減塩に取り組んでいる ✯ 二月初旬号

減塩食

減塩食を摂るように生活を見直している。伴走してくれる家族に感謝をしたい

『減塩』を考える時間が格段に増えた。そしてまず「そもそも減塩とは何ぞや」を考えるところから始める

減塩という課題は 健康な人から見れば 対岸の火事であり 死ぬまで無縁の言葉だ

では「なぜ?減塩を迫られるのか」「なぜ?塩分の摂取が増加しているのか」
この問いに一生懸命答える人は 命の危険を自覚する人だけかもしれない

塩味

塩分は 健康を保つために必要不可欠な要素だ。しかし 過剰摂取をすれば 身体を傷めつけることになる

文明の進化と共に生活に科学の知恵が加わり 食文化が大きく変化をしてきた歴史がある。その過程で ヒトが味わう食物の旨み感覚が左右されガラリと様変わりをしてきた

人間の身体は縄文時代から何も変わらないもので、歴史のある昔ながらの漬物や燻製にも塩が使われ 塩味は表には出ない地味な味覚として身体と共栄してきた。

しかし 旨みを引き出すために不可欠であるため どんどんとエスカレートして 食材の中に知らぬ間に浸透し さらに 人間としての暮らしが豊かになるにつれて 上塗りするように近代的な塩の味覚が 厚みを増していく

「塩味」という不都合な成分が余分に体内に吸収されれば身体に支障をきたすのは当然のことだ

人類という大きな視点から見ても 人間は 美味しいものを追求し続けて「塩味」だけではなく「脂質」「糖質」「小麦粉」など 現代食物学で注目されるものを美味しく食べて 豊かに暮らしている

せっかく気持ちよく美味しい食生活を送っているのに 邪魔をしないでくれと怒りを買うのも仕方あるまい

・・と言いながら 立ち止まって考えねばならない時期を迎えている

『食』の追求

小麦粉をまず大幅に減らして、マクド、ラーメン、うどん・蕎麦・パスタ、練り製品 を食べるのをやめた

さらに 添加物や塩分の多い食品を見直して、ウインナー、惣菜屋さんのおかず、お弁当を控えるようにし、特に今まで好んで食べていた 麻婆豆腐、ピザ、スパゲッティー、カツ丼、たまご丼、明太子、骨付きローストチキン、ローストビーフ、豚バラ角煮、濃いカレー・シチュー、ファミレスメニュー・チーズハンバーグ、竹輪・おでんの練製品、味噌田楽・濃いおでん、刺身の醤油、市販のお鍋の素、キムチ・日野菜・沢庵・梅干しなど漬物一般、昆布・しぐれ、またそのおにぎり などというものが日常の食事メニューから消えていった

(体重が8Kg 減量し三ヶ月が過ぎる)

減塩を始めてから食材の購入検討時に必ず 栄養成分表を確認し「塩分量」をチェックするようになったことで、スーパーの商品やレストラン・メニューでは「成分表」を検索すると塩分の量が記載されてることも知った

だが

塩分を1日6g にする必要などあるのかという疑問や反発を持っている人にはこのような話は全く無意味でしかない

「どうぞ 健康な方はどんどん塩分を摂取して美味しいものを食べてください。美味しい毎日をお過ごしください」

そう言って 別世界に消えるまえに、少しお節介をしてでも 話をしたくなるのは 「美味の追求」に一息つき『食』を見直してみようではないか と提案したいからだ

(だが、まあここまで読んだら マシな方か・・
「僕には関係ないんだから」って思っているヒトは多いだろうし)

塩味の認識

塩分削減の料理を作ると「味ない」と感じる。今の時代の人は「まずい」という表現を使うが 昔の人はおいしくないものを食べると「味ないなあ」と言った。そのことを考えていると「まずい」と「味ない」は微妙に違うようにも思えるようになってきた

塩味を減らして 味わいを出す工夫を怠って 簡単・手軽に味覚を刺激する料理や調理補助食材を開発し続けた料理人や食材会社を責めることはできない

しかし 人間がこういった「食欲」を深い欲望として追い続けることに応えてきた社会は 反省して新しい道を考え出す節目が来ているではないか・・と思うことがある

(人間が持つ大きな欲に「性欲」「食欲」があるが)・・「食欲」は追い続けながら「性欲」はそれなりに抑制をかけてきたのか。しかし、裏面・水面下で黙々と「性欲」も増殖し続けて 社会の片隅で節度を求める危ない事件がで噴出しニュースに出ている

「塩分」の抑制と「色欲」を同じカテゴリーで言うつもりはないが 人間の身体の生理的特徴を考えれば 無限大に塩分摂取に溺れていくのは危険だと認識を持つべきだ

塩味調理の取組み

そこで 「うぇーまずいなあ」というような醤油も効いていないような煮物を作ってみて この延長に「この濃さでも美味いと思える調理方法があり得るのか」を日々考え続けている

古代人が美味しいと言って食べていたものに還って 生活を見直すことは きっと有意義なことだと信じている

豊かになりすぎた道具や社会システムが 想定上に災害などの危機に脆いこともわかってきている。脆いものにパッチを当てるように綻びを繕う新しい暮らしを 現代人はもっと立ち止まり巻き戻して考えねばならないのではないか


如月や猫の背中の温もりを手のひらで撫でて春を待とう ✢ アブレーションを終えて ❄︎ 節分立春篇

順調に二月を迎えることができた
節分・立春という言葉を耳にすると ウキウキする
恵方巻きを食べて 麒麟百年 を飲んで夜を過ごす(三日)

❄︎ 読み返して
❄︎ 思いつくたびに書き直します
❄︎ 刻々と変化する日記 ✦✦


如月

『如月』という呼び名はなんとも言葉で表せない優しさがある一面、思わぬ厳しい寒さを振り翳して容赦なく襲い掛かってくることもある

おいそれと好きな季節だなどと書き出してしまうと 自己矛盾に陥ってしまいかねない

二つの顔を持った季節であるゆえに 名前まで気に入ってしまうのかもしれない

「ひなた」に ありがたみを感じながら一年で一番寒い旬を過ごしている

節分と立春の暦をこうして捲ると 魔法の杖を一振りするのように心が和らぐ

優しい言葉の響きと共に「きさらぎ」とかなで書いて 春を待とうという決心できるのかもしれない

大きな不安を抱き 自分の行く道をひとつずつ自分で決めていく手応えを感じながら日々を暮らしている

❄︎

人生

一月末に四日間の心房細動アブレーション手術を終えて また新しい1コマへと一歩進んだのだと自分に頷いている

長い人生であるから故に進行方向が前に向くこともあれば後ろ向きになることもある

「三歩進んで二歩下がる」と歌った人の心が 歳を重ねるにつれて染み染みとわかってくるのが 些か気恥ずかしい

『人生』という言葉にも 大仰しく重みを感じてここまで生きてきたのであるが 六十五歳のコーナーで舵を切ったら いつの間にか日常語になるつつある

この変化に薄々気づいて 周囲に打ち明けても 反応するのは年上の人ばかりで 改めてそのことに「なるほど」と納得するのだった

「人生」の説法は お釈迦様の講話に任せるのが良いのだと教えられたわけだ

「人生」を語るのは面白い

❄︎

二十歳前の若者の半数以上が百歳になるなるまで生きると言われている時代だ

そこで 高齢者たちが語る「人生というもの」も 世代を超えてやがては変化していくことになる

そうなると 生まれてから死ぬまでの時間の大部分を占める「働いている」期間を生きるときに その未来の生き方や暮らしの姿を想像する様々な基本が新しく変化していく

ステージが大きく変化をしていくなかで それに伴い 毎日を生きていく姿勢や心構え、夢までもが 想像以上に変化するだろう

(つまり 考え方が全く違ったものになっていくだろう)

夢というものは前例のないものであって 新しい根っ子の上に生まれてくる夢は想像を超えたものとなって出来上がってしまうかもしれない

それこそが本当の意味での夢である

❄︎

時代が生む新しい「人生論」にやがては飲み込まれていってしまうと分かっている

しかしながら 今の人生を語っておきたいと思うのは いかにも古い人間のすることだ

歴史はうねるように進化し また繰り返す

新しい海には 新しい船新しい水夫が 漕ぎ出すのだ


月のはじめに考える

一月の最後の四日間でアブレーションの手術を受けた

健康を真剣に考える機会は誰にも普段から増えていると言えども 真正面に『刃』をたてられたら幾ら呑気に生きてきた人生であった自分であっても 流石に背筋を伸ばすのだった

まだ死ぬとは思わないが 現代の健康医学に疑問ばかりを投げているのではなく 少しは自分の生命も考え これからどのように生き延びるかという その姿勢を考えねばならないと 悟った

誰も『苦言』も『小言』も『助言』もくれない

それは即ち 六十五歳を過ぎれば 誰もがみんな 真剣勝負だからだ



二月初旬 短信 ❄︎ アブレーション その後 節分・立春篇 外伝

令和六年大寒のころ ✤ 大寒のころ 京都日記

大寒が過ぎた

この冬になってから寒い日が続くことがあったものの 寒中にかかってから幾分温い日が巡り来て 大寒の時期も窓や庭の木々が凍てつくまでに冷え込むことはない

寒さに慣れるように知らぬ間に我慢をする習慣のせいか 部屋の温度設定も低めにすることが多くなっている

気合というつもりはないが、少々寒いぎみのほうが頭もスッキリすると考えがちで しかしながらも 身体は自然に従順らしく 毎日の血圧測定値が微妙に変化を表わし 高血圧アラームの出る要注意が続く

僅かな数値の差を気にしながら塩分表示のある食材との睨み合いが続く

『サ高住』から届く日々の様子の話にも大きな変化はなく 正月に罹ったコロナも完治して 生活リズムは元通りに戻った

いつものように部屋に行きおかしな電話がかかってきてないかなどを確認しながら ケータイ電話の着信履歴に孫のリストを見つけたので 調べるとコロナの完治直後に孫が母さんと二人で訪ねてきてくれて 鰻を食べに外出したらしい

