誰にも言わない・誰も聞いてくれない話 ✦ (わはく百話、その十二) - 四月下旬号

今の季節(四月)は学生さんがちょうど新学期を迎えている、オリエンテーションを終えて履修届を提出して、講義が始まっている候だ

ちょっとした切っ掛けで大学時代を回想してみるのだが 思い出話をすれば苦汁が滲み出る

そんな話など聞きたいとは誰も思わないだろう、ボクは有名人でも偉人でもないただの凡人だから、でも、たとえ誰も読まずとも、自分の愚かさと反省を、ここに書き残しておかねばならない、懺悔のような気持ちがある

と言うわけで・・

✦ ✦

ぐうたらな学生時代

大学合格を目指して熱くなったあとに、勉強をサボった愚かな学生時代を振り返る

何とかなると思っている一面、高望みしすぎた希望に対して反省もしないで 滑り込めた大学にも感謝せず、「大学の勉強は必須でしょ」というブライドだけ抱き続けて、しかし、実際にはサボってしまって、遊ぼうと思っていたわけでもなかったが、アンニュイで曖昧な学生時代を頭の中で築いて過ごした五年間(六年間)

毎日講義に出かけても、詰まらない、眠い、面白くない(というバカにした)気持ちで 教室から抜け出す日が多かったのだが、それもやがて、サボってゴロゴロするか古本屋に出かけるか、音楽ばかりを聴いていた

深夜まで夜更かしをして朝寝をして、大学は休んでばかりで、何しろ、英語講義やLL授業でさえも「そんなもんアホくさい」と思って ぐうたらに受けるか、時々欠席した

成績がどん底で返ってきたときに『自分はこの仲間の中に優秀な成績で飛び込んだのだ』という入学時に持った思い込みに拘った

そんなものは早々に捨て去り素直に勉強をするべきだったのだが・・そうしなかったプライドが手伝ったのだろうか、甘い認識力が働いたのか・・大学に真面目に出ようという学生に変身することはなかった

反省の日々

そうは言っても滅茶滅茶に遊び呆けていた学生でもなかったが、やっぱし勉強はせず、楽して単位をもらえればいいと考えていた安易な甘えた学生だったわけで、悲しいことに天性の怠け者が丸出しだったわけだ

そのことを自覚するのは卒業してから二十年以上経ってからで(後悔は先に立たず)

親に学費を出してもらっている感謝は人一倍持っていたものの  日々の行動は全く極悪の怠け者だった・・ことは消し去れない

もしも その時・・僕が親なら息子を強く叱って連れ戻しただろうし大学もやめさせるほどの剣幕で怒っただろう

もしも あの時代に今の僕が戻って学生をするならば・・

講義にはくまなく出席をして1分たりとも無駄にはしない、休講があろうものなら文句を言って授業料を返せと言い出すかもしれない

感謝も間に合わず

そういうわけで、親には説明のつかないことをして取り返しもつかず申し訳ない失態を犯していた学生時代を、社会人になって即座に振り返ってわけではなく、いつまでも気づくことなく反省を怠ってきたのだった

四十歳を過ぎてから魘されることが増えて、またちょうどそのころに 父が亡くなってしまった

学生時代に犯したアホな足跡を消すことはできず、父に詫びることも叶わず、本当に取り返しがつかなくなったのだった

自分の蒔いた種で残した足跡であるのに、それを思い出すのは辛いし、思い出しても今 誰に懺悔ができるわけではない

打ち明け話をしたとしても悔いばかりが湧いて、あまり触れたくない話になるのだ けれども、どこかに白状しておかねば ボクも易々とは死ねないと思い日々が募っている

✧✧・・✧✧

最終コーナへと向かう

そんな愚かな学生時代の暮らしを送りながら 平松先生や関谷先生、菊地先生と巡り会えたおかげで就職もできた

社会で使い物にはならないような奴を使ってくれた京都の「オ社」の皆さんにも感謝が絶えない

オ社は八年ほどだったが社会人になったヒヨコのぼくを育ててくれた恩人の会社だ

その後 三十路に入り人生は「オモテとウラをひっくり返したように」荒波に打たれるものの、さらにその十余年後に幸運に恵まれて四十五歳頃からは「生きているだけで感謝しなあかん」という二十年を送れた

