半を占る時代を迎えている

生物の進化を冷静に見つめる時に、こういったギャップは然程プラスには作用しないと新時代の人は考えているのかもしれない

しかし、そのことをくどくど説明すると「時代に逆行している」「時代遅れだ」と反撃を食らう

🌱

文化の点と線を「微分する」という発想のない人たちが増えていく

これは「時代遅れ」ではなく、対岸に漂流した自分たちが昔いた岸を見失っているようにも見えて、大航海をしてきた祖国を「時代遅れ」と錯誤しているのだ


人生を設計する人は三十年後を睨むことになる

父、私、子どもたちが残してきた足跡を辿ってみれば見えてくるものがある
しかし、それを一から説明をし始めると諄(ひちくど)くなる


考えながら書くので
足したり消したり です

 

『人生とは設計(デザイン)するべきもの』で 常にデザインレビューを繰り返しながら 不安を抱きつつ一歩ずつ進むのである

「人生を考える 夏至篇 (裏窓から)」

について考えたあとで
『流れを変える』についてというメモがある


『流れを変える』

  • チャレンジする
  • 新策を打つ
  • 水を別の方向へと流れを導く
  • 対岸に渡る
  • 視点を変える
  • これまでの方法をやめる
  • 予想外の展開を生む
  • 突然の変異を生む
  • 勢いを停止させる
  • 強い勢いに乗る
  • 立ち止まる
  • 意見を聞く
  • 自分の意思に沿うようにする
  • 目標を再設定する
  • 目標を見直す
  • 方向を見つめる
  • 周囲を見渡す
  • 価値観を見直す
  • 価値観を変える
  • 白黒を入れ替える
  • 表裏を返す
  • 攻撃する

と書いている


『流れを変える』 その2 をメモる

『流れを変えな勝利は来ない』
と信じて立ち向かっていく

常に新しい流れを自分で導きながら
先頭を走り続けることを自分に命じる

『人生とはどうあるべきものか』
を考えようとしたとき

ふと
この歳になって考えるならば

それは
『人生はどうあるべきであったのか』
と考え直さねばならないのではないかと気づく

さらには
『人生をどうのように考えて捉えるべきか』
というように見直してしまう

すなわち
『人生とは設計(デザイン)するべきもの』で
常にデザインレビューを繰り返しながら
不安を抱きつつ一歩ずつ進むのである

過信は禁物だが自信は必要だ

(つづく)


 

(語る 人生の贈りもの)関野吉晴 を読みながら

旅や探検の醍醐味は、「気づき」。自分が普遍的だと思っていることが、実は他の人にとっては特殊なことだと分かる。そうすると物の見方が変わり、自分が変わることがおもしろいんです。エチオピアでは、ヤギやラクダを飼っている人に「もっと増えたらいいですね」と声をかけたら「いや、これを大切に育てるのが私たちの役目です」と言われた。足るを知る人たちなんですね

いう話を「旅や探検の醍醐味は「気づき」 -関野吉晴」の日記で書いた

11話では

《グレートジャーニーの旅では、出会いにもこだわった》

よく旅を布にたとえるのですが、移動を縦糸とすれば、寄り道して人と出会う横糸もなければ布にはならない。僕は横糸のほうが好きなんだけど、道草ばかり食っていると進まなくて、南米を出るまで2年かかりました(笑)

とも書いている


旅や探検の醍醐味は「気づき」 -  関野吉晴


旅や探検の醍醐味は、「気づき」。自分が普遍的だと思っていることが、実は他の人にとっては特殊なことだと分かる。そうすると物の見方が変わり、自分が変わることがおもしろいんです。

エチオピアでは、ヤギやラクダを飼っている人に「もっと増えたらいいですね」と声をかけたら「いや、これを大切に育てるのが私たちの役目です」と言われた。足るを知る人たちなんですね。いま、「好きな言葉を書いて」と言われると、自戒を込めて「ほどほどに」と書いています。


(語る 人生の贈りもの)関野吉晴:1 アマゾン通い50年、未完の旅



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  2. 音楽篇 (1)-(6)
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人生を考える 夏至篇 (裏窓から)

人生という言葉が耳に残った

俳優でミュージシャンのピエール瀧被告がコカインを使用した罪に問われた裁判の判決のニュースで裁判官が被告に語り掛けた言葉が印象的だった(6月18日)


 「あなたがやったことに見合った判決にしました。あなたが有名人だからといって、そうしたわけではありません。 

 あなたと裁判で話した者として一言あります。今回の法廷に限らずですが、何が役に立つか検討しました。一言だけ引っかかったところがあります。証拠写真の一部を示します。(瀧被告に写真を見せ)漢字2文字ですね?人生という2文字とあります。なんでこの字を貼っているのか気になりました。その中でこれまでの活動において、インディーズ時代も含めて出てきました。インディーズとかだと、時には羽目を外すこともあるかと思います。人生についてどんな言葉を考えているのか。仲間と純粋に楽しんでいたのかなと。そんなことを考えてこの文字を書いてくれたのかなと。 

 あなたに言いたいことは3つあります。『人生をどうしたいんだろう』『人生の持つ意味』『人生と書いてくれた人の気持ちに応えられているのか』。私は芸能界のことはわからないです。初公判でも再撮という言葉を聞いて何のことかわかりませんでした。復帰できるかわからないし、いつできるのかもわかりません。しかし、いつか瀧さんは薬物なしでも前よりすごいじゃないかと社会の人が見てくれることを願っています。これから悩んだり孤独になったりしてくることもあるかと思います。人生という言葉を書いてくれた人の思いを考えてください。自分を見失わないために必要だと思います」 

 小野裁判官は「謝罪やカウンセリングの中で迷ったり悩んだり孤独になることがあるんじゃないかと思います。そのときは『人生』と書いた人の気持ちに答えられているかを、胸に手を当てて考えてほしい。それがあなたがいるべき場所を見失わない上での大切なことじゃないでしょうか」


✒️ 私たちは 日常ではそう簡単に人生という言葉に向き合うことがないのではないか

夢を描いて ひとつの道を目標に向かって歩む
その道の足元はただの石ころだらけの道なのだ

誰だってそんな道を一度は、または最初は歩き始めるのだ

遠くを見つめ目標を持ち
行く先を夢に描き 幸せを求めて

その石ころだらけの道を歩む

✒️ 人生には設計が必要だ

その話を 歩み始めた人たちに話をしても なかなか理解をしてもらえない
反発を食らうことさえあるのだ

歩んでゆく道に石ころが多かろうが 平坦な道であろうが
地平線が見えていようが 障害物が多かろうが

自分が一歩を踏み出す地面を道めることは元より
遥か向こうの風景を夢に見て想像をすることは欠かせないことだ

✒️ 拝む人の後ろ姿を見て考える

先日の朝 街角のお地蔵様に手を合わせて拝んでいる人の姿をみかけた

拝む人である
屈んで手を合わせている

願い事を祈っているのだろか
お世話になったお礼の感謝を捧げているのだろうか

ヒトが拝むということは どんなときなのだろうか
朝の静かな街角で丸い背中がじっと動かないのを見ていると

みなさまのおかげで今ここにいるのだとしみじみと感じたのだった

夏至