それがわかったので驚きながら とーさん に「孫が来たのか」と問うたら「記憶にない」と言うので 親子できて鰻を食べに三人で出かけたことを忘れていた・・らしい

去年一年間には一カ月おきの頻度で来てくれる孫のことを 会いにくるたびに聞いてやると「来てくれてご飯に行った」と嬉しそうに覚えていたののに 先日の来訪は記憶にな口なっていたことを ウチの人は 諦めな口調でながら悲しそうに説明してくれた

これは ある意味では とても大きな変化なのだが、最早や大騒ぎにもしない

記憶の衰えが着々と進行するものの 食事や日常の会話に 大きな変化はないと 施設の人は説明をしてくれる

食事やテレビの相撲などの以外では 相変わらず暇なの寝てばかりだが 定期的に来る訪問ショップでの買い物もしているという

(こうして記憶が衰えてゆき 近親の人まで頭の中から順番に消えていき やがて静かに目を閉じたままになってくれ)

一度も顔を見せに来ない長男は「サ高住」での状況を風の便りにも聞いて そう考えているのだろうか

詳しい事情は知る由もないが 深い事情があるに違いない。不仲な親子というのがこの世にはあるらしいので 面会にいけない忸怩たる想いを胸に 遠くからそっと見送ろうと思っているのか

人間関係も広かった人であるから ほかにも この人を見守る人はあろうと思うが 顔も見せに来てくれない人があるのは それなりに諦めているのかもしれない

病院に入院するなら退院の見込みがあって元気になろうというものだけど 『痴呆脳』になって『サ高住』暮らしをし始めたら 未来の道は紛れもなくたったひとつだ

おばあさんも百二歳で亡くなっているが みなさんに きっと「大往生」という言葉で感謝されながらだったように思う

しかし 現実の 本心は 誰も言わない

誰もそのことを口には出さず 治療の手立てや希望にも触れることなく 未来に灯りが残されているというベンチャラじみたようなことも口にすることもない

病人ではないから見舞いには来ない
痴呆脳』の記憶と命が萎みきってしまうのをじっと待っている

私にはそう思えて仕方がない


下旬号 ❀ 京都日記 やや温い日が続く 
大寒篇 ✤

診察も済ませ月末に向けて ウォーミングアップ 京都日記 ❊ 大寒篇

Twitterに残されている『大寒』の呟きを拾う #大寒

毎年同日に命日を思うと 同じ句を思いつくものである
それが 我ながら 少し嬉しい


2024年01月20日(土)

軒をゆく嵐電コトコト大寒の朝 #雨降り #嵐電
明かり消して夜さり路面電車の音を聞く #京都 #路面電車
大寒や汽車の煙も凍る朝 #一番汽車 #小学校の通学路 #六十年
霜柱踏んでみたのは低学年 #霜柱 #見たことあるかい
大寒の明くる日が母の誕生日その次の日が父の命日 #二十七回忌 #大寒 #この日の日記を振り返る


2023年01月20日(金)

大寒 翌る日が母の誕生日 その翌る日が父の命日 #父の命日 
無精髭 放りっぱなしで一ヶ月 #無精髭


2021年01月20日(水)

真っ白な大学ノートの待つ言葉 #大学ノート


2020年01月20日(月)

日向ぼっこ孫の手がわりの鯨尺 #鯨尺


2018年01月20日(土)

大寒と母の誕生日父の二十年忌


2017年01月20日(金)

なんぼでも降っておくれ引きこもる
横しぐれならぬ横霙な大寒
冷たい雨きょうはバスで帰ろう
日めくりをまくって大寒 四股を踏む
京都のことやから☔️が☃️に変わることもあり得るよなあ この週末
ミッフィのブランケットおなかに巻いてお相撲さんみたいに成ってる


2016年01月20日(水)

寒くても平気やと繰り返す呪文
なあ おいしいぜんざいたべたいな #ぜんざい
嫁に行き君の住まない街に居る
風強く雪はないと覚え書き
二十回目の命日の墓に参る


2015年01月20日(火)

大寒の翌日に
まさに
力尽きて命果てた父であった
葬儀のときの寒さは忘れられないほど厳しかった
おかげで寒さには滅法強くなったわ

大寒や語り尽くせない寒さがある
白菜が丸々巻いて大寒哉

すれ違い待ちの列車の女子高生うまそうに朝ごはん食べてる
(朝の通勤汽車の中での景色)


2014年01月20日(月)

二期校の受験の逸話で酒を飲む

大寒ですが、
あすは母の誕生日
そのあくる日は父の命日

きのうは、雪が舞って少し積もった隣町
きょうは、それほど寒くなく
でも、腰が痛いのです。
あした仕事に行けるかな
弱腰

大寒やあしたは母の誕生日/あさっては父の命日


2013年01月20日(日)

きょうは
母の誕生イブで
今夜から八十二歳になります
昔でいえば八十四歳
行ってこうか

大寒や早起き鳥のその一句
眠れぬ人泣いても笑ろても大寒の朝  
大寒や目覚まし鳴っても床を出ず  
一度だけ電話きたことありました
鳥が啼き大寒明けて新聞屋

❊❊

京都日記

ガストで日替わりランチを食べたり バーミヤンで済ませている
そんな日の 夕飯は 「鰤しゃぶ」とか惣菜の「串カツ」とか 塩分表示が出ているので助かっている
6g は絶対に超えない
冨美家の「しっぽくうどん」を買うてきて食べている


喪中葉書と年賀状とのせめぎ合い ✴︎ 小正月篇

旧友宛の手紙に

五十歳を超えて六十歳を通過していく間に
昔の友達が だんだんとそっけなくなってくるのを感じて
そのことを残念がって書いても
誰も関心を示さず 相槌も打たなくなりつつあります
そんな愚痴めいたことを本音で書ける人かな
と(貴君を)感じているからか また書いています
みんな 家族の方を向いているのか
昔のことには関わりたくないのか
よーわからん

と書いて新年の挨拶としたのだが 返信が来ない
理由は 不明で 推測は果てしなく次々と浮かび… ある一点に収束してくる

友達なんてのは もはや 丁寧に対応したり 深い感慨や思い出を大切に共有する年齢ではない・・のか

🔥自分がこれから行く果てはどうなるか
🔥この先をどれだけ幸福に満たされて生き抜くか
🔥襲いかかる不運や災難からどうやって上手に逃げ切るか
🔥そんなことを考えている毎日
🔥そんな📨手紙にいちいち反応しているゆとりはないのだ

そんなところがほんとうの気持ちなのだろう

小正月

寒中見舞いが一枚届いて お母様(91)が亡くなられたという知らせだった
二、三年前あたりから 喪中ハガキの方が 年賀を追い越す勢いだ

下旬(21日)には うちの母も九十三歳を迎える
年末に九十八歳の姉を送ったところだ

今年が最期の正月かもしれないと覚悟をする
一方で 素直に構えれば長生きしてくれそうな気もする
あまりそのようなことを口にすれば 縁起でもないことを呼ぶような気もする

心房細動

月末にアブレーションの手術を受ける
その心構えのことで頭がいっぱいの毎日
高血圧

ダイジェスト


㊙️伝
成人の日 から 小正月まで 1月15日
寒さのせいで 血圧が微妙に上昇中 ⚙︎ 寒中 ぼちぼち 1月11日

自處超然 ✧ 寒中篇

手術を前に色々考えることはある
疾患の場所が心臓ということもあるけど

成人の日が過ぎて
日々日常の様子に特別な変化もなく
時々刻々と時間は刻まれていく

自處超然

福沢諭吉の言葉

人生は芝居のごとし
上手な役者が乞食になることもあれば
大根役者が殿様になることもある
とかく、あまり人生を重く見ず
捨て身になって何事も一心になすべし

を参照した日記を発見

➣ 寒中ど真ん中に考える – わはく㊙️伝2018年1月15日
➣  『二十歳のとき、何をしていたか❓』 ー 十月はじめに考える – わはく㊙️伝

二十歳や成人式のころを 振り返る二篇では「今の自分を見失わないことが大切だ」と言う思いを静かに自戒している

このころ ふと目を通した記事で自らの日記の行方に触れていた人があった

毎日の日記は永年の人生の蓄積だが いざ死を目前にした時にこれを遺族に明かすか明かさぬものかを思案し短い言葉で悩んでいる

日々の思いを新聞コラムの如く書き綴る人があれば どこにも吐き出せない思いを ひっそりと書き留める人もあろう

死の宣告が予期できるものであっても思わぬものであっても この日記の行方をどうしたものか・・と考える人は多かろう

もしも明かしたいというならば それは「伝えたい」のだろうから「受け取る」側にも支度が必要になる

我が日記を振り返れば 四千数百篇の記録がある

命を失えばこの世から姿が消えて PCのリセットボタンを押せば 全ての記述が一瞬のうちに消える

消えてしまう「発言」がとても惜しいと 私は思う

父は 晩年に書いた絵画作品が何点かあったほかには モノも日記も言葉も残さなかった

十年・二十年の年月が過ぎるうちに 思い出という記憶だけなのが「人生最大の失敗であり後悔」と感じるようになる

高齢を迎えて 考えが少しずつ変化し 余分な拘泥は 削ぎ取られてゆく

五百週間生きるか 千週間生きるか

勝負を賭けるつもりもないが 攻略方法を練るのも面白いじゃないか


ちかごろ ギャラリー

塩分を気にしながらも おやつのたい焼きシュークリームを食べたり ガストのランチを食べています
ガストは ランチメニューを検索すると 塩分成分表を参照できます

師走のはじめに ✴︎ 子どもたちがアウトドアに出かけて

減塩生活はそれほど苦にならない
小麦のカットと減塩食で 体重も72Kg ほどまで減っている(多い時は79キロ近くもあったから)
外食や惣菜も削減して 塩分量をこまめに確認しながら食事を作るだけだ
 ─(時々刻々)