✧✧・・✧✧

「ひとこと」で言えば

ぼくは『その程度の器』だったのだということだと思う

しかし最初から『その程度の器』なのだと悟って生きていたら こんな生き方はできなかっと思う

ありがとう みなさん

✧✧・・✧✧

※ 写真と本文は無関係です

人生を揺さぶるもの ✦ (わはく百話、その十一)

第十話でいくつかに分けていた途上を各々にまとめて振り返ってみた

1。黎明期

受験の失敗
大学受験への挑戦
高校時代の友との出会い

﹆﹅

中学から高校卒業までを人生の黎明期とでも呼ぼう

小さいころは船乗りになりたかった子が科学に興味を持ち科学研究者を夢に見た

身の回りには模範を示す人物も適切な情報提供ができる知識人もいない鄙びた田舎で大学進学を言い出しても親は珍紛漢紛だ

農家の倅として特別な教育もなく 甘やかして育てらている

中学時代の成績は英語がクラス上位を保てたくらいで 肝心の数学や国語は中程度出会ったものの 小さいころから物知りだったので理科や社会の知識は少し役立った

運動部には関心なく運動神経も良くないので 中学時代には吹奏楽を始めた

高校受験は伊勢市にある県立高校を受するものの不合格で 同じ市内にある私立高校に通う。進学を考えているので勉強意識は高一ではクラス上位で二年三年はCコースという進学クラスに入る

しかし 二年生の五月三十一日にオートバイで車と接触事故を起こし夏休みまでの長期欠席をし ここで歯車が狂って成績はどん底に定着し そのまま卒業までビリ直前をキープした

出席簿の前の(ヒガシ君)と仲良しで そいつ影響で東京の大学を決心し 有名私立などをいくつか受験するが 全でが不合格となる

そこで 浪人となり高田馬場の早稲田ゼミナールに入り 予備校の寮でヒガシの隣部屋で一年を過ごす

ヒガシは明治大学に滑り込んで行った

私も電気通信工学科に進学が決まって 寮の仲間のシマダ君の紹介で江古田の「能生館」という早稲田の学生専用の下宿で大学生活を始めた


2。飛翔期

将来を夢みる二十歳前
大学時代の友
社会人(初篇)

﹆﹅

大学入学を果たしたら怠け者の性格が出てしまった

学校をサボってばかりで 夜更かしをして朝寝坊をし 講義をサボって 古本屋巡りをし安い本を買って 下宿ではラジオを聴いたり本を読んで日々を送った

三年時への進級試験で落第し 恥ずかしさに耐えられず「能生館」も出てアパートに引っ越し 生活はさらに荒んでいく

思い出せば おおかた講義には出席せずに 試験だけを受けて単位を取得していったのだが 最後には答案用紙に「単位をください」と拝み倒したこともあった

根は真面目なのでカンニングやズルい手法は取らず 真正面から独学で勉強をしようとしたのだから 受講した者たちとは大きな差がつくのは当たり前だ

卒業研究で平松先生ー関谷先生ー防衛医大・菊地先生にお世話になって 三年生後半から卒業までをアホなりに楽しく過ごさせてもらった

研究室や大学で友は おおかた優秀でみんな立派な進路を選んで社会に出てゆき 私も菊池先生の推薦状のおかげで京都の「オ社」の研究所に採用された

実力不相応だから みんなと横並びには仕事もできず 哀れながらそれなりの職務をもらい八年ほど勤める


3。不惑の時代

夢から現実へ三十路
社会人・結婚そして子育て
ひとり旅の放浪
仕事の方向転換

﹆﹅

母校同窓会の先輩の話などに刺激を受けて 卯建(うだつ)の上がらない現況からステップアップして 先輩のように年収1千万円超を稼ぎたい、故郷に戻って給料も保証される新しい人生を・・

そんな自惚れた夢を見て「パー」な会社に転職を試みたのが大間違いの選択で大失敗だった

その会社は狡さや悪意が満ち溢れていて これを結集させて見栄え良く飾りつけた組織で 外見だけが一流という大企業の典型的な愚劣な集団だったのだ

職場に疑問を抱き反発もし 嘘の自分で日々を送り ストレスにまみれつつも ひとり旅の放浪の余暇を過ごし 迷いながら十年ほど苦汁を舐め続けたのだが・・

社畜集団で 人間の汚さを見続けるのは辛く 世の中のリストラブームに巻き込まれるかたちで会社を見切って棄てた(棄てられた)

子どもは私立中学に行っていたので 途方に暮れる新しい舞台が始まったわけだ

退職後一年ほど「プー太郎」をしていると 神様のような人物と巡り合えそのお導きで 第三の職場に入れる

給料は4分の1ほどに減るのだが 人間的に素晴らしい人たちに囲まれて 人生観まで根っこから変化してしまうほど素晴らしい環境で仕事ができた

しかし 貧しさからは脱出できず ムスメには四百万円超の奨学金(借金)を背負わせてしまい 申し訳ないことをしてしまう

苦渋の日々を七年間 家族で耐えながら ムスメは順調に就職を果たし 二年間の僻地への転勤もこなして 自宅から通勤可能となったのち しばらくして結婚をする

この不惑の時代以降を第四コーナーと呼んでいる

会社の中に潜む悪質な面を知り 性悪説的人間関係も視野に入れて 子どもが社会人に成長する際の進路判断にも多いに参考にできた


4。天命耳順

第四コーナー篇
能力不足の気づき
新しい人生観
子どもの自立

﹆﹅

親としてお役目が終了したわけではないものの 就職をして結婚・子育てと自らの人生のレールを敷いて 親に頼ることなく判断ができるように人になれたとみなしてよかろう

アラジンのランプの魔神のように お勤めを終えてランプに戻るわけではないが ともかく一息ついたと思ってよいだろう

仕事の方は、最終コーナーを回りながら 環境部門でかれこれ二十年近く仕事を続けさせてもらいったが コロナの襲来で社会がドタバタした際に 六〇歳をちょうど超える時と重なって 仕事の席を失ってしまった

先祖を振り返れば曽祖父が村長、祖父が村会議員、父が役場職員をしていた家系の歴史を振り返り、鉄砲玉のようなアホ息子も恩返しに戻ってくるのが本来の筋であったのかと もうおおかた走りきったころで気がついたことになる


5。低空飛行

ラストスパート
加速か
スキップするか

﹆﹅

もはや 再燃焼する余力も無いし気合いも生まれない
「人生」などという今まで口にもしなかった言葉が日記に登場するようになった
いよいよ 老化・痴呆 への方へと迷い込みそうな嫌な予感が漂う
だが ここで 挫けるわけにはいかない

孔子曰く

吾十有五にして学に志す 三十にして立つ 四十にして惑はず。
五十にして天命を知る 六十にして耳順ふ
七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず(のりをこえず)

✰✰

座右に置きっぱなしにしたこの言葉も いよいよ身に染みる年齢になってきた
年齢の節目に受けた健康診断で不整脈があり二十四時間心電計測をしたら心房細動も見つかった
BNPが400に達しているとわかり ちょっと 身体を大事にしなくては行けないと思い直す
eGFRは40と要注意レベルに達していたのを気に留めるだけで対処をしていなかっただけに 精密に検査をするとボロボロと傷んだところが見つかる
そこで 令和五年十一月から塩分チェックを強化して 減塩生活を始めることになった

✰✰

長生きをしようとは 今更考えてもいないし できるという期待も持っていない
そのつもりで 燃え尽きる人生を送ってきたのだし 振り返って取り戻したいようなものもすぐには思い浮かばない
もしもあったとしても