師走を迎えて考える時間が募る
何が纏まって浮かぶわけではない

孫たちは 家族で週末からキャンプにお出かけで
ロッジで寝るので寒くもなく 電気が来ているのでテレビもあるようだ

バーベキューをするのか 焼き芋をするのか・・
どんなことをして楽しむのか

アウトドアでの遊び方のスタイルが大きく変わった
私が楽しんできた野営とは全く別物になっている

✴︎ アウトドア

アウトドアという言葉は華やかで頻繁に使うこともなく ツーリングで宿が取れないときは野営やキャンプで夜を明かした

それは宿泊費の節約か宿を確保できないのがもっぱらの理由で 非常用に始まり 次第に便利なスタイルとして定着していった

それが いつの間にか新しく御洒落なスタイルとして定着したのが「アウトドア」という呼び名で そこには不便で貧相なイメージがすっかり消えてしまっている

キャンプ用具も「グッズ」と呼び名が変わり 苦痛を伴わない快適な夜を過ごす手段となっている

雨が降っても寒さに襲われても嫌気も襲ってこない楽しいものだ

❅ 新時代のアウトドア

グッズは 至れり尽くせりの便利なもので 野営時代の間に合わせのような材料はまったくない。考案して工夫をした便利で快適な道具ばかりだ

持ち運びや使い勝手に不満があったキャンプツーリング時代のものとは打って変わって安心で便利である。何でも揃うのでツーリングの荷物がグッズで溢れることがあるかもしれないが 不安な旅はしなくてよい

キャンプサイトも十分な備品が揃い ホテルに泊まるレベルになっているのだが お金をかけて快適というなら 元々の姿とは遠くなりすぎて モヤっとした気持ちもある

もう 今のアウトドアの遊びの世界には戻っていこうという気にはならない
それは バイクツーリングにも戻ろうとしないのと同じものが心の奥にあるからだ


(外伝) 師走はじまる ✾ 減塩ぼちぼち

減塩日記 ❇︎ 京都日記 二、

帰りに長次郎でお昼を食べた

とーさんが 孫と数日前に行った話を聞いていたので そのお店を知って 調べてみると旨そうだったので 支出を惜しまずに行くことにした

そのあと少し紅葉を見ようと『御斎峠』を回ってみた

❇︎

とーさん は 依然として ぼんやりした日を過ごしている。
おやつを食べて 三度の食事の頃には およそ満腹になっていることが多いらしい

腹が痛いと訴えるのだが お菓子の食べ過ぎだろうと ツマは話している
「おやつを食べないように」と注意をして帰ってくるのだそうだ

ほとんど寝ているかウトウトして時間が過ぎる

一体 脳波はどうなっているのだろうかと気に掛かるが 健康的な症状には何も異変はなさそうだ

❇︎

老衰で死んでいくときは まさにこのように衰えていくのだと誰かが話していたことが私たち二人の間でも話題になる。誰々もこんな最期だったという

二年も生きてもらいたくないときっぱりと言葉にしていいながら そうすぐに死んでしまっても可哀想だとも思い これ以上いつまでこうして世話を焼くのかという不安もある

全く進んでいかない思案が ぐるぐると回っている時間が積み重なる日々だ

重くもあり軽くもある

こんなことをして自分の順番が来る日の事を憂いながら 日々を送っている

減塩な日々が始まっている ✤ 京都日記(㊙️伝版)

➤ 減塩な日々のはじまり ✤ 京都日記

✤ 外伝を書いて 一息ついて ここにきて 書きかけ

心不全の診断は続いている
それとは別に 『ニュー・デューク・オールスターズ』に参加することになり毎週練習に行く
そんなこともあって京都日記を十一月のいまごろに書くことになった

十一月初旬に立冬を迎え(八日)その後 異常に暑い日があったものの 順調に冬へと向かっている。この日記を書き足していく日々は ちょうど『小雪』を数日後に控えた中旬暮れのころで 京都はまさに秋の紅葉シーズンで人の波が溢れるとき

人混みなど諸共せずに出掛けた若きころが懐かしいと思いながら 嵯峨の別邸でぼんやりと過ごしている。このたびの京都はこんなタイミングで 人混み渋滞を恐る恐るやって来たのでした(十八日土曜日)

羨まれるほどに絶好の時季なのだが もう紅葉の景色を見に出てゆく元気は今の僕には無い。燃える秋の興奮が人々を激しく感動させていても 静かに息を潜めて見物している

たぶん 誰もが同じ一眼やコンデジを持ち同じ景色を同じ感動のふりをしてカメラに収めているのが気に入らないのだと思う。むかし僕たちを痺れるほどに感動させた自然はどんな時代になっても変わりはないはずなのに 金太郎飴のような感動の表現しか届いてこないのだから カメラを持つ魅力が失せていくのかもしれない。

出かけることもやめたの理由はそれだけではないと思うけれど

十一月初旬から 減塩食の生活が始まっている

心不全

ほんとうにそんな病気かどうかは はっきりとはまだ告げられてはいない けれども心臓の拍動が数秒止まる記録がくっきりと残っているのだから 逃げられない

原因が何かも尋ねてはいない。だが 高血圧を抑えなうてはならないと指示をされた。コレステロールも高いし 腎臓が弱っているという数値が出ている

減塩食

だから 塩分コレステロール 脂質に気を付けた食事をする必要があるのだ。腎臓がへたっているし 子どものころにも病んでいるし さらに父親譲りの面もあろうから カリウムリン 小麦粉を抑えて 高タンパクな食事を控えるように・・・

首を絞められているような宣告を受けたわけで 素直に受け入れて 十一月の初旬から減塩な日々が始まっている

書きかけ・続く

二十四時間心電計と心臓エコーを受診 - 十月中旬号

二十四時間心電計と心臓エコ検査を十月十日に受診した
その結果の話を ゆっくり書こう

続く(書き足す)

心房中隔欠損症という病気の疑いが子どものころにあった
しかしそれは成長に伴い治っていく病気であると言われそのまま大人になったわけです

この歳になりながら 少し前の市の健康診断で「心臓の脈動に気にかかるところがある」と指摘を受けて 循環器の内科を紹介してもらっていた

紹介状を持って 平岡先生を訪ねることにし 二十四時間心電計の診断と超音波エコー検査をして受診する

エコーを見ながら先生は さらに 精密に RIで検査をした方がよいから 日赤病院を紹介する・・という

血液を採取したので 月末にわかる二十四時間心電計のデータ解析結果を待って、その後 紹介状を持って 隣接市の日赤病院に行くことになります

つづく


外伝

布団一枚干して寒露の朝を待つ - 寒露篇 裏窓から

布団一枚干して寒露の朝を待つ

寒さが一段飛び上がったようにました
二、三日でこれほどまでに朝が冷え込むようになるものか

#秋を待つ
じっと秋を待っていた九月の末ころの残暑が全く嘘のようだ

気象データの記録を何年か昔まで調べると なるほど十月になると途端に気温が下がる日が増えている
八日(日)は #寒露

❄︎

八日は寒露だから 寒露篇 は 朝を迎えてから考えよう


🍄 朝焼けや寒露の海を焼き尽くす

#寒露
#朝焼け

✴︎

寒露の海を焦がしてゆく
夢のような物語が浮かんでくる

熱さを肌に感じる

空模様は下り坂で
言い訳は許さない

断崖から見下ろす大海原

✣✣

🍄 寒露待つ茶器に迷うた日暮れかな
#寒露

✣✣

🍄 布団一枚干して寒露の朝を待つ
#寒露
#秋を待つ

こんなことを 纏めてインスタやmixi に書き残している
死んでしまったら どれが自然消滅するのか 全く予想がつかない
みんな一斉に泡となって消えるのか

布団を一枚 少し夜中には暑いと感じたものの それもやがてカラダが 馴れるだろう

仕事をしていたときは 毎朝 駅までの道のりを歩く中で 道端の草木に朝露がつくのに気付き さらに空きが深まれば ひつじ田に霜が降りる朝をみて季節を感じた

今は毎日が のんびり 朝寝の日々だ

心配事といえば数日後に控えた 『二十四時間心電計装着』の診断が迫っていることくらいか


痴呆の人にはもう会いたくないと・・月のはじめに考える - 京都日記(痴呆脳)

京都に来て座敷机に腰掛け
かれこれと考え始めれば まず『痴呆脳』のことが浮かぶ
不定期の京都日記を少し書こう

秋を迎えた。(新年になれば)とーさん も「サ高住」やがて満一年を過ごす事になる。この三季節ほどで 痴呆の度合いが著しく進行したわけではないもの 行動・思考意欲が低減していることなどから 体力が衰え 暇な時は横になるとか眠っている時間が増えたようだ

何もしなくなって食べることへの自主性も無くなって『眠る時間が長くなって 死んでしまう日が来る』

そう周囲の人たちが口々に言う

「こんな日が続いて やがて 死んでしまうのだ」

はっきりとそう言う人もいれば 頷くだけの人もいる。そんな本音だけの空気の中で 毎日を生き続けている。テレビ番組を楽しみするわけでもなく 時間になれば食堂へ行き 決められた食事をする。何日かおきに 幾つかの医院に通う

医者は症状の診断をするが 死んでしまえば業務は終了なのだろう。大学の研究室なら死んでもその原因や死亡するまでの過程を分析するところだろうが 町医者の仕事としては病人の診断して死亡と同時にその仕事は終了・・となる。よく考えれば医者の本来の姿として オカシイ。