すでに諦めの処理を終了している
先日の手術の際に麻酔のなかで妄想に溺れていった時のように
苦しみながら生命という意識から解放されて
消えてゆけたらいいだろう

具体的なことは考えると悩みは増えるばかりだ
今の『命の器』の中で精一杯に生きることを考えていきたい

雨水✰天皇誕生日篇 ─ 生きることや死ぬことの意味を 車谷長吉のふうに見直して (わはく百話、その十)

車谷長吉の「四国八十八ヶ所感情巡礼」と「世界一周恐怖航海記」を読んだことで『人生とは・・』を考え 生きることや死ぬことの意味を 車谷長吉の視点を真似して見直していた。小説家と比べるつもりもないが 人生の足跡を冷たい目で見ることは 必要なのかもしれない

(わはく百話、その十)


これまでに人生の行手を左右するまでに揺さぶった人物、出来事や事件にどの様なものがあったか・・とふと考える

他人から見れば何の面白みもないが荒波人生だった

今となっては どうってことないように見えるものだけれども あの時は 死に物狂いだったはずだ

曲がり角があり、一直線の位置であり、凸凹道であり、その都度思案に暮れた

具体的に考えてみる

1。黎明期

受験の失敗
大学受験への挑戦
小中高の友との出会い

2。飛翔期

将来を夢みる二十歳前
大学時代の友
社会人(初篇)

3。不惑に向かう

夢からの目覚め現実を考える三十路前
社会人(結婚そして子育て)
ひとり旅の放浪
仕事の方向転換(社会人中篇)

4。天命耳順

社会人最終コーナー篇
能力不足の気づき
新しい人生観
子どもの自立

5。低空飛行

ラストスパート
加速をするか
スキップするか

﹆﹅

四十歳を過ぎたらオマエを叱る奴は誰もおらんようになる。ええ気になって生きていたら アカンということや』そう言って教えてくれたのが誰であったのか。今になってはもうわからない誰かのコトバで 最後に私を鼓舞してくれたのが人のコトバだ。実はとても貴重で重要な人であるはずだが 誰なのか記憶がない

その神のような人が思い出せない申し訳なさを抱きながら その人に感謝をして人生をここまでやってこれたのだから有り難い

﹆﹅

人生は失敗の繰り返しで 未完成を叱られてばかりだった

この世の悪い奴らの圧倒的な多さに地団駄を踏みながら「バカ正直」呼ばわりされて僅かな正義で仕事に向き合ってきた。一つの信念で情熱を守れることの歓びに感謝し 多数決で割り切る今の現実社会に刃向かってでも孤高の人あろうと夢を見た

ほんと「あほんだら」な自分が情けない反面 自省の中で湧いてくる美学に少しうるっときている

行き着いたのは
自分とはその程度の器の人間だったのだから その器の中で咲けばよいのだ
ということだ

※ つづく
※ それぞれの時期については別途考えてみたいと思う



三連休 ❃ 春はもうすぐ ー 人生を揺さぶる 外伝

時を失う 時を遺す ❀ 令和五年の師走に考える (わはく百話、その九)

時を失う

二十六年前の師走の今ごろ 父が命を失うちょうど1ヶ月前のことで 多分何も変わりない師走を私は過ごしていた

六十六才の後半をどんなことを考えて父は生き延びているのか・・最期の師走を父は それが最期の師走だとは考えつきもしなかったに違いない

もちろん最期の言葉を何も 日記にも書面にも 残していない

私に至っては そんな迫っている師走なのだという考えにも及んでいない

『時を失う』ってきた人生だ………果たしてそうだったのか

遺す

私が生まれるよりも前の若い時から丁寧に日記をつけているような人だった

それだけに晩年には 思い当たるようなものを残していなくとも 生前においてどこかに何かを断片的であろうが書き残していたのだろう

しかしそれも 最期の日の何年か前に 事件のような気持ちの急変で 記録のおおかたを焼却してしまうという出来事があって以来 何かもが失くなってしまったと考えられる

そのことを認めながらも どこかに隠された「何か」があるのではないか………と 疑ったり期待を持った人は 誰一人としていなかった

無言

脳出血やら脳梗塞を繰り返しながら 確実に自分の生命が傷めつけられていく日々と向かい合いながら もうそれほど余命が長くはないことを充分に察知していたことは間違いない