病気の進行過程を分析してこそ医学者の医者たる腕が上がり 庶民の命を預かる使命を長い時間かかって果たして行くのではないのか・・とそう思った

そう言うわけで 記憶が甦ることなど全くない日々が続き 期待もなく 残り時間がじわりじわりと削られてゆく

(私の)伯母さんが施設に入っている。大正十四年(丑年)生まれだ(九十八歳)。昭和元年(大正十五年)が寅年なのでその前年にあたる。その六年後未(ひつじ)年(昭和六年)に母が生まれていて ちょうど九十二歳になる

二人とも元気だ。母は週三回のデイに通うのを楽しみにして 今だに「数独」の腕前は工学部のムスコ(私)よりも達人だ

一方、伯母は数年前から施設に入り 先ごろ少し重度の施設に移動したと言う便りがあった。

数ヶ月前に母は姉の面会に 妹と連れ添って出かけている。その時に実の娘もいて三人が揃ったのだが 娘はわかったもの あとの二人に「あんたら誰や?」と言うたそうである

先ごろ、鰻を食べに出かけた日記を書いたが「もう会いにいく気はない」とその時にそんなことを母は言っている。悲しいのだろうけれども 諦めがついた話ぶりだった

あとは自分がどんな形であの世に行けるのか・・それも神様仏様任せのようだったが、身体はすっかり九十歳を超えた老人の動きである。まだ少し 時間が 残されているものの覚悟はしている

「京都日記」では とーさん のこれからを考えていくつもりで日記にし始めた

ところが 寝てばっかしで ツマが面会に行っても一人でテレビを見て時間を過ごし 身の回りのことあれこれして帰ってくるだけだ


(号外)九月初旬 写真日記

九月初旬 号外

思いついたら
書き足してます

  • シャインマスカットを直売所に買いに出かけた
  • 丸亀製麺でうどんを食べた(ちょっと贅沢なうどん、鬼おろし)
  • ステーキ皿を買った
  • かき氷を食べにコメダに
  • 鰻を食べに大口屋へ
  • サンマ1号
  • いとう料理店
  • ラーメンあれこれ

台風7号が紀伊半島に接近している - 八月中旬

何年か先のある日に 今夜の嵐を思い出すことがあるかもしれない
ふと思う

ならば もしかしたら 記憶を呼び戻す何かの切っ掛けになるかもと思い 台風の進路予想をスクラップして ここに貼ってみる

未来には何が起こるかわからない
予想通りになるとは限らない
自分の命にも何が起ころかわからない

今のところ雨も風も静かだ(14日夜10時)


📍 入選句を 思い出す ─ 三月尽 ひととき

池の底の月を笊で掬う ━ 赤目四十八瀧心中未遂

生島さん、あなたにはも早、小説を書く以外に生きる道はないんです。人は書くことによってしか沈めることが出来ないものがあるでしょう。

尤も小説を書くなんて事は、池の底の月を笊で掬うようなことですけどね

赤目四十八瀧心中未遂172ページ 山根

﹆﹅﹆

赤目四十八瀧心中未遂 (車谷長吉)を何度も読み返す

何度読んでも初めてのときのような感動が迫ってくる

なぜ 北海道か その二、

なぜかを考える

旅に出かけようとした動機を振り返る

北海道に旅する必要はなかった

はじめは銀山温泉へを計画してあれこれと宿を探すものの思い通りに計画が立てられず、ふと検索で出てきてしまった飛行機のフライトの値段が安かったので北海道へと心が動いた

安く行けるのならばいつかは北海道へと考えていたこともあって少し詳しく調べ始めてみると すっかり北海道を少し楽しんでみようという気になっていく

心のどこかに北海道はあったのだが

二ヶ月前に予約をすると割安でチケットが買えることがわかり 計画は最初とは大きく変化していく

北海道にこだわりがあったわけではないが 旅人生の始まりが北海道からだったこともあって いざ行くとなったら密かに思い続けている北海道を楽しもうという思いが 日に日に大きくなる

その気持ちを そうように押して行ったのが 父が晩年に旅をした思い出の話であった

最後の思い出に

母は先に死なれてから二十五年を過ごし 昔の話しを時々聞かせてくれる中で 二人であちらこちらにツアーに連れ添ったエピソードを話し「死んでしまう前に満足がいくほどに旅をした 後悔することな何一つない」ときっぱりと言う

そのきっぱりとした言葉のキレが こちらの心を動かしたのだ

思い出は 自分のために作るのではない

残された人のためにも 思い残すことなく北海道の旅を満足しておかねばならないのだ

1977年にヒッチハイクで回ったのが北海道だったと言うこともあるし もう行けないかもしれないという弱気もある

なぜ・・北海道か

北海道に行こうと考えたのは はっきりとした理由はないが八割くらいはそんな感じで・・と言う答えが 纏まったので公表した

2割ほどはもう少し補足をしたいが それは機会があれば・・と言うことで

話せば長い
読んでくれますか?


モモ北海道との出会い

中学時代に最果てに憧れて最果ての街の文通友達ができた

長い手紙友達だったが時の流れの中で手紙は途絶えてしまっている

だからというわけではないが 北海道はゆっくりと旅をしたいところのままだ


モモ初めての北海道

1977年の夏にふと立ち寄った本屋で目にした北海道マップに着火されて二日後には京都から急行『北国』に乗って旅に出た

ブログに僅かな日記を書き残している
1977年の北海道(R2)


モモまた北海道

1984年の夏と1986年の夏に 今度はオートバイ(@夫婦二人乗り)で旅に出た

1986年の日記は書き残っている
1986年の北海道〔夫婦・タンデム〕


モモひとりの北海道

1989年の夏にひとりで出かけた

日記は残っていない

帰りの『モト・トレイン』を大阪駅で降りた写真が残っている


モモ旅の原点

始まりは衝動的な思いつきだ

キーワードは『ヒッチハイク』『周遊券』だった


モモ昭和の北海道

鉄道が走っていた。夜行のディーゼルカーで街から街へと移動して 宿泊代を節約した

駅前の歩道には野営を明かす旅人の姿が珍しくなかった

道路は 未舗装のところも多く残っており 名の知れた場所への道路は 次第に便利になりつつあった

裏摩周湖の展望台への道は 登山道だった

知床峠の山岳道は 現在の道路は全く未開通で 羅臼から登る道は 『鎖場』から始まっていた


モモ鉄道の廃止

いつの間にか鉄道が廃止された

オホーツクの廃線跡の艸が茫々に生えた道路の踏切跡に『ここは汽車は走りません』と書かれていたのが強烈に印象に残る


モモ道路も変化

高速道路は 十分すぎるほどに整備された

ETCも当たり前になった

峠道は 近代化が進み 広くて安全に越えることができるようになる

『酷道』などという言葉も生まれた


モモ旅の姿の変化

人々の旅の姿も変化した

大きなキスリングザックを背負った旅人の姿は消えて バックパッカーに変わり それも今は見かけない

野営で旅する人やヒッチハイクをする人もなくなっていった

便利で軽快で合理的な楽しい旅が普通になって 美味しいものや流行や話題が重宝される


モモ人々の求めるもの

みんなが豊かで幸せになっていく一方で 価値観は統一化され誰もが同じ顔をして同じものを求めて旅をする姿が目立つ

新しく迎えた時代というものが 湯水のように提供してくる新しい幸せの価値観を抱いて 誰もがストレスから逃れようと旅に出る

好奇心という言葉を昔の人のように熱く語る人は減っていったように感じる


モモ魅力の変化

乗り遅れてはいけないし流行を逃してもいけない

ブランドを掴み損ねてもいけない

展望台から見下ろす風景は 長い歴史において変化はない

けれども こちら側は 平成・令和の文化だ



モモふたたび訪ねる理由

変化することは 破壊することではないし 衰退することでも 失うことでもない

そのことはわかっているけれど 心の中のどこかで 消えていく昔を惜しんでいる

消えてはいけないというつもりはない

忘れてしまってはいけない・・と息を荒げるつもりもない


では何故だろう

ふたたび訪ねようとする理由は・・


モモ過去を巻き戻さない

巻き戻るものではない

そこには諦めに似たものがあるのは否めないが 新しく生まれ変わったのだと考えているのか

化粧直しをしたのだと言い聞かせているのか


モモ自分を塗り替える

自分が過去を上手に蔵うことから始めねばならないのではないかと考えたのではないか

答えの掴みようのない旅の動機だ

聞かれても 即座に答えられない


熱い思い出を呼び戻そうなどとは考えてはいない

もう一度 あのころのページをめくり戻そうとも考えない

むしろ 今の姿を見て ひとつの区切りとして 新しいステージにゆく準備としたいと思っているのだろう

そんな気がしている


モモ新しい海へ


新しい海には新しい水夫が行くのだ

新しい操作を信頼して海を渡る

海の姿は何万年もの古代から変わらないものであっても 航海をする人々は今を生きる人だ

なぜ・・北海道か

毒ガスを吸って苦しむ夢を見る - 入梅のころ

入梅の暦のころに
夢を見て
日記に少しメモを書いている

その後
過去の出来事を夢で思い出す話にも触れている
ここに書き残しておく

﹆﹅﹆

毒ガスを吸って苦しむ夢を見る

。。

夢には匂いがある(色もある)

正確には 吸わされている
相手が誰かはわからない

強烈に苦しかった

死んでしまうから 起きねばならない・・と思って
必死で目を覚ました

もう一度寝て
ふたたび同じ夢を見た

さて、

﹆﹅﹆

もしも過去の出来事を頻繁に思い出すことがあるならば、『その時の何か』が今の自分に必要だと 潜在的に思っている証しなのだ

という話をしていた人があった

ふむふむ面白い話ではないか・・と少し頭を働かせみる

常に自分の成して来たことに間違いがなかったかを考え続けるものだ

そのことで深層心理を刺激して たくさん夢を見る。怖い夢や悔しい夢、失敗をして再チャレンジをする夢、窮地に入り込んで逃げ出せない夢など、寝言を言って魘されるようなものが 意外と多い

確かに、思い起こしてみれば、夜中に目を覚まし枕元のメモ用紙にアイデアを書き込んだこともあった

この説をお借りして少し考えてみた

夢を見ている私は 再びある時を蘇らせようとしているのだ
「苦しみを突破したいという強い願望」が蘇っているのだ

それは一種の『必要であり必然』なのかもしれない・・

と考えは 深まってゆく

壁を乗り越えていくためには 壁だと思ってはいけない

イチローは 「壁がある時はチャンスだ」
と言っていた (壁を作らない)

この説を証明することは難しいのだろう

だが、この説に背中を押されて迷路を抜け出せるならば とても面白いことである


外伝 : 毒ガスを吸う夢  / 過去の出来事の夢

京都日記 春分篇

京都日記 三月下旬 春分のころ

飛び石連休なのでというわけでもないが お彼岸なのでとーさんのところへ出かける
暖かくなってきているので 洋服や布団のシーツを交換してやらないと・・
入れ歯の洗浄は「サ高住」のヘルパーの人はどの程度やってくれるのか
あらゆることがよくわからず心配をして見にいくわけだ

緑内障の進行でほとんど視力がないため エアコンや携帯電話の操作が満足にできない
電話機の充電もできないかもしれないので ヘルパーさんにお願いをする
きちんと依頼が伝わってるのか
そのあたりの日常の世話が不安で仕方がない

もしも 家族が放り込みっぱなしで ほとんど面会にも来ない家庭ならばどうなるのだろうか
自宅から遠く離れているこの「サ高住」に放り込まれている人も 実際にありそうだ
どの程度の世話をしてもらえるのか
SOMPO のカタログには特に触れていないので契約書をくまなく読めばわかるのだが それは全てを相続しているムスコの役割で お嫁に行ったうちのツマ(長女)の出る幕ではない

ムスメ(長女)は 父のもとにこうして通うのだが その心の深層は私にも計り知れない
大慌てをした入居の頃の様子よりも 父は落ち着きを取り戻している
毎日の暮らしも 一人で暮らすペースを掴み始めていて 精神の動揺もそれほど見せるようもなさそうだ

認知症(痴呆)症状も 当初に心配をした 急激な悪化の様子もなく 不可能なことも見えてきて できることとできないこともわかってきた
ごく普通の認知症高齢者の老人である

毎朝 同じ時刻に起きて食事をし
ぼんやりと時間を過ごし
はたと思いついてはムスメに電話をかける
様子を聞いて 次はいつ来てくれるのかを問う
しばらくしたら忘れるので 何度か同じ話をして電話を切る
時には電話を切ってすぐにまた掛けてくることもある

誰と特別に話をするわけでもなく
日々何かを楽しみするわけでもない
見たいテレビがあるわけでもない

どうしてこんなふうになってしまったのだろう
長生きしすぎたからだろう
コロナで家にこもって悪化したのが原因だ

そんなふうに
同じことを振り返りながら
「まだまだ生きるから」と想像を語り
明日の朝 目が覚めない そういう時がいつかくるのだ
という場面を誰もが言葉にしないで脳裏に描き

時間が過ぎるのを
凹凸ない気持ちで送っている

二十日の夜は嵯峨野のガストで済ませる
他の日は スーパーの惣菜で 簡単に食べておく

外伝▶️

21日 春分

今年度最後になるかと思いながら
京都を訪ねている


特別なことは何もなく十月が尽きる ー 神無月最終号

🍏 🍏 🍏 🍏

🍊 腰の痛み

今年正月明けに発症した腰の痛みについて
椎間板ヘルニアと診断を受けて 悲壮的な日々を過ごし
夏まで痛みに苦しんできた

夏が過ぎて 気になる痛みはあるものの ウォーキングも可能になって
ハワイアンダンスのようなストレッチ体操を毎日数分繰り返す
これが効果を出しているのかは不明であるが 痛みは激減している

朝 床から立ち上がる時に 針で突くような痛みが少しある
しかし 体操をする間に次第に消えてゆく

🍊 誕生日だった十月

記録する出来事は何もない
年をひとつ重ねただけだ

父親の年齢にひとつ近づくことで さまざまな思いが時々巡ってくる

人柄のことや悩みのことなど

ゆっくりと人生について話をしたこともなく
生き方についての説教じみた事も何もされなかった

喜怒哀楽の日々についても
どんなことで悦んだとか 怒ったとかいう話もしなかった

美味いものを食って楽しかったとか
今度どこぞで美味いものを食おうというような話もしなかった

。。

父親とはそんなものなはずではなかったのに
という後悔は 満ちてくる
しかしながら 諦めもある

母はその分 二十五年も長く生きている
だからと言って ジタバタするものでもないし
今を素直に生きるだけだ

🍊 巨峰を買いながら
今年も これで最後かもなあ
と言い 去りゆく夏秋を惜しんでいる

* 書きかけながら 続く

小池真理子を読みながら ー 雑感

雑感を書き残しておく
断片記述とします


小池真理子 月夜の森の梟

なあビール飲みたいわ、くれるか
このビール味ないなあ

これが私の父の亡くなる間際の最期の言葉だったらしい

小池真理子さんが夫を失ってから一年間書き綴った随想を読みながら幾度も頭の中には父の言葉が蘇ってくる

ビールが好きなわけではないし、お酒が飲める人でもなかった

晩酌をしている姿もそれほど記憶にないし、酔いしれて饒舌に喋る姿なども思い当たらない

だからこそ ビールくれと言った言葉が本当かどうか疑わしいし、しかしながら、それなりに絵に収まるのだから、死ぬまで自由で気ままだったように大勢に思われて幸せにこの世を去れたのだろうということにしている

私が私にそう言い聞かせている

死に際には間に合わなかったというか誰も私に急いで帰ってこいと知らせてこなかった

後で考えても一体どういうことだと言い出しても良かったのだろうが、こんな風に冷静に振り返れるようになったのは何年も何年も過ぎてからのことだった

だからその思いは誰にも話したことはない

父の年齢が刻一刻と私に近づくにつれ往生際のことを考えることが多くなって、六十六歳にまであと一年と迫るこのごろは毎日一回は最期の言葉に出来そうな文句でも浮かばないかと考えている時間がある

就活と終活 - 日記の処分

バレンタインデー(14日)があけて月曜日が始まっている


きのういつものウォーキングロードの途中で
むかしの職場の同僚にバッタリと会い
立ち話を一言二言した

— 最近いかが?
— 毎日ブラブラです、楽器吹いて、歩いて、日記書いて一日です
— 終活ですな

最初 頭で「就活」という漢字を思い浮かべたこともあって
「??」 となって考え込んでしまった

世間の常識では私は「就活」をする年齢ではない
すぐに「終活」と気づいて反応できた


散髪に出かけるついでにスーパーに寄って見ると駅弁フェアーをしていた
ちょうどそこで峠の茶屋の釜飯があったのに目が止まり二人が「あうん」で
うなずき合ってそれをお昼に食べた

懐かしい旅の時代もあったなと振り返りながら食べた

そんな風にバレンタインデーは 平凡な一日として終わっていった


月曜日(15日)

朝から土砂降りで 傘をさして車を洗う
風呂用の取っ手付きのブラシでこするだけである

お昼はラーメンを食べて いつも通りである


先週(13日)は日記を沢山消した日だった

日記などあってもなくても何も変化など起こらない
思い出して記憶を確かめるのは私だけができること
他の誰が読んでも役にも立たないのだ
何も新しいものを生み出す原動力にもならない
生前をもしも知ったところでそこで終わりではないか
まして 鑑賞するようなものでもない


そう考えると処分でても惜しいものでもないのだと思えてくるから不思議だ
対立する心が湧いて来てそこで心の葛藤を起こしても良いのだろうが
人の心理の変化関数を追跡すると
現在は「捨ててしまおう」という状態のようだ

だから もう一度だけさらりと読んで捨てることにした


考えて見ると

もしも 身体の一部の不要な臓器を切除したならば痛みは残るだろう
傷が騒めくこともあるだろう

この日の夜は 夢を見たか寝苦しい思いをしたか
明確に記憶があるものではないが 少し傷が疼いたかもしれない

しかしまあ じきに傷は癒えるだろう
新しい血や骨や肉がモリモリと生まれてほしい


こうして書いている日記も やがては同じ運命をたどるのだと思う
それでも ここにこれを書く意味はあるのだろう
時間を刻むという大きな役割のようなもの

三十年という周期を考えると見えてくるもの - 海の日篇 (裏窓から)

ここ半月の間に身の回りにも微小な変化が起こりつつありそれを微小と捉えるのか大地震の予兆と推測するのかはその人の心の置きどころとこれまでの心配と成功が生むある種の勘であろう

失敗は人生の大きな資産であり失敗こそが成功を生む大きな力となるという言葉もあるものの失敗を何度も繰り返したりここが一番大事という時に失敗をするようでは失敗が財産であるとか良い経験であるという助言は無意味に近くなる

失敗はしてはならないと常にそう考えて真剣に生きていくことと日常からの洞察力を多面的な視点で磨いておくことが不可欠といえる


三十年という年月を振り返ったのはつい数年前のことだった

ムスメが生まれておよそ三十年のときにその三十年をもう一つ前に遡って考えまださらに三十年を遡って掘り起こしてみようと考えた

つまり、ムスメの三十歳、ムスメの生誕、自分の誕生、さらに--三十年をおよその範囲に広げれば--遡ること三十年昔には私の両親の生まれた昭和一桁の時代となる

三十年という数字の微妙誤差は無視をしてこういった周期で人間と社会と文明を純粋に見つめてやることに大きな意味があるのだ



三十年前に何があったのかを考えているメモが手帳にあるので、時間をおいて何度か読み返してみる

続きはあとで

父の日雑感 - 回想篇 その二

父の日

父に感謝を、心をこめて
そんな日なのだろうか

しかしながら
そんな日など
「もういまさらどうでもええわ」
と考える自分がいる


様々な理由がある

もはや 亡き父のことを考えることに意味がない
父が居る日常は当前だったわけで
父にはそれほど世話になっていないしな(←コレはまちがい)
元々は母の日だけやったから
ついでにできた記念日である「父の日」には意味がない