しかし そんなにまで生きてきた人生を振り返った言葉を耳にした人は 誰一人としていない

二男(私の弟)家族と妻(私の母)と暮らしながら 側にいても家族にはそういったことを喋ることもなく無言で逝ってしまった

想定外

まさか急に息を引き取るほどまで そのころの症状が悪化をしているとは 思ってもいなかった

周囲の大勢は 長くは持ち堪えることなく いつかやがて 果てるしかない運命に直面している覚悟をしていただろう

しかし 少し離れて暮らす私に 死亡の知らせが届いた時は 全くの想定外であり突然のことであった

想定外』は『覚悟』とは別物だ

突然起こった事件の事実を 『覚悟』の気持ちが覆い尽くしてゆく

傍目には冷静に見えても 震撼は日々着実に大きくなっていく

無念

さて

その六十六歳で迎える師走であり 今 同じ歳になって師走を迎えている

六十六歳の師走が最期の師走かもしれないなどとは 私も私の周りの誰もが思ってもいないだろうし それで間違いはないだろう

心臓に疾患があって 近々手術を受けることになりそうだが 何かの間違いかミスがあって命を落とすということもなかろう

六十五歳と六十六歳で亡くなっていった祖父や父を思うと 悔しがる時間も用意されなかったのかもしれないが  生きることをその年齢で諦めねばならなくなった二人は さぞや無念で悔しい思いをしたに違いない

そんなことを考えると 生きている自分という向き合って この師走は大きな節目に見えてくる

師走に思う

祖父や父よりも長く生きる分だけ 恩返しもしなくてはならない

そんなことを考えている 令和五年の師走だ

つづく

わはく百話 - その 八、 花屋をしたい (霜降号)

わはく百話 - その 八、花屋をしたい


将来『花屋をしたい』が私の口癖だった、本当に花屋をしたかったのか、切実に夢を見ていたのかどうかは はっきりしない。花の名前に詳しくもないのに 何故に花屋をしたいと夢を見たのか

子どものころに母が 庭の花を切り花にして新聞紙に包み学校に持たせてくれて 教室に生けてもらうことで 花を愛したことが印象にあるからか。

もしかしたらそのころから「花屋になりたい」と話すようになって行ったのか。大人になったら・・という話を母とほんわかとかわすときに「花屋さんをしたいなあ」と話したような記憶がある

花屋になりたいと思う一方で 「本屋をしたい」「酒屋さんをやりたい」などとも言った。軽い夢だったのだと考えていいだろう

「船乗りになりたい」とも言っていた。多くの子どもたちが野球選手を憧れるように船乗りに憧れたのだ

「カモメの水兵さん」を歌って踊ったのは幼児期だ。船で大きな海をゆく姿をどのくらい想像していただろうか 海軍や自衛隊の船員のイメージではなく 大きく静かな海の上を航海する姿を夢見たのだろう

船乗りに近いけど「南極観測船に乗りたい」と思ったことがある。未知なものへ希望をもつことから「富士山レーダーで仕事をしたい」というのもあった。サイエンス系の子供雑誌の影響が大きかった

小学校の後半のころになると現実味が出てくるきて「アナウンサー」と言い出す。何の影響を受けたのかはわからない。ニュースを読む姿に憧れたのだろうか

父はアナウンサーという職業に憧れたのだろうか、年老いてからも「おまえはアナウンサーになりたかったんやなあ」と嬉しそうに昔を懐かしんではそんな話をした

花屋さん」は 叶わないとわかりながらも 人生の未来の姿に夢のように重ねてみては 幾つになっても考えることがあった。子どものようだがロマンを諦められなかったのだろう。何かの拍子にチャンスがあるかもくるかもしれないなどと いい大人になっても抱き続けていた