などと考えたりする


 

心の中で父は
遠い人
無口な人
飲めない酒を格好つけて飲む人
飲むことを愉しもうとする人

であったなあと回想しつつ

やはり
今となっては既にこの世にはいない
感謝したくともできない(という諦め)


子どものころの記憶にさかのぼる

楽しく遊んでくれたこと
ときどき理屈を言うて諭されたこと
何事も実践・実行をして手本を見せて説得しようとする姿があって
キャッチボールの相手をしてくれて
一緒に山芋を掘りに山深く歩き回ったことなど

を思い出す


嫌いだと思ったことは一度もなかった
傍に住みたいとも考えなかった
車を飛ばして一時間以内で到達できればそれでよかった


形見は何一つ残さず
思い出は消えてゆくばかりだ


記憶は消滅してゆく
一方で六十歳を回ってから
そんな父に私はとてつもなく似ているのだ
と気づく


だから
忘れてしまってもいいのだ


もっと恩返しをするべきだった

【号外】芒種篇 その2 検索すると・・

✒️
ふたたび職につきトボトボと暮らす とりあえず冬が終わるまでがんばろう -  芒種篇 (裏窓から)

1982年4月末日(初給料の月末) 1991年1月21日(母の六十歳の誕生日) 1991年3月20日(父の六十 … 続きを読む ふたたび職につきトボトボと暮らす とりあえず冬が終わるまでがんばろう -  芒種篇 (裏窓から)

フォーマットアサイド投稿日:カテゴリー裏窓から余録タグふたたび職につきトボトボと暮らす とりあえず冬が終わるまでがんばろう -  芒種篇 (裏窓から)にコメント


✒️
かけがえのない贈り物 芒種篇 - 裏窓から

ジャパネットたかた社長・高田明 「私は、商品はただの物じゃない、生き物だと思ってるんです」 「ビデオカメラを買 … 続きを読む かけがえのない贈り物 芒種篇 - 裏窓から

フォーマットアサイド投稿日:カテゴリーわはく(秘)伝 ノート裏窓からタグかけがえのない贈り物 芒種篇 - 裏窓からにコメント


✒️
B面 鞄の中身 - 芒種篇 【裏窓から】

B面 「雷山無言Ⅱ余録」をはじめる 雷山無言のカテゴリーにどうしても振り分けたくなる日記ができて … 続きを読む B面 鞄の中身 - 芒種篇 【裏窓から】

フォーマットアサイド投稿日:カテゴリー裏窓からタグB面 鞄の中身 - 芒種篇 【裏窓から】にコメント


✒️
癒される ─ 芒種篇 【裏窓から】

癒すという言葉がいつのころからか気にかかっている ネットに登場し少し氾濫気味にみんながやたらと大事に使うし安易 … 続きを読む 癒される ─ 芒種篇 【裏窓から】

フォーマットアサイド投稿日:カテゴリー雷山無言裏窓からタグ癒される ─ 芒種篇 【裏窓から】にコメント


✒️
傷跡 ─ 芒種篇

6月6日に部屋のこもってゴソゴソとしていたことや8日に落ち着かないで考え事をしていたりしたのは、ほかならぬ新聞 … 続きを読む 傷跡 ─ 芒種篇

フォーマットアサイド投稿日:カテゴリー無 ─ 考えるタグ傷跡 ─ 芒種篇にコメント

ふたたび職につきトボトボと暮らす とりあえず冬が終わるまでがんばろう -  芒種篇 (裏窓から)

1982年4月末日(初給料の月末)
1991年1月21日(母の六十歳の誕生日)
1991年3月20日(父の六十歳の誕生日)
1991年3月31日(父の退職の日)
2017年10月13日(六十歳の誕生日)
2018年3月31日(退職の日)
2019年6月5日(うちの人の誕生日)


このような記念的な日をこれまでにいい加減に済ませたことを深く反省している
何の記録も残っていないのだから弁解も何もあったものではない

誰や彼やと大勢に世話になり
尻を押され
手を差し伸べてもらい
叱咤激励を受けながら
ここまできたのだ

いったいどれだけの人々に助けられて生きてきたことか
上述した日だけではなく
数え切れないほど機会があったにもかかわらず
数々の皆さんに報恩するべきを怠ってきたことが恥ずかしい

身近な人にさえ、畏まることなく
礼を尽くせばよかったのだ

今更ながらそう思う
もはや、取り返しのつかないこととなってしまった

🕯

・・というのは
6月5日はうちの人の誕生日でした

僕のことだからケーキを買って帰るわけでもなく
おめでとうと言いながら
毎日の晩酌の乾杯と同じように
盃を交わしただけとなった

まあ、それでいいのだろう

🕯

u8292u7a2e

🕯

上に挙げた日のうち、特に
初給料とか父の退職に
何もしないまま特にお祝いもせず
感謝の言葉も伝えずだったことを
顔から火の出る思いで恥ずかしく反省する

親であれば(ふつうの間抜けであれば)警告をできるのだが
しかし、この場合 親からそんな忠告はできない

そういったときに小言やアドバイスができるのは
もっとも近しい立場が親友、妻、兄弟なのだろう

あのころは自分の人生だと思って暴走していた
言ってみれば怖いもの無しだったわけだ

私の人生はみなさまの人生でもあるのだ
(みなさんがあってのうえで 私の人生があるのだ)

と気づいている今となって
もう許してもらえるのだろうか


✒️ メモが残っている

🕯

父が脳梗塞で倒れる一日前は
誰も晩年の闘病は想像しなかった
私も同じ歳ごろを迎えている
明日に倒れても不思議ではない

父は身体の丈夫な人ではなかった
病弱ゆえに農家に生まれながら
農作業には不向きな身体だった

だが、それを庇うためにか
それほど病身には見えず
身体の具合が悪いというて
寝込んでいる姿はほとんど日常では見かけなかった

腎臓が弱かったという
若い頃に長期入院をしたこともある
という言い伝えは聞いている
何歳くらいのことで
どのような病状であったのかはわからない

病弱であったがゆえに農家の労働者や
日銭を稼ぐ土木作業員などをしても体力が続かない
そこで、重機の免許を人よりも早く取り
農作業でも高価な農業機械をいち早く購入したりしたという

採算のことはそれほど考えるような人ではなかった

🕯

六十歳まで公務で土木助手の仕事をして定年退職をする
そのあと生コン車の運転手をして
気楽にしているようにも見えたが
弟の話ではそうでもなかったらしい

好奇心があり目新しい仕事にも顔を出した
刺青をバシッとした男たちが詰めているような飯場に泊まり込み
大型トラックや重機に乗っていたらしい
それを知った弟が大慌ててで連れて帰ったという話は
父が亡くなって何年もしてから聞いた話だ

六十二、三歳のころまでは
自適に楽しく余生を暮らしたのか
(実は他人が考えるほどにそうでもなかったのではないかと思っている)

六十六歳で死ぬ三、四年前に
脳梗塞で倒れた

幾たびも救急車の世話になり
搬送の記録は数知れない

軽トラを運転中に意識をなくして
路肩に転落した事故もあった

僅か一時間程度の隣接市に住む私は
父が死んでから何年もの間
あらゆる日常の事実を詳しく知らなかった

🕯

それでいいのか
何度もそう思って反省した
長男として介添えの看病もしなかった
亡くなる半年ほど前には
周囲のほとんどの人々がそれなりの覚悟を固め始めていても
私はそんなことを知らぬままだった
何と罰当たりな奴だったことだと何度も悔やんだ


🗒 六十歳を過ぎてから
こんなことを振り返ることが多くなった

さて
そのことで

これからの行き方をどう変えていくのか

いいえ
そんな問題でもなかろうと思っている

平成最後に考える - 裏窓から

1 はじめに - 何もいいことがなかった時代

断片的にあれこれと昭和から平成のことを思い返して、あちらこちらに書いてみている

総じて 何もいいことなどなかった という言葉で表すことになる

  • 経済も不安定であったこと
  • 夢に描いたような暮らしが実現できなかったこと

などが真っ先に浮かぶのだから仕方がない

🍀

2 幸せを考える

では幸せではなかったのか・・・というとそうではない

天皇退位

ムスメは平成直前の生まれで いうならば昭和の最終走者を勤めて平成を走り抜いている

結婚もして
平成の孫っちを1号2号と生み
現在を逞しく走っている

仕事にもついて五百万近くあった奨学金も返済して子どもに振り回されながらもやっている

来年あたりから職場に復帰するつもりだろう

さて、僕はどこまで一緒に生きてゆけるのだろうか

🍀

3 不運な友

学生時代からの友だちには不運な子(♀)もある

平成九年に会社(証券会社)が経営破綻倒産してしまったのだ。人生に大きな打撃を食らって苦労をしたことはお互いに口には出せない

仲がよかっただけにその苦労の度合いなどのことは尋ねるわけにもいかず、そっと心配をして本当にいざとなるときがないように(なったらそのときは役に立とうと)思い続けるだけであった

今は孫が次々と生まれていると Facebook に書いているのでそれ以上は聞いていない

男の子三人を大学にやるなどして社会に送り出し立派に育てた。その母にこそ拍手を送りたい

🍀

4 転職をして羽ばたくという筋書きがあった

三十歳くらいのときに大学の同窓会に顔を出し、先輩たちの話を聞き刺激を受けたのは事実で、オレも二千万円、三千万円も稼げるように頑張ろうと考えたのだ。景気がよかったことや若くて野望を押し切るファイトもあったことが相乗的に働いて転職もした。