新入社員のころ 挨拶で「将来は花屋さんになりたい」夢を持っていると話し、そのことを覚えてくれていた同僚の女の子が 私が仕事をやめて田舎に帰るときに「いつか花屋さんになれるといいね」と別れの言葉を贈ってくれた。これは嬉くて感動した。何年かは技術者として働いて晩年に花屋の夢が叶いますように・・と祈ってくれたのだろう。素敵な女性だった

燃える秋 - 初めてのバイク旅をふり返る (誕生篇)-『わはく百話』その七、

『わはく百話』に追加します
その七、燃える秋 - 初めてのバイク旅をふり返る (誕生篇)

ちょうど四十年前の十月の今日あたりに僕は初めて信州という未知なるところまでバイクで旅をしたのでした

仕事が連休だったという理由で 何の計画も立てず 夏に買った新しいオートバイで走り回りたかったのだろうと思います

地図も持たずに 中山道を北に向かって走って 木曽の宿場町などで休憩をして 観光案内で名所を探して 乗鞍高原というところに向かって走ったのでした

木祖村から『境峠』を越えて乗鞍高原に入って行くわけです

そこで 初めて 信州の大きなスケールの紅葉との出会います

大きな大きな山が聳えていて その山中が燃えるように色づいていました

名前も知らない樹々が一面に赤や黄色になっている

乗鞍高原というところにやって来ます

地図を持たずに家を出ていましたので 高速道路のパーキングでもらった道路地図を参考に走りました

乗鞍高原は予習をしたわけではなく 全く初めての信州です

宿に泊まって旅をするのも 未経験で 予約の方法も知らないので 観光案内所に駆け込みます

同じように旅館を探している行き当たりばったりの人が大勢あって 数人を纏めて 観光案内所で紹介された民宿では 大きな宴会場のような(屋根裏のような)部屋に案内されたのでした

あの頃は 人を疑うというようなことが今のようにはありませんし 客扱いが悪くても不平も言わずにいましたな・・・

貴重品なども相部屋のその辺に放り出して 免許証や大事なものが入ったツーリングバックも特別に片付けるわけでもなく、共同浴場に行ったり、知らない人同士で夜中まで旅の話をして みんなで枕を並べて寝ました

乗鞍高原では 野原に湧き出している共同浴場という温泉小屋がありました

木の板で囲った東屋のようなところです

そこでお湯に浸かって 温泉ってなんて素晴らしいんだろう と感動するわけです

前に紹介した『バイク考』の中で書いたように このころはあらゆるものが未完成で 進化の途上でした

そういう時代に旅人をできて 僕はとても幸せでした

秋も深まって来ました

四十年昔に訪ねた乗鞍あたりの山が恋しいなと思います

大自然の景色は昔と同じだろうけど 旅をする人の文化は大きく変わっています

もう一度 大自然に再会したいな って思うことが時々あります

心臓のエコー心電図を受診して もう少し詳しい検査をして判断をする必要があると言われました。心電図の結果が出たら 紹介状を書いてもらって 日赤病院へ行くことになります