しばらくして家も買った。教育にも力を入れるのだと考え、世間に習って私学の中学に進ませたりしたのだが、なかなか筋書き通りにはいかなかったのだ。

🍀

5 低空飛行へと

筋書き通りにはいかなかったのも筋書きのひとつだったのだろう。育英会から多額の借金をしてムスメは社会人になった

私は低空飛行の人生を歩み続けている

悔やむことや、後悔すること、憎むこと恨むことなども後を絶たなかった。世の中の美しいものとそれ以上の醜いものをみながらも、ここまで歩んで来ることができたことに感謝したいと思っている

平成には何もいいことはなかった。それでいいではないか


平成に迎える昭和の日は今日が最後です 様々な回想が巡ります ─ 裏窓から(余録)

1 はじめに - 三十年という月日

昭和の日になって三十年が過ぎていた
早いようで遅いようでもある三十年を無意識に過ごしたのである

新札の絵柄も気にとめこともなく
いつまでも頭の中では聖徳太子のままだ
生活に支障もなく三十年が過ぎた

2 なくしたもの

無くしたものも幾つかある

よしっと思って転職したが成功には至らなかった
自分の人生設計の甘さを突きつけられた

3 伝えること、受け継ぐ人のこと

そのことの反省と戦略 さらに知恵なども含めたあれこれを
次の世代に伝えたいのだが・・・

これらを受け継ぐべき世代が 全く受け入れる体制も持たず 意識も備えていない・・・ときた
もはや「伝えないこと」が一世代前の者に与えられた使命なのかもしれない
新しい文化は 唯我独尊であるのだろう

 

 

日記はここまで (以下は自分メモ)

4(余録)

🔗 書きとめておくべきことの数々がメモにあったのでここに貼っておく (パワハラ余録)

#パワハラ余録

書きとめておくべきことの数々がメモにあったのでここに貼っておく (パワハラ余録)

書きとめておくべきことの数々がメモにあったのでここに貼っておく

  • 新卒の新人やないのやから
    こういう言い振りで間違いを指摘する
    文章に書き間違いがある、日付のつじつまが違う指摘する
    (ほかにも)記入漏れがなどを探す
    半年も過ぎれば新人ではないとみなす
  • 毎回毎回同じミスを繰り返す人には、間違いポイントをその都度指摘しない
    自分で間違いを発見するべきという
    教われば為にならないという
    自分で発見するまで考えさせる指導方法である
    教えてもらって直してもためにならんという
  • 間違いを即座に指摘しないため仕事が止まる(困ること)
    指摘して修正すれば短時間で済むものが、進まないから
    (自分で考えろといっても)思いつかないケースがあるから
    貴重な時間を浪費するから
  • (書類をバンと机に叩きつけて)
  • (直ってないので突きかえす)
    (当初から教えない方針で突き返しているはずでしょ)と問いたい
    感情が加わるのは一貫性がない
  • 朝の挨拶を無視する
    「おはようございます」に応答がない
    個人的に気に入らないと言う理由で挨拶なしは非常識
    (行動に変化が出るのは指導的立場としても欠陥)

  • 責任感がない、士気に関わる、恥ずかしいやろ、資質の問題や言葉に生命がない
    (この言葉を聞いて開いた口が塞がらなかった)
    指導者としての手法に誤りがある
  • 残業もせずに帰っていくのは責任感がない(と言う)
    必要に応じて命令するのが正しい
    達成できず後から指摘するのは間違い

ほかにも

  • 一回言うたのやからしっかり覚えて
  • (なんども指摘を受けているのやから聞いたらあかん)考えて
  • (もう机にバンと叩きたいくらいのところやが)(怒り)
  • 言い訳をいうから
  • 言い訳はいらん (原因を反省するのだが耳を貸さず)
  • 何遍言うてるのか
  • 他所に行っても仕事は同じ
  • ここで出来んものは他所でもできん
  • 一回言うたからと対応策を具体指示せず仕事が遅れてしまう
  • 遅れの原因が努力のなさのように言う

正しい処方と視点提案は以下のようになろうか

  • 訂正ポイントを即座に指示してれば短時間に次のステップに進めるはず
  • 指示をせずに遅れが出るのは自明であり、これを努力の欠如と咎めるのは間違い
  • うっかりミスは絶対に許されないのか
  • ミスを防ぐ対策を語ったら聞こうとせずに「言い訳」と断じれば立つ瀬を失う
  • スケジュールを一方的に着く放り出したままでフォローをしない
  • できなくて困っているものに「何故質問をしないのか」問いただすのはフォローなのか
  • 困っている時は「次の手を指図する」べきでそれまでの失敗を指摘しても何も生まれない

ぶるっと一回ふるえて冬を思い出す 寒露篇 (裏窓から)

10月8日は寒露だった

少しずつ夏の暑さを忘れ去っていく

冬の寒さが忍び寄る
ぶるっと一回ふるえて冬を思い出す

このごろ

滾る 漲る 迸る

という言葉を考えている日々が続く

🌱

サドンデス(sudden death)という言葉が
じわりじわりと迫って来る

けれどもそれほどの恐怖感はない

恐れているわけではない
しかし
覚悟ができているわけでもない

🌱

礼を欠いたままの恩人がたくさんある
私の人生の舵を切ってくれた人もある

音信の途絶えた人もあれば
先に逝ってしまった人もいる

💦

やり残した・・・感も少しある

星野仙一 逝く ─ 小寒篇 (裏窓から)

長い人生を歩めば必死にならねばあかんときもあるし、気を緩めた方が良いこともある

壁に当たっても強気で攻めるのが策のこともあるし、熟すのを待つという選択もある

つまりは人生は状況を冷静に見て判断してゆく眼と勘と勇気が必要ということだろう

あの時の勝負が成功だったか失敗だったかなどは自分の命の最期まで断定できない

元旦篇であるとか小寒篇とをじっくりと腰を据えて考えることが六十を回った新年にはふさわしかろうと思いながらも日々が過ぎてゆく

🍀

そんなこんなのときに星野仙一さんが一月四日に亡くなったニュースがメディアで報じられ追悼の記事が余韻を引いている

星野仙一産は私が学生時代だったころの中日のエースであった
七十歳ということが大きな衝撃だ

数々の足跡を残した人だけに心に突き刺さる名言が多い

明治の野球部時代には合宿所の便所掃除もこなしてきたという話を読む

「人が嫌がること、つらいことこそ先頭に立って上の者がやるべきなんだ」

星野仙一さんは自らの著書「勝利への道」で「厳しさと激しさの中でこそ人は伸びる」と語っている

「なぜ便所掃除でなくてはならないのか」ということを筋道を立てて考え「筋道とは何か」を自分にもう一度問いかけてみるのがよい

急がねば「便所掃除」という言葉自体が社会から消滅するかもしれない

🍀

星野仙一のあの投球フォームが好きだった
短気で熱い印象も鮮烈に残る

生まれる前にすでに父を亡くし母と姉二人の元で育ったという
十歳上の時代に明治を出ているのだから並大抵の苦労ではなかったはずだ

人は不屈の精神に燃えている時が一番の哲学者かもしれない
七十歳という数字がこびりついて頭の中で暴れている

二人で生きている - 立夏篇 【裏窓から】

5月5日(立夏)

夏になる
こどもの日であったが仕事に出かけて
帰り道でケーキ屋さんに人の群れがあるのを見て
そうか
子どもたちにケーキを買うとか
夕飯でご馳走を食べるとか
そういう日だったのか
と気づく

日記には何も記録がなく
6日に

🌱こどもの日子どもは巣立って夫婦だけ

そんなことを書きおいて
ゆうはんには二人で餃子を食べている

当たり前のことにもっと感謝をして生きていきたい
言葉にしてしまえばタダそれだけのことである

🍀

目が見えて
耳が聞こえて
心に何らかの病を患うこともなく
身体の機能も不自由なく
生きている

わたしの父は耳が聞こえなかったのだが
日常生活であの人の苦労を推し量ることもせずに生きていたわたしは
なんと無謀な人間だったのか今頃に気づく

身の回りに至ることで考えてみると
わたしは結婚をして
子どもがいて
孫ができて
まずまずの近所に住んでいる

🍀

金はない
これは当たり前のことで
自らの能力と力量の限界から考えれば
こうして暮らしておれるのは
贅沢なほどに真っ当なのだ

人に騙されたり
悪い企みにハメられてしまったのも
今思えばお人好し過ぎた

🍀

人間というのはあれほどに
絶対忘れないぞと思ったことまで
はっとして忘れてしまうのだから
哀しいものだ

わたしはお人好しなのだ
(だったら)バチは当たらんやろ
アタマの閃きは決して良くない
だがそのことと生きる道とに相関性はないだろう

🍀

ツマには感謝している
しかしそんなことを言葉で語っても
ツマは一切喜ぶことは無く
寧ろ昔まで遡って
不平不満をわたしに向けて
これまでの人生を悲しみ悔やむだろう

🍀

しかし
それでいいのだ
仕方なかろう
誰にも打ち明けられない弱音があってもいいのではないか



わたしは
初夏の風になって
蜜柑の花咲く丘を
一気に海まで駆け下りて

あの人の前に
かくれんぼの鬼のように飛び出してみたいと
夢のようなことばかりを考えていたひと頃があったのだ

伸ばした髪を短すぎるまでに切るのもやめて
ふわりとした天然のウエーブにブラシを当ててみたり
置きっぱなしになっていた若い頃の大事なコロンを
本棚の片隅で見つけて
少しつけてみたしりている

本当に会いたい人は
何処にいるのかわからず
何をしているのかもわからない

(八十八夜に考える)

(八十八夜に考える)

案を練る歓びと
作る歓びと
完成品に見とれる歓び
などありましょうか

黙々と手や脳みそを動かす時間は
私たちが永年
すっかりとその本質を注いで
その本当の姿も忘れていたかもしれぬもので
そういう原点に戻ってくることってのは
ヒトの本能であるのかもしれない
と思うことが増えています

アホみたいに何かに取り憑かれたように
ある種のガムシャラで生きてきた長い年月は
一言で申し上げれば愚かであったとまで断言できないにしても
ある時代の人たちが魔法にかかってしまったようであったことは否めない

多くのものを取り戻すことは
ちょっとした困難を伴うけど
それこそがそのヒトの本当の腕の見せ所なのだろうと思います

捨てたくないモノを捨てて
新しいステージを築く時の
歓びを讃えましょう

🌿

私はそんなメモ書きを
放置したまま
この春を過ごしました

激しく生きてきた
一時期のような
弾け飛ぶような
パワーは今はもうありません

しかし
冷静に物事を見つめて
見送る心が
少しずつ満ちてきているように
自分では思っています。

新しいものを生み出したり
触発するような閃きもありません

3月のなかごろに考えていたこと

3月16日
33回目の結婚記念の日の頃に考えていたこと

(3月号のメルマガ巻頭言)

あっという間に3月を迎えて、年度の節目ということで忙しい人も多かろうと思います
新しいステージへと旅立つ人もあるのではないでしょうか

落第も二度目は慣れてカレーそば  小沢信男

季語の「落第」というが面白くて目にとまりました。愉しい俳句です
作者の小沢さんは昭和2年生まれの人で、興味深い作品がたくさんあります

「落第」の季節今ごろですから、春の句になります
「落第」って恐ろしい言葉ですけど、 もしかしたら死語になりつつあるかも知れません

この季節には花が咲きますからのんびりと花見をしたいものです

しかしながら、思い出は苦々しいものばかりで、散歩をしながら湯島天神の梅や千鳥ヶ淵の桜を 見物に行くにはちょうどよいところに母校があったのに一度も花見に出かけて行く余裕はなかったです

あのころは「留年」などという生やさしい言葉ではなく「落第」という言葉が春の日常語でした

(私の母校では)新入生の6割ぐらいが浪人生で卒業時にはその半分くらいが「落第」の洗礼にあっていた時代です

あれから時代が過ぎて二期校という呼び名が消えて共通一次試験ができて後にセンター試験に変わって、学生の顔ぶれは金太郎アメのようだと評されるようになり、浪人とか落第という言葉も廃れていきました

3月のメルマガを書く時節は、そんなわけで節目がズレて2倍、3倍にも膨れあがった友人たちから異動の便りが届く季節でもあります

みなさんはいかがな年度末をお送りでしょうか。

続・スズメはなぜ電線から落ちないのか

(余録ノート)

スズメはなぜ電線から落ちないのか。
そんな問題提起をあげて何かモヤモヤとするものを手さぐりで探すように考え続けていた。

スズメは飛べばいいから電線からは落ちないのだ。
しかし、そこで考えるのを完了していいのか、と思い直して何日が過ぎてゆく。

そうすると、飛び続けることに対して幾つかのことが浮かんでくる。

うるさく目の前を飛ぶハエを退治する方法がある。
しかも3分程度で簡単に可能だ。
それは、ハエに止まるチャンスを与えないことだ。
ハエ叩きで叩く必要はない。
止まろうとするハエを追い払うだけで良い。
3分ほど飛び続けたハエは力尽きてぽたりと落ちる。

飛べないスズメがいたとしたらそれはどうだろうか。
夏がくるころに雛は巣立つ。
スズメも母のもとを旅立ち1人でお外に出るのだ。
飛べないスズメは地面をヨチヨチと歩くだけでまた巣に帰ってゆく。
飛べるようになるまでの2,3日はその辺を歩いて過ごすのではないか(推測)
歩く(というよりも跳びはねるだけの)スズメを何度も見かけたことがある。
猫やヘビに狙われて食われてしまえばそれまでだ。
食われてしまって途絶える人生があるかもしれない。
もしかしたら恐ろしいことが自分にふりかかる可能性があるとは子スズメは考えてもせずにヨチヨチと歩く。
飛べるようになれば親スズメとさほど区別がつかなくなってしまう。

蝶がふわふわと飛んでいた。
止まるところがないチョウ
はいつまでも飛び続けるのだろうか。
ハエのように力尽きて落ちることはないのだろうか。
蝶の場合を想像したのはここまでなのだが、これを書きながら思ったことが1つある。
蝶を止まらせずに手で払おうとしたならば
疲れた蝶ならその手に止まろうとするかもしれない。
ヒトの手はそれを拒まないかもしれず、蝶のほうに軍配があがる。

飛べばいいからという答えも名答のように見えるものの
飛んでいる側から見れば大変な努力をしているのだということが分かる。
安易に「飛べばいいから」などと言えない。

できればそんな危険を犯してまで飛びたくないのかもしれない。
逆にそのものたちには「飛ぶ」という概念や言葉などがないともいえる。
飛ぶことはすなわち生きることなのだ。

「ヒトが考えること」=「生き続けること」みたいなもんだろう。

書きかけはつづく

スモモ成り父の形見や十六年

スモモ成り父の形見や十六年

父が逝ったのは平成10年(1998年)のことで夢のように私の前から消えてしまう。
あれからやがて20年を迎えることになる。

ヒトの人生とは考え尽くしたところで何も答えは出ない。
だが考えつくされてゆく。

生まれてから成人するころまでは父や母というのは居て当然という無意識のなかにある。
そんなふうにして大人に成長してきた人が大部分だろう。

スモモ
スモモ

私も例外ではなかった。
貧乏な農家の長男として(非常に古典的な宿命も背負いながら)東京に遊学させてもらい親不孝を鈍感に続けてきた。

ちょっと誰にも話さないような野望に似た夢を抱いていた時代があった。
「いつかはオヤジと」という言葉があるように  ─  ウチらには「オヤジ」「おふくろ」と呼ぶ方言はないが  ─  「いつかそのうちおとやんと」と考え続けて青年のころを生きていた。

二十歳を回って苦労をかけるのも限界に近づきそろそろ社会に出る時期が近づいたというころには切実に「いつかおとやんと飲もう」という気持ちも手の届くところに来ていた。
ところが、(油断のようなものだろう)自分の選んだ道は自分の手柄のように勘違いして三十過ぎても突っ走っていた。

社会人になってからその次の約20年間 ─  2ndステージで何かを実現させたかといえば勢いに甘んじていたのだった。
散々ヒトにお世話になっておきながらなんの恩返しもせずに生きていた。
今のナリで生きておれるのは自分の手柄なのだみたいな顔をして生きていた。

おとやんと話をしたのかと問われればそんな記録も記憶も殆ど無い。
何をしていたのか
キツネに抓まれたように貴重な時間や金を浪費した。
父とゆっくりと話をした記憶もない。

その大バカな人生の 2ndステージを10年ほど過ごし、33歳のころに京都から古里に戻るのだ。
だがその後の時代には、クルマで45分ほどという好条件であったのに、あまり家には帰らず、泊まることも滅多になかった。

そしてそんな20年という 2ndステージの終盤で父は夢のように逝った。

あれから18年が過ぎてしまっている。

「今年の初なすびを持って帰るか」
茄子(なすび)を袋に詰め込みながら
「スモモが成ってなあこれも持って帰り」
と母が袋に詰めてくれる。

トウモロコシが欲しくてそのことをいうと「あと二三日先や」と言う。

そんな気の利いたときにモノが思い通りに手に入るものか
親が死ぬときにも傍にいなかった者に──
と思ったかどうかはわからない。
18年前には何度もそう思っただろうがもう感情も風化したかもしれない。

「スモモの木をおじいさん(父のこと)が死ぬ前に植えてあってな それが二年ほど前から成るようになったんや 桃栗三年柿八年というやろ 桃と違うてえらい暇が掛かったわ」

母はそう言ってスモモを手のひらに載せきれないほどにくれた。

宮下奈都さん(その4)「羊と鋼の森 」へと

 宮下奈都さんの話を続ける

宮下奈都さんの「はじめからその話をすればよかった」を
じっくりと読みだして好きになった

しっかりさんなのだが
ちょっとエキセントリックな面もあって
でもお茶目そうな雰囲気も漂わせていて
好きになってしまうタイプなのかも

四月が尽きる頃からちょっと
いろいろ心を刺激することが立て続きあって
今 宮下さんで オロオロしてる
私の心はたった今音楽アプリが流してきている
IT MIGHT AS WELL BE SPRING
そのものなんです

上智の哲学科って城くんが選んだ学科と同じだし
年代も近いし
城くんは結構長い間在籍してたし
もしかしたら知っているかも
なんて考えてるとまんざら遠い人じゃないみたいな
都合のいい錯覚が満ちてくる

♣♣

名前を間違ってツイッターにあげてしまい
すかさず 宮下奈都 さん本人から
間違いの指摘を受けて
顔面から血が吹き出しそうなくらい焦りつつ

魔法にかかったように
宮下ファンになっていくのでした

「羊と鋼の森」の購入はもう秒読みに入っていた

「神様の…」からか「はじめから…」の作品を
ひとまずじっくり読んでから買いに行こうと考えているうちに

めきめきとサイン本が欲しくなってくる
どうしてかって…
一目惚れした高校生にその瞬間の心を尋ねてみれば
同じ答えかもしれない

ともあれ
ときめきに満ちながら5月が始まっている

今日の一冊

今日の一冊

というブログを見つけた

この人はどんなかたなのか全くわからない
けど知りたくなってくる ほどに

なかなか
こじんまりとしていながらも
そこそこどっしりと重みのある
とても魅力的なブログだ

読むことを楽しめるものが減っているだけに
得した気分だ

けど正体不明なのが残念
(想うほどに知りたくなる)