祖父と父は 『高血圧』→『脳出血』→『脳梗塞』→『腎不全』→『心不全』という流れで六十六歳で亡くなりました

私もその道筋を歩む覚悟をして 人生の後半を歩んできました

今ここで『心臓疾患』の項目がシナリオの一つに出てきました

やれやれ困った

六十六歳です


潔く語らない -[わはく百話]その 六、

じいちゃんたちの過去に触れてみたい
というような熱い想いは
今の子たちにはないと思う

『深夜の自画像』『わはく百話』 その六、

その 六、 潔く諦める

じいちゃんたちの過去に触れてみたいというような熱い想いは今の子たちにはないと思う。そんな必然性もない

過去は押し付けられて学ぶものではないし、そのころの暮らしの感覚や物に触れる心などには 興味もなかろう

一つの時代を生きて来た人に直にその時代を聞ければ (例えば戦後を辿るとか)そのことをもっとしっかりと知れるのに・・と私たちが考えたような気持ちは 今の子にはない

生活文化が大きく変化したことなどが そうなった原因であろう。やはり幸福感覚が右上がりではなく 水平になってしまって 好奇心が向いていく方向が変化したのだ

ヒトの感覚や知性を刺激するものは 変化率である。変化が少なくなったことで 残念だが ヒトは本能的な生きる能力までも退化せてゆく

そういうわけで 昭和を語ることは「潔く」諦めることにしたほうがいいのだろう

子どものころの夢の話 [わはく百話]その 五、

子どものころに アナウンサーになりたいと言った
そのことを父は喜んでいつまでも語った

『深夜の自画像』『わはく百話』 その五、

その 五、子どものころの夢の話

小学校の卒業で「アナウンサーになりたい」と寄せ書きに残した。そのことを父はずっと私に話し続けた。そんな夢をみる息子が嬉しかったのだろう。きっとその夢を叶えて欲しかったのだ

こんな感覚を持つ父のような人は 自分も叶えたい夢が子供時代に必ずあったに違いない。だが そんな話を 酒を酌み交わしたりして語らうチャンスには残念ながら恵まれなかったため 二人の間で話題になったことはなかった

『大人になったら何になりたかったのや?』

そんなふうに 聞かれたことはなかったが(なれなかったけど)『アナウンサーになりたかったんやなあ』と 口癖のように話した

私は、料理人、大学の研究者、電車の運転手、作家、医者、花屋さんなどを思い浮かべるような気の多い子だっが、何もそれらに近づく気配もないまま人生を走り抜けた

父は、死んで二十五年が過ぎているが 子どものころにはきっとたくさんの夢を持っていた人だったに違いない。おしゃべりは嫌いではなかったものの そんなことはあまり語らない人だった

爺さんがむかしを語っても面白くなかろう
子どもや孫たちは むかしの話を聞きたいと思うのだろうか

夢を語る 九月尽 Ⅲ - [わはく百話] その四

夢を語る
そんな話もしてみたかった

『深夜の自画像』『わはく百話』 その四、

その 四、 夢を語る

学費のことや遠距離通学で苦労をさせた。自分は親に甘えまくって卒業したのに 一転して子供には厳しく言った

三百万円以上の借金が育英会にできていたが、卒業後 数年間 ちょうど結婚までに娘は片づけた。学費の借り入れの返済について 親として何一つ手を差し伸べられなかった。

恨んでもいないと思うが、充実した学生時代を過ごせたと振り返ってあるのだろうか。夢は大きく持っていただろうから、叶わなかったかもしれないが、結婚式に揃った友人たちを見てれば良い青春だったのだろうなと 思っている

あんな事がしたいというような夢の話は ふだんからもあまり聞かなかったから、何を夢に抱いていたのか、知りたい気がするものの そんな話は思ったほどに話題に出ないものだ

あっさりと就職して、お決まりで遠方に二年行って 任務を終えて帰ってきてトントンと結婚してくれたのは計画通りなのか

天文学者になりたいとか、作家になりたいとか

そんな話をしたりする時間があっても良かったのかもしれない

むかし話 九月尽 Ⅱ - [わはく百話] その三、

むかし話
もしも尋ねられたら

話してもいいかもしれない

『深夜の自画像』『わはく百話』 その三、

その 三、  

昔を振り返るのはこの年齢の宿命

自分の今が完成された幸せの体系であるから 源流まで遡って考える必要がない。

かつて 赤電話を使って遠方の親元に電話をかけるために10円玉をポケットにいっぱい詰めて下宿の路地の煙草屋の軒先まで行った青春時代の白黒映画のような様子は 漫画か何かでさらりと読んで「はい、わかりました」でいいのだ

親の苦労を知らない」と言って子供をぼやいてはいけない

何故なら・・自分も親に散々な苦労をかけて大学を卒業させてもらったにもかかわらず 全くその恩返しもせず 親の還暦祝いも忘れていたかのように知らん顔だったのだから

子どもはそれでいいのだ
(こっちはそんなに苦労とは思わず 道に迷わせてはいけないと思い 必死だった)

一回目で書いた就職の話をとっても 悔やむことは多い

しかし 人生を振り返れば それでだけよい。誰かに話すこともないのかもしれない。埋もれてしまっていいのだ

それが生きていく上での筋書きであって 一つの運命なのであろう

この歳になってそう思う
そんなふうに ぐっと飲み込んでいるような同じ思いの同年代人も多かろう

九月尽のころ - [わはく百話] その二、

九月の暮れを迎えた
もうむかしの話には 関心はないのだ

『深夜の自画像』『わはく百話』 その二、

その 二、  

昔話はそれほど望まれてない・・のだ

百話と題して書こうとし始めてみたものの 思った以上に話題がない
子供に語り継ぐものもないし 伝えておかねばならないこともない

父の死後 刻々と時が過ぎて過去の思い積み重なるにつれ 生前の父の言葉が記録にない事を悔やみ、今更 探れないだけに これからの人つまりは子どもや孫には伝えたい。それは使命ではないかと考えた

ところが 何年も考えるうちに年齢が還暦をまわり 着地点がぼんやりと見え始めてきて 気持ちに変化が現れ始めた

つまり 冷めて見つめれば 新世代の子たちは何も求めていないのだと気づいたのだ。先祖がどんな暮らしをして どんな苦労をして 何を幸せと感じてきたのか・・今の子は そう言ったことには 関心を持たず その必要性もなく 省みることにも 知っておくことにさえも価値を感じていない。だからサラリと触れておしまいという感覚なのだ

生活文化史として学部には魅力がなく 家系図を辿り過去の足跡に触れる重要性は 今のこの時代には求められていない

衝撃であった

「深夜の自画像」姉妹篇に『わはく百話』を - 秋分篇

十月になると六十六歳の誕生日を迎える
祖父と父は 六十五歳、六十六歳という若い年齢で亡くなっている
今この時に 何を振り返っているのか
そういうものを筋書きもなく 少し書きなぐってみようかと
思う

『深夜の自画像』『わはく百話』

その一、

娘には可哀想なことをしたと思うことがある
暗に 一生働かなばならぬように 就職させてしまったからだ

働いて稼いで社会的にも出世して自立もして生きてほしいと思ったからだろう

これからは働く女の時代になる、自分の能力を全面に生かして社会に貢献する
そういう女性であれば、強く同時に楽しく また充実して生きてゆけるのだ と思ったのだ

それは私の考えた夢だったのかもしれない
決断の時にどのように悩んだのか 思案したのか 選択を迷ったのか わからない
が 娘は 親の言うように現在の仕事に就いた

試験を幾つか受けて 不合格になりながら 現在の職に就いたのだから 自分の意思の他に幸運の女神がいたのかもしれない

だが、果たしてそれでよかったのか
それをこのごろになって思うことがある

元には戻せないのだからその思いはナンセンスかもしれない
これで行くしかないのだ
しかし 自分の心が弱っている時が来ると 反省を呼び誘うように弱い虫が出てくる

これからは 女性が働く時代だ
自分の力を包み隠さず生かす時代だ

旦那さんと一緒に並んで、早く出世して 偉くなりなさい
人の上で組織を動かす仕事ができるようになりなさい

とはいうものの・・
育児で時短勤務中であっても 苦心は多いし 子どもへの負担もある
子どもが熱を出して寝込んでいる話が届くと 夫婦で働きながら育児をする苦労を心配する

今は 未来に期待するしかないのか


鰻(25日)サンマ1号、2号、3号、4号(8日、17日、22日、26日)
外伝:ディズニーオンアイスに行く、サンマ3号4号 - 九月尽  9月28日